第三話 事件の背景(6月26日 金曜日)
晴れた空の元、都会を縦横無尽に走る車達に混じって、一台のパトカーがアスファルトの上を駆け抜ける。迷い無く走り進めていった先で、パトカーは止まった。
辿り着いたのは、広大な敷地の中に複数の棟を持つ大学院併設の私立大学である。
車のドアを開けて外に出たゴジータは、辺りをぐるりと見渡した。
大学、大学院関係のキャンパスの他に、十字架を掲げたチャペルが見える。大学の施設内にチャペルがあるのは、この大学がキリスト教の教えを教育の基本理念に据えているからだそうだ。
高校を卒業してすぐに警察学校に入学したゴジータにとって、大学と言う場所に馴染みがない。世間一般の大学というものを知らない彼だが、それでも大学の中に、宗教関連の施設があるのは、何度見ても不思議な感じがした。
しかも、チャペルは改装工事をしているようだった。遠目から見た限り、チャペルはまだ新しいように思える。
ゴジータは不思議そうな顔をしたが、すぐに意識はチャペルから逸れた。
運転をしていた後輩の警官が車から出てきたのを確認すると、ゴジータは大学院の事務所へ向かって歩き出す。
平日の午前中のこの時間、辺りにはそれなりに人が行き交っていた。学生らしき人間や、散歩に来ている近隣住民とおぼしき人々も混じっている。
通行人達は、制服を着たゴジータ達に、ちらちらと視線を投げかけてくるが、緊張した面持ちの後輩警官はともかく、ゴジータは気にもとめずに悠然と歩いて行く。
ゴジータの相方は、今年、ゴジータのいる交通捜査係に配属された新人だ。新人と言っても、別の警察署の地域警察課に卒業配置されて、二年程度勤めた後の移動なので、全くの新人というわけでもない。
その割に聞き込みに行く時や、暴力沙汰を収めに行く時などはよく緊張し、時には手が震えていることもあるので、ゴジータは内心、よくそんな臆病な性格で警官になることができたな、と呆れていた。
もっとも、この評価もゴジータの周りにいる警官から言わせれば、乱闘騒ぎがあると通報があれば目を輝かせるお前がおかしいだけ、らしいが。
ゴジータの少し前を、初老の飼い主に連れられたポメラニアンが、とことこ歩いている。
最初は、学内の施設を物珍しげに眺めて歩いていたゴジータだが、いつしか視線はポメラニアンに向けられる。
だが、唐突にその歩みがぴたっと止まった。
道の先で佇む二人の男性を、ゴジータは眉間に皺を寄せながら見据えた。ひとりは老境に入ったと言っても差し支えのない年齢の男性、もうひとりは三十代半ばの男性が、親しげに立ち話をしている。どちらの顔にも見覚えがあった。
ゴジータが声をかける寸前、若い方の男――ハーツがゴジータに気づき、親しそうに声をかけてくる。
「やあ、また会ったな」
「なんで、あんたがここにいるんだ」
「仕事だ。注文の品を届けに来た」
ハーツは手に持っていた、大きな麻の手提げ袋を広げて、中を見せてきた。
見た目からして重そうな袋の中に入っていたのは、太くて丸い木の幹から丸くて肉厚な葉が森のように生えている観葉植物だった。
そういえば、観葉植物を扱う店をやっていると言っていたなと、ゴジータが昨日の会話を思い出していると、二人のやり取りを見ていた老境の男が、怪訝そうな顔でゴジータの方へ話しかけてきた。
「失礼だが、身分を確認してもよいですかな?」
「こういうものだ」
ポケットから取り出した警察手帳を見せつつ、所属と名を告げる。
するとその男は納得したように、
「今朝、うちの大学院の事務に電話してこられたのは、あなたですね」
「ああ。この大学院の院長に会いたい」
「院長は私です」
間髪入れずに院長だと名乗った男は、背筋を伸ばしてはっきり答えた。態度が硬い印象を受けるのは、警察に対して威嚇しているからか、それとも単に緊張しているからか。
警察を警戒したり、露骨に敵意を見せたりする人間は珍しくない。後輩の警官は、戸惑った様子だったが、ゴジータは特に驚きもせずに淡々と、
「なら、今から話を聞きたい。いいか?」
ゴジータのぞんざいな物言いを聞いた院長は、眉をひそめた。
「どうぞ」
隣の後輩警官は気まずそうな顔をしている。
院長はハーツの方を振り返ると、
「では、すまないが、これで失礼させて頂く。配達してくれてありがとう」
「どういたしまして」
ハーツから荷物を受け取った院長は、ゴジータ達を促しながら、大学院の建物へと向かう。後輩警官がハーツの前を通り過ぎる寸前、
「君も大変だな」
ハーツが小声でそう言うと、後輩警官は驚きながらも困ったような笑みを浮かべる。そして、ゴジータが自分を睨んでいるのに気が付き、慌てて後を追ったのだった。
大学院のトップを勤めている院長は、口ひげを蓄えた目の細い男だった。あと数年で高齢者に区分されてしまう年だが、背筋は伸び、動きは素早い。
院長室に通されたゴジータとその後輩警官は、院長に促されるまま来客用のソファに並んで座る。院長自身は向かいのソファに座らず、執務机の上にある内線電話でどこかに電話していた。その最中、秘書とおぼしき初老の女性が、麦茶の入ったグラスをお盆に載せて部屋に入ってくる。
「どうぞ」
表面に水滴が付いたグラスに、たっぷり注がれた麦茶。見るからに冷たそうな麦茶を、ゴジータと後輩警官は礼を言って頂いた。
夏になって半袖になったとは言え、警察官の制服は暑い。一気に半分ほど飲んだところで、ゴジータは院長室を見回した。
院長室に入ってまず目についたのは、無数の観葉植物だった。院長室の執務机は勿論、壁際には、人の背丈ほどもある高さの専用棚を設けて植木鉢が並べられている。部屋に観葉植物を飾るのは珍しくないが、流石にこの数は多すぎじゃないかと、目の前のローテーブルの上に飾られた苔玉を眺めながら、ゴジータがそんなことを思っていると、ゴジータの様子を察した秘書が説明をしてきた。
「院長は観葉植物が大好きで。」
