夏油傑と思い出の子
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円城蚕と名乗ったその少女は、どうやら自分によく挨拶してくれるおばあさんのお孫さんらしく、家庭の事情により夏休みの間おばあさんの家に泊まっているらしく 本日も暇を大分持て余していたらしい。
本人曰く、「家よりこっちの方が好き」とのことで、夏油の手を引き暑い暑いと文句をぶつくさ言いながら息を切らして帰って来た途端におばあさんに向けて手も洗わずにムギュッと抱きついていた。
「おばあちゃんミーシャ拾った、ミーシャ」と夏油を失礼にも指差し言う少女はどういう訳か、何だか先程よりもうんと幼く見えたが、はて…ミーシャとは?
おばあさんもアラアラ良かったわね~と目尻を垂れさせ笑って普通に流しているけれど、もしかして自分が知らない世の中の常識の一つなのだろうか、夏油はどうして良いか分からず 黙ったままパチクリパチクリと瞬きを繰り返し 少女と祖母を見つめていた。
「傑くん、暑かったでしょう お茶とアイスあるから手を洗っておいで」
おばあさんが優しい笑顔で夏油に話掛ける。少女が振り返り、三つ編みを揺らして こっちよ と、夏油を見つめて小さな手で手招きする。どうやら案内してくれるらしく、また先を歩みはじめた。さっきからこんなんばかりだな、どうしてか隣を歩くことが難しかった。
洗面所、清潔感のある掃除の行き届いた空間に少女が入って行くのに続き、夏油も後を続く。人の家の洗面所に入るのなんてはじめてだった。
「あのさ…」
夏油がか細く震える声で蚕に声をかける。「なあに」と蚕は洗面台のタオルをチェックしてから水をキュッと出し先に手を洗いはじめた。
水の流れる音がする、蝉の声が遠くでした。
「ミーシャってなに?」先程からの疑問をポツリと尋ねる。シュワシュワ、ゴシゴシと石鹸で手を洗うのに集中していた少女が少し黙ったあとに「………ああ」と口を開く。
「ミーシャ、ミーシャね…子猫のミーシャよ」知らない?と鏡越しにこちらを見て目線が交じり合う、すると 少女は んふふ と含んだような笑いをおこし目をゆるりと細めた。
「そういうのがあるのよ、黒い子猫でね だからミーシャ」と夏油を鏡の中から見つめて語りかける。
夏油はそれにポカンと小さく口を開けて反応せずに居た、なんじゃそりゃ と。まあ確かに、自分は黒い。黒髪黒目だ、でも日本人なら大体の人はそうなのではないだろうか、それに子猫とは 自分に猫のような要素が果たしてあっただろうか。
またしても反応しない夏油にとくに構わず、蚕は手をパッパッと振り水を落としてからタオルで手を拭く。振り返り「手洗い、交代」と洗面台に夏油を押す、夏油は言われるがままに手を洗いはじめた。
液体が入ったポンプ式の石鹸で手を洗う、爽やかな花の香りがした。
少女は後ろで夏油の手洗いを理由も無く見つめる、深い意味など無いことは視線の感じから明らかだったが、見られているというのはどうにも緊張してしまう。
水で泡をザアザアと洗い流し、少女がやったように手を振って水を切り、タオルで拭く。ふわふわのタオルであった、こっちの方が猫っぽい。
「じゃあ次はこっち」と少女は今度は夏油の手を引かずに前をゆっくり歩きはじめる、夏油はそれを追いかける。
