第十一話 犯人を捜して(8月18日 火曜日)
8月17日月曜日。
段々と昼の暑さが落ち着いてきているなか、その日は久しぶりに酷暑となった。
ザマスは、蝉時雨の中、大学院を目指して大学の敷地内を歩いていた。
普段は大学の正門から大学院に向かうのだが、今日は大学院に来る前に書店に寄ったので、裏門からの通学になる。
裏門と言っても、幅は狭いため通れるのは徒歩の人間と自転車を利用した人間だけ。車は通れない門だった。
ザマスは額の汗を拭いながら、トートバッグの中からスマートフォンを取り出すと、時刻を確かめた。13時45分。
約束の時間が迫っていることを確認したザマスは、歩く速度を速める。
今日、ザマスは、院長に呼び出された。理由はわからない。
突然、当日の朝、事務から14時に院長室に来るように連絡があったのである。
急な呼び出しに不快感を覚えつつ、同時に疑問も抱いていた。
――あの院長が、自分に一体何の用だと言うのだ?
明らかに、穏やかな案件ではないだろう。ザマスは気を引き締めながら、院長室へと向かった。
大学院の裏手から正面玄関に向かう場合、建物の横手を通ってぐるっと正面まで回らなければならない。しかも、この時間帯は、建物の影もできないため、炎天下の中を歩かなければならなかった。
三階建ての大学院の側面には外階段がついており、階段を上れば各階に上がれるため、正面玄関まで行かなくてもいいように見えるのだが、生憎、防犯のため外階段から建物の中に続く扉は、外からは開かなかった。
車通学の院生達が、あの外階段を使えたらと嘆いていたのを聞いたことがあるし、以前は車通学だったザマスも、心の中でこっそりそれに同調していた。
外階段を三階まで上がって、建物の中に入ることができたら、院長室はすぐそこだ。
だが、基本的に扉は防犯のため閉じられており、かつ扉を開ける手段のないザマスは、暑さを我慢して正面玄関に回るしかなかった。
ようやく、建物内に辿り着いたザマスは、クラッシックが流れる玄関ホールを通り抜けて階段で三階へ上がる。
三階にある部屋は院長室と副院長室、あとは秘書室くらいである。
部屋数の割に使用されている部屋そのものは少ないため、一階、二階と違い、三階は人の気配が少なかった。
ザマスは、『院長室』と記されているドアプレートが掲げられた扉の前で立ち止まった。
改めてスマートフォンで時刻を確認すると、ちょうど14時。
ザマスは院長室の扉をノックした。少しの間を置いて、中から院長が入るように告げる声が聞こえてきた。
ザマスは何も言わずに扉を開けて中に入る。
院長室に入室してまず目に入るのは、無数の観葉植物達。壁際には観葉植物専用の背の高い棚もある。そんな植物達に囲まれるように、部屋の中には執務机に着席する院長と、そのそばに控える秘書がいたのだった。
秘書は、部屋に入ってきたのがザマスであることを認識した瞬間、非常に驚いた表情をする。秘書は何か聞きたそうに院長に視線を向けるが、院長はその疑問には答えず秘書に下がるように命じたのだった。
「私に何か用か?」
秘書が院長室から出て行った後、執務机の前まで来たザマスが口を開く。
ザマスは不遜な態度で院長を見下ろすが、院長もまた得体の知れない笑みを浮かべながら、ザマスを見上げていた。
「君に話して起きたいことがある。早急に伝えた方がいいと思って、わざわざ君に来て貰ったんだ」
ザマスの片眉がぴくっと跳ねた。妙にねちっこい、嫌味な言い方が癇に障る。
「さっさと話せ」
敬語を使って取り繕うことすらせずに、ザマスは苛立った口調で先を促した。
「君を退学処分にすることにした」
「な!?」
予想だにしていなかった発言を聞いて、ザマスは思わず言葉を失った。
院長はザマスの反応に気をよくしたのか、にやにやと君の悪い笑みを深くする。
「君はあまりにもトラブルを起こしすぎた。聞くに堪えない暴言だけでなく、暴力を振るって周りの者に危害を加える君は、神学を学ぶ者としてふさわしくない。
君にも将来があるだろうから、私も色々と考えたのだが、どうにもこうにも退学はさけられそうにない。残念だ」
「よくも抜け抜けと……!」
ザマスは怒りに視界が赤く染まる。衝動のままに動けば、いまにでも院長を殴ってしまいそうだった。
「何が残念だ! 昔のことを蒸し返して!」
「昔も何も、君が暴力沙汰を起こしたのは間違いない」
「あれは相手から殴りかかってきたのだ! それは貴様も知っていることだろう!? それに、当事者同士で話はついている!」
「それとこれとは話が別だ。
うちの大学院で博士号を取るには、研究成果だけでなく相応の態度というものが要求される。君はそれが備わっていない」
「なんだと!」
「生憎、私は昔のことだからと、有耶無耶にするつもりはなくてね。
罪を憎んで人を憎まずとはいえ、罪を反省しない人間を野放しにするのは、神の教えに反する。
私は、君が悔い改めるように、君の罪を裁くんだよ」
「貴様!」
ザマスは吠えると、一気に距離を詰めて院長の胸ぐらを両手で掴み上げた。
「神学を学ぶ場を守ることもせず、神を利用して暴利を貪るお前が神の教えを語るだと!? あまつさえ、貴様如きがこの私を裁くだと!?」
「ああ、そうだよ!」
胸ぐらを掴んで持ち上げられた院長は、苦しげな顔をしながらも、口元から笑みが消えることはなかった。
「私は君を裁くことができる! 何せ、君が犯したトラブルの証拠はきっちり揃えているからな!」
「恥知らずが! ゴワス教授の論文が盗用されても、調査すらしなかったゴミの分際で!」
「は! またその件か! その件はとっくに片付いただろう!? 盗用というのは、君の勘違いだった! それはゴワス教授も認めたことだ!
