第十二話 崩れる信頼(8月22日 土曜日)
「あの会社は、正面玄関と金庫の前くらいにしか防犯カメラがないから、自分の姿を映さずに犯行に及ぶことができたって、思ってるだろうけど、パソコンのログイン記録や操作記録は残っているから、盗んだこと自体はバレバレだぞ」
「……そんなのは百も承知だ。どうして、それが私の犯行だとわかった?」
コアエリアのリビングにある商談用のテーブルに、ザマスとゴジータは向かい合って座っていた。
お茶も出していないが、ゴジータは特に気にした様子もなく、椅子の背もたれに背を預けて座っている。
「あんたのスマートフォンは、轢き逃げ事件の捜査のために一度、警察が預かっている。
今時のスマートフォンは、GPSがついているから、あんたの事件前日の行動を調べてみたら、深夜にあの会社に行った記録があることがわかった。
妙な時間に会社に行ってるなって思ったから、あの会社の人間を問い詰めてみたら、その時間に不正ログインがあったことがわかったんだよ。
で、今度はあんたにカマをかけてみたら、あんたがゲロってくれたってことだ」
「……ちっ」
ザマスは思わず舌打ちをする。あの轢き逃げ事件さえ無ければ、バレなかったと言うことか。
いや、話を聞く限りカマをかけたということは、状況証拠だけしかなく、しらばっくれることも可能だったわけだ。
ザマスは、迂闊な自分に苛立ちを覚えた。
「私を逮捕しに来たのか?」
「それは、これからのあんた次第だ」
ゴジータは背もたれから身を起こして、やや前のめりになると、
「あんたが盗んだのは会計データだな。見たところ、あんたが通っている大学院との取り引きデータみたいだったが、二種類あった」
「……所謂、裏帳簿だ。そのデータを見たならわかっていると思うが、大学院が高額な金額で社長の会社に発注をかけて、いくらかを院長にキックバックしていたんだ。証拠のメールもある。
もっと言うなら、あの会社は売り上げを誤魔化して脱税もしていた」
「へえ。それはまた面白そうな話だが、オレが聞きたいとこはそこじゃない。なんでそのデータを盗んだ?」
ザマスは言い淀むが、ゴジータの鋭い瞳が追求を緩める気がないのを物語っていた。
ザマスは、ちらっとゴジータの顔を見た後、大不満そうに渋々口を開くと、
「……院長を失脚させるためだ」
「なんでそんなことを目論んだ? あれか? 神学部研究科の縮小を止めるためか」
ザマスは口を引き結んだまま、ゆっくり頷いた。
「神への探究心を閉ざすのは、許されない」
ザマスの言葉は力強く響いた。
……そこまでするもんかね。いくら、信心深いとはいえ。
ゴジータは内心、呆れ半分、驚き半分で呟いた。
「それで、盗んだデータはどうした?」
「院長に見せた。お前の弱みを知っていると言って」
「院長はなんて?」
「『それを世間に出したら、代わりに君も院から退学させる』と言われた。
今まで色々とトラブルを起こしているから、退学にさせるのは容易い、ただではすまさないとも言っていたな」
その時のことを思い出したザマスは、ふっと鼻で笑った。
「所詮は愚かな人間だ。院長だの神父だのと肩書きがついていても、一皮剥けば唾棄すべき下衆でしかない」
憎々しげにザマスは吐き捨てると、ひと呼吸置いて続きの言葉を紡ぐ。
「とにかく、院長の戯れ言に付き合うつもりがなかったから、話を途中で打ち切って院を出た。
税務署に通報するためにそちらへと向かったのだが、その後はお前も知っての通り、車で轢き殺されそうになったので、結局通報できないままだ」
「ふーん」
ゴジータはじっとザマスを見つめる。何かを考えているようだが、生憎、何を考えているのかザマスは読めなかった。
「その日、教授にはあったのか?」
「ああ。教授にあったのはその午前中だ。作成した論文を提出しに行っただけだ。
……いや、提出しただけというのは語弊があるな。
論文を盗用したことを自白したらどうだと促した。
聞く耳も持たず、『言いがかりだ!』と叫んでいたが、私が『お前が盗用した証拠を持っているぞ』と言ったら顔面蒼白になっていたな。
あれは見物だった」
「そっちも煽ってんのかよ……これじゃあ、犯人がわからないじゃねぇか」
ゴジータは呆れたように呟いた。
「どういうことだ?」
「あんたを轢き殺そうとした犯人はその日、たまたまオープンキャンパスに来ていた人間の車を盗んで事に及んだ。
なら、犯行は突発的なものだろう。そういった犯行は、直前に被害者と揉めていることがほとんどなんだよ」
「ふん。愚鈍ながらも、私の轢き逃げ事件の捜査は続けていたのか。それで、そちらの事件の捜査はどうなっている?」
「あんたのお陰で情報は増えたよ。だけど、余計わからなくなった。
念のために聞いて置くが、事件の前日に会った社長とは揉めてないのか?」
「揉めていない。その後、盗みに入るつもりだったから、警戒心を抱かせたくなかった」
「そーかい」
悪びれも無くしれっと語るザマス。
とはいえ、ザマスの話を聞く限り院長と社長は繋がっている。院長から裏帳簿を盗まれた件を聞かされていたとしたら、社長も穏やかではいられないだろう。
「そういや、あんたは教授がゴワス教授の論文を盗用したと確信しているようだが、それは何故だ?