少女の身長は低い この年頃ならば女子の方が発育が早く、その分身長も男子より高いことが多いが 少女は自分よりも小さかった。
服の布で隠れた肩のラインは柔らかく滑らかで、首は簡単に折れてしまいそうな程に細い。歩くスピードは遅く、歩幅も小さいため 夏油はどれだけ少女が先に歩きはじめたって追い付いてしまえた。だがしかし、隣を歩こうとは思わなかった、何故かこの 自分を導き先を歩む背中が見れなくなるのが名残惜しいと、そう感じたのだった。
おばあさんに麦茶とアイス(チョコと抹茶)を貰い、涼しい家の中、畳の上で並んで食しはじめる。
蚕は一応夏油は客人だからとアイスを先に選ばせたが、夏油がチョコを選ぶと かなりホッとしていた。だがすぐに「やっぱりそっちも少し食べたい」と言い出し、勝手に許可も取らずに一口スプーンで掬って食べていた。図々しいにも程があるが、夏油はちょっとビックリしたがとくに何も言わなかった、言えなかった。
だって食べかけのアイスを…間接き、き、キ……はわわ…。
蚕は「抹茶のが勝ってる」と夏油に向けて自分の持つアイスを向ける、食べろということである。
夏油はそれにも先程と同じような反応を初々しくし、行動が出来ずにいれば蚕はアイスをアッサリ引っ込めた。
刹那、蚕のスプーンを素早く何かが奪い、抹茶アイスを一口、二口と掬って食べる『何か』が現れた。
黒い。
闇より黒く、しかし永遠にも続く果ての無い宇宙のような影が形を作る。両の手があり、頭部は丸く 髪がある場所はユラユラと上に伸びて揺らめいた。
目は無く、大きな口が一つ。少女の使っていたスプーンを手に取り勝手にアイスを貪った。
夏油は「ヒッ」と喉を締めて硬直する。
…おばけだ、おばけがいる。
少女の影からおばけが伸びている。
どうすればいいか分からなくなった、スプーンは手から転がり落ち、目をいっぱいいっぱい広げて影をただ見つめる。いけない、目を、合わせては いけないのに…。
「はてな、やめなさい」
しかして、少女 蚕は何でも無いように、やや不機嫌そうに眉をひそめてそれを睨み付けた。
はてな…?と夏油は蚕の様子に疑問を抱く、何故怯えずに喋っているのか。というか喋れるの?それと。
『はてな』と呼ばれたその影は言葉を発することなくニヤニヤと口元に笑みを浮かべると、スプーンを器用にクルクル回して蚕のまわりをグルリと取り囲みアイスを奪おうとした。
すかさず、蚕は影の手をピシャリッと叩き スプーンを寄越せと手の平を上にして影に突きつける。
「やめて、恩を仇で返すな」
そう鋭くキツく言葉を発する。およそ、滑らかで清楚な可愛らしい容姿から発せられるとは思えない言葉であった。声の音はまろいはずであるに、その言葉だけはトゲのようにチクチクである。
少女がキツく言えば影はまるで「ちぇーっ(´・з・)」とでも言うようにスゴスゴと少女の影へと戻っていく。
最後に頭と片手だけを出して夏油にバイバイ と手を振ってポチャンッと雫一滴、完全にただの影へと戻った。
一連の理解し難い意味不明な出来事に、純粋に当然の疑問として「何、いまの」と口から出せば、蚕はスプーンを持ち直して抹茶アイスを口に一度運んでから語りはじめる。
「最初は手のひらサイズだったのだけれど」とスプーンとアイスから手を離し、両手をくっつけて水を掬うような形にして見せる。
「助けたら知らないうちにくっついてたの」
それ、大丈夫?
