第七話 大暑の盛りに(7月26日 日曜日)
ハーツは、額の汗を拭いながら、空を見上げた。
夏らしく、どっしりとした質量をもつ入道雲が、空の一角に鎮座している。だが、その入道雲は、刺すような熱さを伴う日の光を遮ってはくれないだろう。
梅雨明けの宣言がなされた途端、この暑さだ。
長雨には気が滅入らされていたが、いざ梅雨があけて夏の暑さを体験すると、雨が気温の上昇を抑えてくれていたことを実感する。
「なあ、カンバー。もう帰らないか?」
ハーツが、リードに繋がれた黒い大型犬に話しかける。
カンバーは、舌を出してはっはっはっと呼吸していた。犬は体の熱さを逃すために舌を出すらしいので、カンバーもこの酷暑は感じているようだが、ハーツの問いかけを無視して、先へ先へとリードを引っ張り進んでいく。
朝から、カンバーが散歩をさせろとリードを口にくわえて何回も要求してきたので、仕方が無いなと思って連れ出してみればこれだ。朝の時間帯ならまだ暑さもさほどではないだろうと思っていたのだが、既に少し歩いただけで滝のような汗をかいている。
まだ、十時をまわったところなのに、今でこの暑さなら、昼過ぎの気温はどうなることやら。
尻尾をぶんぶん振りながら、先へ進むカンバーに引っ張られるようにして、ハーツは早くカンバーが満足して家に帰りたがることを願ったのだった。
結局、カンバーが満足したのはその一時間後。
途中、我慢できずに自販機で購入したスポーツドリンクを飲んで、なんとか脱水を防いだが、それも道半ばで飲み干してしまった。
家に帰ったハーツは、玄関先でカンバーの足を濡れタオルで拭きつつ、心の中で、これからしばらくはどんな時間帯でも帽子をかぶり、飲み物を多めに持ってから散歩に行こうと誓ったのだった。
足を拭き終わった途端、カンバーはハーツを無視してリビングへ行くと、餌場に用意されていた水を猛烈な勢いで飲んでいく。
散歩コースの途中にある公園の水道で満足するまで水を飲ませたのだが、やはり帰ってくる途中に喉が渇いたようだ。
カンバーのための水も持っていってやらなくてはと、自分も冷蔵庫を開けて取り出した麦茶をがぶ飲みしながら、そんなことを考える。
空になったグラスをキッチン台の上に置いて、ハーツが一息ついていると、背後からラグスが声をかけてきた。
「お帰りなさい」
「ただいま、ラグス」
ラグスは汗でじっとり濡れたハーツのポロシャツを見て目を丸くする。
「凄い汗」
「外が暑くてね。それなのに、カンバーが中々家に帰ろうとしないから参ったもんだ」
「コップはそこに置いておいて。後で私が洗っておくから」
「お言葉に甘えて」
水分補給をして人心地ついたハーツは、浴室へと向かう。
洋服を脱いで裸になると、汗を流すためにシャワーを浴びた。火照った体が冷えていく。生き返るようだ。
汗をざっと流して、タオルで体を拭いた後、下着とボトムスだけ履いてリビングに戻る。
自分ひとりだけだったら下着一枚で出るのだが、年頃の女の子がいるのでそういう真似はできない。
「お昼ご飯、何がいい?」
ハーツがリビングに戻ると、ラグスがそう問いかけてきた。
オレンとカミンの双子は、今日は夕方まで部活なので、今、家にいるのはハーツとラグスだけである。
こういった場合、食事はラグスが作るか外に食べに行くかの二択である。
長い間、食事も家事も外注していたハーツは家事が得意ではなく、今もお金に困っていないことを良いことに、隙あらばお金で解決しようとする。
その反面、ラグスはそういうハーツの金遣いを見て『もったいない』と思う性格らしく、ハーツと暮らし初めて少しした後に、自分から家事を担当すると言い出したのだ。今では双子も加わり、家の家事はその三人が持ち回りで担当している。
子供達の優しさが嬉しい反面、そこまでお金の心配をしなくていいのにと思うのだが、意外に頑固なラグス達は首を縦に振らない。
仕方が無いので、ハーツは彼らに感謝しつつ、子供達の自主性に任せることにしたのだ。
「外に食べに行くか? それとも何か取り寄せようか?」
ハーツが提案すると、ラグスは首を横に振る。
そうなると、あとは『ラグスが昼食を作る』という選択肢一択だ。
「君の手料理なら、なんでも嬉しいよ」
歯が浮くような台詞を気後れた様子もなく言われたラグスは、照れたようにはにかむと、エプロンを着けてぱたぱたと昼食の準備に取りかかる。
ハーツがリビングのソファに座った頃、トントントンと包丁のリズミカルな音が聞こえてきた。
「あ、そうだ。この後、出かけてくる。夕飯は外で食べるから、オレの分はいらない」
とん!
ひときわ強い包丁の音がしたかと思うと、ラグスの手が止まった。
「……ラグス、どうかしたか?」
不思議に思ったハーツが、キッチンの方を向いて尋ねるが、ラグスは振り向かないまま、
「……また、出かけるの?」
ラグスの声が、先程より冷たい気がするのは、気のせいだろうか。
「どこに?」
「……以前話した、轢き逃げされた友人のもとに行ってくるんだが……」
「へえぇぇぇ」
部屋の気温が十度下がった気がした。
「また行くんだ。その人のもとに」
「ま、まあ退院したばかりで、不自由しているから、誰かが助けてやらないと……」
「ふうぅぅぅん」
「……」
再度、包丁がキュウリを刻み始める。ハーツの耳には、先程よりも音が強く聞こえていた。
「……ラグス、怒ってないか?」
「怒ってない」
とても怒っていないようには聞こえないが、冗談を言える雰囲気ではなかったので、ハーツは何も言わなかった。否、言えなかった。
……これは、ちょっとほったらかしにし過ぎたな。
妻の機嫌を損ねてしまったことに気が付いた夫の気持ちとは、きっとこういう感じなのだろうなとハーツは考える。
そんな彼の足下で、カンバーは、人間の心の機微など知ったことではないと言わんばかりに、大きな欠伸をしたのだった。
ザマスはマウスをクリックして、インターネットブラウザを表示させた。
ノートパソコンのそばには、グラスに注がれたミネラルウォーターと、何やら住所を記載する欄がある書類が置かれている。
郵便局が提供している転送サービスの申込書である。
このサービスを利用すれば、重要な郵便物が、今はもう住んでいない以前のマンションに届けられても、自動的にこの家に届けられる。
研究や論文の関係で、何かと郵便物のやり取りをすることが多いザマスにとって、重要な書類が本人不在で返却されて、手元に届かない事態だけは避けたかった。
当初は、大学院に新しい住所を届けようと考えていたザマスだが、それはやめた方がいいとハーツから止められた。
ザマスを殺そうとしたのは、あの院長、社長、教授のいずれか。そして三人のうち、二人は大学院の関係者なのである。
ハーツが所有するこの家は、現在ザマスを保護するシェルターも兼ねている。
そのシェルターの住所を大学院に伝えるのはまずいと、ハーツがこの郵便局の転送サービスを勧めてきたのだ。
これなら、大学院に新しい住居の住所を知らせる必要は無い。
ハーツの説明を聞いて、もっともだと納得したザマスは、本日早速、郵便局に赴いて転送サービスの申し込みをしようとしたのだった。
むろん、このサービスには有効期間があるし、いつまでも既にザマスが住んでいないマンションの住所を、大学院に登録しておくわけにもいかない。
