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第五話 目覚めた被害者(7月10日 金曜日)

 朝の早い時間帯から降っていた雨は、昼になる前に上がっていた。

 紺色のスクラブを来たフューは、窓の外から晴れた空を眺めつつ、病院の廊下を上機嫌で歩いている。

 執刀医として入った予定手術が、無事に終わったのだ。一緒に入っていた上級医や外科部長が、口を挟むこともないくらい順調な手術。しかも、今日行った術式は、今までフューが行ってきた手術の中でも難易度が高めのものである。自分の着実な成長を実感できて、フューの心は達成感で満たされていた。

――この調子でもっと難しい手術も、執刀できるようになりたいな。

 フューは後期研修医であるため、担当する手術は習熟度に合わせて制限されている。今回の手術も、あくまでフューが今まで執刀してきた術式に比べれば難易度が高いのであって、これよりももっと高難易度の肝臓や膵臓の手術を上級医達は行っている。

 自分も早く、その領域に達したいと、胸を満たしていた達成感は消えて、変わりに飢えにも似た野望が顔を覗かせ始めていた。

 周りの話によれば、外科部長は、フューのより上を目指そうと努力する姿勢を高く評価しているらしい。実際、今日の手術における部長の反応も悪くない。

 もしかしたら、予定より早く高難易度の術式の修練を始めてくれるかもしれないと、フューは期待で胸を膨らませる。

 懸念すべきは、あいつはただ人の内臓を切りたいだけと、げんなりした様子で語っているフューの上級医だろう。間違ってはいないので文句のつけようもないのだが、それでも青年の希望の火を消すような真似は止めてほしいものだ。

 そんなことをつらつらと頭の中で考えつつ、階段を上って病棟に上がった、その瞬間。

「納得できかねる!」

 突然、病棟の廊下に大声が響き渡る。びくっと体を大きくすくめたフューは、その場で足を止めた。

 周りにいた入院患者や看護師も同様だ。誰もが驚きに身をすくませたまま、大声がした病室を唖然と眺めていた。

「いくら貴方の言葉といえども従えない! なぜ盗用の件で泣き寝入りをしながら、それでも上層部に媚びへつらうのだ!?」

 どうやら怒鳴り声はまだ続くようだ。我に返ったフューは、慌ててその病室に飛び込んだ。

「ちょっと! 何を騒いでるの!?」

 フューが飛び込んだ病室は四人部屋だった。
 全てのベッドが患者で埋まっているため、一瞬、誰が大声を出したのかわからずに迷ったが、部屋にいた患者やお見舞いに来た家族の視線のほとんどが、右手奥のベッドに集まっていたので、それで誰が騒いでいるのか察することができた。

 周りの視線に気が付いているのかいないのか、渦中の二人は語気を緩めぬまま言い争いを続けている。

「その話は終わったことだ! ザマス!」
「いいえ! 終わったのではない! 貴方は問題から逃げたのだ! 罪人を見逃し、神の御心を背く行為をすることによって!」

 ひとりは、ベッドの上に上体を起こして座っている病衣を来た若い男、もうひとりはそのベッドサイドに立った老人。どちらも鋭い瞳で、苛烈な火花を散らしながら睨み合っていた。

