第一話 物語の始まり(6月20日 土曜日)
ずっと空を覆っていた鈍色の雲が、姿を消した。都会の真ん中に、我が物顔でそびえ立つ高層ビルは、青天から燦々と降り注ぐ久々の太陽光を受けとめる。
アスファルトで塗り固められた都会の一角。自走式の立体駐車場に、一台の赤い車が入庫する。跳ね馬のエンブレムを掲げたその車は、世界的に有名な自動車メーカーの高級車。同じように、立体駐車場に車を駐めに来た人間の注目を集めながら、赤い車は屋上の空いたスペースに停車したのだった。
運転席のドアが開き、車の中からひとりの男が出てくる。黒いオープンカラーのシャツにジーンズというシンプルな装いだが、橙色の色つきサングラスと、服の上からでもわかるほど鍛えられた肉体は、とても周りの目を引いた。ちらちらと向けられる周りの視線に気づいているのかいないのか、男は周りを気にする素振りを見せないまま、天を仰いで目を細める。
梅雨真っ只中で、確実に夏に近づいていく今日この頃。強くなった陽射しには、確かに夏の暑さが感じられた。おそらく、用事を済ませて帰ってきた頃には、車の中は蒸し暑くなっていることだろう。
――できれば、日の当たらない場所に駐車したかったんだがな。
生憎、休日の午前は都会に遊びに来た人間で一杯だ。朝の早い時間帯ならともかく、もうそろそろお昼時になるこの時間にもなれば、どこの駐車場も満杯で、希望する条件の駐車スペースを見つけるのは難しい。いくつか駐車場を見て回って、ようやく見つけたのがこの立体駐車場の屋上だったのだ。
男は、車を施錠すると立体駐車場を出て、待ち合わせ場所に向かう。街路樹が等間隔に植えられた歩道を歩いて暫くすると、白いパラソルが並んだオープンカフェが見えてきた。
パラソルの下には、二人掛けの丸テーブルが並んでいて、遠目からでも座席があらかた埋まっているのが見える。男がオープンカフェに近づくと、パラソルの下で、カフェのそばを通る通行人を眺めていた眼鏡の青年が、手を上げて男に呼び掛けた。
「ハーツ、こっちこっち」
「そこにいたのか、フュー」
ハーツと呼ばれた男は、フューの前にある空いている席に座ると、近くを通りかかった黒いエプロンの店員にアイスコーヒーを注文した。
長めの髪を後ろでひとつに束ねたフューは、黒のTシャツにカーゴパンツというカジュアルな服装も相まって、随分と年若く見える。確実にハーツよりも年下であるはずのフューだが、彼は畏まることなく、アイスミルクティーを飲みながら、砕けた口調でハーツに話しかけたのだった。
「随分と遅かったね」
「遅れて悪かった。道が混んでいてな」
「高速を使わなかったの? なんで?」
「天気が良かったから、下道を走って景色を見たい気分になったんだ」
「もー。どこを走ろうがハーツの勝手だけど、約束の時間には遅れないでよ。折角の休日なのに」
口を尖らせたフューに対して、ハーツが宥めるように謝っていると、店員がアイスコーヒーを運んでくる。
ハーツは若い女性の店員に微笑みながら礼を言うと、冷えたグラスを受け取りひとくち。コクのある苦みが口に広がる。
「フュー、仕事は落ち着いたのか?」
「一応ね。重症だった患者は落ち着いたし、来週は軽い手術ばっかりだから、暫くはゆっくりできそう。ま、重症の患者が救急車で運ばれてきたら、余裕なんてなくなるんだけどね」
「大変だな、医者は」
「そっちは? 商売のほうは儲かってるの?」
「そこそこだな。まあ、趣味でやっている商売だから、特に問題はない」
「へー、いいねぇ、お金持ちは。悠々自適な生活ができてさ」
「おいおい」
ハーツは呆れたように、
「お金なら君も持っているだろう? 大病院の跡継ぎくん?」
フューはストローを噛んで顔を顰めた。
「病院の経営者になんて、なるつもりはないよ。僕は医学研究者になりたいんだから。何のために、親族が経営する病院じゃなくて、国立の大学病院に入局したと思ってるんだよ」
「その割に、家族が希望していた外科に進んだじゃないか」
「僕が外科を選んだのは、生きた人間の内臓を切ってみたかったから。家族の希望は一切関係ないよ」
フューは物騒な志望理由を臆面もなく口にする。
「いずれ、院に進むつもりなのか?」
「まあね。家族は臨床医でいて欲しいらしいけど。いくら家族に懇願されようと、これだけは絶対に譲れない」
「君の家族がそれで納得してくれるのを願ってるよ。
――ところで、これからどうするんだ?」
ハーツそう尋ねられたフューは、自分の腕時計にちらりと視線をやる。ちょうど、十二時を過ぎた頃だ。
「どこかでお昼ご飯を食べたら、バイクを見に行こうよ。今、乗っているのがだいぶ古くなったから、僕、新しいのに買い替えたいんだ。それに付き合って」
「わかった」
パラソルの下には涼やかな日陰が出来ていて、時折、吹く風が心地良い。お腹もまだ空いていないので、もう少しだけこの快適な空間を堪能してから移動しようと、ハーツとフューの間で話がまとまった、その瞬間。
――がしゃああああああああああああああああっ!
