二.五グラムの約束
子供達を学校に見送り、自分も研究所へ向かうための準備をしていた朝のことだった。
いつも通りにパールグレイのネクタイを締め、ネクタイピンを刺して、腕時計を身に着けていた時に兄が「おい」と声を掛けて来た。
腕時計を身に着け終えた私は、スケジュール帳を開きながら返事をする。
「なんじゃらほい」
「これやる」
「ありがと………って、これ」
差し出した手の上に無造作に置かれたそれを見て、思わず持っていたスケジュール帳を手から滑り落とした。
ボトッと机に落ちたスケジュール帳の存在を遠くに感じる。
それ程に、左手の上に乗せられた物体に目を奪われた。
なんの変哲も無い、銀の輪。
装飾も宝石も無い、ごく普通の輪。
飾りげの無い、面白みの無い、ただの銀色をした小さな輪。
カーテンから差し込む柔らかな日差しに彩られ、なめらかに艶めくそれは、指輪と呼ばれる装飾品であった。
手のひらに転がるそれを、わけも分からずただひたすらに見下ろし続ける。
情報伝達組織の処理が追い付かない現状に、困惑からはじめ、あらゆる乱雑とした戸惑いの感情に心がザワついていく。
チクタク、チクタク。
静寂に包まれた部屋の中に響く秒針の音が嫌に耳につく。
数十秒、いや数分…沈黙を貫いた私は、震える右手をあげて、ゆっくりと気を付けながら指先で指輪を摘んで持ち上げた。
な、なにこれ……?
指輪だよね、指輪…お洒落な人や結婚してる人が身に着けているやつ。
私も一応自分で買ったのを幾つか持っているが、最近は面倒くさくて着けていない……というのを、お兄ちゃんは勿論知っているはずだが、はて…これは一体…。
なんで?どうして?と悩めば悩むほどに、思考は混迷していく。
買ったのか?お兄ちゃんがこれを?一人で?
いやいやまさか、そんなわけ…あ、誰かに貰っていらないからくれたとか?なるほど、そういうことかもしれない。
ようやく着地点の見えた回答に、一人うんうんと頷く。
「も〜誰に貰ったの?ちゃんと断らなきゃかわいそ、」
「買って来た」
「うそでしょッッ!!?!??!?」
「うるせ…」
買ってきた!??!?!?私の聴覚機能が正しければ、今買ってきたって言った!??!?
ご購入致しましたの!?お兄ちゃんが!??指輪を!?!?
て、天変地異の前触れかな…???明日地球に大きな異変でも起きたりする??今日めちゃめちゃ晴れてるけど、この後嵐になったりする?何なら槍でも降る?
どうしよう…兄の気まぐれが世界滅亡への引き金となってしまったら…。
流石の私でも世界規模相手には何も…いや駄目だ諦めるな、愛しい兄のために最後まで尽くし、戦い抜くことこそが我が人生の誉れ。
世界各地に隠して設置した鉱物爆弾を一斉起動させる日もいよいよ近いということか…。
皆、ごめんね……私は兄さんのために戦わなくちゃならないから、一般人のために呪いを祓い続けてる皆とは敵対してしまうことになるかもしれないけど…今日までの日々が楽しい物だったこと、絶対に忘れないからね…………でも、灰原くんだけは私に味方してね、君を餌に七海くんも釣るからね……あと夏油くんは絶対に脅威になるので、治療中に脳に仕込んだ強制停止機能を発動させて君は最初に無力化します。
対戦よろしくお願いします。
流れそうになった涙をグッと堪え、覚悟を決める。
「お兄ちゃん…私は絶対何があってもお兄ちゃんの味方だからね」
「お前今の一瞬で何考えた?」
「世界平和よりもお兄ちゃんが大事だよ」
「絶好調だな」
そうと決まれば対五条くん対策を練らなければ。
目下、最大の脅威であるからな…お兄ちゃんでさえ前に殴られてたし、やはりここは一発、所長の威厳ってやつでぶちかますしかあるまい。
これはもう新たに戦闘用鉱物生命体を生み出すしかないのでは?
…ハッ!そうか分かったぞ。
この指輪は鉱物生命体の材料にしろという、そういうことなのでは!?
あ、いや待って、でもそれにしては小さ過ぎるし…これそもそも金属成分の割合はどれくらいだ?