それに、当事者同士で話がついているなら、蒸し返すのはおかしいと言ったのは、君の方ではないか!」
「屁理屈を!」
「それに私が神を利用して暴利を貪っているだと!? だったら証拠でも見せて貰おうか! もちろん、私がそのような神に背く行為をしている証拠があるんだろうなぁ!?」
「……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、ザマスは動揺を見せる。
言葉を詰まらせ、視線が揺れるさまを見た院長はますます笑みを深めた。
「はっ! ないんだろう!? だから私を殴りたいんだろう!?
だったら殴ればいい! 証拠も何も提示せず、暴力で解決するのは君の得意とするところだろう!?」
ザマスは怒りのあまり奥歯を噛みしめ、胸ぐらを掴む手が、力を込めるあまりぶるぶると震えた。
院長は、力任せにザマスの手を振り払うと、乱れたワイシャツを直しながら、
「君は何もできない。このまま、退学の処分が下されるのを待っていろ。 この後の会議で、私は正式に君の退学を提案するつもりだ。
君のことを快く思っていない者達は多いから、きっと賛成多数で決定するだろうな」
ザマスは何も言えず、何もできないまま、ただひたすらに憎悪を込めた眼で院長を睨み付けていた。
院長は勝ち誇った顔をすると、手で蠅を追い払うように、
「話は終わりだ。さっさと出ていくといい。
……ああ、それと。この大学院を退学になった後、別の院で博士号を取得しようなどとは思わないことだな。
他の院にも、君の暴力性については、よおぉぉぉく説明しておくつもりだからな」
「……っ! 貴様は……!」
怒り、嫌悪、憎悪、殺意。ザマスはどす黒い感情を全て叩き付けるようにして叫んだ。
「貴様は、必ず殺してやる!」
ザマスは語る。
気が付けば、ハーツもフューも、飲食を忘れてザマスの話に聞き入っていた。
「私は院長室を飛び出して、正面玄関まで走っていった。
正直、頭は院長に対する怒りで一杯で、その後どうするかは全く考えていなかった。
ただ、そのまま、あの場にいたら、衝動的に院長を殺してしまいそうだったから、無我夢中で走り去ったんだ」
ザマスは少しぬるくなった麦茶で喉を潤すと、
「その後は、ハーツは知っているな?
大学の正面玄関を出たところで、足を止めて息をついていたら、ハーツから連絡があった。
今、大学院に来ていることを伝えたら、近くにいるから正面玄関で落ち合おうと言われた。
着信履歴によれば時間は14時38分だ。そこで待ち合わせて、その後は近くのカフェに入ってしばらく話をした。
ハーツはこの後パーティーに出るからと、16時頃に別れて、あとはずっとこの家にいた。私の話は以上だ」
ザマスがそう言うと、いつの間にか強張っていたハーツとフューの体から力が抜ける。
フューはくたりと椅子の背もたれにもたれ掛かると、
「凄い話。ドラマみたい」
「ふん。お前にとってはドラマでも、私にとっては現実だ」
ハーツは納得したように、
「ザマス。だから、オレが院長が死んだと伝えたとき、君はものすごく喜んでいたんだな」
「院長が死ねば、私の退学話も消えるだろうからな。喜ばないわけがない」
「素直で結構。ところで、その話、警察には話したのか?」
ザマスは首を横に振る。
「話していない。復学のことで呼ばれたから、院長室で話したあと別れたとだけ伝えた」
ザマスの言葉を聞いたフューは難しい顔をする。
「それは……いいのかなぁ? 警察に嘘をついたってことでしょう? バレたら君の立場が悪くなると思う。
……まあ、だからといって正直にその話をしたら、それはそれで立場が悪くなりそうだけど」
「オレが警官だったら、犯人が自白したと思うだろうな」
ハーツはそう言いながら、四缶目を空けた。
フューも思い出したかのように、ピザを手に取って口に運ぶ。完全に冷えたピザを咀嚼しながら、フューはザマスに尋ねた。
「そういえば、院長が倒れているのが見つかったのって、何時頃かわかる?」
「15時15分だそうだ。事情聴取の際に警官から聞いた。
15時から会議があったにもかかわらず、姿を見せない院長を呼びに出向いた者が、うつ伏せに倒れて頭から血を流している院長を見つけたらしい」
「その第一発見者は誰?」
「院長の秘書だ。私も顔は知っている。初老の落ち着いた女性だ」
「ふーん。じゃあさ、院長は撲殺されたって言われているけど、凶器は何だったの?」
「植木鉢だそうだ」
「植木鉢?」
フューがオウム返しに問うと、ザマスは頷いた。
「近くに粉々になった植木鉢があって、血と一緒に土が散乱してたと聞いている」
「そっかあ」
そこまでフューは尋ねると、一旦、言葉をきる。
そして、ちらっとザマスの顔色を窺いながら、
「念のために聞くけど、君は院長を殺してないんだよね?」
「殺していない」
