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六千カラットの揺籠

壊れたものは、壊れたままだった。

むしろ、最後に記憶にあるよりも余程イビツに可笑しくなってしまっているのではないだろうか。
目の前に居る、数年の時を経て尚、未だ少女の形をした狂気はまるで普通の人間のようにも見えるのに、何処かが絶対におかしいと意識の底から訴える危険信号を感じ取らずにはいられなかった。

白いタートルネックの上からカーディガンを羽織り、カルテを片手にニコニコと微笑む彼女は、自分の薄い腹を優しく撫でながら言う。


「ここにお兄ちゃんがいるの」


ゆるり、ゆるり。

薄く、何も宿ることは無いとされる腹をやさしく、やさしく、撫でる姿から言い知れぬ不安と恐れを感じてしまう。
愛しいと語るその目に光は無く、うっすらと笑う笑顔の向こうにある暗く、醜く、おぞましいものから目を逸らすように視線を悟の方へとやる。
彼はまるで「いつものこと」だと言わんばかりに彼女の様子を受け入れ、静かに小さな頭を見下ろしていた。

「やっとお兄ちゃんを呪えたの、これでずっと一緒」

そう言う彼女に私は一体何と言うのが正解なのか、そのまま部屋の中には重たい沈黙が蔓延り、私は視線を動かすことも出来ずに身を強張らせていた。

だが、そんな緊張感が走る空間を全く気にしない明るい声が突如、扉をガラリッと勢いよく開いて人が一人部屋へと入って来る。

「先輩、大変です!!」

元気の良い声と共に病室へ飛び込んで来たのは、私を慕っていた後輩である灰原であった。
灰原はやや息を切らしながら、慌てた様子を見せる。
それに対して、仄暗い表情を仕舞い「おや灰原くん、どうしたんだい」と彼女は尋ねる。

「掃除用に試験運用中の巨大ミルワーム型鉱物生命体、アブソレムくん3号が暴走して…!」
「暴走!?」
「伊地知を丸飲みにしました!!」
「な、なにぃー!!?」

ガタンッ

座っている椅子をはね飛ばしながら立ち上がり、「救助に向かうぞ、着いてきたまえ!」と病室から慌ただしく走り去って行った彼女と灰原に、私はどう反応するのが正解だったのだろいか。
話の流れに着いて行けず、ポカンと口を開いて中途半端に閉まった病室の扉を眺める。

ちなみに悟は腹を抱えて笑っている、「伊地知、ホコリと間違えられて吸いとられたのww」と言っている。
頼むからこれ以上私を置き去りにしないでくれ。

「悟……あの子は大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫、そのうちどうにかなるから」
「…そもそもどうして、あんなことに………」
「え~~?その話する?」

嫌、というよりは、面倒そうに口を開いた悟は語り出す。
私の知らない、笑い話にするにはあまりにイカれた数年間の出来事を。




___






甚壱は一人、冷静だった。
何故なら彼は自分の妹がどういう生き物なのかを誰よりも良く理解していたので、妹が死んだと聞かされた時に一番最初に思い至った事は「絶対死んでいない」という感想だ、それはある種の信頼であった。

あれがそんな簡単に死ぬわけが無い、何ならこの星の終わりまで見届ける気すらありそうな奴だ。

だから、従兄弟で何かにつけて妹に絡んでいた直哉がショックを受けているのを見て怪訝に思ったし、周りの人間がホッとしたように安堵している様子に安心するのはまだ早いと言いたかった。


なので、甚壱だけは現在の状況に何の疑問も抱かずに居た。
現在の状況というのはそう、死んだはずの妹が男を連れて家に戻って来て、挨拶も説明も何も無くいきなり広間に向かったと思ったら「ここを研究室とする!!!」と宣言して立て籠ったことだ。
そして研究室となって閉めきられた襖の外で、五条家の傑作、五条悟が焦りながら「傑を魔改造するのだけはやめろよ!!フリじゃねえから、マジでやめろよな!!!」と叫ぶこの状況にも、甚壱は「あの妹だからな」という感想を持ってして全て受け入れていた。

騒ぎを聞き付け、どやどやと次から次に人がやって来る。中には扇や直哉なんかも居て甚壱は早々に状況説明を求められたが、現実を受け入れているだけで状況は何一つ分からなかったため口を接ぐんだ。

