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第十二話 崩れる信頼(8月22日 土曜日)

 病院の正面玄関から入って、人通りのまばらな廊下を歩いて行った先には、エレベーターホールがある。
 ちょうど一階に来ていたエレベーターに乗って五階まで上がった後、近くのstaff onlyと表記された扉をフューはくぐったのだった。

 近年、改装されただけあって綺麗な建物だ。廊下には、値の張りそうな絵画が飾られている。

 病院といっても、ここはフューが勤めている病院ではない。
 本来だったらこの病院に勤める職員しか通れない廊下を、フューは堂々と職員の顔をして歩いていた。

 土曜日ということもあって職員も少なく、また、何人か医師らしき人物とすれ違ったが、誰もフューを呼び止めようとはしない。

 おそらく、自分と関わり合いの少ない科の医師か、もしくは応援のために余所から来た医師だとでも思っているのだろう。

 規模の大きい病院になればなるほど、顔も名前も知らない医師など普通にいる。

 フュー自身、自分の勤務先の医師全員の顔と名前がわかるかと問われれば、首を横に振るしかなかった。

 フューは足を止めると、とある扉の前に立つ。
 流石に、この部屋に入るのを誰かに見られたら不審に思われるだろう。

 辺りに誰もいないことを確認すると、フューは扉についた暗証番号に解除キーを入力して、鍵を開けて中に入っていった。

「あれ? 母さん、今日、出勤だったっけ?」

 誰もいないと思っていた部屋の中央のデスクでは、トワが何やらノートパソコンのキーボードを扱っていた。

 いきなり自分の仕事部屋に入ってきた息子に驚いたトワは、顔を上げると、

「違うわよ。学会に出す症例報告がまだ出来上がっていないから、今日中に仕上げようと思ってここに来たのよ」

 ここは、トワの一族が経営する私立大学付属病院で、この部屋は院長の妹であるトワに与えられた仕事部屋である。

 部長クラスになれば個室は与えられるが、トワはまだその位置にいない。

 それ以下の肩書きの医師だと、医局で机を割り当てられるだけなので、それを踏まえて考えれば、トワは明らかに特別扱いされていた。

 しかも、この部屋の調度品は、ひと目見ればわかるくらい高級なものばかりだ。

 部屋一面に敷かれたカーペットに、部屋の中央に設置された、彫り物が美しい木製の執務デスクは、高級マホガニーを使用したものである。
 
 身内を露骨に贔屓する院長に対して陰口を叩く者も多いが、院長も当事者であるトワも全く気にしていない。

 治療実績は申し分ないのに、この病院の評判が悪いのは、こういう所の積み重ねなんだろうな、とフューは内心、呟いたのだった。

「ところで、あなたは何しに来たのよ。普段はこの病院に寄りつかない癖に」
「ちょっと見たい患者のカルテがあるから来たんだよ。ID借りるよ」

 フューは部屋に入ると、壁際にあった丸椅子を寄せてトワの隣に座った。

 電子カルテ用のパソコンも、業務用のパソコンも同じ机に並んでいる。
 広い机なので二人並んでも問題ないが、少々手狭である。

 フューは気にしていないが、トワは迷惑そうだった。

「あなた、また勝手に私のID使って患者のカルテを見ているの? お兄様に見つかると面倒だから、止めてって言ってるじゃない」
「大丈夫大丈夫。バレないよ」

 母親の小言もどこ吹く風で、フューは手慣れた様子でトワのIDとパスワードを入力していく。
 無論、立派な守秘義務違反なのだが、フューに罪悪感など無い。

「本当、そういう自分勝手なところは、ミラにそっくりね」
「そういえば、父さんは?」
「飽きもせずに、朝っぱらからジムに行ってるわよ」

 他愛のない話をしながら、フューは電子カルテにログインすると、検索して目的の患者の名前を探し出した。

――いた。

 探し当てたのは、先日、死んだ院長のカルテだった。
 倒れているところを発見された院長は、救急車でこの病院に運び込まれ、そこで蘇生処置を行ったものの、心拍が再開せず、そのまま病院で死亡確認されている。

 カルテには、入院時に行われた蘇生処置のことなどが細かに記載されていた。検査記録にはCT検査の記録もある。フューはその項目をクリックして、CTの撮影記録を見た。

 頭頂部の骨が砕けて陥没しており、大量の出血と入り込んだ空気で脳が圧迫されているのが写っていた。

「ああ、その患者の記録を読みに来たの」

 横からカルテを眺めていたトワが、合点がいったように呟いた。

 ニュースにもなった事件の患者なので、息子が興味を持ったのだろうと思ったらしい。

「殺された可能性もあるんですってね、その患者。 その後、警察が検死に来たり、警察が遺体を引き取るから手続きしたりで、色々面倒だったってお兄様が言っていたわ」
「伯父さんが関わってるの?」
「そりゃそうよ。警察が介入してくるなら、院長にも一報入るし」
「母さんは何か知らないの? この患者のこととか、警察が何を調べていたのかとか」
「さあ? 私は関わってないし。
……ああ、そういえば、この日の夜に運び込まれてきた急患も、事件の被害者なんでしょう? なんか、救急科がざわついていたわね」

