第十四話 真意(8月24日 月曜日)
深夜。丑三つ時も過ぎた時刻。
ザマスはゆっくりと布団から起き上がった。隣のベッドの上では、寝間着を着たハーツがこちらに背を向けて眠っている。
ここは、ハーツの寝室である。毛足の短い質の良さそうなラグの上に敷かれた布団の上で、ザマスは先程まで横になっていた。
広めの寝室には、今、ザマスとハーツしかいない。
フューとザマスがハーツの家に泊まることになり、当初は余っている部屋にフューと一緒に寝泊まりする予定だった。だが、それではハーツの事を調べられないと考えたザマスは、店のことでハーツと話があるからと伝え、しばらくハーツの寝室で話し合っていたのである。
時計の針は進み、ザマスは賭に出た。ハーツの寝室で、わざと寝たふりをしたのである。
賭けには勝った。
ハーツは、椅子に座って寝入ってしまったザマスを、起こさないようにそっと横抱きに抱き上げると、ベッドの隣に轢いた布団に寝かせたのである。
これで、客室に戻されたら失敗だったが、なんとかザマスの願い通りの展開になった。あとは、ハーツが寝るのを待って、ザマスは行動に出たのである。
ザマスは、音を立てないように注意しながら、隣のハーツの様子を窺った。こちらに背を向けたまま、ゆっくり呼吸している。
ハーツが寝ているのを確認すると、ザマスは息を殺しながら静かに手を伸ばして、サイドテーブルの上に置いてある、ハーツのスマートフォンを手に取ったのだった。
改めて、ハーツの目的を調べると考えた時、思い浮かんだのがハーツのスマートフォンだった。
監視アプリで監視されて気が付いたのだが、スマートフォンにはザマスが想像する以上に、個人の情報が記憶されている。
これを調べれば、何かわかるかもしれないと、ザマスは考えた。
ザマスは手に持ったスマートフォンを落とさないように気をつけながら、さっとハーツに背を向ける形で布団の中に潜り込む。こうすれば、スマートフォンの光が漏れないはずだ。
ハーツに聞こえるのではないかと危惧するほど、心音がうるさい。
ザマスは震える指でスマートフォンの画面をタップした。手汗でスマートフォンを持つ手が滑る。
暗かった画面がぱっと明るくなり、パターン認証を求める画面に切り替わる。
今日、夕食会の最中に気が付いたのだが、ハーツのスマートフォンのロックが指紋認証からパターン認証に変わっていた。
チャンスだ、とザマスは思った。
ロックを解除する様子を横目で見ていたザマスは、平静を装いながらそのパターンを覚えた。パターン認証なら、スマートフォンさえ手に入れられれば、ザマスでも解除できる。
記憶を蘇らせながら、ザマスがパターンを登録すると、ロック画面が解除された。
ザマスは、思わず快哉を叫びそうになった。興奮する自分を抑えながら、ザマスはスマートフォンの操作をする。
――どこから見る? 何から見る? 連絡先か? メッセージか?
ザマスは少しの間迷ったあと、メッセージのアプリを起動した。
社長とのメールのやり取りもそうだったが、ハーツは基本的に来たメールを消したりはしないようだ。なら、メッセージを見れば、何かわかるかもしれない。
そう思いつつ、起動したメッセージを見ていく。
ラグスやカミンとオレンとのやり取り、フューとのやり取り、ザマスが知らない相手とのやり取り。
大体、轢き逃げ事件が起きる一ヶ月前程度を境にしてメッセージを読んでいたのだが、これと言ってめぼしい内容はない。
ただ、この一ヶ月前頃のメッセージは、集中治療室で治療を受けているザマスの様子を尋ねる、フューへのメッセージで埋め尽くされていた。
自分が助けた人間がその後どうなったのか、気になる気持ちはわからないでもないが、それでもこの頻度は――異様ではないか?