オレは、院とか行ったことがないから、その辺がよくわかんないんだよ」
「簡単な話だ。
ゴワスは時々、私に書きかけの論文を読ませて、意見を述べさせることがある。以前、読んだゴワスの論文と全く同じ内容のものを、あの教授が学会に提出した。
だから、私はあいつが盗用したことを知っているんだ」
「へえ、それはそれは。でも、ゴワス教授は何も言っていないんだよな?」
「それがあの人の愚かなところだ。
院長を交えて教授と話し合ったらしいが、何をどう言いくるめられたのか、教授を訴えるのを止めて、『彼が正しい道に気がづくのを見守りたい』などという、世迷い言を述べたのだ」
そこまで言ったザマスの顔が、憎々しげなものに変わる。
「……はっ! 愚かなことだ。それが神の御心に従った考えだと思っているらしい。
反省もせず、平気で神に後ろ足で砂をかけるような奴を、粛正もせずに野放しにすることを、正しい行いだと疑いもしていない!」
「……まあ、あんたの考えも理解できるが」
こいつ、沸点が低いな。
ほんの少し話しただけで、ザマスは激怒する素振りを何度か見せている。ゴジータは、そんな彼を興味深く眺めていた。
これだけ沸点が低く、しかも攻撃的な思考をしているなら――口論の末、相手を撲殺する、ということもあり得るだろうな。
言いたいことを言って、多少、怒りが収まったのか、少しだけ落ち着きを取り戻したザマスは、無言のままその場を立つ。
「どうした?」
「喉が渇いたから、お茶を用意してくるだけだ」
「あ、オレも欲しい」
厚かましくも要求してくるゴジータをむっと睨んだ後、ザマスは無言のままキッチンへと向かう。
キッチンには来店した客に出すためのコーヒーや茶葉が用意されている。
使った後に補充してくれさえすれば、勝手に飲んで良いとハーツは言っていた。ザマスは苛立ったまま手早く湯を沸かし、グラスに氷を注いで、アイスティを二つ用意する。
ティーポットで濃いめに淹れられた紅茶が、氷を溶かしながら注がれていく。
氷同士が触れ合う冷たい音を響かせながら、アイスティがたっぷり注がれたグラスを二つ、木製のお盆に載せて、ザマスは再び席に戻ったのだった。
「お、うめぇ」
差し出されたアイスティを飲んだゴジータが、思わず感嘆を漏らす。
すっきりとしてわずかに甘みがある。喉が渇いていたらしいゴジータは、半分まで一気に飲んだのだった。
一息ついたゴジータは、グラスをテーブルに置くと、
「さて、院長が殺された日のあんたの行動を教えて貰おうか。確か、院長に会いにいったんだよな? また、脅しに行ったのか?」
ザマスはすぐには答えなかった。
本当のことを話していいものか、頭の中で素早く計算した。
ザマスの話を聞いた時、ハーツとフューは、その話を聞いた警察の心証は悪くなるだろうと言っていた。
ならば、わざわざ自分の立場を悪くする話をする必要も無いだろう。
警官に嘘をつくことにデメリットはあるが、そもそもこいつは、今日非番であり、これは正式な事情聴取ではない。
ザマスはかぶりを振ると、
「違う。その日は、本当に別の件で呼ばれたんだ」
「別の件って言うと?」
「私の復学の話だ。
もうすぐ、予備審査と呼ばれる博士号を取得するための重要な審査が行われる。私は事故で長期間、入院していたからその事について院長と面談したのだ」
すらすらとでまかせが口からついて出る。
我ながら、自然な嘘を作ることができたと、ザマスは密かに自負したが、その話を聞いたゴジータは、逆に怪訝そうな顔をした。
「それじゃ、お互い社長と院長の癒着の件は何も言わなかったのか。何故だ?」
「それは……」
思わず言葉に詰まった。
確かに、その事を知っているゴジータからすれば、ザマスの話は不自然に思える。
何か言い繕おうと思うものの、上手い言葉が出てこない。実際、院長と相対した時、ザマスはその話題を出さなかった。
否、出せなかった。
言葉に詰まり、何も言えなくなったザマスを見て、ゴジータはピンとくる。
「データを無くしたのか」
「!」
驚いたように顔を上げたザマスだが、バレてしまったのなら仕方が無いと、やがて苦々しい顔のまま、こくっと頷いた。
「……USBにデータを入れてたんだが、事故の影響で壊れてしまった。何度かデータを拾おうとしたが、操作を受け付けてくれない」
「それは不運だったな。データ復旧系のソフトを使っても無理だったのか?」
「データ復旧のソフト? そういうのがあるのか?」
「あるぞ。オレも一回しか使ったことねぇけど」
ザマスは、USBをパソコンに刺して、データフォルダを呼び出すという一般的な操作しかしていない。
そういうソフトがあるのなら、使用すればデータを復元できるかもしれない。
院長が死んでしまった今、そのデータにどれだけの意味があるかはわからないが、何かの役に立つかもしれないので、手元に置いて損はない。
今日、早速そのソフトの事を調べて、データを復元できるか実験してみようと、目を輝かせたザマスに、ゴジータは語りかける。
「で、最後の質問なんだが――あんた、本当に誰も殺していないんだよな?」
顔を上げたザマスは、きつくゴジータを睨みながら、
「私はあのゲス達を手にかけていない。それが全てだ。
――そもそも、お前は交通課の警察だろう。今回の事件に関わりは無いはずなのに、なぜ捜査をしている?」
「ただの個人的な興味だ。轢き逃げの犯人と思っていた三人が一気に倒れて、しかもその容疑者がその轢き逃げの被害者かもしれないと思ったら、いても立ってもいられなくなったんだ」
ゴジータはそう言うと、再び背もたれにもたれ掛かると、腕を組んで何やら考え込み、やがて口を開いた。
「……あんたに聞きたいんだが」
「さっきの質問が、最後ではなかったのか?」
ザマスの棘のある言葉を無視して、ゴジータは続けた。
「誰があの三人を殺したと思う?」
「……」
アイスティを飲んでいたザマスの動きが止まる。
「……それがわかるなら、苦労しない」
「心当たり無いのか? オレは、あの三人に危害を加えたのは同一人物なんじゃないかと思っている」
それは、ザマスも考えていたことだ。
「それぞれの事件の犯人が同一人物なら、容疑者になる人間はそう多くはないはずだ」
ザマスは、あの三人を殺そうと画策するような人物に該当するものがいないか、頭を巡らせる。
――一瞬、ザマスの脳裏をハーツの顔が過ぎ去った。
だが、すぐにザマスは自分自身の考えを否定する。
「心当たりはない」
……そうだ。ハーツは院長と社長はともかく、教授とは面識がないはずだ。だから、ハーツに殺す理由がない。
ゴジータはじっと、ザマスの顔を窺う。
「本当か?」
ゴジータが真っ直ぐザマスの顔を見据える。その黒い瞳が、心の奥底を覗いているようで不快だった。
「くどいぞ」
