第六話 新しい生活(7月16日 木曜日)
「ここが、君の新しい家だ」
駐車場に車を止めたハーツは、そう言いながら、エンジンを切って外に出た。ザマスも同じように車の扉を開けると、松葉杖を使って外に出る。
見上げたそこには、デザイン性の高いマンションが建っていた。
都会の中心からやや外れた場所にあるこのマンションは、周りに店が多く並び、駅にもスーパーにも近い。
色々な場所にアクセスが容易なところを好む人間からしたら、かなり魅力的な物件に映るだろう。
ザマスは、都会よりも郊外の静かで自然が多い場所を好むので、自分で住む家を探す場合は、繁華街近くにあるこのマンションは選ばないと思うが、それでも、この立地の利便性の高さは認めざるを得なかった。
にもかかわらず、ハーツはこのマンションの一室を借りたまま使っていないと言う。
ならば、どこに住んでいるのかと、ここに来るまでの間、好奇心に駆られたザマスが尋ねると、ハーツは事も何気に、ランドマークにもなっている有名なタワーマンションの名を上げたので、ザマスは思わず鼻白んだのだった。
ハーツは車の全面に備えられたトランクから、ザマスの私物が詰まったボストンバッグを取り出すと、松葉杖をついているザマスに代わって肩に担ぎ、
「こっちだ」
車に施錠をすると、ザマスを促してマンションに向かう。
本日、ザマスはめでたく退院となった。ゴワスと言い争いをして、ハーツと初めて出会った日から、六日後のことである。
当初、退院後はハーツのもとに行くことをザマスが希望したら、ゴワスから『会ったばかりの男性の元で住むなんて、そんな短絡な行動には賛成できない』と反対された。
病院側も、流石にザマスの希望は無茶だと思ったようで、退院の許可を出さずに、家族ともっと話し合うようにとザマスに勧めてきたのである。
病院側に言われずとも、ザマスはゴワスと十分に話し合って、袂を分かつことを決めたのだし、素性の知れぬハーツの元で住むことも了承している。
自分の退院に関することなのに、自身の希望が通らない状況にザマスが忸怩たる思いを募らせているなか、唐突に、ハーツがゴワスと二人っきりで話し合いと言い出した。
正直なところ、ザマスは二人が話し合ったところでゴワスは首を縦に振らないだろうと思っていたのだが、実際に話し合いが終わってみると、拍子抜けするほどすんなりと、ゴワスはザマスの希望を認めたのだった。
ゴワスとハーツの二人がどういう言葉を交わしたのか、その場にいなかったザマスは知らない。
退院が決定した後、ハーツに話し合いのことを尋ねたのだが、『オレのことを信用して貰えるように、色々話し合った』とだけ言って、詳しいことは教えてくれなかった。
何を話したのか気にはなったが、ひとまずゴワスのもとから離れられるならそれでいい。
これで監視の目など気にせず、自由に動くことができる。
今日、ザマスが退院する時、ゴワスもその場にいた。治療費が払えないザマスの代わりに、ゴワスが支払いをしなければならないので、当然と言えば当然だ。
先日の言い争いをしてから、依然としてわだかまりが残っているザマスとゴワスは、碌に言葉を発さず、視線を交わすこともなく、ただ、ザマスは別れる際に一言、『お金はいつか必ず返す』とだけ伝えた。
その言葉を聞いたゴワスは、厳しい目つきでザマスを見つめていたのだが、結局何も言わず、代わりにハーツに向かって『ザマスをよろしく頼む』と頭を下げたのだった。
「ゆっくりでいいぞ」
「問題ない」
右目に眼帯をし、松葉杖をついているザマスを気遣ってか、ハーツはゆっくり歩いていくが、とうのザマスはそのハーツを追い越さんばかりに、すたすた歩いて行く。
リハビリは順調に進んでいて、短距離ならば松葉杖を使わなくても歩行に問題がない状態にまで回復している。
「車の中では落ち着かない様子だったが、体はきつくないのか?」
「問題ない」
実際、体調は問題なかった。
ただ、予告も無く、跳ね馬のエンブレムを掲げた高級車に乗せられたので、シートを汚してしまわないか心配だっただけである。
なんとなく、その本心を悟られるのがプライドに障るので、ザマスは澄ました顔で、ハーツに言葉短く答えたのだった。
正面玄関でオートロックを解除してエントランスに入ると、廊下を左手に曲がる。扉が並んだ先を進んでいたハーツは、一番奥の扉の前で足を止めた。
