このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

会長と副会長の幼馴染はご令嬢






漆黒よりも濃紺。
真夜中だと言うのに青のとても濃い夜だった。
こういった夜はとても心地良い。
乾かしたばかりの長い髪を適当に束ね終えれば自然と寝台から一番近い窓辺へつま先が向く。この窓枠から月が見えなくとも、満点の星空の頂点に煌々ときらめいている事だけは確かに伺えて、まだ見ぬ月に想いを馳せ瞳をつむった。
夜風が涼しい。少し肌寒いくらいに。
湯冷めしないよう羽織を取りに窓から離れようとした時だった。
ほんの一瞬、
天井から硬く鈍い音が響く。
鳥が降り立ったような、鉱石を落としたような。
短い硬質音はそれきり鳴りはしなかったけれど。
こんなにも綺麗な夜なのだからきっと、星々が溢れ出して、我が家の屋根に数滴降り注いだのかもしれない。なんて。
己は現実主義な方だと自負していてもつい空想を愛してしまい一人勝手に微笑んでしまう。
一人っ子はこれだからいけない。
亡き母と父が婚約した際、海外から移築までさせたという古い洋館なのだからあちこち軋みもするでしょう、と特に気には止めなかった。
けれど。
カーディガンに手をかけ袖を通し終えた頃、
今度は先程よりずっと傍からコンコン、と。
控えめにガラスを叩く音がする。
流石にこれを気のせいとは思わない。
故意に響かされたその音に導かれるまま振り向けば、そこには膝を折り窓枠に腰掛ける見知った長髪の彼が居た。
見間違えるはずもない、私の大切なアイドル。
どうやってここに?なんて、不思議と思わなかった。
ああ、お星さまの正体はこの人だったのかとひとり、ひどく納得してしまう。
それ程までにこの人は月明かりの袂、きらきらと瞬いていたから。私は今すぐ窓を開けたくてパタパタと足を鳴らし急ぎ窓辺へと駆け寄った。



「日々樹さん」
「はい。他でもない貴女の日々樹渉ですよ」
「こんばんは」
「こんばんは女王陛下」
「素敵な夜ですね」
「ええ、本当に」
「お星様の正体は日々樹さんだったのですね」
「私がお星様、ですか?」
「ふふ、一人っ子の戯言です。どうかお気になさらないで下さいね」
「私も一人っ子の端くれですので少々気にはなりますが…まぁいいでしょう。貴女の驚いた表情と微笑みだけでとても満たされた夜になりました。こんな夜更けに一人、貴女の部屋を訪れた無礼をどうかお許し下さい」
「許しますので、どうぞお入りになってください。今夜は少し冷えますから」
「………夜分に訪れておいてなんですが」
「はい」
「よろしいのですか?その、色々と」
「こんなにも素敵な窓からのお客様を、お部屋に入れない道理がありますか?」
「据え膳腹になんとやらとは言いますが……もう少し警戒された方がよろしいのでは?」
「それはそうですね。今後、日々樹さんではない方が窓からいらした時は警戒する事にします」
「私以外は入れないと誓って下さるので?」
「勿論。ただ……、その代わりまた是非窓からいらして下さいね。とってもどきどきしましたから」
「仰せのままに、女王陛下」



たわいもない会話とは裏腹に、
私は内心焦っていた。
一刻も早く招きいれてあげなければこの人はまたどこか遠く、青い夜に飛び立ってしまうかもしれない。
根拠のない、それでも確かな不安が窓を開ける私の手を急かす。もうじきに長針と短針がてっぺんで落ち合う時刻だというのに、この人は未だ制服姿のままなのだ。
お家には一度帰られたのだろうか。
この人の放課後は一体いつまで続いているの。
なんでもない風を装う事は出来たけれど、今こんな状態のこの人を決して帰してはならないと脳の片隅で警鐘が鳴る。
差し出した私の手を、彼はゆっくりと握り返してくれた。
その手から確かな信頼を感じて、ひとり胸を撫で下ろす。
でも、ほっとしたのも一瞬で。
なんて冷たい手。
窓を開ききった事で先程よりも強く吹き入れる夜風はやはり冷たくて。手だけでなく彼自身もすっかり冷えきってしまっているに違いない。
ああ、風邪をひいてはしまわないだろうか。
どうしてこんなにも悲しく、
何処にも行けないような顔をして、
私の窓を叩いてくれたのだろうか。
何もわかりはしないけれど、どうかいっときこの人を温められる居場所でありたいと強く願った。月光の逆光が、この人を悲しくみせているだけであってほしい。杞憂であればそれでいい。彼が両の靴を脱ぎ、丁寧な所作で揃えている間すらそんなのいいのに。とせっかちな私は心の中で眉を顰める。
少々乱暴に、私は後ろ手でカーテンを閉めた。