色んな意味で。夏油は純粋に不安に駆られた。そんな簡単に…地域猫に懐かれたのとは絶対訳が違うと思うのだが。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、少女は うむ…と一つ頷くと、アイスに目線を戻し「まあオプションってやつね」とスプーンを手に取り抹茶へと帰る。
いや、絶対違う。流石にあのおばけとかについて何も知らない夏油も違うことだけは分かった、そんな自動車パーツみたいなものではない。あれはもっと、何だか…大きなものだと感じた。今まで出会ったおばけとは訳が違う、途方もない何かであると。
それをよく理解もせずに連れ歩いている蚕は大丈夫なのだろうか、どうしよう…この子凄く不安だ…。夏油は蚕の繊細な容姿も相俟って心配になって来た。
夏油はもう既に食べきってしまったチョコアイスの容器にカパリと蓋をして、麦茶で口の中をサッパリさせる。
蚕はどうやら歩くのだけでなく食べるのも遅いらしい、未だに三分の一が残る溶けてきた抹茶アイスをむぐむぐと食していた。
円城蚕は見える人間だ。
母や父にすらその恐怖を理解されず、同級生には嘘をついていると背に指をさされ、教師には道徳を説かれる。
そんな日常が当然のようにこれからも続くのだと思っていた。その中に突然現れた異分子、同じ世界が見える子供。
夏油は、この世のどこにも居場所がないと思っていた。
ずっとこのまま気持ち悪いものを気持ち悪いと言えない日々、それは痛みを耐えるのと同じである。痛みを訴えられず、誰にも痛いことを理解されない。
しかし、ほの暗い絶望を抱える日常に突然舞い込んで来た少女は、安堵で涙を溢す己をあっさりと痛みから解放した。あの場から手を取って今しがた歩いて来た道を戻って行った。
そして、その少女の影には得たいの入れない何かが居る。
同じ世界が見れるけれど、同じ思いでは無いのだろうな。
自分が怯えて震えて息もままならなかったアレらを、少女は嫌そうな顔一つしただけだった。
それでも、きっと同じ気持ちにはなれなくとも、この少女は自分を理解してくれるであろうと夏油は思う。他の誰にも見えない、聞こえないものを知る人間、夏油は溶けきった抹茶アイスをジュースよろしく飲み干している少女に声を掛けた。
「あ、のさ…」
チラリ、少女の羽ばたく音がしそうな睫毛に縁取られたクリームソーダの瞳がこちらを横目に見る。抹茶アイスよりも澄んだその瞳が なんだ と無言で訴える。
「おんなじだ、僕たち おんなじだからさ」
少女はカップから口を離して口端についた抹茶を人差し指で拭う。
「友達になれるか、なぁ…」
精一杯の懇願であった。
黒く形の良い眉をへにゃり と垂れさせて如何にもな表情で口を閉ざしきらずに少女をじっと見つめる。
畳の匂いがする
遠くでは蝉の鳴き声がこだまし、涼しい室内であるのに緊張からかこめかみからツーッと汗が流れ落ちた。
やや間を置いた後に少女は口を開く
「何言ってるの」
沈黙
夏油の垂れ下がった眉は形を変え、表情に鋭い緊張が走る。一気にお腹の奥が冷えて重くなった。
音が 遠ざかる、世界に一人 取り残される。
息を詰めて、親指を中にし、拳をグッと握り 口をぎゅっと閉じた。
涙が出ない、人とは本当に恐怖するとそんなことすらままならなくなるのだ。
夏油は足元からジワジワと締め付けられるような心地に何も出来ずに少女を唖然と見つめる。
少女はそんな夏油をツルリとした瞳で見つめ返し、本当にコイツ何言ってるんだという呆れたような表情で面倒そうに言葉を続ける。
「さっき来るときに話したでしょ、私 君と遊ぶためにわざわざ歩き回ったのよ」
はあーーー…とめちゃくちゃドデカいため息を吐くと足をぽいっと投げ出し、首を反らして天井を見上げて呟いた。
「ここまでして、一緒にアイスも食べたのに 友達じゃないとか無いでしょ」
ねえ?ミーシャ と蚕は口元にニンマリとした笑みを湛えて顔を夏油の方へと視線を戻す。
