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第十話 急転直下(8月17日 月曜日)

 自動扉が左右に開くと、エアコンで冷やされた空気と、控えめな音量で奏でられるクラッシックがさっと流れてくる。

 併設している大学が、夏休みに入ったからか、屋外ですれ違う人たちの数は減っている。だが、大学院自体は通常営業のため、玄関ホールの中にも数人の院生達が行き交っていた。

 ハーツは大学院の玄関ホールを見回すと、ホールの片隅で壁にもたれ掛かって俯いているザマスを見つけた。

「ザマス、待たせたな」

 ザマスに声をかけると、彼はたった今、気が付いたと言わんばかりに、はっと顔を上げた。すぐそばに立っているのがハーツだと気づいたザマスは、少しだけ肩の力を抜くと、

「……遅かったな。連絡があってから、二十分もかかっているぞ」
「悪かった。駐車に手間取ってな」
「もういい、行くぞ。行きたいところがあるんだろう?」

 そう言うと、ハーツの返事を待たずにザマスは足早に外へと向かった。ハーツは一歩遅れて、

「あまり急ぐな。転けてしまうぞ」
「うるさい。お前に付き合ってやるんだ。早くしろ」

 ザマスは、いつにも増してきつい口調でハーツに言葉を投げつける。

 今日のザマスは、どことなく落ち着きがなく、苛々しているようだった。

 自動扉を通り抜け、夏の陽射しが降り注ぐ舗装された歩道を通り過ぎ、駐車場へと二人は足早に行く。駐車してあった跳ね馬のエンブレムがついた赤い車はすぐに見つかった。

「ザマス。荷物ならトランクに置いておこうか?」

 ザマスは肩にかけていたトートバッグをハーツに手渡す。

 二人乗りのスーパーカーに後部座席はない。
 ハーツは車体前面に設置されたトランクを開けると、資料がつまったトートバッグを仕舞う。
 狭いトランクは、他に何も収納していないにも関わらず、A4サイズのトートバッグを入れただけで窮屈になった。

  二人が車に乗り込むと、赤い車が発進する。運転は、もちろんハーツだ。
 助手席にいるザマスは、まるで敵の動向を窺うように、本革のシートの上で息を潜めていた。ハーツはザマスの様子を横目で窺いながら、車を走らせる。

 車が正門を通り過ぎ、大学院が見えなくなった頃、ようやくザマスは体の力を抜いたのだった。

「そのイヤリング、よく似合っている。アクセサリーは好きなのか?」

 突然、ハーツがとりとめもない話を始めた。

「ああ、これのことか……」

 ザマスはそっと自分の耳たぶの下で揺れるイヤリングに触れた。球形の翠の石をあしらったシンプルなデザインのイヤリングだ。

 少なくとも、ザマスがアクセサリーの類いを装っているのを見るのは、ハーツは初めてであった。

「これは、両親の形見だ」

 ザマスの両親は、生前、この二つで一つのイヤリングを分け合って耳につけていた。

 結婚の証しと言えば結婚指輪だが、両親は何故かこのイヤリングを証しにしていたのだ。

 何故かはわからない。
 ゴワスに尋ねたこともあったが、彼も詳しいことはわからないと言っていた。両親の間に何があったのか、今では知る術はない。

 ただ両親がこのイヤリングを非常に大切にしていたことは、幼いザマスの記憶にもしっかり刻み込まれていた。

「なんとなく、このイヤリングを身につけていると落ち着くんだ」

 いつの頃からか、ザマスはこのイヤリングを身につけるようになった。 デザインが好みだからという理由もあるが、身につけておくと不思議なくらい心が穏やかになるのだ。
 まるでバラバラになっているザマスの内面が、統合されるかのように。

 轢き逃げ事件にあった時も、もちろん身につけていた。

 治療のため、救急車で運ばれた際、救急外来の看護師の手によって外されたらしい。見舞いに来たゴワスから、このイヤリングを手渡された時、車に轢かれた時の衝撃で、無くなったり破損したりしなくて本当に良かったとザマスは安堵した。

