第十三話 入り乱れる思惑(8月23日 日曜日)
都心からやや離れた場所にあるタワーマンション。
藍色と橙色が入り交じった夕暮れの空を背景にして、そのタワーマンションは威風堂々とそびえ立っていた。
その高層階にハーツの住居は位置している。ザマスは、そのマンションを見上げたままの姿勢で、しばらく立ち止まっていた。
立ち止まっていた理由は、見るからに高級なタワーマンションに圧倒されたから、というのも理由のひとつにあるのだが、何よりもこれからハーツに会うのに躊躇いがあったからである。
スマートフォンに入っている監視アプリは、そのままにしている。GPSもオンにしたままなので、ザマスがマンションの前まで来ているのは、ハーツもわかっているだろう。
奴の狙いが何かわからない以上、相手に警戒心は持たせたくない。プライバシーを覗き見されている気味の悪さはあったが、ザマスはそれを抑えて、監視アプリの入ったスマートフォンを持って、ここまでやって来たのだ。
ザマスは、深呼吸をひとつすると、意を決して歩を進める。
今更、後に引けるか。
神は言った。自らを助ける者を助けると。ならば、道を切り開こうと立ち向かう自分にこそ、神のご加護があるはずだ。
マンションの正面玄関前は、綺麗なブロックで整備された開放的な場所だった。ザマスが住んでいるマンションよりも大きな正面玄関扉の横手の壁には、インターフォンが設置されている。
ザマスは、事前に教えられた部屋番号を押す。
数秒のあと、女性――いや、少女の声で返事があった。ハーツと一緒に暮らしている子供だろう。
ハーツが出るものと思っていたザマスは、少々驚きながら、自分の名とハーツに招待されてここに来たことを告げた。
『……どうぞ』
少しの間を置いて、オートロック式の正面玄関が開く。
インターフォンから聞こえてきた声は、硝子のように涼やかな声だったが、言葉の端々が妙に刺々しい印象を受けた。
気のせいかと、ザマスは首を捻りながら正面玄関の扉をくぐると、休憩スペースまである広々とした玄関ホールを抜けて、エレベーターに乗る。
所定の階のボタンを押すと扉が閉まり、ぐんぐん空に飛び上がっているのが感じ取れた。
明らかに、一般的なマンションよりも速い。体感だが、一分程度だろうか。
ハーツの部屋が位置するのは、かなりの高層階なので、エレベーターでも時間がかかることを覚悟していたが、実際にはザマスの予想よりも速く、目的の階に辿り着いたのだった。
チン、と軽い音を立ててエレベーターが止まり、扉が開く。
左右に真っ直ぐ伸びた廊下を見渡し、並んだ部屋の番号を確かめていく。
広い割に、部屋の数は多くない。今住んでいるマンションに比べると、部屋の数は半分以下だった。
不思議に思いながら、目当ての部屋を見つけたザマスは、ひと呼吸置いた後、呼び鈴を鳴らす。
一拍の間を置いて、扉の向こうから近づいてくる足音が聞こえてきた。
緊張で高鳴る自分の心臓の音が、うるさい。
少しの間が、無限にも感じられたその時、玄関の扉が、がちゃっと開いた。
「やあ、ザマス。ようこそ」
ザマスを迎えたのは、いつものように余裕のある笑みをたたえたハーツだった。
真っ白なリネンのシャツを着た彼は、普段と変わりがない。表情も仕草も、いつも通りで、とても後ろ暗い部分があるようには見えなかった。
ザマスは自分に緊張が走るのを自覚した。
ハーツが心を読む力を持っているのなら、今、この瞬間、自分がハーツを疑っているのはバレたはずだ。
――それでも構わない。
少なくとも監視アプリを入れる時点で、ハーツは純粋な味方ではないとわかっていた。敵と会うなら、出会ってすぐに諍いが起こるのも覚悟している。
だからこそ、白黒つけるつもりでここに来たザマスは、逆に自分と相対しても何も変わったところを見せないハーツに対して、戸惑い混じりの疑念を抱いた。
……気づいていないのか? いや、もしかしたら気づいているが、知らない振りをしているのだろうか。もしそうだとしたら、何故?