そのまま えいやっと掛け声をつけて蚕は夏油に襲いかかった。突然の出来事にされるがまま、「ウワ」ッと声が出た夏油は少女のアイスを持っていたせいでヒンヤリとしてしまった手に顔をムギュッと両側から挟まれる。きっと今、自分の顔はかなり酷いことになっているだろう、女の子に見せていいような顔ではなかろう。しかしこんなスキンシップを今まで友人と取ってこなかった夏油はされるがままに両手をあたふたとさせるばかりであった。
蚕はもにゅもにゅと夏油の頬を形を変えるように揉みこみながら楽しそうに声を弾ませ語る。
「毎朝ラジオ体操に一緒に行きましょ、それから宿題もやるの 一緒にね。 音楽はどう?この家にはピアノがあるわ、私ちょっとなら習ってるから出来るのよ。 ミッケも持って来たの、読みましょ。」
蚕はあれこれと夏油とやりたいことを一気に挙げていく、そのどれもがザ・インドア!な遊びばかりであったが、夏油には言葉の全てが弾けるように煌めいて聞こえ、トクリトクリと胸の内側から全身にかけて熱が染みていく。
「ミーシャとなら楽しい夏休みになりそうだわ」
君もそう思う?と蚕は夏油の頬からその手をゆるやかに離していく。
それは感情のままに伸ばした手であった。咄嗟の行動だった。
蚕が思い付きで夏休みの理想を語るように、思い付くままにその手を取り 焦るように騒ぎ立てる心のまま言葉を紡ぐ。
「僕もそう思う!!!」
ギュッと力を込めて握り絞めた少女の手は小さく柔かった。蚕の手に自分の熱くなった手の温度が段々と伝わっていく。
蚕は嬉しそうに、満足そうに首を小さく縦に振り、夏油の瞳を見つめ返す。
「夏休みが終わるまでよろしくね、ミーシャ」
小学一年生の夏休み、夏油にはじめての友達が出来た。
自分より背の低い、クリームソーダの瞳を持つ柔らかい少女。歩くのが遅く、食べるのも遅く、影に変なものを住まわせる少女。やや心配になるような考え方をする少女、円城蚕。
その少女は今までの人生で抱え続けた痛みをまるっと拐い、そこに変わりにとあらん限りのこの世の美しい物を詰め込んでいく。
怖くて嫌いな世界には、こんなにも美しいものがあったのか。と、瞳を閉じても瞼の裏に鮮やかな星が灯り続けるのだ。
夏の日のことである。
夏油傑には忘れられない夏がある。
本人曰く、「家よりこっちの方が好き」とのことで、夏油の手を引き暑い暑いと文句をぶつくさ言いながら息を切らして帰って来た途端におばあさんに向けて手も洗わずにムギュッと抱きついていた。
「おばあちゃんミーシャ拾った、ミーシャ」と夏油を失礼にも指差し言う少女はどういう訳か、何だか先程よりもうんと幼く見えたが、はて…ミーシャとは?
おばあさんもアラアラ良かったわね~と目尻を垂れさせ笑って普通に流しているけれど、もしかして自分が知らない世の中の常識の一つなのだろうか、夏油はどうして良いか分からず 黙ったままパチクリパチクリと瞬きを繰り返し 少女と祖母を見つめていた。
「傑くん、暑かったでしょう お茶とアイスあるから手を洗っておいで」
おばあさんが優しい笑顔で夏油に話掛ける。少女が振り返り、三つ編みを揺らして こっちよ と、夏油を見つめて小さな手で手招きする。どうやら案内してくれるらしく、また先を歩みはじめた。さっきからこんなんばかりだな、どうしてか隣を歩くことが難しかった。
洗面所、清潔感のある掃除の行き届いた空間に少女が入って行くのに続き、夏油も後を続く。人の家の洗面所に入るのなんてはじめてだった。
「あのさ…」
夏油がか細く震える声で蚕に声をかける。「なあに」と蚕は洗面台のタオルをチェックしてから水をキュッと出し先に手を洗いはじめた。
水の流れる音がする、蝉の声が遠くでした。
「ミーシャってなに?」先程からの疑問をポツリと尋ねる。シュワシュワ、ゴシゴシと石鹸で手を洗うのに集中していた少女が少し黙ったあとに「………ああ」と口を開く。
「ミーシャ、ミーシャね…子猫のミーシャよ」知らない?と鏡越しにこちらを見て目線が交じり合う、すると 少女は んふふ と含んだような笑いをおこし目をゆるりと細めた。
「そういうのがあるのよ、黒い子猫でね だからミーシャ」と夏油を鏡の中から見つめて語りかける。
夏油はそれにポカンと小さく口を開けて反応せずに居た、なんじゃそりゃ と。まあ確かに、自分は黒い。黒髪黒目だ、でも日本人なら大体の人はそうなのではないだろうか、それに子猫とは 自分に猫のような要素が果たしてあっただろうか。
