番外編
それは夏のある日の出来事だった。
「実家に帰らせて頂きます!」
「ま、待って待って待って、灰原くん!!」
「先輩なんてもう知りません!」
私は私の自称妻を名乗る青年、灰原雄を怒らせてしまったのだった。
事件は遡ること数分前のこと、私は今日も今日とてせっせとお仕事をしていた。
部下の一人である夏油くんに「忙しい所すまないが、これを事務室まで提出して来てくれるかい?」と、有無を言わせない圧のある笑顔で書類一式を渡された私は、彼のパシリとして高専の事務室まで汚れた白衣を揺らしながらテコテコ歩いて行った。
あの夏油傑とかいう男…私の方が立場が上なのに…何ならこちとら所長なのに…私のことを「実験が無い時は暇な生き物」として扱って来やがる…。ふざけやがって、何勝手に実権握ろうとしてるんだ、というか所長を顎で使うな、クビ切るぞ。
というような怒りを背負いながら、私は事務室にて書類を提出し、あざした〜と気の抜けた挨拶をして研究室に戻ろうとした。
廊下に出て数十秒後、後ろからいきなり呼び止められて、私は振り返る。
そこに居たのは上下真っ黒のダボついた服を着た青年だった。
確か、この子はえっと…よく七海くんと一緒に居る……
「こんちわ!今いっすか?」
「あー…うん、いいけど…君、名前なんだっけ?」
「猪野です、猪野琢真。そろそろ覚えて下さいよ〜」
「ああ、そうだそうだ!猪野くん!」
ごめんね猪野くん、正直全然一緒に仕事する機会が無いからさ、いや本当に申し訳無い。
私は謝罪を一つした後に、姿勢を正し話を聞くこととした。
「あの、七海さんが子育てに係わってるってホントですか?」
「…本当だけど、それが何か?」
「うわっ、マジかー!やべー、子育ても出来ちゃう七海さん…やべー…」
なんだコイツ……(素直な感想)
突然呼び止めてきたかと思えば七海くんのことを聞いてきて、それでヤベェヤベェって…何がヤベェのか説明して欲しい。語彙力を装備して来い。
そもそもその話は一体誰から聞いたんだ、風の噂というやつか。なら本人に聞いた方が早いのではないのだろうか…。私に聞く意味とはいったい…。
しきりに「やっぱ七海さんだわ…」「凄い人だよな、ほんと…」と、訳知り顔で頷く彼を白けた目で見つめていれば、こちらの視線に気付いたらしくハッとして「あ、すみませんっした!」と謝った。
「いや実は、前々から博士さんの口から七海さんの話が聞きたくて…」
「七海くんの話なら灰原くんから聞けば良くない?」
「いや、俺は博士さんの口から聞きたかったんです!七海さんのことが!」
なにコイツ、七海くんのオタクか?
私はあからさまに面倒臭いという顔をした。お兄ちゃんの話ならば喜々としてしたけれど、七海くんの話とかそんなバリエーション無いし、上手く良さが伝わる気もしない。そんな思いで断ろうとすれば、猪野くんはいきなり距離を詰めて、フレンドリーな気さくな笑顔を浮かべてきた。
あ、なんか灰原くんと似たような香りがしてきたぞ…!私には分かる…私はこの手の後輩力が強い可愛いタイプの人間にすぐ絆されるんだ…気を引き締めていけ!!