ザマスは、背筋が寒くなる。
ハーツは、表面上は人当たりの良い男だ。身なりも整っていて、話もうまく、気の使い方もうまい。
だが、一皮剥けば、執拗にザマスの容態を知ろうとしたり、監視アプリを使ってこちらを監視したりと、異常と言っていい行動が垣間見えてくる。
あの男が、腹の奥底で何を考えているのかわからない。
寒々しい思いを抱えながら、メッセージを読み続けていたザマスの指が、ふと止まった。
そのメッセージの差出人は、院長からだった。
『すまないが、予定が入ってしまったので、頼んでいた観葉植物は、また今度持ってきてくれ』
簡素なメッセージだが、問題なのはそのメッセージが送られてきた日時だ。
8月17日14時45分。
この時刻は、確かザマスが大学の正面玄関でハーツと待ち合わせをしていた頃の時刻だ。記憶を掘り起こしてみれば、確かこの数分前に、カフェに行こうとハーツからお誘いの電話があったはずだ。
――そうか。だから、警察はザマスを解放したのか。
殺される直前、犬猿の仲とも言える自分が会っていたというのに、警察が事情聴取の後、ザマスの身柄を拘束しなかった理由がわかった。
大方、正面玄関のホールの監視カメラで、ハーツを待っている自分の姿を確認したのだろう。
警察はザマスを疑ったものの、調べてみると、院長がハーツにメッセージを送った頃には、ザマスは正面玄関にいて、その姿が監視カメラに記録されており、それはつまり、その時刻には院長は生きていて、かつザマスのアリバイは防犯カメラで証明されたのがわかったのだろう。
その後、ザマスは大学院を出て、院内に戻らなかったし、何よりその後、倒れた院長が発見されるまで、ザマスはずっとハーツといたから容疑者から外したのだ。
それと、やはりハーツはあの時間、配達のために大学院の近くにいたことがわかった。
しかし、院長からこういうメッセージを貰っているということは、直接、院長とは会わなかったということか?
あの日、ハーツは院長に観葉植物を渡すために大学院まで来たものの、途中で配達を断られたので、ついでに近くにいるザマスとお茶をしようと、ザマスに連絡を入れた――そんな所だろうか。
「……」
そこまで考えた瞬間、何かが引っかかった。
喉に小骨が引っかかったような、飲み込めない違和感。
――何かが、おかしい。
だが、何がおかしいか、具体的に言えない。
もどかしく思いながら、必死に頭を働かせていたザマスは、背後にせまった人物に気が付かなかった。
「何をしているんだ?」
「!?」
低い声と同時に、頭から被っていた布団が勢いよくはがされる。
心臓が飛び出そうなほどに驚いたザマスは、咄嗟に体を起こして背後を振り返った。
そこには、布団のそばに立って、ザマスを見下ろしているハーツがいた。スマートフォンからの光で照らされたハーツの目は、今まで見たことがないくらい冷たかった。
「あ……」
急速に、体温が下がったかのように、背筋が粟立った。何か言葉を紡ごうと口を開いたが、喉がひりついて言葉が出なかった。
迂闊。ハーツが目を覚ましたことに、気が付かなかった。
ザマスは心の中で、油断した自分を呪った。
「何をしていると聞いているんだ」
固まって動かないザマスの手から、ハーツはひったくるようにスマートフォンを取り返した。ハーツは画面に視線を向けると、院長からのメッセージが表示されているのを見て、僅かに顔を顰めた。
「ふん」
ハーツは鼻を鳴らしてスマートフォンをベッドの上に放り投げたかと思うと、いきなり片手でザマスの肩を押して布団に押し倒した。
「家に来た時から態度が妙だし、やけにオレと話をしたがると思ったら、やはりこういうことか。勝手にプライベートを覗かれるのは不愉快だな」
ザマスは咄嗟に抵抗したが、ハーツはやすやすとザマスの手首を掴むと、それぞれ床に押しつけて馬乗りになる。込められた力が強く、手首に痛みが走るほどだった。
この状態になると、ザマスに打つ手はない。それは、以前にも経験したことだった。
ハーツは『やはり』と言っていた。
その言葉を聞いたザマスは、ようやく、ハーツがスマートフォンのロックをパターン認証に変えたのは、ザマスを言い逃れできない状況に追い詰めるためだったことに気が付いた。
