名推理と恋愛成就のルール(ハツザマ 現パロ)
「……ああ、久しぶり、探偵さん。
噂で聞いたよ。あの人、死んじゃったんだって? もしかして、その事件のこと調べてるの?
あの人を殺しそうな人ねぇ……あの人自体は滅茶苦茶恨みを買ってたよ、特に後輩とかから。だから、探せば結構いるんじゃないの?」
静かなピアノジャズが流れる喫茶店の店内。全国に展開しているコーヒーショップの一角で、ハーツは待ち合わせをしていた。
待ち合わせ相手は、かつて被害者と同じ部署で働いていた男性だ。連絡を取ったところ、会って話をして貰える約束を取り付けたので、こうやってコーヒーを飲みながら相手が来るのを待っているのだ。
ピロロロロ。
ピアノの音に意識を向けていたハーツの興味を自分に向けさせるように、ハーツのスマートフォンが着信音を鳴らした。
飲んでいたカップをコースターの上に戻すと、ハーツはロングコートの内ポケットからスマートフォンを取り出す。電話をかけてきた相手は、ザマスだった。
『調査はどうだ?』
電話が繋がるやいなや、挨拶もなしにザマスが尋ねてくる。
『怪しい奴はいたか?』
ハーツは、相手の心を読むという特殊能力を持っている。それ故、怪しい人物に会ってしまえば、短時間で確実にその人物に白黒をつけることができた。
一番の問題は、どうやって怪しい人物と会うかで、いつもなら策を駆使するか、口先で丸め込んで面談に持ち込むかなのだが、今回の調査ではそのような面倒なことをしなくても、皆、ハーツが頼めば快く会って話を聞かせてくれた。
どうやら、以前、被害者が行っていたパワハラの追求に、ハーツが一役買ったのが功を奏したらしい。
今まで行った調査の中でも五指に入るほど、調査は順調だ。あと二人会えば、事前にリストアップした人物全員と出会うことになる。
にもかかわらず――
「いや、怪しい奴はまったくいなかった」
ハーツのその言葉には、珍しく疲れが滲んでいた。
調査の結果は――はっきり言って悪かった。
被害者と同じ部署だった人たちに話しを聞いても、大部分が被害者が死んだこと自体を知らなかったり、たとえ知っていても被害者が退職してから、まったく連絡を取っていない人物ばかり。
被害者の生前の行いは相当悪かったようで、大体が被害者への愚痴と恨みを聞かされるばかりで、犯人に繋がる有力な手がかりは見つかっていない。
さすがのハーツも、内心焦っていた。
『いない? それは本当か?』
「本当だ。オレがキミに嘘をついたことがあるか?」
『……』
「冗談だ」
『……』
「ザマス?」
ザマスの沈黙が妙に長い。
冗談に呆れて沈黙したのかと思ったが、それにしてもこの長さはなんだ?
機嫌でも損ねたのだろうかとハーツは考えたが、電話の向こうから聞こえたザマスの声は、その予想を裏切って静かな知性を感じさせる声色だった。
『リストアップした容疑者全員に会い終えるのは、いつ頃になりそうだ?』
「今日中に会える予定だが、それがどうかしたか?」
『今日か……今日は神学の研究会があるから、事務所には寄れんな』
「ん? オレに何か用か?」
ハーツは不思議そうに問い返すが、無情にもザマスは聞きたいことは聞いたから、もう用済みだと言わんばかりに、そのまま無言で通話を切ってしまう。
「……?」
通話終了の文字が表示されたスマートフォンの画面を見て、ハーツは首をかしげたのだった。
それから数時間後、ハーツは難しい顔をしてパソコンの画面を眺めていた。
手軽にカロリーを補給できる栄養バーを囓りながら、モニターを睨んでいる彼の眉間には、深い皺が刻まれている。
場所は探偵事務所にある、机の上のライトだけがついた所長室の中。時刻は、既に日付が変わってしばらく経った深夜だ。
今夜は風が強いのか、背後の窓の外からは、ビルの間を豪速で駆け抜ける風の音が聞こえていた。
ザマスに伝えたとおり、リストアップした容疑者全員に会えたのだが――犯人は見つからなかった。
最後に出会った容疑者が白だとわかった瞬間、ハーツはその場では平静を装いつつも、心の内では頭を抱えた。
最有力候補だった妻や浮気相手も違う。被害者と同じ会社に勤めていた人物も違う。
――一体、誰が犯人なんだ?