「その割に、随分と数が多いな」
「緑に囲まれていると仕事が捗るそうなんです。あの棚とか、わざわざ観葉植物を飾るためにあの辺りをリフォームして備付けたんですよ」
最下段から最上段まで観葉植物の鉢で埋められたその棚は、木製のオープンラックで、上段に光量不足を補うためのライトが備付けられていた。
この院長室は、床一面に絨毯が引かれているのだが、その棚の周囲だけは円形に切り取られていて、床材が見えている。
そのような形の絨毯が市販されているとは考えにくいので、わざわざ特注したのだろう。
いや、秘書があの棚の辺りをリフォームしたと言っているので、もしかしたら床材や壁にも手を加えているのかもしれない。そう考えながら改めて、観葉植物が並んでいる棚の床は、普段よく見るような床材とは異なって見えた。
……随分、金に余裕のあることで。
ゴジータが感心したような呆れたような面持ちで部屋を見回していると、電話を終えた院長が向かい側のソファが座った。秘書はそのソファの背後に立って控えている。
「彼に関する話を聞きたいと聞いています。今、彼のことをよく知っている教授を呼びましたので、しばらくお待ちください」
彼、というのは勿論、この間、轢き逃げにあったこの大学院の院生、ザマスの事だ。
「どうも。その教授とやらがやって来るまでに、いくつか質問しても?」
「どうぞ」
院長の返答は素っ気ない。ゴジータ達に対して、良い印象を抱いていないのは明らかだった。
「聞いての通り、先週の土曜日の12時30分頃、ここの大学院に所属している院生が轢き逃げ事件に遭った。轢き逃げに使われた車は、この大学の駐車場に駐めてあった車だった事がわかっている。
何か心当たりはあるか?」
院長は眉根を寄せると、
「失礼ですが、質問が漠然としていて、わかりません。心当たりとは、具体的に何を聞きたいのでしょうか?」
「車を盗んだ犯人に、心当たりはないか?
大学の敷地内で起きた盗難事件なら、犯人は大学や院の関係者の可能性もあるし、そいつが、例の院生を轢いた犯人である確率も高い」
院長の眉がぴくっと跳ねた。院長は重々しく首を横に振ると、
「いいえ、心当たりはありません。そもそも、私はその轢き逃げ犯がこの大学に関連する人物とは、俄に信じられません」
「車を盗まれた人物はこの大学のOBで、当時は、オープンキャンパスの手伝いのため、在学生とともに行動していた。
車だけではなく、バッグに入れていた車の鍵も盗まれているし、犯人が大学に関連している可能性は大いにあるだろう」
「刑事さんの言うこともわかりますが、この大学と院はキリスト教に基づいた教育を理念にしています。
皆、神の教えに従って生活している真面目な学生や院生達がほとんどです。そのような者達が、他人の財産を盗むような悪辣なことをするとは、私には思えないです」
「神の教えとやらがあれば、人間全部が品行方正になるなら警察はいらないだろ。現に、車を盗んでいる奴がいるのは間違いねぇんだ」
「た、確かにそうですが……」
ゴジータのはっきりとした口調に押されたのか、院長はやや戸惑いつつも、
「その日はオープンキャンパスが開催されていた日なので、いつもより多くの部外者がこの学内を出入りしてました。人を疑うのは不本意ですが、部外者の方の中に、不届き者がいたかもしれないじゃないですか」
「まあ、確かに。一理ある」
ゴジータはあっさり引き下がると、質問を変えた。
「そういえば、あんたは普段から、轢き逃げされた被害者と、揉めていたらしいな?
何を揉めていたのか、詳しく聞かせて貰えないか?」
院長は血相を抱えると、
「揉めていたなんて……! 誰がそのようなことを」
「色々と聞き込みをした結果、あんたと被害者が大声で怒鳴り合っている場面を、見た人間がいたんだよ」
「っ!」
院長は息を呑む。この情報は、盗難車の持ち主に事情聴取をしてわかった情報だ。
車が盗まれた場所は、被害者が所属していた大学院。何か関連がないかと車の持ち主に被害者の事を尋ねたところ、直接は知らないがと前置きをしながら、先程のことを教えてくれた
「で、何を話したんだ?」
院長は言葉を飲むと、渋々と言った口調で、
「……内容まで話さなければなりませんか?」
「任意だから強制はしない。ただ、警察に話したくないことがあるんだな、と思うだけだ」
「……」
院長の視線が鋭くなり、敵意が籠もる。
隣の後輩警官が、慌ててゴジータを諫めるように肘で小突いてくる。剣呑な瞳でゴジータを見据えていた院長だが、やがて深く溜め息をつくと、
「彼とは、よく大学院の神学部研究科について話していました」
「もっと詳しく」
「この国が少子化の道を辿っているのはご存じでしょう。
残念ながら当大学院もその煽りを受けてか、入学希望者が少なく、ここ数年定員割れを起こしている研究科があります。
特に、神学部の研究科はそれが顕著なため、規模を縮小しようという案が出ているのです。彼はそれに反対でした」
「それで、揉めたと?」
「いえ、揉めたなんて……!」
院長は慌てた様子で首を振る。
「わ、私に揉めていたという認識はありません。ただ、その、お互い神学部の将来について真剣に議論をしていたので、彼に使用した言葉が周りの人には強く聞こえることがあったかもしれません」
……それを揉めたと言うんだよ。
内心、ゴジータは突っ込んだ。
「具体的にどんな会話だったか言えるか?」
「彼と神学研究科について議論したのは、今回が初めてではありません。 彼の主張はいつも通り『神の教えを研究する為の崇高な場を、縮小するのはあり得ない』と」
「へえ。熱心な学生だな」
「確かに、彼はキリスト教徒としても院生としても熱心でした。信仰心は厚く、意欲的に研究に取り組んでいます。聡明な彼ですが、神学部の縮小は納得して貰えませんでした」
「あんたは、その院生になんて言ったんだ?」