 フューが社長の名前を出して問うと、トワはそうそうと頷いた。

「警察からちょくちょく連絡があるから、対応が面倒って主治医が言っていたわ」
「その患者、今どうなってるの?」
「集中治療室にいるわよ」

 フューは電子カルテを操作して、集中治療室の一覧を開く。すぐに見覚えのある社長の名前を見つけ出した。
 フューはすかさずクリックして社長のカルテを開いた。

「ちょっと、フュー。その患者は事件に関わっているから、関係の無い医療職者はカルテを覗くなって、上層部から言われてるのよ」
「大丈夫だって。伯父さんなら許してくれるよ」
「もー」
「それより、この患者に関して何か知らないの?」
「何かって、何を?」
「事件のこととか、病態のこととか」
「病態のこと? 補助循環をつけても、血圧が安定しないって聞いたけど」
「他には? 毒のこととか」
「毒? そういうのは聞いてないわね。もしかしたら、私が聞いてないだけかもしれないけど」
「えー、その辺のことを詳しく知りたいのに。ちょっと主治医に電話して聞いてみてよ」
「馬鹿言わないで。私は学会の準備で忙しくて、余所に首を突っ込んでる余裕がないのよ。
 何かを聞きたいなら、お兄様に聞けばいいじゃない」
「えー、伯父さんにー?」
「私に聞きたいことがあるなら、答えてやるぞ、フュー?」

 その瞬間。
 聞き覚えのある低い声を耳にしたフューは、弾かれたように顔を上げた。

 一体いつの間に来たのか、部屋の入り口には、この病院の院長でありフューの伯父にあたる男、ダーブラが立っていた。

 フューは露骨に顔を引きつらせる。

「うげ! なんでここに!?」
「トワから連絡を貰ったんだ。フューがこの病院に来ているとな」
「いつの間に……」

 フューは隣のトワを睨むが、とうの彼女は澄ました表情で、立ち上げていたメールソフトを終了させた。

「さて、フューよ」

 ダーブラが一歩、部屋の中に歩を進めると、フューは咄嗟に立ち上がった。

「今日は暇なのだろう? わざわざ勤務先ではない、この病院に来るくらいなのだから」
「えー? どうだったかなー? この後、予定があったような……」
「ちょうど、私も予定がなくてな。お前と一対一で話がしたいと思っていたところだ。今後の将来のことについて、よおおおおぉぉぉぉくな」
「うわ。またそれ」

 うんざりした顔で、フューが思わず呟くと、ダーブラはわなわなと手を震わせて、

「『また』とは何だ『また』とは! お前は、私達一族の栄光を背負って立つ身なんだぞ! いい加減、この病院に来い!」
「嫌だって言ってるじゃんか! 僕は医学研究者になりたいの!」
「わがままを言うな! この病院に移籍すれば、待遇もよくしてやるというのに、何が不満なんだ!」
「とにかく嫌だったら嫌だってば! そんなに跡取りが欲しいなら、母さんになって貰えば良いじゃんか!」
「私は嫌よ。そういう柄じゃないし」
「嫌がる妹には無理強いさせられん!」
「なんで母さんにだけ甘いんだよ!」

 じわじわと近寄ってくるダーブラ。それにあわせて壁際に向かって、一歩一歩下がるフュー。

「諦めろ! 今日という今日こそは、この病院を継ぐと言うまでは、家に帰さんからな!」
「ただの脅迫じゃんか!」
「問答無用! こっちに来い! みっちり言って聞かせてやる!」