今、ハーツは再度、怪しい人物を調べてリストアップする作業に入っている。
被害者の友人や、今まで面会した人物から聞き出した疑わしい人物。被害者の学生時代の友人にも範囲を広げて調査しようと思っているのだが――正直、その中に犯人がいるとは思えなかった。
今、作成しているリストの中には、今日行った調査から外した人物も多々いる。
外した理由は単純。犯行の動機が薄いからである。
車の中に閉じ込めて、練炭で自殺に見せかけるなど、用意周到に準備していなければ無理だ。
口論の末、突発的に殺してしまった事件とは違う。
事前に何か被害者に深い恨みを抱くようなトラブルが起きていると思われるのだが、これから調べようと思っている人物らは、いずれも繋がりが薄いか、何年も被害者と会っていないかのどちらかだ。
――もしかして、実は犯人はハーツが会ってきた人物の中にいて、心を読まれることを悟って内心を取り繕ったから、犯人を見つけることができなかったのか?
「……無理だ」
ハーツはすぐに自分の頭に湧いた疑念を打ち消した。
そんな器用な真似を人間ができるわけがないし、まして、目の前にいる男が自分の心を読んでくるなど、普通はつゆほども考えない
今まで出会った人間は、例外なく心の呟きには無防備だった。心の声を自制できる人間などいない。
どんなに用心深い犯人だろうと――いや、用心深い人間であればあるほど、これから発言する自分の嘘に矛盾がないか考えるので、会って心の声を聴けばその人物が犯人かどうかすぐにわかった。
だからこそ、今まで出会った人間の中に犯人がいないなら――犯人はハーツが目を付けていた人物以外の中にいるのだ。
――もしかして、実はこれは事件ではなく事故だから、だから誰も犯行の自覚がないのか?
……ありえない。棚の上から植木鉢が落ちてきたとかならともかく、車の中での練炭自殺を事故にするのは無理だ。
「……くそ!」
あらゆる考えが思い浮かぶが、どれもこの現状を打破する切っ掛けにならない。
行き詰まりを感じたハーツは、頭をがしがしかきながら珍しく悪態をついたのだった。
焦りばかりが胸の内を燻らせていく。
気を静めるため、ハーツは大きく深呼吸をすると、どさっと背もたれに背中を預けた。
椅子を回転させて背後の窓硝子から外の景色を見ると、既に空は白み始めている。
徹夜だ。
疲れは感じているが、眠気はない。
一応、今日も仕事だが、依頼は入っていないため昼に寝ても問題ないだろう。
それより、体に溜まった澱のような鬱屈感をどうにかしたい。
そういえば、風呂に入っていなかったことを思い出したハーツは、事務所内にあるシャワールームへと向かったのだった。
服を脱いで、熱い湯を浴びながら考える。
――正直なところ、ハーツがこの事件に関わる理由はない。
正式に受けた依頼ではないし、ザマスが当初、茶化してきたように、早期釈放されるように手を回した浮気相手が、犯人というわけでもなかった。
このまま手を引いても咎められる謂われはないのだが、それでも犯人を見つけようと躍起になっているのは、警察が妻と浮気相手を容疑者として未だに定めているからだ。
ゴジータから警察の状況を聞いた限り、警察はどちらかというと浮気相手を最有力候補と考えているようだが、元妻への疑いも捨てていないようだ。
二人とも事件が起こったとされる時間の前後にアリバイがなく、被害者を殺す同機がある。
警察視点で考えると、二人を容疑者として扱うのは致し方ないのだが、二人の心の声を聴いたハーツからしてみれば、彼女達は間違いなく無実なのだ。
それにもかかわらず、捜査のために呼び出され、その度に沈鬱な面持ちで警察に行かざるをえない彼女たちのことを考えると、このまま調査を放り投げる気にはなれなかった。
今はまだ逮捕令状は発付されていないが、もしこれで妻か浮気相手に似た人を見たという証言でも出てきたら、たとえ犯人でなくても逮捕されてしまうだろう。
残念なことに、今、彼女らを白だと証明する客観的な証拠は何もない。
もし逮捕されれば、自由が制限される。それも、彼女らからしたら、理不尽な理由で。
自由を奪われること。
それは、ハーツにとって、最も許しがたいことだった。
