番外編
灰原雄アンケート(pixivのやつ)一位おめでとう記念短編(2021年10月2日時点の結果)
___
先輩が約束通り「お嫁さん」にしてくれたお陰で、自分は今日も死ぬ前と変わり無く過ごしている。
普通にご飯も食べれるし、身体は過不足無く動くし、布団に入ればすぐに寝れる。
まるで死んだことが嘘だったかのような具合に、時々あの時に見た光景は悪い夢だったのではないかと思ってしまう程には…先輩の成したことは奇跡と呼ぶに相応しい程の偉業であるのだろう。
でも、そんなおよそ人には成し得ないようなことをした先輩は今日も元気に夜蛾先生から叱られていたし、叱られた後に僕の元へやって来てベソベソと泣きながら「私の可愛いヒマラヤの塩が押収されちゃったよー!!」と叫んでいた。
「よしよし、先輩泣かないで?」
「ヒマラヤのぉ!塩がぁ!!」
「…ヒマラヤの塩、そんなに大事なの?」
「殺人にも使えるのにぃ!!」
なんでそんな恐ろしい塩を持っているんだろう。
先輩は色々な物をコレクションしているが、中には危ない物もある。だからたまに所持しているのがバレて先生などに押収される。
そうすると大体ショックを受けて悲しんでいるので、僕はこうして先輩を慰めている。
正直、役得である。
遠慮もなく僕にしがみつき、えぐえぐと泣く先輩は僕から見たら確かにちょっと他の人と比べると変わった部分はあるけれど、でも可愛くて楽しい女の子だ……と、僕は思っているけれど、他の人はそうではないらしい。
五条さんは先輩に何か崇高な物を求めていて、二人にしか分からない世界で互いを信頼し合っている。
夏油さんは先輩の思考回路に追い付けず、いつも困ったような表情しか浮かべない、それなのに関わることをやめようとしない。
七海は先輩に関わる度に疲れて帰ってくる…そして………
「先輩、今日はお兄さんどうしたんですか?」
「……知らない!でもきっと競馬とかだよ、朝ご飯食べたら行っちゃった!」
声を荒げながら言う先輩を、僕はまたしてもよしよしと宥める。
先輩が大好きなお兄さんは、よく妹である先輩のことをほったらかす。
僕はいくらだって先輩と一緒に居たいと思うけれど、そう思うのは僕くらいなのかもしれない。
でもこれは仕方無いことだ、単純と言ってしまえばそれまでだが、同じ先輩である家入さんと比べた時に先輩の方が何となくいいなと思って、そこから何となく見ていれば、相手の方からこちらに男女の距離感を無視した行動をどんどんしてきて、挙げ句男であり先輩よりずっと身長も高くて肩幅だってある自分を「可愛い可愛い」「持って帰りたいくらい可愛い」「灰原くん一番可愛い」などと散々言ってくるのだ。
勘違いしてしまうのも無理は無い…と弁明したい。
これで先輩には全くそういった気が無いのだから、この人には男女の色恋といった概念が備わっていないんじゃないかとすら思っている。
でも別にそれでもいい、どっちにしろ自分は先輩の呪力と技術無しでは生きられない身体になり、先輩は僕の身体を好き勝手にいじりまくった責任を取るという形で「お嫁さん」にしてくれたから、わりと満足している。
………やっぱり嘘、本当はもうちょっとだけ近付きたいし、僕のことを考えて欲しい。
あわよくば、少しでもいいから気持ちが通じて欲しい。
泣くだけ泣いてスッキリしたのか、ハンカチで涙を拭いている先輩に「ところで、夜蛾先生には謝りました?」と聞いた。
その問いに、ギクッと肩を強張らせ「…バカって言っちゃったかも」と気まずい顔をする先輩に「ちゃんと謝りに行きましょう!」と提案する。
「う、う~~ん……」
「僕も着いて行くので!」
「う~ん…分かったよ、行くよ…入手ルートの説明もしなきゃいけなかったし…」
「そんなに危ない物なんですか…?」
自然を装い先輩のちんまりした手を取れば、当たり前のように握り返してくれて嬉しくなる。
「タリウムが大量に含まれてるんだよ、ああ…タリウムってのは急性毒元素の一つでね……」