ザマスを轢き殺そうとした人間が早々に捕まれば良いのだが、そうでなければ、時期が来たら別の手を考える必要が出てくるだろう。
取り敢えず、未来のことは後で考えるとして、当面の対策として転送サービスをその場で申し込もうとしたのだが、転送サービスを申し込むには、転送先にあたる新しい住処の住所を郵便局に伝える必要がある。
ザマスはうっかり新しい住所を忘れてしまったので、仕方がなく申し込み用紙だけを貰って、一旦、家に戻って来たのである。
スマートフォンがあれば、その場でインターネットを使って調べることができたのだが、生憎、轢き逃げ事故の際に画面が割れてしまったので廃棄した。
今、ザマスの手元にその便利な文明の利器はない。
こういう時、ザマスはスマートフォンの便利さとそれに依存する自分を実感するのだった。
ザマスは立ち上げたインターネットブラウザの検索欄に文字を入力していく。
ネットにこの部屋の住所は載っていないだろうが、隣のハーツの店の住所は載っているはずだ。
部屋番号だけ変えれば、それが今、ザマスが住んでいる場所の住所になるので、ザマスは早速、検索フォームに『コアエリア』と入力した。
だが、『コアエリア』という名前がありきたりだからか、それともハーツの店の知名度が低いからか、出てきた検索結果は映画やゲームの公式サイトばかりだった。
思い通りの検索結果が手に入らなかったザマスは、不満そうに眉間に皺を寄せると、今度はハーツの名を入力した。
以前に見たコアエリアのホームページには、代表者の名前としてハーツの名が記載されていた。彼の名で検索したら、きっとコアエリアのホームページに辿り着くだろう。
「ん?」
検索結果を見たザマスは、訝しげな声を漏らした。
ザマスの予想通り、検索結果のトップには、コアエリアのホームページが記されている。
このホームページに飛べば、コアエリアの住所、ひいては今いる家の住所もわかるはずだ。
しかし、ザマスの視線は他の検索結果に奪われた。
「……ポーカーの世界大会優勝?」
どうやら、新聞サイトの記事のようだが、ハーツの名前と共に、気になる単語が見え隠れしている。興味をそそられたザマスは、そのサイトをクリックした。
それは、三年前の記事だった。
世界的なポーカー大会の優勝者を報じる記事で、その記事の写真には、ポーカー大会の一幕を撮影したものだろうか、七枚のトランプカードを手に持って、真剣な表情をしているハーツの姿が映っていた。
「ポーカーが得意なのか」
感心したように呟きながら、ミネラルウォーターを飲みつつ記事を読み進めていたが、
「ぶっ」
その年のポーカー大会の優勝金額を目にした瞬間、ザマスは思わず口に含んだ水を吹き出したのだった。
ザマスは、取り出したハンカチで口元を拭いながら、何度もその記事に記載された金額を確かめる。
一般人の生涯年収の五倍近くある金額が、優勝賞金としてハーツに贈られていた。しかも、その記事には、ハーツがポーカーの世界大会を二連覇したと記されているので、同様の賞金を過去にもう一度、手にしていることになる。
「それで……あの財力か」
跳ね馬のエンブレムを掲げた車を乗り回したり、複数の家を借り上げたりするなど、到底、一般的な社会人の年収では不可能なことをやってのけるハーツの秘密を、ザマスは理解した。
確かに、これだけの財力があれば、ザマスのひとりやふたり、簡単に援助できるだろう。
感嘆と呆れが混じった感想を抱きつつ、ザマスは記事を読み進めていく。
その記事では、ハーツのプレイスタイルを『まるで、相手の心を読んでいるかのようだ』と評していた。
「これだけのお金が手元にあればな……」
くだらない夢想だとわかっていても、想像せずにはいられない。これだけの資金があれば、生活費など些末なことに悩むことなく、研究に邁進できるだろう。
他のことに心を囚われず、神への研究のみに埋没できる人生――なんと、素晴らしいことか。
だが、現実は違う。
ザマスは、自分の浮わついた頭を現実に引き戻しつつ、調べた住所を転居届に記載していく。
そして、転居届を書き終えたザマスは、論文の作成に取りかかったのだった。
今のザマスに、自活するだけの力は無い。
理想の人生を歩みたければ、論文を完成させて博士号を取ることが、ザマスに取って確実で、堅実で、現実的な道なのである。
そうして、そこから数時間後。
昼食もそこそこに、ザマスが集中して論文を書き上げていると、昼を過ぎた頃に玄関の呼び鈴が鳴った。
ノートパソコンで論文を作成していたザマスは、手を止めて立ち上がる。歩き方はややぎこちないが、松葉杖無しでもしっかり歩くことができていた。
誰が来たのかわかっているザマスは、のぞき穴から確かめもせずに、玄関の扉を開けた。
「やあ、ザマス。お邪魔するよ」
予想通り、やってきたのはハーツだった。
オートロックマンションの正面玄関の呼び鈴ではなく、直接この部屋の呼び鈴を鳴らして尋ねてくる人物と言えば、今のところハーツしかいない。
手には何やら、紙袋を下げている。
「プレゼントを持ってきた」
「またか」
ザマスは呆れた様子を隠さなかった。
ザマスがこの家に移り住んでから、ハーツは一日も空けずにやって来て、しかもプレゼントと称して色々な物をザマスに渡してくる。
最初は、渡されるプレゼントに戸惑いを隠せなかったのだが、何度言ってもハーツは、『オレがやりたいからやってるんだ』と言って、プレゼントを持ってくるのをやめないので、ザマスはもはや諦めの境地に立っていた。
「本当に、金が有り余っているんだな」
「最初からそう言っているだろう。君が、お金のことを心配する必要はない」
取り敢えず、夏の熱気が伝わってくる玄関よりも、リビングの方が過ごしやすい。ザマスとハーツは連れだって、リビングへと向かった。
「ソファに座っていろ。今、お茶を淹れる」
リビングはダイニングと繋がっているので、部屋の一角にはダイニングテーブルがあり、そのテーブルの上には、ノートパソコンや資料が出しっぱなしになっている。
「勉強中だったのか?」
目敏くそれを見つけたハーツが、リビングのソファに座りながら問うと、
「論文を作成していた」
と、棚からグラスを取り出しながら、ザマスは答えた。
大学院に通っている院生達の目標は、博士号の取得だ。
無論、ザマスも例外では無く、後期課程三年目に在籍するザマスは、今年度中に研究論文を提出して博士号を取得することを目指していた。
その博士号を取得するためには、自身が定めたテーマで研究をして作成した論文が認められる必要がある。
研究論文を提出する上で、指導教員の認可を貰う必要があるのだが、ザマスの指導教員はあの論文盗用をするようなゲス教授だから、盗用疑惑を提起したザマスの論文を、色眼鏡なく指導するかわからない。
ザマスにとっては不利な状況だが、逆に彼は闘争心に燃えていた。
浅薄な人間でも認めざるを得ないくらい、完璧な論文に仕上げてしまえばいい。
そう意気込んだザマスは、退院した翌日から、家事やリハビリやハーツの相手をする時間以外は、論文の作成に没頭しているのだ。
「邪魔をして悪かったな」
「問題ない。ちょうど、一息つこうと考えていたところだ」
嘘ではない。
長時間、執筆を続けていたからという理由もあるが、作成の過程でとある英語論文が必要になったのである。