「この部屋だ」
ハーツは鍵を使ってその部屋の扉を開けると、ザマスを先に部屋に入れ、そして最後に自身が入っていく。
そこは生活感の乏しい部屋だった。
2LDKの間取りのマンションなのだが、必要最低限の家具や家電はあるものの、それ以外の小物がほとんどないため、全体的に空虚な印象を受ける。
ハーツの言うとおり、この部屋は滅多に使われていないのだろうなと、ザマスはリビングをきょろきょろと見回しながら、心の中で呟いた。
ハーツは、肩に担いでいた荷物をフローリングの床の上に置きながら、ザマスに座るように促すと、
「この部屋の隣を店にしていて、こっちは事務所用にと思って借りたんだが、結局、隣の部屋だけでこと足りてな。こちらはあまり使ってないんだ。
たまにオレが泊まりに使うから、家具や家電は置いているが、足りないものがあれば遠慮なく言ってくれ」
「そ、そうか……」
高級車を所持し、部屋を二つ借りた上に、その内の一つは遊ばせておいてなお平気な財力。
『オレの使ってない家に来るか?』と誘われた時から思っていたのだが、ハーツという男は随分と裕福な暮らしをしているらしい。
生まれてから今までずっと、庶民的で質素な暮らしをしていたザマスは、既にハーツとの感覚の違いについていけなくなっていた。
ハーツに座るように促されたザマスは、リビングに置いてあるキャメル色の革張りソファに腰掛けているのだが、このソファももしかして高価なのではないだろうかと考えた瞬間、ザマスは居心地が悪くなった。
絶対に、汚さないようにしないといけない。
「ちょっと寛いでいてくれ。飲み物を用意してくる」
ハーツはそう言うと、ソファの上で固くなっているザマスを置いて、リビングと繋がっているオープンキッチンへと向かうと、程なくして二つのコップを載せたお盆を両手に戻ってきた。
「どうぞ、水出しコーヒーだ。ガムシロップかミルクはいるか?」
ザマスは首を振りながら、手渡されたコップを受け取った。ひんやり冷えたグラスに口をつけると、まろやかな風味のコーヒーが舌の上に広がる。
カランと氷がグラスの中で踊る涼しげな音が響いた。
久しぶりのコーヒーだ。
家にいた頃はたまに飲んでいたが、入院中は全く口にすることができなかった。
ハーツが用意したコーヒーは、微かに甘みがあり、風味が良い。コーヒー豆の品質は良いようだが、惜しむらくは、ザマスはコーヒーよりも紅茶の方が好きだった。
「評判の良い豆を選んだんだが、お味はどうかな?」
ザマスの隣に腰掛けながら、ハーツが尋ねてきた。
「悪くない」
「本当か? 実は、不満があるんじゃないのか? 例えば、コーヒーよりも紅茶の方が良かったとか」
ザマスはぎくっと身を強張らせた。
今まさに、心の中で紅茶が飲みたいと、口を尖らせていた所だ。
驚愕の表情でハーツの方を振り返ると、そんなザマスを見て彼は機嫌良く笑った。
「どうやら、オレの勘は当たっていたみたいだな。好きな茶葉はあるか? 用意しておく」
「そこまでしなくていい」
ザマスはかぶりをふって拒絶する。
正直なところ、住む場所を提供してくれたことに感謝はしているが、ザマスは根本的にハーツを信用していない。
言葉を交わしてみた結果、どうやらハーツもザマスの事件に興味があって色々調べているようで、自然な会話を装って事件の情報を抜き出そうとしてくる。
ならばこれは等価交換だ。
ザマスは事件の情報を提供する代わりに、ハーツはザマスに衣食住を提供する。
無論、だからといって無制限にザマスが知っていることを伝えるつもりは毛頭ないし、ハーツに甘えるつもりもない。
だからザマスは、茶葉はいらないとハーツに声をかけるのだが、当のハーツはスマートフォンを使ってうきうきで選んでいた。
何故か楽しそうなハーツを呆れた様子で眺めていたザマスは、少しの間、手元のコーヒーとハーツの顔を見比べた後、
「いつか必ず、世話になった分の代金は返す」
ザマスは、改めて畏まった声音で宣言した。
ハーツはスマートフォンから顔を上げると、
「気にするな。こちらとしても、店の手伝いをしてくれるなら有り難い」
お返しはいらないと言っているにもかかわらず、借りは必ず返すと主張するザマスに対して、ハーツが出した交換条件が、彼が経営している店の手伝いだった。