「君によく似合っている。他のアクセサリーを身につけたりはするのか?」
「たまに」

 一年中のほとんどを、このイヤリングを身につけて過ごすのだが、ごく稀に気分を変えて別のイヤリングで装うこともある。

  ハーツがどんなデザインが好きなのか、話を掘り下げようとするが、ザマスの返答は芳しくない。

 気乗りしないのか、返事は短く、それ以上広がりようのない答えばかり。

 すぐに、会話が途切れた。重苦しい沈黙が車内を満たす。
 結局、そのまま目的地のカフェが見えるまで、二人は無言だった。

「ザマス。もうすぐつくぞ」
「わかった……」

 二人はパフェが美味しいと評判のカフェに向かっている。

 ハーツに連れられて食事に行く時、なんだかんだといいながら、ザマスは美味しそうな食事やスイーツに目を輝かせるのだが、今の彼は心ここにあらずという様子だ。

 ハーツがウインカーを出して、目的の店の駐車場に車を進める。手狭な駐車場で、ハーツはハンドルを切り返しながら駐車スペースに車を止めた。

 この調子では、帰る時も難儀しそうだが、腕に自信があるハーツは気にしていない。それに、跳ね馬のエンブレムを掲げた車の隣に駐車したい人間は少ないので、帰る頃には両脇の駐車スペースが空になって、車を出しやすくなっているはずだ。

ハーツが車の外へ出ると、ザマスも浮かない顔をして外に出てくる。

「元気がないな。何かあったんじゃないのか?」

 ハーツはそう言うと、ザマスは静かに首を振りながら、

「なんでもない」
「……」

 ハーツは黙ったまま、沈鬱な表情で顔を伏せるザマスを見ていたが、いきなり彼に近づいたかと思うと、そのまま力強くザマスを抱きしめた。

「!?」

 いきなり抱擁されて、ザマスは目を白黒させる。

「え!? ちょ、ハーツ!?」

 頭が混乱しすぎて、ハーツの名前を呼ぶのがやっとだった。

 昼間の駐車場。
 いきなり抱きしめられたことと、この状況を誰かに見られるかもしれないという危惧が、焦りと混乱に拍車をかける。すぐにザマスの顔は真っ赤になった。

「いきなり、何を!? とにかく、放せ……!」
「ザマス」
「っ!」

 ハーツの腕の中でじたばたともがいていたザマスだが、耳元で名前を呼ばれた瞬間、びくっと体を硬直させた。

「君が喋りたくないというなら、無理には聞かない。
 だが、ひとりでは解決できそうにない悩みを抱えているのなら、遠慮無くオレを頼れ。必ず君を助ける。君は、自由になるべきだ」

 ハーツが喋るたびに、吐息が耳にかかり、背筋がぞくぞくとした。
 抱きしめられている羞恥も相まって、ハーツの言葉をまともに認識することができなかったが、ザマスが何度も、