それにも関わらず、ザマスはのこのこ仕掛けた罠に掛かりに行ったのである。
自分の間抜けさが恨めしい。
ハーツは少しだけ声音を柔らかくすると、
「なんでこんな真似をしたんだ? 教えてくれないか?」
「っ!」
しかし、声音とは裏腹にザマスの手首を掴む力は強くなり、ザマスは苦痛に顔を歪めた。
「言え」
痛みで額に脂汗が浮かぶ。痛みに触発されて、覗き見が見つかった動揺は消え、代わりにザマスの心に怒りが湧いた。
ザマスは反抗的な眼で、ハーツを睨み上げると、
「貴様こそ、なぜ私に監視アプリ入りのスマートフォンを渡した……!」
ハーツの眉がぴくっと動く。
「答えろ、ハーツ!」
「……なんのことだ?」
その言葉を聞いたザマスのまなじりはつり上がり、語気が鋭くなる。
「しらばっくれるな! 貴様のスマートフォンに、監視アプリを操作した形跡があった! プライベートを覗かれて不愉快だと!? 貴様にそのようなことを言う資格は無い!」
監視アプリを操作した形跡というのは、でまかせだ。
ハーツのスマートフォンを調べることができたのはメッセージだけ。だが、十中八九、監視アプリで自分を監視していたのはハーツだと確信しているザマスは、ハーツにその事実を認めさせるためにわざと嘘をついた。
ザマスは怒りと痛みのせいで、まるで興奮した獣のように肩で荒い息をついている。
そんなザマスの刃のように鋭い瞳と、ハーツの冷たい瞳が混じり合い、そしてそのまましばらくの時間が経つ。
お互いが無言のまま、睨み合い続けた中、やがてハーツは、視線を逸らしたかと思うと、
「……監視していたことは謝ろう」
ぽつりと、ハーツは呟いた。
「は! ようやく言い逃れができないことを悟ったか!」
ザマスは薄笑いを浮かべながら、挑発するように言葉を発した。
ハーツは厳めしい顔のまま、
「聞け、ザマス。君を監視しなければならない理由があったんだ」
「ならば、その理由をさっさと答えろ」
ザマスは吐き捨てるように続きを促す。
ハーツは、一瞬だけ目を細めると、
「君を監視していた理由は、ゴワス教授から、君が犯人を殺さないように、そして、君が殺されないように見守っていてくれと頼まれたからだ」
「なんだと?」
ゴワスが?
ザマスは、耳を疑った。まさか、ゴワスがそのような非道徳的な方法をしてくるとは。
信じられないと言わんばかりに、ザマスが驚愕する中、ハーツは言葉を続ける。
「無論、ゴワス教授からは見守ってくれと言われただけだ。監視アプリを入れてくれと言われたわけではない。
そのアプリを入れたのはオレの独断だ」
「貴様……! よくもそのようなふざけた真似を!」
「落ち着け」
ザマスの両手が、ハーツの戒めを振りほどこうと力が込められる。ハーツは体重をかけながらその抵抗を押さえ込むと、
「ザマス。オレは興味本位で君を監視していたわけじゃない。君が心配だったからだ。
君も気づいていただろう? 君を轢き殺そうとしたのは、君に恨みを持つ者の犯行だと。君が怪我が治りきっていない状況で、ひとりでいたら殺されたかもしれないんだぞ?」
「……だから、全ては私のためと言いたいのか?」
「君が不快に感じたことは、申し訳なく思っている。ただ、不必要に君のプライバシーを暴いていない。もしもの時、いざという時のためにしか、使わないつもり――」
「信じられるか」
声量を抑えた、しかし氷のように冷たい拒絶。ハーツは思わず口を噤んだ。
「私が心配だからやっただと? そのような戯れ言など誰が信じるか! 聞く価値もない! 本当のことを言え! 何が目的で私に近づいた!?」
ザマスを見つめていたハーツは、ふっと皮肉げな笑みで笑うと、
「……何が目的で近づいた、か。何度目だ? その質問は」
ハーツは手首を握る力を込める。ザマスは骨が折れるのではないかと危惧するほどの痛みに苛まれ、思わず呻いた。
ハーツの口調が変化する。地を這うように低く、言葉の奥にはどろどろしたどす黒い感情が込められていた。
「何度、答えたらお前は納得するんだ? オレは何度、お前に真意を疑われればいいんだ?