店の話題が出たことで、ザマスは気になっていたことをハーツに尋ねた。
「そういえば、今日は店は休みなのか?」
今日は平日の木曜日である。
主治医から退院の許可が出たので、ハーツに迎えに来て貰わなければならないザマスは、彼に都合がいい日を尋ねた。
すると、それなら早いほうがいいと、ハーツは許可が出た翌日――つまり、今日を退院日に指定したのだ。
「そうだ。臨時休業にしている」
「いいのか? 商売をしなくて」
「問題ない。今までも、仕事をする気がない時は、店を閉めたままにしていたからな」
「……」
まだハーツから詳しい事業内容は聞いていないが、それでも彼の言葉の端々から、道楽でその商売をやっていることが窺えた。
そんな、気が向かなければ店を閉める程度の仕事量で、本当に手伝いが欲しいものなのか。
……本当はいらないのだろうな。
この分だと、店の手伝いさえもザマスの気を休めるための援助になりかねない。
できるだけ、ハーツの手を借りたくないと考えているザマスは、もどかしさを感じた。
いくらゴワスのもとから離れたかったからとはいえ、出会ったばかりの人間のもとに転がり込むような真似をするなど、平素のザマスからしたら考えられないことだ。
それ以外に手段がなかったとはいえ、我ながら軽率な行動だったと自省するばかりである。
自活できれば、このような真似をしなくてもすんだものを。
「店の手伝いは、いつからすればいい?」
「仕事熱心だな。論文の作成もあるんだろう?
時間があるなら、そちらを優先した方が良い。こっちは急な仕事はないから、そんなに心配しなくていいぞ」
「だが……」
なおも食い下がるザマスを見て、ハーツは苦笑すると、
「君の申し出はありがたいが、少なくとも、松葉杖が取れたら手伝って貰いたい。
退院したばかりの今はまだ、療養に専念した方がいい。いくら驚異的な回復力を見せた君とはいえ、不死身ではないんだ。
無理をすると死んでしまうぞ」
「大袈裟な奴だ」
すぐにでも働きに出るつもりだったザマスだが、ハーツが頑なに固辞をするので、渋々ながらも引き下がることにした。
コーヒーを飲み終えたハーツは、グラスをソファの前にあるローテーブルに置くと、ゆっくり背もたれにもたれかかった。
「ところで、ザマス。今日はこれからどうする?」
「荷物を片付けた後、足りないものがあれば、買い出しにでも行こうかと思っているが、それがどうかしたか?」
「君がよければ、退院祝いに食事でもどうかと思ってな。ご馳走するぞ」
「そう言われてもな……」
ザマスは渋い顔になる。
「嫌か?」
「嫌というわけではないが……」
ザマスはハーツから家を借りているだけでなく、生活費も貰っている。
ハーツから貰ったものは全て返すつもりであるザマスは、逐一ノートに金額を記録しているのだ。
それはつまり、ハーツがザマスに奢れば奢るほど、ザマスが返さなければならないお金が増えていくことに繋がる。
そのことに難色を示したザマスは、改めてハーツの申し出を断った。
一応、世話になっている身なので、本音は隠して、『これだけでも十二分に世話になっているというのに、それに加えて食事までご馳走になるのは、厚かましすぎる』と、適当な言葉を並べ立てながらではあるが。
ザマスが控えめな口調でそう伝えると、ハーツは顔を綻ばせて笑った。
「ということは、オレと一緒に食事をするのは、嫌じゃないんだな?」
「まあ……そうだが」
ザマスがそう言うと、ハーツは目を輝かせた。
「なら今日は一緒に食事に行こう。オレがやりたいからやるんだ。
何が食べたい? 和食か? イタリアンか? フレンチか? オススメのレストランがあるんだが、そこはどうだ? お金のことは気にしなくていい。
こうやって君に伝えるのも何だが、そう大した金がかかる場所じゃないんだ」
あまり頑なに拒絶しても、良い結果を産まないだろう。
……たいした金額ではないなら、そこまで負担にならないか。
「……そうか……なら、言葉に甘えるとしよう」
結構押しが強いハーツに根負けしたザマスは、ハーツがオススメするレストランに行くことを了承する。
そして、夜のとばりが降りる頃。
夜景が見える高級そうなレストランに連れて行かれたザマスは、ハーツの言う『大した金ではない』という言葉は、信用しないほうがいいと身をもって悟ったのだった。