ザマスの論文作成に必要だったので、以前はコピーをして手元に持っていたのだが、どうやら轢き逃げ事故の時になくしてしまったらしく、しかも、ザマスは今日、その事に気づいたのである。
神学に関する英語論文が欲しいならば、大学の図書館にある電子ジャーナルで手に入れるほかない。
進みが悪くなった論文作成に苛つきだしたところだったので、ハーツが訪ねてきたのはちょうど良かった。
ザマスにとってハーツという男は、中々話が上手い奴で、そばに置いておいても苦痛はない。気分転換にぴったりだ。
お盆に水出し紅茶で満たされたグラスを二つ載せて、ザマスがリビングへと戻ってきた。ハーツにグラスを手渡すと、自分もグラスを片手にハーツの隣に座る。
水出し紅茶を飲んだハーツは、感嘆の声を上げた。
「美味いな。今まで飲んだ紅茶と全然違う」
使用している茶葉は、ハーツが用意したものだ。
ハーツも以前、その茶葉を買って飲んだことがある。だが、今、口にした紅茶は、本当に同じ茶葉なのかと疑うほどに、以前飲んだものよりも味も風味も段違いに美味い。
ザマスは、ふふんと胸を張りながら、
「当たり前だ。私は紅茶を長年愛飲しているからな。年期が違う」
「恐れ入ったよ」
本当に美味そうに冷たい紅茶を飲んでいたハーツは、ふと隣に置いたままの紙袋の存在を思い出した。
「そうだ、忘れるところだった。今日はこれを君に渡しに来たんだった」
ハーツは紙袋の中から箱を取り出すと、それをザマスに差し出した。ザマスは、箱の表面を見ると不思議そうに、
「これは……スマートフォンか?」
つるりとした箱の表面に描かれていたのは、最新鋭のスマートフォンの写真。
「そうだ。君のスマートフォンは事故で壊れてしまっただろう? やはり、持っていないと色々と不便だろうと思って買ってきた」
「高かったんじゃないのか?」
スマートフォンの機種には詳しくないザマスだが、それでも欠けた果実がマークの会社の機種は高いと知っている。
「大丈夫。大した金額じゃない」
「……」
ザマスは、ハーツが言う『大した金額』は当てにならないことを理解しているが、同時に無駄遣いするなと言っても無駄なことを、短い期間の間に学んでいた。
それに、スマートフォンが無くてちょうど困っていたところだ。折角だから、ザマスはそのスマートフォンを受け取ることにした。
箱を開けて、中のスマートフォンを取り出すと、裏表をひっくり返して興味深そうに眺めた後、スマートフォンの電源をつける。
「そのスマートフォンの名義はオレになっている。ちょっと色々設定することがあったから、初期設定はすませているぞ」
ハーツが金を出して買ったのだから、当然だろう。
ザマスは特に気にしなかった。
ハーツが横で、流れる水のようにスマートフォンの説明をするが、スマートフォンに詳しくないザマスはちんぷんかんぷんだった。
「ハーツ、もういい。これ以上は、頭が爆発しそうだ」
「これは失礼。喋りすぎたな」
「高機能というのも考えものだ。何が何やらわからなくなる」
「普段、どれくらいスマートフォンを使っているんだ?」
「電話やメッセージのやり取り、調べものにネットを使うくらいだ」
「使いこなすと便利だぞ。家にいながら買い物や映画の予約とかできるんだからな。
――そうだ。面白そうな映画を見つけたんだ。今度、ザマスの都合がいい時に、一緒に見に行かないか?」
ザマスは呆れ顔で、
「遊んでばっかりだな、お前は」
「ミステリー映画は嫌いか?」
「そうじゃない。こうも毎日、遊びで散財していいのかと聞いているんだ。というか、そもそも店はいいのか、店は」
当初は、店を手伝って貰うと言っていたハーツだったが、未だにザマスは何も手伝っていない。
「心配しなくていい。ここに来るついでに、隣の店でしなければならないことはしている。それにどうせ、客は来ないしな」
「商売をする気はあるのか。というか、私が店の手伝いをするという話はどうなった?」
「もちろん、手伝って貰うつもりだが、まだ無理しない方が良いだろう」
「問題ない。もう松葉杖もいらないくらいに回復している」
ザマスは、退院してからリハビリ目的で別の病院に通院しており、リハビリが休みの日も自宅で自主的に体を動かしている。
そのおかげか、それともザマスの回復力のおかげか、身体機能の改善は著しい。
早々に松葉杖はいらなくなり、リハビリ病院の関係者も、目を見張らんばかりに驚いている。
「君がそう言うなら、店のことを説明しようか」
ハーツは立ち上がると、ザマスも後に続いた。
ハーツが経営する観葉植物を主に取り扱っている雑貨店は、ザマスが現在、住んでいる部屋の隣にある。
マンションの一室を借り上げて、そこを店にしているのだが、開店時間は11時から夕方の18時までで、月曜と火曜日は休み。あと、店長の気が乗らなければ休み。しかも、オートロックのマンションなので、来店するには予約が必要という、かなり敷居の高い店だった。
「メインは、ネットでの販売だ。直接の対応はともかく、ネットでの受付自体は二十四時間やっている」
ハーツに促されて店に入る。
同じマンションの一室なだけあって、部屋の間取りは同じだ。多肉植物が飾られた玄関から短い廊下を通ってリビングに入る。ハーツの後にザマスが続いた。
リビングは、真夏に締め切っているというのに、ひんやりしている。辺りを見回せば、エアコンが稼働していた。
ハーツが言うには、熱さに弱い観葉植物のために、エアコンは二十四時間稼働させているらしい。
一瞬、ザマスの脳裏を『電気代』という単語が横切ったのだが、店を経営するならこれは必要経費なのだろう。普段のハーツの様子を見るに、電気代も稼げているのかは甚だ疑問なのだが。
リビングの扉の両脇には、人の背丈ほどもあるオリーブの木が飾られ、中央とその両脇の机には、陶器やポットに植えられた無数の観葉植物が、綺麗にディスプレイされていた。
ザマスが住んでいるところと同じ作りの部屋だというのに、この一室には生活感はなく、モデルルームのような洗練された雰囲気でありながら、緑に囲まれているので、どこか清々しい気分に浸ることができる。
ザマスが見たところ、売られている観葉植物は、手のひらサイズのものから、抱えるのもひと苦労な大型のものまで様々だ。飾られた観葉植物の前には、真鍮のプライスタグに入った値札が置かれていた。
ザマスでも問題なく購入できるものから、一番高い額の紙幣を数枚必要とする物まで、値段も様々だ。
ザマスが物珍しそうに、小さな陶器の皿に飾られた苔玉を眺めていると、
「それが気に入ったのか? あとで部屋に送っておくよ」
ハーツがさらりとそんなことを言う。
ザマスが何か言う前に、ハーツはダイニングの説明に移った。
リビングから続いているダイニングには、店に来た客と商談するための洒落た木製のダイニングテーブルが設置され、すぐ隣のキッチンカウンターには、サイフォン式のコーヒーメーカーが用意されていた。店に来た客にコーヒーを提供するためだと、ハーツは語る。
「ドリップ式ではなく、サイフォン式のコーヒーメーカーを用意したのは、非日常感を演出するためだ。こうやって、家では味わえないようなインテリアを、客は好む傾向があるからな」
部屋の中は、綺麗に掃除が行き届いていて、なるほど、『しなければならないことは、している』という言葉は嘘ではなかったらしい。
