第九話 不穏という名の罅(7月28日 火曜日)
夕食の後片付けを終えたザマスは、庭へと続くリビングのガラス戸を開けて、外へと出ていった。サンダルに履き替えて、ウッドデッキに設置してあるベンチ型のガーデンチェアに腰掛ける。
冷房の効いていた部屋とは違い、庭にはむわっとした熱気が漂っており、少しいただけで汗ばみそうだ。
だが、エアコンですっかり冷えてしまった体を温めるにはちょうど良い。
久しぶりにお酒を飲んだせいか、アルコールが体をよくまわり、ハーツ相手に随分喋り散らかしてしまったものだ。
あの後、さらに白ワインを飲もうとしたのだが、ハーツに止められ、代わりにグラス一杯に注がれたミネラルウォーターを飲むように言われた。
まだ酔っていないと反論したものの、ハーツに半ば押しつけられるように水を飲んだ後、すっと頭が冷えるような感覚があったので、どうやら、自分でも気づかないうちに酒に酔っていたようである。
ザマスは、ベンチの背にもたれて空を見上げる。雲ひとつない空だが、都会の灯りに消されてしまい、見える星の数は少ない。
幼い頃、ゴワスに連れられて山にキャンプに行った時、見上げた夜空一面に星が輝いていて、心の底から驚いたのをよく覚えている。そして、街に戻ってきた時に、空からその輝きが消えてしまったことに気づいて、がっかりしたことも。
星の輝きは神からの啓示でもある。そうでなくても、あの悠久の時を経て、この星に届いた美しい光をかき消すなんて、その時のザマスには理解できなかった。
それ以来、ザマスは夜空を見上げるたびに、人間の愚かしさを痛感するようになり、今では早くこの世界を、神の御心に従う形に作り変えなければと、強く思うようになっていた。
庭を囲むように植えられた樹木が、夜風に吹かれてざわっと揺れる。
しばらく、虫の声と風の音に耳を傾けながら休んでいると、背後からハーツに声をかけられた。
「ザマス、風呂あいたぞ」
パジャマのズボンだけをはいて、上半身裸になったハーツが庭に出てくる。いつもオールバックで整えられている髪は、今は自然な形で垂れていた。
ザマスの視線が、ハーツの胸の傷に向けられる。
「凄い傷跡だな。事故か?」
「そんなもんだ」
やけにあやふやな答えだった。
気にはなったが、触れられたくないのだろうと考えたザマスは、それ以上、傷のことは追求せずに話題を変えた。
「外に出るなら、上着を着てこい。蚊に刺されるぞ」
「大丈夫。蚊が嫌う植物を植えているから、ここは蚊が少ない」
言われてみれば、外に出ているザマスも蚊に刺されていないし、この家に引っ越してからは蚊に悩まされたことがないことに思い当たった。
ハーツはザマスの隣に座ると、
「風呂に入らないのか? ちょうど良い温度になってるぞ」
「もう少し休んだら入る」
「そうか。
――ところで、ザマス。話は変わるが、いつか空いている日はないか? 買い物に付き合って欲しいんだ」
「……買い物か。付き合ってやってもいいが……」
ザマスは腕を組んで渋い顔をする。
ザマスが懸念しているのは、もちろん研究論文のことである。来月の八月中には論文を完成させないと間に合わない。
既に、入院のせいで一ヶ月近くスケジュールがずれ込んでいるのだ。当初は、論文の作成がスムーズだったので余裕があったのだが、今はその余裕は全て喰われている状態である。
故に、長時間、買い物にかまけている余裕はなかった。
「今度の日曜日の午前中だけなら構わないが?」
「それで十分だ」
約束を取り付けることができたハーツは、満足げである。ザマスは足を組みながら、
「それで、何を買いに行くつもりだ?」
「犬を散歩させる時に使うバッグが欲しくなったんだ。店はもう決めてある」
ハーツが店の名前を告げるが、ザマスは聞き覚えがない。
場所を聞くと、どうやらその店は、かつてザマスが車に轢かれた場所の近くにある店だった。
「男性用のバッグや服飾雑貨を売っているセレクトショップで、インポートものが中心だ。最近、新しい品物を入荷したと聞いたから、バッグだけじゃなく色々見てみようと思っている」
「……インポート?」
