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二.五グラムの約束

糊のきいた白いYシャツに腕を通し、銀色のネクタイをキュッと締める。
持っている中から一番綺麗な白衣を選んで羽織り、姿見の前でくまなく全身チェックを行った。

髪型良し、服装良し、昨日磨いた靴はピカピカだ。

とうとう待ちに待った日がやって来た、昨日…いや、この一週間はソワソワし過ぎて業務が一部滞る時もあったくらいだった。
それほどに、私は前々から今日という日を待っていたのだ。

夏油くんが目覚め、兄の封印が解けてしまってから早数ヶ月。
兼ねてから予定していた研究施設が高専敷地内に出来上がったのである。
今までは既存の施設内の部屋を数か所借りていたのだが、ついに建物が建ってしまった。
といっても、そこまで大きい物でもなく、あくまで私の研究に関わること以外の研究は今まで通り他でやるのだが。

だがしかし、大きな一歩に他ならない。

ここまで来るのは長い道のりだった。
従弟の直哉くんは京都に戻って来て京都で研究しろとうるさいし、研究資金は全然貯まらないし、五条くんは日に日に外面が変わっていくし、夏油くんは非術師と関わりたくないから私の研究施設で働くとか言い出すし、お兄ちゃんは相変わらず競馬で金を溶かすし…。

もうね、灰原くんですよ。
やっぱり持つべきものは可愛くて頼れて元気な妻なんですよ。
灰原くんしか勝たない、彼が優勝、ナンバーワン。

多分、灰原くんが居なかったらここまでやってこれなかったと思う。
七海くんは早々にこの業界に見切りを付けて去って行ってしまったが、未だに頼れば何かと子育て関係などで助けてくれるし。
同級生と生まれには恵まれなかったけど、後輩には本当に恵まれたものだ。
ありがとう私の可愛い後輩達よ…。


だが、私を支えてくれた存在は他にもある。


ガチャリと自室の扉を開け、リビングへと行けば一人の少年が私を待っていた。

「準備は出来たかね、恵くん」
「…ん」
「あの…本当ごめんね、学校休ませて…」
「仕方無いだろ、博士のせいじゃない」
「うん、まだ博士じゃないけどね」

引き取って育てている…訂正、一緒に暮らしている子供達のうちの一人、恵くん。
彼は兄の実子で、兄が育児放棄をしてしまったため、現在私が養育費全般を出している。
お察しの通り、私は親には絶対なれないタイプの人間性を持った謎生命体なので、養育費を出し、住む場所を与える以外に子供達に出来ていることは全くと言って良い程無い。
ミミちゃんもナナちゃんも、つみきちゃんも恵くんも、皆健やかに生きている。私の世話を焼いてくれながら…。

いや本当に申し訳無いことに、私は私が引き取った子供に世話を焼かれっぱなしなのだ。
今日だって朝起こしてくれたのはミミちゃんナナちゃんで、朝ご飯はつみきちゃんが七海くんから習ったというオムレツを振る舞ってくれて…。
一応弁解しておくと、私もあれこれやろうとはするのだが、尽く「休んでて」「座ってて」「この前キッチン燃やしたでしょ」「飴舐めてて」等と言われるのだ。

一度、頼り無いかどうか聞いた時がある。
その時に「家事だけは頼れない」とキッパリ言われてしまったため、私は顔を覆うことしか出来なかった。
お兄ちゃんにとやかく言えないじゃんね…。

ということで、私は子供達にも沢山支えて貰っていた。
前々から様子を頻繁に見に来てくれていた灰原くんは勿論のこと、最近は非術師に慣れるリハビリがてら夏油くんもたまに家に来て色々やってくれている。
ちなみにお兄ちゃんも一緒に住んではいるが、大概何もしない。

「って、あれ?お兄ちゃんは?」
「まだ寝てる」
「叩き起こさねば…」

そのまま置いてけと言う恵くんを宥めて、兄が寝ているであろう私の書斎の扉を開く。
案の定、こんもりと膨らむ布団は規則正しく上下していた。

チラリと布団を捲り中を覗けば、口を半開きにして熟睡している兄の姿がある。

別に他の日なら寝てて貰っても構わないが、今日は起きてくれないと困る。
というか、自分で言ったんじゃん、今日は一緒に行くって。
力を込めてガシガシと身体を強く揺すり、大きな声で呼び掛ける。

「お兄ちゃんー!!朝だよ、アサアサアサ!!!あさーーー!!起きてよー!!」
「……クカー」
「お披露目会一緒に来てくれるってゆったじゃん!!ねえ!!!ねえーー!!」
「…スピー」

だ、駄目だ…全然起きやがらない!
まるで眠り姫のように健やかに眠ってらっしゃる、キスしたら起きないかな?キスか…嫌だな、寝起きの口にするのは…。

さて、どうやって起こすか…電気ショックでも与えるかと考えていると、背後から恵くんの「玉犬」という声がした。

私の身を飛び越え、恵くんの影から生み出された二体のデカい白と黒の毛玉が兄の上にボスッと勢い良く降り掛かる。
毛玉…もとい、ワンちゃんは兄を踏みつけながら私の身体に顔を伸ばし、ご挨拶するようにスピスピと鼻を鳴らした。