だからこそ、犯人を見つけて彼女らの無実を証明しようと調査を行っているのだが、未だに犯人が誰かわかっていない。
彼女らが無実だとわかっているのに、それを警察に証明することができない現状が、非常にもどかしいかった。
考え事をしている間に、豪雨のように降り注ぐ湯を散々に浴びていたからか、指先まで血が巡っているのを感じられるほどに体が温まった。
体の疲労が軽くなったのを感じたハーツは、シャワーのコックを捻って湯を止めると、そのまま脱衣所で体を拭いて服を着る。
時々、ここに泊まるので、替えの下着やワイシャツは置いている。ボトムスにワイシャツだけ羽織って所長室に戻った。
ワイシャツ一枚で過ごすには寒い気温だが、所長室は暖房を付けっぱなしにしているので問題ない。
オールバックにしていた髪は垂れて、前髪を作っている。ドライヤーで軽く乾かした程度なので湿っているが、部屋の暖かさですぐに乾くだろう。
ハーツが椅子にどさっと座って、疲労混じりの溜め息をついたその時、所長室の扉が開く。完全に無防備だったハーツは、驚きの声を上げた。
「ザマス? どうしたんだ?今日は随分と早い出勤だな」
部屋に入ってきたのは、最近この探偵事務所を、無料で紅茶が飲める勉強部屋代わりにしているザマスだった。
ハーツは壁掛けの時計で時刻を確認する。朝七時。この探偵事務所は朝十時に開くので、出勤にしては早かった。
ザマスは勉強道具や本が詰まったトートバッグを自分の席に置くと、首に巻いていた臙脂色のマフラーをしゅるっと外しながら、
「お前こそ、今日は随分早いな。いつも開所時刻ぎりぎりにしか来ないくせに」
「朝早く来たわけじゃない。昨日からずっとここにいるんだ。それより、今日はキミが来る日だったか?」
「お前の捜査状況が気がかりだったから来てやったんだ。
――それで? 犯人は見つかったのか?」
その言葉を聞いて、沈鬱な表情になったハーツは、黙って首を横に振る。
ザマスはハーツの隣に歩いて行くと、執務机の上に散らばっていた書類を手に取った。
それは、十人ほどの人間の名前と属性が記されたリスト。名前の横には、全員赤いボールペンで×印がつけられていた。
「これは?」
「この間、話した被害者の会社の同僚……いや、元同僚達だ。同じ部署の人間を中心に、犯人になり得そうな人物をリストアップして、虱潰しに会っていたんだが……」
「犯人は見つからなかったのか」
ペラペラと書類を捲りながらザマスがそう言うと、ハーツは疲れを滲ませた顔で頷いた。
「ここしばらく、手当たり次第に会っていたんだが、出会った全員が犯人ではないから、正直、参っている。被害者が勤めていた部署の人間なんて、全員会ったぞ。誰なんだ? 犯人は」
「……」
無言のまま書類を眺めていたザマスは、やがてにやっと笑った。
「私はわかったぞ、犯人が誰なのか」
「嘘だろ!?」
驚いたハーツが反射的に叫んだ。
ザマスは、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
まさかと呟く前に、ザマスの心を読んだハーツは、彼の言葉が嘘ではなく真実であることを悟った。
ハーツは机に両肘をついて項垂れると、髪型がぐしゃっと崩れるくらい両手で頭を抱える。
「そういう……ことか!」
「そういうことだ。心が読めても、発想が近視眼的だったら探偵は務まらないな」
ザマスはふふんと胸を張る。
ハーツは顔を上げると、拗ねた顔をして
「キミは、昨日のオレに電話してきた時には、その真相に辿り着いていたんだな。わかっていたなら、さっさと教えてくれたらいいものを」
「昨日の時点では、ただの予想でしかなかったからな。
お前がこつこつこつこつ容疑者達を精査したおかげで、確信にかわったのだ。
喜べ、無駄ではなかったぞ、お前の努力は」
「……」
白々しい口調でザマスは話す。無論、心を読んだハーツには、ザマスがあえてその可能性を自分に伝えなかったのがわかっていた。
ハーツは子供のようないじけた顔になると、
「キミは意地悪だ」
「馬鹿を言うな。本当にお前に嫌がらせをしたかったら、今日わざわざ事務所に来るはずないだろう?
