第二話 動き出した季節(6月25日 木曜日)
「凄い」
紙パックのオレンジジュースを飲んでいたフューは、医局で電子カルテを眺めつつ、思わずぽつりと呟いた。
五日前、フューが居合わせたあの轢き逃げ事件の被害者のカルテだ。フューは目を輝かせながら、ザマスという名の男性のカルテを読み進めていく。
あの後、救急隊員の言うとおり、被害者はフューが勤務している大学病院に運び込まれ、病院の関連部署は、突如、運び込まれた交通外傷患者の対応で大わらわとなった。土曜日の病院は、休日体制になっているので、院内で勤務する医療従事者は少ない。そのため、手術や検査のために、何人もの医者や看護師が電話で呼び出されることになったのだ。
その呼び出しは、招集を予想して病院に向かう途中だった、フューにもかかってきた。
――高エネルギー外傷の患者が来た。たぶん、オペになる。
その日、救急外来の日直を担当していた外科医からのメッセージである。病院の電話ではなく、私用のメッセージアプリで送られてきた第一報を確認したフューは、『了解』と短く返事をすると、その場でハーツと別れて病院に向かった。
救助の最中に血だらけになった両手は、車に突っ込まれて滅茶苦茶になった店のトイレで綺麗にした。血塗れのままでいるわけにもいかず、どこか手を洗える場所はないかと探していたら、その店の店長が見かねてトイレを貸してくれたのだ。
フューは、不運な目にあった店長に礼を言って店を出た後、近くのパーキングエリアに駐めておいた自分のバイクに跨がり、大学病院へと向かった。病院に辿り着いたフューは、職員専用の駐車場にバイクを止めると、私服のまま救急外来へと走る。
辿り着いたそこは、戦場と言ってもいいほどに、喧噪と興奮に満ちた場所になっていた。医師の、怒号に近い指示が飛び、看護師が忙しなく検査の準備や処置を行う。
看護師へ指示を出していた救急外来日直の外科医が、救急外来の入り口で様子を眺めていたフューに目敏く気が付いた。外科医はフューの上級医に当たる。
――今すぐ着替えて来い!そして、この患者をCTに連れて行け!
上級医の指示を聞いたフューは、慌てて更衣室で紺色のスクラブに着替えて救急外来に舞い戻ると、手袋やガウン、マスクなどの防護具を装着し、未だに興奮が冷めやらない現場に飛び込んでいく。
そこからは怒濤の忙しさだった。循環動態が不安定で救急外来での初期治療にも反応が乏しい患者に、細心の注意を払いながら造影CTを行う。
そうして撮った造影CTの結果も、思わず頭を抱えるほどだった。頭も肺も腹部の臓器も損傷しているし、大動脈も右腕の動脈も損傷している。死んでいないのが不思議なくらいだ。CTの結果を見た医師達は、一様に顔を強張らせた。そして、救急科と治療に関係する部署の医師が話し合った結果は、緊急手術。
大動脈と右腕の動脈と肝損傷による出血。同時に対処しないといけない出血点が三つもあるため、血管外科、外科などの医師らが協議しながら緊急手術を行うことになった。動脈損傷に対する手術は血管外科の医師にお任せとなるが、肝損傷は当然、外科医の担当となる。
外科医でチームが組まれ、当たり前のようにそのまま手術に入らされたフューが、患者とともに手術室から出てきたのは、日付が変わってしばらく経った後だった。
ベッドで眠っている患者を、麻酔科医師や看護師と一緒に集中治療室へと搬送。人工呼吸器を眠っている患者に繋げたところで、フューは患者からよろよろと離れると、近くにあった記録台の椅子にぐったりと座りこむ。
久々に、体力も気力も限界まで削り取られた手術だった。ただでさえ、気の抜けない手術だというのに、一度など、突如として心停止になったので、手術を中断して心臓マッサージを行ったりもしたのだ。そうやって、術中、数リットルの輸血をしながら行われた手術は、一応終了。
正直、死体となった患者と一緒に出てくることも予想していたので、心臓が動いている状態で集中治療室に入室できたこの状況は、まずまずの結果だろう。
