二十五万カラットの憎悪
「私も沖縄行きたいよー!!」
「離して下さい」
「連れてって!連れてって!連れてって!連れてけ!!」
「お土産は何がいいですか?」
「塩!!!」
高専を後にしようとする七海くんの腰にへばりつき、連れて行けと抗議するも、ベリッと引き剥がされて捨てられた。ひ、酷い!人を引き剥がしておいて、埃払うような仕草して!何て後輩だ…悲しくてメソメソシクシク泣きながら寝っ転がっていれば、様子を見に来た夜蛾先生に摘ままれて起こされた。自力で立つ気が無いので、そのまま先生にベチャッとへばりつき頭突きを繰り返して抗議を再開する。
「何で私だけお留守番しなくちゃいけないの!」
「お前を護衛対象に近付けるのは危険だからだ」
「何にもしないよ、血液か唾液採取するだけだよ」
「それが駄目なんだ、先生と留守番してるぞ」
まだ言い足りないと口を開けば飴を突っ込まれた。私は育ちが良いので口に物が入っている時は喋らない、それを知って先生は毎回飴を突っ込んでくる。
ちくしょう、私が黙ったのを確認して後輩ちゃんズはさっさと行ってしまったでは無いか。イチゴの味がする飴を口の中でコロコロ転がしながら先生を睨むように見上げる。
「ほら、教室に戻るぞ、離れなさい」
「ンーーーーッッッ!!!!」
「そんな声出しても駄目なものは駄目だ」
こうなったらせめてもの抵抗にしがみついててやる、蝉の如く引っ付いてンー!!!!ンー!!!!吠えていれば先生は眉間を揉みながら溜め息をついていた。流石にちょっと可哀想になったので吠えるのだけやめた。私って優しい。
皆無事に帰って来てくれたらいいなあ、死体になったら死体になったで利用するけど、でも何事も無く帰って来てくれることが一番だ。
まあ、皆強いし大丈夫だよね。
最強を名乗る二人が居るんだし。
…
皆が沖縄から帰って来たと聞いてお出迎えしてあげようと行ったら、五条くんが倒れていた。血の池の中で。
「五条くん……」
私は動かない五条くんを無感動に、無感情に、無関心に見下ろして、無意味と分かっていて声を掛けた後、数秒立ち尽くしてから身を翻して駆け出した。
血溜まりに沈む最強の同級生。
最強の五条くんがやられて…残穢が……ああ、駄目だ、情報が上手く纏まらない、気持ちだけが逸る。
爪先に力を入れて地面を蹴り、身体を前に倒して重心をコントロールする。
足を前に出すことだけを考えるんだ、それ以外は今必要無いこと。感情で生きるな、理屈で生きろ。
風を切り、髪が流れる。
注ぐ日差しが私の冷たい身体と心を熱くさせる。
理論的に、理屈を並べ、理知的であれと望む意思とは裏腹に、心は高揚と苦しみで支配されていく。
興奮で上手く息が出来ない、肺なんてもう無いのに、未だに生物の真似事をしている体が憎たらしい。
重たい手足が嫌いだ、使い物にならない脳が嫌いだ、しかし何よりも…この人生が嫌いだ。
産まれてからずっと抱え続けた嫌悪を超えた絶望の果て、絶念の思いが空っぽの腹の底から唸り声を挙げる。
早く、早く、自由になりたい。
自由になるためには、兄の温度を忘れなければならない、そのために兄を殺さなければ。
兄さんは私の呪いだ。
呪いは、祓われなければならないのだ。
自由になりたい、人である自分を捨てたい、人としての自分を産み出して、そしたらソイツに全部押し付けて、そうして私は粉々になるんだ。
粉々になって、一掬いの輝く砂となる。
そうしてやっと、私は産まれてからずっと苦しかった人生という名の檻から解放される。
産まれて来たくなんて無かった、人に産まれて来たくなんて無かった、こんな身体に産まれて来たくなんて無かった、兄さんの妹になんて産まれて来たくなんて無かった。
でも生きなきゃいけない、だって生きてるんだから。この理由だけで今までずっと生きてきた。