電話で調査結果だけを聞いて、通話を終了してやった。電話越しだと、お前お得意の心を読む力も発揮できないからな」
実に楽しそうに笑いながら、ザマスは手に持っていた書類をハーツに差し出す。
だが、ハーツは書類ではなくそのザマスの手首を握ると、ぐいっと自分の方に引っ張った。
蹈鞴を踏むほどの力強さに、ザマスは思わず体勢を崩してしまい、咄嗟に自由な方の腕でハーツが座っている椅子の背もたれに手をついた。
ザマスは不快そうに眉間に皺を寄せると、
「痛いぞ。自分の想像力が私に劣ったことへの腹いせか?」
「意地悪な助手へのおしおきだ」
「くだらん」
ザマスは悪態をつく。だが、ハーツは手を放さない。
――どうしてこうも、この助手は今も前世も可愛げが足りないのか。
利害が対立していた前世はともかく、今は仲間であるはずなのに、隙あらばこちらの足を掬いにくる。
ザマスの手首を握ったまま、もう片方の手でザマスの頬を撫でた。
ザマスは鬱陶しそうに眉間に皺を深くするものの、こちらの手を振り払う様子はない。
宝石のように澄んだザマスの瞳を、ハーツは酔ったように見つめる。
ザマスの瞳には、呆れや鬱陶しさが混じっているが、嫌悪の色はなかった。
――だがまぁ、足の掬いあいが文字通り殺し合いに繋がった前世と違い、なんのかんのと言いつつ、こちらの調査に協力してくれたのだから、今は随分と良好な関係を築けたものだと、ハーツは心の中で自負した。
……協力というには、隠しきれない底意地の悪さが滲み出ているが。
出会ってもうそろそろ一年。
地道に信頼を重ねたおかげか、ザマスはハーツのやや過剰なスキンシップにも慣れて、当初よりも警戒心が緩くなっている。こうやって触れても問題ないくらいに。
未成年だからと手を出すのは控えていたが……そろそろ食べ時か?
ハーツが無意識にぺろっと唇の端を舐めた瞬間、ザマスはハーツの頭にチョップした。
「いい加減に手を離せ。そして、貴様は仕事しろ。
事件解決の目処がたっただけで、決定的な証拠はまだ確保してないだろうが」
現実に引き戻されたハーツは頭をさすりながら、
「了解。優秀な助手であるキミの言うとおりにしよう」
「嫌味な言い方だな。先に事件の謎を解かれて嫉妬しているのか?」
「まさか。本心だよ。キミのおかげで事件を解決したも同然だ。感謝する」
「感謝は言葉だけでなく、態度で表すものだ」
「わかっている。来月の給与は期待していてくれ」
「それでいい」
ザマスは非常に満足そうに頷いた。
「私のような優秀な助手を逃がさないためには、それ相応の対価が必要だからな。重々肝に銘じておけ」
「わかっているよ」
だから、色々と手を回しているのだ。ザマスを逃がさないために。
まあ、それはそれとしてだ。
ハーツは机の片隅に置いていたスマートフォンを手に取ると、ゴジータに連絡を入れる。
その様子を見ていたザマスは、つまらなさそうに、
「もしかして、警察に証拠を探させるつもりか?」
「それはそうだろう。
外からやって来た探偵が現場近くで証拠を見つけても、証拠品として採用されるかわからない。こういうのは警察に見つけて貰うのが最善手だ」
「ちっ。お前が這いつくばって、地面を手当たり次第探す姿が見られると期待したんだがな」
「……キミは、本当に優秀な助手だよ」
噂で聞いたよ。あの人、死んじゃったんだって? もしかして、その事件のこと調べてるの?