「二人とも! 静かにして!」

 フューがもう一度、大声を上げると、二人は、はっと我に返ったようにフューの方へと顔を向けた。

「……これは、失礼した」

 仕立てのいい服を着た老人が、気まずそうな顔をして謝罪するが、ベッドの上の青年は不機嫌な顔をしてそっぽを向くだけだった。
 老人は青年の方に顔を向けると、

「ザマス。最後にひとつだけ。勝手だとは思ったが、お前が住んでいたマンションは解約した」
「!?」

 ザマスと呼ばれた青年は、驚いたように老人に向き直った。

「今のお前の行動は目に余る。私の家に戻ってきなさい。どのみち、今のお前は誰かの手助けが必要なのだからちょうど良い」
「勝手なことを……!」

 ザマスはぎりっと奥歯を噛みしめて、唸るように声を出すが、ゴワスは厳しい目つきで、

「あのマンションの名義人は私だ。また来る」

 老人はそう言ってザマスに背を向けると、ことの成り行きを見守っていたフューと同室の患者達に頭を下げた後、その場を立ち去ったのだった。

 老人の背中を見送った後、フューはベッドに近づいてザマスに声をかけた。

「随分、白熱した討論をしていたようだね」
「……」

 ザマスはじろっとフューを睨んだ後、ふいっとそっぽを向く。フューの顔が引きつる。

……かわいくない。

 フューは腕を組むと、語気を強めて、

「君が元気になったのは結構だけど、こういったトラブルを起こすなら、こっちは強制退院も考えるからね」

 だが、ザマスから反応はない。
 フューは溜め息をつく。

……トラブルを巻き起こして、大学院で有名になるだけはあるね。





 ザマスは片松葉をついて、駐車場の隅を歩いていた。
 並んだ車のそばを通り抜けて、辿り着いたのは、小さな四阿。

 そこには二人掛けの木製のベンチが置かれた。広大な駐車場の片隅にあるその四阿は、まるで病院からも存在が忘れられたかのように所々、苔がむしている。いや、病院の棟がある場所から離れた所に設置されているので、本当に忘れられているのかもしれない。

 ザマスは、そこにゆっくりとした動作で腰掛けた。
 ザマスがリハビリのため、院内の敷地を散策していた時、たまたま見つけた場所だ。病院の敷地内とはいえ、ここは病院の施設からかなり離れたところにあり、リハビリとして散歩するには遠すぎる上、病院施設のすぐ隣には庭園もあるため、入院患者は大体そちらを憩いの場にしている。外来に受診に来た人は言わずもがな、病院職員でも、このような場所に集まらないほどの僻地であるゆえ、この辺りはとても静かだった。

 ベンチの背もたれに背を預けたザマスは、ふうっと大きく息を吐く。うだるような暑さの中、額に汗が浮かんだ。手の甲で額の汗を拭いながら、久しぶりに汗をかいたなと、心の中で独り言ちた。

 時間がかかったが、ようやくここまで回復することができた。ザマスは、動きがたどたどしい自分の右の手のひらを見つめる。
 そして、ぎゅっと握りしめると、その瞳を復讐心で燃え上がらせたのだった。

――気が付いた時には、集中治療室に寝かされていた。

 混濁していた意識が徐々に清明になり、医師と名乗る人物の合図で、口を通して喉の奥まで入れられていた管がずるっと抜ける。そうして、ようやく人工呼吸器を離脱したザマスは、自分の肺だけで呼吸できるようになったのだ。

 あの、喉の奥の奥から管が抜けていくなんともいえない感覚は、忘れられそうにない。

 それからしばらく、集中治療室でベッドの上の生活を強いられた。呼吸は問題なくなったとはいえ、まだ体のあちこちは回復しきっていない。何度も検査をし、投薬をされ、必要とあれば外科的な治療も行われた。

 そうして徐々に体の中に入っていた管は抜けていき、点滴の数も減っていき、そしてようやく、集中治療室を出て一般病棟に移ったのだ。
 それが一週間前のことである。

 段々と負傷した体が回復し、以前の健康な状態に戻ろうとしていることは実感している。
 周りの医療従事者達も、ザマスの回復を手放しで喜び、驚異的な回復力に驚嘆していたが、それでもザマスの心は晴れなかった。

 なぜ自分が病院に入院しているのか。
 その理由を、医師と事情聴取に来た警官の口から聞いた時、最初に湧いてきた感情は、怒りだった。

 警官は轢き逃げ犯の行方を追っていると、ザマスに説明した。誰が犯人か未だわからないとも言っていたが、ザマスはすぐにあの三人の誰かが、自分を殺すためにやったのだと悟った。

 ザマスは、悔しそうに歯噛みした。屑だと見下していた人間から、してやられたことが悔しくてたまらない。

 まさか、自分を殺そうとするとは。いくら屑でも、そこまでしないだろうと侮っていた事で足下を掬われてしまった。油断さえしていなければ、車に轢かれなかったのに。

 せめて、犯人の顔を見ていれば、すぐにでもその事実を持って告発してやれるのだが、生憎、背後から轢かれたせいで顔を見ていない。
 加えて、あの三人のうち、誰かが自分を殺そうとしたのは間違いないとザマスは確信していたが、誰が犯人なのかはわからなかった。

――すぐにでも、あの三人の中から犯人を見つけ出してやりたい。

 だが、それをゴワスは邪魔していた。
 今日、ザマスの見舞いにやってきたゴワスは、あろうことか、『犯人を見つけるのは警察に任せろ。そして、見つかっても裁かずに許せ』と言ってきたのだ。

