第二話 動き出した季節(6月25日 木曜日)
「ってなことがあってさー! もー! 警察ってうざい!」
フューは勢いに任せてビールを飲み干すと、空になったグラスをカウンターテーブルにだんっと叩き付けたのだった。
曇り空の合間から顔を見せていた太陽も沈んだ時間の都会。その一角にあるイタリアンバルのカウンターで、フューとハーツは並んで食事を取っていた。
今日は木曜日。週末ではない平日なだけあって、お店の客入りはそこそこ。思い思いに食事とお酒を楽しむお客の中で、フューはひとり、荒れていた。
「警察署で説明してやったことをもう一回説明させようとするし、あの患者の状態を根掘り葉掘り聞こうとするし、薬物をやってなかったか調べたいから、事故当日の検体があればよこせとか無茶を言ってくるし! 令状無しで渡せるわけないでしょ!」
「それは、大変だったな」
久々に荒れている年下の友人を宥めながら、ハーツはカウンターの向こうにあるキッチンで串をあぶっていた店員に、ビールのお代わりを注文した。
ハーツは、例の轢き逃げ事件の被害者が、今どうなっているか聞きたかったのでフューを食事に誘ったのだが、この様子ではそのことを聞く前に、まずは荒れたフューの相手をしなければならないだろう。
「おかげで部長や救急科の先生から、『変な警察を連れてくるな』とか小言を言われちゃったし! 僕が連れてきたくて連れてきたわけじゃないのにー!」
「あまり大声を出すな。周りの客に聞かれるぞ」
ハーツは、ビールで満たされたグラスを持ってきたものの、渡すタイミングが掴めずに戸惑っていた女性店員に微笑みながら礼を言うと、そのグラスを受け取ってフューに渡してやった。
フューはすかさずグラスの半分まで飲むと、
「聴取に二時間も時間を取られたんだよ!? 予定していた処置も後回しになったし、聴取が終わって急いで病棟に上がったのに、看護師さんは『先生。早く薬、出して』って冷たいし!」
「まあ、看護師は医薬品の処方ができないんだろう? きっと君の到着を待つしかなくて、心穏やかじゃなかったんだ。あまり気にするな」
「麻薬くらい看護師さんで処方してよー!」
『無茶を言うな』と、看護師の突っ込みが聞こえてきそうな言葉を吐いていたフューだったが、散々騒いで落ち着いたのか、先程よりも声のトーンを落として、
「で、その刑事が言ってたんだけど、まだ犯人は捜査中で分かってないって。途中までは街の防犯カメラで追えたけど、最後はカメラがないところに逃げられたから、結局、行方も追えていないらしい。一応、逃走車両を見つけて、持ち主は探し出したらしいけど」
「ほう。それは初耳だな」
ビールを口にしていたハーツは、興味深そうにそう言った。
例の事件はニュースになって、世間にそこそこ露出している。一大事件、というほどでもないが、夕方のニュースでそれなりの枠を使って放送されたので、ハーツも事件に関してある程度の情報を把握していた。
だが、フューが口にした内容は初耳だし、ニュースでも言っていなかったはずだ。
「警察は、その車の持ち主が犯人か調べている途中なのか?」
ハーツがそう問うと、フューは前菜の鶏胸肉のハムをつまみながら、
「いや、もう調べ終わったみたい。でも、その人にはアリバイがあったから犯人ではないんだと。だから、警察はまだ犯人を捜し続けているみたいだよ」
「随分とペラペラ喋るな」
不意に、横手から声をかけられた。
二人は同時に声のした方へと振り向く。フューは声をかけてきた人物をハーツ越しに認識した瞬間、嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「うげ。なんで君がここにいるんだよ」
そこに立っていたのは、紺色のTシャツに淡いベージュのカーゴパンツというラフな服装をした男がひとり。
目つきの鋭い男だが、ハーツは見覚えがあるようでなかった。
ちらっと、隣に座るフューに視線を向けると、意図を察したフューが小声でその男の名を伝えた。
「さっき僕が言っていた、ゴジータって名前の警官」
ゴジータは、ハーツの向こう側にいるフューを、顰めっ面で見据えながら、
「オレが聴取した時は、守秘義務だの個人情報だのと言って、碌に説明しなかった癖に、お友達にはペラペラ喋るんだな」
「僕がハーツに喋ったことをハーツが喋れなければ、秘密は守られるから問題ないよ」