疑念が頭の中をうるさく駆け巡る。
「ザマス、どうした?」
返事をするでもなく、自分の顔をじっと見たまま立ち尽くしているザマスを見て、ハーツは不思議そうに声をかけた。
ザマスは首を振ると、
「……なんでもない。ただ……随分、高価そうなマンションだと思っただけだ」
咄嗟に口をついて出たのは、嘘。
そう思っていないわけではないが、ハーツを目の前にした瞬間は、そのような事は考えていなかった。
ザマスの嘘に気づいているのかいないのか、ハーツは快活に笑うと、
「大した部屋じゃないから、そんなに畏まるな。さあ、中にどうぞ。食事の用意は出来ているぞ」
「……ああ。お邪魔する」
ぎこちない動作でザマスは部屋に入る。
靴棚の上に一輪の薔薇が生けられた花瓶が飾られている。手入れの行き届いた玄関で、靴を揃えて脱ぐと、ザマスはハーツの後を追った。
短い廊下を歩いて扉を開くと、夕暮れの空を背景にしたリビングが目に入った。
元々リビングが広いことに加え、その一面がベランダに続くガラス戸になっているおかげで、空の中にこの部屋が位置しているような錯覚さえ覚える。
ザマスは頭の片隅で、この階の部屋の数が少ない理由を悟った。おそらく、一部屋一部屋がかなり広いのだろう。だから、必然的に部屋数自体が少なくなっているのだ。
リビング中央の座卓の周りには、三人の子供と一匹の犬が座っている。その視線が、一斉にザマスの方を向いた。
子供のうち、二人はすぐに双子とわかるくらい顔の造作が似通っているが、もうひとりの少女は二人とは似ていない。
「ザマス、そこに座ってくれ。みんなに紹介する」
ハーツは、立ち止まっていたザマスの肩を抱くようにして押しながら、ザマスを子供達がいる座卓の席に着かせた。
子供三人が遠慮無く、品定めをするようにじろじろザマスを眺めてくる。
居心地の悪さを覚えているザマスを余所に、ハーツは和やかに子供達に話しかける。
「この人が、以前オレが話したザマスだ。
ザマス、この子供達がオレと一緒に暮らしている子達で、右からカミン、オレン、ラグスという名前だ。全員高校一年生だ。
あと、そこで寝ている犬がカンバーだ」
名前を呼ばれたカミンは澄ました顔をして「はじめまして」といい、オレンは気軽な口調で「よっ」とザマスに声をかけ、ラグスは無表情のまま「どうも」と呟いた。
犬は、ちらっとザマスに視線を向けた後、興味が無くなったのか目を閉じる。
子供達の反応は三者三様だが、ザマスは心の中で、全員、生意気そうだと感じた。
早速、ザマスと三人の子供の間で不協和音が流れているのだが、ハーツはそれに気づいているのかいないのか、
「飲み物を用意してくる。少し待っててくれ」
ザマスにそう声をかけると、その場から離れていったのだった。
「なあなあ」
ハーツが離れた途端、オレンと呼ばれた子が興味津々といった様子でザマスに話しかけてくる。
「その眼帯、どうしたんだ? 轢き逃げのせい?」
轢き逃げのせい、と聞いてくると言うことは、ハーツはこの子らに、事件の事を話しているということか。
子供ゆえ、好奇心旺盛というのは理解できるが、高校生になったのなら、そんな不躾な質問の仕方はどうなのかとザマスはむすっとする。
自分が高校生の頃はもっと、品行方正で礼儀正しかった気がする。
黙って無視するのも大人げないと思ったのか、ザマスは口を開く。
「そうだ。事故の時の怪我のせいで、眼帯をしていないと眩しくて仕方が無いんだ」
「へー」
オレンは興味深げに、しげしげとザマスの右目を覗き込んでくる。
まさか、眼帯を外そうなどとしないだろうなと警戒しつつ、ザマスは少しだけ身をひいた。
「結局、犯人は捕まったわけ?」
そう言ったのは、肩より上で髪を揃えたカミンで、頬杖をつきながら尋ねてきた。
ザマスが首を横に振ると、
「あらら。どんまい」
なんとも気さくな口調で話しかけてくる。
「ねえ、大学院って何やってんの?」
「神学? 神学って宗教学と何が違うわけ?」
「てか、それ面白い? 神様とか信じてるの?」
「就職先とかあるの? その学問」
気がほぐれたのか何なのか、オレンとカミンは矢継ぎ早にザマスに質問を投げかけてくる。遠慮の無い質問内容に、やや苛立ちながらも、神学の意義を教えてやると、二人は同時に興味なさげに、
『ふーん』
と、呟いたのだった。
……こいつら。
「こら、カミン、オレン。ザマスを困らせるな。お客さんだぞ」
お盆に飲み物を載せたハーツが戻ってきた。
「どうぞ」
「……頂く」
見た目は水が入ったグラスだが、中にはミントと輪切りになったレモンが浮かんでいた。
我先にとグラスに飛びついたオレンとカミンを横目に、ザマスは警戒しながらひんやり冷たいグラスを手に取って、ひとくち。
こくんと喉を鳴らして、水を飲むと、レモンの爽やかな酸味とミントすっとした清涼感が喉元を通り過ぎていった。
美味しい。
「美味しいだろう?」
ザマスの内心の呟きを『聴いた』かのように、ハーツが声をかけてきた。ザマスはぎくりと体を強張らせる。
――心を読まれたのだろうか。
警戒するザマスに気づいていないか、ハーツは自分の分の飲み物を片手に、ザマスの横に座った。
「ラグスが作ったレモンウォーターだ。よくできているだろう?」