会ったことも、会話したこともない神のことは、心の底から信頼するくせに……!」
口元にはまだ笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。それどころか、憎悪にも似たどろりとした光が渦巻いていた。
「信頼……だと!?」
痛みに耐えながら、ザマスは口を開いた。
「したり顔で近づいて、身辺を監視する男など、信頼できるか! どうせお前も私を利用するために近づいたんだろう!?」
「違う!」
「はっ! 自分の不実を責められたら、自省をするのではなく誤魔化して怒る! お前は実に人間らしいな! 反吐が出る!」
「……っ! お前も人間だ!」
ザマスが思わず身を竦めるほどの大声だった。
流石に、他の部屋で寝ていた者達も起き出したのか、ハーツの寝室の扉が、控えめにノックされた。
「……どうしたの?」
ハーツは、はっと我に返って扉の方を振り向く。
戸惑いを含んだラグスの声が、扉の向こうから聞こえてきた。
「な、なんでもない。大声を出して悪かっ……うわ!?」
ハーツの意識がラグスに向き、拘束する力が弱まった瞬間、ザマスは全身全霊を振り絞って、ハーツを思いっきり押し返した。
油断していたハーツは横倒しになって倒れ、ザマスはその隙に起き上がる。
「待て! ザマス!」
ハーツは、咄嗟に起き上がってザマスを捕まえようと手を伸ばしたが、ザマスはそばにあった枕をハーツの顔面めがけて投げ放つ。
枕を寸前のところで受け止めたので、直撃こそしなかったものの、ハーツが枕を受け止めた時には既に、ザマスは部屋から飛び出していた。
「え!? なに!?」
勢いよく開かれた扉に驚いているラグスの前を、ザマスは走り抜ける。
「ザマス!」
遅れて部屋から飛び出したハーツが、真夜中であることも忘れて叫びながら追いかけるが、ザマスはそのまま、靴も履かずに家から走り去って行く。
そして、開け放たれた玄関扉の向こうから、エレベーターの扉が閉まる音がする。その音が、今更追いかけても無駄だと、ハーツに悟らせたのだった。
「なに、どうしたの?」
「うるさいよ、今何時だと思ってるの?」
一連の騒ぎを聞きつけて、オレンとカミンも部屋から出てきた。
「……なんでもない。夜中に騒いで悪かった」
ハーツはそう言って皆に部屋に戻るように伝える。だが、ラグスは戸惑ったように、
「でも、あの人が……」
ザマスが出て行った玄関扉を見ながら言葉を濁す。
ハーツは力なく笑いながら、
「君は気にしなくていい」
「でも……」
「だからって、放っておいていいわけないだろ」
そう言ったのは、眠たげな眼を擦りながら部屋から出てきたフューだった。
いつもは後ろでひとつに結ばれている髪が、そのままになっている。
「何をしたのかは知らないけど、裸足で出て行った彼を、そのままにしておけないでしょ?」
フューが容赦なく現状を突き付けると、ハーツは苦々しげな顔をして、
「わかっている。言われなくても、ちゃんと探してくる」
「え? ザマスが出て行ったの?」
オレンが興味津々といった様子で二人の会話に割り込んできたので、フューはオレンの肩を掴んでくるりと後ろを振り向かせると、その背を押して彼の部屋に押し込んだ。
「お子様達はもう寝て。僕が探してくるから」
「えー! オレも行くよ」
「だーめ。子供がこんな時間に外に出てたら補導される。それに君、明日は部活で朝早くから出かけるんだろう?」
「ちぇ」
「私も駄目なわけ?」
カミンがそう言うと、フューは呆れたように、
「駄目に決まってるでしょ。なんで君、自分だけは特別だと思ってるの?」
「ちぇ」
フューはハーツに向き直ると、
「何があったかは後で聞くよ。取り敢えず、僕が行く。ハーツはここにいて。君が見つけても、また揉めるだけだろうし」
「……」