ザマスは内心、普段は遊んでばっかだが、一応、仕事はしているんだなと、上から目線の評価をハーツに下した。
「遊んでばかりではなく、ちゃんと仕事もしていることを、認めて貰えたようだな」
「!」
ザマスは今まさに、心の中で思っていたことを言い当てられて、心臓が跳ねるほどに驚いた。
「庭の説明をしよう。こっちに来てくれ」
「あ、ああ……」
心臓の鼓動が収まらないまま、ザマスはハーツの後について行く。
――前々から感じていたのだが、どうやらハーツは随分と勘が鋭いらしい。正直、勘が良すぎて、心を読まれているのではないかと思うくらいだ。
食えない男だと思いながら、ザマスは庭先に置いてあったベランダサンダルに履き替えると、ウッドデッキに降り立った。
この部屋は専用庭付きなので、リビングの大窓から外に出ればウッドデッキに降り立つことができる。
ウッドデッキには、日が当たることを好む観葉植物が並べられ、デッキの向こうには、やや芝が伸び気味の芝生が広がっていた。
実は、ザマスの住んでいる部屋も、専用庭付きで同じウッドデッキとベンチが設置されていた。
以前、ハーツは事務所兼倉庫にするつもりで隣の部屋を借りていたと言っていたので、店に展示できなかった観葉植物を並べるつもりだったのだろう。
「うちは、要予約制だから、事前に予約があった客しか来ない。客の応対はオレがするから、ザマスは……そうだな、観葉植物への水やりとか、部屋の掃除とかを手伝って貰おうか。
あと、手が空いたらメールの対応も頼む」
「それだけでいいのか?」
「他に手伝って貰いたいことがあったら、その都度、説明する」
二人はいったん、部屋に戻る。
ウッドデッキの上空は、日除けのためのシェードと呼ばれる厚い布で覆われているのだが、それでも十数分経っているだけで、背中がじっとり汗ばんでしまった。
ひんやりと冷やされた部屋で涼みながら、ザマスはハーツからひとつひとつ、観葉植物について説明を受けた。
ひとくちに観葉植物と言っても、たっぷり水をやる必要がある植物もあれば、霧吹き程度でよいものもある。
一応、グリーンインテリア店の店長をやっているだけあって、ハーツの知識は広く深く、そして、よどみなく紡がれる説明はわかりやすい。
一通り説明を聞いて回ると、時間は既に夕方になっていた。
「ザマス。ちょうど、明日、オレは用事があって昼間はここに来ることができないんだ。
よければ、水やりを頼む。わからなかったら、そのままにしておいてくれ。夜には来るつもりだ」
「奇遇だな。私も明日は用がある。
昼間は家に居ないと、お前に伝えようと思っていたところだ」
その瞬間、ハーツは驚いたようにザマスの方を振り向いた。
「どこかに出かけるのか?」
ハーツがあまりにも驚いた顔をするので、ザマスは眉をひそめながら答える。
「午前中はリハビリに行って、その後、大学院に向かうつもりだが、それがどうかしたか?」
「どうしたもこうしたもあるか。まだ、完治してないのにひとりで出かけるつもりか?
危険すぎる。その用事、明後日に延ばせないのか?
明後日なら、オレが車で連れていってやる」
ザマスは、そんなことかと、拍子抜けすると、
「大丈夫だ。短時間の外出ならひとりでも問題ない」
「しかし……」
ハーツは一瞬、言い淀んだ後に、意を決して言葉を紡いだ。
「君は、一度殺されかけているんだぞ? しかもまだ、犯人は捕まっていない」
「……」
ザマスの顔から、すっと表情が消えた。
あの轢き逃げ事件は未だ解決していない。怪しい人物まで絞れたのだが、そこから先を踏み出すための情報が足りていないのだ。
警察は、どうも被害者であるザマスが目を覚ませば、事件解決の為の手がかりが得られるのではと期待していたようだが、結局、有力な手がかりが得られず落胆していた。
落胆したいのはザマスの方だ。
あれだけ仰々しくザマスを聴取しておきながら、結局、警察は怪しい人物が、院長、教授、社長のいずれかしかわかっていないのだから。
「だから、悪いことは言わないから、用事を明後日に延ばせ」
「ハーツ」
ザマスの声が、鋭くなっている。
「お前の考えは理解したが、私は明日行くと決めたのだ。体は問題ないと言っただろう。
仮に、不届き者が再度、私の命を狙うつもりなら好都合だ。返り討ちにしてやる」
「その考えは無謀だ」
「それに、行き帰りはタクシーを利用する。以前と同じ轍は踏まない」
「ザマス」
ハーツの表情が、険しくなった。
「同じ事を聞くが、その用事は、どうしても明日でなくては駄目なのか?」
「明日、大学院に顔を出すと事務に伝えている。それに、研究論文を書くために、大学院の図書館に行かなければならない」
「オレには、明後日でも問題ないように聞こえるが……」
「勝手なことを言うな」
ザマスの声が、さらに凄みを帯びた。
「一ヶ月近くも入院していたせいで、研究論文の作成が滞っているんだ。論文が完成しないと、博士号取得のためのスタートラインにすら立てない。
明日でなくては駄目なのだ」
ザマスとハーツの視線が交錯する。
重苦しい沈黙の中、先に折れたのは、ハーツの方だった。
ハーツは溜め息をつくと、
「わかった。君の事情もわからず、押しつけがましいことを言ってしまった。ただ、君を心配していることは、理解してくれ」
その言葉を聞いたザマスも肩の力を抜くと、
「わかっている」
「それならいい。明日、大学院に行くのは止めないが、スマートフォンだけは絶対に忘れずに持っていくんだ。
何かあったらオレに連絡しろ。すぐに迎えに行く」
「心配性だな、お前は」
ハーツが保護者のように矢継ぎ早に話すので、ザマスは思わず苦笑した。
ハーツは、笑われたことに少々むっとしながら、
「人の心も知らないで」
「悪かった。機嫌を直せ」
そう言いながら、ザマスはくるりと踵を返して、自分の部屋へと戻っていく。
隣の家に向かうザマスの背中を見つめていたハーツは、誰にも聞こえないくらい小さな声で、ぽつりと呟いた。
「ちょうどいいタイミングだったな」
ハーツの脳裏を、以前ゴワスと交わした会話が横切った。
ゴワスにザマスを引き取りたい旨を告げた時、当たり前だが断られた。
だが、ハーツは持ち前の話術で根気よくゴワスを説得していくと、ハーツの熱心さに心を打たれたのか、最初はハーツに対して警戒心を見せていたゴワスも、徐々に態度がほぐれていった。
ハーツは、『ザマスは命を狙われている。もしかしたら、犯人は退院したあともザマスの命を付け狙うかもしれない。なら、貴方の家に帰るより、犯人も知らないオレの家に来た方が安全だ』と言って、ゴワスを説得した。
だが、ゴワスはハーツの説得に同意できる部分はあると理解を示しつつも、それでも頑なに首を縦に振らなかった。
拒む理由を聞かれても、決して喋らなかったゴワスだが、その理由を、ハーツが言い当てた途端、弾かれたように顔を上げた。
まるで、心を読んだかのように、己が考えていたことを言い当てられたゴワスは、しばらく驚愕の表情を浮かべたまま、呆然とハーツの顔を見たあと、やがて、腹を括ったかのように語り始めた。
「……君の言うとおりだ。
私が、ザマスを自分の監視下に置こうとしているのは、彼が罪を犯すのを止めたいからだ。
ザマスは、悪人と断定した人物に危害を加えることに躊躇いがない。ザマスが警察よりも早く犯人を見つけ出してしまったら、きっと殺してしまうだろう。