なんでそんな危なそうな物を部屋に置いておくんだろう、それは怒られても仕方無いかもしれない…。
「先輩、他に部屋に危ない物無いですよね?」
「……………」
「先輩?せんぱーい??大丈夫じゃない物ある??」
「………………」
これは何か隠し持ってるな…。
何を持っているか問い詰めようとしたところで、先輩は手を離して逃亡しようと走り出した。
でも全然遅いので簡単に捕まえられた。
後ろから肩を掴めば手をペチペチ叩かれるので、少し考えてから今度は振りほどけないくらいの力を込めて手を握る。
「クソッ、離したまえ!灰原くん!!」
「駄目です!妻として見過ごせません!」
「そこは普通に後輩でいいでしょ!」
腕をブンブンと振ったり身体を揺すってなんとか逃げようとする先輩に、このままでは夜蛾先生に報告することはおろか、最悪腕を分離させたりして逃げ出し兼ねないと判断して「失礼します!」と断りを入れてから先輩を抱き上げた。
「うわっ、何をするんだ!」
「せ、先輩、暴れないで」
「はなせー!!ポロニウムは私が守るんだー!!」
抱き上げたはいいが先輩が暴れるため、大変なことになった。
正直力は全く無い人なのでポコスカ叩かれても全然痛くも痒くも無いけれど、抱き上げた位置が悪かったせいか頬っぺたにその…ふにゅっとした物がポヨンポヨンと当たって、申し訳無いけど、男として非常に困る…。
「ポロニウムってなんですか!」
僕は慌てて質問をする、こうすると大抵先輩は質問に対する答えを述べてくれる、回答をしてる時は真面目に話をしてくれるから大人しくなる…はず!
「えーっと……ポロニウムはキュリー夫妻が発見した元素だよ、10ナノグラムでも到死量になる猛毒で…」
「10ナノグラムってどのくらいですか?」
「10億分の10グラムだね、とってもちょっとってことだよ」
「それって何に使えるんですか?」
「えっとねぇ…」
思った通り大人しくポロニウムの解説に移った先輩は、暴れることをやめてくれた。
僕は耳元近くで解説を続ける先輩の声を擽ったく思いながら、話を途切れさせること無く職員室を目指す。
「そう、だから昔のアメリカの食器では放射能が強く検出される物もあるんだよ」
「なるほど、ちょっと怖いですね」
「今と昔じゃ放射能に対する価値観が違ったから仕方無いね」
お喋りを続けていれば職員室が近付いて来た。
先輩は「そろそろ降ろしてよ」と言ってきたが、僕はその意見を却下する。
そのまま職員室の扉の前まで行けば、はぁ……と顔の側でため息が聞こえてきた。
「逃げないしちゃんと言うから」
「本当ですか?」
「本当だよ、流石にこれじゃ恥ずかしいもん」
名残惜しいがその場で降ろせば、先輩は自ら職員室の扉をノックして開けて入って行く。その後に続くように入室して、夜蛾先生にあらかた話終えた先輩はしっかりと注意をされ、反省文を書くよう言い渡されてから解放された。
帰り際に先生から「アイツのこと頼むぞ」と言われたため、職員室から出た後も先輩の後ろを歩いていれば、廊下の真ん中でいきなり立ち止まった先輩はこちらを振り向き「お礼がまだだったね…」と言った。
「え、お礼なんて…」
「お礼参りじゃあ!!!」
「そっちかー」
威嚇の声を挙げながら飛び掛かって来た先輩は、僕に向かって拳を振り下ろす。
その拳を受け止め、ついでに身体も受け止めてよいしょと床に降ろせば「このやろー!!よくも夜蛾ティーにチクったなー!!」と僕の胸をポコポコ殴っていた。
……先輩、術式は物凄く強いし術式への解釈も天才的で、呪術界の経済にも貢献しまくっているのに…絶望的に腕力が無いなぁ……
僕がギュッとしたら本当にペチャッパキッとどうにかなっちゃうんじゃないだろうか、そう思うとなんだか途端に触れるのが怖くなってきて両手を上にあげてしまった。
「このっ!このっ!」
「先輩ごめんね?ほら、あの、変わりに僕をあげますから」
「君はもう私の物だろー!?」
「えっっ」
えっ、えっ……先輩、今…聞き間違いでなければ、お前は私の物的な発言してました?してましたよね??