_____ ___ _




あたたかい紅茶を淹れてきますね、と。
私に一言告げてキッチンへ降りていってしまった彼女の瞳が厭に真剣だったので私は縦に頷き返す事しかできなかった。
温かく芳しい紅茶よりも今は貴女のぬくもりと優しい香りが欲しかったのに。
一人彼女の部屋に残される寂しさを、英智や右手の人は味わったことがあるのでしょうか。
邪推してしまいそうになるも、いとしい人の私室に呼ばれた事実が私をなんとか慰めてくれた。
くるりと、所在なく辺りを見渡す。
掴まずにはいられなかった彼女の白い手に導かれ、一歩踏み入れたそこは、無駄なく隅々まで洗練された彼女によく似た部屋だった。
それでいておよそ女性の部屋と呼ぶには余りにも味気ない、素朴で質素な部屋だった。中央に置かれたお姫様然とした天蓋付きのベッドだけが異質で。これだけはきっと彼女の好みではない。私が腰掛けても尚余る、白々しい程の広さがやけに目に付き視線が泳いだ。空いた掌で所在なさげに冷たいシーツを撫でつける事しか今は出来そうにない。
ふと思う。
この真白い清潔なシーツに横たえる時、彼女は毎夜溺れてはしまわないのだろうか。だって。
ここは余りにも冷たく、深海のように静かで。いとしい彼女がひとり眠る場所には到底似つかわしくなかったから。
夜はいつも一人なのだと。
期待外れに終わった某有名映画の帰り道に彼女が教えてくれたことがある。
聞けば彼女の家を出入りする使用人達は皆、日が沈む時間までには必ず帰宅させるのだと言う。
理由は至極真っ当、かつ平凡で。
"皆さんが家族と食卓を囲み、同じ時間に眠れるように"
ただそれだけが望みであり契約なのだと、なんでもないような顔で私に教えてくれた彼女の姿が、何故だか今でも脳裏に焼き付いて離れない。
嗚呼、なんて。
哀しくも愛しい人なのだろうか。
使用人とその家族を想いやる心やさしい主人はきっと、彼等が日々取り替える柔らかなシーツを汚してはならないと、ひとり静かに耐えるのだろう。涙を、声を、心までも。
両親の居ないこの広い屋敷で、毎夜?
想像するだけで息が詰まる。
水底のように暗く重い孤独がここには確かにあるというのに私は一体何を望んで、今宵彼女の元を訪ねてしまったのでしょう。



「居心地が悪くはありませんか?」



瞬間。
暗がりに優しい声が落とされ、全てを見透かされたような心地に陥る。張り詰めていた胸中に温かなあかりが灯されたような、錯覚。
香りの無い部屋に甘い紅茶の香りが広がる。
ティーセットをサイドテーブルに置きながら私の表情を覗き込む為ほんの僅か、彼女が首を傾げるものだから薄紫色の髪が細い肩からシルクのように柔らかく零れ落ちた。
私を案じてくれる優しい彼女の瞳だけを見つめていたいのに、一挙一動の情報量の多い事。彼女の問いかけに対してすぐ様否定の言葉を紡ごうとしたけれど、私は首を横に振る事でしか居心地の悪さを否定できなかった。