君は、それを阻止してくれるというのか?」
夏らしく、どっしりとした質量をもつ入道雲が、空の一角に鎮座している。だが、その入道雲は、刺すような熱さを伴う日の光を遮ってはくれないだろう。
梅雨明けの宣言がなされた途端、この暑さだ。
長雨には気が滅入らされていたが、いざ梅雨があけて夏の暑さを体験すると、雨が気温の上昇を抑えてくれていたことを実感する。
「なあ、カンバー。もう帰らないか?」
ハーツが、リードに繋がれた黒い大型犬に話しかける。
カンバーは、舌を出してはっはっはっと呼吸していた。犬は体の熱さを逃すために舌を出すらしいので、カンバーもこの酷暑は感じているようだが、ハーツの問いかけを無視して、先へ先へとリードを引っ張り進んでいく。
朝から、カンバーが散歩をさせろとリードを口にくわえて何回も要求してきたので、仕方が無いなと思って連れ出してみればこれだ。朝の時間帯ならまだ暑さもさほどではないだろうと思っていたのだが、既に少し歩いただけで滝のような汗をかいている。
まだ、十時をまわったところなのに、今でこの暑さなら、昼過ぎの気温はどうなることやら。
尻尾をぶんぶん振りながら、先へ進むカンバーに引っ張られるようにして、ハーツは早くカンバーが満足して家に帰りたがることを願ったのだった。
結局、カンバーが満足したのはその一時間後。
途中、我慢できずに自販機で購入したスポーツドリンクを飲んで、なんとか脱水を防いだが、それも道半ばで飲み干してしまった。
家に帰ったハーツは、玄関先でカンバーの足を濡れタオルで拭きつつ、心の中で、これからしばらくはどんな時間帯でも帽子をかぶり、飲み物を多めに持ってから散歩に行こうと誓ったのだった。
足を拭き終わった途端、カンバーはハーツを無視してリビングへ行くと、餌場に用意されていた水を猛烈な勢いで飲んでいく。
散歩コースの途中にある公園の水道で満足するまで水を飲ませたのだが、やはり帰ってくる途中に喉が渇いたようだ。
カンバーのための水も持っていってやらなくてはと、自分も冷蔵庫を開けて取り出した麦茶をがぶ飲みしながら、そんなことを考える。
空になったグラスをキッチン台の上に置いて、ハーツが一息ついていると、背後からラグスが声をかけてきた。
「お帰りなさい」
「ただいま、ラグス」
ラグスは汗でじっとり濡れたハーツのポロシャツを見て目を丸くする。
「凄い汗」
「外が暑くてね。それなのに、カンバーが中々家に帰ろうとしないから参ったもんだ」
「コップはそこに置いておいて。後で私が洗っておくから」
「お言葉に甘えて」
水分補給をして人心地ついたハーツは、浴室へと向かう。
洋服を脱いで裸になると、汗を流すためにシャワーを浴びた。火照った体が冷えていく。生き返るようだ。
汗をざっと流して、タオルで体を拭いた後、下着とボトムスだけ履いてリビングに戻る。
自分ひとりだけだったら下着一枚で出るのだが、年頃の女の子がいるのでそういう真似はできない。
「お昼ご飯、何がいい?」
ハーツがリビングに戻ると、ラグスがそう問いかけてきた。
オレンとカミンの双子は、今日は夕方まで部活なので、今、家にいるのはハーツとラグスだけである。
こういった場合、食事はラグスが作るか外に食べに行くかの二択である。
長い間、食事も家事も外注していたハーツは家事が得意ではなく、今もお金に困っていないことを良いことに、隙あらばお金で解決しようとする。
その反面、ラグスはそういうハーツの金遣いを見て『もったいない』と思う性格らしく、ハーツと暮らし初めて少しした後に、自分から家事を担当すると言い出したのだ。今では双子も加わり、家の家事はその三人が持ち回りで担当している。
子供達の優しさが嬉しい反面、そこまでお金の心配をしなくていいのにと思うのだが、意外に頑固なラグス達は首を縦に振らない。
仕方が無いので、ハーツは彼らに感謝しつつ、子供達の自主性に任せることにしたのだ。
「外に食べに行くか? それとも何か取り寄せようか?」
ハーツが提案すると、ラグスは首を横に振る。
そうなると、あとは『ラグスが昼食を作る』という選択肢一択だ。
「君の手料理なら、なんでも嬉しいよ」
歯が浮くような台詞を気後れた様子もなく言われたラグスは、照れたようにはにかむと、エプロンを着けてぱたぱたと昼食の準備に取りかかる。
ハーツがリビングのソファに座った頃、トントントンと包丁のリズミカルな音が聞こえてきた。
「あ、そうだ。この後、出かけてくる。夕飯は外で食べるから、オレの分はいらない」
とん!
ひときわ強い包丁の音がしたかと思うと、ラグスの手が止まった。
「……ラグス、どうかしたか?」
不思議に思ったハーツが、キッチンの方を向いて尋ねるが、ラグスは振り向かないまま、
「……また、出かけるの?」
ラグスの声が、先程より冷たい気がするのは、気のせいだろうか。
「どこに?」
「……以前話した、轢き逃げされた友人のもとに行ってくるんだが……」
「へえぇぇぇ」
部屋の気温が十度下がった気がした。
「また行くんだ。その人のもとに」
「ま、まあ退院したばかりで、不自由しているから、誰かが助けてやらないと……」
「ふうぅぅぅん」
「……」
再度、包丁がキュウリを刻み始める。ハーツの耳には、先程よりも音が強く聞こえていた。
「……ラグス、怒ってないか?」
「怒ってない」
とても怒っていないようには聞こえないが、冗談を言える雰囲気ではなかったので、ハーツは何も言わなかった。否、言えなかった。
……これは、ちょっとほったらかしにし過ぎたな。
妻の機嫌を損ねてしまったことに気が付いた夫の気持ちとは、きっとこういう感じなのだろうなとハーツは考える。
そんな彼の足下で、カンバーは、人間の心の機微など知ったことではないと言わんばかりに、大きな欠伸をしたのだった。
ザマスはマウスをクリックして、インターネットブラウザを表示させた。
ノートパソコンのそばには、グラスに注がれたミネラルウォーターと、何やら住所を記載する欄がある書類が置かれている。
郵便局が提供している転送サービスの申込書である。
このサービスを利用すれば、重要な郵便物が、今はもう住んでいない以前のマンションに届けられても、自動的にこの家に届けられる。
研究や論文の関係で、何かと郵便物のやり取りをすることが多いザマスにとって、重要な書類が本人不在で返却されて、手元に届かない事態だけは避けたかった。
当初は、大学院に新しい住所を届けようと考えていたザマスだが、それはやめた方がいいとハーツから止められた。
ザマスを殺そうとしたのは、あの院長、社長、教授のいずれか。そして三人のうち、二人は大学院の関係者なのである。
ハーツが所有するこの家は、現在ザマスを保護するシェルターも兼ねている。
そのシェルターの住所を大学院に伝えるのはまずいと、ハーツがこの郵便局の転送サービスを勧めてきたのだ。
これなら、大学院に新しい住居の住所を知らせる必要は無い。
ハーツの説明を聞いて、もっともだと納得したザマスは、本日早速、郵便局に赴いて転送サービスの申し込みをしようとしたのだった。
むろん、このサービスには有効期間があるし、いつまでも既にザマスが住んでいないマンションの住所を、大学院に登録しておくわけにもいかない。
ザマスを轢き殺そうとした人間が早々に捕まれば良いのだが、そうでなければ、時期が来たら別の手を考える必要が出てくるだろう。