 犯人に対してだけではない。
 ゴワスの論文が盗用された件についても、これ以上言及するな、相手の教授を侮蔑するような真似は止せと、したり顔で説教をしてきた。

 罪を犯した人間を裁くのに、躊躇う理由など無いはずなのに、ゴワスはそれを良しとしない。いくらザマスが、見守るだけで悪人が善人に変わるなど幻想だと言葉を尽くしても、ゴワスは同意しなかった。

 ゴワスの、どんな人間相手でも、まずは見守って変わることを待つという姿勢には反吐が出る。

昼間の、ゴワスとのやり取りを思い出して、ザマスは膝の上に置いた右手の拳をさらにぎゅっと握る。爪が皮膚にきつく食い込んだが、痛みなど気にならないほどにザマスは激昂していた。

 そして、何よりも反吐が出たのは、そんなゴワスを無碍にできない自分の立場の弱さだった。ゴワスの言う巫山戯た戯れ言など、唾棄してやりたいところだが、ザマスにはそれができない。

 なぜなら、ザマスが今、生活できるのは、ゴワスのおかげだからだ。
 ゴワスは、ザマスの両親が事故で急逝してから、ずっと面倒を見てくれていて、今もなお、博士号取得を目指して勉学に励むザマスに、生活費を出してくれていた。

 実際、生活費を盾に取られると、ザマスは弱い。
 以前は、頼ってばかりではいられないと、バイトをしてお金を稼いでいたが、博士課程後期に入ると、研究に時間を取られ、バイトをする時間がなくなったので辞めてしまった。
 貯金も、両親が残してくれた財産も、学費の支払いのために使ってしまったので、ほとんど残っていない。

――生活費のために、バイトを再開するか?

 だが、そうすると研究の時間がなくなる。研究論文はまだ完成しておらず、事故に遭う前は、論文作成のために毎日八時間ほどの時間を費やしていたのだ。それに加えて、指導教授からの指導や博士課程の科目の履修もあり、やはりバイトをする時間を捻出するのは難しい。

それに、仮にバイトができる時間があったとして、この体で何ができる?

 ザマスは左足の付け根の骨を折ったため、松葉杖がなければ歩くことができない。右腕の傷は、抜糸を終えているが、動かすと鈍い痛みが走ることもあり、しかも動きもまだぎこちない。加えて、右目は事故の影響で虹彩が炎症を起こしているので、眼帯で覆っていないと、眩しくて目を開けていられないのである。

……このような状況で、どうやって金を稼げば良いというのだ。

 現状、ゴワスからの生活費が途絶えてしまえば、ザマスは一気に苦境に陥る。生活ができないどころか、後期の学費も払えず、博士号取得も諦めなければならないだろう。

 ここまで考えて、ザマスはようやく理解した。

――自活できない自分に、選択肢など無いのだ。

 ゴワスに頭を下げて、生活費を貰うしかない。
 そうすることでしか、研究を続けることはできない。それが嫌なら、大学院を辞めて働くしかないが、ザマスは神学の研究から離れるのは嫌だった。

 ゴワスから生活費を貰うなら、ゴワスの言い分に従うしかないだろう。

 ゴワスが要求したように、早晩、あのクズ教授が論文を盗用した証拠を捨てなければならない。

 教授が学会誌に提出した論文に掲載されたデータの収集、解析を行ったのがゴワスである証拠。その収集、解析に教授は一切関わっていないにも関わらず、単独論著として学会誌に提出した証拠であるというのに。

 これを提出すれば、教授の悪事は白日の下に晒され、ゴワスの成果は守られる。
 だが、ゴワスはそれを望まない。ゴワスの努力を踏みにじられないように、今まで行動してきた自分が馬鹿みたいだった。

 昼間、あれだけ啖呵をきって、ゴワスを罵ったにもかかわらず、おめおめと生活費をねだる自分を想像して、ザマスは自嘲した。腹の底でぐらぐらと煮えたぎっていた怒りの炎が、ふっと消える。後に残るのは、真っ黒な汚い炭に似た絶望。

