第八話 軋む歯車(7月27日 月曜日)
どんよりと曇った空だった。
前日までは、青空が広がり、入道雲が堂々と浮かんでいたというのに。
院長は、溜め息をつきながら学内の敷地を歩いていたが、隣にいる教授は、特にそういう感傷に浸っている様子もなく、歩きスマフォをしながら歩いていた。
いつものむっつりとした厳めしい顔つきで、手の中のスマートフォンを熱心に眺めているが、歩きながら何をそんなに見る必要があるのか。
「教授。歩きスマフォは止めなさい。危ないし、学生に示しがつかない」
「ああ、わかってますよ」
院長が窘めるが、教授はその三白眼で画面を睨んだまま、スマートフォンを仕舞おうとしない。
院長がもう一度、注意しようと口を開きかけたところで、教授はようやくスラックスのポケットに仕舞ったのだった。
院長と教授は、大学・大学院の運営に関する会議に出席した後、自分の持ち場に帰るため、棟を移動している。敷地が広いだけあって、会議に参加するだけでもひと苦労である。
大学院の正面玄関の自動扉が左右に開くと、中に溜まっていた冷気がさっと院長達を撫でていった。
大学院の正面玄関はホールになっていて、音量を絞ったクラッシックが流れている。
入ってすぐ右手に、受付窓がある。中に居た職員が挨拶をしてきたので、院長は挨拶を返しながら。教授は事務員を無視しながら通り過ぎた。
突然、院長と教授は同時に顔を強張らせて、足を止めた。
向こうから、ひとりの院生がやってくる。
向こうも、こちらに気が付いたようで、見下すような笑みを浮かべながら、悠然と近寄ってきた。
「どうも」
そこには、あのザマスという名の院生が立っていた。
顔は笑ってはいるが、眼には侮蔑の色が濃く彩られている。隣の教授は、不快そうに顔を歪めると、
「お前か。退院したのか?」
「おかげさまで」
「ふん。大した回復力だ。死ぬかもしれないと聞かされていたが、ぴんぴんしているな」
院長もはっと我に返ると、よそよそしい笑みを浮かべる。
「退院おめでとう。体は大丈夫なのかい?」
ザマスの右目には、以前は無かった眼帯がつけられており、まだ完全に回復したわけではなさそうだ。
だが、そのような負傷など、物ともしないと言わんばかりの不敵な態度は不気味だった。
「今日は、何をしに院に?」
「復学の準備を」
「そうか。休学中だったから……」
事故で入院していたため、親代わりであるゴワスが、ザマスに代わって休学の手続きをしていたのを思い出す。
「――あと」
ザマスは院長の話を遮ると、院長と教授の顔を、ゆっくり交互に見回し、
「殺されかかった人間が生きていることを知ったら、お二人がどういう顔をするかを見に」
教授は不愉快そうに鼻を鳴らすと、
「悪趣味だな。と言うか、お前、殺されかかったのか……まあ、お前なら恨みを買ってもおかしくないか」
「教授!」
嘲笑う教授を院長は窘める。ザマスはそんな二人の様子を冷めた目で見つめていた。
教授は舌打ちをすると、
「用がないならオレ達は行くぞ。いつまでも、死に損ないに構ってられんからな」
そういうと、教授はザマスの横を通り過ぎ、院長もまたそれに続いた。
そのまま廊下を過ぎて、角を曲がったところで、教授が背後を睨みながら、
「相変わらずいけ好かない奴だ。院長、私をあいつの指導教員から、外してくれませんかねぇ」
「……考えておこう」
その時、院長の背広の胸ポケットから、電話の着信音が鳴り響いた。
院長は教授にひと声をかけると、少し離れた場所に移動して通話ボタンを押す。
