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第二話 動き出した季節(6月25日 木曜日)

 ハーツは、ベランダの手すりの上に腕を乗せてもたれ掛かると、ふうっと息をついた。シャワーを浴びて濡れた髪が、夜風に揺れる。

 時刻は、日付が変わって少し経った深夜。自宅のマンションに帰り、同居人を起こさないように注意しながら、シャワーを浴びていたらこんな時間だ。温水を浴びたら目が冴えたので、眠気は全くない。寝室に戻る前に、シャワーで火照った体を冷やそうと、ハーツは上半身裸のままバルコニーへと出たのだ。

 ベランダに一歩出ると、夜風がハーツの体を冷やしていく。月明かりの下でも、ひと目見ればわかるほどに、ハーツの体は鋼の筋肉で覆われていた。その見事な体躯も目を惹くが、この場に誰かがいれば、その者の視線は、その筋骨隆々の体に刻まれた、大きな傷跡に吸い寄せられるだろう。上半身の前面に、体を左右から袈裟切りに切り裂かれたかの如く刻まれた傷跡。今では、意識する機会は少なくなったが、それでも寒くなると傷口が疼くことがあった。

 地上五十階から眼下に広がる街の夜景を眺めながら、ハーツはミネラルウォーターのボトルを呷る。この時間の街は、まだ活気がある。闇を押しのけんばかりに光を灯す街は、まるで人間の底力を示しているようで、ハーツは好きだった。

 ハーツは、ぼんやりと夜景を眺めながら、今日、仕入れた情報を頭の中で整理していく。
 風に吹かれて、体の火照りが収まった頃、背後から声をかけられた。

「帰ってたの?」

 振り向くと、そこには緑玉色のパジャマを着たひとりの少女が、眠たげな目を擦りながら立っていた。普段は、髪を二つに結んでいるのだが、起き抜けの今は下ろされている。

「ラグス、まだ起きていたのか?」

 ラグスと呼ばれた少女は、首を横に振る。

「気配を感じて、起きた」
「そうか。起こしてすまなかった」
「ううん。大丈夫」

 ラグスはもう一度首を横に振る。

「それより、寝ないの?」
「もう少し、夜風に当たったら寝る。だから、君は先に寝ておくと良い。明日も学校だろう?」

 だが、ラグスは自分の部屋に戻らず、ガラス戸の近くに置いてあったベランダ用のサンダルを履くと、ハーツの隣に来たのだった。

「私も、もう少し起きてる」
「寝坊しても知らないぞ?」
「大丈夫。起きられるから」
「なら、オレから言うことは何もないな。君は自由に生きるべきだから」

 ラグスは嬉しそうに小さく微笑むと、ハーツがそうしているように、バルコニーの手すりにもたれ掛かった。

「何を考えていたの?」
「色々だ。仕事のこととか、フューの事とか」
「それと、あの轢き逃げ事件の事とか?」

 ハーツは少々驚いた顔をして、隣のラグスを振り返る。
 ラグスは、その硝子玉のような澄んだ目で、真っ直ぐハーツを見上げていた。

「なんで、そう思ったんだ?」
「ここ最近、物思いに更ける時間が増えている。 それも、その事件があった時から」
「大した観察眼だ。恐れ入ったよ」
「当たった?」
「ああ」

 ラグスは嬉しそうに微笑んだ後、不思議そうに、

「どうして、あの事件のことを気にしているの? 関係ないことでしょう?」
「確かにそうだが……」

 ハーツは苦笑すると、

「だが、目の前で起こった事件で、しかもオレも僅かとはいえ、救助に関わっている。被害者の事が、どうしても気になってな」
「珍しい」
「おいおい、心外だな。オレはそんなに薄情な人間に見えるか?」
「いえ、貴方が優しいのは知っている。でも、そこまで入れ込むのは珍しいと思う。ずっと、家に帰ってからも事件の情報を調べているみたいだし」
「そうか? 自分では、普段通りにしているつもりなんだが」
「昨日、共有のタブレットを使って、夜遅くまで事件の事、調べていたでしょう? 検索履歴が残っていた」
「……本当に、君の観察眼は大したものだ。探偵みたいだよ」

 流石のハーツも、驚嘆した。この少女がここまで鋭いとは思わなかった。

 もし、仮に何か隠し事をしなければならない時は、検索履歴は必ず消しておこうと心に誓いながら、ハーツは驚きを押し流すように、水を口にする。

 二人で並んで夜景を眺める。少しだけ、静寂が訪れた後、ハーツが再び口を開いた。

「名探偵にひとつ質問がある」
「何?」
「例えば、君が誰かを車で轢き殺したいと思っていたとしよう。どんな場面で殺そうと思う?」

 突然の質問内容に、ラグスは困惑したように眉をひそめる。

「質問がわかりづらい。どんな場面って言われても……」
「なら、質問の仕方を変えよう。例えば、君なら昼と夜、どちらの時間帯で人を轢き殺そうと思う?」

 ラグスは小首をかしげて考えると、

「夜……かな」
「被害者が人混みを歩いている時と、人気の無いところを歩いていた時は、どちらを選ぶ?」
「人気のない所を歩いていた時」
「それは、何故だ?」
「お昼間や人混みがある所で事件を起こすと、誰かに見られる可能性がある。それに、人混みの中で誰かを轢き殺そうとしたら、関係ない人も巻き込んでしまう。
 できるだけ、人目に付かないようにすると思う。私だったら」
「だろうな……」

 だが、あの事件の犯人はそうしなかった。

 昼間の、それも都会の人混みの中で、あの大学院生を轢き殺そうとしたのだ。フロント硝子越しに顔を見られる可能性があるにも関わらず。

 現に、ニュースに出ていたが、犯人は帽子を被り、サングラスとマスクをした顔を、監視カメラに収められていた。最終的に、監視カメラのないところまで逃げられたため、犯人の詳細は分からなかったらしいが、それでもカメラに映った画像から、犯人は男ではないかと推測されているのだ。

「ラグス、もうひとつ質問だ。人目につくとわかっていても、それでも昼間の人混みの中で人を轢き殺さないといけない時があるとして、それはどんな時だと思う?」
「それは……」

 ラグスは顎に手を当てて、真剣な表情をして考え込む。しばらくして、ラグスは口を開いた。

「何かの理由があって、急いでその人を殺さなければいけない時、だと思う。例えば、早く殺さないと、自分の立場が危うくなる時とか」
「なるほど」

 ラグスの見解を聞いたハーツは、満足そうに頷いた。

「オレも同じ考えだ」
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