第十二話 崩れる信頼(8月22日 土曜日)
ザマスは、朝からかたかたとノートパソコンのキーボードを打っていた。
ザマスが今いる場所は自宅ではなく、その隣にあるハーツが経営する店『コアエリア』のリビングだ。同じマンションの隣室なだけあって、部屋の造りはほぼ一緒。
だが、グリーンインテリアショップとしてレイアウトされたこの店には、必要最低限の家電しかなく、リビングから専用庭まで鉢植えに植えられた無数の植物が置かれているので、生活感はまるでなかった。
今、ザマスはリビングとダイニングを結ぶオープンカウンターに座って、店の手伝いで店に来た問い合わせや注文メールを、読み込んでいるところである。
論文のこともあり、あまり悠長に過ごしている余裕は無いのだが、こういった事務作業は、鬱屈な現実から意識を離して没頭できるので、気分転換にちょうどいい。
最近ではザマスは煮詰まると、すぐに店の手伝いをするようになっていたのだった。
院長が死体で発見された日から、既に今日で四日が経っていた。
事件があった日は月曜日。大学は夏期休暇中だが、大学院は通常営業だったので、院内にはそれなりに人がいた。
ザマスは見なかったが、あの時、院内にいた人間の中に、院長室を出入りする不審人物を見た者がいるかもしれない。
先日、そう思って院内で聞き込みを行ったのだが、元々評判の悪いザマスが行ったからか、それとも本当に不審な人物を目撃している者が少ないからか、有益な情報は全くと言って良いほど手に入れられなかった。
他二つの事件もハーツが調べているのだが、調査状況は芳しくない。
犯人を捜し出してやると意気込んではみたものの、調査開始初日と比べて、ザマスが手に入れた情報はほとんど増えていなかった。
唯一、時間が経って良かった点は、事件の翌日にはみかけた報道関係者らしき人物達が、今ではすっかり姿が見せなくなっている点だろうか。世間の飽きが早いのはありがたい。
だが、根本的な問題は何も解決しておらず、ザマスの立場は変わっていない。
警察はあれから何も言ってこないが、だからといってザマスが犯人だという考えを捨て去ったとは思えない。
警察の動きは気がかりだが、ザマスには警察の内部事情を知る術がなかった。
もどかしい思いを抱えたザマスは、溜まった苛立ちと鬱屈を発散させるために、朝からハーツの店の手伝いをしていた。
現在、ハーツは出掛けていてこの店にいないが、既に何度も行ったことである。一人でもスムーズに行える。
部屋や庭の植物に水をやり、深緑の葉に大粒の水滴をつけた植物たちの姿を見て、幾分か気分がすっきりしたザマスは、そのままメール作業に移ったのだった。
グリーンインテリアショップ『コアエリア』は、店舗とオンラインショップを併設しているお店なのだが、24時間対応のオンラインはともかく、実店舗のほうは平日11時から18時まで営業、来店の際は事前の予約が必要という、殿様商売も良いところの経営だ。
だというのに、それなりに注文が入っているのが不思議だった。ちなみに、店を手伝い始めてそこそこ時間が経ったが、客が直接店に来たのは二回しかない。
ザマスは自分で淹れたアイスティーを片手に、マウスをクリックしてメールを読んでいく。返信はしない。
それはハーツの役目だし、そもそもザマスには、メールの問い合わせに返答できるほどの店の知識は無い。
やることと言えば、迷惑メールや明らかに悪戯のメールを除外して、内容をカテゴライズしてまとめたものをハーツに渡すことと、注文を取り纏めるくらいである。
注文している人間は様々だが、個人の客に限れば女性の方が多い。あと、意外なことに法人や海外からの注文もそれなりにあった。
かたかたキーボードを叩いて、注文数と在庫を照らし合わせる。これをハーツに伝えてオッケーが出たら二人で発送作業を行うのだ。在庫が足りなかったら、どこからかハーツが調達してくる。
ふと、マウスを操作していた手が止まった。
今日すべきことが終わり、なんとはなしに過去の注文を見ていたら、ザマスが通っている大学院の名前が出てきたのだ。白い陶器に植えられた、マットな質感の葉が特徴の中型の観葉植物。注文者は事務局になっている。
「うちの大学院もこの店を利用していたのか……」
詳細を表示させたら、注文日は院長が殺される二日前。しかも、配達も料金の支払いも完了になっていた。
8月17日。すなわち、院長が殺された日に。
「……」
これは、どういうことだろうか。
パソコンの画面を眺めていたザマスは、やがて過去の履歴を遡り始めた。
一番古い注文は、今から二年前の冬にされたもので、その初めての注文以降、三~四ヶ月ごとに注文されていた。