そう言ってハーツが目で示したのは、先程から静かに座していた二つ編みの少女だった。
名前は、確かラグス。そういえば、先程インターフォンに出た声も、確かこの少女のものだった。
ハーツに声をかけられたラグスは一瞬、嬉しそうな表情を浮かべるも、その隣にいるザマスをむっと見つめたあと、ぷいっと横を向いて立ち上がり、キッチンの方へと去ってしまった。
心が読めなくてもわかる。彼女は、ザマスを歓迎していない。
ラグスから嫌われる理由に、思い当たるものがないザマスは、疑問符を浮かべながらもむっとした。
ハーツは苦笑しながら、
「すまない。恥ずかしがり屋なんだ」
「……気にしてない」
「お腹はすいているか? フューが来たら、食事を始めるから、それまで寛いでいてくれ」
ぴんぽーん。
ハーツの言葉が終わるや否や、呼び鈴が鳴った。
「噂をすれば」
ハーツは立ち上がり、インターフォンの方へと向かう。しばらくして、ハーツと共にレジ袋を手に持ったフューが、にこやかにリビングへと入ってきた。
「やあ、お子様達。久しぶり」
『うげ』
フューが来た途端、露骨に嫌そうな顔をするカミンとオレン。
「うげとは、なんだよ。うげとは。そんなこと言う子には、アイスはあげないよ」
「なんのアイス買ってきたんだよ」
「ちゃんと美味しいのを買ってきたんでしょうね?」
「うわ、可愛くない」
憎まれ口を叩きつつ、フューが下ろしたレジ袋に興味津々といった様子で近寄っていく双子。どうやら、このやり取りはいつものことらしい。
レジ袋をがさがさと漁る双子にアイスを任せて、フューはザマスの隣に座った。
「やあ、久しぶり。怪我の具合はどう?」
「問題ない」
「でも、眼帯は外れないみたいだね」
「……」
「君を担当している眼科の先生から聞いたよ。その右目、もしかしたら一生そのままかもしれないらしいね」
「……そのようだ」
先日、経過を見るために病院を受診した時、担当の眼科医から言われた。これだけ時間が経っても、眼の採光機能が正常に戻らないなら、治る見込みは低いだろうと。
眼帯を外した右目の虹彩は、事故の後からずっと濁っている。薄々、もしかしたらと思っていたが、改めて医師の口からその可能性を聞かされた時、ザマスは自身が闇に沈み込むような暗澹たる思いに囚われた。
無意識の内に、ザマスはそっと自分の右の眼帯に触れる。
「どうした? 痛むのか?」
振り向けば、いつの間にかお盆に料理を載せたハーツが背後に立っていた。
なんでもないとザマスが言うと、ハーツはしばらくザマスの顔を見つめていたが、やがて手に持ったままだった盆を座卓の上に置いて、料理を並べ始めた。
いつの間にか、ラグスもお盆を手に、キッチンから料理を運んでいる。
「お腹がすいただろう。しっかり食べるといい、ラグスが作った料理だ。味は保証する。
あ、カンバーのご飯はこっちだ。頼むから、お客さんの料理には手を出さないでくれよ」
起き上がったカンバーは、尻尾を振りながら料理に視線を向けている。
ハーツがカンバーの前に彼用のご飯を置くと、そちらの方にかぶりついたカンバーだったが、視線がちらちらと座卓に向いていた。
広い座卓に並べられる色とりどりの料理。
「わー、美味しそう」
ザマスの隣でフューは舌鼓を打っている。
ハーツとラグスが席に着くと、ホームパーティーという名の夕食会が始まったのだった。
ザマスはベランダに続くガラス戸を開けて、外に出た。
目に映るのは、人工の光でまばゆく光る都会と星の少ない夜空。
しばらく、じっと夜空を見上げていたザマスは、ふうっと溜め息をつくと、ベランダの手すりに腕を乗せてもたれ掛かったのだった。
エアコンで涼しかった室内とは違い、外は夏の熱気が残っている。だが、高層階だからか、強めの風が吹いているので暑苦しくはなかった。
夕食は意外なほど賑やかに終わった。基本的にハーツが喋り、双子やフューがそれにのっかり、ラグスやザマスが退屈しないように、ハーツが話を振っていた。
本当に絶妙なタイミングで話を振るので、ザマスも苦にならずに夕食ができた。あの、対人コミュニケーションの上手さは、心を読めるがゆえなのだろうか。
時々、ラグスから刺すような視線を向けられる以外は、ザマスも表面上はそつなく振る舞えたはずだ。
一度、あまりに視線が鬱陶しかったので、ハーツが席を立ったタイミングで、ラグスに何か言いたいことがあるのかと聞いてみたのだが、彼女は子供みたいにむくれた後、
「……別に」
と、呟いた後、何も答えなかったのである。
ハーツ達は今、テレビゲームをして遊んでいる。多人数で遊べるゲームらしいが、ゲームをしないザマスは、しばらく子供に交じって本気で遊んでいるフュー達を眺めた後、ひとりになりたくなってベランダに出てきたのである。
ザマスは溜め息をついた。
ハーツの真意を探るべく、勢い勇んでやってきたというのに、ここに来てからやったことと言えば、夕食を食べたくらいである。この家にやって来て、三時間は経っているというのに、収穫は全くない。
そもそも、今更過ぎるが、どうやってハーツの真意を探ったらいいのだろうか。
ここに来た時は、直接、聞き出してやろうと思っていたのだが、よくよく考えればハーツに嘘をつかれたら、どうしようもない。
仮にハーツが真意を話したところで――自分はそれを信じられるのか?