「よかったら飯どうすか?七海さんの話、聞きたいな〜」
「あー…うん、このあと…仕事が無ければいいよ」
首を傾げておねだりされたせいか、気付いたら返事に肯定していた。
我ながらチョロすぎて泣けてくる。
即落ち2コマの勢いで敗北をかましてしまった。
だって誘い方があまりにも邪気が無く、むしろ可愛げのある誘い文句だったので、ここ最近…いや、数年間食事になど誘われていなかった私はうっかり誘いを了承してしまった。(ちなみに普段は誘われる前に問答無用で拉致られる)
それが間違いだったのだ。
研究室に帰ってから夏油くんに私は今しがたあった出来事をちょっと誇らしげに自慢した。
どうだ、私だってたまには男性から食事に誘われたりするんだぞ!と、ちょっとフワついた心地で言ったのがいけなかった。
私が頼んでいた物品を届けるためやって来た灰原くんが、たまたまそれを聞いてしまったのだ。
彼は持っていた荷物をその場にボトリと落とし、むつかしい顔をしながら浮かれる私を呼んだ。
「先輩、食事に行くんですか?男と?二人きりで?」
「え?あれ…?二人きりなのかな…?うーん…そうかも?」
「なんで?」
「へ?」
な、なんで?とは、何がなんで?なんでしょうか…。
私は首を傾げて彼が何を言わんとしているのか考えた、が。しかし、あまりにも漠然とした質問過ぎてよく分からなかった。
そうこうしている間に夏油くんは、ニッコリと愉しそうな笑みを浮かべて「私は退散しておくよ」と何処かに行ってしまった。
取り残される私と灰原くん、それから落ちた物品。
一先ず落ちた物を拾おうと、私は灰原くんに近寄って足元にしゃがみ込んだ。
すると、彼は何を思ったのか一緒にしゃがみ込み、私の肩を掴んできた。
「僕とは今年もデートしてくれないのに、行くの?」
「いや、あの…デートとかじゃないよ、聞きたいことがあるとかで…尋問?てきな…」
「それナンパですよ、ナンパに釣られたんですか?僕がいるのに?」
「な、なんで怒ってるの…?」
「はぐらかさないで」
真剣な目つきだった。
私の前で灰原くんがこんなに真剣な目をして、硬い声を出すのは初めてだった。
彼はいつも私の前では可愛くて愛らしい、素直で元気いっぱいな後輩だったもんだから、私はいつもとあまりにも違う彼の表情と雰囲気に固まってしまった。
灰原くんはこうして真剣な顔をするとちゃんと大人の男性だということを、改めて感じる。
私とは違う、成長を重ねた人間の男性だ。
私を掴む手は大きく筋張っていて、短く切り揃えられた四角い爪を目にした瞬間兄達に感じる男らしさとはまた別ベクトルの男らしさを実感した。
真剣な目付きの奥から感じるのは、こちらへの執着と恋幕。私のことを好きで、想っていて、誰にも渡したくないという意思。けれどそれを口には出さず、内に必死に仕舞い込んでいる瞳。
言わないようにしている。私のために。
行くなと言って、強く引っ張って抱き締めれば簡単なことを彼は決してしない。
それは彼が私のことを理解しているからに他ならない。
行くなと言えば「そう言われると面倒臭くなって離れていく」という人間であることも、引っ張って強く抱き締めれば壊れることも、"可愛い妻"の立場を失えば有象無象に成り果て、私の興味関心の対象じゃなくなるかもしれないことも。
全部全部分かっているから、彼は目で訴えるしかない。
その黒く大きな瞳で、言葉を消して想いを伝える他にない。
けれど、そうは言ってもだ…私は約束をしてしまったのだ。
断れば良い話かもしれないが、別にやましい会合をするわけではあるまい。何なら相手は私に興味無い。あるのは私を通して見た七海くんの姿だ。
ナンパではないし、下心もない。ただご飯を食べて七海くんについて話すだけ。
それだけのことだ。それだけのことなのだから、私としては駄目な理由が分からない。
私には分からない。
だって私は、君の感情を正しく理解してあげられない、狂った生き物なのだから。
掴んでくる手を無言でそっと離し、私は荷物を手に取った。
「はぐらかすも何も、さっき話聞いてたでしょ。七海くんの話を聞きたいんだって」
「そういう口実かもしれないじゃないですか」
「だとしても、どうでも良くない?何も起きないよ、だって私相手なんだもん」
話は終わりだと言わんばかりに立ち上がってみせれば、灰原くんは苦い顔をしながら「分かりました…」と言って立ち上がった。
そのあまりの不服そうな顔つきに、思わずムッとして「言いたいことがあるなら言いなよ」と強めに言ってしまった。
そうして、一拍後。
灰原くんは同じくムッとした顔付きになってこう言った。
「分かりました、じゃあ僕は実家に帰らせて頂きます!」
「え………え!?ま、待って待って待って!」
「先輩なんてもう知りません!」
ぷいっ!
勢い良く私から顔を背けた灰原くんは、そのまま方向転換して扉を勢い良く開き出て行ってしまった。
その場に取り残された私は「え!?え!?」と、一人オロオロ狼狽えまくる。
どうしようこれ、追い掛けた方が良いのか!?