今なおポコスカ胸をグーで殴り続ける小さな身体を見下ろす。
僕を殴る腕は心配になる程細く、こちらを睨み付けるキリッとした目尻は猫のようにも見え、怒りによって爛々と輝く義眼はツヤリと宝石の煌めきを携えている。
人の形をした、人ではないもの。
僕……この人の物なのか、そっか…。
この、およそ人知の域を脱してしまった人と呼ぶにはあまりに肉体構造も精神構造も人と異なる、鉱物を愛し鉱物にその身を彩られた命は、未来永劫…本人の気が済むまで形を変えることなく輝き続ける。
そんな人から与えられた"偽物の心臓"で生きる自分は、この世において唯一この人の終わりと共にあることが出来る身体となってしまった。
腕を伸ばしてか細い身体を抱き締める。
力を込めれば割れ砕けてしまいそうな身にそっと触れて返事をした。
「…はい、先輩の灰原です」
「クソッ殴れないじゃないか!」
「…先輩、僕は先輩と一緒に居ますからね」
「クソーーー!!このやろー!!!離せよー!!」
この人、本当に空気読まないなぁ。
あ、読まないんじゃなくて読めないのか、僕も空気を読むことは苦手だけど、流石に今のはちょっとくらい良い雰囲気になっても良かったと思うな。
最終的に罵声の語彙が尽きた先輩は、「イモー!!」とか「ナスー!!」とか野菜の種類を喚いていたが、流石に疲れたらしく、暫くするとゼハゼハッと息を切らせて腕の中で急激に大人しくなっていった。
「先輩落ち着いた?」
「落ち着いたというか……もう……つかれた…」
「よし、水分補給に行きましょう!」
「しんど……」
グッタリしてしまった先輩はこちらに体重を預けて沈黙してしまった。
どうしよ…これ、抱っこして連れて行って大丈夫かな、また暴れるかな。
そんなことを考えていると、背後から「灰原、どうしましたか」と声が掛かる。
振り返ればそこには同期の友人の姿。
「あ、七海」
「何して……あ、」
「うん、先輩が…あれ?」
「……それ、寝てませんか?」
七海に顔を向けてほんの数秒、その数秒でどうやら先輩は寝てしまったらしい。
まるで電池の切れた玩具のように場所も状況も関係無くスコンッと寝てしまったことに、流石に驚いた。
確認するように顔を覗きこめば、本当に寝ているらしく静かにスヤスヤと寝息を立てている。
「本当だ、寝てる……」
「今度は何が」
「実はさ…」
僕は先輩を横抱きにすると、七海と並んで廊下を歩きながら声のボリュームを落としてお喋りをした。
とくに何でもない、他愛ない話を七海と並んで出来る時間も、この人の身を捨てた孤独な天才の気紛れな約束のお陰だ。
お陰というか、せいというか、先輩のお陰で生きているけれど、先輩のせいで僕も今となっては人ではない、あのナマコと同類の存在なんだけど。
けれど、生前望んだ"孤独に寄り添う権利"を手に入れられた。だから僕は自分の身体の在り方と、終わりの時を定められないことに不満を抱かない。
しかし、それにしても……
「部屋は一度ちゃんと見るべきかもしれない…」
「見て分かるんですか?」
「一つ一つ聞くよ、先輩嘘つくの下手だから」
「ああ……とりあえず黙りますからね」
頼れる後輩として、妻として、先輩の部屋をこのままにしておくわけにはいかない。
受け入れ、受け止めるだけが愛では無いと伝えていかなければ。
厳しくする時は厳しく、甘やかす時は甘やかす、やっぱり何事もメリハリが大事。
他の人がしないなら僕がしなければならない。
何故なら僕は、先輩に唯一側に居ることを許された男なので。
そう、正妻なので!