何も言えないハーツに向かって、
「見つけたら連絡するから」
と言い放つと、フューは玄関扉の方へと向かったのだった。
ザマスはゆっくりと布団から起き上がった。隣のベッドの上では、寝間着を着たハーツがこちらに背を向けて眠っている。
ここは、ハーツの寝室である。毛足の短い質の良さそうなラグの上に敷かれた布団の上で、ザマスは先程まで横になっていた。
広めの寝室には、今、ザマスとハーツしかいない。
フューとザマスがハーツの家に泊まることになり、当初は余っている部屋にフューと一緒に寝泊まりする予定だった。だが、それではハーツの事を調べられないと考えたザマスは、店のことでハーツと話があるからと伝え、しばらくハーツの寝室で話し合っていたのである。
時計の針は進み、ザマスは賭に出た。ハーツの寝室で、わざと寝たふりをしたのである。
賭けには勝った。
ハーツは、椅子に座って寝入ってしまったザマスを、起こさないようにそっと横抱きに抱き上げると、ベッドの隣に轢いた布団に寝かせたのである。
これで、客室に戻されたら失敗だったが、なんとかザマスの願い通りの展開になった。あとは、ハーツが寝るのを待って、ザマスは行動に出たのである。
ザマスは、音を立てないように注意しながら、隣のハーツの様子を窺った。こちらに背を向けたまま、ゆっくり呼吸している。
ハーツが寝ているのを確認すると、ザマスは息を殺しながら静かに手を伸ばして、サイドテーブルの上に置いてある、ハーツのスマートフォンを手に取ったのだった。
改めて、ハーツの目的を調べると考えた時、思い浮かんだのがハーツのスマートフォンだった。
監視アプリで監視されて気が付いたのだが、スマートフォンにはザマスが想像する以上に、個人の情報が記憶されている。
これを調べれば、何かわかるかもしれないと、ザマスは考えた。
ザマスは手に持ったスマートフォンを落とさないように気をつけながら、さっとハーツに背を向ける形で布団の中に潜り込む。こうすれば、スマートフォンの光が漏れないはずだ。
ハーツに聞こえるのではないかと危惧するほど、心音がうるさい。
ザマスは震える指でスマートフォンの画面をタップした。手汗でスマートフォンを持つ手が滑る。
暗かった画面がぱっと明るくなり、パターン認証を求める画面に切り替わる。
今日、夕食会の最中に気が付いたのだが、ハーツのスマートフォンのロックが指紋認証からパターン認証に変わっていた。
チャンスだ、とザマスは思った。
ロックを解除する様子を横目で見ていたザマスは、平静を装いながらそのパターンを覚えた。パターン認証なら、スマートフォンさえ手に入れられれば、ザマスでも解除できる。
記憶を蘇らせながら、ザマスがパターンを登録すると、ロック画面が解除された。
ザマスは、思わず快哉を叫びそうになった。興奮する自分を抑えながら、ザマスはスマートフォンの操作をする。
――どこから見る? 何から見る? 連絡先か? メッセージか?
ザマスは少しの間迷ったあと、メッセージのアプリを起動した。
社長とのメールのやり取りもそうだったが、ハーツは基本的に来たメールを消したりはしないようだ。なら、メッセージを見れば、何かわかるかもしれない。
そう思いつつ、起動したメッセージを見ていく。
ラグスやカミンとオレンとのやり取り、フューとのやり取り、ザマスが知らない相手とのやり取り。
大体、轢き逃げ事件が起きる一ヶ月前程度を境にしてメッセージを読んでいたのだが、これと言ってめぼしい内容はない。
ただ、この一ヶ月前頃のメッセージは、集中治療室で治療を受けているザマスの様子を尋ねる、フューへのメッセージで埋め尽くされていた。
自分が助けた人間がその後どうなったのか、気になる気持ちはわからないでもないが、それでもこの頻度は――異様ではないか?