「何もない部屋でごめんなさい。私は飾ったり魅せたりが、どうにも苦手みたいです」


プロデューサーなのに、恥ずかしいと。
琥珀色が煌めく水面へ更にたっぷりのお砂糖とミルクを注ぎながら彼女は瞳を伏せて笑った。
手渡されたティーカップよりも、先程差し伸べてくれた彼女の掌の方がずっとあたたかだったのに。
椅子の少ない部屋でごめんなさいとまたも謝りながら、無遠慮にも寝台に腰掛けていた私を責めるでもなく、彼女は肩が触れるほど近く私の隣に腰かけた。
二人分の体重を受け止め、柔らかなベッドが軋む。
この場にまるでふさわしくない情欲がふつふつと込み上げるも、お得意の演技力でなんとか封じこめる事に成功した。
まだ少し冷えますねと呟き、空調を入れようと彼女はまたも立ち上がろうとするので貴女がこの部屋に戻ってくれただけでもう充分なのだと伝える為に、自身の手を重ね少々強引にそれを制した。
優しくして貰いたい訳ではない。
拒まれる事は決してないと解った上で今宵この窓を叩いた哀れな道化を許してくれとも思わない。
ただ貴女の側に、いっとき寄り添わせてほしかった。
自身の素直な感情がようやく腑に落ちる。
ああ、寂しいとたった一言言えたなら。
どんなに。


___ __ _



「このまま、何かお話しして下さいませんか」
「なんでもよろしいのですか?」
「ええ、貴女の側で貴女の声が聞けるのなら」


手を強く握られたまま、美しいアメジストに強請られる。
その声は低く、言葉数も絞られていた。
いつものように大きな声、大きな身振りで沢山お話ししてくれる日々樹さんは今はいないけれど、此処に居てくれるならそれでいい。
手渡した紅茶は一口だけ口をつけた後、すぐ様サイドテーブルに戻されてしまった。彼を温めたくて付けようとした暖房も彼の大きな掌に包まれてしまいリモコンまでは届かない。見た目よりも厚い掌は未だ冷たくて、この可愛らしいおねだりをどんな気持ちで絞り出してくれたのかを暗に物語っているようだった。寝台に腰掛けても尚、私よりもずっと背の高い彼を見上げ私はなんのお話をしようかなと冷静に頭を巡らせる。折角なら、星の話がしたかった。


「日々樹さんはご存知ですか?星に向かって大切な人の名前を呟くと心が和らいでぐっすり眠れるそうですよ。寂しい夜のおまじないです」
「貴女は実践した事がお有りで?」
「はい。まだずっと小さな頃に」
「女王陛下に名前を呼ばれる方はさぞかし幸福な方なのでしょうね」
「そうだったら、嬉しいですね」
「時にそれは……幼馴染である英智や、右手の人なのでしょうか?」
「いいえ。お二人ともとても大切な方には違いありませんが真夜中に名前を呼んだ事はありません」
「………それでは一体、どなたを?」
「お母様です。名前ではなく呼称だったからあまり意味がなかったかもしれませんが、星を眺めて"お母様"と呟いた夜なら昔はとても沢山ありました」


子どもの頃、敬人さんが教えてくれた。
流れ星に願いを託すとお優しい星が聞き入れてくれるのだと。そんな夢みたいな事が本当にあるのかと、母を失い絶望を知ったばかりの私は随分と希望に満ち満ちたものだった。流れていない星を見ても願っていたのだから、当時の私は随分と強欲だったのだと思う。あの頃のようにすがってはいないけれど、星を見ると未だに呟いてしまったりする。
日々樹さんは私の答えを聞くなり、美しい柳眉を顰めてとても辛そうな顔をする。握られたままの手にも熱が籠るようだった。余りにも真摯に胸を打つその表情は、きっと演技ではないのでしょう。日々、幾つもの役を演じていても仮面の下には目の前にいるこの優しい人しかいないのだと痛感する。なんて、心から優しい人。どうか悲しまないで欲しい。
私は今、毎夜一人でもぐっすりと眠れているのだから。
おまじないが効いたからもぅ大丈夫。
私はよしよしと慰めるような気持ちで、彼の髪を何度か優しく撫でつける。不思議とこれは、拒まれる事がなかった。