もやもやとした考えを抱きながら無意識の内に夜空を仰ぎ見て、さらに暗澹たる気持ちを抱いていると、背後から話しかけられた。
「君は、本当に夜空が好きなんだな」
驚いて振り返ると、ハーツがベランダに出てくるところだった。
「いつも熱心に星を眺めている」
「……」
ハーツはザマスの隣に来ると、ザマスと同じようにベランダの手すりにもたれ掛かった。
「たった今、教授と社長が死んだそうだ」
「!」
「フューから聞いた。今、フューの方に病院から連絡が入ったらしい。検死と解剖はこれからだそうだ」
「そうか」
「悲しいか?」
「悲しい? 誰が?」
予想外の質問をされて、驚いたザマスは目を丸くした。
「一応、二人とは顔見知りだったんだろう? 敵対していたとはいえ、見知った人間がひとり死んだんだ。何か、込み上げるものはないのか?」
「何も」
ザマスは吐き捨てるように、短く言葉を吐いた。
「あの人間どもは、神の教えに背き、神を利用していたゴミ屑だ。ゴミが死んだくらいで、何の感慨に浸る必要がある?」
ハーツは苦笑しながら、
「だろうな。君ならそう言うと思ったよ」
「……?」
ハーツの真意が読めずに、ザマスは眉をひそめた。
ザマスの怪訝そうな視線をよそに、ハーツは空を見上げると、
「なあ、ザマス。ザマスは、院を出たら、その後どうするんだ?」
「なんだ、藪から棒に」
「答えてくれないか」
視線こそ夜空に向けられていたが、口調は有無を言わせなかった。
ハーツの考えがわからず、しばらく彼の横顔を見つめて考え込んでいたザマスは、やがて視線をハーツから外して俯くと、語り始めた。
「……昨日、助手の採用試験の選考結果が届いた。結果は……不採用だった」
ハーツは無言のまま、聞いている。
「指導教員も後続が決まらない。
このままいけば、博士号取得も難しいだろう。今年で博士号が取得できなかったら、留年してでも目指すつもりだが……もし、それでも博士号が取れなかったら、あの教会に牧師見習いとして就職することも考えている。先方は、快く私を迎えてくれるらしい」
先日、牧師夫婦に会った時、ザマスに『いつまでも待っている』と言ってくれた。
嬉しくもある反面、まるで牧師夫婦がザマスの博士号取得を願っていないようで、複雑な気持ちになったのを覚えている。
ハーツは視線を夜空から、眼下の都会へと移した。
「もし仮に、教会に就職したら、君はその牧師夫妻の娘さんと結婚するのか」
「……」
ザマスはしばらく沈黙した後、
「……おそらくは。相手方はそれを望んでいると思う」
「ザマスはそれでいいのか? 失礼だが、君はその娘さんを愛していないだろう?」
「良いも悪いも。神と関わる職業に就きたいなら、そうするしかない。牧師見習いから牧師になるには、現役牧師の推薦が必要なのだ」
それに、牧師夫妻が営む教会は大きくない。何人も牧師を雇えるほどの余裕が無いのは見て明らか。
仮に、牧師夫妻の娘が別の男性と結婚した場合、おそらくその男性は牧師になる。
そうなった場合、ザマスの居場所があるかと言われると――おそらくは、ないだろう。
ザマスは沈んだ声のまま、
「この国は、神を信じるだけでは生活していけない。神への信仰すらも経済活動に組み込んでいかないと、飢え死にするしかない」
「だから、好きでもない相手と結婚すると?」
「私は、最終的に学問の場に戻ってきたいと思っている。だが、学問を続けるための椅子は限りが有る」
ザマスは皮肉げな笑みを浮かべると、
「院長は死ぬ前に私に言ったよ。トラブルを起こす私を、どの大学も受け入れるはずがないと」
事実、助手の採用試験に落ちた。変わりに受かったのは、ザマスと同じ大学院研究科に所属する、ザマスよりも知識も探究心もない院生だった。
「それで、教会に就職するのか」
「教会で勤めた実績があれば、閉ざされた学問の道が再び開けるかもしれない。この世界で重要なのは、実績や肩書きや人脈。神への信仰心ではない」
「……」
ハーツは顔を上げると、ザマスの顔を真っ直ぐ見た。
「ザマス。君は怒るかもしれないが、オレには理解できない。神というのは、そんな人生を捧げてまで信仰しなければならないものか?」
「当たり前だ」
間髪入れず、ザマスは答えた。その瞳に迷いはない。
「神に仕え、神の言葉に従い、神の望むように生きるのが人間の定めだ。神の思考を正しく理解するための学問にまた戻れるなら、人生の一部を差し出すなど容易いことだ」
ザマスの口調は有無を言わせなかった。
ザマスの頑迷な言葉を聞いたハーツは、歯がゆそうにうなじを掻きながら視線を逸らすと、ぽつりと呟いた。
「別の道は選べないのか?」
「別の道? そのようなものは……」
「うちで暮らさないか?」
「……は?」
突然の提案を耳にして、ザマスは呆けた声を漏らした。
「ちょうど、ひとつ部屋が余っているから、それを使えば良い。この家が嫌だと言うなら、今、住んでいるマンションに住み続ければいい。
生活費は気にしなくていい。人ひとりくらい増えても問題ない。それに、英語が堪能な君が店を手伝ってくれると、こちらも助かる。
だから、君は店を手伝いながら、神学の研究を独自に続ければ良い。どうだ?」
「どうだと言われても……」
戸惑ったザマスは、咄嗟に答えを出すことができなかった。
「不満か? やはり、正式に研究者として学問に関わらなければ嫌か?」
「それは確かにそうだが……」