「わかった! わかったから早く放せ!」

と、懇願にも似たわめきを発すると、ようやくハーツはザマスを解放したのだった。

 ハーツの力が緩んだ瞬間、彼の胸板を突き飛ばすようにしてザマスは距離を取る。鏡を見なくてもわかるくらい、顔は赤く火照り、心臓はばくばくと早鐘を打っていた。

 息切れすらおこして、肩で息をついているザマスを見たハーツは、思わず笑った。

「いい顔になった。元気がでたか?」
「貴様……!」

 いけしゃあしゃあとのたまうハーツを、顔を真っ赤にしたままザマスは睨み付ける。

「悪かった。荒治療のつもりだったんだが、効果が過ぎたようだな」
「……二度とするな!」
「仰せのままに」

 顔を真っ赤にして叫ぶザマスだが、ハーツの余裕のある態度が癪に障る。

「もう知らん!」

 へそを曲げたザマスはぷりぷり怒りながらハーツを置いてけぼりにして、ひとりでカフェに向かう。ハーツも笑いながら後を追った。

「本当に悪かった。機嫌を直してくれ」

 照れるザマスをもっとからかってみたかったが、これ以上は地雷だろう。

 ハーツはザマスを宥めながら、カフェの中へと入っていったのだった。





 手術が終わったばかりの患者を集中治療室に搬送した後、フューは近くにあった椅子にぐったりと腰掛けた。
 自然と大きな溜め息が出る。

「疲れた……」

 ちらりと近くの壁際にかけてあった時計で時刻を確認すると、既に18時を回っていた。

 朝から今まで、手術をしていたのだ。流石に疲労が溜まる。

 今回の患者は、交通外傷の男性だ。執刀医にフューの上級医が選ばれ、助手に上級医と同世代の別の外科医師が指名された。フューも手術に参加したが、まだ経験が浅いと言うことで助手の助手としての参加だった。

 上級医がフューに労いの言葉をかけながら、隣の椅子に座る。
 執刀を担当しただけあって、上級医の疲労は濃い。集中治療室に来る前に自販機で買ったらしいカフェオレのペットボトルをあけると、一気に半分ほど飲み干していた。

 なんとか手術は終わり、破裂した脾臓の摘出は終わったが、上級医の表情は硬い。出血が大量だった上に、頭蓋内出血まで起こしている。

 今回は、外科と脳外科の合同で複数箇所の外傷に対して手術を行ったのだが、現在進行形で大量の昇圧剤に輸血も行っているにも関わらず、血圧がぴくりとも反応していない。
 それに加えて、尿もほとんど出ていないので、状態は非常に厳しいと言わざるを得なかった。

 上級医は、今し方行った手術をカルテに記録するために、デスクトップ型のパソコンで電子カルテを起動させる。カルテを開いた上級医は、患者の身元がわかったことに気が付いて、安堵の溜め息をついた。

 救急外来に運び込まれてきた時、患者はまだ身元不明の状態だったので、名前が分からなかったのだ。どうやら、手術をしている間に、警察が身元を特定したらしい。

 フューもどれどれと、上級医の隣から電子カルテに記載された患者の名前を確認する。この男性患者の身元が気になっていたのだ。

 何せ、この患者は自殺するために、車の前に飛び出したかもしれないのだから。

 救急隊の報告によると、患者を轢いたと主張する運転手から通報があったという。非常に興奮していて要領を得なかったが、なんとかオペレーターが聞き出したところ、患者は『赤信号なのに横断歩道に飛び出してきた』、『急ブレーキをかけたが間に合わずに轢いてしまった』『車の速度は時速60キロメートルくらいだった』と、言っていたらしい。

 ただし、その運転手は救急車を待っている間に怖くなったのか、倒れている患者を放置してどこかに逃げたらしく、救急隊が駆けつけた頃には車ごといなくなっていたという。

 報告していた救急隊員が、この人は自殺を図ったのかもしれない、と言っていたのが非常に印象に残っていた。

「え?」

 患者の名前を目にした途端、フューは驚きの声を漏らし、がばっと前のめりになって画面に注目した。

 いきなり食い入るように画面を見始めたフューを、怪訝そうに上級医が横目で見てきたが、今のフューはそれを気にする余裕もない。

 上級医の手がマウスから離れていたのをいいことに、フューは変わりにパソコンを操作して他の個人情報を見ていった。横から割り込んできたフューに対して、上級医は特に何も言わず、いつものことだと言わんばかりに好きなようにさせていた。

「この名前……!」

 それは、あの轢き逃げ事件の容疑者のひとり、教授の名だった。

 しかも、電子カルテには、『大学院神学部研究科教授という肩書きが記載された名刺を所持していた』という一文も書かれていた。

「ちょっとトイレに行ってきます!」

 居ても立ってもいられなくなったフューは、いきなり立ち上がると小走りで集中治療室を出て行った。

 そんなフューの様子を、上級医はぽかんと見送る中、フューは急ぎ足で、廊下の先にある人気のないスペースに向かうと、懐からスマートフォンを取り出してハーツに電話をする。