「そうかよ。それは悪かった」
眉間に皺を寄せたザマスが、語気を鋭くしてそう告げると、ゴジータは引き下がった。
「そういえば……」
ゴジータはぐるりと店内を見渡しながら、
「ここの店長はどこに行ったんだ? 今日は、店が開いている日だろう? あいつもいると思ったから、ここに来たんだが」
「ハーツは朝から出かけている。この店は来店に予約が必要だから、来店予約が無い限り、ハーツがずっと店にいることはない」
「随分、いい商売してんな」
ゴジータは呆れ顔になる。
「そんな商売で儲かるのか? いい車に乗ってたから、金は持ってそうだったが」
「さあ? 私はこの店の手伝いはしているが、経営にまで関与していない。
というか、そもそも、貴様はハーツに何を聞きたいんだ? 社長が倒れた時の事か? あの事件も交通捜査課の管轄外だろう」
「細かいこと言うな。同じ警察が調べるんだから問題ねぇよ。
それに、聞きたいのはその事件のこともあるが、別の件でもちょっと確かめたいことがあるんだ」
「なんだ?」
ザマスがそう問うと、ゴジータは一瞬、ザマスに伝えていいものか迷う様子を見せたが、結局、口を開いた。
「あいつと教授との間で起きたトラブルの件だ」
「……トラブル? 教授との?」
初耳だ。ザマスは思わず身を乗り出した。
「どういうことだ? ハーツと教授との間で起こったトラブルとは何だ?」
「なんだお前、知らないのか」
「いいから、さっさと聞かせろ」
ザマスがせがむと、ゴジータはしょうがねぇなとぼやきながら、
「そう大した事件じゃねぇよ。教授があいつの車に当て逃げしたってだけだ。
ただ、あいつの車は高級車だろう? うちの交通捜査課が担当してたらしいけど、当時のその当て逃げを扱った奴から聞いたら、当て逃げするわ、修繕費を出し渋るわでかなり揉めたって話だ。
大事にしていた車を傷つけられて、ハーツは相当、怒ってたらしいぞ」
ザマスは、ハーツが激怒する様を見たことがなかったので、その時の様子を想像するのは難しかったが、しかしあり得ない話ではない。
ハーツはあの跳ね馬のエンブレムを掲げた赤い車を大事にしている。しかも、車に疎い自分でも知っているくらいの高級車だ。傷つけられたら、激怒するのもわかる。
……いや、そもそも。ザマスは、ハーツと教授は面識がなかったと思っていたのだが、ゴジータの話を聞く限り、そうではなかったのだ。
「まあ、いないならいい。また来る」
そう言って、ゴジータが立ち上がると、ザマスはそれを制止した。
「待て。もう帰る気か?」
「聞きたいことは聞いたからな。なんだ? もうちょっとオレに側に居て欲しいのか?」
「ふざけるな。私が質問に答えたら、面白い話をしてやると言っていただろう。私はまだそれを聞いていない」
「……ああ、そういえば」
ただの方便なのだが、信じていたのか。なんというか、獣のように獰猛な癖に、妙に純真な面があるのがわかって、ゴジータは少しだけ笑った。
「何がおかしい?」
笑われたことに気分を害したザマスは片眉をぴくっと跳ね上げる。ゴジータは椅子に座り直しながら、
「何でもない。
……そうだな、何が知りたい? 答えられる範囲でなら、答えてやるぞ。と言っても、オレも事件のことを全部、知っているわけではないが……」
ゴジータはそう言いながら、ボトムのポケットからスマートフォンを出すと操作しだした。その中に、事件の情報が入っているようだ。
ザマスは少し考え込んだ後に、
「院長が死んだ現場の写真を持っているか?」
「持っているぞ」
ゴジータは画面にその画像を映し出すと、それをザマスに見せた。
院長の事件は事故と殺人事件の両面から捜査されている。担当しているのは、刑事課の強行犯係であり、もちろん交通捜査課のゴジータは管轄外だ。
通常ならゴジータの目に触れることのない現場の写真がなぜ、ゴジータの私用のスマートフォンにあるかというと、勿論非合法な手を使って手に入れたのである。
具体的に言えば、強行班係の捜査員のひとりがゴジータに恩を抱いている後輩なので、そいつに無理を言って見せて貰ったのだ。
ゴジータがスマートフォンでその写真を保管していることは後輩も知らないし、勿論バレればゴジータの立場も危ういのだが、彼はそんなこと気にしていない。
ザマスも、なぜそのような現場の写真がスマートフォンの中にあるのか、少しだけ疑問に思ったのだが、すぐに思考は目の前の画面に引き寄せられていった。
画面の中では、見覚えのある院長室が映し出されている。
カーペットがひかれた床には、刑事ドラマで見かけるような白線が人型に貼ってあった。
そしてその周囲は、所々、土で汚れており、とりわけ頭に当たる部分には大量の土と、一部が砕けた白い陶器の鉢植えが転がっていた。しかもその辺りのカーペットは赤黒く汚れていて、その光景は当時の凄惨さを思い起こさせた。
「院長はこの白線の形に倒れていた。観葉植物が並んだ棚のそばで、頭を院長室の机に剥ける形でうつ伏せになっていたんだ。
凶器に使われたのは、そこに移っている植木鉢だ。見ての通り、粉々に砕けて壊れている上に、血が付着している」
「あたりには、靴跡が残っているな」
白線の周りは土で汚れているが、中には目に見えて靴跡を象っているものもある。
「この靴の持ち主は調べたのか?」
「もちろん。ただ、靴跡の持ち主は全員わかっている。
倒れている院長を最初に発見した秘書をはじめとして、騒ぎを聞きつけて集まった大学関係者の人たちだ。
話によれば、救急車を呼ぼうとして色んな人が集まったらしく、警官が駆けつけた頃には、ぐちゃぐちゃになっていたみたいだな」
「陶器から指紋は?」
「大量に残っていたよ。写真のそばに観葉植物が沢山ある棚があるだろ? その内の一部が、ちょうどぽっかり空いてるんだ。おそらく、犯人はそこにあった観葉植物を凶器に使ったと考えられているんだが、聞いた限り普段からその棚にある植木鉢は色んな人間が触っている。
一応、鑑識にまわして調べて貰っているらしいが、結果が出るまでに時間がかかるし、犯人の指紋が採取できるかは、わからないらしいぞ」
「大学院の正面玄関には防犯カメラがある。その防犯カメラに怪しい人物は映っていなかったのか?」
「あんた以上に怪しい奴か? いなかったらしいぞ」
ゴジータの無礼な物言いを聞いて、ザマスはむっと顔を顰めたものの、言ってもしょうがないと自分自身を説得すると、別の質問をした。
「教授が轢き逃げにあった事件。犯人とおぼしき人物が、最初に通報したと聞いている」
「よく知ってるな。誰から聞いた?」
「そんな事はどうでもいい。それより、その声、お前は聞いたのか?」
「ああ、聞いたぞ。その事件はオレの部署の管轄だからな」
「その声は……聞き覚えがあるものだったか?」
――ハーツの声に似ていたか?