「いつも通りです。『そうは言っても、院生が集まらなければ、運営は成り立たない。どうしようも無いんだ』と」
こんこん。
その時、院長室の扉がノックされた。そばに立って控えていた秘書が、扉を開けて応対する。
「院長、来られました」
「入って貰いなさい」
秘書が院長室の扉を開けると、ひとりの老人が入ってきた。
ゴジータ達に一礼して院長の隣に座る老人の顔には、長い年月を思わせる深い皺が刻まれている。その瞳には知性の輝きが灯り、老成した落ち着きを纏った姿は、指導者の名にふさわしい佇まいだった。
院長が、隣に座った老人の紹介を始めた。
「こちらが、先程お話しした、当大学院の神学部に所属する教授で……」
「初めまして」
院長の言葉を引き継いで、ゴワスと名乗った教授が頭を下げて挨拶をした。ゴジータは意外そうに目を丸くした。部屋に入ってきた時から、どこかで見たことがあると思えば。
ゴワスも、頭を上げてゴジータの顔を真っ正面から見た瞬間、ゴジータに気が付いた。
「貴方は、事件の時、病院に来られた警察の方ですね?」
「ああ。あの時はどうも」
轢き逃げ事件の被害者が病院に運び込まれた直後、事件を捜査するために交通課の警察が病院に派遣された。
その時の警官がゴジータであり、被害者の縁者として警察の応対をしたのがゴワスだった。
そういえば、教授だと言っていた気がする。
あの時は、被害者の背景は重視していなかったので、被害者の背後関係は調査していなかったから、同じ院に所属しているとは知らなかった。
確か、被害者の両親は既に事故で他界しており、ゴワスが親代わりであると言っていたはずだ。
「被害者の事について、聞きたいんだが……」
「なんなりと。何をお話しすれば?」
「どんな人間だった? 噂じゃ、周りとトラブルを起こしてばかりだったと聞いているが」
盗難車の本来の持ち主から聞いた情報である。
ゴジータがそう質問した途端、ゴワスは苦虫を噛み潰したような表情になる。
「……ええ、残念ながら。彼は優秀なのですが、実直なところがありまして」
「具体的には、どんなトラブルが?」
事前の調査で、神学部縮小の件と論文盗用の件で、被害者が色々とトラブルを起こしていた事は知っている。
だが、ゴジータはあえて何も言わずにゴワスに尋ねた。
ゴワスは困ったように眉根を寄せると、
「具体的にと言いますと……口論していた相手から、刃物で刺されそうになったのを、返り討ちにした件とかを、お話しすれば良いですか?」
おおっと。予想外な奴が来た。
ゴワスの爆弾発言を聞いた院長も、途端に慌てた様子で、
「ゴワス教授! それは、もう終わった話でしょう!」
「刃物とはまた物騒だな。それは警察に言ったのか?」
ゴワスに尋ねたつもりだったが、答えたのは院長だった。相当焦っているらしく、身振り手振りを交えて話しているが、動きが多すぎて挙動不審と言っていいくらいだった。
「そ、それは話し合いで解決したので! 双方も納得したので、こちらとしても不問としたのです!」
「へえ。ちなみに相手はどんな奴なんだ? 口論で刃物を持ち出すのは頂けないな」
「それは、えっと……」
院長が迷っていると、ゴワスが口を開いた。
「同じ神学部研究科に所属する院生です。
ザマスとは折り合いが良くなかったので、度々衝突していました。
ただ、そのトラブルのあと、彼と話したのですが、いくら激昂したとはいえ、刃物を持ちだして相手を傷つけるような真似をしたことを、非常に悔いていました」
「一応、そいつの名前も教えてくれるか?」
ゴワスは一瞬、躊躇う様子を見せたが、やがて名を告げた。ゴジータは教えられた名前を手帳に書き込むと、パタンと閉じる。
「被害者は警察に通報しないことに、同意しているのか?」
「ええ。ザマスの反撃は、やり過ぎた面もあります。
彼自身、警察沙汰になったら、正当防衛ではなく、過剰防衛が適応される可能性もあると気づいたらしく、お互いに不問とすることに同意しました」
「過激だな」
ゴワスは目を伏せると、
「刃物を持って他者に害をなそうとしたことは、許されることではありません。
本人も二度とそのような真似はしないと反省しているので、私どもとしては警察に通報せず、彼に改心する機会を与えたいのですが……厚かましい願いだとは重々承知していますが、今しばらく、見守っては頂けないでしょうか?」
「被害者が納得しているなら、こちらも積極的に動く気は無いから心配するな。
それにしても、刃物を持った人間を返り討ちか。被害者は中々、腕が立つようだな」
「ええ。彼は武道の成績も優秀だったので」
「強いのか?」
「かなり。幼少の頃から武道を学んでいるので、腕前は抜きん出ています」
「戦ってみてぇな」
ゴジータはにやっと笑う。その瞳に好戦的な光が灯った。
そして同時に、先程よりも強めに後輩警官に小突かれる。仕事中なのだから、強そうな相手を見つけたからって、手合わせを願うのは後にして欲しい、という意味だろう。口には出していないが。
ゴジータは煩わしそうに後輩警官の肘を払いのけながら、
「そういえば、論文の盗用騒ぎがあったと噂で聞いたが? それに被害者も関係していたらしいとも聞いた」
「それは……!」
その瞬間、ゴワスも院長も顔色を変えた。ゴジータの瞳がすっと細くなる。
「事実のようだな」
「いえ! そんなことはありません!」
力強く否定したのは院長だった。
ゴワスは口を真一文字に結んで俯いた。ゴジータの目には、まるで言うべき言葉を飲み込んでいるようにも見える。
院長はなおも釈明する。
「確かに、不本意ですが、そのような噂が流れていたのは承知しています。
ですが、それは全くの誤解です。当事者同士でも、話し合いで誤解だったと決着が付いています」
「一応、こっちは話を聞きかじっただけで、事情は詳しくしらねぇんだ。いちから教えてくれるか?」
「それは……その……そもそも、これは事件に何か関係があるのでしょうか?」
「今更か?