あの人を殺しそうな人ねぇ……あの人自体は滅茶苦茶恨みを買ってたよ、特に後輩とかから。だから、探せば結構いるんじゃないの?」
静かなピアノジャズが流れる喫茶店の店内。全国に展開しているコーヒーショップの一角で、ハーツは待ち合わせをしていた。
待ち合わせ相手は、かつて被害者と同じ部署で働いていた男性だ。連絡を取ったところ、会って話をして貰える約束を取り付けたので、こうやってコーヒーを飲みながら相手が来るのを待っているのだ。
ピロロロロ。
ピアノの音に意識を向けていたハーツの興味を自分に向けさせるように、ハーツのスマートフォンが着信音を鳴らした。
飲んでいたカップをコースターの上に戻すと、ハーツはロングコートの内ポケットからスマートフォンを取り出す。電話をかけてきた相手は、ザマスだった。
『調査はどうだ?』
電話が繋がるやいなや、挨拶もなしにザマスが尋ねてくる。
『怪しい奴はいたか?』
ハーツは、相手の心を読むという特殊能力を持っている。それ故、怪しい人物に会ってしまえば、短時間で確実にその人物に白黒をつけることができた。
一番の問題は、どうやって怪しい人物と会うかで、いつもなら策を駆使するか、口先で丸め込んで面談に持ち込むかなのだが、今回の調査ではそのような面倒なことをしなくても、皆、ハーツが頼めば快く会って話を聞かせてくれた。
どうやら、以前、被害者が行っていたパワハラの追求に、ハーツが一役買ったのが功を奏したらしい。
今まで行った調査の中でも五指に入るほど、調査は順調だ。あと二人会えば、事前にリストアップした人物全員と出会うことになる。
にもかかわらず――
「いや、怪しい奴はまったくいなかった」
ハーツのその言葉には、珍しく疲れが滲んでいた。
調査の結果は――はっきり言って悪かった。
被害者と同じ部署だった人たちに話しを聞いても、大部分が被害者が死んだこと自体を知らなかったり、たとえ知っていても被害者が退職してから、まったく連絡を取っていない人物ばかり。
被害者の生前の行いは相当悪かったようで、大体が被害者への愚痴と恨みを聞かされるばかりで、犯人に繋がる有力な手がかりは見つかっていない。
さすがのハーツも、内心焦っていた。
『いない? それは本当か?』
「本当だ。オレがキミに嘘をついたことがあるか?」
『……』
「冗談だ」
『……』
「ザマス?」
ザマスの沈黙が妙に長い。
冗談に呆れて沈黙したのかと思ったが、それにしてもこの長さはなんだ?
機嫌でも損ねたのだろうかとハーツは考えたが、電話の向こうから聞こえたザマスの声は、その予想を裏切って静かな知性を感じさせる声色だった。
『リストアップした容疑者全員に会い終えるのは、いつ頃になりそうだ?』
「今日中に会える予定だが、それがどうかしたか?」
『今日か……今日は神学の研究会があるから、事務所には寄れんな』
「ん? オレに何か用か?」
ハーツは不思議そうに問い返すが、無情にもザマスは聞きたいことは聞いたから、もう用済みだと言わんばかりに、そのまま無言で通話を切ってしまう。
「……?」
通話終了の文字が表示されたスマートフォンの画面を見て、ハーツは首をかしげたのだった。
それから数時間後、ハーツは難しい顔をしてパソコンの画面を眺めていた。
手軽にカロリーを補給できる栄養バーを囓りながら、モニターを睨んでいる彼の眉間には、深い皺が刻まれている。
場所は探偵事務所にある、机の上のライトだけがついた所長室の中。時刻は、既に日付が変わってしばらく経った深夜だ。
今夜は風が強いのか、背後の窓の外からは、ビルの間を豪速で駆け抜ける風の音が聞こえていた。
ザマスに伝えたとおり、リストアップした容疑者全員に会えたのだが――犯人は見つからなかった。
最後に出会った容疑者が白だとわかった瞬間、ハーツはその場では平静を装いつつも、心の内では頭を抱えた。
最有力候補だった妻や浮気相手も違う。被害者と同じ会社に勤めていた人物も違う。
――一体、誰が犯人なんだ?