フューは、平然と屁理屈を述べて、あからさまにゴジータを邪険に扱った。フューは早くどっかに行って欲しそうだったが、逆にハーツは興味深そうにゴジータに声をかける。
「フューに事情聴取をしに来たのか?」
「いや、たまたまメシを喰いにこの店に入ったら、そこの先生が喚いている場面に出会っただけだ。
……あんたは?」
「ああ、申し遅れた。オレはフューの友人でハーツという。フューと一緒に、その轢き逃げ事件の現場にでくわしたんだ」
ハーツは、ボトムのポケットから革製の名刺入れを出すと、中から名刺を一枚取り出し、それをすっと机の上を滑らせるようにしてゴジータの方に差し出した。
名刺を受け取ったゴジータは、その紙面に記載された店名を怪訝そうに読み上げる。
「……グリーンインテリアショップ コアエリア?」
「主に、観葉植物とかを仕入れて売る商売をしている」
「へえ、社長さんか」
「あまり儲かってはいないがな。それより、あの轢き逃げ事件に使われた車の持ち主が、犯人ではないということだが、他に何か捜査していてわかったことはあるのか?」
「そんなこと、関係ない奴に言えるか」
ゴジータはにべもなく言い放つと、そのままハーツの隣の空いている席に座った。
「ちょっと。ここでご飯食べるつもり? 空いてる席なら、他にも一杯あるでしょ」
「ここなら、先生が余計なことを言わないか見張れるから、ちょうど良いんだよ。あんまり、オレから聞いたことを喋るなよ。マスコミとかにバレるとめんどくせぇから」
フューが不満を口にするが、ゴジータは取り合わずに、自分の夕飯をカウンター向こうのキッチンにいる店員に注文した。
ハーツはビールをひとくち飲んだ後、
「で、警察は犯人の目星は着いているのか?」
「さあな」
ゴジータはとぼけた口調で答える。
実のところ、犯人の目星は付いているようで付いていなかった。怪しいと疑われている人物はいるのだが、まだ状況からみて怪しいかもしれないと思われているだけで、容疑者と呼べる程ではない。
「なるほど。疑いのある人物はいるが、犯人や容疑者と呼べるほどの証拠はないのか」
「!?」
今、まさに心の内で考えていたことを言い当てられて、驚愕の表情を浮かべたゴジータは、思わずハーツの方を振り向いた。
ハーツはにやっと笑うと、
「当たりか。君、反応がわかりやすいな」
ゴジータは警戒するように瞳を眇める。今のは、迂闊だった。どうやら、ハーツという男は、ただ予想を口にしただけなのに、自分が過剰に反応したせいで、確信を与えてしまったようだ。ゴジータが用心深く自分を見据えているのを知ってか知らずか、ハーツは独り言のように考えを口にしていく。
「轢き逃げ犯は、被害者を轢く直前、ブレーキを踏まなかった。ブレーキを踏む間もなく轢いてしまった、という可能性もあるが、轢き逃げに使われた車が盗難車であった事から、元々被害者を轢き殺すつもりだったとも考えられるな。
そうなると、殺人の動機は怨恨になり、被害者との間でトラブルを起こしていた人間が怪しくなる。特に、事件当日やその直前にあった人物とか。警察は、そういう人間に心当たりはないのか?」
「さあな。あったとしても、あんたには言えねぇよ」
ゴジータはハーツの問いかけを切り捨てると、運ばれてきたビールに口をつけた。
実のところ、ゴジータを含む交通捜査課は、ハーツと同じ考えに辿り着いていた。
現状、車を盗んだ犯人が、たまたま被害者を轢いてしまったという可能性もあるため、引き続き交通捜査課がこの事件を担当しているが、もし怨恨による殺人未遂事件とはっきりしたら、強行犯係のある刑事課に事件を引き継ぐ必要がある。
現時点でも、捜査を轢き逃げから殺人未遂事件に切り替える必要があるのではという意見も出ており、その数も少なくない。
それらを踏まえて、交通捜査課は、盗難車が盗まれた場所と乗り捨てられた場所の周辺で、聞き込み調査を行っている。それと同時に、被害者の周辺も調べて、被害者とトラブルがあった人物、もしくは直前に被害者とあった人物に聞き込みを行う予定であり、被害者と直前に会った人物には、目星がついていた。
ゴジータとハーツの話を聞き耳立てていたフューが、会話に割って入ってきた。
「被害者が直前に会った人物? それならわかるよ。この近くで建設業をやってる中小企業の社長と、あの患者が通っている大学院の院長と、その学部の教授の三人」
「ぶっ!」
ゴジータは思わず飲んでいたビールを吹き出した。
「汚い」
「どうした? 咽せたか?」
「せ、先生、あんた!」