 この世は、神を信仰するだけでは生きていけない。
 金、金、金。

 神よりも、現金を優先する拝金主義のこの世界を、ザマスは心底、嫌悪した。

 ザマスが座っている四阿の柱に蝉がとまり、大音量で鳴き始める。周りの木々にとまっていた蝉も追随し、無数の蝉の音が合わさって蝉時雨となった。

 だが、ザマスはそんな音が耳に入らないほど、惨めな立場に立つ自分に打ちひしがれていた。

「やあ」

 突然、声をかけられた。
 聞き覚えのない声だったので、自分に声をかけられたとは思わずに無視していたら、再び声をかけられた。

「気分が悪いのか?」

 ようやく、自分に声をかけられているのだと、気が付いたザマスは顔を上げる。

 いつの間にか、すぐそばに見知らぬ男が立っていた。薄い橙色のサングラスをかけた、長身の男だ。和やかに声をかけてくるが、ザマスはその男に見覚えがなかった。

 警戒した面持ちでザマスが男の様子を窺う中、当の男は構わずザマスに話しかけてくる。

「君、ザマスだろう? 病室を勝手に抜け出したもんだから、看護師さん達が大騒ぎしているぞ」
「……」

 ザマスは怪訝そうに眉をひそめる。

……この病院の関係者か?

 だが、黒のシンプルなボトムスと紺のVネックのTシャツという姿は、医療従事者にしてはラフな格好だ。

 白衣を脱いだ、もしくはスクラブから私服に着替えたのだろうかとも思ったが、それにしてはネックレスやいかついデザインの指輪が目につく。いくらなんでも、勤務中につけるには装飾華美ではないだろうか。

 不信感を募らせるザマスをよそに、男はボトムスのポケットからスマートフォンを取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「フュー、オレだ。見つけたぞ。病院の正面玄関から右手に行った、駐車場のずっと奥にいた」

 男はそれだけ伝えると、通話を切り、

「隣、座らせて貰うぞ」

 ザマスの返答を待たずに、男はベンチに座る。

「……誰だ?」

 ザマスは訝しげに隣の男に問いかけた。

「オレはハーツという。この病院の、フューという医者は知っているだろう? その友人だ」
「フュー……」

 そういえば、やたらと事件のことを詮索してくる若い医者が、そんな名前だった気がする。

 どうやって調べたのか、ザマスが犯人ではないかと睨んでいる三人にまで辿り着いた男だ。

 奴から、警察が教えてくれなかった情報を得られたので、利用価値はあると思い、何度か言葉を交わしたのだが、事件を面白がっている点と、つかみ所の無い言動が信用できず、ザマスの中ではフューは警戒対象だった。

――その男の、友人だと……?

 ザマスは身を固くすると、ハーツから少し距離を取った。
 ザマスが警戒感を強めると、ハーツは特に気分を害した様子もなく、逆に面白そうに笑う。

「フューもしょうがない奴だ。患者から全く信頼されていないおかげで、こっちまで警戒されてしまった」
「……あいつの友人ということは、お前もこの病院の関係者か?」
「いや、違う。オレはただの通りすがりだ。たまたま、この病院の近くを歩いていたら、血相を抱えたフューと会ったんだ。切羽詰まった様子で、病棟から脱走した患者を見ていないかと尋ねられてな。手も空いていたから、一緒に脱走患者の捜索をしていただけだ」
「脱走とは、大袈裟な」
「君はただの散歩のつもりかもしれないが、長時間、病室を抜けるなら看護師に言い伝えておいたほうがいい。今、病棟は君を探して、てんやわんやだ」
「見つけたー!」