今、ハーツは再度、怪しい人物を調べてリストアップする作業に入っている。
被害者の友人や、今まで面会した人物から聞き出した疑わしい人物。被害者の学生時代の友人にも範囲を広げて調査しようと思っているのだが――正直、その中に犯人がいるとは思えなかった。
今、作成しているリストの中には、今日行った調査から外した人物も多々いる。
外した理由は単純。犯行の動機が薄いからである。
車の中に閉じ込めて、練炭で自殺に見せかけるなど、用意周到に準備していなければ無理だ。
口論の末、突発的に殺してしまった事件とは違う。
事前に何か被害者に深い恨みを抱くようなトラブルが起きていると思われるのだが、これから調べようと思っている人物らは、いずれも繋がりが薄いか、何年も被害者と会っていないかのどちらかだ。
――もしかして、実は犯人はハーツが会ってきた人物の中にいて、心を読まれることを悟って内心を取り繕ったから、犯人を見つけることができなかったのか?
「……無理だ」
ハーツはすぐに自分の頭に湧いた疑念を打ち消した。
そんな器用な真似を人間ができるわけがないし、まして、目の前にいる男が自分の心を読んでくるなど、普通はつゆほども考えない
今まで出会った人間は、例外なく心の呟きには無防備だった。心の声を自制できる人間などいない。
どんなに用心深い犯人だろうと――いや、用心深い人間であればあるほど、これから発言する自分の嘘に矛盾がないか考えるので、会って心の声を聴けばその人物が犯人かどうかすぐにわかった。
だからこそ、今まで出会った人間の中に犯人がいないなら――犯人はハーツが目を付けていた人物以外の中にいるのだ。
――もしかして、実はこれは事件ではなく事故だから、だから誰も犯行の自覚がないのか?
……ありえない。棚の上から植木鉢が落ちてきたとかならともかく、車の中での練炭自殺を事故にするのは無理だ。
「……くそ!」
あらゆる考えが思い浮かぶが、どれもこの現状を打破する切っ掛けにならない。
行き詰まりを感じたハーツは、頭をがしがしかきながら珍しく悪態をついたのだった。
焦りばかりが胸の内を燻らせていく。
気を静めるため、ハーツは大きく深呼吸をすると、どさっと背もたれに背中を預けた。
椅子を回転させて背後の窓硝子から外の景色を見ると、既に空は白み始めている。
徹夜だ。
疲れは感じているが、眠気はない。
一応、今日も仕事だが、依頼は入っていないため昼に寝ても問題ないだろう。
それより、体に溜まった澱のような鬱屈感をどうにかしたい。
そういえば、風呂に入っていなかったことを思い出したハーツは、事務所内にあるシャワールームへと向かったのだった。
服を脱いで、熱い湯を浴びながら考える。
――正直なところ、ハーツがこの事件に関わる理由はない。
正式に受けた依頼ではないし、ザマスが当初、茶化してきたように、早期釈放されるように手を回した浮気相手が、犯人というわけでもなかった。
このまま手を引いても咎められる謂われはないのだが、それでも犯人を見つけようと躍起になっているのは、警察が妻と浮気相手を容疑者として未だに定めているからだ。
ゴジータから警察の状況を聞いた限り、警察はどちらかというと浮気相手を最有力候補と考えているようだが、元妻への疑いも捨てていないようだ。
二人とも事件が起こったとされる時間の前後にアリバイがなく、被害者を殺す同機がある。
警察視点で考えると、二人を容疑者として扱うのは致し方ないのだが、二人の心の声を聴いたハーツからしてみれば、彼女達は間違いなく無実なのだ。
それにもかかわらず、捜査のために呼び出され、その度に沈鬱な面持ちで警察に行かざるをえない彼女たちのことを考えると、このまま調査を放り投げる気にはなれなかった。
今はまだ逮捕令状は発付されていないが、もしこれで妻か浮気相手に似た人を見たという証言でも出てきたら、たとえ犯人でなくても逮捕されてしまうだろう。
残念なことに、今、彼女らを白だと証明する客観的な証拠は何もない。
もし逮捕されれば、自由が制限される。それも、彼女らからしたら、理不尽な理由で。
自由を奪われること。
それは、ハーツにとって、最も許しがたいことだった。