ザマスは、背筋が寒くなる。
ハーツは、表面上は人当たりの良い男だ。身なりも整っていて、話もうまく、気の使い方もうまい。
だが、一皮剥けば、執拗にザマスの容態を知ろうとしたり、監視アプリを使ってこちらを監視したりと、異常と言っていい行動が垣間見えてくる。
あの男が、腹の奥底で何を考えているのかわからない。
寒々しい思いを抱えながら、メッセージを読み続けていたザマスの指が、ふと止まった。
そのメッセージの差出人は、院長からだった。
『すまないが、予定が入ってしまったので、頼んでいた観葉植物は、また今度持ってきてくれ』
簡素なメッセージだが、問題なのはそのメッセージが送られてきた日時だ。
8月17日14時45分。
この時刻は、確かザマスが大学の正面玄関でハーツと待ち合わせをしていた頃の時刻だ。記憶を掘り起こしてみれば、確かこの数分前に、カフェに行こうとハーツからお誘いの電話があったはずだ。
――そうか。だから、警察はザマスを解放したのか。
殺される直前、犬猿の仲とも言える自分が会っていたというのに、警察が事情聴取の後、ザマスの身柄を拘束しなかった理由がわかった。
大方、正面玄関のホールの監視カメラで、ハーツを待っている自分の姿を確認したのだろう。
警察はザマスを疑ったものの、調べてみると、院長がハーツにメッセージを送った頃には、ザマスは正面玄関にいて、その姿が監視カメラに記録されており、それはつまり、その時刻には院長は生きていて、かつザマスのアリバイは防犯カメラで証明されたのがわかったのだろう。
その後、ザマスは大学院を出て、院内に戻らなかったし、何よりその後、倒れた院長が発見されるまで、ザマスはずっとハーツといたから容疑者から外したのだ。
それと、やはりハーツはあの時間、配達のために大学院の近くにいたことがわかった。
しかし、院長からこういうメッセージを貰っているということは、直接、院長とは会わなかったということか?
あの日、ハーツは院長に観葉植物を渡すために大学院まで来たものの、途中で配達を断られたので、ついでに近くにいるザマスとお茶をしようと、ザマスに連絡を入れた――そんな所だろうか。
「……」
そこまで考えた瞬間、何かが引っかかった。
喉に小骨が引っかかったような、飲み込めない違和感。
――何かが、おかしい。
だが、何がおかしいか、具体的に言えない。
もどかしく思いながら、必死に頭を働かせていたザマスは、背後にせまった人物に気が付かなかった。
「何をしているんだ?」
「!?」
低い声と同時に、頭から被っていた布団が勢いよくはがされる。
心臓が飛び出そうなほどに驚いたザマスは、咄嗟に体を起こして背後を振り返った。
そこには、布団のそばに立って、ザマスを見下ろしているハーツがいた。スマートフォンからの光で照らされたハーツの目は、今まで見たことがないくらい冷たかった。
「あ……」
急速に、体温が下がったかのように、背筋が粟立った。何か言葉を紡ごうと口を開いたが、喉がひりついて言葉が出なかった。
迂闊。ハーツが目を覚ましたことに、気が付かなかった。
ザマスは心の中で、油断した自分を呪った。
「何をしていると聞いているんだ」
固まって動かないザマスの手から、ハーツはひったくるようにスマートフォンを取り返した。ハーツは画面に視線を向けると、院長からのメッセージが表示されているのを見て、僅かに顔を顰めた。
「ふん」
ハーツは鼻を鳴らしてスマートフォンをベッドの上に放り投げたかと思うと、いきなり片手でザマスの肩を押して布団に押し倒した。
「家に来た時から態度が妙だし、やけにオレと話をしたがると思ったら、やはりこういうことか。勝手にプライベートを覗かれるのは不愉快だな」
ザマスは咄嗟に抵抗したが、ハーツはやすやすとザマスの手首を掴むと、それぞれ床に押しつけて馬乗りになる。込められた力が強く、手首に痛みが走るほどだった。
この状態になると、ザマスに打つ手はない。それは、以前にも経験したことだった。
ハーツは『やはり』と言っていた。
その言葉を聞いたザマスは、ようやく、ハーツがスマートフォンのロックをパターン認証に変えたのは、ザマスを言い逃れできない状況に追い詰めるためだったことに気が付いた。