それ自体は特に奇妙なことはない。だが、ザマスは他にも何か情報があるのではないかと、過去に来たメールも漁り始めた。
大学院から来たメールは注文フォームを通したものと、たまに注文に関する問い合わせだけで、特に怪しい点はなかったが、代わりに別の気になるメールを見つけた。
「これは……あの社長宛てのメールか?」
見覚えのある名前があると思ったら、宛先はあのパーティー会場で倒れて、今も生死の境を彷徨っている社長宛てのメールだった。
差出人はハーツ。メールが送られたのは、去年の秋頃。中身は、一言で言うなら、不穏なものだった。
そのメールの中には、『これ以上、不誠実な対応を続けるなら、こちらも訴訟を考える』と記されていた。
ザマスは夢中になって、メールを読み進める。
メールに書かれた断片的な内容をつなぎ合わせて考えると、どうやらハーツは、この店のリフォームを去年の夏頃に社長の会社に依頼して行ったらしい。
だが、どうやらリフォームに不備があったらしく、ハーツは無償で修繕を求めていたが、社長はこちらの不備ではないと修繕費を求め、それで揉めているようだった。
結局、詳しい理由はわからなかったが、ハーツは別の会社に修繕を依頼しており、その見積額を見る限り、修繕のために会社員の平均年収を軽く超えた額を支払っているようだった。
いや、他のメールも読む限り、どうも社長がハーツに請求したリフォーム代も、相場と比べてもかなりの高額であった事が記されている。
――リフォームでぼったくるのは当たり前。素人を食い物にしているって評判だ。うちもしてやられた。
四日前、ザマスの家に集まって事件の情報交換を行っていた時の、ハーツの言葉が蘇る。
あの言葉を聞いた時、社長と揉めた事を匂わせていたが、訴訟沙汰になるほど深刻だったとは思ってなかった。
しかも、このメールを読む限り、ハーツはかなりの損害を喰わされたようだが……。
画面を見たまま考え込んでいたザマスは、突然鳴り響いたスマートフォンの着信音に驚いて、体をびくっと震わせた。
慌ててそばに置いていたスマートフォンを手に取って、電話に出る。
通話ボタンを押す前に、着信番号を確認すればよかったと後悔したのは、そのすぐ後だった。
『ザマスか? 私だ』
電話をしてきたのはゴワスだった。途端に、ザマスの機嫌が急降下する。
「なぜ、この電話番号を知っている? 貴方には教えていないはずだが」
不機嫌を隠しもせずに、低い声で短く尋ねる。
轢き逃げに遭う前に持っていたスマートフォンは解約して、ハーツから渡されたこのスマートフォンをメインに使っているため、電話番号が変わっているのだが、それはゴワスには伝えていない。
『予備審査のことで、どうしても伝えたいことがあったから、事務から教えて貰った』
予備審査。その単語が出てきた瞬間、ザマスは不機嫌も忘れて食いついた。
「予備審査の件、決まったのか?」
博士号を取得するには、研究成果をまとめた論文を提出し、本審査で合格を貰う必要がある。
ただし、本審査に提出する前に、まず予備審査に論文を出す必要があり、さらに予備審査に出すためには、指導教員の許可が必要だった。
ザマスの指導教員は、あの教授だ。
だが、彼は今、社長と同様、病院で生死の境を彷徨っていて、院生の指導は不可能な状況だった。
ザマスは、あの教授からまだ予備審査に提出する許可は貰っていない。
あの教授がどうなろうと知ったことではないが、せめて死ぬなら私に予備審査に進む許可を出してから死ねばいいものをと、内心罵倒したものだ。
『今、院長が殺され、教授が轢き逃げにあったことで、大学院内はざわついている。まだ、正式決定はされていないが、予備審査は例年より遅れて行われる見通しだ』
「それで、私の指導教員はどうなった?」
『まだ決定していない』
ザマスは思わず舌打ちをした。
『論文はどこまで出来上がっている?』
「……あと一歩で予備審査という所まで来ている。
指摘されたところを修正したら、予備審査に出すかどうか検討すると言っていたが、返事を貰う前に、あいつは轢かれた」
『ザマス、言い方が悪い。相手がどうであれ、敬意を持つことを忘れたらいけない』
「そんなことはどうでもいい。指導教員はいつ決まる?」
『……わからない。今日もその議題が上がったのだが、結論が出なかった』
「なぜだ? 私が希望していた教授はどうした? 確か、あの教授は担当していた院生が退学したから、ひとり分、手が空いていたはずだ」
教授が指導教員としての職務を全うできない状態になった時点で、ザマスは大学院側に指導教員の変更を要請していた。