 いきなりずかずかとフューに近づいたダーブラは、力の限りフューの二の腕を掴む――が。

「痛いってば!」
「がは!」

 『痛い』と言った瞬間に、フューは腰を落とすと、『てば!』と叫んだ瞬間に拳をダーブラの鳩尾にたたき込む。

 ゼロ距離から放たれた拳にも関わらず、力の乗った攻撃を喰らい、ダーブラは思わず膝をついた。

「じゃあね! 僕は病院長の椅子とか興味ないから!」

 そう言うなり、フューはすたこらさっさと部屋から逃げ出した。

「ま、待て、フュー。貴様、いつの間にそんなに強く……」

 格闘技を習っていて腕に自信があったダーブラは、自分を一撃で倒した甥っ子に対して追いすがるように手を伸ばす。

「ミラが色々教えているみたいよ」

 床にうずくまる兄には見向きもせずに、資料を作成しながらトワが解説した。

 ダーブラは痛む鳩尾を押さえながら、フューが去って行った扉をぎりっと睨み付けて、

「その戦闘力、やはり捨て置くには惜しい……! 必ずや、お前にこの病院を継がせるからな……!」
「……病院長になるのに、戦闘力は必要ないんじゃないかしら?」

 決意を新たにするダーブラに、トワは小さく突っ込みを入れたのだった。





 ザマスは、自室の椅子に座って項垂れていた。

 両肘を机の上に置いて、組んだ手の上に額を乗せたまま動かない。かれこれ小一時間ほど、ザマスはずっとこの状態で沈黙している。

 机の上には、彼のスマートフォンが静かに鎮座していた。
 いや、正確にはハーツから渡されたスマートフォンがそこにあった。

 ザマスは同じ姿勢のまま、溜め息をつく。何度目の溜め息かわからない。彼は顔を上げて、視線だけをスマートフォンに向ける。

 今まで、何の抵抗もなく使っていたその機械が、今では不気味な監視装置に見えて仕方がなかった。

 あのゴジータという男が帰った後、ネットで検索しながら調べたところ、確かにこのスマートフォンには、監視アプリがダウンロードされていた。

 スマートフォンにプリインストールされているものではない。明らかに、誰かが後からダウンロードしたものだった。

 調べたところ、この監視アプリを使用すれば、そのスマートフォンのGPSを利用した端末の追跡、遠隔でカメラの起動、録音、メッセージの閲覧が可能であり、その他にも、監視と言う名に恥じない機能が満載だった。

 このアプリを使えば、ザマスがどこにいるのか、誰と会話したのかわかるし、使用者が望めばその時の会話すら盗聴できる。

 そんな、危険なアプリを入れた人物は――考えるまでもない。ハーツだ。

 その答えに行き当たった瞬間、ザマスの背筋に寒気が走った。
 このスマートフォンは、ハーツから手渡された時から、使用した回数を数えるのも馬鹿らしいほど、日常的に使用した。
 通話、メッセージの送受信、インターネットを使用した調べもの。

 それら全てが、ハーツに筒抜けだったという事実。
 気を許していた相手が、こちらのプライバシーを覗き見していたという事実。

 言いようのない気味の悪さがザマスを襲った。
 反射的に、監視アプリを削除しようと操作しかけたが、ザマスは寸前で思いとどまった。

 おそらく、このアプリが削除されたら、その通知がハーツに行く。削除されたことを知ったハーツが、次にどういう行動をとるのか、ザマスには想像もつかない。

――なぜ、ハーツは監視アプリを入れたスマートフォンを、自分に渡したのか?

 無論、それは自分を監視するためだろう。

 ならば、なぜ自分を監視する必要があったのか?

 何度も同じ疑問が浮かんでは、ある考えに帰結する。


 この、轢き逃げから始まった一連の事件に、ハーツが関わっているからではないか?


 今まで彼は、たまたまザマスが轢き逃げされた場面に遭遇し、たまたま社長が倒れた時にそばに居ただけという、事件に巻き込まれてしまった立場だとザマスは思っていた。

 しかし、ハーツの周囲を調べるたびに、彼がもっと積極的に事件に関わっているのではないかと、疑いを強めていった。

 考えてみれば、院長、教授、社長と関わりがあり、なおかつ全員を殺せるタイミングがあったのは、ハーツしかいない。

 院長とトラブルがあったとは聞いていないが、社長や教授の時のように、探せば出てくるかもしれない。

 何より社長が倒れた時の状況――警察は、犯人が心を読める能力でも持っていない限り、社長を狙って毒物を仕込むことは出来ないと結論づけているが――。

――ハーツが、心を読むことができたら、不可能は可能となる。

 心を読むなど、荒唐無稽な考えでしかないと、ザマスは頭では理解していたが、その一方で彼の中ではハーツは心を読む事ができるという確信に変わりつつあった。

 社長をパーティーで殺すために、毒を持ち込み、機会があれば毒を盛って社長を殺す。

 だが、不可能ではないが、もしパーティーで殺す機会がなかったら?