数年前に一度同じ台詞を言われたことがあったが、あの時は追い掛けて来て下さいと言われた記憶がある。ならば追い掛けるべきなのか。
よ…よし、追い掛けよう。それでなんか、壁ドンとかしておこう!
考えを纏めた私は慌てて同じように扉を開こうとした。
しかし!ドアノブに手を掛け開こうと力を入れた瞬間、なんと向こう側から勢い良く扉が開いてしまったのだ。
バンッ!!!!
「キャンッッッッッ!!!」
加速を伴うドアの開閉攻撃を真正面から受け、身体全体を思い切りドアにぶつける。そして勢い良く盛大に後方に吹っ飛んだ。
バキッ、ビキビキッ。
ガシャンッッ!!
背中から勢い良く硬い床に倒れ、頭部を強打し、身体のそこかしこから嫌な音が響いていく。
や、やべ〜〜〜!!?これは逝ったぞ、逝ってしまったぞ私!久々にやらかしましたね!!
そんな私の状況など知らない扉の向こうに居た主は、扉を開け放った瞬間大きな声で「だから!!」と主張を言い放つ。
「こういう時はすぐに追い掛けてきて下さ………せんぱい!?!?」
「た、担架を……だれか…担架とアロンアルファを…」
「わ、わあーーー!!ごめんなさい先輩!僕そんなつもりじゃ…!」
そう言って灰原くんは怒りも忘れて慌ててすっ飛んできた。
「ごめんなさい!僕が嫉妬なんてしたからこんな…!」
「あ、なるほど嫉妬だったんだね。な〜んだ、やっぱり灰原くんは可愛いね」
「え?そうですか?ありがとうございます!」
えへへ〜!と、二人で和やかに笑い合っていればドカドカと複数の足音がし、頭上に影が差す。
「いやそんなこと言ってる場合じゃないだろう、いい加減にしてくれないか本当に」
「あ、夏油くん!ごめん、真夏の繁忙期に!」
「もっと悪びれてくれないか、粉々にして海に撒くぞ」
「えーんっ!天才だからゆるして!」
「なんで私この研究所に就職してしまったんだろう…」
が、ガチギレじゃん………めっちゃ冷めた目で見下ろすのやめて下さい泣くぞ。
ヒビ割れた身体でプルプル震えながら、私は担架に乗せられえっちらおっちら実験室まで連れて行かれた。
道中、灰原くんには改めて謝罪をし、ついでに猪野くんにご飯に行けなくなったことを伝えておいて貰うことにした。
灰原くんは叱られた犬のような顔で私に謝りながら、廊下で猪野くんに連絡を入れてくれた。
実験室にて、夏油くんに背中側の割れた部分を緊急修復して貰っていれば、夏油くんは心底呆れたと言いたげな声で言う。
「君はもう少し灰原を大切にすべきだ」
「精一杯してるつもりなんだけどなあ…」
「たまには一緒に出掛けたりした方が良い、灰原は君と違って真っ当な愛情を持つ人間なんだから」
「わ、私だって真っ当で真っ直ぐな愛情持ってるもん!」
夏油くんの言葉にすぐさま反論したが、しかし、彼は溜息混じりに「君のは違うよ」と言った。
「気に入った存在への愛着と愛情は似て非なるものだ」
「それは知ってるよ、それで君は私が灰原くんに対して抱いている感情が愛着だって言いたいの?」
「事実としてそうだろう?だから君はいつまで経っても灰原を実験個体の一つとしてしか愛していないんだ」
「ははあ、なるほどね」
夏油くんの語り口は嫌いじゃない。
彼の解釈は理に適っているし、とても優しく鋭いものだ。切り口も観点も中々に研究に向いている。だがしかし、今回のことについては正解とは言えない結論だ。
もしも、ここに五条くんが居たならば笑って「分かってないな〜、そもそもコイツにそんな大層な感情があるわけないじゃん」と失礼なことを言っていただろう。
しかし、それこそが最も正解に近い言葉だ。
残念ながら私には夏油くんが言うような愛情や愛着の類いは存在しない、何故なら彼等が要求する感情は繁殖活動を円滑に行うために必要とする感情だからだ。
私には繁殖能力が存在しない。異性を欲する欲求は無い。次の世代に自分の遺伝子を遺そうという意思がない。だから、追従する感情は備わらない。
では私の愛とは何か、それはつまり、
「私はただ、美しいと思った物を美しいと讃え、可愛い物を可愛いと愛でる、それだけだよ」
亀裂に接着剤を流し込まれながら、私は小さな笑い声を含ませてそう言った。
数秒の沈黙を挟み、頭上からは溜息が降ってくる。
諦めを意味するその溜息に私は得意気な笑みを浮かべてみせた。