またしても反応しない夏油にとくに構わず、蚕は手をパッパッと振り水を落としてからタオルで手を拭く。振り返り「手洗い、交代」と洗面台に夏油を押す、夏油は言われるがままに手を洗いはじめた。
液体が入ったポンプ式の石鹸で手を洗う、爽やかな花の香りがした。
少女は後ろで夏油の手洗いを理由も無く見つめる、深い意味など無いことは視線の感じから明らかだったが、見られているというのはどうにも緊張してしまう。
水で泡をザアザアと洗い流し、少女がやったように手を振って水を切り、タオルで拭く。ふわふわのタオルであった、こっちの方が猫っぽい。
「じゃあ次はこっち」と少女は今度は夏油の手を引かずに前をゆっくり歩きはじめる、夏油はそれを追いかける。
少女の身長は低い この年頃ならば女子の方が発育が早く、その分身長も男子より高いことが多いが 少女は自分よりも小さかった。
服の布で隠れた肩のラインは柔らかく滑らかで、首は簡単に折れてしまいそうな程に細い。歩くスピードは遅く、歩幅も小さいため 夏油はどれだけ少女が先に歩きはじめたって追い付いてしまえた。だがしかし、隣を歩こうとは思わなかった、何故かこの 自分を導き先を歩む背中が見れなくなるのが名残惜しいと、そう感じたのだった。
おばあさんに麦茶とアイス(チョコと抹茶)を貰い、涼しい家の中、畳の上で並んで食しはじめる。
蚕は一応夏油は客人だからとアイスを先に選ばせたが、夏油がチョコを選ぶと かなりホッとしていた。だがすぐに「やっぱりそっちも少し食べたい」と言い出し、勝手に許可も取らずに一口スプーンで掬って食べていた。図々しいにも程があるが、夏油はちょっとビックリしたがとくに何も言わなかった、言えなかった。
だって食べかけのアイスを…間接き、き、キ……はわわ…。
蚕は「抹茶のが勝ってる」と夏油に向けて自分の持つアイスを向ける、食べろということである。
夏油はそれにも先程と同じような反応を初々しくし、行動が出来ずにいれば蚕はアイスをアッサリ引っ込めた。
刹那、蚕のスプーンを素早く何かが奪い、抹茶アイスを一口、二口と掬って食べる『何か』が現れた。
黒い。
闇より黒く、しかし永遠にも続く果ての無い宇宙のような影が形を作る。両の手があり、頭部は丸く 髪がある場所はユラユラと上に伸びて揺らめいた。
目は無く、大きな口が一つ。少女の使っていたスプーンを手に取り勝手にアイスを貪った。
夏油は「ヒッ」と喉を締めて硬直する。
…おばけだ、おばけがいる。
少女の影からおばけが伸びている。
どうすればいいか分からなくなった、スプーンは手から転がり落ち、目をいっぱいいっぱい広げて影をただ見つめる。いけない、目を、合わせては いけないのに…。
「はてな、やめなさい」
しかして、少女 蚕は何でも無いように、やや不機嫌そうに眉をひそめてそれを睨み付けた。
はてな…?と夏油は蚕の様子に疑問を抱く、何故怯えずに喋っているのか。というか喋れるの?それと。
『はてな』と呼ばれたその影は言葉を発することなくニヤニヤと口元に笑みを浮かべると、スプーンを器用にクルクル回して蚕のまわりをグルリと取り囲みアイスを奪おうとした。
すかさず、蚕は影の手をピシャリッと叩き スプーンを寄越せと手の平を上にして影に突きつける。
「やめて、恩を仇で返すな」
そう鋭くキツく言葉を発する。およそ、滑らかで清楚な可愛らしい容姿から発せられるとは思えない言葉であった。声の音はまろいはずであるに、その言葉だけはトゲのようにチクチクである。
少女がキツく言えば影はまるで「ちぇーっ(´・з・)」とでも言うようにスゴスゴと少女の影へと戻っていく。
最後に頭と片手だけを出して夏油にバイバイ と手を振ってポチャンッと雫一滴、完全にただの影へと戻った。
一連の理解し難い意味不明な出来事に、純粋に当然の疑問として「何、いまの」と口から出せば、蚕はスプーンを持ち直して抹茶アイスを口に一度運んでから語りはじめる。
「最初は手のひらサイズだったのだけれど」とスプーンとアイスから手を離し、両手をくっつけて水を掬うような形にして見せる。
「助けたら知らないうちにくっついてたの」
それ、大丈夫?