ただし、患者の状態は、今もなお予断を許さない状況である。昇圧剤を限界量近くまで使用した状態でも血圧は低く、輸血は続いている。その上、頭蓋内出血も残存している。こちらは脳外科医にコンサルトした結果、保存的治療の方針になったが、仮に血腫が増大して外科的治療が必要になったとしても、今の状態で再度手術するのは難しいだろう。
加えて、心停止も起こしている。院内での心停止だったので、処置は早かったが、だからといって心停止時の全身へのダメージは軽視できない。
看護師の手によって心電図のコードなどの測定器具が、ベッドの上に横たわっているザマスという名の患者に、次々とつけられていく様を眺めながら、フューは、
「もしかしたら、この人、このまま死ぬかもしれないな」
と、小さく口の中で呟いたのだった。
そして、それから五日目の今日。
患者は、フューの予想を裏切る回復ぶりを見せていた。
マウスをクリックしながら、検査データや主治医の記録、看護師が入力した経過表を眺めていく。どの値も、手術当日とは比べものにならないほどに改善していた。フューはオレンジジュースを急いで飲み干すと、空になった紙パックを近くのゴミ箱に投げ捨てて、足早に集中治療室へと向かった。
エレベーターで下りて、廊下を進み、集中治療室の自動扉をくぐると、真っ直ぐ患者の元へと行く。
あの患者は、ベッドの上で静かに眠っていた。いや、鎮静剤を常時投与されているので、眠らされているという表現の方が正しいか。
眠らされている患者の口からは管が出ており、それはそばに設置された人工呼吸器に繋がっている。術後は無数の点滴ルートが繋がれていたが、その数も減り、人工呼吸器のサポートも軽くなっていて、目に見えて状態が落ち着いているのがわかった。
この患者の主治医は、救急科の医師で、外科の分野はフューの上級医が担当している。
外科医の間で行われる朝のカンファレンスの時に、この患者の状態は報告されていたので、ある程度の状態はフューも把握していたが――まさか、ここまで回復していたとは。
フューは、興味深そうに目を輝かせながら、患者の浴衣の前をはだけさせた。
「あれ? 先生、何か処置をするんですか?」
近くにいた中年の看護師がフューに声をかけてきた。
「いや、傷口を見たいだけだから、何もする気はないよ」
「それならいいですけど、患者さんをはだけさせるなら、せめてカーテンを閉めてからやってくださいよ」
小言を言いながら、しゃっとカーテンを引いてくれた。
カーテンで隔離された空間の中で、患者と二人っきりになったフューは、意気揚々と患者の体を観察する。腹部の傷口は治癒良好で、右腕の傷も良くなっている。鋭利な硝子片で動脈を損傷するほどの傷を負ったことで、神経断裂も懸念されたが、どうやら腕は動かせるようだ。もっとも、腕が事故前と同じように動かせるかどうかは、鎮静剤を切ってから評価しないとはっきりしないだろうが。
そういえば、右目の怪我はどうなったのだろうか。
カルテには、右目の近くにあった傷は、幸いなことに眼球に達していなかったと記載されていた。しかし、事故の衝撃で網膜に浮腫をきたしているとも書いてあったので、基本的に安静のまま経過観察とするらしいが、こちらも視力に異常が無いかは鎮静剤を切らないと分からないだろう。
フューが片手で患者の閉じていた右目の瞼を開くと、眠っていた患者は僅かに覚醒し、嫌そうに首を横に振った。
フューは、患者の肩をとんとんと叩くと、
「ねぇ、僕の声、聞こえる? 僕の手を握ってみて?」
フューが患者の手を握ると、僅かな間を置いて、ぎゅっと握り替えされた。
「……へえ、意識もそれなりに戻ってるんだ」
感心したようにフューは呟く。数秒経ったら、患者の手から力が抜けた。鎮静剤の影響で、また眠ってしまったのだろう。
その時、カーテンを開けて主治医が入ってきた。後ろ手にカーテンを閉めながら、髪に白いものが混じっている男性の救急科医師は、不思議そうにフューに声をかけた。
「何か処置をしに来たのか?」
「いえ、この患者さんのことが気になったので、勝手に来ただけです」
フューがそう言うと、この患者の事故現場にフューが居合わせていたことを思い出した救急科医は、得心を得たようになるほどと頷いた。
「そういえば、この患者の腹部のドレーンはまだ抜けないのか?」