だからこそ、犯人を見つけて彼女らの無実を証明しようと調査を行っているのだが、未だに犯人が誰かわかっていない。
彼女らが無実だとわかっているのに、それを警察に証明することができない現状が、非常にもどかしいかった。
考え事をしている間に、豪雨のように降り注ぐ湯を散々に浴びていたからか、指先まで血が巡っているのを感じられるほどに体が温まった。
体の疲労が軽くなったのを感じたハーツは、シャワーのコックを捻って湯を止めると、そのまま脱衣所で体を拭いて服を着る。
時々、ここに泊まるので、替えの下着やワイシャツは置いている。ボトムスにワイシャツだけ羽織って所長室に戻った。
ワイシャツ一枚で過ごすには寒い気温だが、所長室は暖房を付けっぱなしにしているので問題ない。
オールバックにしていた髪は垂れて、前髪を作っている。ドライヤーで軽く乾かした程度なので湿っているが、部屋の暖かさですぐに乾くだろう。
ハーツが椅子にどさっと座って、疲労混じりの溜め息をついたその時、所長室の扉が開く。完全に無防備だったハーツは、驚きの声を上げた。
「ザマス? どうしたんだ?今日は随分と早い出勤だな」
部屋に入ってきたのは、最近この探偵事務所を、無料で紅茶が飲める勉強部屋代わりにしているザマスだった。
ハーツは壁掛けの時計で時刻を確認する。朝七時。この探偵事務所は朝十時に開くので、出勤にしては早かった。
ザマスは勉強道具や本が詰まったトートバッグを自分の席に置くと、首に巻いていた臙脂色のマフラーをしゅるっと外しながら、
「お前こそ、今日は随分早いな。いつも開所時刻ぎりぎりにしか来ないくせに」
「朝早く来たわけじゃない。昨日からずっとここにいるんだ。それより、今日はキミが来る日だったか?」
「お前の捜査状況が気がかりだったから来てやったんだ。
――それで? 犯人は見つかったのか?」
その言葉を聞いて、沈鬱な表情になったハーツは、黙って首を横に振る。
ザマスはハーツの隣に歩いて行くと、執務机の上に散らばっていた書類を手に取った。
それは、十人ほどの人間の名前と属性が記されたリスト。名前の横には、全員赤いボールペンで×印がつけられていた。
「これは?」
「この間、話した被害者の会社の同僚……いや、元同僚達だ。同じ部署の人間を中心に、犯人になり得そうな人物をリストアップして、虱潰しに会っていたんだが……」
「犯人は見つからなかったのか」
ペラペラと書類を捲りながらザマスがそう言うと、ハーツは疲れを滲ませた顔で頷いた。
「ここしばらく、手当たり次第に会っていたんだが、出会った全員が犯人ではないから、正直、参っている。被害者が勤めていた部署の人間なんて、全員会ったぞ。誰なんだ? 犯人は」
「……」
無言のまま書類を眺めていたザマスは、やがてにやっと笑った。
「私はわかったぞ、犯人が誰なのか」
「嘘だろ!?」
驚いたハーツが反射的に叫んだ。
ザマスは、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
まさかと呟く前に、ザマスの心を読んだハーツは、彼の言葉が嘘ではなく真実であることを悟った。
ハーツは机に両肘をついて項垂れると、髪型がぐしゃっと崩れるくらい両手で頭を抱える。
「そういう……ことか!」
「そういうことだ。心が読めても、発想が近視眼的だったら探偵は務まらないな」
ザマスはふふんと胸を張る。
ハーツは顔を上げると、拗ねた顔をして
「キミは、昨日のオレに電話してきた時には、その真相に辿り着いていたんだな。わかっていたなら、さっさと教えてくれたらいいものを」
「昨日の時点では、ただの予想でしかなかったからな。
お前がこつこつこつこつ容疑者達を精査したおかげで、確信にかわったのだ。
喜べ、無駄ではなかったぞ、お前の努力は」
「……」
白々しい口調でザマスは話す。無論、心を読んだハーツには、ザマスがあえてその可能性を自分に伝えなかったのがわかっていた。
ハーツは子供のようないじけた顔になると、
「キミは意地悪だ」
「馬鹿を言うな。本当にお前に嫌がらせをしたかったら、今日わざわざ事務所に来るはずないだろう?