「常々、灰原が報われないな…」
「それは灰原くんが決めることだよ」
でもまあ、夏油くんが言わんとしていることも、灰原くんが私に言いたかったことも何となく分かった。
真っ当に、真剣に、大切に。そういう愛情を向けなければならないということだろう。
例え私の中に備わっていないものだとしても、似たようなものを提示して埋め合わせをしろということだ。その努力をしない内から色々語るな、擦れ違うな、って話である。
いやはや、人間の愛情とは奥深く面倒なものだな。
「ちなみに、夏にデートに行くならどこが良いと思う?」
「それこそ灰原が決めることだろう」
「よし、では聞いてみよう」
え?今??というような声が聞こえたが、それに重なるように廊下に居るはずの灰原くんに声を掛けた。
「灰原くんーーーー!!!デート行くならどこがいいーーー!?」
「こら、そんなに大きな声を出すと割れた所に響くだろう」
割れても君がなんとかしてくれるから、きっと大丈夫!
それよりも今は妻のご機嫌取りの方が優先だ。
私の声を聞いた灰原くんは、すぐに実験室の扉を開けてとても良い笑顔で入室してきた。
足早にこちらに近付き、修復台の上で割れた箇所の自己再生を始めた私を見下ろしながら彼は言う。
「海がいいです!夏なんで!」
「海!いいね!研究素材も沢山見つかりそう!」
「楽しみだな〜!(水着とか浜辺デートが)」
「楽しみだね〜!(素潜りとか貝拾いが)」
どうやらご機嫌は直ったらしい。
良かった良かった、灰原くんが居なくなると私の生活の質はガタ落ちするからね。居てくれないと困るんだよ。
こうして真夏の繁忙期にも関わらず、私達は海に行く約束をした。
夏油くんは仕事をしろと笑顔でキレていた。本当ごめんて。
「実家に帰らせて頂きます!」
「ま、待って待って待って、灰原くん!!」
「先輩なんてもう知りません!」
私は私の自称妻を名乗る青年、灰原雄を怒らせてしまったのだった。
事件は遡ること数分前のこと、私は今日も今日とてせっせとお仕事をしていた。
部下の一人である夏油くんに「忙しい所すまないが、これを事務室まで提出して来てくれるかい?」と、有無を言わせない圧のある笑顔で書類一式を渡された私は、彼のパシリとして高専の事務室まで汚れた白衣を揺らしながらテコテコ歩いて行った。
あの夏油傑とかいう男…私の方が立場が上なのに…何ならこちとら所長なのに…私のことを「実験が無い時は暇な生き物」として扱って来やがる…。ふざけやがって、何勝手に実権握ろうとしてるんだ、というか所長を顎で使うな、クビ切るぞ。
というような怒りを背負いながら、私は事務室にて書類を提出し、あざした〜と気の抜けた挨拶をして研究室に戻ろうとした。
廊下に出て数十秒後、後ろからいきなり呼び止められて、私は振り返る。
そこに居たのは上下真っ黒のダボついた服を着た青年だった。
確か、この子はえっと…よく七海くんと一緒に居る……
「こんちわ!今いっすか?」
「あー…うん、いいけど…君、名前なんだっけ?」
「猪野です、猪野琢真。そろそろ覚えて下さいよ〜」
「ああ、そうだそうだ!猪野くん!」
ごめんね猪野くん、正直全然一緒に仕事する機会が無いからさ、いや本当に申し訳無い。
私は謝罪を一つした後に、姿勢を正し話を聞くこととした。
「あの、七海さんが子育てに係わってるってホントですか?」
「…本当だけど、それが何か?」
「うわっ、マジかー!やべー、子育ても出来ちゃう七海さん…やべー…」
なんだコイツ……(素直な感想)
突然呼び止めてきたかと思えば七海くんのことを聞いてきて、それでヤベェヤベェって…何がヤベェのか説明して欲しい。語彙力を装備して来い。
そもそもその話は一体誰から聞いたんだ、風の噂というやつか。なら本人に聞いた方が早いのではないのだろうか…。私に聞く意味とはいったい…。
しきりに「やっぱ七海さんだわ…」「凄い人だよな、ほんと…」と、訳知り顔で頷く彼を白けた目で見つめていれば、こちらの視線に気付いたらしくハッとして「あ、すみませんっした!」と謝った。
「いや実は、前々から博士さんの口から七海さんの話が聞きたくて…」
「七海くんの話なら灰原くんから聞けば良くない?」
「いや、俺は博士さんの口から聞きたかったんです!七海さんのことが!」
なにコイツ、七海くんのオタクか?