「朝の外科カンファでは、今日には抜くって言ってましたよ。外来が終わったら、外科の担当医が抜きに来るんじゃないんですかね?」
フューの言葉を聞いて、救急科医は満足そうに柔らかな笑みを浮かべた。ぱっと見、大人しくて優しそうな救急医なのだが、穏やかな口調のまま研修医や研修医上がりの医師の知識不足や不備を問い詰めてくるため、年若い医師からは恐れられていた。
フューは患者の寝衣を元に戻すと、救急医に挨拶をしてその場を後にした。集中治療室を出て、院内のコンビニに向かう。
おやつ時になるというのに、仕事が忙しくて昼食を食べていなかったのだ。少なくなった食料棚を眺めながら、フューはあの患者の意識がはっきりしたら、何を話そうかとわくわくしていた。
患者が目覚めるのは、まだ先になるだろう。それどころか、容態が急変して言葉を発する状態に戻らないかもしれない。確実に、患者は目覚めると言える状態では無いのにもかかわらず、それでもフューは、自分の心が浮き足立つのが止められなかった。
一時は心臓すら止まるほど半死半生の状態だったというのに、それでもあれだけの回復力を見せてくれるとは。
フューは、昔からあの患者のように、生命力に溢れた人間に強く興味をそそられた。子供の頃は、目を輝かせてワールドカップやオリンピックをテレビで観戦していたので、両親は自分がスポーツが好きなのだと思い込んでいしたし、フュー自身そうなのだと思っていた。
だが、そうではないと気が付いたのは、十代の初め頃。
自分が興味があるのはスポーツではなく、人間の限界と可能性を広げてくれる人間に興味があり、その人間に強く心を轢かれるのだと気が付いた。
強靱な肉体と生命力を持った人間と関わり合いたいし、話したいし、普段、何を考えているのか知りたい。もっと言えば、その強い人間の体を隅々まで調べてみたいという、猟奇じみた欲求が根底にある。
医者になったのも、医師免許を取れば、その欲求を合法的に満たせると思ったからだ。
……まあ、日常的に診るのは、体の弱った高齢者がほとんどなのだが。
スポーツ医学の道に進んで、普段から体を鍛えているアスリートを診ることも考えたが、それと同じくらい内臓を切ってみたかったので外科医を選んだ。十分に悩んだ末の結論なので、この選択は後悔していない。
――どうせなら、僕があの患者の担当したかったなー。
そして、もっとじっくりあの患者の腹の中を、隅から隅まで観察しておくべきだった。出血を止めるのに必死だったからどうしようもなかったが、あのような生命力に溢れた人間の腹の中を見る機会など、早々来ない。
――なんで、この国は必要な時にしか手術したら駄目なのかな。医者が診たい時に患者のお腹を開かせてくれたら良いのに。
物騒なことを考えながら、フューはお昼ご飯用のサンドイッチとペットボトルのコーヒーを手にレジへ向かう。支払いを済ませた後、昼食が詰まったビニール袋を片手に医局に戻ろうとしたところで、背後から声をかけられた。
「なあ、あんた。今、暇か?」
振り返ると、そこには二人の男が立っていた。どちらも警察官の服を着ている。ひとりは二十代そこそこの警官で緊張しているようだが、もうひとりは違う。威圧感のある鋭い目つきの男は、年の頃は三十代ぐらいだろうか。逆立った髪型と、警察の制服の上からでも分かるくらい鍛えられた肉体が目を引いた。
「……警察?」
警戒しながらフューが誰何の声を出すと、その男は制服のポケットから手帳を出した。
警察手帳に記載された顔写真は目の前の男とそっくりだ。指で名字が隠れて見えなかったが、ゴジータと書かれた名前は読み取れた。
「交通課交通捜査係の者だ」
隣の年若い警官が同じように名乗ってくるが、フューはそちらには視線も向けず、ゴジータの方を警戒した。
どう考えても、主導権を握っているのはこの男の方だ。もうひとりは見た感じ、新人かその程度の立場だろうから無視していいだろう。
「警察が何か用?」
「五日前の事件について調べている」
途端に、フューの眉間に皺が寄った。
「その件なら、警察署で散々説明したけど?」