電話で調査結果だけを聞いて、通話を終了してやった。電話越しだと、お前お得意の心を読む力も発揮できないからな」
実に楽しそうに笑いながら、ザマスは手に持っていた書類をハーツに差し出す。
だが、ハーツは書類ではなくそのザマスの手首を握ると、ぐいっと自分の方に引っ張った。
蹈鞴を踏むほどの力強さに、ザマスは思わず体勢を崩してしまい、咄嗟に自由な方の腕でハーツが座っている椅子の背もたれに手をついた。
ザマスは不快そうに眉間に皺を寄せると、
「痛いぞ。自分の想像力が私に劣ったことへの腹いせか?」
「意地悪な助手へのおしおきだ」
「くだらん」
ザマスは悪態をつく。だが、ハーツは手を放さない。
――どうしてこうも、この助手は今も前世も可愛げが足りないのか。
利害が対立していた前世はともかく、今は仲間であるはずなのに、隙あらばこちらの足を掬いにくる。
ザマスの手首を握ったまま、もう片方の手でザマスの頬を撫でた。
ザマスは鬱陶しそうに眉間に皺を深くするものの、こちらの手を振り払う様子はない。
宝石のように澄んだザマスの瞳を、ハーツは酔ったように見つめる。
ザマスの瞳には、呆れや鬱陶しさが混じっているが、嫌悪の色はなかった。
――だがまぁ、足の掬いあいが文字通り殺し合いに繋がった前世と違い、なんのかんのと言いつつ、こちらの調査に協力してくれたのだから、今は随分と良好な関係を築けたものだと、ハーツは心の中で自負した。
……協力というには、隠しきれない底意地の悪さが滲み出ているが。
出会ってもうそろそろ一年。
地道に信頼を重ねたおかげか、ザマスはハーツのやや過剰なスキンシップにも慣れて、当初よりも警戒心が緩くなっている。こうやって触れても問題ないくらいに。
未成年だからと手を出すのは控えていたが……そろそろ食べ時か?
ハーツが無意識にぺろっと唇の端を舐めた瞬間、ザマスはハーツの頭にチョップした。
「いい加減に手を離せ。そして、貴様は仕事しろ。
事件解決の目処がたっただけで、決定的な証拠はまだ確保してないだろうが」
現実に引き戻されたハーツは頭をさすりながら、
「了解。優秀な助手であるキミの言うとおりにしよう」
「嫌味な言い方だな。先に事件の謎を解かれて嫉妬しているのか?」
「まさか。本心だよ。キミのおかげで事件を解決したも同然だ。感謝する」
「感謝は言葉だけでなく、態度で表すものだ」
「わかっている。来月の給与は期待していてくれ」
「それでいい」
ザマスは非常に満足そうに頷いた。
「私のような優秀な助手を逃がさないためには、それ相応の対価が必要だからな。重々肝に銘じておけ」
「わかっているよ」
だから、色々と手を回しているのだ。ザマスを逃がさないために。
まあ、それはそれとしてだ。
ハーツは机の片隅に置いていたスマートフォンを手に取ると、ゴジータに連絡を入れる。
その様子を見ていたザマスは、つまらなさそうに、
「もしかして、警察に証拠を探させるつもりか?」
「それはそうだろう。
外からやって来た探偵が現場近くで証拠を見つけても、証拠品として採用されるかわからない。こういうのは警察に見つけて貰うのが最善手だ」
「ちっ。お前が這いつくばって、地面を手当たり次第探す姿が見られると期待したんだがな」
「……キミは、本当に優秀な助手だよ」