だけど苦しい、ずっと苦しい。
本当は知っていた、どうして五条くんが私に優しいか。
彼は私の朽ちるしか無い身体を理解していたのだ、同情から始まった友情だった。
何故私に見合い話が来ないか知っていた。
当たり前だ、あんな身体じゃ何も産み出せない。全てが手遅れな肉体だった。だから甚壱兄さんは私を見て「コレに産まれてこなくて良かった」と安堵していた。最初から私はあの人達に家族だなんて思われては居なかった。
何故あの家で私が好きに生きられたか知っていた。
どうせ儚い命、せめて死後呪いに転じぬようにと自由を謳歌させていたのだ。
知っていた、全て知っていたとも。
それでも私は苦しんで、苦しみ抜いて、ここまで来た。一人よがりで生きて、誰にも価値無く思われて、何処にも行けずに朽ちていく。
ならせめて、お前達の心に僅かにでも「後悔」として残り住み着いてやりたかった。
兄さんを殺して、自由な人間の私を産み出して、そして私は死ぬ。
通路で倒れている血塗れの女の元に三つ鉱物を投げ捨てて、私は先を目指してひたすらに走る。
運が良ければ蘇生と修復に成功するだろう。
髪型が崩れようと何だろうと構わず走る、スカートが翻るのを無視して足を精一杯動かす。
握り締めたオパールの剣を携えて、私は求め続けた背中を視界に収めた。
引き金を引く前の一瞬、銃の機関部分目掛けて親指の爪程の大きさをした鉱物を投擲した。
こちらに気付いた男が振り返るが、彼は迷わず引き金を引く。
しかし、寸前で届いた鉱物から発される粒子サイズの攻撃によって内部機関に不具合が生まれた、銃弾は発射されずに弾詰まりを起こす。
足を止めず、男目掛けて一直線に走る。
状況に気付いて振り返った夏油くんが戦闘体制を取り、呪霊を出して交戦しようとする。
やめろ、駄目だ、お願い邪魔をしないで、その男を殺すことが私の悲願なんだ、この日のためだけに生きていたのだ。
何も知らない夏油くんが、やって来た私に「理子ちゃんを連れて逃げるんだ!」と叫ぶのに被るように、私は喉が張り裂けんばかりの大声で吠えるように言った。
理性を捨てて、心は感情に支配される。
その男は、私が!!
「夏油くんどいて!お兄ちゃん殺せない!!」
響き渡る興奮した声。
私以外の全員が身をピタリと固めた、状況を無視して私は叫び続ける。
「お兄ちゃんを殺して私も死ぬ!!そのために今日まで生きてきた!」
サラサラの黒髪が揺れて、顔を私の方へと向ける。鋭い黒目に私が写り込んだ、ああ…お兄ちゃん、お兄ちゃんが私を見ている。甚爾お兄ちゃん、兄さん、兄、私の呪い!
私の呪いが私を見ている!!
「お前……」
口を開いて、驚いたような表情で私を見つめる瞳に涙が出そうだった。
眉間が痛い、息が上がる、早くなった呼吸を無視して私は力の限り積年の絶望を叫び散らかす。
貴方があの日、私を選ばなかったから、だからあの瞬間からずっとずっと、私は貴方が恋しくて苦しかった。
「貴方が私を置いて行った結果を見ろ!!」
目の前に居る私は、あの頃貴方が無責任に可愛がっていた姿とは程遠いだろう。
色素の抜け落ちた髪に、腐り落ちた眼球の変わりに嵌め込んだ鉱物の瞳、繋がりを示す流れる血は最早跡形も無く、成長した身体は見知らぬ女の形をしているだろう。
五感の全てが誰よりも強い貴方に悟られぬ私は、生命ですら無い。ただの無機物だ。
「貴方が置いて行ったから、私はこんなになってしまった!」
涙のような、しかし涙とは違う成分の液体が両目から湧き出て流れ落ちる。
「貴方が人としての幸せを求めたから、だから私が変わりに化物になったんだ!兄さん!!」
誰かが息を飲んだ音が耳に入ってきた。
荒い息を吐き出しながら、私は殺すべき相手に剣の先を向ける。
未だ口を半開きにして驚いた顔で固まる男へ向けて殺意と愛を込めて宣言をした。