しどろもどろになる自身を、ザマスは叱咤して律する。
ザマスはハーツの目を真っ直ぐに見ると、
「私は理解できない。お前は、なぜ私に対してそこまで尽くそうとする?」
「また、その質問か」
ハーツは苦笑する。
「オレは、君に自由になって欲しいと思っている。その手助けをしたいんだ」
「本当にそれだけか? 本当に?」
「……どうした? 随分、必死に尋ねてくるな」
「それは……」
ハーツが怪訝そうに尋ねると、ザマスは咄嗟にハーツから視線を逸らして口籠もった。
「……それは、お前が変なことを言うからだ」
「まあ、確かに我ながら突拍子もなかったな」
ハーツは手すりから身を離すと、
「いきなり変なことを言って悪かった。ただ、オレは本気で考えているから、この話、考えてくれ。そして、もしオレの申し出を受けたくなったら、いつでも言ってくれ」
「……」
なんと答えるべきかわからず、ザマスが黙っていると、
「そういえば、今日はもう泊まっていかないか? もう夜が遅いし、フューは泊まっていくそうだぞ」
「え?」
話がころころ変わるせいで頭がついて行かない。ザマスは自分の腕時計に目をやった。
既に時刻は23時を回っている。ザマスは一瞬、断ろうとしたが、すんでのところでその言葉を飲み込んだ。
ここに来た目的を思い出したのだ。
ハーツの目的を探るのだ。その目的を達成するためなら、この家に留まった方が良い。
そう考え直したザマスは、今夜はここに泊まると告げたのだった。
藍色と橙色が入り交じった夕暮れの空を背景にして、そのタワーマンションは威風堂々とそびえ立っていた。
その高層階にハーツの住居は位置している。ザマスは、そのマンションを見上げたままの姿勢で、しばらく立ち止まっていた。
立ち止まっていた理由は、見るからに高級なタワーマンションに圧倒されたから、というのも理由のひとつにあるのだが、何よりもこれからハーツに会うのに躊躇いがあったからである。
スマートフォンに入っている監視アプリは、そのままにしている。GPSもオンにしたままなので、ザマスがマンションの前まで来ているのは、ハーツもわかっているだろう。
奴の狙いが何かわからない以上、相手に警戒心は持たせたくない。プライバシーを覗き見されている気味の悪さはあったが、ザマスはそれを抑えて、監視アプリの入ったスマートフォンを持って、ここまでやって来たのだ。
ザマスは、深呼吸をひとつすると、意を決して歩を進める。
今更、後に引けるか。
神は言った。自らを助ける者を助けると。ならば、道を切り開こうと立ち向かう自分にこそ、神のご加護があるはずだ。
マンションの正面玄関前は、綺麗なブロックで整備された開放的な場所だった。ザマスが住んでいるマンションよりも大きな正面玄関扉の横手の壁には、インターフォンが設置されている。
ザマスは、事前に教えられた部屋番号を押す。
数秒のあと、女性――いや、少女の声で返事があった。ハーツと一緒に暮らしている子供だろう。
ハーツが出るものと思っていたザマスは、少々驚きながら、自分の名とハーツに招待されてここに来たことを告げた。
『……どうぞ』
少しの間を置いて、オートロック式の正面玄関が開く。
インターフォンから聞こえてきた声は、硝子のように涼やかな声だったが、言葉の端々が妙に刺々しい印象を受けた。
気のせいかと、ザマスは首を捻りながら正面玄関の扉をくぐると、休憩スペースまである広々とした玄関ホールを抜けて、エレベーターに乗る。
所定の階のボタンを押すと扉が閉まり、ぐんぐん空に飛び上がっているのが感じ取れた。
明らかに、一般的なマンションよりも速い。体感だが、一分程度だろうか。
ハーツの部屋が位置するのは、かなりの高層階なので、エレベーターでも時間がかかることを覚悟していたが、実際にはザマスの予想よりも速く、目的の階に辿り着いたのだった。
チン、と軽い音を立ててエレベーターが止まり、扉が開く。
左右に真っ直ぐ伸びた廊下を見渡し、並んだ部屋の番号を確かめていく。
広い割に、部屋の数は多くない。今住んでいるマンションに比べると、部屋の数は半分以下だった。
不思議に思いながら、目当ての部屋を見つけたザマスは、ひと呼吸置いた後、呼び鈴を鳴らす。
一拍の間を置いて、扉の向こうから近づいてくる足音が聞こえてきた。
緊張で高鳴る自分の心臓の音が、うるさい。
少しの間が、無限にも感じられたその時、玄関の扉が、がちゃっと開いた。
「やあ、ザマス。ようこそ」
ザマスを迎えたのは、いつものように余裕のある笑みをたたえたハーツだった。
真っ白なリネンのシャツを着た彼は、普段と変わりがない。表情も仕草も、いつも通りで、とても後ろ暗い部分があるようには見えなかった。
ザマスは自分に緊張が走るのを自覚した。
ハーツが心を読む力を持っているのなら、今、この瞬間、自分がハーツを疑っているのはバレたはずだ。
――それでも構わない。
少なくとも監視アプリを入れる時点で、ハーツは純粋な味方ではないとわかっていた。敵と会うなら、出会ってすぐに諍いが起こるのも覚悟している。
だからこそ、白黒つけるつもりでここに来たザマスは、逆に自分と相対しても何も変わったところを見せないハーツに対して、戸惑い混じりの疑念を抱いた。
……気づいていないのか? いや、もしかしたら気づいているが、知らない振りをしているのだろうか。もしそうだとしたら、何故?