轢き逃げ犯が被害者に恨みを持っていた可能性が出てきたから、被害者とトラブった人間を調べてるんだよ」
「そう……なんですね」
院長は落ち着き無く視線を彷徨わせていたが、やがて覚悟を決めたように腹に力を込めた。
「……わかりました。
我が大学院の神学研究科には、五名の教授がいるのですが、その内のひとりが、隣にいるゴワス教授の論文を盗用したというのが噂の内容です」
「で、それは事実ではなかったと?」
ゴジータは院長ではなく、真っ直ぐゴワスの方を向いて問いかけた。
ゴワスは、少しの沈黙の後、重苦しい口調で、
「……はい。その通りです」
「へー。ちなみにその噂を言い出したのは?」
「おそらく、ザマスかと」
「なんで被害者は、そんな噂を流したんだ?」
ゴワスはちらりと隣の院長の様子を窺った。
院長は、緊張した面持ちでゴワスの顔を眺めている。まるで、ゴワスが余計なことを言わないように見張っているようだった。ゴワスは口を開くが、その様子は、余計なことを言わぬよう、慎重に言葉を紡いでいるように見えた。
「流したと言うよりは、ザマスの言動が、噂になったというのが正しいでしょう。
私は彼とよく神学の議論を行います。その時、私は、自分が作成している論文に関係する話題や考察を彼に話すことがあるのです。
どうやら、ザマスは件の教授の論文を読んだ時、論文の内容が私が話していたことと非常に似ていた事から、件の教授が私の論文を盗用したのだと思ってしまったようなのです」
「で、それは違ったと」
「……はい。同じ分野の研究者ですので、考えが似通ってしまうこともあります。それで、ザマスも勘違いしてしまったのでしょう」
「へー」
「……」
冷めた目で見つめるゴジータから逃れるように、ゴワスは気まずそうな顔をして顔を背けた。
その後、ゴジータは話題を掘り下げてみたのだが、ゴワスあるいは院長は頑として『解決済み』という姿勢を崩さなかった。
……周辺から探るしかないか。
院長とゴワスからこの件を引き出すのは無理と判断したゴジータは、話題を変えた。
「他に、被害者が関係するトラブルは何かあるか?」
ゴワスは困惑したように、
「他と言うと……どれから言えば良いのか」
……まだあるのかよ。
「取り会えず、全部話してくれるか?」
――そう言って、全部、話させたら聴取に二時間かかった。
「どんだけトラブルを起こしてんだよ! こいつは!」
トラブルが起きた人物の名前を手帳に書き込みつつ、ゴジータは思わず叫んだのだった。
後輩警官がゴジータの口調を注意する意味で、また肘で小突いてくる。 その肘を払いのける気力も無くなったゴジータは、うんざりしながら自分の手帳を眺めた。
手帳の両面がびっしり埋まっている。
……誰がこいつらから話を聞くと思ってんだ。
交通捜査課の現在の方針は、被害者の周囲を探る、である。
当然、トラブルを起こした人間は片っ端から調べていかないと行けない。ゴジータは、今から聴取にかかる手間を考えて、うんざりとした溜め息を付いたのだった。
ゴワスも困り果てた様子で、
「ザマスは我が強い性格で……」
「キリスト教を信じている奴の言動とは思えねぇな」
「そう思われても仕方が無い」
ゴワスはぬるくなった麦茶を啜りながら、そう呟いた。
「彼は、心から神の存在を信じ、神の御心に従って生きていきたいと強く願っている。
ただ、そのやり方が、あまりにも周りの人たちを無視したものであるから、他人との軋轢が絶えない。
私としては、根は真面目で実直な彼が、もう少し思いやりを持てば、良き指導者になれると思うのだが……」
二時間も話している間に粗雑なゴジータの口調につられてか、ゴワスの口調も変わっていた。おそらくこちらが本来の口調なのだろう。ゴジータは特に気にしなかった。
「神を信じている奴が、ここまでトラブルを起こすのかよ。キリスト教は詳しくないが、あれだろ? 隣人を愛せよとか、そういう感じの」
「……神学には、神はどういうお方で、何を考えていらっしゃるかを研究する分野がある。
だが、研究者ごとに解釈や考察が違うように、人によって『神』という存在の受け止め方は異なっている。『神』は唯一でありながら、『神』を認識するものの見方によって変化する。
つまり、私には私の、ザマスにはザマスの『神』がいる」
突然、始まったゴワスの講義を聴いて、ゴジータは訝しげに思いつつも、黙ってその話を傾聴した。
経験上、相手が喋りだした時は、喋らせておいた方が、重要なことが聞ける可能性が高いからだ。
ゴワスは、自分の膝に視線を落としながら、
「ザマスの育ての親であり、同じキリスト教徒である私が言うのも何だが、ザマスの神を信じる心とその信仰心は、狂信的と言って良いほどに深く……危険だ」
ゴワスは言いにくそうに口籠もった後、やがてその言葉を紡ぐ。
「ザマスは、神の理想の世界を創るため、神の意志にそぐわない人間は死んでしかるべきだと、心の底から信じているのだ」
辿り着いたのは、広大な敷地の中に複数の棟を持つ大学院併設の私立大学である。
車のドアを開けて外に出たゴジータは、辺りをぐるりと見渡した。
大学、大学院関係のキャンパスの他に、十字架を掲げたチャペルが見える。大学の施設内にチャペルがあるのは、この大学がキリスト教の教えを教育の基本理念に据えているからだそうだ。
高校を卒業してすぐに警察学校に入学したゴジータにとって、大学と言う場所に馴染みがない。世間一般の大学というものを知らない彼だが、それでも大学の中に、宗教関連の施設があるのは、何度見ても不思議な感じがした。