「海外から輸入したという意味だ。あと、その店の近くに美味しいベーグルを出す店があるから、ついでにそこでランチをしないか? ベーグルに惹かれないなら、近くにはキッシュを作る店もあるが……」
ペラペラと近辺の店の情報を喋るハーツを、ザマスは呆れ半分感心半分といった面持ちで、
「よくそんなにたくさんの店を知っているな」
「あの近辺はよく買い物に行くからな。ザマスはあの辺りに行きつけの店はないのか?」
「ないな」
ザマスは即答した。
あの辺りは行政機関がいくつかある他、若者向けのブランドや、それよりも一段値段の高い品物を売る店が多く並んでいる。休日は人でごった返すほどの人気っぷりだが、ザマスは元々、流行というものに興味がないし、人混みも嫌いだ。
「あの辺は行ったことがないし、行こうと思ったこともない。知っている建物と言えば、税務署くらいだ」
「……」
不意に、ハーツはそのまま言葉を紡がずに沈黙した。
不思議に思ったザマスが尋ねるより早く、ハーツが口を開いて、ザマスに質問を投げかけた。
「ザマス。あの辺は行ったことがないし、行こうと思ったこともないと言うのなら、なぜ車に轢かれたあの日、あの辺りにいたんだ?」
「!」
ザマスは思わず息を呑んだ。
動揺を表すように、ザマスの視線が揺れる。
「それは……」
ザマスはしばらく口籠もった後、
「……忘れた。あの時のことは、あまり覚えていない」
「そうか」
ハーツは少しの間、体を強張らせて顔を伏せているザマスを見つめた後、不意に柔らかな笑みを浮かべた。
「事故のことを思い出させてすまなかった。オレはそろそろ休む。余っている部屋のベッドを使って良いんだよな?」
話題が逸れたことでほっとしたザマスは、少し態度を軟化させると、
「……ああ、あの部屋は使っていないし、そもそもこの部屋本来の持ち主はお前だ。好きに使えば良い」
「悪いな、いきなり泊まりたいとか言って。急に入った仕事の関係で、朝、この家から出る方が都合がいいんだ」
「別に構わない。それより、家の方は良いのか? 子供だけ家に残してるんだろう?」
「大丈夫だ。セキュリティがしっかりしているマンションだし、番犬もいる」
もっとも、今日はザマスの家に泊まると連絡した時、電話の向こうのラグスが不穏な気配を醸し出していたので、今後、その対応をしなくてはならないのだが。
部屋に戻るためにハーツが立ち上がると、ザマスもそれに倣った。
「私も風呂に入ったら休む」
「風呂に入るのに、手はいるか?」
「いらん」
「それは残念」
じろっとハーツを睨むザマス。ハーツは軽く笑いながら、二人は連れだって家の中に戻っていったのだった。
丑三つ時も過ぎ去った深夜。突如、音もなくリビングに続く扉が開いた。
スマートフォンのライトで足下を照らしながら、足音を忍ばせてリビングに入ってきたのは、ハーツだった。
ハーツは、ザマスが寝ている部屋の扉を気にしながら、足早に収納棚の方へと近づいていく。そして、音を立てないようにその収納棚の一番上の引き出しを開けた。
そこに入っていたのは、外装が割れているUSBとノートパソコン。
ハーツはそれらを取り出すと、近くにあったダイニングテーブルに載せて、パソコンを起動させた。
ザマスが論文作成に使っているノートパソコンは、元々ハーツが使っていたものだ。操作は手慣れている。
だが、USBのフォルダを開こうとするが、中々開かない。
しばらくの間、ハーツはパソコンの前で待っていたが、返ってきたのは『USBからデータを参照することができなかった』という警告画面だった。
ハーツはマウスを動かして、有料のファイル復元ソフトをインストールする。
ソフトを起動し、USBを選択。
進捗具合を示すバーが画面中央に出てきた。
もどかしいくらいに、作業バーが進む速度はゆっくりだ。扉の向こうで休んでいるザマスが動く様子がないか、細心の注意を払いながら、ハーツはソフトの作業が終わるのをひたすら待つ。
そして、しばらくしたあと、
「よし」
ハーツは思わず呟いた。結果は成功し、破損したUSBからデータを取り出すことが出来た。
ハーツはざっと中のファイルに目を通すと、驚いたように呟いた。
「これは……」