「兄さんを殺して、兄さんの身体を苗床にして、人間の私を産み出す。そして全てをやり直させるんだ。私はもう、自由になりたい」
貴方はかつて自由を選んだ。
ならば次は私の番だ。
カツンッ、と足元に一つ赤い石が転がり落ちる。
それを中心に呪力が一気にブワリと膨れ上がり、形を成していく。
この日のために産み出した私の子、怪物から生まれた怪物、無敵の化物。
幼き日に読んだ不思議な物語に登場する、瞳を燃やした巨体の魔物。
「ジャバウォック」
人間よりも3倍は大きな身体、頭から突き出た二本のツノ、らんらんと輝くコランダムの瞳に、鋭い鉤爪と強靭な顎。
オパールの剣でのみ打ち倒すことが出来る、おとぎ話の怪物。
兄さんを倒すためだけに完成させた、秘密兵器。
名前を呼ぶ声に答えるように、空間を震わす程の痛みさえ感じる雄叫びを挙げた怪物は兄目掛けて地を鳴らし走り出す。
走り出すために地を蹴っただけで床は割れ、振るった鉤爪は当たらずとも超音速の衝撃波、ソニックムーブを生み出した。
兄の身体が宙を舞う、続くように怪物の巨体が跳ね上がり身動きの取れない空中で叩き潰すように拳を突き出した。
穿つ大地、上がる硝煙、速すぎて捕らえ切れない戦闘が繰り広げられる。
呪具が意味を成さないことを理解した兄が武器を捨て、肉体一つで応戦する。轟く拳と拳がぶつかり合う音に身を竦めそうになる。
雷鳴のような鳴動が骨に響く。
こちらまで感じることの出来る風圧が、一人と一体の圧倒的な強さを物語る。
こんなに、兄は…あの人は強かったのか。
知らなかった、あんな風に戦うなんて、あんな風に唇を吊り上げたような笑い方をするだなんて。私は兄さんのことを…何も知らなかった。
ジャバウォックの猛々しい咆哮が兄の足を立ち止まらせる。
「確かにこりゃ怪物だ」
あんなに、あんなにも鬼神の如き攻撃を喰らっているのに、愉しげに笑う表情に私は一歩足を後ろに下げた。
怖い、あの人が怖い?
……いいえ、怖いのでは無い、これは…もっと深い感情だ、私はこの状況に……密かな喜びを感じている。
私の生んだ怪物が、兄と戦っている。
私が求めて、求め続けて、待ち焦がれた人と対等に、私から生まれた私の一部である怪物が、戦っている状況に戸惑いながらも嬉しさを感じてしまっている。
ゾクゾクと痺れが背中を這って、私は己の身を片手でギュッと抱き締めた。
分かるかこの喜びが。
あんなにも追い求めて来た存在が、私の全てを捨てて生み出した至高の子供に負けないなんて。
やっぱり、兄さんは特別な人間なんだ。
特別だから欲しかったんだ、私の…未来の無い薬物に汚染され切った身体では絶対に到達出来ない域に存在していたから、ずっと羨ましかったんだ。
羨ましくて妬ましくて、美しくて健康で自由な身体を持っているのにまだ自由を求めて、私を選ばず家を捨てた貴方だから、私は貴方を欲し続けて生きて来たのだ。
果てしなく憎い、けれど好きなのだ、この世で一番美しい存在に一番最初に触れられてしまったから、私は貴方に囚われて生きている。
けれど、それも今日でおしまいだ。
私は兄さんを超えて、殺して、自由になる。
「ジャバウォック!!!」
腹に力を込めて、怒号のような叫びを谺す。
「私に、勝利を!!!」
次の瞬間、大絶叫と呼ぶに相応しい雄叫びを挙げたジャバウォックが、鋼と呼ぶに相応しい牙を剥き出し、兄に向かっておぞましい口を開く。
両手の鉤爪をさらに伸ばし硬化させ、身を裂かんと獰猛で強烈な猛威を振るった。
だがしかし、猛然たる攻撃は地を割り、衝撃から一拍遅れて轟音を轟かせる。
避けられた、渾身の一撃を。
ジャバウォックの攻撃をかわした兄は、ギラギラと輝かせた瞳をかっぴらき、吊り上げた口元からは笑い声が迸る。
届かない、あと一歩が!