私はあからさまに面倒臭いという顔をした。お兄ちゃんの話ならば喜々としてしたけれど、七海くんの話とかそんなバリエーション無いし、上手く良さが伝わる気もしない。そんな思いで断ろうとすれば、猪野くんはいきなり距離を詰めて、フレンドリーな気さくな笑顔を浮かべてきた。
あ、なんか灰原くんと似たような香りがしてきたぞ…!私には分かる…私はこの手の後輩力が強い可愛いタイプの人間にすぐ絆されるんだ…気を引き締めていけ!!
「よかったら飯どうすか?七海さんの話、聞きたいな〜」
「あー…うん、このあと…仕事が無ければいいよ」
首を傾げておねだりされたせいか、気付いたら返事に肯定していた。
我ながらチョロすぎて泣けてくる。
即落ち2コマの勢いで敗北をかましてしまった。
だって誘い方があまりにも邪気が無く、むしろ可愛げのある誘い文句だったので、ここ最近…いや、数年間食事になど誘われていなかった私はうっかり誘いを了承してしまった。(ちなみに普段は誘われる前に問答無用で拉致られる)
それが間違いだったのだ。
研究室に帰ってから夏油くんに私は今しがたあった出来事をちょっと誇らしげに自慢した。
どうだ、私だってたまには男性から食事に誘われたりするんだぞ!と、ちょっとフワついた心地で言ったのがいけなかった。
私が頼んでいた物品を届けるためやって来た灰原くんが、たまたまそれを聞いてしまったのだ。
彼は持っていた荷物をその場にボトリと落とし、むつかしい顔をしながら浮かれる私を呼んだ。
「先輩、食事に行くんですか?男と?二人きりで?」
「え?あれ…?二人きりなのかな…?うーん…そうかも?」
「なんで?」
「へ?」
な、なんで?とは、何がなんで?なんでしょうか…。
私は首を傾げて彼が何を言わんとしているのか考えた、が。しかし、あまりにも漠然とした質問過ぎてよく分からなかった。
そうこうしている間に夏油くんは、ニッコリと愉しそうな笑みを浮かべて「私は退散しておくよ」と何処かに行ってしまった。
取り残される私と灰原くん、それから落ちた物品。
一先ず落ちた物を拾おうと、私は灰原くんに近寄って足元にしゃがみ込んだ。
すると、彼は何を思ったのか一緒にしゃがみ込み、私の肩を掴んできた。
「僕とは今年もデートしてくれないのに、行くの?」
「いや、あの…デートとかじゃないよ、聞きたいことがあるとかで…尋問?てきな…」
「それナンパですよ、ナンパに釣られたんですか?僕がいるのに?」
「な、なんで怒ってるの…?」
「はぐらかさないで」
真剣な目つきだった。
私の前で灰原くんがこんなに真剣な目をして、硬い声を出すのは初めてだった。
彼はいつも私の前では可愛くて愛らしい、素直で元気いっぱいな後輩だったもんだから、私はいつもとあまりにも違う彼の表情と雰囲気に固まってしまった。
灰原くんはこうして真剣な顔をするとちゃんと大人の男性だということを、改めて感じる。
私とは違う、成長を重ねた人間の男性だ。
私を掴む手は大きく筋張っていて、短く切り揃えられた四角い爪を目にした瞬間兄達に感じる男らしさとはまた別ベクトルの男らしさを実感した。