疑念が頭の中をうるさく駆け巡る。
「ザマス、どうした?」
返事をするでもなく、自分の顔をじっと見たまま立ち尽くしているザマスを見て、ハーツは不思議そうに声をかけた。
ザマスは首を振ると、
「……なんでもない。ただ……随分、高価そうなマンションだと思っただけだ」
咄嗟に口をついて出たのは、嘘。
そう思っていないわけではないが、ハーツを目の前にした瞬間は、そのような事は考えていなかった。
ザマスの嘘に気づいているのかいないのか、ハーツは快活に笑うと、
「大した部屋じゃないから、そんなに畏まるな。さあ、中にどうぞ。食事の用意は出来ているぞ」
「……ああ。お邪魔する」
ぎこちない動作でザマスは部屋に入る。
靴棚の上に一輪の薔薇が生けられた花瓶が飾られている。手入れの行き届いた玄関で、靴を揃えて脱ぐと、ザマスはハーツの後を追った。
短い廊下を歩いて扉を開くと、夕暮れの空を背景にしたリビングが目に入った。
元々リビングが広いことに加え、その一面がベランダに続くガラス戸になっているおかげで、空の中にこの部屋が位置しているような錯覚さえ覚える。
ザマスは頭の片隅で、この階の部屋の数が少ない理由を悟った。おそらく、一部屋一部屋がかなり広いのだろう。だから、必然的に部屋数自体が少なくなっているのだ。
リビング中央の座卓の周りには、三人の子供と一匹の犬が座っている。その視線が、一斉にザマスの方を向いた。
子供のうち、二人はすぐに双子とわかるくらい顔の造作が似通っているが、もうひとりの少女は二人とは似ていない。
「ザマス、そこに座ってくれ。みんなに紹介する」
ハーツは、立ち止まっていたザマスの肩を抱くようにして押しながら、ザマスを子供達がいる座卓の席に着かせた。
子供三人が遠慮無く、品定めをするようにじろじろザマスを眺めてくる。
居心地の悪さを覚えているザマスを余所に、ハーツは和やかに子供達に話しかける。
「この人が、以前オレが話したザマスだ。
ザマス、この子供達がオレと一緒に暮らしている子達で、右からカミン、オレン、ラグスという名前だ。全員高校一年生だ。
あと、そこで寝ている犬がカンバーだ」
名前を呼ばれたカミンは澄ました顔をして「はじめまして」といい、オレンは気軽な口調で「よっ」とザマスに声をかけ、ラグスは無表情のまま「どうも」と呟いた。
犬は、ちらっとザマスに視線を向けた後、興味が無くなったのか目を閉じる。
子供達の反応は三者三様だが、ザマスは心の中で、全員、生意気そうだと感じた。
早速、ザマスと三人の子供の間で不協和音が流れているのだが、ハーツはそれに気づいているのかいないのか、
「飲み物を用意してくる。少し待っててくれ」
ザマスにそう声をかけると、その場から離れていったのだった。
「なあなあ」
ハーツが離れた途端、オレンと呼ばれた子が興味津々といった様子でザマスに話しかけてくる。
「その眼帯、どうしたんだ? 轢き逃げのせい?」
轢き逃げのせい、と聞いてくると言うことは、ハーツはこの子らに、事件の事を話しているということか。
子供ゆえ、好奇心旺盛というのは理解できるが、高校生になったのなら、そんな不躾な質問の仕方はどうなのかとザマスはむすっとする。
自分が高校生の頃はもっと、品行方正で礼儀正しかった気がする。
黙って無視するのも大人げないと思ったのか、ザマスは口を開く。
「そうだ。事故の時の怪我のせいで、眼帯をしていないと眩しくて仕方が無いんだ」
「へー」
オレンは興味深げに、しげしげとザマスの右目を覗き込んでくる。
まさか、眼帯を外そうなどとしないだろうなと警戒しつつ、ザマスは少しだけ身をひいた。
「結局、犯人は捕まったわけ?」
そう言ったのは、肩より上で髪を揃えたカミンで、頬杖をつきながら尋ねてきた。
ザマスが首を横に振ると、
「あらら。どんまい」
なんとも気さくな口調で話しかけてくる。
「ねえ、大学院って何やってんの?」
「神学? 神学って宗教学と何が違うわけ?」
「てか、それ面白い? 神様とか信じてるの?」
「就職先とかあるの? その学問」
気がほぐれたのか何なのか、オレンとカミンは矢継ぎ早にザマスに質問を投げかけてくる。遠慮の無い質問内容に、やや苛立ちながらも、神学の意義を教えてやると、二人は同時に興味なさげに、
『ふーん』
と、呟いたのだった。
……こいつら。
「こら、カミン、オレン。ザマスを困らせるな。お客さんだぞ」
お盆に飲み物を載せたハーツが戻ってきた。
「どうぞ」
「……頂く」
見た目は水が入ったグラスだが、中にはミントと輪切りになったレモンが浮かんでいた。
我先にとグラスに飛びついたオレンとカミンを横目に、ザマスは警戒しながらひんやり冷たいグラスを手に取って、ひとくち。
こくんと喉を鳴らして、水を飲むと、レモンの爽やかな酸味とミントすっとした清涼感が喉元を通り過ぎていった。
美味しい。
「美味しいだろう?」
ザマスの内心の呟きを『聴いた』かのように、ハーツが声をかけてきた。ザマスはぎくりと体を強張らせる。
――心を読まれたのだろうか。
警戒するザマスに気づいていないか、ハーツは自分の分の飲み物を片手に、ザマスの横に座った。
「ラグスが作ったレモンウォーターだ。よくできているだろう?」