そう聞こうと思ったが、寸前の所でザマスは止めた。道理をわきまえない目の前の警官に、変な先入観を植え付ける必要は無い。
ゴジータは首を振って、
「いや、なかったが……なんでだ?」
「……なんでもない」
ザマスを見るゴジータの目が、疑わしそうにすっと細くなる。ザマスはゴジータの疑念を振り切るように質問を続けた。
「社長が倒れた時の状況は?」
「そっちもある程度は捜査を担当している奴から聞いた」
そう言って、ゴジータが述べたことは、既にハーツから聞いたことだった。真新しい情報がなかったので、話を切り上げようとしたその時、
「それでその時、社長がこう言ったんだと。『あそこにあるカナッペ、ひとつだけ美味しそうなやつがあるな』って」
「え?」
ザマスは思わず声を上げた。ゴジータは話を続ける。
「側に居たひとりがそれは何か尋ねたらしいが、社長は『口で説明するのは面倒だから、全種類持ってくればいい』って言ったらしいんだよ。
それで、あのハーツが一種類ずつ皿に盛って戻ってきたあと、社長が最初に選んで食べて倒れたらしい」
「……」
ザマスは思わず考え込んだ。
社長は、どれかひとつを食べたいと思っていた。 ただ何を食べたいと思っているのか口にしなかったから、周りの人間は何を食べたいのかわからなかった。
考えを、口にしなかったから。
「担当した警官は、最初、社長と直前まで談話していた連中が、社長が食べたカナッペに何か仕込んだと思って捜査していたらしい。
でも、調べたところ、同じ皿に盛られてたカナッペを食べた連中はなんともないし、事情聴取をする限り、誰が何を取るのかわからない状況だったから、狙って毒を仕込むのは無理だってなったらしい」
そう、無理だ。心でも読めない限り。
――しかし、もし仮に、社長の心が読めたら? 何を食べたいと考えているのか、わかるのではないか?
ザマスは、かつてハーツがまるでザマスの心を読んだかのように、ザマスの考えを言い当てた時の事を思い出した。
「オレが話せるのはこれくらいだ。他に何か聞きたいことがあるか?」
物思いに更けていたザマスは、ゴジータの言葉で我に返ると、
「いや、もういい」
「そうか」
ゴジータはそう言うと、自分のスマートフォンを差し出す。
不思議そうにザマスがそれを見返していると、
「院長が倒れていた部屋の画像をやるよ。お前のスマートフォンを出せ」
願ってもない申し出だった。
調査をするなら、情報は手元にあった方がいい。ザマスはゴジータに言われるがまま、自分のスマートフォンを差し出した。
Bluetoothか何かで通信するのかと思いきや、ザマスがスマートフォンを差し出した瞬間、ゴジータはそれを奪い取った。
「何をする!?」
ゴジータはザマスを無視して、何やらザマスのスマートフォンの操作をしている。
「返せ!」
気色ばんだザマスは、立ち上がって取り返そうとするが、ゴジータはその手をひらりと交わすと、彼もまた立ち上がり、ザマスと距離を取りつつ、器用に操作を続ける。
ザマスは机を回って、ゴジータのそばに行って取り返そうとしたところで、逆にゴジータがスマートフォンをザマスに向かって放り投げた。
虚を突かれたザマスは、スマートフォンを取り落とさないように、なんとか受け止める。
「ほら、画像をそっちのスマートフォンに送ったぞ。
あとついでにオレの連絡先もいれといた。何かあったら連絡するし、何もなかったらメシにでも誘ってやる」
傍若無人な言葉を耳にして、唖然としているザマスを放置したまま、ゴジータは庭へと向かった。庭から家に入ったので、靴がそちらにあるのだ。
ゴジータはガラス戸を開けて外に出ようとしたところで、ふと立ち止まって振り返ると、
「あんたのそのスマートフォン、監視アプリが入ってるぞ。誰に入れられたか知らねぇけど、消した方が良いんじゃないか?」
「……は?」
思いも寄らない言葉だった。
「監視アプリ……?」
何を言われたのか、理解が追いつかなかったザマスは、訝しげな声で鸚鵡返しをした。
「知らないのか? そのアプリをインストールさえしておけば、そのスマートフォンの現在位置や、メッセージログとかも盗み見ることができるアプリだ。
そのアプリを入れた奴に、思い当たる人物はいるか?」
混乱する頭が、ひとりの人物を思い起こした。
このスマートフォンは、ハーツが用意した物だ。 ハーツから貰ったあと、誰にも貸していない。
なら、監視アプリを入れた人物は――。
「お節介かもしれないが、そんな奴とは縁を切った方が良いぞ。じゃあな」
頭が真っ白になったザマスをそのままに、ゴジータはその場から立ち去っていく。
あとにはただ、スマートフォンを手に持ったまま、立ち尽くすザマスが、そこにいたのだった。
「……そんなのは百も承知だ。どうして、それが私の犯行だとわかった?」