___
ちょこっとオマケ
…
灰原のことぶっちゃけどう思ってんの?と酒の席で女性陣に詰め寄られた私は、あー…だのうー…だの形にならない音を口から垂れ流し続けていた。
どうも何も、そんなのねぇ…。
「良くできた嫁ですよ、本当……」
本当に、頭上がらないです。
現場からは、以上です。
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先輩が約束通り「お嫁さん」にしてくれたお陰で、自分は今日も死ぬ前と変わり無く過ごしている。
普通にご飯も食べれるし、身体は過不足無く動くし、布団に入ればすぐに寝れる。
まるで死んだことが嘘だったかのような具合に、時々あの時に見た光景は悪い夢だったのではないかと思ってしまう程には…先輩の成したことは奇跡と呼ぶに相応しい程の偉業であるのだろう。
でも、そんなおよそ人には成し得ないようなことをした先輩は今日も元気に夜蛾先生から叱られていたし、叱られた後に僕の元へやって来てベソベソと泣きながら「私の可愛いヒマラヤの塩が押収されちゃったよー!!」と叫んでいた。
「よしよし、先輩泣かないで?」
「ヒマラヤのぉ!塩がぁ!!」
「…ヒマラヤの塩、そんなに大事なの?」
「殺人にも使えるのにぃ!!」
なんでそんな恐ろしい塩を持っているんだろう。
先輩は色々な物をコレクションしているが、中には危ない物もある。だからたまに所持しているのがバレて先生などに押収される。
そうすると大体ショックを受けて悲しんでいるので、僕はこうして先輩を慰めている。
正直、役得である。
遠慮もなく僕にしがみつき、えぐえぐと泣く先輩は僕から見たら確かにちょっと他の人と比べると変わった部分はあるけれど、でも可愛くて楽しい女の子だ……と、僕は思っているけれど、他の人はそうではないらしい。
五条さんは先輩に何か崇高な物を求めていて、二人にしか分からない世界で互いを信頼し合っている。
夏油さんは先輩の思考回路に追い付けず、いつも困ったような表情しか浮かべない、それなのに関わることをやめようとしない。
七海は先輩に関わる度に疲れて帰ってくる…そして………
「先輩、今日はお兄さんどうしたんですか?」
「……知らない!でもきっと競馬とかだよ、朝ご飯食べたら行っちゃった!」
声を荒げながら言う先輩を、僕はまたしてもよしよしと宥める。
先輩が大好きなお兄さんは、よく妹である先輩のことをほったらかす。
僕はいくらだって先輩と一緒に居たいと思うけれど、そう思うのは僕くらいなのかもしれない。
でもこれは仕方無いことだ、単純と言ってしまえばそれまでだが、同じ先輩である家入さんと比べた時に先輩の方が何となくいいなと思って、そこから何となく見ていれば、相手の方からこちらに男女の距離感を無視した行動をどんどんしてきて、挙げ句男であり先輩よりずっと身長も高くて肩幅だってある自分を「可愛い可愛い」「持って帰りたいくらい可愛い」「灰原くん一番可愛い」などと散々言ってくるのだ。
勘違いしてしまうのも無理は無い…と弁明したい。
これで先輩には全くそういった気が無いのだから、この人には男女の色恋といった概念が備わっていないんじゃないかとすら思っている。
でも別にそれでもいい、どっちにしろ自分は先輩の呪力と技術無しでは生きられない身体になり、先輩は僕の身体を好き勝手にいじりまくった責任を取るという形で「お嫁さん」にしてくれたから、わりと満足している。
………やっぱり嘘、本当はもうちょっとだけ近付きたいし、僕のことを考えて欲しい。
あわよくば、少しでもいいから気持ちが通じて欲しい。
泣くだけ泣いてスッキリしたのか、ハンカチで涙を拭いている先輩に「ところで、夜蛾先生には謝りました?」と聞いた。
その問いに、ギクッと肩を強張らせ「…バカって言っちゃったかも」と気まずい顔をする先輩に「ちゃんと謝りに行きましょう!」と提案する。
「う、う~~ん……」
「僕も着いて行くので!」
「う~ん…分かったよ、行くよ…入手ルートの説明もしなきゃいけなかったし…」
「そんなに危ない物なんですか…?」
自然を装い先輩のちんまりした手を取れば、当たり前のように握り返してくれて嬉しくなる。