せれは、ある会社の会計データ。それも、あのザマスを轢いたのではないかと疑われている社長の会社のものだった。
冷房の効いていた部屋とは違い、庭にはむわっとした熱気が漂っており、少しいただけで汗ばみそうだ。
だが、エアコンですっかり冷えてしまった体を温めるにはちょうど良い。
久しぶりにお酒を飲んだせいか、アルコールが体をよくまわり、ハーツ相手に随分喋り散らかしてしまったものだ。
あの後、さらに白ワインを飲もうとしたのだが、ハーツに止められ、代わりにグラス一杯に注がれたミネラルウォーターを飲むように言われた。
まだ酔っていないと反論したものの、ハーツに半ば押しつけられるように水を飲んだ後、すっと頭が冷えるような感覚があったので、どうやら、自分でも気づかないうちに酒に酔っていたようである。
ザマスは、ベンチの背にもたれて空を見上げる。雲ひとつない空だが、都会の灯りに消されてしまい、見える星の数は少ない。
幼い頃、ゴワスに連れられて山にキャンプに行った時、見上げた夜空一面に星が輝いていて、心の底から驚いたのをよく覚えている。そして、街に戻ってきた時に、空からその輝きが消えてしまったことに気づいて、がっかりしたことも。
星の輝きは神からの啓示でもある。そうでなくても、あの悠久の時を経て、この星に届いた美しい光をかき消すなんて、その時のザマスには理解できなかった。
それ以来、ザマスは夜空を見上げるたびに、人間の愚かしさを痛感するようになり、今では早くこの世界を、神の御心に従う形に作り変えなければと、強く思うようになっていた。
庭を囲むように植えられた樹木が、夜風に吹かれてざわっと揺れる。
しばらく、虫の声と風の音に耳を傾けながら休んでいると、背後からハーツに声をかけられた。
「ザマス、風呂あいたぞ」
パジャマのズボンだけをはいて、上半身裸になったハーツが庭に出てくる。いつもオールバックで整えられている髪は、今は自然な形で垂れていた。
ザマスの視線が、ハーツの胸の傷に向けられる。
「凄い傷跡だな。事故か?」
「そんなもんだ」
やけにあやふやな答えだった。
気にはなったが、触れられたくないのだろうと考えたザマスは、それ以上、傷のことは追求せずに話題を変えた。
「外に出るなら、上着を着てこい。蚊に刺されるぞ」
「大丈夫。蚊が嫌う植物を植えているから、ここは蚊が少ない」
言われてみれば、外に出ているザマスも蚊に刺されていないし、この家に引っ越してからは蚊に悩まされたことがないことに思い当たった。
ハーツはザマスの隣に座ると、
「風呂に入らないのか? ちょうど良い温度になってるぞ」
「もう少し休んだら入る」
「そうか。
――ところで、ザマス。話は変わるが、いつか空いている日はないか? 買い物に付き合って欲しいんだ」
「……買い物か。付き合ってやってもいいが……」
ザマスは腕を組んで渋い顔をする。
ザマスが懸念しているのは、もちろん研究論文のことである。来月の八月中には論文を完成させないと間に合わない。
既に、入院のせいで一ヶ月近くスケジュールがずれ込んでいるのだ。当初は、論文の作成がスムーズだったので余裕があったのだが、今はその余裕は全て喰われている状態である。
故に、長時間、買い物にかまけている余裕はなかった。
「今度の日曜日の午前中だけなら構わないが?」
「それで十分だ」
約束を取り付けることができたハーツは、満足げである。ザマスは足を組みながら、
「それで、何を買いに行くつもりだ?」
「犬を散歩させる時に使うバッグが欲しくなったんだ。店はもう決めてある」
ハーツが店の名前を告げるが、ザマスは聞き覚えがない。
場所を聞くと、どうやらその店は、かつてザマスが車に轢かれた場所の近くにある店だった。
「男性用のバッグや服飾雑貨を売っているセレクトショップで、インポートものが中心だ。最近、新しい品物を入荷したと聞いたから、バッグだけじゃなく色々見てみようと思っている」
「……インポート?」
「海外から輸入したという意味だ。あと、その店の近くに美味しいベーグルを出す店があるから、ついでにそこでランチをしないか? ベーグルに惹かれないなら、近くにはキッシュを作る店もあるが……」