五日前の大手術の後、指示出しやら追加の処置やらをやった結果、手が空いたのは朝の五時。二時間ほど院内の空いている当直室で仮眠して、朝起きたら仕事だ。
その日は日曜日なので、本来ならば病院で仕事する必要はないのだが、外科は土日の間は持ち回りで入院している患者の状態を確認しており、その日の当番はフューだった。無論、勤務外の労働であり、明らかに労働基準法違反なのだが、医師の労働の実態なんてこんなものである。
幸いなことに、全ての患者が落ち着いていたので、お昼時には家に帰れそうだったのだが、さて帰ろうかと着替えていた時、警察から事件に居合わせたことで、呼び出しがかかったのである。結局、そのまま病院から警察署に直行し、しかも、聴取が長引いたせいで警察から解放されたのは夜だった。
眠気に抗いながら、事細かに事件の状況を説明してやったというのに、まだ聞きたいことがあるのか。
ちなみに、家に帰ってすぐ三時間ほど寝たのだが、再び別件の緊急手術で呼ばれたので、その二日間の睡眠時間は計五時間である。
「聞きたいのは事件当時のことじゃなくて、ここに運び込まれた被害者の状態についてだ」
「患者の状態を聞きたいなら、手続きをして申し込んで。僕からは勝手に喋れないよ」
おそらく、ゴジータと名乗った警官の方が年上だろう。だが、フューはお構いなくため口で会話した。ゴジータも、特に気にした様子はない。
「手続きが面倒くさい。今ここで、喋れないか?」
「馬鹿言わないでよ」
フューが非難の声を上げる。隣の若い警察官も驚いたようで、口を挟まないものの、心配そうにちらちらとゴジータの方に視線を向けていた。
「医者には守秘義務があるんだから、警察といえども正規の手続きを踏んでなかったら、患者の個人情報は渡せないよ」
二人が立ち話しているのは、この病院で働くスタッフや患者、その家族など多くの人が行き交う院内のコンビニの前。『警察』という存在に興味をそそられてか、ちらちらとフュー達に視線をやる通行人も多かった。
周りの視線が気になったフューは、じろっと辺りを見回すと、
「取り敢えず、こっち来て」
低く抑えた声で、そう伝えたのだった。
紙パックのオレンジジュースを飲んでいたフューは、医局で電子カルテを眺めつつ、思わずぽつりと呟いた。
五日前、フューが居合わせたあの轢き逃げ事件の被害者のカルテだ。フューは目を輝かせながら、ザマスという名の男性のカルテを読み進めていく。
あの後、救急隊員の言うとおり、被害者はフューが勤務している大学病院に運び込まれ、病院の関連部署は、突如、運び込まれた交通外傷患者の対応で大わらわとなった。土曜日の病院は、休日体制になっているので、院内で勤務する医療従事者は少ない。そのため、手術や検査のために、何人もの医者や看護師が電話で呼び出されることになったのだ。
その呼び出しは、招集を予想して病院に向かう途中だった、フューにもかかってきた。
――高エネルギー外傷の患者が来た。たぶん、オペになる。
その日、救急外来の日直を担当していた外科医からのメッセージである。病院の電話ではなく、私用のメッセージアプリで送られてきた第一報を確認したフューは、『了解』と短く返事をすると、その場でハーツと別れて病院に向かった。
救助の最中に血だらけになった両手は、車に突っ込まれて滅茶苦茶になった店のトイレで綺麗にした。血塗れのままでいるわけにもいかず、どこか手を洗える場所はないかと探していたら、その店の店長が見かねてトイレを貸してくれたのだ。
フューは、不運な目にあった店長に礼を言って店を出た後、近くのパーキングエリアに駐めておいた自分のバイクに跨がり、大学病院へと向かった。病院に辿り着いたフューは、職員専用の駐車場にバイクを止めると、私服のまま救急外来へと走る。
辿り着いたそこは、戦場と言ってもいいほどに、喧噪と興奮に満ちた場所になっていた。医師の、怒号に近い指示が飛び、看護師が忙しなく検査の準備や処置を行う。
看護師へ指示を出していた救急外来日直の外科医が、救急外来の入り口で様子を眺めていたフューに目敏く気が付いた。外科医はフューの上級医に当たる。
――今すぐ着替えて来い!そして、この患者をCTに連れて行け!