「タリウムが大量に含まれてるんだよ、ああ…タリウムってのは急性毒元素の一つでね……」
なんでそんな危なそうな物を部屋に置いておくんだろう、それは怒られても仕方無いかもしれない…。
「先輩、他に部屋に危ない物無いですよね?」
「……………」
「先輩?せんぱーい??大丈夫じゃない物ある??」
「………………」
これは何か隠し持ってるな…。
何を持っているか問い詰めようとしたところで、先輩は手を離して逃亡しようと走り出した。
でも全然遅いので簡単に捕まえられた。
後ろから肩を掴めば手をペチペチ叩かれるので、少し考えてから今度は振りほどけないくらいの力を込めて手を握る。
「クソッ、離したまえ!灰原くん!!」
「駄目です!妻として見過ごせません!」
「そこは普通に後輩でいいでしょ!」
腕をブンブンと振ったり身体を揺すってなんとか逃げようとする先輩に、このままでは夜蛾先生に報告することはおろか、最悪腕を分離させたりして逃げ出し兼ねないと判断して「失礼します!」と断りを入れてから先輩を抱き上げた。
「うわっ、何をするんだ!」
「せ、先輩、暴れないで」
「はなせー!!ポロニウムは私が守るんだー!!」
抱き上げたはいいが先輩が暴れるため、大変なことになった。
正直力は全く無い人なのでポコスカ叩かれても全然痛くも痒くも無いけれど、抱き上げた位置が悪かったせいか頬っぺたにその…ふにゅっとした物がポヨンポヨンと当たって、申し訳無いけど、男として非常に困る…。
「ポロニウムってなんですか!」
僕は慌てて質問をする、こうすると大抵先輩は質問に対する答えを述べてくれる、回答をしてる時は真面目に話をしてくれるから大人しくなる…はず!
「えーっと……ポロニウムはキュリー夫妻が発見した元素だよ、10ナノグラムでも到死量になる猛毒で…」
「10ナノグラムってどのくらいですか?」
「10億分の10グラムだね、とってもちょっとってことだよ」
「それって何に使えるんですか?」
「えっとねぇ…」
思った通り大人しくポロニウムの解説に移った先輩は、暴れることをやめてくれた。
僕は耳元近くで解説を続ける先輩の声を擽ったく思いながら、話を途切れさせること無く職員室を目指す。
「そう、だから昔のアメリカの食器では放射能が強く検出される物もあるんだよ」
「なるほど、ちょっと怖いですね」
「今と昔じゃ放射能に対する価値観が違ったから仕方無いね」
お喋りを続けていれば職員室が近付いて来た。
先輩は「そろそろ降ろしてよ」と言ってきたが、僕はその意見を却下する。
そのまま職員室の扉の前まで行けば、はぁ……と顔の側でため息が聞こえてきた。
「逃げないしちゃんと言うから」
「本当ですか?」
「本当だよ、流石にこれじゃ恥ずかしいもん」
名残惜しいがその場で降ろせば、先輩は自ら職員室の扉をノックして開けて入って行く。その後に続くように入室して、夜蛾先生にあらかた話終えた先輩はしっかりと注意をされ、反省文を書くよう言い渡されてから解放された。
帰り際に先生から「アイツのこと頼むぞ」と言われたため、職員室から出た後も先輩の後ろを歩いていれば、廊下の真ん中でいきなり立ち止まった先輩はこちらを振り向き「お礼がまだだったね…」と言った。
「え、お礼なんて…」
「お礼参りじゃあ!!!」
「そっちかー」
威嚇の声を挙げながら飛び掛かって来た先輩は、僕に向かって拳を振り下ろす。
その拳を受け止め、ついでに身体も受け止めてよいしょと床に降ろせば「このやろー!!よくも夜蛾ティーにチクったなー!!」と僕の胸をポコポコ殴っていた。
……先輩、術式は物凄く強いし術式への解釈も天才的で、呪術界の経済にも貢献しまくっているのに…絶望的に腕力が無いなぁ……
僕がギュッとしたら本当にペチャッパキッとどうにかなっちゃうんじゃないだろうか、そう思うとなんだか途端に触れるのが怖くなってきて両手を上にあげてしまった。
「このっ!このっ!」
「先輩ごめんね?ほら、あの、変わりに僕をあげますから」
「君はもう私の物だろー!?」
「えっっ」
えっ、えっ……先輩、今…聞き間違いでなければ、お前は私の物的な発言してました?してましたよね??