「どうかしたか?」
スマートフォンの画面に相手の名が出ていたので、電話をかけてきた相手が誰だか分かっている。電話の相手は声量を抑えているが、焦っているのが十分に伝わってきた。
「おい! あいつが私の所に来たぞ!」
電話の相手は社長だった。この大学に寄付をしてくれていて、顔なじみでもある。
「わかっている。たった今、私の所にも来た。彼は何か言っていたか?」
「い、いや。ただ、たまたま近くを通っただけだと言っていた」
「なら、問題ない」
「しかし……!」
「問題ない。こちらも手を打っている。切るぞ」
院長は、言葉を重ねて社長を黙らせると、有無を言わさず通話終了ボタンを押し、そしてふうっと息をつく。
「あの社長からですか」
驚いて振り返ると、すぐ側まで教授が来ていた。
「……盗み聞きかね?」
「まさか。あの社長は声がでかいから、よく聞こえただけです」
「君には関係ないことだ」
「まあ、そうでしょうな。私には何の関係もないことです」
「……」
「すまない、君も忙しいだろうに送ってもらって。それはそれとして、凄い車だな」
助手席に座ったゴワスは、申し訳なさそうに謝罪しつつも、初めて乗る高級車に興味が付きないようだった。目を輝かせながら、きょろきょろと車内を見回している。
運転席に座ったハーツはハンドルを操りながら、
「気にする必要はない。ザマスのことを伝えることができて、ちょうど良かった。
ところで、ゴワス教授は今日、ザマスの姿を見たのか?」
「いや、見ていない。ザマスが大学院に来ていることも、君に聞くまで知らなかった」
「そうか……」
仕事を早めに終わらせたハーツが、街中を歩いているゴワスを見つけたのは、たまたまだった。
クラクションを鳴らして合図を送り、驚いていたゴワスに車で送ると誘ったのだった。
「大学院でザマスが騒ぎを起こせば、自然と私に連絡が来る。今日は、それがなかったから、穏やかに過ごしていたと思うのだが……」
「そうあって欲しいものだ」
「君には本当に苦労をかける」
「気にしないでくれ。好きでやっていることだ」
ゴワスにザマスの事で謝られたのは何度目だろうか。
本当に、心の底から申し訳なさそうに謝るので、ハーツはそのたびにゴワスに気にしないように伝えていた。
ゴワスと顔を合わせたのは数度しかないが、それでもゴワスの人となりはわかりつつあった。
彼の門下に入る者達の多くが、彼を慕っているという評判も頷ける。穏やかで厳しい面もあるが、慈愛に満ちた人格者だ。
ただ、徹底的にザマスと合わないだけで。
「駅にはもうすぐ着くが、駅まででいいのか? 目的地まで送ることもできるが」
「いや、それには及ばん。駅までで十分だ、ありがとう」
ゴワスはこの後、神学に関する研究会という名の講演会に参加するらしい。その為、電車に乗って隣の市に行く必要があるというので、ハーツが駅まで送っているのである。
ハーツはゴワスとザマスの事で情報交換をしたり、時折、他愛のない話をしたりしながら駅に向かっていると、赤信号になったので車を止める。
同時に、ハーツの車の前にある横断歩道を、信号待ちしていた歩行者達が行き交い始めた。
ゴワスはふと、思い出したように、
「そうだ。今のうちに渡しておこう。ザマスが所望していたUSBだ」
ゴワスは肩掛けの鞄の中から、ビニール袋に入れられたUSBを取り出した。そのUSBの白い外装にはヒビが入っていた。
「ザマスが轢き逃げ事故当時に持っていたUSBというのは、これのことだと思う。少なくとも、警察から引き渡されたUSBはこれだけだ」
