事務所代表の幼馴染みはプロデューサー
彼女の何事も顔に出さない点を美徳だと思った事は一度もない。眉間に皺も寄っていなければ、顔色が悪いわけでも無い。つい先程まで俺の隣で番組関係者や撮影スタッフと滞りなく、プロデューサー然とした態度で柔らかに微笑みながら、打ち合わせを進めていた姿も見ている。
それでも。
こめかみを抑え少しばかり俯いた彼女を見た瞬間に俺は全てを理解した。遅すぎる気付きに僅かに苛立つ。これは己に対してであって、彼女に対してでは決してない。子どもの頃からいつも一人静かに、苦痛に耐えきってしまうその姿が俺には一番の苦痛に他ならなかった。
控室で簡易なパイプ椅子に腰掛け、片手で手帳を開きながら彼女はもう片方の手で髪を耳に掛ける動作からごく自然に、白い指でこめかみを抑え続けていた。
今朝見た天気予報では確か、明日は雨だった。
低気圧、自律神経、偏頭痛等々…
すぐ様彼女の体調不良と紐づけるには充分な単語が脳裏を過ぎる。少し考えれば解ったろうに、何を今更。
俺は堪らず、手帳を捲る彼女の細い手首を無言で掴んだ。行動に移す前に一呼吸置き、細心の注意を払ったおかげで力加減を誤りはしなかったらしい。
その証拠に。
彼女は均整のとれた美しい字で綴られているスケジュール達から顔を上げ、俺と目を合わせるとさも嬉しそうに微笑んでくれた。
その微笑みが心配に拍車をかける。
何を呑気に、笑っている。
他人に手首を掴まれて笑うやつがあるか。
毒気が抜かれる所か苛立ちが募った。
俺は左手で手早く手帳を閉じさせ、今もこめかみに添えられたままの白い手に自身の右手を重ねる。
こんなに小さな手だっただろうか。
心なしか、体温も冷えているように感じる。
ここまでしてようやく俺の意図が組めたのか、彼女は瞳を丸くしほんの少し驚いたような顔で俺を見つめ返してくれた。
対プロデューサーとしてでは無く、他ならぬ幼馴染みに対して話しているのだとどうか解って貰いたくて、俺はわざと彼女を下の名前で呼ぶ。現場で彼女を呼ぶ際は必ず、『プロデューサー』として切り替え声をかけるよう配慮してきたせいか声が上擦ってしまわないか、ほんの少し緊張が走る。怖がらせたい訳でも、萎縮させたい訳でもない事だけはどうか解ってほしくて、努めて優しい声で君の名を口にした。
「菫」
「敬人さん」
「無理はするな。休んでいろ」
「無理はしていませんよ」
「嘘をつけ。そう言いつつ貴様がこれから無理をするのは目に見えている」
「でも、まだ無理はしていません」
「子ども染みた言い草で揚げ足を取ろうとするな。貴様らしくもない」
「英智さんみたいですか?」
「………俺と話す元気がまだ残っているなら、頼むから少し休んでくれ」
「敬人さんとお話しする事でいま元気を貰っているんですが、それではいけませんか?」
「無い元気を振り絞ろうとするな」
「……そんなに元気が少なく見えました?」
「上手く立ち振る舞えていたつもりだろうが、あまり俺をみくびるな。昔から貴様が笑っていると心から安堵できるが、作り笑顔を向けられる事だけは耐えられんからな」
「……」
「撮影までまだ時間はある。残りの打ち合わせは俺一人で難なく進行できるだろう。だから、それまで俺に任せて休んでいろ」
「よかった。帰れとは言わないんですね」
「言ったところで帰らんだろう」
「よくご存知で」
「全く、度し難いプロデューサーだ。たまには俺の胃を労わってみせろ」
「そうですね。撮影が終わったら二人で美味しいものでも食べに行きましょうか」
「おい、胃の労り方が違うぞ」
「晩ごはん、一緒に食べられませんか?」
「………いや。楽しみにしてはいる、が」
「ふふ、よかった」
「あくまで体調と相談してだぞ。くれぐれも無理だけはするな、絶対に」
「はい」
「俺か英智がいれば貴様の不調に気づいてやれるが……いや、だからといって他の現場でも無理はするな。顔に出ない事を貴様は長所だと思っているようだがそうやって不調を押してまで仕事に専念する姿が俺たちアイドルにとってどれだけ…」