それにも関わらず、ザマスはのこのこ仕掛けた罠に掛かりに行ったのである。
自分の間抜けさが恨めしい。
ハーツは少しだけ声音を柔らかくすると、
「なんでこんな真似をしたんだ? 教えてくれないか?」
「っ!」
しかし、声音とは裏腹にザマスの手首を掴む力は強くなり、ザマスは苦痛に顔を歪めた。
「言え」
痛みで額に脂汗が浮かぶ。痛みに触発されて、覗き見が見つかった動揺は消え、代わりにザマスの心に怒りが湧いた。
ザマスは反抗的な眼で、ハーツを睨み上げると、
「貴様こそ、なぜ私に監視アプリ入りのスマートフォンを渡した……!」
ハーツの眉がぴくっと動く。
「答えろ、ハーツ!」
「……なんのことだ?」
その言葉を聞いたザマスのまなじりはつり上がり、語気が鋭くなる。
「しらばっくれるな! 貴様のスマートフォンに、監視アプリを操作した形跡があった! プライベートを覗かれて不愉快だと!? 貴様にそのようなことを言う資格は無い!」
監視アプリを操作した形跡というのは、でまかせだ。
ハーツのスマートフォンを調べることができたのはメッセージだけ。だが、十中八九、監視アプリで自分を監視していたのはハーツだと確信しているザマスは、ハーツにその事実を認めさせるためにわざと嘘をついた。
ザマスは怒りと痛みのせいで、まるで興奮した獣のように肩で荒い息をついている。
そんなザマスの刃のように鋭い瞳と、ハーツの冷たい瞳が混じり合い、そしてそのまましばらくの時間が経つ。
お互いが無言のまま、睨み合い続けた中、やがてハーツは、視線を逸らしたかと思うと、
「……監視していたことは謝ろう」
ぽつりと、ハーツは呟いた。
「は! ようやく言い逃れができないことを悟ったか!」
ザマスは薄笑いを浮かべながら、挑発するように言葉を発した。
ハーツは厳めしい顔のまま、
「聞け、ザマス。君を監視しなければならない理由があったんだ」
「ならば、その理由をさっさと答えろ」
ザマスは吐き捨てるように続きを促す。
ハーツは、一瞬だけ目を細めると、
「君を監視していた理由は、ゴワス教授から、君が犯人を殺さないように、そして、君が殺されないように見守っていてくれと頼まれたからだ」
「なんだと?」
ゴワスが?
ザマスは、耳を疑った。まさか、ゴワスがそのような非道徳的な方法をしてくるとは。
信じられないと言わんばかりに、ザマスが驚愕する中、ハーツは言葉を続ける。
「無論、ゴワス教授からは見守ってくれと言われただけだ。監視アプリを入れてくれと言われたわけではない。
そのアプリを入れたのはオレの独断だ」
「貴様……! よくもそのようなふざけた真似を!」
「落ち着け」
ザマスの両手が、ハーツの戒めを振りほどこうと力が込められる。ハーツは体重をかけながらその抵抗を押さえ込むと、
「ザマス。オレは興味本位で君を監視していたわけじゃない。君が心配だったからだ。
君も気づいていただろう? 君を轢き殺そうとしたのは、君に恨みを持つ者の犯行だと。君が怪我が治りきっていない状況で、ひとりでいたら殺されたかもしれないんだぞ?」
「……だから、全ては私のためと言いたいのか?」
「君が不快に感じたことは、申し訳なく思っている。ただ、不必要に君のプライバシーを暴いていない。もしもの時、いざという時のためにしか、使わないつもり――」
「信じられるか」
声量を抑えた、しかし氷のように冷たい拒絶。ハーツは思わず口を噤んだ。
「私が心配だからやっただと? そのような戯れ言など誰が信じるか! 聞く価値もない! 本当のことを言え! 何が目的で私に近づいた!?」
ザマスを見つめていたハーツは、ふっと皮肉げな笑みで笑うと、
「……何が目的で近づいた、か。何度目だ? その質問は」
ハーツは手首を握る力を込める。ザマスは骨が折れるのではないかと危惧するほどの痛みに苛まれ、思わず呻いた。
ハーツの口調が変化する。地を這うように低く、言葉の奥にはどろどろしたどす黒い感情が込められていた。
「何度、答えたらお前は納得するんだ? オレは何度、お前に真意を疑われればいいんだ?