コアエリアのリビングにある商談用のテーブルに、ザマスとゴジータは向かい合って座っていた。
お茶も出していないが、ゴジータは特に気にした様子もなく、椅子の背もたれに背を預けて座っている。
「あんたのスマートフォンは、轢き逃げ事件の捜査のために一度、警察が預かっている。
今時のスマートフォンは、GPSがついているから、あんたの事件前日の行動を調べてみたら、深夜にあの会社に行った記録があることがわかった。
妙な時間に会社に行ってるなって思ったから、あの会社の人間を問い詰めてみたら、その時間に不正ログインがあったことがわかったんだよ。
で、今度はあんたにカマをかけてみたら、あんたがゲロってくれたってことだ」
「……ちっ」
ザマスは思わず舌打ちをする。あの轢き逃げ事件さえ無ければ、バレなかったと言うことか。
いや、話を聞く限りカマをかけたということは、状況証拠だけしかなく、しらばっくれることも可能だったわけだ。
ザマスは、迂闊な自分に苛立ちを覚えた。
「私を逮捕しに来たのか?」
「それは、これからのあんた次第だ」
ゴジータは背もたれから身を起こして、やや前のめりになると、
「あんたが盗んだのは会計データだな。見たところ、あんたが通っている大学院との取り引きデータみたいだったが、二種類あった」
「……所謂、裏帳簿だ。そのデータを見たならわかっていると思うが、大学院が高額な金額で社長の会社に発注をかけて、いくらかを院長にキックバックしていたんだ。証拠のメールもある。
もっと言うなら、あの会社は売り上げを誤魔化して脱税もしていた」
「へえ。それはまた面白そうな話だが、オレが聞きたいとこはそこじゃない。なんでそのデータを盗んだ?」
ザマスは言い淀むが、ゴジータの鋭い瞳が追求を緩める気がないのを物語っていた。
ザマスは、ちらっとゴジータの顔を見た後、大不満そうに渋々口を開くと、
「……院長を失脚させるためだ」
「なんでそんなことを目論んだ? あれか? 神学部研究科の縮小を止めるためか」
ザマスは口を引き結んだまま、ゆっくり頷いた。
「神への探究心を閉ざすのは、許されない」
ザマスの言葉は力強く響いた。
……そこまでするもんかね。いくら、信心深いとはいえ。
ゴジータは内心、呆れ半分、驚き半分で呟いた。
「それで、盗んだデータはどうした?」
「院長に見せた。お前の弱みを知っていると言って」
「院長はなんて?」
「『それを世間に出したら、代わりに君も院から退学させる』と言われた。
今まで色々とトラブルを起こしているから、退学にさせるのは容易い、ただではすまさないとも言っていたな」
その時のことを思い出したザマスは、ふっと鼻で笑った。
「所詮は愚かな人間だ。院長だの神父だのと肩書きがついていても、一皮剥けば唾棄すべき下衆でしかない」
憎々しげにザマスは吐き捨てると、ひと呼吸置いて続きの言葉を紡ぐ。
「とにかく、院長の戯れ言に付き合うつもりがなかったから、話を途中で打ち切って院を出た。
税務署に通報するためにそちらへと向かったのだが、その後はお前も知っての通り、車で轢き殺されそうになったので、結局通報できないままだ」
「ふーん」
ゴジータはじっとザマスを見つめる。何かを考えているようだが、生憎、何を考えているのかザマスは読めなかった。
「その日、教授にはあったのか?」
「ああ。教授にあったのはその午前中だ。作成した論文を提出しに行っただけだ。
……いや、提出しただけというのは語弊があるな。
論文を盗用したことを自白したらどうだと促した。
聞く耳も持たず、『言いがかりだ!』と叫んでいたが、私が『お前が盗用した証拠を持っているぞ』と言ったら顔面蒼白になっていたな。
あれは見物だった」
「そっちも煽ってんのかよ……これじゃあ、犯人がわからないじゃねぇか」
ゴジータは呆れたように呟いた。
「どういうことだ?」
「あんたを轢き殺そうとした犯人はその日、たまたまオープンキャンパスに来ていた人間の車を盗んで事に及んだ。
なら、犯行は突発的なものだろう。そういった犯行は、直前に被害者と揉めていることがほとんどなんだよ」
「ふん。愚鈍ながらも、私の轢き逃げ事件の捜査は続けていたのか。それで、そちらの事件の捜査はどうなっている?」
「あんたのお陰で情報は増えたよ。だけど、余計わからなくなった。
念のために聞いて置くが、事件の前日に会った社長とは揉めてないのか?」
「揉めていない。その後、盗みに入るつもりだったから、警戒心を抱かせたくなかった」
「そーかい」
悪びれも無くしれっと語るザマス。
とはいえ、ザマスの話を聞く限り院長と社長は繋がっている。院長から裏帳簿を盗まれた件を聞かされていたとしたら、社長も穏やかではいられないだろう。
「そういや、あんたは教授がゴワス教授の論文を盗用したと確信しているようだが、それは何故だ?