 コール音がもどかしい。

 フューは今、自分の口角が上がっているのを自覚した。

 あの轢き逃げ事件は未だ解決していない。
 怪しい人物は絞れたのだが、その段階で警察もハーツ達も足踏みをしている状況なのだ。期待していたザマスの証言もいまひとつ。

 中々進展しない事件に対して、半ば興味が薄れつつあったフューだが、ここに来て面白いことになった。

 あの容疑者のひとりが、自殺をしたかもしれないなんて。これは、あの事件に関係あるのかもしれない。

 もしかして、ザマスを轢いたのは教授? 殺そうとした本人が生き残ったので、観念して死のうとした?

 頭の中に次々と、推理が浮かんでくる。
 唐突に、ハーツの声が電話の向こうから聞こえてきた。

「あ、ハーツ? 今さ、オペで……」
「悪い! 今、立て込んでるんだ!」

 フューの言葉は、受話器の向こうから聞こえてきた、ハーツの緊迫した声に遮られた。

 フューは一瞬、仕事中なのかと思ったが様子がおかしい。
 電話口の向こうからは、おそらくハーツの周りにいるのであろう人々の、動揺した声が伝わってくる。

「どうかしたの?」

 フューがそう尋ねると、ハーツは声を低くして、

「今、起業家が集まるパーティーに参加しているんだが、その最中に人が倒れた。しかも、倒れたのは、あの轢き逃げ事件の容疑者のひとりである社長だ」
「え?」
「また連絡する」

 そう言うと、一方的に通話が切れた。
 つーっ、つーっと、無情な通知音が響く。

 フューは通話終了ボタンを押すと、スマートフォンを片手に、呆然とした状態で集中治療室に戻っていった。

――社長が倒れた? いや、社長「も」倒れた? 倒れた、ということは病気で?

 病気ならば偶然である。
 だが、同じ日にあの事件の容疑者達の身に異変が起こるというのは、いささか妙な感じがした。

 頭の中で整理がつかないまま、集中治療室に戻ったフューは、再び上級医の隣の椅子に座ると、患者のケアをしていた看護師達の声が耳に入ってきた。

「この患者さん。なんで赤信号で横断歩道を渡っちゃったんでしょうね?」
「自殺って話しが出てるらしいけど……」
「でも、たった時速60キロくらいしか出していない車の前に飛び出します? 
 飛び出すにしても、もっとスピードが出ている車の前に飛び出しません?」
「まあ、確かにそうだけどさ」
「そもそも運転手が行っている『赤信号だった』『60kmだった』って本当なんですか? 目撃者もドラレコもないんでしょう?」
「もー。私が知るわけないじゃん」

 看護師の話題は別の患者のケア内容に移るが、その会話はフューの頭の中に強く引っかかっていた。

――確かにそうだ。

『赤信号なのに横断歩道に飛び出してきた』というのは、あくまで教授を轢いた人間が言っているだけで、それが真実かはわからない。

 しかも、その運転手はその場から逃げ出している。

 もしかしたら、本当は教授はちゃんと青信号で横断歩道を渡っていて、そこに信号をよく見ていなかった車が突っ込んできたのかもしれない。

 いや、もしかしたら、教授を轢くためにわざと……。

 ぴこん。
 その時、フューのスマートフォンから通知音がなる。

 反射的にスマートフォンの方を見ると、画面に上部にニュースの速報が流れていた。

 フューはニュースアプリを入れており、何か速報があれば通知されるように設定しているのだが――。

「えー!?」

 速報を見た瞬間、フューは思わず大声を出した。

 集中治療室内にいた医療従事者達の視線が一斉に集まるが、そんな周りの視線も気にならないくらい、フューはそのニュースに釘付けになっていた。

 そこには、三人目の容疑者である大学院の院長が、意識不明の重体で発見されたと記されていたのだった。


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