手から滑り落ちたオパールの剣が、カランカランと音を立てたのを気にせずに私は駆け出した。
負けちゃう、このままでは私のジャバウォックが負けてしまう!
ジャバウォックは私が生み出した鉱物生命体だ、鉱物生命体は例外無く、込められた呪力と命令が尽きれば一欠片の宝石へと戻ってしまう。
嫌だ、負けたらおしまいだ、負けたら殺せない、そしたら……苦しい毎日がずっとずっと続いてしまう。兄に囚われたまま、大嫌いな身体で歩き続けなければいけないの。
もう嫌なんだ、これ以上生きたく無いのだ。
だから全部人間の私に押し付けて、私は砂にでもなってしまいたかったのに。
「ジャバウォック……」
徐々に徐々に、呪力が切れかかって来た無敵の怪物は動きを遅くする。
傷一つ無い身体であるが、動かなければただの美しいオブジェクトだ。
負けるのか、私は。
私の生んだ、私の心の形をした怪物が、負けてしまうのか。
ここまで堪え忍んで来た日々は何だったのだ。
唇が震える、涙が止まらない、駆け出した足は絶望からなる恐怖によってフラフラとした遅い足取りに変わった。
「……ジャバウォック」
名前を呟き巨体へ両手を伸ばす、近寄ってきた私に気付いた兄が攻撃を止めて振り返った気がした。
しかしもう、私の視界に兄の姿は映らない。
呪力が後少しで切れるだろうジャバウォックの燃える赤い瞳が私を見つめる。
………そうだね、求める物が手に入らないのなら。
これ以上絶望が続くだけならば。
分かったよ。
お前にも私にも、苦しみを断ち切るためにはこれしか無い。
諦めた笑みを浮かべながら、私の愛しい怪物に最後の命令を与える。
「ジャバウォック、私を殺して」
「離して下さい」
「連れてって!連れてって!連れてって!連れてけ!!」
「お土産は何がいいですか?」
「塩!!!」
高専を後にしようとする七海くんの腰にへばりつき、連れて行けと抗議するも、ベリッと引き剥がされて捨てられた。ひ、酷い!人を引き剥がしておいて、埃払うような仕草して!何て後輩だ…悲しくてメソメソシクシク泣きながら寝っ転がっていれば、様子を見に来た夜蛾先生に摘ままれて起こされた。自力で立つ気が無いので、そのまま先生にベチャッとへばりつき頭突きを繰り返して抗議を再開する。
「何で私だけお留守番しなくちゃいけないの!」
「お前を護衛対象に近付けるのは危険だからだ」
「何にもしないよ、血液か唾液採取するだけだよ」
「それが駄目なんだ、先生と留守番してるぞ」
まだ言い足りないと口を開けば飴を突っ込まれた。私は育ちが良いので口に物が入っている時は喋らない、それを知って先生は毎回飴を突っ込んでくる。
ちくしょう、私が黙ったのを確認して後輩ちゃんズはさっさと行ってしまったでは無いか。イチゴの味がする飴を口の中でコロコロ転がしながら先生を睨むように見上げる。
「ほら、教室に戻るぞ、離れなさい」
「ンーーーーッッッ!!!!」
「そんな声出しても駄目なものは駄目だ」
こうなったらせめてもの抵抗にしがみついててやる、蝉の如く引っ付いてンー!!!!ンー!!!!吠えていれば先生は眉間を揉みながら溜め息をついていた。流石にちょっと可哀想になったので吠えるのだけやめた。私って優しい。
皆無事に帰って来てくれたらいいなあ、死体になったら死体になったで利用するけど、でも何事も無く帰って来てくれることが一番だ。
まあ、皆強いし大丈夫だよね。
最強を名乗る二人が居るんだし。
…
皆が沖縄から帰って来たと聞いてお出迎えしてあげようと行ったら、五条くんが倒れていた。血の池の中で。
「五条くん……」
私は動かない五条くんを無感動に、無感情に、無関心に見下ろして、無意味と分かっていて声を掛けた後、数秒立ち尽くしてから身を翻して駆け出した。
血溜まりに沈む最強の同級生。