冷めた目で睨むフューと、お絞りを差し出すハーツ。ゴジータは差し出されたお絞りで口元を拭いながら、フューを睨んだ。
「なんでそれを……!」
フューが列挙した人物は、まさに警察が被害者と直前に顔を合わせた人物としてピックアップしている人達である。
フューはチーズリゾットを食べながら事も何気に、
「あの患者の荷物の中に、手帳が入ってたんだよ。スケジュールの欄を見たら、その三人の名前が、事故の前日と当日に書かれていたから、それを覚えていただけ」
あの目の回るような忙しさの中、手帳の中身を見られたのはほんの一、二分ほど。しかし、その短い間にフューの英明な頭脳は手帳の中身を記憶していた。
「医者が、勝手に患者の手帳の中身を見て喋って良いのかよ?」
「問題ないよ、バレなければ。それに、あの患者の荷物は警察が押収したって聞いているし、どうせ警察もその手帳を見て、直前に出会った人物を割り出してるんでしょ?
警察が見ていいのなら医者が見ても問題ないよ。
あ、トマト煮込みと海老のアヒージョくださーい。バゲット付きで」
現役の警官相手に、フューはいけしゃあしゃあと屁理屈を言い放つ。
ハーツは興味深げに、
「へえ、その三人が被害者と事件の直前に顔を合わせた人物か」
「おい、何を考えてんだ」
何やらよからぬ事を企んでいそうなハーツに、ゴジータは釘を刺す。
「探偵の真似事でもするつもりか? 興味本位で事件に首を突っ込むな。あんたは何も関係ないだろう」
「一応、関係あるぞ。事件が起こった現場に居合わせた」
「それだけだ。被害者と関わりがあるわけじゃねえだろ」
「……まあ、一理あるな」
ハーツはビールをぐいっと呷って飲み干すと、
「本当はもっと事件の事を聞きたいが、あまり深追いすると君に嫌われそうだな」
「わかってるなら、それ以上聞くなよ」
「善処するよ」
ハーツはおどけたように言った後、店員に追加の飲み物を注文した。ハーツもフューもゴジータも、体格がいいせいか、かなりの量の酒と食事を取っているのに、まだ腹一杯になっていないらしく、食事の勢いは衰えそうになかった。
ゴジータは運ばれてきた熱々のマルゲリータを頬張りながら、ハーツ越しにフューに話しかけた。
「ところで、先生」
「なに?」
アヒージョのオリーブオイルに浸したバゲットを囓りながら、フューは答える。
「昼間、聞き忘れたんだが、あの被害者はいつ目を覚ますんだ?」
「主治医に聞いてよ」
「あんたも、あの患者の治療に関わってるんだろう? 答えてくれたら、先生が被害者の手帳を勝手に盗み見て、無関係の人間に言いふらしてたことを黙っといてやるよ」
「……鎮静剤を切って、人工呼吸器から離脱するのを目標にしてるって、主治医は言ってた。おそらく、鎮静剤さえ切ることができれば、あの患者は目を覚ますと思う。でも、それがいつになるかはわからない」
「先生の見立てでは、いつぐらいになりそうだ?」
「だから、わかんないってば。患者の回復力次第だし、こればかりは、今の段階では確実なことは言えないよ」
ハーツが会話に加わる。
「目が覚めたら、その被害者に事情聴取するつもりなのか」
「当たり前だろう」
「興味があるな」
「言っておくが、オレに聞いても事情聴取の内容は話さないからな」
「わかっているよ」
そう言うと、ハーツは追加で頼んだグラスワインを飲みながら、何かを考えるかのように静かになる。
それを、ゴジータは警戒するように横目で眺めていたのだった。
「恋愛沙汰、ではないだろうな。流石に」
そう言って、ハーツは琥珀色のウィスキーが入ったグラスに口をつけた。グラスの中の氷が、からんと涼しげな音を立てる。
ゴジータと別れたフューとハーツは、夕食を取っていたイタリアンバルからやや離れた場所にある、落ち着いた雰囲気のバーに移動していた。
カウンターの向こうに大量に積まれたボトルと、照明の光量を絞った店内。客はまばらだ。カウンターテーブルに並んで座る二人の話題は、やはりハーツとフューが同時に目撃したあの事件だった。
ルビーのような色をした赤ワインのグラスを傾けつつ、フューはおちゃらけた口調で、
「容疑者の三人のうちと被害者が恋愛してた可能性かー。あり得ない話じゃないよ。今時の恋愛対象は、異性だけに限らないし」
ハーツは流石に苦笑しながら、
「被害者は大学院の院生だぞ? 年が離れすぎてる。
……まあ、そういう趣味の男性が世の中にはひとりもいないとは言わないが。