その際、ザマスが研究している分野に明るい別の教授を、指導教員にして欲しいと併せて希望を伝えていたのだが、未だに決定しないという事実が、ザマスにとって不可解だった。
『それが……』
ゴワスが言いにくそうに口籠もる。
ザマスは、ふとある可能性に思い当たった。
「まさか、その教授が拒否しているのか? 私が院長を殺した犯人だと思っているから?」
『……』
すぐに返事が返ってこなかった。電話の向こうから憂いを帯びた溜め息が聞こえたかと思うと、ゴワスは重苦しい口調で、
『……そうだ。お前が希望した教授は、君を担当することを非常に怖がっている。こちらがいくら説得しても駄目だった。
……他の教授達も同様だ』
「……! なら、どうしろというのだ!?」
ザマスは、思わず叫んだ。
博士号を取るには、論文を予備審査に出さなければならないのだが、それには指導教員の承諾が必要なのだ。
予備審査は例年九月に開催され、それを逃せば来年を待つしかない。
今は既に八月下旬。
いや、それよりも、このままずっと犯人だと疑われて、指導教員が決まらなければ、博士号を取得できないまま修業年限を迎えて、退学させられるかもしれない。
そんな、暗い未来を想像したザマスは、半狂乱になりかけた。
「私は殺していない! 手を汚していない私が、何故このような理不尽な目に遭わなければならないのだ!?」
『落ち着け。我を忘れてはいけない』
「落ち着いていられるか! 貴方には関係ないから、そんな呑気なことが言ってられるんだ!」
『ザマス!』
ひときわ強い、ゴワスの静止がスマートフォンの向こうから聞こえる。
「もういい! 貴方とはこれ以上話したくない!」
そう言うと、ゴワスの返事も待たずに通話を終了した。
しばらく、ザマスはスマートフォンを握ったまま歯噛みしていた。
頭では、ゴワスに八つ当たりをしただけだと理解している。
だが、やってもいないのに、院長を殺したと決めつけられ、さらにぶつけられる理不尽が、ザマスの感情を大きく波立たせた。
「やはり、早く犯人を見つけなければ……!」
自分の無実を証明するには、それしかない。
ザマスは、大学院で聞き込みをしようと思い立つ。前回の聞き込みは収穫なく終わったが、だからといってこのままこの家にいても、何の情報も手に入れられない。何もしないよりはましだ。
ザマスは、早速スマートフォンを手に取って、ハーツに連絡を取ろうと画面を触る。
ひとりで捜査するよりふたりでした方が効率がいい。ハーツは、今日は朝の早いうちから用事があると言っていたが、それ以降は暇だと言っていた。
今の時間なら、用事を済ませて手が空いているかもしれない。
ハーツの電話番号を呼び出して、電話をしようとしたザマスの指がぴたっと止まった。
――そういえば、あの事件があった日。ハーツはなぜ大学院のそばにいたのだ?
注文を受けた品は基本的に宅配で送られるが、近場の場合はハーツが直接、配達することもある。もしかしたら、大学院も近くにあるので、ハーツ自身が届けたのかもしれない。
だから、あの日、大学院の側に居たのか? あの、院長が撲殺された日に。
「……」
ザマスはスマートフォンをテーブルの上に置くと、再びノートパソコンのマウスを動かし始める。
このノートパソコンには店のデータも入っている。
データベースを操作して、院長が撲殺された日の二日前に入った注文データを表示させた。
確認してみると、あの大学院からの注文は配達まで完了しているが、宅配会社に依頼した記録はない。ということは、ハーツ自身が宅配したのだ。
「……」
ザマスは、思わず考え込んだ。
社長が倒れた事件。院長が撲殺された事件。
同じ日に起こった三つの事件のうち、二つの事件が発生した時、ハーツは現場、もしくはその付近にいたという事である。
――いや。
よくよく考えたら、あの日の朝、ハーツが何をしていたのか知らない。
あの日の午後、一緒にお茶をした時、ハーツは「朝からあちこち行っていた」と言っていたが……。
ただの想像でしかないが、教授が轢き逃げされた時も、ハーツは側に居たのではないだろうか。
そこまで考えたザマスは、暴走しそうになっている想像を落ち着けるように、小さく頭を振った。
……考えすぎだ。犯人を見つけなければと考えるあまり、私は焦りすぎている。
どうやら、ハーツは院長、社長と繋がりがあるようだが、教授とは無関係だ。なんらトラブルが起きてもいない間柄なのに、疑うのは早計すぎる。
思い浮かんだ考えを、荒唐無稽だと評していたその時――。
ぴんぽーん。
その時、チャイムがなった。びくっと体を震わせたザマスは、慌てて壁のインターフォンの元に駆け寄る。
誰がこの店に尋ねてきたのだ? 予約制であることを知らない客か?