真剣な目付きの奥から感じるのは、こちらへの執着と恋幕。私のことを好きで、想っていて、誰にも渡したくないという意思。けれどそれを口には出さず、内に必死に仕舞い込んでいる瞳。
言わないようにしている。私のために。
行くなと言って、強く引っ張って抱き締めれば簡単なことを彼は決してしない。
それは彼が私のことを理解しているからに他ならない。
行くなと言えば「そう言われると面倒臭くなって離れていく」という人間であることも、引っ張って強く抱き締めれば壊れることも、"可愛い妻"の立場を失えば有象無象に成り果て、私の興味関心の対象じゃなくなるかもしれないことも。
全部全部分かっているから、彼は目で訴えるしかない。
その黒く大きな瞳で、言葉を消して想いを伝える他にない。
けれど、そうは言ってもだ…私は約束をしてしまったのだ。
断れば良い話かもしれないが、別にやましい会合をするわけではあるまい。何なら相手は私に興味無い。あるのは私を通して見た七海くんの姿だ。
ナンパではないし、下心もない。ただご飯を食べて七海くんについて話すだけ。
それだけのことだ。それだけのことなのだから、私としては駄目な理由が分からない。
私には分からない。
だって私は、君の感情を正しく理解してあげられない、狂った生き物なのだから。
掴んでくる手を無言でそっと離し、私は荷物を手に取った。
「はぐらかすも何も、さっき話聞いてたでしょ。七海くんの話を聞きたいんだって」
「そういう口実かもしれないじゃないですか」
「だとしても、どうでも良くない?何も起きないよ、だって私相手なんだもん」
話は終わりだと言わんばかりに立ち上がってみせれば、灰原くんは苦い顔をしながら「分かりました…」と言って立ち上がった。
そのあまりの不服そうな顔つきに、思わずムッとして「言いたいことがあるなら言いなよ」と強めに言ってしまった。
そうして、一拍後。
灰原くんは同じくムッとした顔付きになってこう言った。
「分かりました、じゃあ僕は実家に帰らせて頂きます!」
「え………え!?ま、待って待って待って!」
「先輩なんてもう知りません!」
ぷいっ!
勢い良く私から顔を背けた灰原くんは、そのまま方向転換して扉を勢い良く開き出て行ってしまった。
その場に取り残された私は「え!?え!?」と、一人オロオロ狼狽えまくる。
どうしようこれ、追い掛けた方が良いのか!?
数年前に一度同じ台詞を言われたことがあったが、あの時は追い掛けて来て下さいと言われた記憶がある。ならば追い掛けるべきなのか。
よ…よし、追い掛けよう。それでなんか、壁ドンとかしておこう!
考えを纏めた私は慌てて同じように扉を開こうとした。
しかし!ドアノブに手を掛け開こうと力を入れた瞬間、なんと向こう側から勢い良く扉が開いてしまったのだ。
バンッ!!!!
「キャンッッッッッ!!!」
加速を伴うドアの開閉攻撃を真正面から受け、身体全体を思い切りドアにぶつける。そして勢い良く盛大に後方に吹っ飛んだ。
バキッ、ビキビキッ。
ガシャンッッ!!
背中から勢い良く硬い床に倒れ、頭部を強打し、身体のそこかしこから嫌な音が響いていく。
や、やべ〜〜〜!!?これは逝ったぞ、逝ってしまったぞ私!久々にやらかしましたね!!