取り敢えず、未来のことは後で考えるとして、当面の対策として転送サービスをその場で申し込もうとしたのだが、転送サービスを申し込むには、転送先にあたる新しい住処の住所を郵便局に伝える必要がある。
ザマスはうっかり新しい住所を忘れてしまったので、仕方がなく申し込み用紙だけを貰って、一旦、家に戻って来たのである。
スマートフォンがあれば、その場でインターネットを使って調べることができたのだが、生憎、轢き逃げ事故の際に画面が割れてしまったので廃棄した。
今、ザマスの手元にその便利な文明の利器はない。
こういう時、ザマスはスマートフォンの便利さとそれに依存する自分を実感するのだった。
ザマスは立ち上げたインターネットブラウザの検索欄に文字を入力していく。
ネットにこの部屋の住所は載っていないだろうが、隣のハーツの店の住所は載っているはずだ。
部屋番号だけ変えれば、それが今、ザマスが住んでいる場所の住所になるので、ザマスは早速、検索フォームに『コアエリア』と入力した。
だが、『コアエリア』という名前がありきたりだからか、それともハーツの店の知名度が低いからか、出てきた検索結果は映画やゲームの公式サイトばかりだった。
思い通りの検索結果が手に入らなかったザマスは、不満そうに眉間に皺を寄せると、今度はハーツの名を入力した。
以前に見たコアエリアのホームページには、代表者の名前としてハーツの名が記載されていた。彼の名で検索したら、きっとコアエリアのホームページに辿り着くだろう。
「ん?」
検索結果を見たザマスは、訝しげな声を漏らした。
ザマスの予想通り、検索結果のトップには、コアエリアのホームページが記されている。
このホームページに飛べば、コアエリアの住所、ひいては今いる家の住所もわかるはずだ。
しかし、ザマスの視線は他の検索結果に奪われた。
「……ポーカーの世界大会優勝?」
どうやら、新聞サイトの記事のようだが、ハーツの名前と共に、気になる単語が見え隠れしている。興味をそそられたザマスは、そのサイトをクリックした。
それは、三年前の記事だった。
世界的なポーカー大会の優勝者を報じる記事で、その記事の写真には、ポーカー大会の一幕を撮影したものだろうか、七枚のトランプカードを手に持って、真剣な表情をしているハーツの姿が映っていた。
「ポーカーが得意なのか」
感心したように呟きながら、ミネラルウォーターを飲みつつ記事を読み進めていたが、
「ぶっ」
その年のポーカー大会の優勝金額を目にした瞬間、ザマスは思わず口に含んだ水を吹き出したのだった。
ザマスは、取り出したハンカチで口元を拭いながら、何度もその記事に記載された金額を確かめる。
一般人の生涯年収の五倍近くある金額が、優勝賞金としてハーツに贈られていた。しかも、その記事には、ハーツがポーカーの世界大会を二連覇したと記されているので、同様の賞金を過去にもう一度、手にしていることになる。
「それで……あの財力か」
跳ね馬のエンブレムを掲げた車を乗り回したり、複数の家を借り上げたりするなど、到底、一般的な社会人の年収では不可能なことをやってのけるハーツの秘密を、ザマスは理解した。
確かに、これだけの財力があれば、ザマスのひとりやふたり、簡単に援助できるだろう。
感嘆と呆れが混じった感想を抱きつつ、ザマスは記事を読み進めていく。
その記事では、ハーツのプレイスタイルを『まるで、相手の心を読んでいるかのようだ』と評していた。
「これだけのお金が手元にあればな……」
くだらない夢想だとわかっていても、想像せずにはいられない。これだけの資金があれば、生活費など些末なことに悩むことなく、研究に邁進できるだろう。
他のことに心を囚われず、神への研究のみに埋没できる人生――なんと、素晴らしいことか。
だが、現実は違う。
ザマスは、自分の浮わついた頭を現実に引き戻しつつ、調べた住所を転居届に記載していく。
そして、転居届を書き終えたザマスは、論文の作成に取りかかったのだった。
今のザマスに、自活するだけの力は無い。
理想の人生を歩みたければ、論文を完成させて博士号を取ることが、ザマスに取って確実で、堅実で、現実的な道なのである。
そうして、そこから数時間後。
昼食もそこそこに、ザマスが集中して論文を書き上げていると、昼を過ぎた頃に玄関の呼び鈴が鳴った。
ノートパソコンで論文を作成していたザマスは、手を止めて立ち上がる。歩き方はややぎこちないが、松葉杖無しでもしっかり歩くことができていた。
誰が来たのかわかっているザマスは、のぞき穴から確かめもせずに、玄関の扉を開けた。
「やあ、ザマス。お邪魔するよ」
予想通り、やってきたのはハーツだった。
オートロックマンションの正面玄関の呼び鈴ではなく、直接この部屋の呼び鈴を鳴らして尋ねてくる人物と言えば、今のところハーツしかいない。
手には何やら、紙袋を下げている。
「プレゼントを持ってきた」
「またか」
ザマスは呆れた様子を隠さなかった。
ザマスがこの家に移り住んでから、ハーツは一日も空けずにやって来て、しかもプレゼントと称して色々な物をザマスに渡してくる。
最初は、渡されるプレゼントに戸惑いを隠せなかったのだが、何度言ってもハーツは、『オレがやりたいからやってるんだ』と言って、プレゼントを持ってくるのをやめないので、ザマスはもはや諦めの境地に立っていた。
「本当に、金が有り余っているんだな」
「最初からそう言っているだろう。君が、お金のことを心配する必要はない」
取り敢えず、夏の熱気が伝わってくる玄関よりも、リビングの方が過ごしやすい。ザマスとハーツは連れだって、リビングへと向かった。
「ソファに座っていろ。今、お茶を淹れる」
リビングはダイニングと繋がっているので、部屋の一角にはダイニングテーブルがあり、そのテーブルの上には、ノートパソコンや資料が出しっぱなしになっている。
「勉強中だったのか?」
目敏くそれを見つけたハーツが、リビングのソファに座りながら問うと、
「論文を作成していた」
と、棚からグラスを取り出しながら、ザマスは答えた。
大学院に通っている院生達の目標は、博士号の取得だ。
無論、ザマスも例外では無く、後期課程三年目に在籍するザマスは、今年度中に研究論文を提出して博士号を取得することを目指していた。
その博士号を取得するためには、自身が定めたテーマで研究をして作成した論文が認められる必要がある。
研究論文を提出する上で、指導教員の認可を貰う必要があるのだが、ザマスの指導教員はあの論文盗用をするようなゲス教授だから、盗用疑惑を提起したザマスの論文を、色眼鏡なく指導するかわからない。
ザマスにとっては不利な状況だが、逆に彼は闘争心に燃えていた。
浅薄な人間でも認めざるを得ないくらい、完璧な論文に仕上げてしまえばいい。
そう意気込んだザマスは、退院した翌日から、家事やリハビリやハーツの相手をする時間以外は、論文の作成に没頭しているのだ。
「邪魔をして悪かったな」
「問題ない。ちょうど、一息つこうと考えていたところだ」
嘘ではない。
長時間、執筆を続けていたからという理由もあるが、作成の過程でとある英語論文が必要になったのである。