だが、被害者が通っていた大学院では、ここ最近トラブルが起こっていたらしい。実際に関係あるかないかは別として、そちらの方面に轢き逃げ事件の要因がないか調査した方が現実に即している」
「調べたの?」
「ああ。さっきは隣に警察がいたからあえて喋らなかったが、被害者が通っていた大学院はすぐに見つかった。
神学部なんて、どこの大学院にもあるような学部じゃないしな。幸い、客のひとりに院の関係者がいたから、色々と話が聞けた。被害者のこととか、大学院で起きているトラブルとか」
「どんなどんな?」
フューは好奇心を刺激されたらしく、目を輝かせてハーツに続きをねだる。
「被害者のことだが、彼は結構、院内では有名人だったようだ。博士号取得が確実視されている優秀な院生だが、それでいて周りに対する言動がきつくて評判は悪い。
オレが訪ねた院の関係者というのは、その大学院の事務員なんだが、直接関わりの無い事務員の耳にも結構、被害者が起こしたトラブルが届いていたらしいぞ」
「うわ。きっつい性格。覚醒した後、医者や看護師にクレームつけなければいいけど」
「それで、大学院で起きていたトラブルなんだが、二つある。ひとつは、神学部研究科の縮小」
「それって、院生が集まらないから規模を縮小しようってこと?」
「まさしく、そういう事だ。
少子化に加えて、神学部という需要のなさから、ここ最近定員割れを起こしている。そのため、大学院の経営のために縮小しようって案が出ているんだが、それに対して反対意見が出て揉めている。
そして、もうひとつは研究論文の盗用だ。ある教授が書いた神学に関する論文を、別の教授が自分が書いたように発表したらしい」
「へー。その大学院も大変だね。」
人ごとのように呟いた後、フューはおつまみとして注文していたチーズ盛りの中から、とろっとした断面のカマンベールチーズを摘まんで食べる
「そういえばさ。神学ってどういう学問だったっけ? 宗教学とは違うんだよね?」
「オレも詳しくは知らないが、調べてみたら『宗教、特にキリスト教の教理や信仰生活を、その教理の立場から研究する学問』と出てくる。現代のこの国では、主に牧師や神父になる人たちが、箔をつけるために学ぶことが多いようだ」
「被害者って性格がきついんでしょ?そんなトラブルを引き起こすような性格で、迷える子羊を導けるのかな?」
「本人のやる気は知らないが、評判を聞く限り適性はないだろうな」
ハーツはウィスキーをひとくち。芳醇な香りが鼻腔を満たしていく。夕食の時から数えるとかなりの酒量になるが、二人とも顔色ひとつ変えていない。
ハーツはことっとグラスをテーブルの上に置くと、
「オレはもう少しこの事件を調べてみるつもりだ。一応、当てはあるからな。フューの方でも、何かわかったらオレに教えてくれないか?」
「別に良いけど。僕は医師業が忙しいから、君みたいな実地調査はできないよ」
「構わない。直接、現地に赴いての調査はオレがする。
それに、この事件を捜査している警官とも縁ができた。何か気になることがあったら、そちらにも頼ってみるつもりだ」
「教えてくれるかなー? あの刑事さん、ハーツのこと滅茶苦茶、警戒してたよ」
顰めっ面をしながら帰って行ったゴジータのことを思い出したフューは、小気味良さそうに笑った。
ハーツも口元に笑みを浮かべながら、
「オレは仲良くしたかったんだが、嫌われたようで残念だ」
「初めて会う人は、ハーツの勘の良さにビビるんだよ。僕だって、今でさえ、心の声を読まれてるんじゃないかって思う時があるもん」
「心の声を読む、か……」
ハーツは何かを考えるかのように呟いた後、小さくふっと笑ったのだった。
フューは勢いに任せてビールを飲み干すと、空になったグラスをカウンターテーブルにだんっと叩き付けたのだった。
曇り空の合間から顔を見せていた太陽も沈んだ時間の都会。その一角にあるイタリアンバルのカウンターで、フューとハーツは並んで食事を取っていた。
今日は木曜日。週末ではない平日なだけあって、お店の客入りはそこそこ。思い思いに食事とお酒を楽しむお客の中で、フューはひとり、荒れていた。
「警察署で説明してやったことをもう一回説明させようとするし、あの患者の状態を根掘り葉掘り聞こうとするし、薬物をやってなかったか調べたいから、事故当日の検体があればよこせとか無茶を言ってくるし! 令状無しで渡せるわけないでしょ!」
「それは、大変だったな」