途端にザマスの視線が険しくなった。フューは片手を上げて宥めながら、
「わかったよ。わかったから、睨まないで。
院長室を飛び出した、正確な時刻はわからないんだよね? 院長室から正面玄関まで走って、どれぐらい時間がかかるかわからないけど、大体5分ぐらいと考えたら、院長を殺した犯人は14時30分頃から15時15分頃の間に院長室に来て、殺害したってことになるわけだ。
――ところで、その植木鉢は院長室にあった物なの?」
「そうらしい。院長は元々、観葉植物が好きだったから、院長室に多くの観葉植物が置かれていた。
犯行に使われたのは、その内のひとつだそうだ」
「防犯カメラとかは?」
「院長室の前にはついていない。だから、誰が出入りしたのかはわからない」
「……その割に、君が院長室に出入りしたのはバレたんだね」
「院長室に入った時、秘書がいた。秘書はすぐに部屋を出て行ったが、その時のことを覚えていたんだろう」
「ふーん」
……で、その秘書が第一発見者かあ。
ふと、そんなことを考えながらピザを食べきったフューは、ソースがついた自分の親指をペロッとなめた。
「君は、院長を殺してないんだよね?」
「くどい」
「ならさ、他に院長を殺しそうな人物に、思い当たる人はいる?」
「それは……」
ザマスは言葉に詰まった。
自分と同じように、院長を殺したいと思っている人物――自分で言うのもなんだが、己以外にいなかった。
だがしかし、ザマスは院長を殺していない。他にいるはずなのだ。
院長を殺しそうな人物――いや、院長とトラブルを起こした人物。
顎に手を当てて考え込んだザマスは、やがてぽつりと呟いた。
「ゴワス」
だが、すぐに首を振って自身の考えを否定した。
「いや、忘れろ。あり得ない」
「ゴワスって……ああ、君の育てのお父さん?」
何度か院内で見かけたことがある。背筋をしっかり伸ばした老人だった。
「最近、院長と揉めたが、あの人が人を殺そうとするなど考えられない。
あの人は、罪を裁くよりも、薄ら寒い人道と博愛を説きながら、改心するように見守ることを選ぶ人だ。仮に院長と揉めたとしても、絶対に殺さないだろう」
「そうだね。君と違って人が良さそうな人だったけど。
でも、そんな人がなんで院長とトラブルを起こしたの?」
ゴワスと院長のトラブル……それは、論文盗用の件だ。
「轢き逃げにあった教授が、ゴワス教授の論文を盗用した件か」
「!」
ザマスは、驚愕の表情を浮かべてハーツの方に向き直った。
……何故、それを? 盗用の件は、ハーツには話していないはず。
驚きのあまり、唖然としているザマスに気が付いたハーツは、ザマスを安心させるように、
「そういえば、言ってなかったな。その論文の件は、ゴワス教授から聞いたよ。
加えて、君のことが気になったから、君が集中治療室で寝ている間に色々と調べさせて貰った」
「……耳聡い奴だ」
ザマスは内心ほっとしていた。
ハーツと出会ってしばらく経つが、彼の勘の良さには本当に舌を巻く。
何度、本当に心を読まれたのかと思ったことか。
「この間、轢き逃げされた教授がゴワス教授の論文を盗んで、君がその件で院長に抗議したと聞いている。
それに対して、ゴワス教授自身は、特に何も異議申し立てをしていないらしいってのが、オレが調べた結果だ」
「大した調査能力だ。今やっている事業が行き詰まったら、探偵にでもなったらいい」
「お褒めの言葉をどうも。それで、この話は本当か?」
「……本当だ」
教授はゴワスの論文を盗んだ。それは間違いない。
なぜなら、ザマス自身がゴワスがその論文を書いているのを見ていたからだ。
ゴワスは何度か、ザマスに自身の書きかけの論文を読ませて意見を求めている。だからこそ、全く同じ内容の論文が学会誌に載った時は我が目を疑った。
ザマスは即座に抗議をしたが、あろうことか教授は罪を認めて謝罪するどころか、逆にゴワスが自分の論文を盗んだと主張したのだ。
激昂したザマスは院長に申し立てをしたが、院長はザマスの主張を退けた。明確な証拠がないと言って。
「腹が立つのが、ゴワスが戦わなかったことだ。一度、教授と院長を交えて話し合ったそうだが、その後、『彼が変わるのを見守ろうと思う』と腐抜けたことを抜かすだけで、それ以降はその件を口にしようとはしなかった」
その頃からだ。ザマスとゴワスの間に、明確な亀裂が入ったのは。
「ザマス。ちなみに、そのゴワス教授は事件の前後、どこにいたのかわかるか?」
「それは……わからない」
「ふむ」
ハーツは、ビールをひとくち飲むと、顎に手を当てて考え込む。
フューは缶ビールのプルタグを空けながら、
「全然わからないなあ。あんまり情報は増えなかったし」
教授が轢き逃げされたのは朝の10時。院長が撲殺されたのは、ザマスの話を信じるならば、14時30分頃から15時15分頃。社長が死んだのは18時半頃。