色んな意味で。夏油は純粋に不安に駆られた。そんな簡単に…地域猫に懐かれたのとは絶対訳が違うと思うのだが。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、少女は うむ…と一つ頷くと、アイスに目線を戻し「まあオプションってやつね」とスプーンを手に取り抹茶へと帰る。
いや、絶対違う。流石にあのおばけとかについて何も知らない夏油も違うことだけは分かった、そんな自動車パーツみたいなものではない。あれはもっと、何だか…大きなものだと感じた。今まで出会ったおばけとは訳が違う、途方もない何かであると。
それをよく理解もせずに連れ歩いている蚕は大丈夫なのだろうか、どうしよう…この子凄く不安だ…。夏油は蚕の繊細な容姿も相俟って心配になって来た。
夏油はもう既に食べきってしまったチョコアイスの容器にカパリと蓋をして、麦茶で口の中をサッパリさせる。
蚕はどうやら歩くのだけでなく食べるのも遅いらしい、未だに三分の一が残る溶けてきた抹茶アイスをむぐむぐと食していた。
円城蚕は見える人間だ。
母や父にすらその恐怖を理解されず、同級生には嘘をついていると背に指をさされ、教師には道徳を説かれる。
そんな日常が当然のようにこれからも続くのだと思っていた。その中に突然現れた異分子、同じ世界が見える子供。
夏油は、この世のどこにも居場所がないと思っていた。
ずっとこのまま気持ち悪いものを気持ち悪いと言えない日々、それは痛みを耐えるのと同じである。痛みを訴えられず、誰にも痛いことを理解されない。
しかし、ほの暗い絶望を抱える日常に突然舞い込んで来た少女は、安堵で涙を溢す己をあっさりと痛みから解放した。あの場から手を取って今しがた歩いて来た道を戻って行った。
そして、その少女の影には得たいの入れない何かが居る。
同じ世界が見れるけれど、同じ思いでは無いのだろうな。
自分が怯えて震えて息もままならなかったアレらを、少女は嫌そうな顔一つしただけだった。
それでも、きっと同じ気持ちにはなれなくとも、この少女は自分を理解してくれるであろうと夏油は思う。他の誰にも見えない、聞こえないものを知る人間、夏油は溶けきった抹茶アイスをジュースよろしく飲み干している少女に声を掛けた。
「あ、のさ…」
チラリ、少女の羽ばたく音がしそうな睫毛に縁取られたクリームソーダの瞳がこちらを横目に見る。抹茶アイスよりも澄んだその瞳が なんだ と無言で訴える。
「おんなじだ、僕たち おんなじだからさ」
少女はカップから口を離して口端についた抹茶を人差し指で拭う。
「友達になれるか、なぁ…」
精一杯の懇願であった。
黒く形の良い眉をへにゃり と垂れさせて如何にもな表情で口を閉ざしきらずに少女をじっと見つめる。
畳の匂いがする
遠くでは蝉の鳴き声がこだまし、涼しい室内であるのに緊張からかこめかみからツーッと汗が流れ落ちた。
やや間を置いた後に少女は口を開く
「何言ってるの」
沈黙
夏油の垂れ下がった眉は形を変え、表情に鋭い緊張が走る。一気にお腹の奥が冷えて重くなった。