しかも、チャペルは改装工事をしているようだった。遠目から見た限り、チャペルはまだ新しいように思える。
ゴジータは不思議そうな顔をしたが、すぐに意識はチャペルから逸れた。
運転をしていた後輩の警官が車から出てきたのを確認すると、ゴジータは大学院の事務所へ向かって歩き出す。
平日の午前中のこの時間、辺りにはそれなりに人が行き交っていた。学生らしき人間や、散歩に来ている近隣住民とおぼしき人々も混じっている。
通行人達は、制服を着たゴジータ達に、ちらちらと視線を投げかけてくるが、緊張した面持ちの後輩警官はともかく、ゴジータは気にもとめずに悠然と歩いて行く。
ゴジータの相方は、今年、ゴジータのいる交通捜査係に配属された新人だ。新人と言っても、別の警察署の地域警察課に卒業配置されて、二年程度勤めた後の移動なので、全くの新人というわけでもない。
その割に聞き込みに行く時や、暴力沙汰を収めに行く時などはよく緊張し、時には手が震えていることもあるので、ゴジータは内心、よくそんな臆病な性格で警官になることができたな、と呆れていた。
もっとも、この評価もゴジータの周りにいる警官から言わせれば、乱闘騒ぎがあると通報があれば目を輝かせるお前がおかしいだけ、らしいが。
ゴジータの少し前を、初老の飼い主に連れられたポメラニアンが、とことこ歩いている。
最初は、学内の施設を物珍しげに眺めて歩いていたゴジータだが、いつしか視線はポメラニアンに向けられる。
だが、唐突にその歩みがぴたっと止まった。
道の先で佇む二人の男性を、ゴジータは眉間に皺を寄せながら見据えた。ひとりは老境に入ったと言っても差し支えのない年齢の男性、もうひとりは三十代半ばの男性が、親しげに立ち話をしている。どちらの顔にも見覚えがあった。
ゴジータが声をかける寸前、若い方の男――ハーツがゴジータに気づき、親しそうに声をかけてくる。
「やあ、また会ったな」
「なんで、あんたがここにいるんだ」
「仕事だ。注文の品を届けに来た」
ハーツは手に持っていた、大きな麻の手提げ袋を広げて、中を見せてきた。
見た目からして重そうな袋の中に入っていたのは、太くて丸い木の幹から丸くて肉厚な葉が森のように生えている観葉植物だった。
そういえば、観葉植物を扱う店をやっていると言っていたなと、ゴジータが昨日の会話を思い出していると、二人のやり取りを見ていた老境の男が、怪訝そうな顔でゴジータの方へ話しかけてきた。
「失礼だが、身分を確認してもよいですかな?」
「こういうものだ」
ポケットから取り出した警察手帳を見せつつ、所属と名を告げる。
するとその男は納得したように、
「今朝、うちの大学院の事務に電話してこられたのは、あなたですね」
「ああ。この大学院の院長に会いたい」
「院長は私です」
間髪入れずに院長だと名乗った男は、背筋を伸ばしてはっきり答えた。態度が硬い印象を受けるのは、警察に対して威嚇しているからか、それとも単に緊張しているからか。
警察を警戒したり、露骨に敵意を見せたりする人間は珍しくない。後輩の警官は、戸惑った様子だったが、ゴジータは特に驚きもせずに淡々と、
「なら、今から話を聞きたい。いいか?」
ゴジータのぞんざいな物言いを聞いた院長は、眉をひそめた。
「どうぞ」
隣の後輩警官は気まずそうな顔をしている。
院長はハーツの方を振り返ると、
「では、すまないが、これで失礼させて頂く。配達してくれてありがとう」
「どういたしまして」
ハーツから荷物を受け取った院長は、ゴジータ達を促しながら、大学院の建物へと向かう。後輩警官がハーツの前を通り過ぎる寸前、
「君も大変だな」
ハーツが小声でそう言うと、後輩警官は驚きながらも困ったような笑みを浮かべる。そして、ゴジータが自分を睨んでいるのに気が付き、慌てて後を追ったのだった。
大学院のトップを勤めている院長は、口ひげを蓄えた目の細い男だった。あと数年で高齢者に区分されてしまう年だが、背筋は伸び、動きは素早い。
院長室に通されたゴジータとその後輩警官は、院長に促されるまま来客用のソファに並んで座る。院長自身は向かいのソファに座らず、執務机の上にある内線電話でどこかに電話していた。その最中、秘書とおぼしき初老の女性が、麦茶の入ったグラスをお盆に載せて部屋に入ってくる。
「どうぞ」
表面に水滴が付いたグラスに、たっぷり注がれた麦茶。見るからに冷たそうな麦茶を、ゴジータと後輩警官は礼を言って頂いた。
夏になって半袖になったとは言え、警察官の制服は暑い。一気に半分ほど飲んだところで、ゴジータは院長室を見回した。
院長室に入ってまず目についたのは、無数の観葉植物だった。院長室の執務机は勿論、壁際には、人の背丈ほどもある高さの専用棚を設けて植木鉢が並べられている。部屋に観葉植物を飾るのは珍しくないが、流石にこの数は多すぎじゃないかと、目の前のローテーブルの上に飾られた苔玉を眺めながら、ゴジータがそんなことを思っていると、ゴジータの様子を察した秘書が説明をしてきた。
「院長は観葉植物が大好きで。」
「その割に、随分と数が多いな」
「緑に囲まれていると仕事が捗るそうなんです。あの棚とか、わざわざ観葉植物を飾るためにあの辺りをリフォームして備付けたんですよ」
最下段から最上段まで観葉植物の鉢で埋められたその棚は、木製のオープンラックで、上段に光量不足を補うためのライトが備付けられていた。
この院長室は、床一面に絨毯が引かれているのだが、その棚の周囲だけは円形に切り取られていて、床材が見えている。
そのような形の絨毯が市販されているとは考えにくいので、わざわざ特注したのだろう。