オートロックのマンションの前にはインターフォンがあり、指定した部屋の番号を入力すると、その部屋のチャイムが鳴る。
インターフォンにはカメラがついているので、部屋の主は、その画面で来客を確認することが出来るのだが――。
「!?」
小さな画面に映し出された男を見て、ザマスは一瞬、我が目を疑った。
玄関のカメラの前に立っていたのは、私服姿のゴジータだった。
「何故こいつがここに……!?」
驚きのあまり、ザマスが画面の前で立ち尽くしていると、画面の中のゴジータは、焦れったくなったのか再び手を伸ばしてチャイムを慣らした。
催促するように鳴らされたチャイムが、非常に不快だった。
「……」
ザマスはチャイムを無視してリビングへと戻った。
ハーツは今日、店に来客があるとは言っていなかった。ならば、何をしに来たのか知らないが、客でも何でも無い人間の相手をしてやるつもりはない。
最初はリビングのキッチンカウンターに戻り、無視して作業を続けようと考えていたのだが、あまりにも何度も鳴るので、うるさく思ったザマスはそのまま庭へと出た。
庭に出てガラス戸も閉めてしまえば、煩わしいチャイムの音も気にならなくなる。無視をし続けていれば、いずれ諦めて去るだろう。
植木鉢に囲まれたウッドデッキに出たザマスは、そのままガーデンチェアにどさっと座った。ウッドデッキは影になっているが、辺りの空気はむわっと暑い。
「鬱陶しい」
ザマスは物心ついた頃から武道を学んでいる。
同じく武道の達人だった父と母を師範とし、両親を失ってからはゴワスを師範として切磋琢磨したザマスの腕はかなりの物で、既に実力はゴワスを上回っている。
ザマスは自分の力に自信と誇りを持っていた。
その辺の有象無象には負けないつもりでいたのにも関わらず、あの男、ゴジータには――手も足も出なかった。
こちらから繰り出した攻撃は容易に躱され、簡単に腕を捻り上げられたのは記憶に新しい。数日前、大学院の玄関ホールでやりあって負けた記憶が蘇り、ザマスは思わず歯噛みした。
――もし、体が全快していれば、あのような醜態は晒さずにすんだものを……!
「お。そんなところにいたのか」
「!?」
聞き覚えのある声を耳にして、ザマスは、はっと顔を上げた。
咄嗟に声が聞こえてきた方に顔を向けると、そこには、庭を囲むように設置された柵の上に、ゴジータが屈んだ状態でいた。
専用庭は周りの空間から隔離するように、平均的な人間の身長より高い黒い鉄柵で囲まれている。
ゴジータが、道路側からその柵の上に飛び乗ったのだと理解するのに、ザマスは数秒の時間を要したのだった。
ゴジータが軽やかに庭に降り立った瞬間、我に返ったザマスは思わず腰を浮かした。
「来るな!」
まさか、柵を乗り越えるなどという非常識な真似を、現役の警官が行うとは思いもよらなかった。牽制するようにザマスが鋭く叫ぶなか、ゴジータは遠慮もなくずかずかとザマスに近寄った。
「怒るな。ちょっとあんたと話がしたいだけだ」
「ふざけるな! 許可もなく敷地に無断で入り込むような不届き者と交わす言葉など無い! それが警察のすることか!」
「生憎、今日もオレは非番だ。服装を見ればわかるだろう?」
そう言いながら、ゴジータはタンクトップに半袖のパーカーを来た自分を指さした。
「だからどうした! 非番だろうが何だろうが、不法侵入には変わりない!」
「細かいこと言うな。この間は邪魔が入ってゆっくり話せなかったから、こうして会いに来てやったんだ」
そう言うと、ゴジータはさらに距離を詰める。
ザマスは咄嗟に腰を落として攻撃の構えを取る。
「止めておけ。その体じゃ、オレには勝てねぇよ」
ザマスは目尻をきりっとつり上げると、手加減抜きに拳を繰り出したが、ゴジータは臆することなくその手首を掴む。
既視感。
ゴジータは逆にその手を引っ張ると、ザマスがよろけたところを足払いして体勢を崩させた。
ザマスはどさっと勢いよくガーデンチェアに座らされる。急激に転回する視界。衝撃で隙が出来たその瞬間、ゴジータはザマスの両肩を掴んで背もたれに押しつけた。
「そう暴れるなって」
ザマスは咄嗟に、自分の肩を掴むゴジータの腕を引き剥がそうとしたが、ゴジータの手にさらに力が込められたせいで、まだ傷が完全に癒えていない右肩が酷く痛んだ。ザマスは思わず痛みに呻く。
「悪い悪い。そういえば、事故で怪我してたっけ」
軽い口調で謝罪するが、ゴジータの腕から力が抜けることはなかった。
「なあ、オレとお喋りしようぜ。そうすれば、面白い話を聞かせてやるし、何よりお前が死んだ社長の会社に忍び込んで、会計データを盗んだこと、黙っといてやるからさ」
「!?」