久々に荒れている年下の友人を宥めながら、ハーツはカウンターの向こうにあるキッチンで串をあぶっていた店員に、ビールのお代わりを注文した。
ハーツは、例の轢き逃げ事件の被害者が、今どうなっているか聞きたかったのでフューを食事に誘ったのだが、この様子ではそのことを聞く前に、まずは荒れたフューの相手をしなければならないだろう。
「おかげで部長や救急科の先生から、『変な警察を連れてくるな』とか小言を言われちゃったし! 僕が連れてきたくて連れてきたわけじゃないのにー!」
「あまり大声を出すな。周りの客に聞かれるぞ」
ハーツは、ビールで満たされたグラスを持ってきたものの、渡すタイミングが掴めずに戸惑っていた女性店員に微笑みながら礼を言うと、そのグラスを受け取ってフューに渡してやった。
フューはすかさずグラスの半分まで飲むと、
「聴取に二時間も時間を取られたんだよ!? 予定していた処置も後回しになったし、聴取が終わって急いで病棟に上がったのに、看護師さんは『先生。早く薬、出して』って冷たいし!」
「まあ、看護師は医薬品の処方ができないんだろう? きっと君の到着を待つしかなくて、心穏やかじゃなかったんだ。あまり気にするな」
「麻薬くらい看護師さんで処方してよー!」
『無茶を言うな』と、看護師の突っ込みが聞こえてきそうな言葉を吐いていたフューだったが、散々騒いで落ち着いたのか、先程よりも声のトーンを落として、
「で、その刑事が言ってたんだけど、まだ犯人は捜査中で分かってないって。途中までは街の防犯カメラで追えたけど、最後はカメラがないところに逃げられたから、結局、行方も追えていないらしい。一応、逃走車両を見つけて、持ち主は探し出したらしいけど」
「ほう。それは初耳だな」
ビールを口にしていたハーツは、興味深そうにそう言った。
例の事件はニュースになって、世間にそこそこ露出している。一大事件、というほどでもないが、夕方のニュースでそれなりの枠を使って放送されたので、ハーツも事件に関してある程度の情報を把握していた。
だが、フューが口にした内容は初耳だし、ニュースでも言っていなかったはずだ。
「警察は、その車の持ち主が犯人か調べている途中なのか?」
ハーツがそう問うと、フューは前菜の鶏胸肉のハムをつまみながら、
「いや、もう調べ終わったみたい。でも、その人にはアリバイがあったから犯人ではないんだと。だから、警察はまだ犯人を捜し続けているみたいだよ」
「随分とペラペラ喋るな」
不意に、横手から声をかけられた。
二人は同時に声のした方へと振り向く。フューは声をかけてきた人物をハーツ越しに認識した瞬間、嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「うげ。なんで君がここにいるんだよ」
そこに立っていたのは、紺色のTシャツに淡いベージュのカーゴパンツというラフな服装をした男がひとり。
目つきの鋭い男だが、ハーツは見覚えがあるようでなかった。
ちらっと、隣に座るフューに視線を向けると、意図を察したフューが小声でその男の名を伝えた。
「さっき僕が言っていた、ゴジータって名前の警官」
ゴジータは、ハーツの向こう側にいるフューを、顰めっ面で見据えながら、
「オレが聴取した時は、守秘義務だの個人情報だのと言って、碌に説明しなかった癖に、お友達にはペラペラ喋るんだな」
「僕がハーツに喋ったことをハーツが喋れなければ、秘密は守られるから問題ないよ」
フューは、平然と屁理屈を述べて、あからさまにゴジータを邪険に扱った。フューは早くどっかに行って欲しそうだったが、逆にハーツは興味深そうにゴジータに声をかける。
「フューに事情聴取をしに来たのか?」
「いや、たまたまメシを喰いにこの店に入ったら、そこの先生が喚いている場面に出会っただけだ。
……あんたは?」
「ああ、申し遅れた。オレはフューの友人でハーツという。フューと一緒に、その轢き逃げ事件の現場にでくわしたんだ」
ハーツは、ボトムのポケットから革製の名刺入れを出すと、中から名刺を一枚取り出し、それをすっと机の上を滑らせるようにしてゴジータの方に差し出した。
名刺を受け取ったゴジータは、その紙面に記載された店名を怪訝そうに読み上げる。
「……グリーンインテリアショップ コアエリア?」
「主に、観葉植物とかを仕入れて売る商売をしている」
「へえ、社長さんか」
「あまり儲かってはいないがな。それより、あの轢き逃げ事件に使われた車の持ち主が、犯人ではないということだが、他に何か捜査していてわかったことはあるのか?」