駐車場に車を止めたハーツは、そう言いながら、エンジンを切って外に出た。ザマスも同じように車の扉を開けると、松葉杖を使って外に出る。
見上げたそこには、デザイン性の高いマンションが建っていた。
都会の中心からやや外れた場所にあるこのマンションは、周りに店が多く並び、駅にもスーパーにも近い。
色々な場所にアクセスが容易なところを好む人間からしたら、かなり魅力的な物件に映るだろう。
ザマスは、都会よりも郊外の静かで自然が多い場所を好むので、自分で住む家を探す場合は、繁華街近くにあるこのマンションは選ばないと思うが、それでも、この立地の利便性の高さは認めざるを得なかった。
にもかかわらず、ハーツはこのマンションの一室を借りたまま使っていないと言う。
ならば、どこに住んでいるのかと、ここに来るまでの間、好奇心に駆られたザマスが尋ねると、ハーツは事も何気に、ランドマークにもなっている有名なタワーマンションの名を上げたので、ザマスは思わず鼻白んだのだった。
ハーツは車の全面に備えられたトランクから、ザマスの私物が詰まったボストンバッグを取り出すと、松葉杖をついているザマスに代わって肩に担ぎ、
「こっちだ」
車に施錠をすると、ザマスを促してマンションに向かう。
本日、ザマスはめでたく退院となった。ゴワスと言い争いをして、ハーツと初めて出会った日から、六日後のことである。
当初、退院後はハーツのもとに行くことをザマスが希望したら、ゴワスから『会ったばかりの男性の元で住むなんて、そんな短絡な行動には賛成できない』と反対された。
病院側も、流石にザマスの希望は無茶だと思ったようで、退院の許可を出さずに、家族ともっと話し合うようにとザマスに勧めてきたのである。
病院側に言われずとも、ザマスはゴワスと十分に話し合って、袂を分かつことを決めたのだし、素性の知れぬハーツの元で住むことも了承している。
自分の退院に関することなのに、自身の希望が通らない状況にザマスが忸怩たる思いを募らせているなか、唐突に、ハーツがゴワスと二人っきりで話し合いと言い出した。
正直なところ、ザマスは二人が話し合ったところでゴワスは首を縦に振らないだろうと思っていたのだが、実際に話し合いが終わってみると、拍子抜けするほどすんなりと、ゴワスはザマスの希望を認めたのだった。
ゴワスとハーツの二人がどういう言葉を交わしたのか、その場にいなかったザマスは知らない。
退院が決定した後、ハーツに話し合いのことを尋ねたのだが、『オレのことを信用して貰えるように、色々話し合った』とだけ言って、詳しいことは教えてくれなかった。
何を話したのか気にはなったが、ひとまずゴワスのもとから離れられるならそれでいい。
これで監視の目など気にせず、自由に動くことができる。
今日、ザマスが退院する時、ゴワスもその場にいた。治療費が払えないザマスの代わりに、ゴワスが支払いをしなければならないので、当然と言えば当然だ。
先日の言い争いをしてから、依然としてわだかまりが残っているザマスとゴワスは、碌に言葉を発さず、視線を交わすこともなく、ただ、ザマスは別れる際に一言、『お金はいつか必ず返す』とだけ伝えた。
その言葉を聞いたゴワスは、厳しい目つきでザマスを見つめていたのだが、結局何も言わず、代わりにハーツに向かって『ザマスをよろしく頼む』と頭を下げたのだった。
「ゆっくりでいいぞ」
「問題ない」
右目に眼帯をし、松葉杖をついているザマスを気遣ってか、ハーツはゆっくり歩いていくが、とうのザマスはそのハーツを追い越さんばかりに、すたすた歩いて行く。
リハビリは順調に進んでいて、短距離ならば松葉杖を使わなくても歩行に問題がない状態にまで回復している。
「車の中では落ち着かない様子だったが、体はきつくないのか?」
「問題ない」
実際、体調は問題なかった。
ただ、予告も無く、跳ね馬のエンブレムを掲げた高級車に乗せられたので、シートを汚してしまわないか心配だっただけである。
なんとなく、その本心を悟られるのがプライドに障るので、ザマスは澄ました顔で、ハーツに言葉短く答えたのだった。
正面玄関でオートロックを解除してエントランスに入ると、廊下を左手に曲がる。扉が並んだ先を進んでいたハーツは、一番奥の扉の前で足を止めた。