銀が92%で…残りは銅かな?うーむ…ますます平凡過ぎて材料には出来ない気が…。
「これは…どうやって使ったら……」
「は?指に嵌めればいいだろ」
「そしたら指輪になっちゃうでしょ!」
「指輪だろこれ」
「それは知ってるよ!そうじゃなくて、そうじゃなくって〜!」
そうじゃないんだって〜!!!
指輪かもしれないけど、ただの指輪じゃないじゃん!!
だって、お兄ちゃんが買って来てくれたんでしょう?理由は知らないけど、何か思うところがあって、私のために買ってきてくれたんでしょ?
お兄ちゃんがくれた、私のために買ってくれた。
身に余る程の喜びが身体中に満ちている。
宝物なんてありふれた言葉では表現出来ない、流氷のように鋭く光る銀の輪を傷付けないようにそっと握り締めた。
こんなにも、こんなにも小さくて何の変哲もない、研究への利用価値も無い、ただの輪っかを愛しく思える自分に笑ってしまう。
夏油くんや灰原くんが、私にとってあまり価値の見出せない石ころを「需要がある」と言っていたのを思い出す。
あの時は理解出来なかったが、今ならば分かる気がした。
ただの石ころも、ベタな銀の輪も、状況によっては価値を変える。
身を持って知ってしまった現象に、私はどうしようもなくなっていく。
指に嵌めていたら傷が付いてしまう。
渡されたままの状態を保ったまま持ち歩きたい。
チェーンを通して首から下げるのも無しだ、チェーンで擦れてしまうかも…。
余ってるお守り袋?駄目だ、大量生産したお守り袋に入れるような価値の物では無いのだ、それをするのは兄と兄への愛に対する冒涜とも言えよう。
ではどうするか……私の答えは、これだ!!!
パクッ
「は?おい、」
ゴックン
右手の指先で摘んだ銀の輪を口の中に放り込み、音を立てて飲み込む。
体内実験を可能にするため、殆ど空洞となっている身体の内側へコロリと転がっていったそれを、大切に大切に、一切の傷も衝撃も受け付けないように、一瞬で鉱物で包み込んだ。
「ごちそうさまでした!!」
「お前……」
「これでよし!」
「良くねぇだろ…」
心臓付近で形成し、固着させたのは紅くザラつく優れた硬度と屈折率を持つ、旧約聖書においては「ノアの方舟」の灯火だったとも言われる歴史と物語に溢れた鉱物。ガーネット、パイロープ。
名前の由来である、ギリシャ語で炎を意味するパイオープの名を関する通り、赤褐色の炎のような輝きを持つこの石の中に、兄から貰った指輪を永遠に閉じ込めた。
今日からこの左胸に灯る火を、永遠の愛の印としよう。
そうだ、呪いなんて解けなくていい。
この愛の印さえあれば、私は今日という日と、そして今日までの日々にあった兄への愛の物語を忘れずにいられる。
胸の上に手を置き、鼓動の無い身体の奥から感じる愛に浸る。
貴方の妹に産まれてこれて良かったと、今ならば心から言える気がした。
「いや、何勝手に人がやったもん飲み込んで何満足そうにしてるんだよ」
「へ?」
とかなんとか満ち足りた心で浸っていたら、何となく不満気な顔をした兄がこちらに手を伸ばしてきた。
「ガキじゃねぇんだから手に持ったもん食うなよ」
「ちょ、まってまって!」
グニィッ!
遠慮無く両頬を摘んで伸ばされ、縦に横にミョンミョンミョンミョン揺らされる。
「いひゃい!いひゃいいひゃい!!」
「あれ幾らしたと思ってんだ」
「ゆうひてぇーーー!!!」
「喜んでんじゃねぇよ」
喜んでないよ!!!どう見たって痛がってるでしょ!!!目ン玉節穴か!伏黒の節穴…いやなんでもないです。
ジタバタモガモガ。
身体を揺らして対抗すれば、パッといきなり手を離されてバランスを崩す。
後ろにひっくり返りそうになった所を片手で受け止められて、体制を直されたと思えば、大きな溜息を尽かれながら覆い被さるように抱き締められた。
嬉しいけど、重い。
ちょ、こっちに体重寄せてこないで!
割れる割れる、腰が割れる!!ミシミシいってる!!
「お前…」
「なに!?重いんだけど!割れる!!」
「俺が死んでも後追ったりするなよ」
「今それ言う!?」
後を追う前に私が先に砕けそうなんだよなあ!!
クソ、今後の課題は腰部分の強化に決定だよ!そういえば最近も五条くんに腰を割られそうになったな!!