ザマスの論文作成に必要だったので、以前はコピーをして手元に持っていたのだが、どうやら轢き逃げ事故の時になくしてしまったらしく、しかも、ザマスは今日、その事に気づいたのである。
神学に関する英語論文が欲しいならば、大学の図書館にある電子ジャーナルで手に入れるほかない。
進みが悪くなった論文作成に苛つきだしたところだったので、ハーツが訪ねてきたのはちょうど良かった。
ザマスにとってハーツという男は、中々話が上手い奴で、そばに置いておいても苦痛はない。気分転換にぴったりだ。
お盆に水出し紅茶で満たされたグラスを二つ載せて、ザマスがリビングへと戻ってきた。ハーツにグラスを手渡すと、自分もグラスを片手にハーツの隣に座る。
水出し紅茶を飲んだハーツは、感嘆の声を上げた。
「美味いな。今まで飲んだ紅茶と全然違う」
使用している茶葉は、ハーツが用意したものだ。
ハーツも以前、その茶葉を買って飲んだことがある。だが、今、口にした紅茶は、本当に同じ茶葉なのかと疑うほどに、以前飲んだものよりも味も風味も段違いに美味い。
ザマスは、ふふんと胸を張りながら、
「当たり前だ。私は紅茶を長年愛飲しているからな。年期が違う」
「恐れ入ったよ」
本当に美味そうに冷たい紅茶を飲んでいたハーツは、ふと隣に置いたままの紙袋の存在を思い出した。
「そうだ、忘れるところだった。今日はこれを君に渡しに来たんだった」
ハーツは紙袋の中から箱を取り出すと、それをザマスに差し出した。ザマスは、箱の表面を見ると不思議そうに、
「これは……スマートフォンか?」
つるりとした箱の表面に描かれていたのは、最新鋭のスマートフォンの写真。
「そうだ。君のスマートフォンは事故で壊れてしまっただろう? やはり、持っていないと色々と不便だろうと思って買ってきた」
「高かったんじゃないのか?」
スマートフォンの機種には詳しくないザマスだが、それでも欠けた果実がマークの会社の機種は高いと知っている。
「大丈夫。大した金額じゃない」
「……」
ザマスは、ハーツが言う『大した金額』は当てにならないことを理解しているが、同時に無駄遣いするなと言っても無駄なことを、短い期間の間に学んでいた。
それに、スマートフォンが無くてちょうど困っていたところだ。折角だから、ザマスはそのスマートフォンを受け取ることにした。
箱を開けて、中のスマートフォンを取り出すと、裏表をひっくり返して興味深そうに眺めた後、スマートフォンの電源をつける。
「そのスマートフォンの名義はオレになっている。ちょっと色々設定することがあったから、初期設定はすませているぞ」
ハーツが金を出して買ったのだから、当然だろう。
ザマスは特に気にしなかった。
ハーツが横で、流れる水のようにスマートフォンの説明をするが、スマートフォンに詳しくないザマスはちんぷんかんぷんだった。
「ハーツ、もういい。これ以上は、頭が爆発しそうだ」
「これは失礼。喋りすぎたな」
「高機能というのも考えものだ。何が何やらわからなくなる」
「普段、どれくらいスマートフォンを使っているんだ?」
「電話やメッセージのやり取り、調べものにネットを使うくらいだ」
「使いこなすと便利だぞ。家にいながら買い物や映画の予約とかできるんだからな。
――そうだ。面白そうな映画を見つけたんだ。今度、ザマスの都合がいい時に、一緒に見に行かないか?」
ザマスは呆れ顔で、
「遊んでばっかりだな、お前は」
「ミステリー映画は嫌いか?」
「そうじゃない。こうも毎日、遊びで散財していいのかと聞いているんだ。というか、そもそも店はいいのか、店は」
当初は、店を手伝って貰うと言っていたハーツだったが、未だにザマスは何も手伝っていない。
「心配しなくていい。ここに来るついでに、隣の店でしなければならないことはしている。それにどうせ、客は来ないしな」
「商売をする気はあるのか。というか、私が店の手伝いをするという話はどうなった?」
「もちろん、手伝って貰うつもりだが、まだ無理しない方が良いだろう」
「問題ない。もう松葉杖もいらないくらいに回復している」
ザマスは、退院してからリハビリ目的で別の病院に通院しており、リハビリが休みの日も自宅で自主的に体を動かしている。
そのおかげか、それともザマスの回復力のおかげか、身体機能の改善は著しい。
早々に松葉杖はいらなくなり、リハビリ病院の関係者も、目を見張らんばかりに驚いている。
「君がそう言うなら、店のことを説明しようか」
ハーツは立ち上がると、ザマスも後に続いた。
ハーツが経営する観葉植物を主に取り扱っている雑貨店は、ザマスが現在、住んでいる部屋の隣にある。
マンションの一室を借り上げて、そこを店にしているのだが、開店時間は11時から夕方の18時までで、月曜と火曜日は休み。あと、店長の気が乗らなければ休み。しかも、オートロックのマンションなので、来店するには予約が必要という、かなり敷居の高い店だった。
「メインは、ネットでの販売だ。直接の対応はともかく、ネットでの受付自体は二十四時間やっている」
ハーツに促されて店に入る。
同じマンションの一室なだけあって、部屋の間取りは同じだ。多肉植物が飾られた玄関から短い廊下を通ってリビングに入る。ハーツの後にザマスが続いた。
リビングは、真夏に締め切っているというのに、ひんやりしている。辺りを見回せば、エアコンが稼働していた。
ハーツが言うには、熱さに弱い観葉植物のために、エアコンは二十四時間稼働させているらしい。
一瞬、ザマスの脳裏を『電気代』という単語が横切ったのだが、店を経営するならこれは必要経費なのだろう。普段のハーツの様子を見るに、電気代も稼げているのかは甚だ疑問なのだが。
リビングの扉の両脇には、人の背丈ほどもあるオリーブの木が飾られ、中央とその両脇の机には、陶器やポットに植えられた無数の観葉植物が、綺麗にディスプレイされていた。
ザマスが住んでいるところと同じ作りの部屋だというのに、この一室には生活感はなく、モデルルームのような洗練された雰囲気でありながら、緑に囲まれているので、どこか清々しい気分に浸ることができる。
ザマスが見たところ、売られている観葉植物は、手のひらサイズのものから、抱えるのもひと苦労な大型のものまで様々だ。飾られた観葉植物の前には、真鍮のプライスタグに入った値札が置かれていた。
ザマスでも問題なく購入できるものから、一番高い額の紙幣を数枚必要とする物まで、値段も様々だ。
ザマスが物珍しそうに、小さな陶器の皿に飾られた苔玉を眺めていると、
「それが気に入ったのか? あとで部屋に送っておくよ」
ハーツがさらりとそんなことを言う。
ザマスが何か言う前に、ハーツはダイニングの説明に移った。
リビングから続いているダイニングには、店に来た客と商談するための洒落た木製のダイニングテーブルが設置され、すぐ隣のキッチンカウンターには、サイフォン式のコーヒーメーカーが用意されていた。店に来た客にコーヒーを提供するためだと、ハーツは語る。
「ドリップ式ではなく、サイフォン式のコーヒーメーカーを用意したのは、非日常感を演出するためだ。こうやって、家では味わえないようなインテリアを、客は好む傾向があるからな」
部屋の中は、綺麗に掃除が行き届いていて、なるほど、『しなければならないことは、している』という言葉は嘘ではなかったらしい。
ザマスは内心、普段は遊んでばっかだが、一応、仕事はしているんだなと、上から目線の評価をハーツに下した。