オレは、院とか行ったことがないから、その辺がよくわかんないんだよ」
「簡単な話だ。
ゴワスは時々、私に書きかけの論文を読ませて、意見を述べさせることがある。以前、読んだゴワスの論文と全く同じ内容のものを、あの教授が学会に提出した。
だから、私はあいつが盗用したことを知っているんだ」
「へえ、それはそれは。でも、ゴワス教授は何も言っていないんだよな?」
「それがあの人の愚かなところだ。
院長を交えて教授と話し合ったらしいが、何をどう言いくるめられたのか、教授を訴えるのを止めて、『彼が正しい道に気がづくのを見守りたい』などという、世迷い言を述べたのだ」
そこまで言ったザマスの顔が、憎々しげなものに変わる。
「……はっ! 愚かなことだ。それが神の御心に従った考えだと思っているらしい。
反省もせず、平気で神に後ろ足で砂をかけるような奴を、粛正もせずに野放しにすることを、正しい行いだと疑いもしていない!」
「……まあ、あんたの考えも理解できるが」
こいつ、沸点が低いな。
ほんの少し話しただけで、ザマスは激怒する素振りを何度か見せている。ゴジータは、そんな彼を興味深く眺めていた。
これだけ沸点が低く、しかも攻撃的な思考をしているなら――口論の末、相手を撲殺する、ということもあり得るだろうな。
言いたいことを言って、多少、怒りが収まったのか、少しだけ落ち着きを取り戻したザマスは、無言のままその場を立つ。
「どうした?」
「喉が渇いたから、お茶を用意してくるだけだ」
「あ、オレも欲しい」
厚かましくも要求してくるゴジータをむっと睨んだ後、ザマスは無言のままキッチンへと向かう。
キッチンには来店した客に出すためのコーヒーや茶葉が用意されている。
使った後に補充してくれさえすれば、勝手に飲んで良いとハーツは言っていた。ザマスは苛立ったまま手早く湯を沸かし、グラスに氷を注いで、アイスティを二つ用意する。
ティーポットで濃いめに淹れられた紅茶が、氷を溶かしながら注がれていく。
氷同士が触れ合う冷たい音を響かせながら、アイスティがたっぷり注がれたグラスを二つ、木製のお盆に載せて、ザマスは再び席に戻ったのだった。
「お、うめぇ」
差し出されたアイスティを飲んだゴジータが、思わず感嘆を漏らす。
すっきりとしてわずかに甘みがある。喉が渇いていたらしいゴジータは、半分まで一気に飲んだのだった。
一息ついたゴジータは、グラスをテーブルに置くと、
「さて、院長が殺された日のあんたの行動を教えて貰おうか。確か、院長に会いにいったんだよな? また、脅しに行ったのか?」
ザマスはすぐには答えなかった。
本当のことを話していいものか、頭の中で素早く計算した。
ザマスの話を聞いた時、ハーツとフューは、その話を聞いた警察の心証は悪くなるだろうと言っていた。
ならば、わざわざ自分の立場を悪くする話をする必要も無いだろう。
警官に嘘をつくことにデメリットはあるが、そもそもこいつは、今日非番であり、これは正式な事情聴取ではない。
ザマスはかぶりを振ると、
「違う。その日は、本当に別の件で呼ばれたんだ」
「別の件って言うと?」
「私の復学の話だ。
もうすぐ、予備審査と呼ばれる博士号を取得するための重要な審査が行われる。私は事故で長期間、入院していたからその事について院長と面談したのだ」
すらすらとでまかせが口からついて出る。
我ながら、自然な嘘を作ることができたと、ザマスは密かに自負したが、その話を聞いたゴジータは、逆に怪訝そうな顔をした。
「それじゃ、お互い社長と院長の癒着の件は何も言わなかったのか。何故だ?」
「それは……」
思わず言葉に詰まった。
確かに、その事を知っているゴジータからすれば、ザマスの話は不自然に思える。
何か言い繕おうと思うものの、上手い言葉が出てこない。実際、院長と相対した時、ザマスはその話題を出さなかった。
否、出せなかった。
言葉に詰まり、何も言えなくなったザマスを見て、ゴジータはピンとくる。
「データを無くしたのか」
「!」
驚いたように顔を上げたザマスだが、バレてしまったのなら仕方が無いと、やがて苦々しい顔のまま、こくっと頷いた。
「……USBにデータを入れてたんだが、事故の影響で壊れてしまった。何度かデータを拾おうとしたが、操作を受け付けてくれない」
「それは不運だったな。データ復旧系のソフトを使っても無理だったのか?」
「データ復旧のソフト? そういうのがあるのか?」
「あるぞ。オレも一回しか使ったことねぇけど」
ザマスは、USBをパソコンに刺して、データフォルダを呼び出すという一般的な操作しかしていない。
そういうソフトがあるのなら、使用すればデータを復元できるかもしれない。
院長が死んでしまった今、そのデータにどれだけの意味があるかはわからないが、何かの役に立つかもしれないので、手元に置いて損はない。
今日、早速そのソフトの事を調べて、データを復元できるか実験してみようと、目を輝かせたザマスに、ゴジータは語りかける。
「で、最後の質問なんだが――あんた、本当に誰も殺していないんだよな?」
顔を上げたザマスは、きつくゴジータを睨みながら、
「私はあのゲス達を手にかけていない。それが全てだ。
――そもそも、お前は交通課の警察だろう。今回の事件に関わりは無いはずなのに、なぜ捜査をしている?」
「ただの個人的な興味だ。轢き逃げの犯人と思っていた三人が一気に倒れて、しかもその容疑者がその轢き逃げの被害者かもしれないと思ったら、いても立ってもいられなくなったんだ」
ゴジータはそう言うと、再び背もたれにもたれ掛かると、腕を組んで何やら考え込み、やがて口を開いた。
「……あんたに聞きたいんだが」
「さっきの質問が、最後ではなかったのか?」
ザマスの棘のある言葉を無視して、ゴジータは続けた。
「誰があの三人を殺したと思う?」
「……」
アイスティを飲んでいたザマスの動きが止まる。
「……それがわかるなら、苦労しない」
「心当たり無いのか? オレは、あの三人に危害を加えたのは同一人物なんじゃないかと思っている」
それは、ザマスも考えていたことだ。
「それぞれの事件の犯人が同一人物なら、容疑者になる人間はそう多くはないはずだ」
ザマスは、あの三人を殺そうと画策するような人物に該当するものがいないか、頭を巡らせる。
――一瞬、ザマスの脳裏をハーツの顔が過ぎ去った。
だが、すぐにザマスは自分自身の考えを否定する。
「心当たりはない」
……そうだ。ハーツは院長と社長はともかく、教授とは面識がないはずだ。だから、ハーツに殺す理由がない。
ゴジータはじっと、ザマスの顔を窺う。
「本当か?」
ゴジータが真っ直ぐザマスの顔を見据える。その黒い瞳が、心の奥底を覗いているようで不快だった。
「くどいぞ」