そう言ってハーツが目で示したのは、先程から静かに座していた二つ編みの少女だった。
名前は、確かラグス。そういえば、先程インターフォンに出た声も、確かこの少女のものだった。
ハーツに声をかけられたラグスは一瞬、嬉しそうな表情を浮かべるも、その隣にいるザマスをむっと見つめたあと、ぷいっと横を向いて立ち上がり、キッチンの方へと去ってしまった。
心が読めなくてもわかる。彼女は、ザマスを歓迎していない。
ラグスから嫌われる理由に、思い当たるものがないザマスは、疑問符を浮かべながらもむっとした。
ハーツは苦笑しながら、
「すまない。恥ずかしがり屋なんだ」
「……気にしてない」
「お腹はすいているか? フューが来たら、食事を始めるから、それまで寛いでいてくれ」
ぴんぽーん。
ハーツの言葉が終わるや否や、呼び鈴が鳴った。
「噂をすれば」
ハーツは立ち上がり、インターフォンの方へと向かう。しばらくして、ハーツと共にレジ袋を手に持ったフューが、にこやかにリビングへと入ってきた。
「やあ、お子様達。久しぶり」
『うげ』
フューが来た途端、露骨に嫌そうな顔をするカミンとオレン。
「うげとは、なんだよ。うげとは。そんなこと言う子には、アイスはあげないよ」
「なんのアイス買ってきたんだよ」
「ちゃんと美味しいのを買ってきたんでしょうね?」
「うわ、可愛くない」
憎まれ口を叩きつつ、フューが下ろしたレジ袋に興味津々といった様子で近寄っていく双子。どうやら、このやり取りはいつものことらしい。
レジ袋をがさがさと漁る双子にアイスを任せて、フューはザマスの隣に座った。
「やあ、久しぶり。怪我の具合はどう?」
「問題ない」
「でも、眼帯は外れないみたいだね」
「……」
「君を担当している眼科の先生から聞いたよ。その右目、もしかしたら一生そのままかもしれないらしいね」
「……そのようだ」
先日、経過を見るために病院を受診した時、担当の眼科医から言われた。これだけ時間が経っても、眼の採光機能が正常に戻らないなら、治る見込みは低いだろうと。
眼帯を外した右目の虹彩は、事故の後からずっと濁っている。薄々、もしかしたらと思っていたが、改めて医師の口からその可能性を聞かされた時、ザマスは自身が闇に沈み込むような暗澹たる思いに囚われた。
無意識の内に、ザマスはそっと自分の右の眼帯に触れる。
「どうした? 痛むのか?」
振り向けば、いつの間にかお盆に料理を載せたハーツが背後に立っていた。
なんでもないとザマスが言うと、ハーツはしばらくザマスの顔を見つめていたが、やがて手に持ったままだった盆を座卓の上に置いて、料理を並べ始めた。
いつの間にか、ラグスもお盆を手に、キッチンから料理を運んでいる。
「お腹がすいただろう。しっかり食べるといい、ラグスが作った料理だ。味は保証する。
あ、カンバーのご飯はこっちだ。頼むから、お客さんの料理には手を出さないでくれよ」
起き上がったカンバーは、尻尾を振りながら料理に視線を向けている。
ハーツがカンバーの前に彼用のご飯を置くと、そちらの方にかぶりついたカンバーだったが、視線がちらちらと座卓に向いていた。
広い座卓に並べられる色とりどりの料理。
「わー、美味しそう」
ザマスの隣でフューは舌鼓を打っている。
ハーツとラグスが席に着くと、ホームパーティーという名の夕食会が始まったのだった。
ザマスはベランダに続くガラス戸を開けて、外に出た。
目に映るのは、人工の光でまばゆく光る都会と星の少ない夜空。
しばらく、じっと夜空を見上げていたザマスは、ふうっと溜め息をつくと、ベランダの手すりに腕を乗せてもたれ掛かったのだった。
エアコンで涼しかった室内とは違い、外は夏の熱気が残っている。だが、高層階だからか、強めの風が吹いているので暑苦しくはなかった。
夕食は意外なほど賑やかに終わった。基本的にハーツが喋り、双子やフューがそれにのっかり、ラグスやザマスが退屈しないように、ハーツが話を振っていた。
本当に絶妙なタイミングで話を振るので、ザマスも苦にならずに夕食ができた。あの、対人コミュニケーションの上手さは、心を読めるがゆえなのだろうか。
時々、ラグスから刺すような視線を向けられる以外は、ザマスも表面上はそつなく振る舞えたはずだ。
一度、あまりに視線が鬱陶しかったので、ハーツが席を立ったタイミングで、ラグスに何か言いたいことがあるのかと聞いてみたのだが、彼女は子供みたいにむくれた後、
「……別に」
と、呟いた後、何も答えなかったのである。
ハーツ達は今、テレビゲームをして遊んでいる。多人数で遊べるゲームらしいが、ゲームをしないザマスは、しばらく子供に交じって本気で遊んでいるフュー達を眺めた後、ひとりになりたくなってベランダに出てきたのである。
ザマスは溜め息をついた。
ハーツの真意を探るべく、勢い勇んでやってきたというのに、ここに来てからやったことと言えば、夕食を食べたくらいである。この家にやって来て、三時間は経っているというのに、収穫は全くない。
そもそも、今更過ぎるが、どうやってハーツの真意を探ったらいいのだろうか。
ここに来た時は、直接、聞き出してやろうと思っていたのだが、よくよく考えればハーツに嘘をつかれたら、どうしようもない。
仮にハーツが真意を話したところで――自分はそれを信じられるのか?