頭の中で現場の地図を思い浮かべてみる。車はもちろん、徒歩でも犯行時刻までに現場に着くのは可能な距離だ。
「ねえ、そういえば、君は運転はしないの?」
「するぞ。今は、怪我のせいでしていないが」
ちなみに、ザマスの車は今、ゴワスの家に保管されている。
ゴワスが、ザマスが住んでいたマンションを引き払う時に、一緒に持っていったらしい。
元々、大学の進学祝いにゴワスがザマスに買い与えた物だし、手足の調子が完全に戻るまでは、車を運転するつもりはなかったので、そのままにしている。
「それがどうかしたか?」
「いや、そういえば普段の買い物はどうしてるのかなって、思って」
ザマスが不思議そうな顔をするので、フューは笑いながら誤魔化した。
実のところ、フューはザマスが社長、教授、院長の三人を殺したのではないかと疑っていた。彼がその三人に対して、強い殺意を抱いているのは間違いないので動機は十分。この三人が死んで、一番利があるのは彼なのだ。
院長が撲殺されたというニュースを見てからずっとこの考えが頭の中にあったのだが、その考えはハーツの話を聞いた後、揺らいでいた。
社長が死ぬ時の状況。仮に、毒殺と仮定した場合、毒はカナッペに混入していた可能性が高いが、そのカナッペはホテルの調理室で作られた物だから混入は難しい。
万が一、どうにかこうにか忍び込んでも、毒を仕込んだカナッペを社長が取るかどうかわからない。
ザマスの話を聞く限り、パーティーが開催されている時間、ザマスは家にいたと主張しているのでアリバイはないが、状況的に彼単独の犯行は無理だろう。
「……」
「随分、考え込んでいるな」
ぼんやりと宙を眺めながらビールを飲んでいたフューは、ちらりと視線だけをハーツに向けた。
「ねえ、ハーツ。そういえばさ、今更なんだけど、なんで君はザマスを助けようと思ったの?」
「藪から棒だな、いきなり」
突然、話が変わったので、ハーツは少々驚いた顔をするが、フューは構わず質問を続けた。
「轢き逃げ事故直後の行動はわかるよ? 命が関わってた訳だし、僕自身も積極的に助けようと動いたし。
でも、その後も君は随分、熱心に事件を調査していたし、彼が目覚めてからは金銭的支援も惜しまない。なんで、そこまでするの?」
ザマスもハーツを見ている。その表情から察するに、彼自身も気になっていたようだった。
「なんでと言われてもな……」
ハーツは背もたれにもたれ掛かりながら、過去を思い出すように、
「まあ、衝撃的な出会いだったからな。
事故に直面した時から、ブレーキ痕がないとか不穏な気配があって、興味をそそられて調べてみたら、ミステリー小説みたいな背後関係が展開されていた。
こんな事件に関わるなんて滅多にない機会だし、どうせなら、この事件に関わった人物がどういう結末を迎えるのか、直接見てみたかったていうのが、切っ掛けだったな」
「ふん、私は見世物か」
面白くなさそうにザマスが鼻を鳴らす。ハーツはザマスを宥めるように、
「だが、その考えも目覚めた君と出会ってから変わった。
君は今、君の自由を奪おうとしている者達から逃げずに、自由を取り返そうと立ち向かっている。オレはそういう人間が好きだ」
ハーツはテーブルの上に置かれていたザマスの手を取ると、
「昨日、君に伝えた言葉は嘘じゃない。必ず君を助ける。君は、自由になるべきだ」
そう言うと、その甲に口付けをしたのだった。
「!」
驚いたザマスは、咄嗟に手を払う。
「お前は、また……!」
みるみるうちにザマスの顔は真っ赤になった。
「そういうのは、女性にしてやれ!」
「今はそういう時代じゃない」
「だからといって、いきなり……!」
「君は意外と初心だな」
ハーツが面白そうに笑いながらそう言うと、からかわれたと思ったのか、ザマスは口をへの字に曲げてむくれる。
「そういうのは、僕がいないところでやってよ……」
そして、そんなやり取りを見せられたフューは、なんだか砂糖の塊を口の中に突っ込まれたような気分になって、げんなりとしたのだった。
段々と昼の暑さが落ち着いてきているなか、その日は久しぶりに酷暑となった。
ザマスは、蝉時雨の中、大学院を目指して大学の敷地内を歩いていた。
普段は大学の正門から大学院に向かうのだが、今日は大学院に来る前に書店に寄ったので、裏門からの通学になる。
裏門と言っても、幅は狭いため通れるのは徒歩の人間と自転車を利用した人間だけ。車は通れない門だった。
ザマスは額の汗を拭いながら、トートバッグの中からスマートフォンを取り出すと、時刻を確かめた。13時45分。
約束の時間が迫っていることを確認したザマスは、歩く速度を速める。
今日、ザマスは、院長に呼び出された。理由はわからない。
突然、当日の朝、事務から14時に院長室に来るように連絡があったのである。
急な呼び出しに不快感を覚えつつ、同時に疑問も抱いていた。
――あの院長が、自分に一体何の用だと言うのだ?