「そんなこと、関係ない奴に言えるか」
ゴジータはにべもなく言い放つと、そのままハーツの隣の空いている席に座った。
「ちょっと。ここでご飯食べるつもり? 空いてる席なら、他にも一杯あるでしょ」
「ここなら、先生が余計なことを言わないか見張れるから、ちょうど良いんだよ。あんまり、オレから聞いたことを喋るなよ。マスコミとかにバレるとめんどくせぇから」
フューが不満を口にするが、ゴジータは取り合わずに、自分の夕飯をカウンター向こうのキッチンにいる店員に注文した。
ハーツはビールをひとくち飲んだ後、
「で、警察は犯人の目星は着いているのか?」
「さあな」
ゴジータはとぼけた口調で答える。
実のところ、犯人の目星は付いているようで付いていなかった。怪しいと疑われている人物はいるのだが、まだ状況からみて怪しいかもしれないと思われているだけで、容疑者と呼べる程ではない。
「なるほど。疑いのある人物はいるが、犯人や容疑者と呼べるほどの証拠はないのか」
「!?」
今、まさに心の内で考えていたことを言い当てられて、驚愕の表情を浮かべたゴジータは、思わずハーツの方を振り向いた。
ハーツはにやっと笑うと、
「当たりか。君、反応がわかりやすいな」
ゴジータは警戒するように瞳を眇める。今のは、迂闊だった。どうやら、ハーツという男は、ただ予想を口にしただけなのに、自分が過剰に反応したせいで、確信を与えてしまったようだ。ゴジータが用心深く自分を見据えているのを知ってか知らずか、ハーツは独り言のように考えを口にしていく。
「轢き逃げ犯は、被害者を轢く直前、ブレーキを踏まなかった。ブレーキを踏む間もなく轢いてしまった、という可能性もあるが、轢き逃げに使われた車が盗難車であった事から、元々被害者を轢き殺すつもりだったとも考えられるな。
そうなると、殺人の動機は怨恨になり、被害者との間でトラブルを起こしていた人間が怪しくなる。特に、事件当日やその直前にあった人物とか。警察は、そういう人間に心当たりはないのか?」
「さあな。あったとしても、あんたには言えねぇよ」
ゴジータはハーツの問いかけを切り捨てると、運ばれてきたビールに口をつけた。
実のところ、ゴジータを含む交通捜査課は、ハーツと同じ考えに辿り着いていた。
現状、車を盗んだ犯人が、たまたま被害者を轢いてしまったという可能性もあるため、引き続き交通捜査課がこの事件を担当しているが、もし怨恨による殺人未遂事件とはっきりしたら、強行犯係のある刑事課に事件を引き継ぐ必要がある。
現時点でも、捜査を轢き逃げから殺人未遂事件に切り替える必要があるのではという意見も出ており、その数も少なくない。
それらを踏まえて、交通捜査課は、盗難車が盗まれた場所と乗り捨てられた場所の周辺で、聞き込み調査を行っている。それと同時に、被害者の周辺も調べて、被害者とトラブルがあった人物、もしくは直前に被害者とあった人物に聞き込みを行う予定であり、被害者と直前に会った人物には、目星がついていた。
ゴジータとハーツの話を聞き耳立てていたフューが、会話に割って入ってきた。
「被害者が直前に会った人物? それならわかるよ。この近くで建設業をやってる中小企業の社長と、あの患者が通っている大学院の院長と、その学部の教授の三人」
「ぶっ!」
ゴジータは思わず飲んでいたビールを吹き出した。
「汚い」
「どうした? 咽せたか?」
「せ、先生、あんた!」
冷めた目で睨むフューと、お絞りを差し出すハーツ。ゴジータは差し出されたお絞りで口元を拭いながら、フューを睨んだ。
「なんでそれを……!」
フューが列挙した人物は、まさに警察が被害者と直前に顔を合わせた人物としてピックアップしている人達である。
フューはチーズリゾットを食べながら事も何気に、
「あの患者の荷物の中に、手帳が入ってたんだよ。スケジュールの欄を見たら、その三人の名前が、事故の前日と当日に書かれていたから、それを覚えていただけ」
あの目の回るような忙しさの中、手帳の中身を見られたのはほんの一、二分ほど。しかし、その短い間にフューの英明な頭脳は手帳の中身を記憶していた。
「医者が、勝手に患者の手帳の中身を見て喋って良いのかよ?」
「問題ないよ、バレなければ。それに、あの患者の荷物は警察が押収したって聞いているし、どうせ警察もその手帳を見て、直前に出会った人物を割り出してるんでしょ?