最強の五条くんがやられて…残穢が……ああ、駄目だ、情報が上手く纏まらない、気持ちだけが逸る。
爪先に力を入れて地面を蹴り、身体を前に倒して重心をコントロールする。
足を前に出すことだけを考えるんだ、それ以外は今必要無いこと。感情で生きるな、理屈で生きろ。
風を切り、髪が流れる。
注ぐ日差しが私の冷たい身体と心を熱くさせる。
理論的に、理屈を並べ、理知的であれと望む意思とは裏腹に、心は高揚と苦しみで支配されていく。
興奮で上手く息が出来ない、肺なんてもう無いのに、未だに生物の真似事をしている体が憎たらしい。
重たい手足が嫌いだ、使い物にならない脳が嫌いだ、しかし何よりも…この人生が嫌いだ。
産まれてからずっと抱え続けた嫌悪を超えた絶望の果て、絶念の思いが空っぽの腹の底から唸り声を挙げる。
早く、早く、自由になりたい。
自由になるためには、兄の温度を忘れなければならない、そのために兄を殺さなければ。
兄さんは私の呪いだ。
呪いは、祓われなければならないのだ。
自由になりたい、人である自分を捨てたい、人としての自分を産み出して、そしたらソイツに全部押し付けて、そうして私は粉々になるんだ。
粉々になって、一掬いの輝く砂となる。
そうしてやっと、私は産まれてからずっと苦しかった人生という名の檻から解放される。
産まれて来たくなんて無かった、人に産まれて来たくなんて無かった、こんな身体に産まれて来たくなんて無かった、兄さんの妹になんて産まれて来たくなんて無かった。
でも生きなきゃいけない、だって生きてるんだから。この理由だけで今までずっと生きてきた。
だけど苦しい、ずっと苦しい。
本当は知っていた、どうして五条くんが私に優しいか。
彼は私の朽ちるしか無い身体を理解していたのだ、同情から始まった友情だった。
何故私に見合い話が来ないか知っていた。
当たり前だ、あんな身体じゃ何も産み出せない。全てが手遅れな肉体だった。だから甚壱兄さんは私を見て「コレに産まれてこなくて良かった」と安堵していた。最初から私はあの人達に家族だなんて思われては居なかった。
何故あの家で私が好きに生きられたか知っていた。
どうせ儚い命、せめて死後呪いに転じぬようにと自由を謳歌させていたのだ。
知っていた、全て知っていたとも。
それでも私は苦しんで、苦しみ抜いて、ここまで来た。一人よがりで生きて、誰にも価値無く思われて、何処にも行けずに朽ちていく。
ならせめて、お前達の心に僅かにでも「後悔」として残り住み着いてやりたかった。
兄さんを殺して、自由な人間の私を産み出して、そして私は死ぬ。
通路で倒れている血塗れの女の元に三つ鉱物を投げ捨てて、私は先を目指してひたすらに走る。
運が良ければ蘇生と修復に成功するだろう。
髪型が崩れようと何だろうと構わず走る、スカートが翻るのを無視して足を精一杯動かす。
握り締めたオパールの剣を携えて、私は求め続けた背中を視界に収めた。
引き金を引く前の一瞬、銃の機関部分目掛けて親指の爪程の大きさをした鉱物を投擲した。
こちらに気付いた男が振り返るが、彼は迷わず引き金を引く。
しかし、寸前で届いた鉱物から発される粒子サイズの攻撃によって内部機関に不具合が生まれた、銃弾は発射されずに弾詰まりを起こす。
足を止めず、男目掛けて一直線に走る。
状況に気付いて振り返った夏油くんが戦闘体制を取り、呪霊を出して交戦しようとする。
やめろ、駄目だ、お願い邪魔をしないで、その男を殺すことが私の悲願なんだ、この日のためだけに生きていたのだ。
何も知らない夏油くんが、やって来た私に「理子ちゃんを連れて逃げるんだ!」と叫ぶのに被るように、私は喉が張り裂けんばかりの大声で吠えるように言った。
理性を捨てて、心は感情に支配される。
その男は、私が!!