「敬人さん」
「なんだ」
「打ち合わせ。呼ばれてますよ」
「……話の続きは戻ってから聞かせてやる。覚悟しておけ」
「はい、ありがとうございます」
度し難い。
まだ説教の途中だったというのに、謎に謝辞を述べられてしまい途端に居心地が悪くなった俺はスタッフに返事をして彼女の隣から素早く立ち上がる。握った手を離しておいて本当によかった。
心配で側に居たくて離れがたい感情と、できる限り早急に仕事を終え彼女と何処で何を食べて帰ろうか……そんな事を考え始めてしまう浮き足立つ感情を寸での所でなんとか抑え込む。
スタッフの後に続きながら振り返り見ると、控室からそのまま動こうとはせず、手帳を閉じて大人しく座っている彼女がひらひらと手を振ってくれていた。
よかったと、心から安堵する。
ここで気丈に振る舞い、すっかりプロデューサーの顔をして着いてこられた場合、スタッフの手前次に何と言って休ませればいいかを考えずに済んだ。
俺も軽く片手を上げて見送りに応える。
彼女のことだ。常備した鎮痛薬などは既に飲んでいるのだろう。正直横になって休んでくれる所まで見届けてやりたかったが、ここには居ないもう一人の幼馴染みに『過干渉』だと嗜められる声が聞こえてきそうでグッと堪える。
収録は無駄なく進ませ、巻けることなら巻きたい。
未だ事務所内では若輩グループの一員である俺に彼女が与えてくれた大切な仕事だと理解はしている。解ってはいるが………どうか今後、ここまで不純な動機で収録に臨む事が無いことを祈りたい。
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「敬人さん、お疲れ様でした」
「菫、お疲れ様。体調はもういいのか?」
「はい。おかげ様でゆっくり休めましたから」
「そうは言っても収録前には現場に戻っていただろう。あまり休めなかったんじゃないか」
「いいえ、充分お時間いただきましたよ」
「無理はしなかったんだろうな?」
「してませんってば」
「そうか。それならまぁいいが…」
「私の事より、今日は撮影がとってもスムーズに進んでよかったですね。おかげで随分早く帰れますよ」
俺の心配とは裏腹に子どものようににこにこと微笑み、『晩ごはんは何が食べたいですか?』と無邪気に尋ねてくる彼女からは先程までの苦悶の表情はすっかり消えてなくなっていた。元々表情に現れてはいなかったが、俺からそれが見て取れないのなら本当に体調は回復したのだろう。
撮影開始前、ふとスタジオを見渡すと見慣れた紫が現場の片隅に現れていた時には随分肝を冷やしたが…少しの時間であってもやはり休ませてよかったと心の底から安堵し直す。
思えばあの時。
真に彼女の身を案じてやれたなら俺は何を置いても先に帰す事を優先させるべきだった。
それでも。体調回復を見越して休ませる方を取り、帰宅させはしなかったのは彼女にプロデューサーという確固たる立場があるからでも、体調不良を軽く見ていたからでもない。
ただ、俺自身が心の何処かで彼女にこの仕事の行末を、その一部始終を見届けて貰いたかっただけに他ならない。そんなものは完全に俺のエゴでしかなく、傲慢で脆弱な甘えから来る欲でしかない。彼女の前では俺はどうにも善良で心優しい人間にはなれないらしい。
度し難いのはどっちだ。
心の奥底で、俺は一人猛省した。
そんな心、知ってか知らずか『敬人さんが食べたいものにしましょうね』と彼女は未だ晩ごはんの話をたのしそうに続けてくれる。
その表情がどうにも愛おしくて、ずっとこんな顔をしていてくれと願わずにいられなかった。
安堵からか途端に腹が減ってくる。
いくらリズリン付きの仕事が多いとはいえ、晩ごはんを二人してとる事もそう多くはない。
食事中ゆっくりと、先程の話の続きを聞かせてやらないと。彼女が二度と、無理をしないように。
*休んで、食べて
仕事を丁寧にこなしたい二人が優先させたもの