明らかに、穏やかな案件ではないだろう。ザマスは気を引き締めながら、院長室へと向かった。
大学院の裏手から正面玄関に向かう場合、建物の横手を通ってぐるっと正面まで回らなければならない。しかも、この時間帯は、建物の影もできないため、炎天下の中を歩かなければならなかった。
三階建ての大学院の側面には外階段がついており、階段を上れば各階に上がれるため、正面玄関まで行かなくてもいいように見えるのだが、生憎、防犯のため外階段から建物の中に続く扉は、外からは開かなかった。
車通学の院生達が、あの外階段を使えたらと嘆いていたのを聞いたことがあるし、以前は車通学だったザマスも、心の中でこっそりそれに同調していた。
外階段を三階まで上がって、建物の中に入ることができたら、院長室はすぐそこだ。
だが、基本的に扉は防犯のため閉じられており、かつ扉を開ける手段のないザマスは、暑さを我慢して正面玄関に回るしかなかった。
ようやく、建物内に辿り着いたザマスは、クラッシックが流れる玄関ホールを通り抜けて階段で三階へ上がる。
三階にある部屋は院長室と副院長室、あとは秘書室くらいである。
部屋数の割に使用されている部屋そのものは少ないため、一階、二階と違い、三階は人の気配が少なかった。
ザマスは、『院長室』と記されているドアプレートが掲げられた扉の前で立ち止まった。
改めてスマートフォンで時刻を確認すると、ちょうど14時。
ザマスは院長室の扉をノックした。少しの間を置いて、中から院長が入るように告げる声が聞こえてきた。
ザマスは何も言わずに扉を開けて中に入る。
院長室に入室してまず目に入るのは、無数の観葉植物達。壁際には観葉植物専用の背の高い棚もある。そんな植物達に囲まれるように、部屋の中には執務机に着席する院長と、そのそばに控える秘書がいたのだった。
秘書は、部屋に入ってきたのがザマスであることを認識した瞬間、非常に驚いた表情をする。秘書は何か聞きたそうに院長に視線を向けるが、院長はその疑問には答えず秘書に下がるように命じたのだった。
「私に何か用か?」
秘書が院長室から出て行った後、執務机の前まで来たザマスが口を開く。
ザマスは不遜な態度で院長を見下ろすが、院長もまた得体の知れない笑みを浮かべながら、ザマスを見上げていた。
「君に話して起きたいことがある。早急に伝えた方がいいと思って、わざわざ君に来て貰ったんだ」
ザマスの片眉がぴくっと跳ねた。妙にねちっこい、嫌味な言い方が癇に障る。
「さっさと話せ」
敬語を使って取り繕うことすらせずに、ザマスは苛立った口調で先を促した。
「君を退学処分にすることにした」
「な!?」
予想だにしていなかった発言を聞いて、ザマスは思わず言葉を失った。
院長はザマスの反応に気をよくしたのか、にやにやと君の悪い笑みを深くする。
「君はあまりにもトラブルを起こしすぎた。聞くに堪えない暴言だけでなく、暴力を振るって周りの者に危害を加える君は、神学を学ぶ者としてふさわしくない。
君にも将来があるだろうから、私も色々と考えたのだが、どうにもこうにも退学はさけられそうにない。残念だ」
「よくも抜け抜けと……!」
ザマスは怒りに視界が赤く染まる。衝動のままに動けば、いまにでも院長を殴ってしまいそうだった。
「何が残念だ! 昔のことを蒸し返して!」
「昔も何も、君が暴力沙汰を起こしたのは間違いない」
「あれは相手から殴りかかってきたのだ! それは貴様も知っていることだろう!? それに、当事者同士で話はついている!」
「それとこれとは話が別だ。
うちの大学院で博士号を取るには、研究成果だけでなく相応の態度というものが要求される。君はそれが備わっていない」
「なんだと!」
「生憎、私は昔のことだからと、有耶無耶にするつもりはなくてね。
罪を憎んで人を憎まずとはいえ、罪を反省しない人間を野放しにするのは、神の教えに反する。
私は、君が悔い改めるように、君の罪を裁くんだよ」
「貴様!」
ザマスは吠えると、一気に距離を詰めて院長の胸ぐらを両手で掴み上げた。
「神学を学ぶ場を守ることもせず、神を利用して暴利を貪るお前が神の教えを語るだと!? あまつさえ、貴様如きがこの私を裁くだと!?」
「ああ、そうだよ!」
胸ぐらを掴んで持ち上げられた院長は、苦しげな顔をしながらも、口元から笑みが消えることはなかった。
「私は君を裁くことができる! 何せ、君が犯したトラブルの証拠はきっちり揃えているからな!」
「恥知らずが! ゴワス教授の論文が盗用されても、調査すらしなかったゴミの分際で!」
「は! またその件か! その件はとっくに片付いただろう!? 盗用というのは、君の勘違いだった! それはゴワス教授も認めたことだ!