痛みすら忘れて、ザマスは絶句した。
呆然と自分を見上げるザマスを見ながら、ゴジータは薄く笑う。
「な? オレとお喋りしたくなっただろう?」
ザマスが今いる場所は自宅ではなく、その隣にあるハーツが経営する店『コアエリア』のリビングだ。同じマンションの隣室なだけあって、部屋の造りはほぼ一緒。
だが、グリーンインテリアショップとしてレイアウトされたこの店には、必要最低限の家電しかなく、リビングから専用庭まで鉢植えに植えられた無数の植物が置かれているので、生活感はまるでなかった。
今、ザマスはリビングとダイニングを結ぶオープンカウンターに座って、店の手伝いで店に来た問い合わせや注文メールを、読み込んでいるところである。
論文のこともあり、あまり悠長に過ごしている余裕は無いのだが、こういった事務作業は、鬱屈な現実から意識を離して没頭できるので、気分転換にちょうどいい。
最近ではザマスは煮詰まると、すぐに店の手伝いをするようになっていたのだった。
院長が死体で発見された日から、既に今日で四日が経っていた。
事件があった日は月曜日。大学は夏期休暇中だが、大学院は通常営業だったので、院内にはそれなりに人がいた。
ザマスは見なかったが、あの時、院内にいた人間の中に、院長室を出入りする不審人物を見た者がいるかもしれない。
先日、そう思って院内で聞き込みを行ったのだが、元々評判の悪いザマスが行ったからか、それとも本当に不審な人物を目撃している者が少ないからか、有益な情報は全くと言って良いほど手に入れられなかった。
他二つの事件もハーツが調べているのだが、調査状況は芳しくない。
犯人を捜し出してやると意気込んではみたものの、調査開始初日と比べて、ザマスが手に入れた情報はほとんど増えていなかった。
唯一、時間が経って良かった点は、事件の翌日にはみかけた報道関係者らしき人物達が、今ではすっかり姿が見せなくなっている点だろうか。世間の飽きが早いのはありがたい。
だが、根本的な問題は何も解決しておらず、ザマスの立場は変わっていない。
警察はあれから何も言ってこないが、だからといってザマスが犯人だという考えを捨て去ったとは思えない。
警察の動きは気がかりだが、ザマスには警察の内部事情を知る術がなかった。
もどかしい思いを抱えたザマスは、溜まった苛立ちと鬱屈を発散させるために、朝からハーツの店の手伝いをしていた。
現在、ハーツは出掛けていてこの店にいないが、既に何度も行ったことである。一人でもスムーズに行える。
部屋や庭の植物に水をやり、深緑の葉に大粒の水滴をつけた植物たちの姿を見て、幾分か気分がすっきりしたザマスは、そのままメール作業に移ったのだった。
グリーンインテリアショップ『コアエリア』は、店舗とオンラインショップを併設しているお店なのだが、24時間対応のオンラインはともかく、実店舗のほうは平日11時から18時まで営業、来店の際は事前の予約が必要という、殿様商売も良いところの経営だ。
だというのに、それなりに注文が入っているのが不思議だった。ちなみに、店を手伝い始めてそこそこ時間が経ったが、客が直接店に来たのは二回しかない。
ザマスは自分で淹れたアイスティーを片手に、マウスをクリックしてメールを読んでいく。返信はしない。
それはハーツの役目だし、そもそもザマスには、メールの問い合わせに返答できるほどの店の知識は無い。
やることと言えば、迷惑メールや明らかに悪戯のメールを除外して、内容をカテゴライズしてまとめたものをハーツに渡すことと、注文を取り纏めるくらいである。
注文している人間は様々だが、個人の客に限れば女性の方が多い。あと、意外なことに法人や海外からの注文もそれなりにあった。
かたかたキーボードを叩いて、注文数と在庫を照らし合わせる。これをハーツに伝えてオッケーが出たら二人で発送作業を行うのだ。在庫が足りなかったら、どこからかハーツが調達してくる。
ふと、マウスを操作していた手が止まった。
今日すべきことが終わり、なんとはなしに過去の注文を見ていたら、ザマスが通っている大学院の名前が出てきたのだ。白い陶器に植えられた、マットな質感の葉が特徴の中型の観葉植物。注文者は事務局になっている。
「うちの大学院もこの店を利用していたのか……」
詳細を表示させたら、注文日は院長が殺される二日前。しかも、配達も料金の支払いも完了になっていた。
8月17日。すなわち、院長が殺された日に。
「……」
これは、どういうことだろうか。
パソコンの画面を眺めていたザマスは、やがて過去の履歴を遡り始めた。
一番古い注文は、今から二年前の冬にされたもので、その初めての注文以降、三~四ヶ月ごとに注文されていた。