「おい、返事」
「分かったよ、分かったってば!!」
「あと俺が死んだ後に他の奴に執着して面倒掛けるのもやめろ」
「分かったから退いてよー!!折れちゃうよー!!」
藻掻きに藻掻いてやっとのこと解放された頃には、ネクタイはぐちゃぐちゃで、髪もボサボサ、オマケにゼェゼェ息を切らしながら時計を見れば遅刻確定な時間だった。
言い訳と謝罪を瞬時に頭の中で複数考えながら呼吸を整える。
ああもう、なんて今更なことをしているのだろうか私達兄妹は。
私が好きなのはお兄ちゃんだけだよ、執着も粘着も愛着も、憎悪も嘆きも苦しみも、進化も諦めも絶望も、愛も恋も何もかも。
私の始まりは貴方であり、終わるその時もきっと貴方のことを思うだろう。
人生の一番輝ける瞬間に貴方を好きでいられて良かったと、眠りにつく瞬間そう思うだろう。
結局は、私が生きる苦しみから解放されることは無い。
愛別離苦、愛する者との死別を決定付けられ。
怨憎会苦、消えぬ憎悪と嫉妬を抱く者達とこれからも付き合い続ける。
求不得苦、真に求める物は一生手に入らないだろう。
五蘊盛苦、そして、思うがままにならぬ苦しみからは逃れられない。
それでも生きているのだから生きねばならない。
死ぬことは怖くなんてないし、生を勿体無いとも思わないが、生きろと兄に願われているのならばその願いを果たさなければならない。
何故って、それはとても簡単な答えだ。
私は天才だから。
天才は苦しむ生き物だから。
より過酷で孤独な道を自ら選び、突き進むことこそが、天才が天才たる所以なのだよ。
天才なんだから兄の願いの一つや二つ、後輩の祈りの一つや二つ、友人の頼みの一つや二つ…叶えてやれるに決まっている。
砕けて果てるその日まで、私は悩み、苦しみ、しかして小さな希望の炎を左胸に灯して生き続ける。
死んで誰かの糧になるよりも、貴方の私でありたいから。
これは私の人生であり、兄のための一生でもある。
私が選んだ、呪いと愛で輝く、宝石よりも美しい生き方だ。
完
いつも通りにパールグレイのネクタイを締め、ネクタイピンを刺して、腕時計を身に着けていた時に兄が「おい」と声を掛けて来た。
腕時計を身に着け終えた私は、スケジュール帳を開きながら返事をする。
「なんじゃらほい」
「これやる」
「ありがと………って、これ」
差し出した手の上に無造作に置かれたそれを見て、思わず持っていたスケジュール帳を手から滑り落とした。
ボトッと机に落ちたスケジュール帳の存在を遠くに感じる。
それ程に、左手の上に乗せられた物体に目を奪われた。
なんの変哲も無い、銀の輪。
装飾も宝石も無い、ごく普通の輪。
飾りげの無い、面白みの無い、ただの銀色をした小さな輪。
カーテンから差し込む柔らかな日差しに彩られ、なめらかに艶めくそれは、指輪と呼ばれる装飾品であった。
手のひらに転がるそれを、わけも分からずただひたすらに見下ろし続ける。
情報伝達組織の処理が追い付かない現状に、困惑からはじめ、あらゆる乱雑とした戸惑いの感情に心がザワついていく。
チクタク、チクタク。
静寂に包まれた部屋の中に響く秒針の音が嫌に耳につく。
数十秒、いや数分…沈黙を貫いた私は、震える右手をあげて、ゆっくりと気を付けながら指先で指輪を摘んで持ち上げた。
な、なにこれ……?
指輪だよね、指輪…お洒落な人や結婚してる人が身に着けているやつ。
私も一応自分で買ったのを幾つか持っているが、最近は面倒くさくて着けていない……というのを、お兄ちゃんは勿論知っているはずだが、はて…これは一体…。
なんで?どうして?と悩めば悩むほどに、思考は混迷していく。
買ったのか?お兄ちゃんがこれを?一人で?
いやいやまさか、そんなわけ…あ、誰かに貰っていらないからくれたとか?なるほど、そういうことかもしれない。
ようやく着地点の見えた回答に、一人うんうんと頷く。
「も〜誰に貰ったの?ちゃんと断らなきゃかわいそ、」
「買って来た」
「うそでしょッッ!!?!??!?」
「うるせ…」
買ってきた!??!?!?私の聴覚機能が正しければ、今買ってきたって言った!??!?