今なおポコスカ胸をグーで殴り続ける小さな身体を見下ろす。
僕を殴る腕は心配になる程細く、こちらを睨み付けるキリッとした目尻は猫のようにも見え、怒りによって爛々と輝く義眼はツヤリと宝石の煌めきを携えている。
人の形をした、人ではないもの。
僕……この人の物なのか、そっか…。
この、およそ人知の域を脱してしまった人と呼ぶにはあまりに肉体構造も精神構造も人と異なる、鉱物を愛し鉱物にその身を彩られた命は、未来永劫…本人の気が済むまで形を変えることなく輝き続ける。
そんな人から与えられた"偽物の心臓"で生きる自分は、この世において唯一この人の終わりと共にあることが出来る身体となってしまった。
腕を伸ばしてか細い身体を抱き締める。
力を込めれば割れ砕けてしまいそうな身にそっと触れて返事をした。
「…はい、先輩の灰原です」
「クソッ殴れないじゃないか!」
「…先輩、僕は先輩と一緒に居ますからね」
「クソーーー!!このやろー!!!離せよー!!」
この人、本当に空気読まないなぁ。
あ、読まないんじゃなくて読めないのか、僕も空気を読むことは苦手だけど、流石に今のはちょっとくらい良い雰囲気になっても良かったと思うな。
最終的に罵声の語彙が尽きた先輩は、「イモー!!」とか「ナスー!!」とか野菜の種類を喚いていたが、流石に疲れたらしく、暫くするとゼハゼハッと息を切らせて腕の中で急激に大人しくなっていった。
「先輩落ち着いた?」
「落ち着いたというか……もう……つかれた…」
「よし、水分補給に行きましょう!」
「しんど……」
グッタリしてしまった先輩はこちらに体重を預けて沈黙してしまった。
どうしよ…これ、抱っこして連れて行って大丈夫かな、また暴れるかな。
そんなことを考えていると、背後から「灰原、どうしましたか」と声が掛かる。
振り返ればそこには同期の友人の姿。
「あ、七海」
「何して……あ、」
「うん、先輩が…あれ?」
「……それ、寝てませんか?」
七海に顔を向けてほんの数秒、その数秒でどうやら先輩は寝てしまったらしい。
まるで電池の切れた玩具のように場所も状況も関係無くスコンッと寝てしまったことに、流石に驚いた。
確認するように顔を覗きこめば、本当に寝ているらしく静かにスヤスヤと寝息を立てている。
「本当だ、寝てる……」
「今度は何が」
「実はさ…」
僕は先輩を横抱きにすると、七海と並んで廊下を歩きながら声のボリュームを落としてお喋りをした。
とくに何でもない、他愛ない話を七海と並んで出来る時間も、この人の身を捨てた孤独な天才の気紛れな約束のお陰だ。
お陰というか、せいというか、先輩のお陰で生きているけれど、先輩のせいで僕も今となっては人ではない、あのナマコと同類の存在なんだけど。
けれど、生前望んだ"孤独に寄り添う権利"を手に入れられた。だから僕は自分の身体の在り方と、終わりの時を定められないことに不満を抱かない。
しかし、それにしても……
「部屋は一度ちゃんと見るべきかもしれない…」
「見て分かるんですか?」
「一つ一つ聞くよ、先輩嘘つくの下手だから」
「ああ……とりあえず黙りますからね」
頼れる後輩として、妻として、先輩の部屋をこのままにしておくわけにはいかない。
受け入れ、受け止めるだけが愛では無いと伝えていかなければ。
厳しくする時は厳しく、甘やかす時は甘やかす、やっぱり何事もメリハリが大事。
他の人がしないなら僕がしなければならない。
何故なら僕は、先輩に唯一側に居ることを許された男なので。
そう、正妻なので!
___
ちょこっとオマケ
…
灰原のことぶっちゃけどう思ってんの?と酒の席で女性陣に詰め寄られた私は、あー…だのうー…だの形にならない音を口から垂れ流し続けていた。
どうも何も、そんなのねぇ…。
「良くできた嫁ですよ、本当……」
本当に、頭上がらないです。
現場からは、以上です。