会ったことも、会話したこともない神のことは、心の底から信頼するくせに……!」
口元にはまだ笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。それどころか、憎悪にも似たどろりとした光が渦巻いていた。
「信頼……だと!?」
痛みに耐えながら、ザマスは口を開いた。
「したり顔で近づいて、身辺を監視する男など、信頼できるか! どうせお前も私を利用するために近づいたんだろう!?」
「違う!」
「はっ! 自分の不実を責められたら、自省をするのではなく誤魔化して怒る! お前は実に人間らしいな! 反吐が出る!」
「……っ! お前も人間だ!」
ザマスが思わず身を竦めるほどの大声だった。
流石に、他の部屋で寝ていた者達も起き出したのか、ハーツの寝室の扉が、控えめにノックされた。
「……どうしたの?」
ハーツは、はっと我に返って扉の方を振り向く。
戸惑いを含んだラグスの声が、扉の向こうから聞こえてきた。
「な、なんでもない。大声を出して悪かっ……うわ!?」
ハーツの意識がラグスに向き、拘束する力が弱まった瞬間、ザマスは全身全霊を振り絞って、ハーツを思いっきり押し返した。
油断していたハーツは横倒しになって倒れ、ザマスはその隙に起き上がる。
「待て! ザマス!」
ハーツは、咄嗟に起き上がってザマスを捕まえようと手を伸ばしたが、ザマスはそばにあった枕をハーツの顔面めがけて投げ放つ。
枕を寸前のところで受け止めたので、直撃こそしなかったものの、ハーツが枕を受け止めた時には既に、ザマスは部屋から飛び出していた。
「え!? なに!?」
勢いよく開かれた扉に驚いているラグスの前を、ザマスは走り抜ける。
「ザマス!」
遅れて部屋から飛び出したハーツが、真夜中であることも忘れて叫びながら追いかけるが、ザマスはそのまま、靴も履かずに家から走り去って行く。
そして、開け放たれた玄関扉の向こうから、エレベーターの扉が閉まる音がする。その音が、今更追いかけても無駄だと、ハーツに悟らせたのだった。
「なに、どうしたの?」
「うるさいよ、今何時だと思ってるの?」
一連の騒ぎを聞きつけて、オレンとカミンも部屋から出てきた。
「……なんでもない。夜中に騒いで悪かった」
ハーツはそう言って皆に部屋に戻るように伝える。だが、ラグスは戸惑ったように、
「でも、あの人が……」
ザマスが出て行った玄関扉を見ながら言葉を濁す。
ハーツは力なく笑いながら、
「君は気にしなくていい」
「でも……」
「だからって、放っておいていいわけないだろ」
そう言ったのは、眠たげな眼を擦りながら部屋から出てきたフューだった。
いつもは後ろでひとつに結ばれている髪が、そのままになっている。
「何をしたのかは知らないけど、裸足で出て行った彼を、そのままにしておけないでしょ?」
フューが容赦なく現状を突き付けると、ハーツは苦々しげな顔をして、
「わかっている。言われなくても、ちゃんと探してくる」
「え? ザマスが出て行ったの?」
オレンが興味津々といった様子で二人の会話に割り込んできたので、フューはオレンの肩を掴んでくるりと後ろを振り向かせると、その背を押して彼の部屋に押し込んだ。
「お子様達はもう寝て。僕が探してくるから」
「えー! オレも行くよ」
「だーめ。子供がこんな時間に外に出てたら補導される。それに君、明日は部活で朝早くから出かけるんだろう?」
「ちぇ」
「私も駄目なわけ?」
カミンがそう言うと、フューは呆れたように、
「駄目に決まってるでしょ。なんで君、自分だけは特別だと思ってるの?」
「ちぇ」
フューはハーツに向き直ると、
「何があったかは後で聞くよ。取り敢えず、僕が行く。ハーツはここにいて。君が見つけても、また揉めるだけだろうし」
「……」
何も言えないハーツに向かって、
「見つけたら連絡するから」
と言い放つと、フューは玄関扉の方へと向かったのだった。