上級医の指示を聞いたフューは、慌てて更衣室で紺色のスクラブに着替えて救急外来に舞い戻ると、手袋やガウン、マスクなどの防護具を装着し、未だに興奮が冷めやらない現場に飛び込んでいく。
そこからは怒濤の忙しさだった。循環動態が不安定で救急外来での初期治療にも反応が乏しい患者に、細心の注意を払いながら造影CTを行う。
そうして撮った造影CTの結果も、思わず頭を抱えるほどだった。頭も肺も腹部の臓器も損傷しているし、大動脈も右腕の動脈も損傷している。死んでいないのが不思議なくらいだ。CTの結果を見た医師達は、一様に顔を強張らせた。そして、救急科と治療に関係する部署の医師が話し合った結果は、緊急手術。
大動脈と右腕の動脈と肝損傷による出血。同時に対処しないといけない出血点が三つもあるため、血管外科、外科などの医師らが協議しながら緊急手術を行うことになった。動脈損傷に対する手術は血管外科の医師にお任せとなるが、肝損傷は当然、外科医の担当となる。
外科医でチームが組まれ、当たり前のようにそのまま手術に入らされたフューが、患者とともに手術室から出てきたのは、日付が変わってしばらく経った後だった。
ベッドで眠っている患者を、麻酔科医師や看護師と一緒に集中治療室へと搬送。人工呼吸器を眠っている患者に繋げたところで、フューは患者からよろよろと離れると、近くにあった記録台の椅子にぐったりと座りこむ。
久々に、体力も気力も限界まで削り取られた手術だった。ただでさえ、気の抜けない手術だというのに、一度など、突如として心停止になったので、手術を中断して心臓マッサージを行ったりもしたのだ。そうやって、術中、数リットルの輸血をしながら行われた手術は、一応終了。
正直、死体となった患者と一緒に出てくることも予想していたので、心臓が動いている状態で集中治療室に入室できたこの状況は、まずまずの結果だろう。
ただし、患者の状態は、今もなお予断を許さない状況である。昇圧剤を限界量近くまで使用した状態でも血圧は低く、輸血は続いている。その上、頭蓋内出血も残存している。こちらは脳外科医にコンサルトした結果、保存的治療の方針になったが、仮に血腫が増大して外科的治療が必要になったとしても、今の状態で再度手術するのは難しいだろう。
加えて、心停止も起こしている。院内での心停止だったので、処置は早かったが、だからといって心停止時の全身へのダメージは軽視できない。
看護師の手によって心電図のコードなどの測定器具が、ベッドの上に横たわっているザマスという名の患者に、次々とつけられていく様を眺めながら、フューは、
「もしかしたら、この人、このまま死ぬかもしれないな」
と、小さく口の中で呟いたのだった。
そして、それから五日目の今日。
患者は、フューの予想を裏切る回復ぶりを見せていた。
マウスをクリックしながら、検査データや主治医の記録、看護師が入力した経過表を眺めていく。どの値も、手術当日とは比べものにならないほどに改善していた。フューはオレンジジュースを急いで飲み干すと、空になった紙パックを近くのゴミ箱に投げ捨てて、足早に集中治療室へと向かった。
エレベーターで下りて、廊下を進み、集中治療室の自動扉をくぐると、真っ直ぐ患者の元へと行く。
あの患者は、ベッドの上で静かに眠っていた。いや、鎮静剤を常時投与されているので、眠らされているという表現の方が正しいか。
眠らされている患者の口からは管が出ており、それはそばに設置された人工呼吸器に繋がっている。術後は無数の点滴ルートが繋がれていたが、その数も減り、人工呼吸器のサポートも軽くなっていて、目に見えて状態が落ち着いているのがわかった。
この患者の主治医は、救急科の医師で、外科の分野はフューの上級医が担当している。
外科医の間で行われる朝のカンファレンスの時に、この患者の状態は報告されていたので、ある程度の状態はフューも把握していたが――まさか、ここまで回復していたとは。
フューは、興味深そうに目を輝かせながら、患者の浴衣の前をはだけさせた。
「あれ? 先生、何か処置をするんですか?」
近くにいた中年の看護師がフューに声をかけてきた。