「夏油くんどいて!お兄ちゃん殺せない!!」
響き渡る興奮した声。
私以外の全員が身をピタリと固めた、状況を無視して私は叫び続ける。
「お兄ちゃんを殺して私も死ぬ!!そのために今日まで生きてきた!」
サラサラの黒髪が揺れて、顔を私の方へと向ける。鋭い黒目に私が写り込んだ、ああ…お兄ちゃん、お兄ちゃんが私を見ている。甚爾お兄ちゃん、兄さん、兄、私の呪い!
私の呪いが私を見ている!!
「お前……」
口を開いて、驚いたような表情で私を見つめる瞳に涙が出そうだった。
眉間が痛い、息が上がる、早くなった呼吸を無視して私は力の限り積年の絶望を叫び散らかす。
貴方があの日、私を選ばなかったから、だからあの瞬間からずっとずっと、私は貴方が恋しくて苦しかった。
「貴方が私を置いて行った結果を見ろ!!」
目の前に居る私は、あの頃貴方が無責任に可愛がっていた姿とは程遠いだろう。
色素の抜け落ちた髪に、腐り落ちた眼球の変わりに嵌め込んだ鉱物の瞳、繋がりを示す流れる血は最早跡形も無く、成長した身体は見知らぬ女の形をしているだろう。
五感の全てが誰よりも強い貴方に悟られぬ私は、生命ですら無い。ただの無機物だ。
「貴方が置いて行ったから、私はこんなになってしまった!」
涙のような、しかし涙とは違う成分の液体が両目から湧き出て流れ落ちる。
「貴方が人としての幸せを求めたから、だから私が変わりに化物になったんだ!兄さん!!」
誰かが息を飲んだ音が耳に入ってきた。
荒い息を吐き出しながら、私は殺すべき相手に剣の先を向ける。
未だ口を半開きにして驚いた顔で固まる男へ向けて殺意と愛を込めて宣言をした。
「兄さんを殺して、兄さんの身体を苗床にして、人間の私を産み出す。そして全てをやり直させるんだ。私はもう、自由になりたい」
貴方はかつて自由を選んだ。
ならば次は私の番だ。
カツンッ、と足元に一つ赤い石が転がり落ちる。
それを中心に呪力が一気にブワリと膨れ上がり、形を成していく。
この日のために産み出した私の子、怪物から生まれた怪物、無敵の化物。
幼き日に読んだ不思議な物語に登場する、瞳を燃やした巨体の魔物。
「ジャバウォック」
人間よりも3倍は大きな身体、頭から突き出た二本のツノ、らんらんと輝くコランダムの瞳に、鋭い鉤爪と強靭な顎。
オパールの剣でのみ打ち倒すことが出来る、おとぎ話の怪物。
兄さんを倒すためだけに完成させた、秘密兵器。
名前を呼ぶ声に答えるように、空間を震わす程の痛みさえ感じる雄叫びを挙げた怪物は兄目掛けて地を鳴らし走り出す。
走り出すために地を蹴っただけで床は割れ、振るった鉤爪は当たらずとも超音速の衝撃波、ソニックムーブを生み出した。
兄の身体が宙を舞う、続くように怪物の巨体が跳ね上がり身動きの取れない空中で叩き潰すように拳を突き出した。
穿つ大地、上がる硝煙、速すぎて捕らえ切れない戦闘が繰り広げられる。
呪具が意味を成さないことを理解した兄が武器を捨て、肉体一つで応戦する。轟く拳と拳がぶつかり合う音に身を竦めそうになる。
雷鳴のような鳴動が骨に響く。
こちらまで感じることの出来る風圧が、一人と一体の圧倒的な強さを物語る。
こんなに、兄は…あの人は強かったのか。
知らなかった、あんな風に戦うなんて、あんな風に唇を吊り上げたような笑い方をするだなんて。私は兄さんのことを…何も知らなかった。
ジャバウォックの猛々しい咆哮が兄の足を立ち止まらせる。
「確かにこりゃ怪物だ」
あんなに、あんなにも鬼神の如き攻撃を喰らっているのに、愉しげに笑う表情に私は一歩足を後ろに下げた。
怖い、あの人が怖い?