 突然、響き渡った大声。
 そちらを振り向くと、おそらく、ここまで走ってきたのだろう、肩で息をつくフューがそこにいた。

「やあ、フュー。早かったな」
「ありがとう、ハーツ。脱走犯を捕まえてくれて」

 額に汗を浮かべたフューは、ずかずかとザマスに近づくと、その手を取った。

「ほら、病室に帰るよ。こんな暑いところにいたら、熱中症になっちゃう」

 ハーツも同意する。

「それがいい。まだ、体は完全に治っていないんだろう? 無理しない方が良い」

 当のザマスはむっと顔を顰めると、

「うるさい。余計なお世話だ」

 ばしっとフューの手を振り払う。
 フューはひくっと口元を引きつらせると、

「君ねー、ちょっと可愛げなさ過ぎ。命の恩人である僕達に対して、その態度は酷いんじゃない?」

 言い返そうとしたザマスだが、ふとフューの言葉に引っかかりを覚えた。

「僕『達』……?」

 自分が車に轢かれた時、たまたま居合わせたフューが、手当てを行ったことは知っているが――

「そう。この間、僕ともうひとりで、車に轢かれて血塗れになっていた君を助けたって言ったでしょ? そのもうひとりが、このハーツだよ」

 ザマスは、驚いたようにハーツの方を振り返った。

「そうなのか……?」
「君が覚えていないのも無理はない。あの時の君は、意識がなかったからな」
「そうか……」

 今の今まで散々邪険に扱っていたからか、ザマスは気まずそうな顔をしてハーツから顔を背けた。
 フューは腰に両手を当てると、

「しおらしくなって結構。
 ほら、病室に戻るよ。もしここで脱水でも起こしたら、退院が延期になってしまうよ」

 その言葉を聞いたハーツは驚いたように、

「もう退院なのか? まだ、足や目は完治していないように見えるが」
「病院でできることは大体終わり。あとは、自宅で療養して、たまに外来でフォローすれば十分。
……まあ、普通の人だったら、この時期はまだうちに入院しているか、できて精々、療養病院に転院だろうけどね。
 本当、君の回復力は凄まじいよ」
「……その、退院のことなのだが」 

 言いにくそうにザマスが口を開く。

「まだ、入院したままでいられないのか?」

 突然の申し出を聞いたフューは、きょとんと眼を丸くする。

「なんで? 退院したがってたじゃん」
「それは……」

 問い返されたザマスは少しの間、口籠もるが、やがておずおずと口を開く。

「……家に戻りたくない」

 退院すれば、マンションを引き払われたザマスは、ゴワスの元に帰らなければならない。

 それが嫌でたまらないザマスは、少しでもその期間を延ばせないか、藁にでもすがるつもりでそう言った。

 今日の昼間、ザマスの病室で行われた大喧嘩を思い出したフューは、合点したように、

「家に戻りたくないのは、父親と喧嘩したから?」
「戻りたくない理由はそうだが……あの人は父親ではない。私の両親は他界している」
「あれ? そうなの?」

 意外そうにフューはそう言った。
 入院中の面倒はゴワスが見ていたと聞いていたので、てっきり彼が父親だと思い込んでいた。

「両親の恩師で、幼くして親を亡くした私の面倒を見てくれていた」
「立派な人だね。そんな人と、なんであんな大喧嘩したわけ?」
「それは……」

 ザマスは言葉を濁らせた。

 理由を説明するなら、ザマスが所属する大学院内で起きた、論文の盗用に関することを説明しなければいけなくなる。
 だが、何も知らない人間に話したくない。

 ザマスは口籠もったまま黙ってしまい、それを見たフューは、やれやれと首を振った。

「言いたくないなら別に良いよ、喋らなくて。
 あと、君が望むなら、退院は延期できると思うよ。君の負った怪我は凄まじかったからね。
 カンファレンスでは、いくら回復してきているとはいえ、退院するのは早すぎではないかって、意見が出てるくらいだし」
「なら……!」

 ザマスは俄に希望を取り戻すが、

「でも、延期もできて精々一週間くらい。それ以上は無理だよ。
 昔と違って、今は病院にいる必要がなくなったらすぐに退院って方針だし」
「そうか……」

 花が萎れるように、ザマスは項垂れる。

 一週間程度の延期。
 それで、一体何ができるというのだ。

 少しでもゴワスの元にいく機会を先延ばしにしたいと思っていたザマスだが、そもそも退院を延期しようという案が、何の問題解決にもならない荒唐無稽な案なのだということに気が付いた。
 ひとりで自活できない以上、いつ退院しようが状況は変わらない。それどころか、延びた分の入院費が負担になるだけ。

 結局、どんなに嫌がろうとも、ゴワスの元に帰らなければならないのだ。

 ザマスが諦めて、ゴワスの元に帰るのを受け入れようとしたその時、横でことの成り行きを見守っていたハーツが口を開いた。

「家に帰りたくないなら、オレの所に来るか? ちょうど、使っていない家がひとつある」
「使ってない……『家』?」

 部屋ではなく家。
 ハーツの言葉を聞いたザマスは訝しげにオウム返しをし、フューは眉をひそめた。

「ちょっと、うちの入院患者をナンパするの止めてよ」


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