「この部屋だ」
ハーツは鍵を使ってその部屋の扉を開けると、ザマスを先に部屋に入れ、そして最後に自身が入っていく。
そこは生活感の乏しい部屋だった。
2LDKの間取りのマンションなのだが、必要最低限の家具や家電はあるものの、それ以外の小物がほとんどないため、全体的に空虚な印象を受ける。
ハーツの言うとおり、この部屋は滅多に使われていないのだろうなと、ザマスはリビングをきょろきょろと見回しながら、心の中で呟いた。
ハーツは、肩に担いでいた荷物をフローリングの床の上に置きながら、ザマスに座るように促すと、
「この部屋の隣を店にしていて、こっちは事務所用にと思って借りたんだが、結局、隣の部屋だけでこと足りてな。こちらはあまり使ってないんだ。
たまにオレが泊まりに使うから、家具や家電は置いているが、足りないものがあれば遠慮なく言ってくれ」
「そ、そうか……」
高級車を所持し、部屋を二つ借りた上に、その内の一つは遊ばせておいてなお平気な財力。
『オレの使ってない家に来るか?』と誘われた時から思っていたのだが、ハーツという男は随分と裕福な暮らしをしているらしい。
生まれてから今までずっと、庶民的で質素な暮らしをしていたザマスは、既にハーツとの感覚の違いについていけなくなっていた。
ハーツに座るように促されたザマスは、リビングに置いてあるキャメル色の革張りソファに腰掛けているのだが、このソファももしかして高価なのではないだろうかと考えた瞬間、ザマスは居心地が悪くなった。
絶対に、汚さないようにしないといけない。
「ちょっと寛いでいてくれ。飲み物を用意してくる」
ハーツはそう言うと、ソファの上で固くなっているザマスを置いて、リビングと繋がっているオープンキッチンへと向かうと、程なくして二つのコップを載せたお盆を両手に戻ってきた。
「どうぞ、水出しコーヒーだ。ガムシロップかミルクはいるか?」
ザマスは首を振りながら、手渡されたコップを受け取った。ひんやり冷えたグラスに口をつけると、まろやかな風味のコーヒーが舌の上に広がる。
カランと氷がグラスの中で踊る涼しげな音が響いた。
久しぶりのコーヒーだ。
家にいた頃はたまに飲んでいたが、入院中は全く口にすることができなかった。
ハーツが用意したコーヒーは、微かに甘みがあり、風味が良い。コーヒー豆の品質は良いようだが、惜しむらくは、ザマスはコーヒーよりも紅茶の方が好きだった。
「評判の良い豆を選んだんだが、お味はどうかな?」
ザマスの隣に腰掛けながら、ハーツが尋ねてきた。
「悪くない」
「本当か? 実は、不満があるんじゃないのか? 例えば、コーヒーよりも紅茶の方が良かったとか」
ザマスはぎくっと身を強張らせた。
今まさに、心の中で紅茶が飲みたいと、口を尖らせていた所だ。
驚愕の表情でハーツの方を振り返ると、そんなザマスを見て彼は機嫌良く笑った。
「どうやら、オレの勘は当たっていたみたいだな。好きな茶葉はあるか? 用意しておく」
「そこまでしなくていい」
ザマスはかぶりをふって拒絶する。
正直なところ、住む場所を提供してくれたことに感謝はしているが、ザマスは根本的にハーツを信用していない。
言葉を交わしてみた結果、どうやらハーツもザマスの事件に興味があって色々調べているようで、自然な会話を装って事件の情報を抜き出そうとしてくる。
ならばこれは等価交換だ。
ザマスは事件の情報を提供する代わりに、ハーツはザマスに衣食住を提供する。
無論、だからといって無制限にザマスが知っていることを伝えるつもりは毛頭ないし、ハーツに甘えるつもりもない。
だからザマスは、茶葉はいらないとハーツに声をかけるのだが、当のハーツはスマートフォンを使ってうきうきで選んでいた。
何故か楽しそうなハーツを呆れた様子で眺めていたザマスは、少しの間、手元のコーヒーとハーツの顔を見比べた後、
「いつか必ず、世話になった分の代金は返す」
ザマスは、改めて畏まった声音で宣言した。
ハーツはスマートフォンから顔を上げると、
「気にするな。こちらとしても、店の手伝いをしてくれるなら有り難い」
お返しはいらないと言っているにもかかわらず、借りは必ず返すと主張するザマスに対して、ハーツが出した交換条件が、彼が経営している店の手伝いだった。