警察が見ていいのなら医者が見ても問題ないよ。
あ、トマト煮込みと海老のアヒージョくださーい。バゲット付きで」
現役の警官相手に、フューはいけしゃあしゃあと屁理屈を言い放つ。
ハーツは興味深げに、
「へえ、その三人が被害者と事件の直前に顔を合わせた人物か」
「おい、何を考えてんだ」
何やらよからぬ事を企んでいそうなハーツに、ゴジータは釘を刺す。
「探偵の真似事でもするつもりか? 興味本位で事件に首を突っ込むな。あんたは何も関係ないだろう」
「一応、関係あるぞ。事件が起こった現場に居合わせた」
「それだけだ。被害者と関わりがあるわけじゃねえだろ」
「……まあ、一理あるな」
ハーツはビールをぐいっと呷って飲み干すと、
「本当はもっと事件の事を聞きたいが、あまり深追いすると君に嫌われそうだな」
「わかってるなら、それ以上聞くなよ」
「善処するよ」
ハーツはおどけたように言った後、店員に追加の飲み物を注文した。ハーツもフューもゴジータも、体格がいいせいか、かなりの量の酒と食事を取っているのに、まだ腹一杯になっていないらしく、食事の勢いは衰えそうになかった。
ゴジータは運ばれてきた熱々のマルゲリータを頬張りながら、ハーツ越しにフューに話しかけた。
「ところで、先生」
「なに?」
アヒージョのオリーブオイルに浸したバゲットを囓りながら、フューは答える。
「昼間、聞き忘れたんだが、あの被害者はいつ目を覚ますんだ?」
「主治医に聞いてよ」
「あんたも、あの患者の治療に関わってるんだろう? 答えてくれたら、先生が被害者の手帳を勝手に盗み見て、無関係の人間に言いふらしてたことを黙っといてやるよ」
「……鎮静剤を切って、人工呼吸器から離脱するのを目標にしてるって、主治医は言ってた。おそらく、鎮静剤さえ切ることができれば、あの患者は目を覚ますと思う。でも、それがいつになるかはわからない」
「先生の見立てでは、いつぐらいになりそうだ?」
「だから、わかんないってば。患者の回復力次第だし、こればかりは、今の段階では確実なことは言えないよ」
ハーツが会話に加わる。
「目が覚めたら、その被害者に事情聴取するつもりなのか」
「当たり前だろう」
「興味があるな」
「言っておくが、オレに聞いても事情聴取の内容は話さないからな」
「わかっているよ」
そう言うと、ハーツは追加で頼んだグラスワインを飲みながら、何かを考えるかのように静かになる。
それを、ゴジータは警戒するように横目で眺めていたのだった。
「恋愛沙汰、ではないだろうな。流石に」
そう言って、ハーツは琥珀色のウィスキーが入ったグラスに口をつけた。グラスの中の氷が、からんと涼しげな音を立てる。
ゴジータと別れたフューとハーツは、夕食を取っていたイタリアンバルからやや離れた場所にある、落ち着いた雰囲気のバーに移動していた。
カウンターの向こうに大量に積まれたボトルと、照明の光量を絞った店内。客はまばらだ。カウンターテーブルに並んで座る二人の話題は、やはりハーツとフューが同時に目撃したあの事件だった。
ルビーのような色をした赤ワインのグラスを傾けつつ、フューはおちゃらけた口調で、
「容疑者の三人のうちと被害者が恋愛してた可能性かー。あり得ない話じゃないよ。今時の恋愛対象は、異性だけに限らないし」
ハーツは流石に苦笑しながら、
「被害者は大学院の院生だぞ? 年が離れすぎてる。
……まあ、そういう趣味の男性が世の中にはひとりもいないとは言わないが。