それ自体は特に奇妙なことはない。だが、ザマスは他にも何か情報があるのではないかと、過去に来たメールも漁り始めた。
大学院から来たメールは注文フォームを通したものと、たまに注文に関する問い合わせだけで、特に怪しい点はなかったが、代わりに別の気になるメールを見つけた。
「これは……あの社長宛てのメールか?」
見覚えのある名前があると思ったら、宛先はあのパーティー会場で倒れて、今も生死の境を彷徨っている社長宛てのメールだった。
差出人はハーツ。メールが送られたのは、去年の秋頃。中身は、一言で言うなら、不穏なものだった。
そのメールの中には、『これ以上、不誠実な対応を続けるなら、こちらも訴訟を考える』と記されていた。
ザマスは夢中になって、メールを読み進める。
メールに書かれた断片的な内容をつなぎ合わせて考えると、どうやらハーツは、この店のリフォームを去年の夏頃に社長の会社に依頼して行ったらしい。
だが、どうやらリフォームに不備があったらしく、ハーツは無償で修繕を求めていたが、社長はこちらの不備ではないと修繕費を求め、それで揉めているようだった。
結局、詳しい理由はわからなかったが、ハーツは別の会社に修繕を依頼しており、その見積額を見る限り、修繕のために会社員の平均年収を軽く超えた額を支払っているようだった。
いや、他のメールも読む限り、どうも社長がハーツに請求したリフォーム代も、相場と比べてもかなりの高額であった事が記されている。
――リフォームでぼったくるのは当たり前。素人を食い物にしているって評判だ。うちもしてやられた。
四日前、ザマスの家に集まって事件の情報交換を行っていた時の、ハーツの言葉が蘇る。
あの言葉を聞いた時、社長と揉めた事を匂わせていたが、訴訟沙汰になるほど深刻だったとは思ってなかった。
しかも、このメールを読む限り、ハーツはかなりの損害を喰わされたようだが……。
画面を見たまま考え込んでいたザマスは、突然鳴り響いたスマートフォンの着信音に驚いて、体をびくっと震わせた。
慌ててそばに置いていたスマートフォンを手に取って、電話に出る。
通話ボタンを押す前に、着信番号を確認すればよかったと後悔したのは、そのすぐ後だった。
『ザマスか? 私だ』
電話をしてきたのはゴワスだった。途端に、ザマスの機嫌が急降下する。
「なぜ、この電話番号を知っている? 貴方には教えていないはずだが」
不機嫌を隠しもせずに、低い声で短く尋ねる。
轢き逃げに遭う前に持っていたスマートフォンは解約して、ハーツから渡されたこのスマートフォンをメインに使っているため、電話番号が変わっているのだが、それはゴワスには伝えていない。
『予備審査のことで、どうしても伝えたいことがあったから、事務から教えて貰った』
予備審査。その単語が出てきた瞬間、ザマスは不機嫌も忘れて食いついた。
「予備審査の件、決まったのか?」
博士号を取得するには、研究成果をまとめた論文を提出し、本審査で合格を貰う必要がある。
ただし、本審査に提出する前に、まず予備審査に論文を出す必要があり、さらに予備審査に出すためには、指導教員の許可が必要だった。
ザマスの指導教員は、あの教授だ。
だが、彼は今、社長と同様、病院で生死の境を彷徨っていて、院生の指導は不可能な状況だった。
ザマスは、あの教授からまだ予備審査に提出する許可は貰っていない。
あの教授がどうなろうと知ったことではないが、せめて死ぬなら私に予備審査に進む許可を出してから死ねばいいものをと、内心罵倒したものだ。
『今、院長が殺され、教授が轢き逃げにあったことで、大学院内はざわついている。まだ、正式決定はされていないが、予備審査は例年より遅れて行われる見通しだ』
「それで、私の指導教員はどうなった?」
『まだ決定していない』
ザマスは思わず舌打ちをした。
『論文はどこまで出来上がっている?』
「……あと一歩で予備審査という所まで来ている。
指摘されたところを修正したら、予備審査に出すかどうか検討すると言っていたが、返事を貰う前に、あいつは轢かれた」
『ザマス、言い方が悪い。相手がどうであれ、敬意を持つことを忘れたらいけない』
「そんなことはどうでもいい。指導教員はいつ決まる?」
『……わからない。今日もその議題が上がったのだが、結論が出なかった』
「なぜだ? 私が希望していた教授はどうした? 確か、あの教授は担当していた院生が退学したから、ひとり分、手が空いていたはずだ」
教授が指導教員としての職務を全うできない状態になった時点で、ザマスは大学院側に指導教員の変更を要請していた。