「遊んでばかりではなく、ちゃんと仕事もしていることを、認めて貰えたようだな」
「!」
ザマスは今まさに、心の中で思っていたことを言い当てられて、心臓が跳ねるほどに驚いた。
「庭の説明をしよう。こっちに来てくれ」
「あ、ああ……」
心臓の鼓動が収まらないまま、ザマスはハーツの後について行く。
――前々から感じていたのだが、どうやらハーツは随分と勘が鋭いらしい。正直、勘が良すぎて、心を読まれているのではないかと思うくらいだ。
食えない男だと思いながら、ザマスは庭先に置いてあったベランダサンダルに履き替えると、ウッドデッキに降り立った。
この部屋は専用庭付きなので、リビングの大窓から外に出ればウッドデッキに降り立つことができる。
ウッドデッキには、日が当たることを好む観葉植物が並べられ、デッキの向こうには、やや芝が伸び気味の芝生が広がっていた。
実は、ザマスの住んでいる部屋も、専用庭付きで同じウッドデッキとベンチが設置されていた。
以前、ハーツは事務所兼倉庫にするつもりで隣の部屋を借りていたと言っていたので、店に展示できなかった観葉植物を並べるつもりだったのだろう。
「うちは、要予約制だから、事前に予約があった客しか来ない。客の応対はオレがするから、ザマスは……そうだな、観葉植物への水やりとか、部屋の掃除とかを手伝って貰おうか。
あと、手が空いたらメールの対応も頼む」
「それだけでいいのか?」
「他に手伝って貰いたいことがあったら、その都度、説明する」
二人はいったん、部屋に戻る。
ウッドデッキの上空は、日除けのためのシェードと呼ばれる厚い布で覆われているのだが、それでも十数分経っているだけで、背中がじっとり汗ばんでしまった。
ひんやりと冷やされた部屋で涼みながら、ザマスはハーツからひとつひとつ、観葉植物について説明を受けた。
ひとくちに観葉植物と言っても、たっぷり水をやる必要がある植物もあれば、霧吹き程度でよいものもある。
一応、グリーンインテリア店の店長をやっているだけあって、ハーツの知識は広く深く、そして、よどみなく紡がれる説明はわかりやすい。
一通り説明を聞いて回ると、時間は既に夕方になっていた。
「ザマス。ちょうど、明日、オレは用事があって昼間はここに来ることができないんだ。
よければ、水やりを頼む。わからなかったら、そのままにしておいてくれ。夜には来るつもりだ」
「奇遇だな。私も明日は用がある。
昼間は家に居ないと、お前に伝えようと思っていたところだ」
その瞬間、ハーツは驚いたようにザマスの方を振り向いた。
「どこかに出かけるのか?」
ハーツがあまりにも驚いた顔をするので、ザマスは眉をひそめながら答える。
「午前中はリハビリに行って、その後、大学院に向かうつもりだが、それがどうかしたか?」
「どうしたもこうしたもあるか。まだ、完治してないのにひとりで出かけるつもりか?
危険すぎる。その用事、明後日に延ばせないのか?
明後日なら、オレが車で連れていってやる」
ザマスは、そんなことかと、拍子抜けすると、
「大丈夫だ。短時間の外出ならひとりでも問題ない」
「しかし……」
ハーツは一瞬、言い淀んだ後に、意を決して言葉を紡いだ。
「君は、一度殺されかけているんだぞ? しかもまだ、犯人は捕まっていない」
「……」
ザマスの顔から、すっと表情が消えた。
あの轢き逃げ事件は未だ解決していない。怪しい人物まで絞れたのだが、そこから先を踏み出すための情報が足りていないのだ。
警察は、どうも被害者であるザマスが目を覚ませば、事件解決の為の手がかりが得られるのではと期待していたようだが、結局、有力な手がかりが得られず落胆していた。
落胆したいのはザマスの方だ。
あれだけ仰々しくザマスを聴取しておきながら、結局、警察は怪しい人物が、院長、教授、社長のいずれかしかわかっていないのだから。
「だから、悪いことは言わないから、用事を明後日に延ばせ」
「ハーツ」
ザマスの声が、鋭くなっている。
「お前の考えは理解したが、私は明日行くと決めたのだ。体は問題ないと言っただろう。
仮に、不届き者が再度、私の命を狙うつもりなら好都合だ。返り討ちにしてやる」
「その考えは無謀だ」
「それに、行き帰りはタクシーを利用する。以前と同じ轍は踏まない」
「ザマス」
ハーツの表情が、険しくなった。
「同じ事を聞くが、その用事は、どうしても明日でなくては駄目なのか?」
「明日、大学院に顔を出すと事務に伝えている。それに、研究論文を書くために、大学院の図書館に行かなければならない」
「オレには、明後日でも問題ないように聞こえるが……」
「勝手なことを言うな」
ザマスの声が、さらに凄みを帯びた。
「一ヶ月近くも入院していたせいで、研究論文の作成が滞っているんだ。論文が完成しないと、博士号取得のためのスタートラインにすら立てない。
明日でなくては駄目なのだ」
ザマスとハーツの視線が交錯する。
重苦しい沈黙の中、先に折れたのは、ハーツの方だった。
ハーツは溜め息をつくと、
「わかった。君の事情もわからず、押しつけがましいことを言ってしまった。ただ、君を心配していることは、理解してくれ」
その言葉を聞いたザマスも肩の力を抜くと、
「わかっている」
「それならいい。明日、大学院に行くのは止めないが、スマートフォンだけは絶対に忘れずに持っていくんだ。
何かあったらオレに連絡しろ。すぐに迎えに行く」
「心配性だな、お前は」
ハーツが保護者のように矢継ぎ早に話すので、ザマスは思わず苦笑した。
ハーツは、笑われたことに少々むっとしながら、
「人の心も知らないで」
「悪かった。機嫌を直せ」
そう言いながら、ザマスはくるりと踵を返して、自分の部屋へと戻っていく。
隣の家に向かうザマスの背中を見つめていたハーツは、誰にも聞こえないくらい小さな声で、ぽつりと呟いた。
「ちょうどいいタイミングだったな」
ハーツの脳裏を、以前ゴワスと交わした会話が横切った。
ゴワスにザマスを引き取りたい旨を告げた時、当たり前だが断られた。
だが、ハーツは持ち前の話術で根気よくゴワスを説得していくと、ハーツの熱心さに心を打たれたのか、最初はハーツに対して警戒心を見せていたゴワスも、徐々に態度がほぐれていった。
ハーツは、『ザマスは命を狙われている。もしかしたら、犯人は退院したあともザマスの命を付け狙うかもしれない。なら、貴方の家に帰るより、犯人も知らないオレの家に来た方が安全だ』と言って、ゴワスを説得した。
だが、ゴワスはハーツの説得に同意できる部分はあると理解を示しつつも、それでも頑なに首を縦に振らなかった。
拒む理由を聞かれても、決して喋らなかったゴワスだが、その理由を、ハーツが言い当てた途端、弾かれたように顔を上げた。
まるで、心を読んだかのように、己が考えていたことを言い当てられたゴワスは、しばらく驚愕の表情を浮かべたまま、呆然とハーツの顔を見たあと、やがて、腹を括ったかのように語り始めた。
「……君の言うとおりだ。
私が、ザマスを自分の監視下に置こうとしているのは、彼が罪を犯すのを止めたいからだ。
ザマスは、悪人と断定した人物に危害を加えることに躊躇いがない。ザマスが警察よりも早く犯人を見つけ出してしまったら、きっと殺してしまうだろう。
君は、それを阻止してくれるというのか?」