「いや、傷口を見たいだけだから、何もする気はないよ」
「それならいいですけど、患者さんをはだけさせるなら、せめてカーテンを閉めてからやってくださいよ」
小言を言いながら、しゃっとカーテンを引いてくれた。
カーテンで隔離された空間の中で、患者と二人っきりになったフューは、意気揚々と患者の体を観察する。腹部の傷口は治癒良好で、右腕の傷も良くなっている。鋭利な硝子片で動脈を損傷するほどの傷を負ったことで、神経断裂も懸念されたが、どうやら腕は動かせるようだ。もっとも、腕が事故前と同じように動かせるかどうかは、鎮静剤を切ってから評価しないとはっきりしないだろうが。
そういえば、右目の怪我はどうなったのだろうか。
カルテには、右目の近くにあった傷は、幸いなことに眼球に達していなかったと記載されていた。しかし、事故の衝撃で網膜に浮腫をきたしているとも書いてあったので、基本的に安静のまま経過観察とするらしいが、こちらも視力に異常が無いかは鎮静剤を切らないと分からないだろう。
フューが片手で患者の閉じていた右目の瞼を開くと、眠っていた患者は僅かに覚醒し、嫌そうに首を横に振った。
フューは、患者の肩をとんとんと叩くと、
「ねぇ、僕の声、聞こえる? 僕の手を握ってみて?」
フューが患者の手を握ると、僅かな間を置いて、ぎゅっと握り替えされた。
「……へえ、意識もそれなりに戻ってるんだ」
感心したようにフューは呟く。数秒経ったら、患者の手から力が抜けた。鎮静剤の影響で、また眠ってしまったのだろう。
その時、カーテンを開けて主治医が入ってきた。後ろ手にカーテンを閉めながら、髪に白いものが混じっている男性の救急科医師は、不思議そうにフューに声をかけた。
「何か処置をしに来たのか?」
「いえ、この患者さんのことが気になったので、勝手に来ただけです」
フューがそう言うと、この患者の事故現場にフューが居合わせていたことを思い出した救急科医は、得心を得たようになるほどと頷いた。
「そういえば、この患者の腹部のドレーンはまだ抜けないのか?」
「朝の外科カンファでは、今日には抜くって言ってましたよ。外来が終わったら、外科の担当医が抜きに来るんじゃないんですかね?」
フューの言葉を聞いて、救急科医は満足そうに柔らかな笑みを浮かべた。ぱっと見、大人しくて優しそうな救急医なのだが、穏やかな口調のまま研修医や研修医上がりの医師の知識不足や不備を問い詰めてくるため、年若い医師からは恐れられていた。
フューは患者の寝衣を元に戻すと、救急医に挨拶をしてその場を後にした。集中治療室を出て、院内のコンビニに向かう。
おやつ時になるというのに、仕事が忙しくて昼食を食べていなかったのだ。少なくなった食料棚を眺めながら、フューはあの患者の意識がはっきりしたら、何を話そうかとわくわくしていた。
患者が目覚めるのは、まだ先になるだろう。それどころか、容態が急変して言葉を発する状態に戻らないかもしれない。確実に、患者は目覚めると言える状態では無いのにもかかわらず、それでもフューは、自分の心が浮き足立つのが止められなかった。
一時は心臓すら止まるほど半死半生の状態だったというのに、それでもあれだけの回復力を見せてくれるとは。
フューは、昔からあの患者のように、生命力に溢れた人間に強く興味をそそられた。子供の頃は、目を輝かせてワールドカップやオリンピックをテレビで観戦していたので、両親は自分がスポーツが好きなのだと思い込んでいしたし、フュー自身そうなのだと思っていた。
だが、そうではないと気が付いたのは、十代の初め頃。
自分が興味があるのはスポーツではなく、人間の限界と可能性を広げてくれる人間に興味があり、その人間に強く心を轢かれるのだと気が付いた。
強靱な肉体と生命力を持った人間と関わり合いたいし、話したいし、普段、何を考えているのか知りたい。もっと言えば、その強い人間の体を隅々まで調べてみたいという、猟奇じみた欲求が根底にある。
医者になったのも、医師免許を取れば、その欲求を合法的に満たせると思ったからだ。
……まあ、日常的に診るのは、体の弱った高齢者がほとんどなのだが。