いや、秘書があの棚の辺りをリフォームしたと言っているので、もしかしたら床材や壁にも手を加えているのかもしれない。そう考えながら改めて、観葉植物が並んでいる棚の床は、普段よく見るような床材とは異なって見えた。
……随分、金に余裕のあることで。
ゴジータが感心したような呆れたような面持ちで部屋を見回していると、電話を終えた院長が向かい側のソファが座った。秘書はそのソファの背後に立って控えている。
「彼に関する話を聞きたいと聞いています。今、彼のことをよく知っている教授を呼びましたので、しばらくお待ちください」
彼、というのは勿論、この間、轢き逃げにあったこの大学院の院生、ザマスの事だ。
「どうも。その教授とやらがやって来るまでに、いくつか質問しても?」
「どうぞ」
院長の返答は素っ気ない。ゴジータ達に対して、良い印象を抱いていないのは明らかだった。
「聞いての通り、先週の土曜日の12時30分頃、ここの大学院に所属している院生が轢き逃げ事件に遭った。轢き逃げに使われた車は、この大学の駐車場に駐めてあった車だった事がわかっている。
何か心当たりはあるか?」
院長は眉根を寄せると、
「失礼ですが、質問が漠然としていて、わかりません。心当たりとは、具体的に何を聞きたいのでしょうか?」
「車を盗んだ犯人に、心当たりはないか?
大学の敷地内で起きた盗難事件なら、犯人は大学や院の関係者の可能性もあるし、そいつが、例の院生を轢いた犯人である確率も高い」
院長の眉がぴくっと跳ねた。院長は重々しく首を横に振ると、
「いいえ、心当たりはありません。そもそも、私はその轢き逃げ犯がこの大学に関連する人物とは、俄に信じられません」
「車を盗まれた人物はこの大学のOBで、当時は、オープンキャンパスの手伝いのため、在学生とともに行動していた。
車だけではなく、バッグに入れていた車の鍵も盗まれているし、犯人が大学に関連している可能性は大いにあるだろう」
「刑事さんの言うこともわかりますが、この大学と院はキリスト教に基づいた教育を理念にしています。
皆、神の教えに従って生活している真面目な学生や院生達がほとんどです。そのような者達が、他人の財産を盗むような悪辣なことをするとは、私には思えないです」
「神の教えとやらがあれば、人間全部が品行方正になるなら警察はいらないだろ。現に、車を盗んでいる奴がいるのは間違いねぇんだ」
「た、確かにそうですが……」
ゴジータのはっきりとした口調に押されたのか、院長はやや戸惑いつつも、
「その日はオープンキャンパスが開催されていた日なので、いつもより多くの部外者がこの学内を出入りしてました。人を疑うのは不本意ですが、部外者の方の中に、不届き者がいたかもしれないじゃないですか」
「まあ、確かに。一理ある」
ゴジータはあっさり引き下がると、質問を変えた。
「そういえば、あんたは普段から、轢き逃げされた被害者と、揉めていたらしいな?
何を揉めていたのか、詳しく聞かせて貰えないか?」
院長は血相を抱えると、
「揉めていたなんて……! 誰がそのようなことを」
「色々と聞き込みをした結果、あんたと被害者が大声で怒鳴り合っている場面を、見た人間がいたんだよ」
「っ!」
院長は息を呑む。この情報は、盗難車の持ち主に事情聴取をしてわかった情報だ。
車が盗まれた場所は、被害者が所属していた大学院。何か関連がないかと車の持ち主に被害者の事を尋ねたところ、直接は知らないがと前置きをしながら、先程のことを教えてくれた
「で、何を話したんだ?」
院長は言葉を飲むと、渋々と言った口調で、
「……内容まで話さなければなりませんか?」
「任意だから強制はしない。ただ、警察に話したくないことがあるんだな、と思うだけだ」
「……」
院長の視線が鋭くなり、敵意が籠もる。
隣の後輩警官が、慌ててゴジータを諫めるように肘で小突いてくる。剣呑な瞳でゴジータを見据えていた院長だが、やがて深く溜め息をつくと、
「彼とは、よく大学院の神学部研究科について話していました」
「もっと詳しく」
「この国が少子化の道を辿っているのはご存じでしょう。
残念ながら当大学院もその煽りを受けてか、入学希望者が少なく、ここ数年定員割れを起こしている研究科があります。
特に、神学部の研究科はそれが顕著なため、規模を縮小しようという案が出ているのです。彼はそれに反対でした」
「それで、揉めたと?」
「いえ、揉めたなんて……!」
院長は慌てた様子で首を振る。
「わ、私に揉めていたという認識はありません。ただ、その、お互い神学部の将来について真剣に議論をしていたので、彼に使用した言葉が周りの人には強く聞こえることがあったかもしれません」
……それを揉めたと言うんだよ。
内心、ゴジータは突っ込んだ。
「具体的にどんな会話だったか言えるか?」
「彼と神学研究科について議論したのは、今回が初めてではありません。 彼の主張はいつも通り『神の教えを研究する為の崇高な場を、縮小するのはあり得ない』と」
「へえ。熱心な学生だな」
「確かに、彼はキリスト教徒としても院生としても熱心でした。信仰心は厚く、意欲的に研究に取り組んでいます。聡明な彼ですが、神学部の縮小は納得して貰えませんでした」
「あんたは、その院生になんて言ったんだ?」
「いつも通りです。『そうは言っても、院生が集まらなければ、運営は成り立たない。どうしようも無いんだ』と」
こんこん。
その時、院長室の扉がノックされた。そばに立って控えていた秘書が、扉を開けて応対する。
「院長、来られました」
「入って貰いなさい」
秘書が院長室の扉を開けると、ひとりの老人が入ってきた。