店の話題が出たことで、ザマスは気になっていたことをハーツに尋ねた。
「そういえば、今日は店は休みなのか?」
今日は平日の木曜日である。
主治医から退院の許可が出たので、ハーツに迎えに来て貰わなければならないザマスは、彼に都合がいい日を尋ねた。
すると、それなら早いほうがいいと、ハーツは許可が出た翌日――つまり、今日を退院日に指定したのだ。
「そうだ。臨時休業にしている」
「いいのか? 商売をしなくて」
「問題ない。今までも、仕事をする気がない時は、店を閉めたままにしていたからな」
「……」
まだハーツから詳しい事業内容は聞いていないが、それでも彼の言葉の端々から、道楽でその商売をやっていることが窺えた。
そんな、気が向かなければ店を閉める程度の仕事量で、本当に手伝いが欲しいものなのか。
……本当はいらないのだろうな。
この分だと、店の手伝いさえもザマスの気を休めるための援助になりかねない。
できるだけ、ハーツの手を借りたくないと考えているザマスは、もどかしさを感じた。
いくらゴワスのもとから離れたかったからとはいえ、出会ったばかりの人間のもとに転がり込むような真似をするなど、平素のザマスからしたら考えられないことだ。
それ以外に手段がなかったとはいえ、我ながら軽率な行動だったと自省するばかりである。
自活できれば、このような真似をしなくてもすんだものを。
「店の手伝いは、いつからすればいい?」
「仕事熱心だな。論文の作成もあるんだろう?
時間があるなら、そちらを優先した方が良い。こっちは急な仕事はないから、そんなに心配しなくていいぞ」
「だが……」
なおも食い下がるザマスを見て、ハーツは苦笑すると、
「君の申し出はありがたいが、少なくとも、松葉杖が取れたら手伝って貰いたい。
退院したばかりの今はまだ、療養に専念した方がいい。いくら驚異的な回復力を見せた君とはいえ、不死身ではないんだ。
無理をすると死んでしまうぞ」
「大袈裟な奴だ」
すぐにでも働きに出るつもりだったザマスだが、ハーツが頑なに固辞をするので、渋々ながらも引き下がることにした。
コーヒーを飲み終えたハーツは、グラスをソファの前にあるローテーブルに置くと、ゆっくり背もたれにもたれかかった。
「ところで、ザマス。今日はこれからどうする?」
「荷物を片付けた後、足りないものがあれば、買い出しにでも行こうかと思っているが、それがどうかしたか?」
「君がよければ、退院祝いに食事でもどうかと思ってな。ご馳走するぞ」
「そう言われてもな……」
ザマスは渋い顔になる。
「嫌か?」
「嫌というわけではないが……」
ザマスはハーツから家を借りているだけでなく、生活費も貰っている。
ハーツから貰ったものは全て返すつもりであるザマスは、逐一ノートに金額を記録しているのだ。
それはつまり、ハーツがザマスに奢れば奢るほど、ザマスが返さなければならないお金が増えていくことに繋がる。
そのことに難色を示したザマスは、改めてハーツの申し出を断った。
一応、世話になっている身なので、本音は隠して、『これだけでも十二分に世話になっているというのに、それに加えて食事までご馳走になるのは、厚かましすぎる』と、適当な言葉を並べ立てながらではあるが。
ザマスが控えめな口調でそう伝えると、ハーツは顔を綻ばせて笑った。
「ということは、オレと一緒に食事をするのは、嫌じゃないんだな?」
「まあ……そうだが」
ザマスがそう言うと、ハーツは目を輝かせた。
「なら今日は一緒に食事に行こう。オレがやりたいからやるんだ。
何が食べたい? 和食か? イタリアンか? フレンチか? オススメのレストランがあるんだが、そこはどうだ? お金のことは気にしなくていい。
こうやって君に伝えるのも何だが、そう大した金がかかる場所じゃないんだ」
あまり頑なに拒絶しても、良い結果を産まないだろう。
……たいした金額ではないなら、そこまで負担にならないか。
「……そうか……なら、言葉に甘えるとしよう」
結構押しが強いハーツに根負けしたザマスは、ハーツがオススメするレストランに行くことを了承する。
そして、夜のとばりが降りる頃。
夜景が見える高級そうなレストランに連れて行かれたザマスは、ハーツの言う『大した金ではない』という言葉は、信用しないほうがいいと身をもって悟ったのだった。