スポーツ医学の道に進んで、普段から体を鍛えているアスリートを診ることも考えたが、それと同じくらい内臓を切ってみたかったので外科医を選んだ。十分に悩んだ末の結論なので、この選択は後悔していない。
――どうせなら、僕があの患者の担当したかったなー。
そして、もっとじっくりあの患者の腹の中を、隅から隅まで観察しておくべきだった。出血を止めるのに必死だったからどうしようもなかったが、あのような生命力に溢れた人間の腹の中を見る機会など、早々来ない。
――なんで、この国は必要な時にしか手術したら駄目なのかな。医者が診たい時に患者のお腹を開かせてくれたら良いのに。
物騒なことを考えながら、フューはお昼ご飯用のサンドイッチとペットボトルのコーヒーを手にレジへ向かう。支払いを済ませた後、昼食が詰まったビニール袋を片手に医局に戻ろうとしたところで、背後から声をかけられた。
「なあ、あんた。今、暇か?」
振り返ると、そこには二人の男が立っていた。どちらも警察官の服を着ている。ひとりは二十代そこそこの警官で緊張しているようだが、もうひとりは違う。威圧感のある鋭い目つきの男は、年の頃は三十代ぐらいだろうか。逆立った髪型と、警察の制服の上からでも分かるくらい鍛えられた肉体が目を引いた。
「……警察?」
警戒しながらフューが誰何の声を出すと、その男は制服のポケットから手帳を出した。
警察手帳に記載された顔写真は目の前の男とそっくりだ。指で名字が隠れて見えなかったが、ゴジータと書かれた名前は読み取れた。
「交通課交通捜査係の者だ」
隣の年若い警官が同じように名乗ってくるが、フューはそちらには視線も向けず、ゴジータの方を警戒した。
どう考えても、主導権を握っているのはこの男の方だ。もうひとりは見た感じ、新人かその程度の立場だろうから無視していいだろう。
「警察が何か用?」
「五日前の事件について調べている」
途端に、フューの眉間に皺が寄った。
「その件なら、警察署で散々説明したけど?」
五日前の大手術の後、指示出しやら追加の処置やらをやった結果、手が空いたのは朝の五時。二時間ほど院内の空いている当直室で仮眠して、朝起きたら仕事だ。
その日は日曜日なので、本来ならば病院で仕事する必要はないのだが、外科は土日の間は持ち回りで入院している患者の状態を確認しており、その日の当番はフューだった。無論、勤務外の労働であり、明らかに労働基準法違反なのだが、医師の労働の実態なんてこんなものである。
幸いなことに、全ての患者が落ち着いていたので、お昼時には家に帰れそうだったのだが、さて帰ろうかと着替えていた時、警察から事件に居合わせたことで、呼び出しがかかったのである。結局、そのまま病院から警察署に直行し、しかも、聴取が長引いたせいで警察から解放されたのは夜だった。
眠気に抗いながら、事細かに事件の状況を説明してやったというのに、まだ聞きたいことがあるのか。
ちなみに、家に帰ってすぐ三時間ほど寝たのだが、再び別件の緊急手術で呼ばれたので、その二日間の睡眠時間は計五時間である。
「聞きたいのは事件当時のことじゃなくて、ここに運び込まれた被害者の状態についてだ」
「患者の状態を聞きたいなら、手続きをして申し込んで。僕からは勝手に喋れないよ」
おそらく、ゴジータと名乗った警官の方が年上だろう。だが、フューはお構いなくため口で会話した。ゴジータも、特に気にした様子はない。
「手続きが面倒くさい。今ここで、喋れないか?」
「馬鹿言わないでよ」
フューが非難の声を上げる。隣の若い警察官も驚いたようで、口を挟まないものの、心配そうにちらちらとゴジータの方に視線を向けていた。
「医者には守秘義務があるんだから、警察といえども正規の手続きを踏んでなかったら、患者の個人情報は渡せないよ」
二人が立ち話しているのは、この病院で働くスタッフや患者、その家族など多くの人が行き交う院内のコンビニの前。『警察』という存在に興味をそそられてか、ちらちらとフュー達に視線をやる通行人も多かった。
周りの視線が気になったフューは、じろっと辺りを見回すと、
「取り敢えず、こっち来て」
低く抑えた声で、そう伝えたのだった。