そんな私の状況など知らない扉の向こうに居た主は、扉を開け放った瞬間大きな声で「だから!!」と主張を言い放つ。
「こういう時はすぐに追い掛けてきて下さ………せんぱい!?!?」
「た、担架を……だれか…担架とアロンアルファを…」
「わ、わあーーー!!ごめんなさい先輩!僕そんなつもりじゃ…!」
そう言って灰原くんは怒りも忘れて慌ててすっ飛んできた。
「ごめんなさい!僕が嫉妬なんてしたからこんな…!」
「あ、なるほど嫉妬だったんだね。な〜んだ、やっぱり灰原くんは可愛いね」
「え?そうですか?ありがとうございます!」
えへへ〜!と、二人で和やかに笑い合っていればドカドカと複数の足音がし、頭上に影が差す。
「いやそんなこと言ってる場合じゃないだろう、いい加減にしてくれないか本当に」
「あ、夏油くん!ごめん、真夏の繁忙期に!」
「もっと悪びれてくれないか、粉々にして海に撒くぞ」
「えーんっ!天才だからゆるして!」
「なんで私この研究所に就職してしまったんだろう…」
が、ガチギレじゃん………めっちゃ冷めた目で見下ろすのやめて下さい泣くぞ。
ヒビ割れた身体でプルプル震えながら、私は担架に乗せられえっちらおっちら実験室まで連れて行かれた。
道中、灰原くんには改めて謝罪をし、ついでに猪野くんにご飯に行けなくなったことを伝えておいて貰うことにした。
灰原くんは叱られた犬のような顔で私に謝りながら、廊下で猪野くんに連絡を入れてくれた。
実験室にて、夏油くんに背中側の割れた部分を緊急修復して貰っていれば、夏油くんは心底呆れたと言いたげな声で言う。
「君はもう少し灰原を大切にすべきだ」
「精一杯してるつもりなんだけどなあ…」
「たまには一緒に出掛けたりした方が良い、灰原は君と違って真っ当な愛情を持つ人間なんだから」
「わ、私だって真っ当で真っ直ぐな愛情持ってるもん!」
夏油くんの言葉にすぐさま反論したが、しかし、彼は溜息混じりに「君のは違うよ」と言った。
「気に入った存在への愛着と愛情は似て非なるものだ」
「それは知ってるよ、それで君は私が灰原くんに対して抱いている感情が愛着だって言いたいの?」
「事実としてそうだろう?だから君はいつまで経っても灰原を実験個体の一つとしてしか愛していないんだ」
「ははあ、なるほどね」
夏油くんの語り口は嫌いじゃない。
彼の解釈は理に適っているし、とても優しく鋭いものだ。切り口も観点も中々に研究に向いている。だがしかし、今回のことについては正解とは言えない結論だ。
もしも、ここに五条くんが居たならば笑って「分かってないな〜、そもそもコイツにそんな大層な感情があるわけないじゃん」と失礼なことを言っていただろう。
しかし、それこそが最も正解に近い言葉だ。
残念ながら私には夏油くんが言うような愛情や愛着の類いは存在しない、何故なら彼等が要求する感情は繁殖活動を円滑に行うために必要とする感情だからだ。
私には繁殖能力が存在しない。異性を欲する欲求は無い。次の世代に自分の遺伝子を遺そうという意思がない。だから、追従する感情は備わらない。
では私の愛とは何か、それはつまり、
「私はただ、美しいと思った物を美しいと讃え、可愛い物を可愛いと愛でる、それだけだよ」
亀裂に接着剤を流し込まれながら、私は小さな笑い声を含ませてそう言った。
数秒の沈黙を挟み、頭上からは溜息が降ってくる。
諦めを意味するその溜息に私は得意気な笑みを浮かべてみせた。
「常々、灰原が報われないな…」
「それは灰原くんが決めることだよ」
でもまあ、夏油くんが言わんとしていることも、灰原くんが私に言いたかったことも何となく分かった。
真っ当に、真剣に、大切に。そういう愛情を向けなければならないということだろう。
例え私の中に備わっていないものだとしても、似たようなものを提示して埋め合わせをしろということだ。その努力をしない内から色々語るな、擦れ違うな、って話である。
いやはや、人間の愛情とは奥深く面倒なものだな。
「ちなみに、夏にデートに行くならどこが良いと思う?」
「それこそ灰原が決めることだろう」
「よし、では聞いてみよう」
え?今??というような声が聞こえたが、それに重なるように廊下に居るはずの灰原くんに声を掛けた。
「灰原くんーーーー!!!デート行くならどこがいいーーー!?」
「こら、そんなに大きな声を出すと割れた所に響くだろう」
割れても君がなんとかしてくれるから、きっと大丈夫!
それよりも今は妻のご機嫌取りの方が優先だ。
私の声を聞いた灰原くんは、すぐに実験室の扉を開けてとても良い笑顔で入室してきた。
足早にこちらに近付き、修復台の上で割れた箇所の自己再生を始めた私を見下ろしながら彼は言う。
「海がいいです!夏なんで!」
「海!いいね!研究素材も沢山見つかりそう!」
「楽しみだな〜!(水着とか浜辺デートが)」
「楽しみだね〜!(素潜りとか貝拾いが)」
どうやらご機嫌は直ったらしい。
良かった良かった、灰原くんが居なくなると私の生活の質はガタ落ちするからね。居てくれないと困るんだよ。
こうして真夏の繁忙期にも関わらず、私達は海に行く約束をした。
夏油くんは仕事をしろと笑顔でキレていた。本当ごめんて。