ペラペラと近辺の店の情報を喋るハーツを、ザマスは呆れ半分感心半分といった面持ちで、
「よくそんなにたくさんの店を知っているな」
「あの近辺はよく買い物に行くからな。ザマスはあの辺りに行きつけの店はないのか?」
「ないな」
ザマスは即答した。
あの辺りは行政機関がいくつかある他、若者向けのブランドや、それよりも一段値段の高い品物を売る店が多く並んでいる。休日は人でごった返すほどの人気っぷりだが、ザマスは元々、流行というものに興味がないし、人混みも嫌いだ。
「あの辺は行ったことがないし、行こうと思ったこともない。知っている建物と言えば、税務署くらいだ」
「……」
不意に、ハーツはそのまま言葉を紡がずに沈黙した。
不思議に思ったザマスが尋ねるより早く、ハーツが口を開いて、ザマスに質問を投げかけた。
「ザマス。あの辺は行ったことがないし、行こうと思ったこともないと言うのなら、なぜ車に轢かれたあの日、あの辺りにいたんだ?」
「!」
ザマスは思わず息を呑んだ。
動揺を表すように、ザマスの視線が揺れる。
「それは……」
ザマスはしばらく口籠もった後、
「……忘れた。あの時のことは、あまり覚えていない」
「そうか」
ハーツは少しの間、体を強張らせて顔を伏せているザマスを見つめた後、不意に柔らかな笑みを浮かべた。
「事故のことを思い出させてすまなかった。オレはそろそろ休む。余っている部屋のベッドを使って良いんだよな?」
話題が逸れたことでほっとしたザマスは、少し態度を軟化させると、
「……ああ、あの部屋は使っていないし、そもそもこの部屋本来の持ち主はお前だ。好きに使えば良い」
「悪いな、いきなり泊まりたいとか言って。急に入った仕事の関係で、朝、この家から出る方が都合がいいんだ」
「別に構わない。それより、家の方は良いのか? 子供だけ家に残してるんだろう?」
「大丈夫だ。セキュリティがしっかりしているマンションだし、番犬もいる」
もっとも、今日はザマスの家に泊まると連絡した時、電話の向こうのラグスが不穏な気配を醸し出していたので、今後、その対応をしなくてはならないのだが。
部屋に戻るためにハーツが立ち上がると、ザマスもそれに倣った。
「私も風呂に入ったら休む」
「風呂に入るのに、手はいるか?」
「いらん」
「それは残念」
じろっとハーツを睨むザマス。ハーツは軽く笑いながら、二人は連れだって家の中に戻っていったのだった。
丑三つ時も過ぎ去った深夜。突如、音もなくリビングに続く扉が開いた。
スマートフォンのライトで足下を照らしながら、足音を忍ばせてリビングに入ってきたのは、ハーツだった。
ハーツは、ザマスが寝ている部屋の扉を気にしながら、足早に収納棚の方へと近づいていく。そして、音を立てないようにその収納棚の一番上の引き出しを開けた。
そこに入っていたのは、外装が割れているUSBとノートパソコン。
ハーツはそれらを取り出すと、近くにあったダイニングテーブルに載せて、パソコンを起動させた。
ザマスが論文作成に使っているノートパソコンは、元々ハーツが使っていたものだ。操作は手慣れている。
だが、USBのフォルダを開こうとするが、中々開かない。
しばらくの間、ハーツはパソコンの前で待っていたが、返ってきたのは『USBからデータを参照することができなかった』という警告画面だった。
ハーツはマウスを動かして、有料のファイル復元ソフトをインストールする。
ソフトを起動し、USBを選択。
進捗具合を示すバーが画面中央に出てきた。
もどかしいくらいに、作業バーが進む速度はゆっくりだ。扉の向こうで休んでいるザマスが動く様子がないか、細心の注意を払いながら、ハーツはソフトの作業が終わるのをひたすら待つ。
そして、しばらくしたあと、
「よし」
ハーツは思わず呟いた。結果は成功し、破損したUSBからデータを取り出すことが出来た。
ハーツはざっと中のファイルに目を通すと、驚いたように呟いた。
「これは……」
せれは、ある会社の会計データ。それも、あのザマスを轢いたのではないかと疑われている社長の会社のものだった。