「日々樹さんもぜひ、試してみて下さいね」
「私も、眠れぬ夜に貴女の名前を呼んでも?」
「ええ、どうぞお呼びになって」
「何度も何度も、しつこいくらいに呼んでしまうかもしれませんよ?」
「嬉しい。私にも聞こえてくればいいのに」
「………お優しい女王陛下。出来ることなら貴女にも私の名を呼んで欲しいと願ってしまうのは、過ぎた望みなのでしょうね」
「今、呼んでみては下さいませんか?」
「………は」
「どうぞお呼びになって下さい。私は女王でも女帝でもなく、何処にでも咲くありふれたすみれです。他でもない日々樹さんに、これからはそう呼んでいただきたいのです」
「……少しだけ、時間を頂いても?」


彼の驚く顔はなんだかとても珍しい。
愛と驚きが大好きなのに、思い返すと貴方はいつも余裕たっぷりに瞳を細めて微笑んでいるばかりだったから。アメジストの瞳をまあるくして、私の名前を呼べない彼を眺めているうちにふと思う。
今宵窓から月が見えなかったのはきっと、日々樹さんがお星さまではなく月だったからに違いない。月は誰のものでもなく、それでいて地上全てを愛してくれるけれど毎晩毎夜、煌々と輝く義理もないでしょう?
新月に、真暗闇になっても大丈夫。私が愛す。
いくら満ち欠けようとも月は月に違いないのだから。
なんだか一人っ子の空想で済ますには、あまりにも腑に落ちすぎてしまった。私はなかなか二の句が告げない日々樹さんを笑っているのだとはどうか思われたくなくて、一人こっそりと微笑んだ。


___ __ _



「フフフ……幕引きです。菫さんは王や帝よりもずっとかけがえのない、私の愛しいプロデューサーですからお呼びしない道理もありません」
「嬉しい。初めて名前で呼んでくれましたね」
「長らく貴女の名前を呼ぶ勇気が出せずにいた私をどうかお許しくださいね。…こう見えて私、とっても繊細で臆病者なんです」
「存じていますよ。私も渉さんとお呼びしても?」
「ええ、喜んで。貴女に…菫に呼んでいただく為だけにあるような名前ですから」
「菫と、呼んで下さるのですか?」
「今は未だ二人きりの時だけ、そうさせて頂いても?」
「ええ、ええ。喜んで」



余りにも嬉しそうに微笑んでくれるものだから、
堪らずこの両腕の中に愛しい人を強く抱き寄せ閉じ込めてしまった。肌触りの良い薄手のルームウェア越しに彼女の体温と体の輪郭をこれでもかという程鮮明に感じる。
ここまで堪えた私自身をどなたかどうか称賛して欲しい。腕の中に息づく、心地よい心音に自然と瞼が降りてくる。背中に回された薄い掌が愛おしくて敵わない。瞳を閉じ、私の胸に頬を押し付け微笑む貴女がありありと見えるようだった。
脳裏という名のフィルムにしっかりと焼き付ける。
嗚呼、今夜こそ深く眠れるかもしれない。
悲しみも寂しさも焦燥も、
今この場には何一つ見当たらなかった。
このまま白く柔らかな舞台に横たえ、貴女と共に溺れてしまえたならきっと、今夜眠れはしないのだろうけど。



___ ___ _




「ねぇ、渉」
「はいはい英智⭐︎どうされました?」
「一体いつから菫の事を名前で呼べるようになったんだい?先週は未だ、女王陛下だとか嫌に恭しく呼んでいたように思うのだけど」
「Amazing…!やはり英智は菫さんの事となると目敏さに磨きがかかりますねぇ⭐︎」
「それはありがとう。それで?いつから?」
「おやおや〜〜〜ご機嫌ななめになるのがいつになく早いですねぇ⭐︎せっかちさんな英智のために特別に教えてさしあげるなら…そうですねぇ…"あの日の夜から"とでも言えば伝わりますでしょうか?それ以上は私の口からはとてもとても……」
「聞いてよ敬人!渉がね!」
「フフフ、Amazing…!いつになく大きな声量ですねぇ英智⭐︎」










*おしまい
月が居てくれるならそれで
17/17ページ
スキ