「そうかよ。それは悪かった」
眉間に皺を寄せたザマスが、語気を鋭くしてそう告げると、ゴジータは引き下がった。
「そういえば……」
ゴジータはぐるりと店内を見渡しながら、
「ここの店長はどこに行ったんだ? 今日は、店が開いている日だろう? あいつもいると思ったから、ここに来たんだが」
「ハーツは朝から出かけている。この店は来店に予約が必要だから、来店予約が無い限り、ハーツがずっと店にいることはない」
「随分、いい商売してんな」
ゴジータは呆れ顔になる。
「そんな商売で儲かるのか? いい車に乗ってたから、金は持ってそうだったが」
「さあ? 私はこの店の手伝いはしているが、経営にまで関与していない。
というか、そもそも、貴様はハーツに何を聞きたいんだ? 社長が倒れた時の事か? あの事件も交通捜査課の管轄外だろう」
「細かいこと言うな。同じ警察が調べるんだから問題ねぇよ。
それに、聞きたいのはその事件のこともあるが、別の件でもちょっと確かめたいことがあるんだ」
「なんだ?」
ザマスがそう問うと、ゴジータは一瞬、ザマスに伝えていいものか迷う様子を見せたが、結局、口を開いた。
「あいつと教授との間で起きたトラブルの件だ」
「……トラブル? 教授との?」
初耳だ。ザマスは思わず身を乗り出した。
「どういうことだ? ハーツと教授との間で起こったトラブルとは何だ?」
「なんだお前、知らないのか」
「いいから、さっさと聞かせろ」
ザマスがせがむと、ゴジータはしょうがねぇなとぼやきながら、
「そう大した事件じゃねぇよ。教授があいつの車に当て逃げしたってだけだ。
ただ、あいつの車は高級車だろう? うちの交通捜査課が担当してたらしいけど、当時のその当て逃げを扱った奴から聞いたら、当て逃げするわ、修繕費を出し渋るわでかなり揉めたって話だ。
大事にしていた車を傷つけられて、ハーツは相当、怒ってたらしいぞ」
ザマスは、ハーツが激怒する様を見たことがなかったので、その時の様子を想像するのは難しかったが、しかしあり得ない話ではない。
ハーツはあの跳ね馬のエンブレムを掲げた赤い車を大事にしている。しかも、車に疎い自分でも知っているくらいの高級車だ。傷つけられたら、激怒するのもわかる。
……いや、そもそも。ザマスは、ハーツと教授は面識がなかったと思っていたのだが、ゴジータの話を聞く限り、そうではなかったのだ。
「まあ、いないならいい。また来る」
そう言って、ゴジータが立ち上がると、ザマスはそれを制止した。
「待て。もう帰る気か?」
「聞きたいことは聞いたからな。なんだ? もうちょっとオレに側に居て欲しいのか?」
「ふざけるな。私が質問に答えたら、面白い話をしてやると言っていただろう。私はまだそれを聞いていない」
「……ああ、そういえば」
ただの方便なのだが、信じていたのか。なんというか、獣のように獰猛な癖に、妙に純真な面があるのがわかって、ゴジータは少しだけ笑った。
「何がおかしい?」
笑われたことに気分を害したザマスは片眉をぴくっと跳ね上げる。ゴジータは椅子に座り直しながら、
「何でもない。
……そうだな、何が知りたい? 答えられる範囲でなら、答えてやるぞ。と言っても、オレも事件のことを全部、知っているわけではないが……」
ゴジータはそう言いながら、ボトムのポケットからスマートフォンを出すと操作しだした。その中に、事件の情報が入っているようだ。
ザマスは少し考え込んだ後に、
「院長が死んだ現場の写真を持っているか?」
「持っているぞ」
ゴジータは画面にその画像を映し出すと、それをザマスに見せた。
院長の事件は事故と殺人事件の両面から捜査されている。担当しているのは、刑事課の強行犯係であり、もちろん交通捜査課のゴジータは管轄外だ。
通常ならゴジータの目に触れることのない現場の写真がなぜ、ゴジータの私用のスマートフォンにあるかというと、勿論非合法な手を使って手に入れたのである。
具体的に言えば、強行班係の捜査員のひとりがゴジータに恩を抱いている後輩なので、そいつに無理を言って見せて貰ったのだ。
ゴジータがスマートフォンでその写真を保管していることは後輩も知らないし、勿論バレればゴジータの立場も危ういのだが、彼はそんなこと気にしていない。
ザマスも、なぜそのような現場の写真がスマートフォンの中にあるのか、少しだけ疑問に思ったのだが、すぐに思考は目の前の画面に引き寄せられていった。
画面の中では、見覚えのある院長室が映し出されている。
カーペットがひかれた床には、刑事ドラマで見かけるような白線が人型に貼ってあった。
そしてその周囲は、所々、土で汚れており、とりわけ頭に当たる部分には大量の土と、一部が砕けた白い陶器の鉢植えが転がっていた。しかもその辺りのカーペットは赤黒く汚れていて、その光景は当時の凄惨さを思い起こさせた。
「院長はこの白線の形に倒れていた。観葉植物が並んだ棚のそばで、頭を院長室の机に剥ける形でうつ伏せになっていたんだ。
凶器に使われたのは、そこに移っている植木鉢だ。見ての通り、粉々に砕けて壊れている上に、血が付着している」
「あたりには、靴跡が残っているな」
白線の周りは土で汚れているが、中には目に見えて靴跡を象っているものもある。
「この靴の持ち主は調べたのか?」
「もちろん。ただ、靴跡の持ち主は全員わかっている。
倒れている院長を最初に発見した秘書をはじめとして、騒ぎを聞きつけて集まった大学関係者の人たちだ。
話によれば、救急車を呼ぼうとして色んな人が集まったらしく、警官が駆けつけた頃には、ぐちゃぐちゃになっていたみたいだな」
「陶器から指紋は?」
「大量に残っていたよ。写真のそばに観葉植物が沢山ある棚があるだろ? その内の一部が、ちょうどぽっかり空いてるんだ。おそらく、犯人はそこにあった観葉植物を凶器に使ったと考えられているんだが、聞いた限り普段からその棚にある植木鉢は色んな人間が触っている。
一応、鑑識にまわして調べて貰っているらしいが、結果が出るまでに時間がかかるし、犯人の指紋が採取できるかは、わからないらしいぞ」
「大学院の正面玄関には防犯カメラがある。その防犯カメラに怪しい人物は映っていなかったのか?」
「あんた以上に怪しい奴か? いなかったらしいぞ」
ゴジータの無礼な物言いを聞いて、ザマスはむっと顔を顰めたものの、言ってもしょうがないと自分自身を説得すると、別の質問をした。
「教授が轢き逃げにあった事件。犯人とおぼしき人物が、最初に通報したと聞いている」
「よく知ってるな。誰から聞いた?」
「そんな事はどうでもいい。それより、その声、お前は聞いたのか?」
「ああ、聞いたぞ。その事件はオレの部署の管轄だからな」
「その声は……聞き覚えがあるものだったか?」
――ハーツの声に似ていたか?