……いいえ、怖いのでは無い、これは…もっと深い感情だ、私はこの状況に……密かな喜びを感じている。
私の生んだ怪物が、兄と戦っている。
私が求めて、求め続けて、待ち焦がれた人と対等に、私から生まれた私の一部である怪物が、戦っている状況に戸惑いながらも嬉しさを感じてしまっている。
ゾクゾクと痺れが背中を這って、私は己の身を片手でギュッと抱き締めた。
分かるかこの喜びが。
あんなにも追い求めて来た存在が、私の全てを捨てて生み出した至高の子供に負けないなんて。
やっぱり、兄さんは特別な人間なんだ。
特別だから欲しかったんだ、私の…未来の無い薬物に汚染され切った身体では絶対に到達出来ない域に存在していたから、ずっと羨ましかったんだ。
羨ましくて妬ましくて、美しくて健康で自由な身体を持っているのにまだ自由を求めて、私を選ばず家を捨てた貴方だから、私は貴方を欲し続けて生きて来たのだ。
果てしなく憎い、けれど好きなのだ、この世で一番美しい存在に一番最初に触れられてしまったから、私は貴方に囚われて生きている。
けれど、それも今日でおしまいだ。
私は兄さんを超えて、殺して、自由になる。
「ジャバウォック!!!」
腹に力を込めて、怒号のような叫びを谺す。
「私に、勝利を!!!」
次の瞬間、大絶叫と呼ぶに相応しい雄叫びを挙げたジャバウォックが、鋼と呼ぶに相応しい牙を剥き出し、兄に向かっておぞましい口を開く。
両手の鉤爪をさらに伸ばし硬化させ、身を裂かんと獰猛で強烈な猛威を振るった。
だがしかし、猛然たる攻撃は地を割り、衝撃から一拍遅れて轟音を轟かせる。
避けられた、渾身の一撃を。
ジャバウォックの攻撃をかわした兄は、ギラギラと輝かせた瞳をかっぴらき、吊り上げた口元からは笑い声が迸る。
届かない、あと一歩が!
手から滑り落ちたオパールの剣が、カランカランと音を立てたのを気にせずに私は駆け出した。
負けちゃう、このままでは私のジャバウォックが負けてしまう!
ジャバウォックは私が生み出した鉱物生命体だ、鉱物生命体は例外無く、込められた呪力と命令が尽きれば一欠片の宝石へと戻ってしまう。
嫌だ、負けたらおしまいだ、負けたら殺せない、そしたら……苦しい毎日がずっとずっと続いてしまう。兄に囚われたまま、大嫌いな身体で歩き続けなければいけないの。
もう嫌なんだ、これ以上生きたく無いのだ。
だから全部人間の私に押し付けて、私は砂にでもなってしまいたかったのに。
「ジャバウォック……」
徐々に徐々に、呪力が切れかかって来た無敵の怪物は動きを遅くする。
傷一つ無い身体であるが、動かなければただの美しいオブジェクトだ。
負けるのか、私は。
私の生んだ、私の心の形をした怪物が、負けてしまうのか。
ここまで堪え忍んで来た日々は何だったのだ。
唇が震える、涙が止まらない、駆け出した足は絶望からなる恐怖によってフラフラとした遅い足取りに変わった。
「……ジャバウォック」
名前を呟き巨体へ両手を伸ばす、近寄ってきた私に気付いた兄が攻撃を止めて振り返った気がした。
しかしもう、私の視界に兄の姿は映らない。
呪力が後少しで切れるだろうジャバウォックの燃える赤い瞳が私を見つめる。
………そうだね、求める物が手に入らないのなら。
これ以上絶望が続くだけならば。
分かったよ。
お前にも私にも、苦しみを断ち切るためにはこれしか無い。
諦めた笑みを浮かべながら、私の愛しい怪物に最後の命令を与える。
「ジャバウォック、私を殺して」