ゴジータ達に一礼して院長の隣に座る老人の顔には、長い年月を思わせる深い皺が刻まれている。その瞳には知性の輝きが灯り、老成した落ち着きを纏った姿は、指導者の名にふさわしい佇まいだった。
院長が、隣に座った老人の紹介を始めた。
「こちらが、先程お話しした、当大学院の神学部に所属する教授で……」
「初めまして」
院長の言葉を引き継いで、ゴワスと名乗った教授が頭を下げて挨拶をした。ゴジータは意外そうに目を丸くした。部屋に入ってきた時から、どこかで見たことがあると思えば。
ゴワスも、頭を上げてゴジータの顔を真っ正面から見た瞬間、ゴジータに気が付いた。
「貴方は、事件の時、病院に来られた警察の方ですね?」
「ああ。あの時はどうも」
轢き逃げ事件の被害者が病院に運び込まれた直後、事件を捜査するために交通課の警察が病院に派遣された。
その時の警官がゴジータであり、被害者の縁者として警察の応対をしたのがゴワスだった。
そういえば、教授だと言っていた気がする。
あの時は、被害者の背景は重視していなかったので、被害者の背後関係は調査していなかったから、同じ院に所属しているとは知らなかった。
確か、被害者の両親は既に事故で他界しており、ゴワスが親代わりであると言っていたはずだ。
「被害者の事について、聞きたいんだが……」
「なんなりと。何をお話しすれば?」
「どんな人間だった? 噂じゃ、周りとトラブルを起こしてばかりだったと聞いているが」
盗難車の本来の持ち主から聞いた情報である。
ゴジータがそう質問した途端、ゴワスは苦虫を噛み潰したような表情になる。
「……ええ、残念ながら。彼は優秀なのですが、実直なところがありまして」
「具体的には、どんなトラブルが?」
事前の調査で、神学部縮小の件と論文盗用の件で、被害者が色々とトラブルを起こしていた事は知っている。
だが、ゴジータはあえて何も言わずにゴワスに尋ねた。
ゴワスは困ったように眉根を寄せると、
「具体的にと言いますと……口論していた相手から、刃物で刺されそうになったのを、返り討ちにした件とかを、お話しすれば良いですか?」
おおっと。予想外な奴が来た。
ゴワスの爆弾発言を聞いた院長も、途端に慌てた様子で、
「ゴワス教授! それは、もう終わった話でしょう!」
「刃物とはまた物騒だな。それは警察に言ったのか?」
ゴワスに尋ねたつもりだったが、答えたのは院長だった。相当焦っているらしく、身振り手振りを交えて話しているが、動きが多すぎて挙動不審と言っていいくらいだった。
「そ、それは話し合いで解決したので! 双方も納得したので、こちらとしても不問としたのです!」
「へえ。ちなみに相手はどんな奴なんだ? 口論で刃物を持ち出すのは頂けないな」
「それは、えっと……」
院長が迷っていると、ゴワスが口を開いた。
「同じ神学部研究科に所属する院生です。
ザマスとは折り合いが良くなかったので、度々衝突していました。
ただ、そのトラブルのあと、彼と話したのですが、いくら激昂したとはいえ、刃物を持ちだして相手を傷つけるような真似をしたことを、非常に悔いていました」
「一応、そいつの名前も教えてくれるか?」
ゴワスは一瞬、躊躇う様子を見せたが、やがて名を告げた。ゴジータは教えられた名前を手帳に書き込むと、パタンと閉じる。
「被害者は警察に通報しないことに、同意しているのか?」
「ええ。ザマスの反撃は、やり過ぎた面もあります。
彼自身、警察沙汰になったら、正当防衛ではなく、過剰防衛が適応される可能性もあると気づいたらしく、お互いに不問とすることに同意しました」
「過激だな」
ゴワスは目を伏せると、
「刃物を持って他者に害をなそうとしたことは、許されることではありません。
本人も二度とそのような真似はしないと反省しているので、私どもとしては警察に通報せず、彼に改心する機会を与えたいのですが……厚かましい願いだとは重々承知していますが、今しばらく、見守っては頂けないでしょうか?」
「被害者が納得しているなら、こちらも積極的に動く気は無いから心配するな。
それにしても、刃物を持った人間を返り討ちか。被害者は中々、腕が立つようだな」
「ええ。彼は武道の成績も優秀だったので」
「強いのか?」
「かなり。幼少の頃から武道を学んでいるので、腕前は抜きん出ています」
「戦ってみてぇな」
ゴジータはにやっと笑う。その瞳に好戦的な光が灯った。
そして同時に、先程よりも強めに後輩警官に小突かれる。仕事中なのだから、強そうな相手を見つけたからって、手合わせを願うのは後にして欲しい、という意味だろう。口には出していないが。
ゴジータは煩わしそうに後輩警官の肘を払いのけながら、
「そういえば、論文の盗用騒ぎがあったと噂で聞いたが? それに被害者も関係していたらしいとも聞いた」
「それは……!」
その瞬間、ゴワスも院長も顔色を変えた。ゴジータの瞳がすっと細くなる。
「事実のようだな」
「いえ! そんなことはありません!」
力強く否定したのは院長だった。
ゴワスは口を真一文字に結んで俯いた。ゴジータの目には、まるで言うべき言葉を飲み込んでいるようにも見える。
院長はなおも釈明する。
「確かに、不本意ですが、そのような噂が流れていたのは承知しています。
ですが、それは全くの誤解です。当事者同士でも、話し合いで誤解だったと決着が付いています」
「一応、こっちは話を聞きかじっただけで、事情は詳しくしらねぇんだ。いちから教えてくれるか?」
「それは……その……そもそも、これは事件に何か関係があるのでしょうか?」
「今更か?