「ありがとう。ザマスはそのUSBに論文作成に必要なデータが入っていると言っていたから、きっと喜ぶはずだ」
「だが、中のデータが無事かどうかは確認していない。ひび割れているが、大丈夫なのだろうか?」
「中の基盤が無事なら、データも取り出せるだろうが、実際に試してみないとわからないな」
青信号を待っている間、そう言いながらなんとはなしに辺りを見回していたハーツは、視界に入った光景に驚いて、思わず顔を上げた。
「あれは……・」
視線の先には、ザマスがいた。道の向こうをこちらに気づかずに歩いている――女性と二人で。
横顔だからはっきりしないが、女性はおそらくザマスと同年代。二人は何やら言葉を交わしながら、肩を並べて歩いていた。
「どうかした……ああ。ザマスがいたのか」
ハーツの様子が変わったことに気が付いたゴワスは、不思議そうにそう声をかけた後、道の向こうを歩くザマスを見つけて、ゴワスはほっとした声を漏らした。
「よかった。無茶はしていないようだな」
「……ゴワス教授。ザマスの隣にいる方は……」
「隣? ああ、この近くにあるプロテスタント教会を運営する牧師夫婦の娘さんだ。ほら、ザマス達の後ろを歩いているのが、その牧師夫妻だ」
そう言われて初めて、ハーツは彼らの後ろを、中年の夫婦が仲睦まじそうに歩いているのに気が付いた。
「牧師夫妻と私は長年の友人で、昔はよく、ザマスと一緒に彼らの教会で開かれるミサに参加したものだ。夫婦共によくできた方で、ザマスの事も非常に可愛がってくれていてな。
ザマスに、教会で牧師見習いをしないかと誘ってくれているんだ」
「そうなのか……」
「ザマス本人は、博士号を取って神学の研究を続けたいと言っている。それも、ひとつの人生だ。
ただ、私のわがままを言うなら……家庭を持つことで見えることもある。ザマスには、前向きにその話を受けて欲しいと思っているんだが、こればかりは本人の意思が重要だからな」
「……」
信号が赤から青に変わる。ハーツはアクセルを踏んで車を発進させながら、何も答えなかった。
ゴワスを駅に送り、その後、野暮用を片付けて、ハーツはザマスの元へと向かうと、ノートパソコンを使って論文を作成していたザマスを誘い、夕食に出かけたのだった。
「そういえば、今日、街中でお前の車を見たぞ」
食事の途中、不意にザマスがそう言った。
旬の食材をふんだんに使用したイタリアン。
二人掛けのテーブルにザマスとハーツは向かい合って座って、食事を取っていた。
ザマスはメイン料理の真鯛のポワレを味わいながら、
「昼過ぎ頃、あそこの交差点で信号待ちしていなかったか?」
ザマスが告げた場所と時間は、ハーツが女性と歩くザマスを見た場所である。
――向こうも気が付いていたのか。
「なんだ、ザマスも気が付いていたのか。遠くにいたから、こちらに気づいていないのかと思ったよ。手を振ってくれたら良かったのに」
「フロントガラスが太陽の光で反射していて、誰が乗っているのかまでわからなかったのだ。
まあ、あんな車に乗るのは、お前くらいだろうとは思っていたが」
ということは、ゴワスが助手席に乗っていたことも、ザマスはわかっていないようだ。
こうやって事も何気に、話題に出すのがその証しだろう。
ハーツが、ザマスと反発しあっているゴワスと一緒にいて、何も言わないのは腑に落ちない。
ハーツはすっきりとした味わいの辛口白ワインを口にした後、
「一緒にいた女性は誰だ?」
「この近辺に、プロテスタントの教会があるのは知っているか?