それに、当事者同士で話がついているなら、蒸し返すのはおかしいと言ったのは、君の方ではないか!」
「屁理屈を!」
「それに私が神を利用して暴利を貪っているだと!? だったら証拠でも見せて貰おうか! もちろん、私がそのような神に背く行為をしている証拠があるんだろうなぁ!?」
「……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、ザマスは動揺を見せる。
言葉を詰まらせ、視線が揺れるさまを見た院長はますます笑みを深めた。
「はっ! ないんだろう!? だから私を殴りたいんだろう!?
だったら殴ればいい! 証拠も何も提示せず、暴力で解決するのは君の得意とするところだろう!?」
ザマスは怒りのあまり奥歯を噛みしめ、胸ぐらを掴む手が、力を込めるあまりぶるぶると震えた。
院長は、力任せにザマスの手を振り払うと、乱れたワイシャツを直しながら、
「君は何もできない。このまま、退学の処分が下されるのを待っていろ。 この後の会議で、私は正式に君の退学を提案するつもりだ。
君のことを快く思っていない者達は多いから、きっと賛成多数で決定するだろうな」
ザマスは何も言えず、何もできないまま、ただひたすらに憎悪を込めた眼で院長を睨み付けていた。
院長は勝ち誇った顔をすると、手で蠅を追い払うように、
「話は終わりだ。さっさと出ていくといい。
……ああ、それと。この大学院を退学になった後、別の院で博士号を取得しようなどとは思わないことだな。
他の院にも、君の暴力性については、よおぉぉぉく説明しておくつもりだからな」
「……っ! 貴様は……!」
怒り、嫌悪、憎悪、殺意。ザマスはどす黒い感情を全て叩き付けるようにして叫んだ。
「貴様は、必ず殺してやる!」
ザマスは語る。
気が付けば、ハーツもフューも、飲食を忘れてザマスの話に聞き入っていた。
「私は院長室を飛び出して、正面玄関まで走っていった。
正直、頭は院長に対する怒りで一杯で、その後どうするかは全く考えていなかった。
ただ、そのまま、あの場にいたら、衝動的に院長を殺してしまいそうだったから、無我夢中で走り去ったんだ」
ザマスは少しぬるくなった麦茶で喉を潤すと、
「その後は、ハーツは知っているな?
大学の正面玄関を出たところで、足を止めて息をついていたら、ハーツから連絡があった。
今、大学院に来ていることを伝えたら、近くにいるから正面玄関で落ち合おうと言われた。
着信履歴によれば時間は14時38分だ。そこで待ち合わせて、その後は近くのカフェに入ってしばらく話をした。
ハーツはこの後パーティーに出るからと、16時頃に別れて、あとはずっとこの家にいた。私の話は以上だ」
ザマスがそう言うと、いつの間にか強張っていたハーツとフューの体から力が抜ける。
フューはくたりと椅子の背もたれにもたれ掛かると、
「凄い話。ドラマみたい」
「ふん。お前にとってはドラマでも、私にとっては現実だ」
ハーツは納得したように、
「ザマス。だから、オレが院長が死んだと伝えたとき、君はものすごく喜んでいたんだな」
「院長が死ねば、私の退学話も消えるだろうからな。喜ばないわけがない」
「素直で結構。ところで、その話、警察には話したのか?」
ザマスは首を横に振る。
「話していない。復学のことで呼ばれたから、院長室で話したあと別れたとだけ伝えた」
ザマスの言葉を聞いたフューは難しい顔をする。
「それは……いいのかなぁ? 警察に嘘をついたってことでしょう? バレたら君の立場が悪くなると思う。
……まあ、だからといって正直にその話をしたら、それはそれで立場が悪くなりそうだけど」
「オレが警官だったら、犯人が自白したと思うだろうな」
ハーツはそう言いながら、四缶目を空けた。
フューも思い出したかのように、ピザを手に取って口に運ぶ。完全に冷えたピザを咀嚼しながら、フューはザマスに尋ねた。
「そういえば、院長が倒れているのが見つかったのって、何時頃かわかる?」
「15時15分だそうだ。事情聴取の際に警官から聞いた。
15時から会議があったにもかかわらず、姿を見せない院長を呼びに出向いた者が、うつ伏せに倒れて頭から血を流している院長を見つけたらしい」
「その第一発見者は誰?」
「院長の秘書だ。私も顔は知っている。初老の落ち着いた女性だ」
「ふーん。じゃあさ、院長は撲殺されたって言われているけど、凶器は何だったの?」
「植木鉢だそうだ」
「植木鉢?」
フューがオウム返しに問うと、ザマスは頷いた。