もやもやとした考えを抱きながら無意識の内に夜空を仰ぎ見て、さらに暗澹たる気持ちを抱いていると、背後から話しかけられた。
「君は、本当に夜空が好きなんだな」
驚いて振り返ると、ハーツがベランダに出てくるところだった。
「いつも熱心に星を眺めている」
「……」
ハーツはザマスの隣に来ると、ザマスと同じようにベランダの手すりにもたれ掛かった。
「たった今、教授と社長が死んだそうだ」
「!」
「フューから聞いた。今、フューの方に病院から連絡が入ったらしい。検死と解剖はこれからだそうだ」
「そうか」
「悲しいか?」
「悲しい? 誰が?」
予想外の質問をされて、驚いたザマスは目を丸くした。
「一応、二人とは顔見知りだったんだろう? 敵対していたとはいえ、見知った人間がひとり死んだんだ。何か、込み上げるものはないのか?」
「何も」
ザマスは吐き捨てるように、短く言葉を吐いた。
「あの人間どもは、神の教えに背き、神を利用していたゴミ屑だ。ゴミが死んだくらいで、何の感慨に浸る必要がある?」
ハーツは苦笑しながら、
「だろうな。君ならそう言うと思ったよ」
「……?」
ハーツの真意が読めずに、ザマスは眉をひそめた。
ザマスの怪訝そうな視線をよそに、ハーツは空を見上げると、
「なあ、ザマス。ザマスは、院を出たら、その後どうするんだ?」
「なんだ、藪から棒に」
「答えてくれないか」
視線こそ夜空に向けられていたが、口調は有無を言わせなかった。
ハーツの考えがわからず、しばらく彼の横顔を見つめて考え込んでいたザマスは、やがて視線をハーツから外して俯くと、語り始めた。
「……昨日、助手の採用試験の選考結果が届いた。結果は……不採用だった」
ハーツは無言のまま、聞いている。
「指導教員も後続が決まらない。
このままいけば、博士号取得も難しいだろう。今年で博士号が取得できなかったら、留年してでも目指すつもりだが……もし、それでも博士号が取れなかったら、あの教会に牧師見習いとして就職することも考えている。先方は、快く私を迎えてくれるらしい」
先日、牧師夫婦に会った時、ザマスに『いつまでも待っている』と言ってくれた。
嬉しくもある反面、まるで牧師夫婦がザマスの博士号取得を願っていないようで、複雑な気持ちになったのを覚えている。
ハーツは視線を夜空から、眼下の都会へと移した。
「もし仮に、教会に就職したら、君はその牧師夫妻の娘さんと結婚するのか」
「……」
ザマスはしばらく沈黙した後、
「……おそらくは。相手方はそれを望んでいると思う」
「ザマスはそれでいいのか? 失礼だが、君はその娘さんを愛していないだろう?」
「良いも悪いも。神と関わる職業に就きたいなら、そうするしかない。牧師見習いから牧師になるには、現役牧師の推薦が必要なのだ」
それに、牧師夫妻が営む教会は大きくない。何人も牧師を雇えるほどの余裕が無いのは見て明らか。
仮に、牧師夫妻の娘が別の男性と結婚した場合、おそらくその男性は牧師になる。
そうなった場合、ザマスの居場所があるかと言われると――おそらくは、ないだろう。
ザマスは沈んだ声のまま、
「この国は、神を信じるだけでは生活していけない。神への信仰すらも経済活動に組み込んでいかないと、飢え死にするしかない」
「だから、好きでもない相手と結婚すると?」
「私は、最終的に学問の場に戻ってきたいと思っている。だが、学問を続けるための椅子は限りが有る」
ザマスは皮肉げな笑みを浮かべると、
「院長は死ぬ前に私に言ったよ。トラブルを起こす私を、どの大学も受け入れるはずがないと」
事実、助手の採用試験に落ちた。変わりに受かったのは、ザマスと同じ大学院研究科に所属する、ザマスよりも知識も探究心もない院生だった。
「それで、教会に就職するのか」
「教会で勤めた実績があれば、閉ざされた学問の道が再び開けるかもしれない。この世界で重要なのは、実績や肩書きや人脈。神への信仰心ではない」
「……」
ハーツは顔を上げると、ザマスの顔を真っ直ぐ見た。
「ザマス。君は怒るかもしれないが、オレには理解できない。神というのは、そんな人生を捧げてまで信仰しなければならないものか?」
「当たり前だ」
間髪入れず、ザマスは答えた。その瞳に迷いはない。
「神に仕え、神の言葉に従い、神の望むように生きるのが人間の定めだ。神の思考を正しく理解するための学問にまた戻れるなら、人生の一部を差し出すなど容易いことだ」
ザマスの口調は有無を言わせなかった。
ザマスの頑迷な言葉を聞いたハーツは、歯がゆそうにうなじを掻きながら視線を逸らすと、ぽつりと呟いた。
「別の道は選べないのか?」
「別の道? そのようなものは……」
「うちで暮らさないか?」
「……は?」
突然の提案を耳にして、ザマスは呆けた声を漏らした。
「ちょうど、ひとつ部屋が余っているから、それを使えば良い。この家が嫌だと言うなら、今、住んでいるマンションに住み続ければいい。
生活費は気にしなくていい。人ひとりくらい増えても問題ない。それに、英語が堪能な君が店を手伝ってくれると、こちらも助かる。
だから、君は店を手伝いながら、神学の研究を独自に続ければ良い。どうだ?」
「どうだと言われても……」
戸惑ったザマスは、咄嗟に答えを出すことができなかった。
「不満か? やはり、正式に研究者として学問に関わらなければ嫌か?」
「それは確かにそうだが……」
しどろもどろになる自身を、ザマスは叱咤して律する。
ザマスはハーツの目を真っ直ぐに見ると、
「私は理解できない。お前は、なぜ私に対してそこまで尽くそうとする?」
「また、その質問か」
ハーツは苦笑する。
「オレは、君に自由になって欲しいと思っている。その手助けをしたいんだ」
「本当にそれだけか? 本当に?」
「……どうした? 随分、必死に尋ねてくるな」
「それは……」
ハーツが怪訝そうに尋ねると、ザマスは咄嗟にハーツから視線を逸らして口籠もった。
「……それは、お前が変なことを言うからだ」
「まあ、確かに我ながら突拍子もなかったな」
ハーツは手すりから身を離すと、
「いきなり変なことを言って悪かった。ただ、オレは本気で考えているから、この話、考えてくれ。そして、もしオレの申し出を受けたくなったら、いつでも言ってくれ」
「……」
なんと答えるべきかわからず、ザマスが黙っていると、
「そういえば、今日はもう泊まっていかないか? もう夜が遅いし、フューは泊まっていくそうだぞ」
「え?」
話がころころ変わるせいで頭がついて行かない。ザマスは自分の腕時計に目をやった。
既に時刻は23時を回っている。ザマスは一瞬、断ろうとしたが、すんでのところでその言葉を飲み込んだ。
ここに来た目的を思い出したのだ。
ハーツの目的を探るのだ。その目的を達成するためなら、この家に留まった方が良い。
そう考え直したザマスは、今夜はここに泊まると告げたのだった。