彼女はそこを運営する牧師夫婦の娘だ。その教会には昔から通っているから、向こうも私のことを知っている。
今日はたまたま街中で出会ったから、言葉を交わしていただけだ」
「昔からの知り合いなのか。それで親しげだったわけだ」
「親しげ……まぁ、顔なじみではあるからな」
「ザマスは、院を修了したらどうするんだ? その教会に就職するのか」
ゴワスから、大学に残って研究を続けることをザマスは希望していると聞いていたが、ハーツはあえてそれを口にしなかった。
「牧師夫妻から誘われてはいるが、今のところ、私にその気はない。
神学の研究を続けていきたいと考えている。
それに、隣県の大学が神学部の助手を公募しているから、そちらに申し込んだ。受かれば、その大学に就職することになるだろう」
本当は、今いる院で働きたいとザマスは述べたが、生憎、今は募集をかけていないようだ。
数年、その大学で働きつつ、機会があればこちらの大学に戻るつもりだと、ザマスは語った。
「……ただ、もし万が一、博士号を取ることができず、就職も叶わなかったら、その教会に就職するという選択肢もありだろうな」
ハーツはただその言葉を、静かに聞いていたのだった。
前日までは、青空が広がり、入道雲が堂々と浮かんでいたというのに。
院長は、溜め息をつきながら学内の敷地を歩いていたが、隣にいる教授は、特にそういう感傷に浸っている様子もなく、歩きスマフォをしながら歩いていた。
いつものむっつりとした厳めしい顔つきで、手の中のスマートフォンを熱心に眺めているが、歩きながら何をそんなに見る必要があるのか。
「教授。歩きスマフォは止めなさい。危ないし、学生に示しがつかない」
「ああ、わかってますよ」
院長が窘めるが、教授はその三白眼で画面を睨んだまま、スマートフォンを仕舞おうとしない。
院長がもう一度、注意しようと口を開きかけたところで、教授はようやくスラックスのポケットに仕舞ったのだった。
院長と教授は、大学・大学院の運営に関する会議に出席した後、自分の持ち場に帰るため、棟を移動している。敷地が広いだけあって、会議に参加するだけでもひと苦労である。
大学院の正面玄関の自動扉が左右に開くと、中に溜まっていた冷気がさっと院長達を撫でていった。
大学院の正面玄関はホールになっていて、音量を絞ったクラッシックが流れている。
入ってすぐ右手に、受付窓がある。中に居た職員が挨拶をしてきたので、院長は挨拶を返しながら。教授は事務員を無視しながら通り過ぎた。
突然、院長と教授は同時に顔を強張らせて、足を止めた。
向こうから、ひとりの院生がやってくる。
向こうも、こちらに気が付いたようで、見下すような笑みを浮かべながら、悠然と近寄ってきた。
「どうも」
そこには、あのザマスという名の院生が立っていた。
顔は笑ってはいるが、眼には侮蔑の色が濃く彩られている。隣の教授は、不快そうに顔を歪めると、
「お前か。退院したのか?」
「おかげさまで」
「ふん。大した回復力だ。死ぬかもしれないと聞かされていたが、ぴんぴんしているな」
院長もはっと我に返ると、よそよそしい笑みを浮かべる。
「退院おめでとう。体は大丈夫なのかい?」
ザマスの右目には、以前は無かった眼帯がつけられており、まだ完全に回復したわけではなさそうだ。
だが、そのような負傷など、物ともしないと言わんばかりの不敵な態度は不気味だった。
「今日は、何をしに院に?」
「復学の準備を」
「そうか。休学中だったから……」
事故で入院していたため、親代わりであるゴワスが、ザマスに代わって休学の手続きをしていたのを思い出す。
「――あと」
ザマスは院長の話を遮ると、院長と教授の顔を、ゆっくり交互に見回し、
「殺されかかった人間が生きていることを知ったら、お二人がどういう顔をするかを見に」
教授は不愉快そうに鼻を鳴らすと、
「悪趣味だな。と言うか、お前、殺されかかったのか……まあ、お前なら恨みを買ってもおかしくないか」
「教授!」
嘲笑う教授を院長は窘める。ザマスはそんな二人の様子を冷めた目で見つめていた。
教授は舌打ちをすると、
「用がないならオレ達は行くぞ。いつまでも、死に損ないに構ってられんからな」
そういうと、教授はザマスの横を通り過ぎ、院長もまたそれに続いた。