「近くに粉々になった植木鉢があって、血と一緒に土が散乱してたと聞いている」
「そっかあ」
そこまでフューは尋ねると、一旦、言葉をきる。
そして、ちらっとザマスの顔色を窺いながら、
「念のために聞くけど、君は院長を殺してないんだよね?」
「殺していない」
途端にザマスの視線が険しくなった。フューは片手を上げて宥めながら、
「わかったよ。わかったから、睨まないで。
院長室を飛び出した、正確な時刻はわからないんだよね? 院長室から正面玄関まで走って、どれぐらい時間がかかるかわからないけど、大体5分ぐらいと考えたら、院長を殺した犯人は14時30分頃から15時15分頃の間に院長室に来て、殺害したってことになるわけだ。
――ところで、その植木鉢は院長室にあった物なの?」
「そうらしい。院長は元々、観葉植物が好きだったから、院長室に多くの観葉植物が置かれていた。
犯行に使われたのは、その内のひとつだそうだ」
「防犯カメラとかは?」
「院長室の前にはついていない。だから、誰が出入りしたのかはわからない」
「……その割に、君が院長室に出入りしたのはバレたんだね」
「院長室に入った時、秘書がいた。秘書はすぐに部屋を出て行ったが、その時のことを覚えていたんだろう」
「ふーん」
……で、その秘書が第一発見者かあ。
ふと、そんなことを考えながらピザを食べきったフューは、ソースがついた自分の親指をペロッとなめた。
「君は、院長を殺してないんだよね?」
「くどい」
「ならさ、他に院長を殺しそうな人物に、思い当たる人はいる?」
「それは……」
ザマスは言葉に詰まった。
自分と同じように、院長を殺したいと思っている人物――自分で言うのもなんだが、己以外にいなかった。
だがしかし、ザマスは院長を殺していない。他にいるはずなのだ。
院長を殺しそうな人物――いや、院長とトラブルを起こした人物。
顎に手を当てて考え込んだザマスは、やがてぽつりと呟いた。
「ゴワス」
だが、すぐに首を振って自身の考えを否定した。
「いや、忘れろ。あり得ない」
「ゴワスって……ああ、君の育てのお父さん?」
何度か院内で見かけたことがある。背筋をしっかり伸ばした老人だった。
「最近、院長と揉めたが、あの人が人を殺そうとするなど考えられない。
あの人は、罪を裁くよりも、薄ら寒い人道と博愛を説きながら、改心するように見守ることを選ぶ人だ。仮に院長と揉めたとしても、絶対に殺さないだろう」
「そうだね。君と違って人が良さそうな人だったけど。
でも、そんな人がなんで院長とトラブルを起こしたの?」
ゴワスと院長のトラブル……それは、論文盗用の件だ。
「轢き逃げにあった教授が、ゴワス教授の論文を盗用した件か」
「!」
ザマスは、驚愕の表情を浮かべてハーツの方に向き直った。
……何故、それを? 盗用の件は、ハーツには話していないはず。
驚きのあまり、唖然としているザマスに気が付いたハーツは、ザマスを安心させるように、
「そういえば、言ってなかったな。その論文の件は、ゴワス教授から聞いたよ。
加えて、君のことが気になったから、君が集中治療室で寝ている間に色々と調べさせて貰った」
「……耳聡い奴だ」
ザマスは内心ほっとしていた。
ハーツと出会ってしばらく経つが、彼の勘の良さには本当に舌を巻く。
何度、本当に心を読まれたのかと思ったことか。
「この間、轢き逃げされた教授がゴワス教授の論文を盗んで、君がその件で院長に抗議したと聞いている。
それに対して、ゴワス教授自身は、特に何も異議申し立てをしていないらしいってのが、オレが調べた結果だ」
「大した調査能力だ。今やっている事業が行き詰まったら、探偵にでもなったらいい」
「お褒めの言葉をどうも。それで、この話は本当か?」
「……本当だ」
教授はゴワスの論文を盗んだ。それは間違いない。
なぜなら、ザマス自身がゴワスがその論文を書いているのを見ていたからだ。
ゴワスは何度か、ザマスに自身の書きかけの論文を読ませて意見を求めている。だからこそ、全く同じ内容の論文が学会誌に載った時は我が目を疑った。
ザマスは即座に抗議をしたが、あろうことか教授は罪を認めて謝罪するどころか、逆にゴワスが自分の論文を盗んだと主張したのだ。
激昂したザマスは院長に申し立てをしたが、院長はザマスの主張を退けた。明確な証拠がないと言って。
「腹が立つのが、ゴワスが戦わなかったことだ。一度、教授と院長を交えて話し合ったそうだが、その後、『彼が変わるのを見守ろうと思う』と腐抜けたことを抜かすだけで、それ以降はその件を口にしようとはしなかった」