轢き逃げ犯が被害者に恨みを持っていた可能性が出てきたから、被害者とトラブった人間を調べてるんだよ」
「そう……なんですね」
院長は落ち着き無く視線を彷徨わせていたが、やがて覚悟を決めたように腹に力を込めた。
「……わかりました。
我が大学院の神学研究科には、五名の教授がいるのですが、その内のひとりが、隣にいるゴワス教授の論文を盗用したというのが噂の内容です」
「で、それは事実ではなかったと?」
ゴジータは院長ではなく、真っ直ぐゴワスの方を向いて問いかけた。
ゴワスは、少しの沈黙の後、重苦しい口調で、
「……はい。その通りです」
「へー。ちなみにその噂を言い出したのは?」
「おそらく、ザマスかと」
「なんで被害者は、そんな噂を流したんだ?」
ゴワスはちらりと隣の院長の様子を窺った。
院長は、緊張した面持ちでゴワスの顔を眺めている。まるで、ゴワスが余計なことを言わないように見張っているようだった。ゴワスは口を開くが、その様子は、余計なことを言わぬよう、慎重に言葉を紡いでいるように見えた。
「流したと言うよりは、ザマスの言動が、噂になったというのが正しいでしょう。
私は彼とよく神学の議論を行います。その時、私は、自分が作成している論文に関係する話題や考察を彼に話すことがあるのです。
どうやら、ザマスは件の教授の論文を読んだ時、論文の内容が私が話していたことと非常に似ていた事から、件の教授が私の論文を盗用したのだと思ってしまったようなのです」
「で、それは違ったと」
「……はい。同じ分野の研究者ですので、考えが似通ってしまうこともあります。それで、ザマスも勘違いしてしまったのでしょう」
「へー」
「……」
冷めた目で見つめるゴジータから逃れるように、ゴワスは気まずそうな顔をして顔を背けた。
その後、ゴジータは話題を掘り下げてみたのだが、ゴワスあるいは院長は頑として『解決済み』という姿勢を崩さなかった。
……周辺から探るしかないか。
院長とゴワスからこの件を引き出すのは無理と判断したゴジータは、話題を変えた。
「他に、被害者が関係するトラブルは何かあるか?」
ゴワスは困惑したように、
「他と言うと……どれから言えば良いのか」
……まだあるのかよ。
「取り会えず、全部話してくれるか?」
――そう言って、全部、話させたら聴取に二時間かかった。
「どんだけトラブルを起こしてんだよ! こいつは!」
トラブルが起きた人物の名前を手帳に書き込みつつ、ゴジータは思わず叫んだのだった。
後輩警官がゴジータの口調を注意する意味で、また肘で小突いてくる。 その肘を払いのける気力も無くなったゴジータは、うんざりしながら自分の手帳を眺めた。
手帳の両面がびっしり埋まっている。
……誰がこいつらから話を聞くと思ってんだ。
交通捜査課の現在の方針は、被害者の周囲を探る、である。
当然、トラブルを起こした人間は片っ端から調べていかないと行けない。ゴジータは、今から聴取にかかる手間を考えて、うんざりとした溜め息を付いたのだった。
ゴワスも困り果てた様子で、
「ザマスは我が強い性格で……」
「キリスト教を信じている奴の言動とは思えねぇな」
「そう思われても仕方が無い」
ゴワスはぬるくなった麦茶を啜りながら、そう呟いた。
「彼は、心から神の存在を信じ、神の御心に従って生きていきたいと強く願っている。
ただ、そのやり方が、あまりにも周りの人たちを無視したものであるから、他人との軋轢が絶えない。
私としては、根は真面目で実直な彼が、もう少し思いやりを持てば、良き指導者になれると思うのだが……」
二時間も話している間に粗雑なゴジータの口調につられてか、ゴワスの口調も変わっていた。おそらくこちらが本来の口調なのだろう。ゴジータは特に気にしなかった。
「神を信じている奴が、ここまでトラブルを起こすのかよ。キリスト教は詳しくないが、あれだろ? 隣人を愛せよとか、そういう感じの」
「……神学には、神はどういうお方で、何を考えていらっしゃるかを研究する分野がある。
だが、研究者ごとに解釈や考察が違うように、人によって『神』という存在の受け止め方は異なっている。『神』は唯一でありながら、『神』を認識するものの見方によって変化する。
つまり、私には私の、ザマスにはザマスの『神』がいる」
突然、始まったゴワスの講義を聴いて、ゴジータは訝しげに思いつつも、黙ってその話を傾聴した。
経験上、相手が喋りだした時は、喋らせておいた方が、重要なことが聞ける可能性が高いからだ。
ゴワスは、自分の膝に視線を落としながら、
「ザマスの育ての親であり、同じキリスト教徒である私が言うのも何だが、ザマスの神を信じる心とその信仰心は、狂信的と言って良いほどに深く……危険だ」
ゴワスは言いにくそうに口籠もった後、やがてその言葉を紡ぐ。
「ザマスは、神の理想の世界を創るため、神の意志にそぐわない人間は死んでしかるべきだと、心の底から信じているのだ」