そう聞こうと思ったが、寸前の所でザマスは止めた。道理をわきまえない目の前の警官に、変な先入観を植え付ける必要は無い。
ゴジータは首を振って、
「いや、なかったが……なんでだ?」
「……なんでもない」
ザマスを見るゴジータの目が、疑わしそうにすっと細くなる。ザマスはゴジータの疑念を振り切るように質問を続けた。
「社長が倒れた時の状況は?」
「そっちもある程度は捜査を担当している奴から聞いた」
そう言って、ゴジータが述べたことは、既にハーツから聞いたことだった。真新しい情報がなかったので、話を切り上げようとしたその時、
「それでその時、社長がこう言ったんだと。『あそこにあるカナッペ、ひとつだけ美味しそうなやつがあるな』って」
「え?」
ザマスは思わず声を上げた。ゴジータは話を続ける。
「側に居たひとりがそれは何か尋ねたらしいが、社長は『口で説明するのは面倒だから、全種類持ってくればいい』って言ったらしいんだよ。
それで、あのハーツが一種類ずつ皿に盛って戻ってきたあと、社長が最初に選んで食べて倒れたらしい」
「……」
ザマスは思わず考え込んだ。
社長は、どれかひとつを食べたいと思っていた。 ただ何を食べたいと思っているのか口にしなかったから、周りの人間は何を食べたいのかわからなかった。
考えを、口にしなかったから。
「担当した警官は、最初、社長と直前まで談話していた連中が、社長が食べたカナッペに何か仕込んだと思って捜査していたらしい。
でも、調べたところ、同じ皿に盛られてたカナッペを食べた連中はなんともないし、事情聴取をする限り、誰が何を取るのかわからない状況だったから、狙って毒を仕込むのは無理だってなったらしい」
そう、無理だ。心でも読めない限り。
――しかし、もし仮に、社長の心が読めたら? 何を食べたいと考えているのか、わかるのではないか?
ザマスは、かつてハーツがまるでザマスの心を読んだかのように、ザマスの考えを言い当てた時の事を思い出した。
「オレが話せるのはこれくらいだ。他に何か聞きたいことがあるか?」
物思いに更けていたザマスは、ゴジータの言葉で我に返ると、
「いや、もういい」
「そうか」
ゴジータはそう言うと、自分のスマートフォンを差し出す。
不思議そうにザマスがそれを見返していると、
「院長が倒れていた部屋の画像をやるよ。お前のスマートフォンを出せ」
願ってもない申し出だった。
調査をするなら、情報は手元にあった方がいい。ザマスはゴジータに言われるがまま、自分のスマートフォンを差し出した。
Bluetoothか何かで通信するのかと思いきや、ザマスがスマートフォンを差し出した瞬間、ゴジータはそれを奪い取った。
「何をする!?」
ゴジータはザマスを無視して、何やらザマスのスマートフォンの操作をしている。
「返せ!」
気色ばんだザマスは、立ち上がって取り返そうとするが、ゴジータはその手をひらりと交わすと、彼もまた立ち上がり、ザマスと距離を取りつつ、器用に操作を続ける。
ザマスは机を回って、ゴジータのそばに行って取り返そうとしたところで、逆にゴジータがスマートフォンをザマスに向かって放り投げた。
虚を突かれたザマスは、スマートフォンを取り落とさないように、なんとか受け止める。
「ほら、画像をそっちのスマートフォンに送ったぞ。
あとついでにオレの連絡先もいれといた。何かあったら連絡するし、何もなかったらメシにでも誘ってやる」
傍若無人な言葉を耳にして、唖然としているザマスを放置したまま、ゴジータは庭へと向かった。庭から家に入ったので、靴がそちらにあるのだ。
ゴジータはガラス戸を開けて外に出ようとしたところで、ふと立ち止まって振り返ると、
「あんたのそのスマートフォン、監視アプリが入ってるぞ。誰に入れられたか知らねぇけど、消した方が良いんじゃないか?」
「……は?」
思いも寄らない言葉だった。
「監視アプリ……?」
何を言われたのか、理解が追いつかなかったザマスは、訝しげな声で鸚鵡返しをした。
「知らないのか? そのアプリをインストールさえしておけば、そのスマートフォンの現在位置や、メッセージログとかも盗み見ることができるアプリだ。
そのアプリを入れた奴に、思い当たる人物はいるか?」
混乱する頭が、ひとりの人物を思い起こした。
このスマートフォンは、ハーツが用意した物だ。 ハーツから貰ったあと、誰にも貸していない。
なら、監視アプリを入れた人物は――。
「お節介かもしれないが、そんな奴とは縁を切った方が良いぞ。じゃあな」
頭が真っ白になったザマスをそのままに、ゴジータはその場から立ち去っていく。
あとにはただ、スマートフォンを手に持ったまま、立ち尽くすザマスが、そこにいたのだった。