ご購入致しましたの!?お兄ちゃんが!??指輪を!?!?
て、天変地異の前触れかな…???明日地球に大きな異変でも起きたりする??今日めちゃめちゃ晴れてるけど、この後嵐になったりする?何なら槍でも降る?
どうしよう…兄の気まぐれが世界滅亡への引き金となってしまったら…。
流石の私でも世界規模相手には何も…いや駄目だ諦めるな、愛しい兄のために最後まで尽くし、戦い抜くことこそが我が人生の誉れ。
世界各地に隠して設置した鉱物爆弾を一斉起動させる日もいよいよ近いということか…。
皆、ごめんね……私は兄さんのために戦わなくちゃならないから、一般人のために呪いを祓い続けてる皆とは敵対してしまうことになるかもしれないけど…今日までの日々が楽しい物だったこと、絶対に忘れないからね…………でも、灰原くんだけは私に味方してね、君を餌に七海くんも釣るからね……あと夏油くんは絶対に脅威になるので、治療中に脳に仕込んだ強制停止機能を発動させて君は最初に無力化します。
対戦よろしくお願いします。
流れそうになった涙をグッと堪え、覚悟を決める。
「お兄ちゃん…私は絶対何があってもお兄ちゃんの味方だからね」
「お前今の一瞬で何考えた?」
「世界平和よりもお兄ちゃんが大事だよ」
「絶好調だな」
そうと決まれば対五条くん対策を練らなければ。
目下、最大の脅威であるからな…お兄ちゃんでさえ前に殴られてたし、やはりここは一発、所長の威厳ってやつでぶちかますしかあるまい。
これはもう新たに戦闘用鉱物生命体を生み出すしかないのでは?
…ハッ!そうか分かったぞ。
この指輪は鉱物生命体の材料にしろという、そういうことなのでは!?
あ、いや待って、でもそれにしては小さ過ぎるし…これそもそも金属成分の割合はどれくらいだ?
銀が92%で…残りは銅かな?うーむ…ますます平凡過ぎて材料には出来ない気が…。
「これは…どうやって使ったら……」
「は?指に嵌めればいいだろ」
「そしたら指輪になっちゃうでしょ!」
「指輪だろこれ」
「それは知ってるよ!そうじゃなくて、そうじゃなくって〜!」
そうじゃないんだって〜!!!
指輪かもしれないけど、ただの指輪じゃないじゃん!!
だって、お兄ちゃんが買って来てくれたんでしょう?理由は知らないけど、何か思うところがあって、私のために買ってきてくれたんでしょ?
お兄ちゃんがくれた、私のために買ってくれた。
身に余る程の喜びが身体中に満ちている。
宝物なんてありふれた言葉では表現出来ない、流氷のように鋭く光る銀の輪を傷付けないようにそっと握り締めた。
こんなにも、こんなにも小さくて何の変哲もない、研究への利用価値も無い、ただの輪っかを愛しく思える自分に笑ってしまう。
夏油くんや灰原くんが、私にとってあまり価値の見出せない石ころを「需要がある」と言っていたのを思い出す。
あの時は理解出来なかったが、今ならば分かる気がした。
ただの石ころも、ベタな銀の輪も、状況によっては価値を変える。
身を持って知ってしまった現象に、私はどうしようもなくなっていく。
指に嵌めていたら傷が付いてしまう。
渡されたままの状態を保ったまま持ち歩きたい。
チェーンを通して首から下げるのも無しだ、チェーンで擦れてしまうかも…。
余ってるお守り袋?駄目だ、大量生産したお守り袋に入れるような価値の物では無いのだ、それをするのは兄と兄への愛に対する冒涜とも言えよう。
ではどうするか……私の答えは、これだ!!!