そのまま廊下を過ぎて、角を曲がったところで、教授が背後を睨みながら、
「相変わらずいけ好かない奴だ。院長、私をあいつの指導教員から、外してくれませんかねぇ」
「……考えておこう」
その時、院長の背広の胸ポケットから、電話の着信音が鳴り響いた。
院長は教授にひと声をかけると、少し離れた場所に移動して通話ボタンを押す。
「どうかしたか?」
スマートフォンの画面に相手の名が出ていたので、電話をかけてきた相手が誰だか分かっている。電話の相手は声量を抑えているが、焦っているのが十分に伝わってきた。
「おい! あいつが私の所に来たぞ!」
電話の相手は社長だった。この大学に寄付をしてくれていて、顔なじみでもある。
「わかっている。たった今、私の所にも来た。彼は何か言っていたか?」
「い、いや。ただ、たまたま近くを通っただけだと言っていた」
「なら、問題ない」
「しかし……!」
「問題ない。こちらも手を打っている。切るぞ」
院長は、言葉を重ねて社長を黙らせると、有無を言わさず通話終了ボタンを押し、そしてふうっと息をつく。
「あの社長からですか」
驚いて振り返ると、すぐ側まで教授が来ていた。
「……盗み聞きかね?」
「まさか。あの社長は声がでかいから、よく聞こえただけです」
「君には関係ないことだ」
「まあ、そうでしょうな。私には何の関係もないことです」
「……」
「すまない、君も忙しいだろうに送ってもらって。それはそれとして、凄い車だな」
助手席に座ったゴワスは、申し訳なさそうに謝罪しつつも、初めて乗る高級車に興味が付きないようだった。目を輝かせながら、きょろきょろと車内を見回している。
運転席に座ったハーツはハンドルを操りながら、
「気にする必要はない。ザマスのことを伝えることができて、ちょうど良かった。
ところで、ゴワス教授は今日、ザマスの姿を見たのか?」
「いや、見ていない。ザマスが大学院に来ていることも、君に聞くまで知らなかった」
「そうか……」
仕事を早めに終わらせたハーツが、街中を歩いているゴワスを見つけたのは、たまたまだった。
クラクションを鳴らして合図を送り、驚いていたゴワスに車で送ると誘ったのだった。
「大学院でザマスが騒ぎを起こせば、自然と私に連絡が来る。今日は、それがなかったから、穏やかに過ごしていたと思うのだが……」
「そうあって欲しいものだ」
「君には本当に苦労をかける」
「気にしないでくれ。好きでやっていることだ」
ゴワスにザマスの事で謝られたのは何度目だろうか。
本当に、心の底から申し訳なさそうに謝るので、ハーツはそのたびにゴワスに気にしないように伝えていた。
ゴワスと顔を合わせたのは数度しかないが、それでもゴワスの人となりはわかりつつあった。
彼の門下に入る者達の多くが、彼を慕っているという評判も頷ける。穏やかで厳しい面もあるが、慈愛に満ちた人格者だ。
ただ、徹底的にザマスと合わないだけで。
「駅にはもうすぐ着くが、駅まででいいのか? 目的地まで送ることもできるが」
「いや、それには及ばん。駅までで十分だ、ありがとう」
ゴワスはこの後、神学に関する研究会という名の講演会に参加するらしい。その為、電車に乗って隣の市に行く必要があるというので、ハーツが駅まで送っているのである。
ハーツはゴワスとザマスの事で情報交換をしたり、時折、他愛のない話をしたりしながら駅に向かっていると、赤信号になったので車を止める。
同時に、ハーツの車の前にある横断歩道を、信号待ちしていた歩行者達が行き交い始めた。
ゴワスはふと、思い出したように、
「そうだ。今のうちに渡しておこう。ザマスが所望していたUSBだ」
ゴワスは肩掛けの鞄の中から、ビニール袋に入れられたUSBを取り出した。そのUSBの白い外装にはヒビが入っていた。
「ザマスが轢き逃げ事故当時に持っていたUSBというのは、これのことだと思う。少なくとも、警察から引き渡されたUSBはこれだけだ」
「ありがとう。ザマスはそのUSBに論文作成に必要なデータが入っていると言っていたから、きっと喜ぶはずだ」
「だが、中のデータが無事かどうかは確認していない。ひび割れているが、大丈夫なのだろうか?」
「中の基盤が無事なら、データも取り出せるだろうが、実際に試してみないとわからないな」