ワンちゃん可愛いな〜!だいすき〜!!
二匹まとめて腕を広げて抱き締める。
ふわふわだ、こりゃたまらん、可愛すぎる。
ワンちゃん二匹の下からは「おい……クソガキ…」と、起きたばかり特有の掠れた低い声がしていたが、私は気にせず玉犬のモフモフに夢中になっていた。

毛の生えていない生き物も好きだが、毛の生えている生き物特有のこのモフモフ加減、たまらない…玉犬欲しい、恵くん欲しい、可愛い、好きすぎる。

「モフモフ…ここに住みたい…」
「おい、犬退かせ」
「あ、お兄ちゃんおはよ〜」
「…おう」

まだ眠いのか、目をシパシパと瞬かせている兄の上から玉犬を下ろし、恵くんの元へと返す。
ついでに私も恵くんの元へと行き、しゃがんでムギュッと抱き締めた。

「よくやった恵くん、褒めて遣わす」
「別に…これくらい……」

ふいっと顔を背けるが、抵抗はしない恵くんの様子にほっこりする。これは照れてますね、可愛いですねぇ…絶対禪院にはやれないな…。私んのじゃい。

そんな我々の仲睦まじきハートフルな姿を、お兄ちゃんはつまらなそうに眺めながら欠伸をする。

「腹減った」
「とりあえず顔洗って来てよ」
「ん」

のっそりと立ち上がり、腹をボリボリと掻きながら洗面所に消えていく兄を見送る。

さて、そろそろ本格的に時間が無いぞ!
公共交通機関を使おうと思っていたが、この時点でそれは無しとなった。乗り継いでたら遅れるに決まっている。
あまり交通目的で術式を使うのは良く無いが…うむ、今日は仕方無い。伊地知くんごめんよ、後で報告書ならぬ反省文はちゃんと提出するから、今日ばかりは許してくれ。

お兄ちゃんにはさっさと着替えて貰い、移動中に用意しておいたおにぎりと水分を取って貰うとしよう。

というようなことを考えながら恵くんを抱っこして書斎を後にする。
恵くんあったかい、可愛い、「自分で歩ける」という抗議に「可愛いからいいの!」と言い返した。

「理由になってねぇ」
「可愛いに理由はいらないんだよ」
「はぁ……」

ため息つかれちゃった。
でも個人的に、可愛いってのは無敵に等しいと思うんですよね。だって可愛いと何でも許せちゃうじゃん。
可愛いは正義…とはよく言ったものだ、真理を付いている。

「つまり恵くんは正義であり真理…」
「玉犬は?」
「勿論可愛い、しかし恵くんの方がさらに可愛い」
「……………」

私の可愛い自慢の甥ですとも。

ボスッと肩に恵くんのオデコがぶつかり、顔を伏せられる。
ありゃま、ご機嫌を損ねてしまっただろうか。
男の子ってやっぱり可愛いって言われるの嬉しくないのかな?でも灰原くんは何回可愛いって言っても「え〜?そうですか?ありがとうございます!」って喜んでくれるんだけどな…。
むしろ最近は私が可愛い可愛い言い過ぎたせいか、別の物に「可愛い〜」って言うと離れた場所で作業している灰原くんが自分のことだと勘違いして、「ありがとうございます!」って言うようになっちゃったくらいには喜んでる。
そう、お前は可愛い…よく分かっているじゃないか、いいぞもっと自覚していけ。


顔を洗って着替えを終えた兄に、朝御飯のおにぎりを押し付け、早く早くと急かしながら家を出る。

エレベーターで地上へ下りるのではなく、最上階のさらに上、共用の屋上へと行けば、柔らかな風と眩しい日の光が私達を出迎えた。
ポケットに入れたケースから紅く照り輝く鉱物を一つ取り出す。
空へ向けて放り投げれば、一瞬、閃光のように強く煌めいて、次いでドシンッと音を立てて"ソレ"は着地した。

爛々と輝く真っ赤なコランダムの瞳に、頭から突き出した鬼のような二本のツノ、鋭い鉤爪がぬらりと光り、巨大な体躯が尾を揺らしながらこちらを振り返る。

おとぎ話の中の無敵の怪物、私の心の形をした化け物。
強く、美しく、大きな大きな私のお友達。
ジャバウォック2号。

今日は彼の背に乗り、飛んで行く。

「記念日だから許してもらえるはず!」
「いや、絶対怒られるだろ」
「大丈夫!お兄ちゃんが寝坊したって言えば、怒られるのは私だけじゃなくなる!」
「なんも大丈夫じゃねぇ」

とにかく行くから、もう本当に時間無いから!
恵くんをしっかり抱っこしてジャバウォックの背に跨がれば、お兄ちゃんが後ろから抱き締めるように身体を固定してくれた。

うれし〜!!全部嬉しい!今日は最高の一日になりそうだ!

私が笑みを浮かべれば、ジャバウォックも牙を剥き出しにしてニタリと口を開いた。
さあ、高専に向かって出発だ。

私による、私のための一日の始まりだ!
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