パクッ
「は?おい、」
ゴックン
右手の指先で摘んだ銀の輪を口の中に放り込み、音を立てて飲み込む。
体内実験を可能にするため、殆ど空洞となっている身体の内側へコロリと転がっていったそれを、大切に大切に、一切の傷も衝撃も受け付けないように、一瞬で鉱物で包み込んだ。
「ごちそうさまでした!!」
「お前……」
「これでよし!」
「良くねぇだろ…」
心臓付近で形成し、固着させたのは紅くザラつく優れた硬度と屈折率を持つ、旧約聖書においては「ノアの方舟」の灯火だったとも言われる歴史と物語に溢れた鉱物。ガーネット、パイロープ。
名前の由来である、ギリシャ語で炎を意味するパイオープの名を関する通り、赤褐色の炎のような輝きを持つこの石の中に、兄から貰った指輪を永遠に閉じ込めた。
今日からこの左胸に灯る火を、永遠の愛の印としよう。
そうだ、呪いなんて解けなくていい。
この愛の印さえあれば、私は今日という日と、そして今日までの日々にあった兄への愛の物語を忘れずにいられる。
胸の上に手を置き、鼓動の無い身体の奥から感じる愛に浸る。
貴方の妹に産まれてこれて良かったと、今ならば心から言える気がした。
「いや、何勝手に人がやったもん飲み込んで何満足そうにしてるんだよ」
「へ?」
とかなんとか満ち足りた心で浸っていたら、何となく不満気な顔をした兄がこちらに手を伸ばしてきた。
「ガキじゃねぇんだから手に持ったもん食うなよ」
「ちょ、まってまって!」
グニィッ!
遠慮無く両頬を摘んで伸ばされ、縦に横にミョンミョンミョンミョン揺らされる。
「いひゃい!いひゃいいひゃい!!」
「あれ幾らしたと思ってんだ」
「ゆうひてぇーーー!!!」
「喜んでんじゃねぇよ」
喜んでないよ!!!どう見たって痛がってるでしょ!!!目ン玉節穴か!伏黒の節穴…いやなんでもないです。
ジタバタモガモガ。
身体を揺らして対抗すれば、パッといきなり手を離されてバランスを崩す。
後ろにひっくり返りそうになった所を片手で受け止められて、体制を直されたと思えば、大きな溜息を尽かれながら覆い被さるように抱き締められた。
嬉しいけど、重い。
ちょ、こっちに体重寄せてこないで!
割れる割れる、腰が割れる!!ミシミシいってる!!
「お前…」
「なに!?重いんだけど!割れる!!」
「俺が死んでも後追ったりするなよ」
「今それ言う!?」
後を追う前に私が先に砕けそうなんだよなあ!!
クソ、今後の課題は腰部分の強化に決定だよ!そういえば最近も五条くんに腰を割られそうになったな!!
「おい、返事」
「分かったよ、分かったってば!!」
「あと俺が死んだ後に他の奴に執着して面倒掛けるのもやめろ」
「分かったから退いてよー!!折れちゃうよー!!」
藻掻きに藻掻いてやっとのこと解放された頃には、ネクタイはぐちゃぐちゃで、髪もボサボサ、オマケにゼェゼェ息を切らしながら時計を見れば遅刻確定な時間だった。
言い訳と謝罪を瞬時に頭の中で複数考えながら呼吸を整える。
ああもう、なんて今更なことをしているのだろうか私達兄妹は。
私が好きなのはお兄ちゃんだけだよ、執着も粘着も愛着も、憎悪も嘆きも苦しみも、進化も諦めも絶望も、愛も恋も何もかも。
私の始まりは貴方であり、終わるその時もきっと貴方のことを思うだろう。
人生の一番輝ける瞬間に貴方を好きでいられて良かったと、眠りにつく瞬間そう思うだろう。
結局は、私が生きる苦しみから解放されることは無い。
愛別離苦、愛する者との死別を決定付けられ。
怨憎会苦、消えぬ憎悪と嫉妬を抱く者達とこれからも付き合い続ける。
求不得苦、真に求める物は一生手に入らないだろう。
五蘊盛苦、そして、思うがままにならぬ苦しみからは逃れられない。
それでも生きているのだから生きねばならない。
死ぬことは怖くなんてないし、生を勿体無いとも思わないが、生きろと兄に願われているのならばその願いを果たさなければならない。
何故って、それはとても簡単な答えだ。
私は天才だから。
天才は苦しむ生き物だから。
より過酷で孤独な道を自ら選び、突き進むことこそが、天才が天才たる所以なのだよ。
天才なんだから兄の願いの一つや二つ、後輩の祈りの一つや二つ、友人の頼みの一つや二つ…叶えてやれるに決まっている。
砕けて果てるその日まで、私は悩み、苦しみ、しかして小さな希望の炎を左胸に灯して生き続ける。
死んで誰かの糧になるよりも、貴方の私でありたいから。
これは私の人生であり、兄のための一生でもある。
私が選んだ、呪いと愛で輝く、宝石よりも美しい生き方だ。
完