 ハーツとは短い付き合いだが、それでもそんな短絡な行動を取るような男では無いと思うのだが……。

「いや、殺さざるを得なかったのか?」

 思わず小声で呟いた。
 警察の調べでは、教授を轢き逃げした張本人とおぼしき人物は、その場で警察に通報している。

 その時、通報者はかなり動揺していたことから、本当は殺す気は無く、たまたま誤って轢き殺してしまったという考えの方がしっくりくる。

 ハーツはいつものように車で出かけたものの、偶然、教授を轢いてしまった。普段は、余裕のある態度を取っているハーツだが、そのような事態を引き起こしてしまったら、流石に動揺するだろう。

 殺したかった人間のひとりを誤って轢いてしまい、動揺したハーツは警察に連絡を入れた後、こう考えなおした――この際、殺したかった三人を一気に殺してしまおう。

 轢き逃げで捕まってしまったら、残り二人は殺せない。そう思ったハーツは、そのまま大学院に行き、院長を撲殺。何食わぬ顔でザマスに声をかけた後、夕方はパーティーに参加して社長に毒を盛った。

――不可能ではない。単純に、距離や時間を考えても犯行は可能である。

 ただ、それにしても人を轢いたというにもかかわらず、ハーツが所有している赤い車に傷やへこみはなかった。もしかしたら、別に所有している車で轢いたのかもしれない。

 そもそも、ハーツはなぜ自分に関わろうとしたのだろうか?

 当初から疑問だった。いくら轢き逃げされた自分が心配だったとはいえ、生活費や住居まで用意するだろうか。

 本当は、ザマスを助けたいというのは建前で、真の目的は別にあったのではないだろうか。

 例えば、院長、教授、社長を殺した時、ハーツ自身が疑われないように、ザマスを犯人に仕立て上げるために。

 想像でしかないが、仮に、ハーツは常々あの三人を殺したいと思っていたとする。

 その殺意を抱いたまま過ごすうちに、偶然、ザマスと出会い、そしてザマスがあの三人に対して自分と同じように殺意を抱いていることを知った。

 そこで、言葉巧みに取り入ってザマスを手元に置いた後、頃合いを見計らって三人を殺し、その罪をザマスに擦り付ける。

 ややお金がかかりすぎている気もするが、考えとしては矛盾していない。実際、ザマスはゴジータをはじめとする警察から、疑われているのだから。

 そうだとしたら、ハーツにとって、自分は捨て駒でしかなかったのだろう。

 表面上は心配し、親身になって世話をしつつ、その実、いつ使い捨てようか舌なめずりをしながらザマスと過ごしていたことになる。

その事に、ザマスには思い当たる節があった。

 ハーツは、普段でこそ愛想のよい男だが、時々、ザマスに向ける感情の中に、敵意にも似た暗い感情が交じっている事に、ザマスは薄々気が付いていた。
 ザマスが神学について語っている時など、それが顕著だった。

 ザマスは、ハーツに恨まれる覚えはない。だが確実に、ハーツは自分に対して少なからず負の感情を抱いている。

――ザマスの脳裏に、カフェの駐車場で、ハーツに抱きしめられた時の情景が思い起こされた。

 あの時、ハーツは既に二人の人間を殺していたことになる。

 あの時のハーツは、人を殺した動揺など少しもなく、非常に落ち着いていて、むしろ、院長から退学を切り出されて動揺していた自分を、心配して慰めていた。

 ハーツはあの時、何を考えていたのだろうか?

 人を殺してなお、ザマスを哀れだと思って慰めていたのだろうか。それとも、神妙な表情をしながら、ザマスを犯人に仕立て上げる算段を練っていたのだろうか。

――わからない。

 ハーツが何を考えているのか、ザマスは微塵も読み取れなかったが、ひとつだけ確かなことがある。

 ハーツが本当に、ザマスに濡れ衣を着せるつもりなら――早急に対処する必要がある。

 その時。

 ぴこん。

 スマートフォンの通知がなった。ザマスの体がびくっと震える。
 メッセージが送られてきたらしく、スマートフォンの画面に通知が表示されている。

 差出人の名前を確認すると、そこにはハーツと記されていた。その名を見た瞬間、ザマスは一瞬息が詰まる思いがした。

 慎重に、ゆっくりとスマートフォンを手に取ると、ザマスは画面をタップして、メッセージの詳細を読む。

 内容は、明日ハーツの家でホームパーティーをするから参加しないかという、実に穏当な内容だった。

「……」

 無言のまま、ザマスはメッセージを見つめ続けた。

 少しの悪意も感じられないメッセージだが、今のザマスには、そのメッセージの奥底には、自分を陥れようとする醜悪な陰謀が隠されているように思えてならなかった。

――断るか、否か。

 ザマスは、目を瞑って思考を巡らせる。

 ハーツが自分を陥れようとしているにしても、そうではないにしても、今のこの抱いた疑惑を晴らすには、ハーツ自身を直接、調べる必要がある。

 ならば、これは好機だ。

 しばらく考えた後、目を開けたザマスは、意を決して参加することを伝えたのだった。


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