その際、ザマスが研究している分野に明るい別の教授を、指導教員にして欲しいと併せて希望を伝えていたのだが、未だに決定しないという事実が、ザマスにとって不可解だった。
『それが……』
ゴワスが言いにくそうに口籠もる。
ザマスは、ふとある可能性に思い当たった。
「まさか、その教授が拒否しているのか? 私が院長を殺した犯人だと思っているから?」
『……』
すぐに返事が返ってこなかった。電話の向こうから憂いを帯びた溜め息が聞こえたかと思うと、ゴワスは重苦しい口調で、
『……そうだ。お前が希望した教授は、君を担当することを非常に怖がっている。こちらがいくら説得しても駄目だった。
……他の教授達も同様だ』
「……! なら、どうしろというのだ!?」
ザマスは、思わず叫んだ。
博士号を取るには、論文を予備審査に出さなければならないのだが、それには指導教員の承諾が必要なのだ。
予備審査は例年九月に開催され、それを逃せば来年を待つしかない。
今は既に八月下旬。
いや、それよりも、このままずっと犯人だと疑われて、指導教員が決まらなければ、博士号を取得できないまま修業年限を迎えて、退学させられるかもしれない。
そんな、暗い未来を想像したザマスは、半狂乱になりかけた。
「私は殺していない! 手を汚していない私が、何故このような理不尽な目に遭わなければならないのだ!?」
『落ち着け。我を忘れてはいけない』
「落ち着いていられるか! 貴方には関係ないから、そんな呑気なことが言ってられるんだ!」
『ザマス!』
ひときわ強い、ゴワスの静止がスマートフォンの向こうから聞こえる。
「もういい! 貴方とはこれ以上話したくない!」
そう言うと、ゴワスの返事も待たずに通話を終了した。
しばらく、ザマスはスマートフォンを握ったまま歯噛みしていた。
頭では、ゴワスに八つ当たりをしただけだと理解している。
だが、やってもいないのに、院長を殺したと決めつけられ、さらにぶつけられる理不尽が、ザマスの感情を大きく波立たせた。
「やはり、早く犯人を見つけなければ……!」
自分の無実を証明するには、それしかない。
ザマスは、大学院で聞き込みをしようと思い立つ。前回の聞き込みは収穫なく終わったが、だからといってこのままこの家にいても、何の情報も手に入れられない。何もしないよりはましだ。
ザマスは、早速スマートフォンを手に取って、ハーツに連絡を取ろうと画面を触る。
ひとりで捜査するよりふたりでした方が効率がいい。ハーツは、今日は朝の早いうちから用事があると言っていたが、それ以降は暇だと言っていた。
今の時間なら、用事を済ませて手が空いているかもしれない。
ハーツの電話番号を呼び出して、電話をしようとしたザマスの指がぴたっと止まった。
――そういえば、あの事件があった日。ハーツはなぜ大学院のそばにいたのだ?
注文を受けた品は基本的に宅配で送られるが、近場の場合はハーツが直接、配達することもある。もしかしたら、大学院も近くにあるので、ハーツ自身が届けたのかもしれない。
だから、あの日、大学院の側に居たのか? あの、院長が撲殺された日に。
「……」
ザマスはスマートフォンをテーブルの上に置くと、再びノートパソコンのマウスを動かし始める。
このノートパソコンには店のデータも入っている。
データベースを操作して、院長が撲殺された日の二日前に入った注文データを表示させた。
確認してみると、あの大学院からの注文は配達まで完了しているが、宅配会社に依頼した記録はない。ということは、ハーツ自身が宅配したのだ。
「……」
ザマスは、思わず考え込んだ。
社長が倒れた事件。院長が撲殺された事件。
同じ日に起こった三つの事件のうち、二つの事件が発生した時、ハーツは現場、もしくはその付近にいたという事である。
――いや。
よくよく考えたら、あの日の朝、ハーツが何をしていたのか知らない。
あの日の午後、一緒にお茶をした時、ハーツは「朝からあちこち行っていた」と言っていたが……。
ただの想像でしかないが、教授が轢き逃げされた時も、ハーツは側に居たのではないだろうか。
そこまで考えたザマスは、暴走しそうになっている想像を落ち着けるように、小さく頭を振った。
……考えすぎだ。犯人を見つけなければと考えるあまり、私は焦りすぎている。
どうやら、ハーツは院長、社長と繋がりがあるようだが、教授とは無関係だ。なんらトラブルが起きてもいない間柄なのに、疑うのは早計すぎる。
思い浮かんだ考えを、荒唐無稽だと評していたその時――。
ぴんぽーん。
その時、チャイムがなった。びくっと体を震わせたザマスは、慌てて壁のインターフォンの元に駆け寄る。
誰がこの店に尋ねてきたのだ? 予約制であることを知らない客か?