「なんなんや、ホンマ!」
「傑が死にそうなんだよ、邪魔すんな!」

ギャアギャア喚き合う青年達、状況に戸惑う声、不安を顕にする女達、そんな声を一喝するかのようにスパンッ!と勢い良く内側から襖が開くと、中からは黒い上下に身を包んだ、死ぬ前と何一つ形の
変わらぬ妹が珍しくも真面目な顔をして声を荒げた。

「人が死にそうなんだから静かにして!!」
「傑は!?」
「これからだよ、輸血を続けてショック死を防ぎながら血圧を安定させてかなきゃ」
「俺に出来ることは?」
「私の部屋に紫色した鉱物が棚に保管されてるから、それ取って来てくれる?緊急生命維持装置なんだよね」

あと机のとこにあるトランクケース型の医療バッグも持って来て、じゃね!!

バタンッ。

言うだけ言って襖を閉めきった妹は、珍しく真面目に人助けをしているらしく、甚壱はなんとなく成長を感じていたが、そもそもその死にそうになっている相手が妹によってそんな状態になっている事実は全く知らなかった。

言われた通りに五条は少女の自室を目指そうとしたが、場所が分からなかったのか未だキャンキャン騒ぎ続ける直哉に尋ねている。
甚壱はそんな様子を見て、一人その場から静かに立ち去った。


やはり自分が思った通りに妹は生きていた。
寸分違わぬ姿で戻って来たことに対する喜びや安堵といった感情は無かったが、予定調和とも言える予想通りの結果に、不思議と騒ぐ奴らに対して優越感を感じた。

妹は他人の手が届かぬ領域に存在する天才的頭脳と引き換えに、人間性の全てを失ったような奴ではあるが、甚壱にとってはそんな誰にも理解出来ない生き物な妹が心の何処かでほんの少しだけ自慢であった。
本当に少しだけ、小指の爪の先ほどの思いだ。

だから甚壱は妹のことを面倒で鬱陶しく思いながらも突き放せないでいたし、先んじて彼女の部屋の扉に打ち付けられたベニヤ板を剥がしに向かっていたのだった。
どうせあと数十分後には応急処置を終えて次の治療行為を始めるだろう、そうなればきっと屋敷中に響き渡る声で自分を呼ぶに違いない、そしてあれこれと厄介な仕事を甘えながら頼んでくる。

甚壱は打ち付けられたベニヤ板を剥がすと、部屋の鍵を開け妹の部屋へと入った。雑多に様々な実験用具やコレクションが並ぶ部屋の明かりを灯し、部屋の一番奥に存在する、ドーム型のケースが付いたベッドのような物のホコリを軽く払ってやることにした。
このドーム型のベッドは、産まれた時の肉体で活動していた妹が使っていた、再生医療用ポッドである。
この医療用ポッドで彼女は自分で自分の腐りかけた身体を定期的にフルメンテナンスすることで延命を計っていた時期があったのだ。
甚壱はそれをよくよく知っていたため、この後必要になるかもしれないと、そしてその時に自分がアテにされると分かっていたため部屋まで来たのであった。

操作方法なら知っていた、何故なら何度も使ったことがあるからだ。

背後では「部屋汚ねえ!医療バッグってどれだ!?」と叫ぶ声が聞こえたが、それを無視して甚壱は自分がすべき事を終わらせるとさっさと部屋から出て行った。


妹のことは好きでは無い。
愛しいと思ったことも、可愛いと思ったこともあまり無い。
甘えられて甘やかすのも、世話を焼くのも、当主からそうしろと命じられているからで、好きこのんでやっているわけでは無い。
だが………


「お兄ちゃーん」


幼い時、ボロボロに傷付いた身体と痛み切った精神で、何かを求めて一心不乱に自分を追い込み続ける彼女が唯一、視線を合わせて微笑む相手が自分であったことを知っている。

義務的に「大丈夫か」と問えば、「こんなの大丈夫だよ」と、フラフラの足取りで今にも倒れそうな状態でそんなことを言う。

「こんなの」じゃないだろう。
お前はいつもボロボロで、俺が毎回どんな気持ちでお前をあの再生用ポッドまで運んで行っていたのかなど知らないのだ。


甚壱は別に妹のことが好きなわけでは無い。
ただ、いつだって気には掛けていた、昔も今もこれからも。例え、彼女が人を辞めても、この先何があっても、もう一人の兄のように妹のことを無責任に投げ出すようなことはしない。
兄として、家族として、当たり前に気に掛ける。

これは、十数年間掛けて積み重ね続け出来上がった、もう解けない呪いのような義務である。
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