音が 遠ざかる、世界に一人 取り残される。
息を詰めて、親指を中にし、拳をグッと握り 口をぎゅっと閉じた。
涙が出ない、人とは本当に恐怖するとそんなことすらままならなくなるのだ。
夏油は足元からジワジワと締め付けられるような心地に何も出来ずに少女を唖然と見つめる。
少女はそんな夏油をツルリとした瞳で見つめ返し、本当にコイツ何言ってるんだという呆れたような表情で面倒そうに言葉を続ける。
「さっき来るときに話したでしょ、私 君と遊ぶためにわざわざ歩き回ったのよ」
はあーーー…とめちゃくちゃドデカいため息を吐くと足をぽいっと投げ出し、首を反らして天井を見上げて呟いた。
「ここまでして、一緒にアイスも食べたのに 友達じゃないとか無いでしょ」
ねえ?ミーシャ と蚕は口元にニンマリとした笑みを湛えて顔を夏油の方へと視線を戻す。
そのまま えいやっと掛け声をつけて蚕は夏油に襲いかかった。突然の出来事にされるがまま、「ウワ」ッと声が出た夏油は少女のアイスを持っていたせいでヒンヤリとしてしまった手に顔をムギュッと両側から挟まれる。きっと今、自分の顔はかなり酷いことになっているだろう、女の子に見せていいような顔ではなかろう。しかしこんなスキンシップを今まで友人と取ってこなかった夏油はされるがままに両手をあたふたとさせるばかりであった。
蚕はもにゅもにゅと夏油の頬を形を変えるように揉みこみながら楽しそうに声を弾ませ語る。
「毎朝ラジオ体操に一緒に行きましょ、それから宿題もやるの 一緒にね。 音楽はどう?この家にはピアノがあるわ、私ちょっとなら習ってるから出来るのよ。 ミッケも持って来たの、読みましょ。」
蚕はあれこれと夏油とやりたいことを一気に挙げていく、そのどれもがザ・インドア!な遊びばかりであったが、夏油には言葉の全てが弾けるように煌めいて聞こえ、トクリトクリと胸の内側から全身にかけて熱が染みていく。
「ミーシャとなら楽しい夏休みになりそうだわ」
君もそう思う?と蚕は夏油の頬からその手をゆるやかに離していく。
それは感情のままに伸ばした手であった。咄嗟の行動だった。
蚕が思い付きで夏休みの理想を語るように、思い付くままにその手を取り 焦るように騒ぎ立てる心のまま言葉を紡ぐ。
「僕もそう思う!!!」
ギュッと力を込めて握り絞めた少女の手は小さく柔かった。蚕の手に自分の熱くなった手の温度が段々と伝わっていく。
蚕は嬉しそうに、満足そうに首を小さく縦に振り、夏油の瞳を見つめ返す。
「夏休みが終わるまでよろしくね、ミーシャ」
小学一年生の夏休み、夏油にはじめての友達が出来た。
自分より背の低い、クリームソーダの瞳を持つ柔らかい少女。歩くのが遅く、食べるのも遅く、影に変なものを住まわせる少女。やや心配になるような考え方をする少女、円城蚕。
その少女は今までの人生で抱え続けた痛みをまるっと拐い、そこに変わりにとあらん限りのこの世の美しい物を詰め込んでいく。
怖くて嫌いな世界には、こんなにも美しいものがあったのか。と、瞳を閉じても瞼の裏に鮮やかな星が灯り続けるのだ。
夏の日のことである。
夏油傑には忘れられない夏がある。