オートロックのマンションの前にはインターフォンがあり、指定した部屋の番号を入力すると、その部屋のチャイムが鳴る。
インターフォンにはカメラがついているので、部屋の主は、その画面で来客を確認することが出来るのだが――。
「!?」
小さな画面に映し出された男を見て、ザマスは一瞬、我が目を疑った。
玄関のカメラの前に立っていたのは、私服姿のゴジータだった。
「何故こいつがここに……!?」
驚きのあまり、ザマスが画面の前で立ち尽くしていると、画面の中のゴジータは、焦れったくなったのか再び手を伸ばしてチャイムを慣らした。
催促するように鳴らされたチャイムが、非常に不快だった。
「……」
ザマスはチャイムを無視してリビングへと戻った。
ハーツは今日、店に来客があるとは言っていなかった。ならば、何をしに来たのか知らないが、客でも何でも無い人間の相手をしてやるつもりはない。
最初はリビングのキッチンカウンターに戻り、無視して作業を続けようと考えていたのだが、あまりにも何度も鳴るので、うるさく思ったザマスはそのまま庭へと出た。
庭に出てガラス戸も閉めてしまえば、煩わしいチャイムの音も気にならなくなる。無視をし続けていれば、いずれ諦めて去るだろう。
植木鉢に囲まれたウッドデッキに出たザマスは、そのままガーデンチェアにどさっと座った。ウッドデッキは影になっているが、辺りの空気はむわっと暑い。
「鬱陶しい」
ザマスは物心ついた頃から武道を学んでいる。
同じく武道の達人だった父と母を師範とし、両親を失ってからはゴワスを師範として切磋琢磨したザマスの腕はかなりの物で、既に実力はゴワスを上回っている。
ザマスは自分の力に自信と誇りを持っていた。
その辺の有象無象には負けないつもりでいたのにも関わらず、あの男、ゴジータには――手も足も出なかった。
こちらから繰り出した攻撃は容易に躱され、簡単に腕を捻り上げられたのは記憶に新しい。数日前、大学院の玄関ホールでやりあって負けた記憶が蘇り、ザマスは思わず歯噛みした。
――もし、体が全快していれば、あのような醜態は晒さずにすんだものを……!
「お。そんなところにいたのか」
「!?」
聞き覚えのある声を耳にして、ザマスは、はっと顔を上げた。
咄嗟に声が聞こえてきた方に顔を向けると、そこには、庭を囲むように設置された柵の上に、ゴジータが屈んだ状態でいた。
専用庭は周りの空間から隔離するように、平均的な人間の身長より高い黒い鉄柵で囲まれている。
ゴジータが、道路側からその柵の上に飛び乗ったのだと理解するのに、ザマスは数秒の時間を要したのだった。
ゴジータが軽やかに庭に降り立った瞬間、我に返ったザマスは思わず腰を浮かした。
「来るな!」
まさか、柵を乗り越えるなどという非常識な真似を、現役の警官が行うとは思いもよらなかった。牽制するようにザマスが鋭く叫ぶなか、ゴジータは遠慮もなくずかずかとザマスに近寄った。
「怒るな。ちょっとあんたと話がしたいだけだ」
「ふざけるな! 許可もなく敷地に無断で入り込むような不届き者と交わす言葉など無い! それが警察のすることか!」
「生憎、今日もオレは非番だ。服装を見ればわかるだろう?」
そう言いながら、ゴジータはタンクトップに半袖のパーカーを来た自分を指さした。
「だからどうした! 非番だろうが何だろうが、不法侵入には変わりない!」
「細かいこと言うな。この間は邪魔が入ってゆっくり話せなかったから、こうして会いに来てやったんだ」
そう言うと、ゴジータはさらに距離を詰める。
ザマスは咄嗟に腰を落として攻撃の構えを取る。
「止めておけ。その体じゃ、オレには勝てねぇよ」
ザマスは目尻をきりっとつり上げると、手加減抜きに拳を繰り出したが、ゴジータは臆することなくその手首を掴む。
既視感。
ゴジータは逆にその手を引っ張ると、ザマスがよろけたところを足払いして体勢を崩させた。
ザマスはどさっと勢いよくガーデンチェアに座らされる。急激に転回する視界。衝撃で隙が出来たその瞬間、ゴジータはザマスの両肩を掴んで背もたれに押しつけた。
「そう暴れるなって」
ザマスは咄嗟に、自分の肩を掴むゴジータの腕を引き剥がそうとしたが、ゴジータの手にさらに力が込められたせいで、まだ傷が完全に癒えていない右肩が酷く痛んだ。ザマスは思わず痛みに呻く。
「悪い悪い。そういえば、事故で怪我してたっけ」
軽い口調で謝罪するが、ゴジータの腕から力が抜けることはなかった。
「なあ、オレとお喋りしようぜ。そうすれば、面白い話を聞かせてやるし、何よりお前が死んだ社長の会社に忍び込んで、会計データを盗んだこと、黙っといてやるからさ」
「!?」
痛みすら忘れて、ザマスは絶句した。
呆然と自分を見上げるザマスを見ながら、ゴジータは薄く笑う。
「な? オレとお喋りしたくなっただろう?」