青信号を待っている間、そう言いながらなんとはなしに辺りを見回していたハーツは、視界に入った光景に驚いて、思わず顔を上げた。
「あれは……・」
視線の先には、ザマスがいた。道の向こうをこちらに気づかずに歩いている――女性と二人で。
横顔だからはっきりしないが、女性はおそらくザマスと同年代。二人は何やら言葉を交わしながら、肩を並べて歩いていた。
「どうかした……ああ。ザマスがいたのか」
ハーツの様子が変わったことに気が付いたゴワスは、不思議そうにそう声をかけた後、道の向こうを歩くザマスを見つけて、ゴワスはほっとした声を漏らした。
「よかった。無茶はしていないようだな」
「……ゴワス教授。ザマスの隣にいる方は……」
「隣? ああ、この近くにあるプロテスタント教会を運営する牧師夫婦の娘さんだ。ほら、ザマス達の後ろを歩いているのが、その牧師夫妻だ」
そう言われて初めて、ハーツは彼らの後ろを、中年の夫婦が仲睦まじそうに歩いているのに気が付いた。
「牧師夫妻と私は長年の友人で、昔はよく、ザマスと一緒に彼らの教会で開かれるミサに参加したものだ。夫婦共によくできた方で、ザマスの事も非常に可愛がってくれていてな。
ザマスに、教会で牧師見習いをしないかと誘ってくれているんだ」
「そうなのか……」
「ザマス本人は、博士号を取って神学の研究を続けたいと言っている。それも、ひとつの人生だ。
ただ、私のわがままを言うなら……家庭を持つことで見えることもある。ザマスには、前向きにその話を受けて欲しいと思っているんだが、こればかりは本人の意思が重要だからな」
「……」
信号が赤から青に変わる。ハーツはアクセルを踏んで車を発進させながら、何も答えなかった。
ゴワスを駅に送り、その後、野暮用を片付けて、ハーツはザマスの元へと向かうと、ノートパソコンを使って論文を作成していたザマスを誘い、夕食に出かけたのだった。
「そういえば、今日、街中でお前の車を見たぞ」
食事の途中、不意にザマスがそう言った。
旬の食材をふんだんに使用したイタリアン。
二人掛けのテーブルにザマスとハーツは向かい合って座って、食事を取っていた。
ザマスはメイン料理の真鯛のポワレを味わいながら、
「昼過ぎ頃、あそこの交差点で信号待ちしていなかったか?」
ザマスが告げた場所と時間は、ハーツが女性と歩くザマスを見た場所である。
――向こうも気が付いていたのか。
「なんだ、ザマスも気が付いていたのか。遠くにいたから、こちらに気づいていないのかと思ったよ。手を振ってくれたら良かったのに」
「フロントガラスが太陽の光で反射していて、誰が乗っているのかまでわからなかったのだ。
まあ、あんな車に乗るのは、お前くらいだろうとは思っていたが」
ということは、ゴワスが助手席に乗っていたことも、ザマスはわかっていないようだ。
こうやって事も何気に、話題に出すのがその証しだろう。
ハーツが、ザマスと反発しあっているゴワスと一緒にいて、何も言わないのは腑に落ちない。
ハーツはすっきりとした味わいの辛口白ワインを口にした後、
「一緒にいた女性は誰だ?」
「この近辺に、プロテスタントの教会があるのは知っているか?
彼女はそこを運営する牧師夫婦の娘だ。その教会には昔から通っているから、向こうも私のことを知っている。
今日はたまたま街中で出会ったから、言葉を交わしていただけだ」
「昔からの知り合いなのか。それで親しげだったわけだ」
「親しげ……まぁ、顔なじみではあるからな」
「ザマスは、院を修了したらどうするんだ? その教会に就職するのか」
ゴワスから、大学に残って研究を続けることをザマスは希望していると聞いていたが、ハーツはあえてそれを口にしなかった。
「牧師夫妻から誘われてはいるが、今のところ、私にその気はない。
神学の研究を続けていきたいと考えている。
それに、隣県の大学が神学部の助手を公募しているから、そちらに申し込んだ。受かれば、その大学に就職することになるだろう」
本当は、今いる院で働きたいとザマスは述べたが、生憎、今は募集をかけていないようだ。
数年、その大学で働きつつ、機会があればこちらの大学に戻るつもりだと、ザマスは語った。
「……ただ、もし万が一、博士号を取ることができず、就職も叶わなかったら、その教会に就職するという選択肢もありだろうな」
ハーツはただその言葉を、静かに聞いていたのだった。