だが、被害者が通っていた大学院では、ここ最近トラブルが起こっていたらしい。実際に関係あるかないかは別として、そちらの方面に轢き逃げ事件の要因がないか調査した方が現実に即している」
「調べたの?」
「ああ。さっきは隣に警察がいたからあえて喋らなかったが、被害者が通っていた大学院はすぐに見つかった。
神学部なんて、どこの大学院にもあるような学部じゃないしな。幸い、客のひとりに院の関係者がいたから、色々と話が聞けた。被害者のこととか、大学院で起きているトラブルとか」
「どんなどんな?」
フューは好奇心を刺激されたらしく、目を輝かせてハーツに続きをねだる。
「被害者のことだが、彼は結構、院内では有名人だったようだ。博士号取得が確実視されている優秀な院生だが、それでいて周りに対する言動がきつくて評判は悪い。
オレが訪ねた院の関係者というのは、その大学院の事務員なんだが、直接関わりの無い事務員の耳にも結構、被害者が起こしたトラブルが届いていたらしいぞ」
「うわ。きっつい性格。覚醒した後、医者や看護師にクレームつけなければいいけど」
「それで、大学院で起きていたトラブルなんだが、二つある。ひとつは、神学部研究科の縮小」
「それって、院生が集まらないから規模を縮小しようってこと?」
「まさしく、そういう事だ。
少子化に加えて、神学部という需要のなさから、ここ最近定員割れを起こしている。そのため、大学院の経営のために縮小しようって案が出ているんだが、それに対して反対意見が出て揉めている。
そして、もうひとつは研究論文の盗用だ。ある教授が書いた神学に関する論文を、別の教授が自分が書いたように発表したらしい」
「へー。その大学院も大変だね。」
人ごとのように呟いた後、フューはおつまみとして注文していたチーズ盛りの中から、とろっとした断面のカマンベールチーズを摘まんで食べる
「そういえばさ。神学ってどういう学問だったっけ? 宗教学とは違うんだよね?」
「オレも詳しくは知らないが、調べてみたら『宗教、特にキリスト教の教理や信仰生活を、その教理の立場から研究する学問』と出てくる。現代のこの国では、主に牧師や神父になる人たちが、箔をつけるために学ぶことが多いようだ」
「被害者って性格がきついんでしょ?そんなトラブルを引き起こすような性格で、迷える子羊を導けるのかな?」
「本人のやる気は知らないが、評判を聞く限り適性はないだろうな」
ハーツはウィスキーをひとくち。芳醇な香りが鼻腔を満たしていく。夕食の時から数えるとかなりの酒量になるが、二人とも顔色ひとつ変えていない。
ハーツはことっとグラスをテーブルの上に置くと、
「オレはもう少しこの事件を調べてみるつもりだ。一応、当てはあるからな。フューの方でも、何かわかったらオレに教えてくれないか?」
「別に良いけど。僕は医師業が忙しいから、君みたいな実地調査はできないよ」
「構わない。直接、現地に赴いての調査はオレがする。
それに、この事件を捜査している警官とも縁ができた。何か気になることがあったら、そちらにも頼ってみるつもりだ」
「教えてくれるかなー? あの刑事さん、ハーツのこと滅茶苦茶、警戒してたよ」
顰めっ面をしながら帰って行ったゴジータのことを思い出したフューは、小気味良さそうに笑った。
ハーツも口元に笑みを浮かべながら、
「オレは仲良くしたかったんだが、嫌われたようで残念だ」
「初めて会う人は、ハーツの勘の良さにビビるんだよ。僕だって、今でさえ、心の声を読まれてるんじゃないかって思う時があるもん」
「心の声を読む、か……」
ハーツは何かを考えるかのように呟いた後、小さくふっと笑ったのだった。