その頃からだ。ザマスとゴワスの間に、明確な亀裂が入ったのは。
「ザマス。ちなみに、そのゴワス教授は事件の前後、どこにいたのかわかるか?」
「それは……わからない」
「ふむ」
ハーツは、ビールをひとくち飲むと、顎に手を当てて考え込む。
フューは缶ビールのプルタグを空けながら、
「全然わからないなあ。あんまり情報は増えなかったし」
教授が轢き逃げされたのは朝の10時。院長が撲殺されたのは、ザマスの話を信じるならば、14時30分頃から15時15分頃。社長が死んだのは18時半頃。
頭の中で現場の地図を思い浮かべてみる。車はもちろん、徒歩でも犯行時刻までに現場に着くのは可能な距離だ。
「ねえ、そういえば、君は運転はしないの?」
「するぞ。今は、怪我のせいでしていないが」
ちなみに、ザマスの車は今、ゴワスの家に保管されている。
ゴワスが、ザマスが住んでいたマンションを引き払う時に、一緒に持っていったらしい。
元々、大学の進学祝いにゴワスがザマスに買い与えた物だし、手足の調子が完全に戻るまでは、車を運転するつもりはなかったので、そのままにしている。
「それがどうかしたか?」
「いや、そういえば普段の買い物はどうしてるのかなって、思って」
ザマスが不思議そうな顔をするので、フューは笑いながら誤魔化した。
実のところ、フューはザマスが社長、教授、院長の三人を殺したのではないかと疑っていた。彼がその三人に対して、強い殺意を抱いているのは間違いないので動機は十分。この三人が死んで、一番利があるのは彼なのだ。
院長が撲殺されたというニュースを見てからずっとこの考えが頭の中にあったのだが、その考えはハーツの話を聞いた後、揺らいでいた。
社長が死ぬ時の状況。仮に、毒殺と仮定した場合、毒はカナッペに混入していた可能性が高いが、そのカナッペはホテルの調理室で作られた物だから混入は難しい。
万が一、どうにかこうにか忍び込んでも、毒を仕込んだカナッペを社長が取るかどうかわからない。
ザマスの話を聞く限り、パーティーが開催されている時間、ザマスは家にいたと主張しているのでアリバイはないが、状況的に彼単独の犯行は無理だろう。
「……」
「随分、考え込んでいるな」
ぼんやりと宙を眺めながらビールを飲んでいたフューは、ちらりと視線だけをハーツに向けた。
「ねえ、ハーツ。そういえばさ、今更なんだけど、なんで君はザマスを助けようと思ったの?」
「藪から棒だな、いきなり」
突然、話が変わったので、ハーツは少々驚いた顔をするが、フューは構わず質問を続けた。
「轢き逃げ事故直後の行動はわかるよ? 命が関わってた訳だし、僕自身も積極的に助けようと動いたし。
でも、その後も君は随分、熱心に事件を調査していたし、彼が目覚めてからは金銭的支援も惜しまない。なんで、そこまでするの?」
ザマスもハーツを見ている。その表情から察するに、彼自身も気になっていたようだった。
「なんでと言われてもな……」
ハーツは背もたれにもたれ掛かりながら、過去を思い出すように、
「まあ、衝撃的な出会いだったからな。
事故に直面した時から、ブレーキ痕がないとか不穏な気配があって、興味をそそられて調べてみたら、ミステリー小説みたいな背後関係が展開されていた。
こんな事件に関わるなんて滅多にない機会だし、どうせなら、この事件に関わった人物がどういう結末を迎えるのか、直接見てみたかったていうのが、切っ掛けだったな」
「ふん、私は見世物か」
面白くなさそうにザマスが鼻を鳴らす。ハーツはザマスを宥めるように、
「だが、その考えも目覚めた君と出会ってから変わった。
君は今、君の自由を奪おうとしている者達から逃げずに、自由を取り返そうと立ち向かっている。オレはそういう人間が好きだ」
ハーツはテーブルの上に置かれていたザマスの手を取ると、
「昨日、君に伝えた言葉は嘘じゃない。必ず君を助ける。君は、自由になるべきだ」
そう言うと、その甲に口付けをしたのだった。
「!」
驚いたザマスは、咄嗟に手を払う。
「お前は、また……!」
みるみるうちにザマスの顔は真っ赤になった。
「そういうのは、女性にしてやれ!」
「今はそういう時代じゃない」
「だからといって、いきなり……!」
「君は意外と初心だな」
ハーツが面白そうに笑いながらそう言うと、からかわれたと思ったのか、ザマスは口をへの字に曲げてむくれる。
「そういうのは、僕がいないところでやってよ……」
そして、そんなやり取りを見せられたフューは、なんだか砂糖の塊を口の中に突っ込まれたような気分になって、げんなりとしたのだった。