突然、硝子が割れる巨大な音が、道の向こう側から沸き起こった。
『!?』
耳をつんざくような轟音に驚いたハーツとフューは、反射的に音がした方を振り向く。
最初に目に入ったのは、一台の黒い車だった。その車は歩道に乗り込んだ挙げ句、店のショーウィンドウに突っ込んで停車している。
突っ込まれた店は、ファッション関係の店だったのだろう。黒い車のすぐ横で、着飾ったマネキンが澄ましたポーズを取っているのが場違いで印象的だった。
一瞬の静寂。
突然の出来事に、通行人すら足を止めて、呆然と視線を車に向ける。そんな、時が止まったかのような静寂の中、当の黒い車は直ぐさまエンジンを吹かしてバックをすると、向きを変えて頭を道路へ向ける。
その時、突っ込まれた店のそばにいた通行人女性の、悲鳴に近い声が響き渡った。
「だ、大丈夫ですか!?」
その女性の視線は、車ではなくショーウィンドウの下の方に向けられている。その反応を見たフューは、ある可能性に思い当たった。
「もしかして、人を轢いた!?」
その言葉が合図になったかのように、黒の車は急発進して道路の向こうへと走り去る。
「あの車! 何やってんだよ!」
フューは走り去っていく車を睨み付けながらすぐさま立ち上がると、一目散に事故が起こった現場へと走って行く。
「あ、おい!」
ハーツも慌てて立ち上がり、フューの後を追う。運良く車が走っていなかった二車線の道路を、二人は走って横断した。
黒い車がいなくなったお陰で、道路を渡りきる前から店の惨状がよく見えた。
ハーツは思わず顔を顰める。粉々に砕けた硝子と薙ぎ倒されたマネキン。そして、マネキンに混じって、大量の赤い血を流しながら、ショーウィンドウと歩道に跨がって仰向けに倒れている一人の人間。その人間は、通行人の女性がいくら声をかけようとも、ピクリとも動かなかった。
大量の鮮血が産み出すむごたらしさを目の当たりにして、辺りは騒然となった。
「え!? あれ人じゃない!?」
「きゅ、救急車呼んだ方がいいんじゃ……!」
周りの通行人から、不安と混乱が入り交じった声があがる。
「ごめん、どいて!」
店の前に辿り着いたフューは、おろおろしていた通行人の女性に声をかけてその場からどかすと、倒れている人の傍に行き、辺りに散らばっている鋭い硝子の破片に注意しながら屈んで声をかけた。
一瞬どちらか迷ったが、倒れているのは男だ。体格と服装からして二十代後半くらいに見えるが、もしかしたら、もっと若いかもしれない。
「ねえ、君! 大丈夫!? 僕の声、聞こえる!? 聞こえてても、頭は動かさないでね!」
耳元で大声を出して呼んでも反応がない。フューは眉間に皺を寄せた険しい表情になった。
「ハーツ、救急車を呼んで!」
「わかった」
ハーツは直ぐさま腰のポケットから、スマートフォンを取り出して電話をかける。電話はすぐに繋がったようだ。ハーツが事故現場の住所を伝えているのを耳をそば立てながら、フューは素早く倒れた人間の状態を観察した。
顔は砕けておらず、自発呼吸はあり、頸動脈は触知できる。だが、呼吸も脈も「かろうじて」という表現がぴったりの状況だ。しかも、硝子で切ったのか、全身ズタズタで血だらけである。なかでも、右上腕の損傷が酷く、上腕の中程から大量に出血していた。皮膚がぱっくりわれ、赤黒い肉の間から流れる血の色は、鮮やかな赤。しかも拍動に合わせて出血している。
――動脈を損傷したか!
フューは舌打ちをしながら、その腕の傷を両手で押さえ込んで、止血を試みた。両手を使って圧迫するが、手のひらの隙間からじわじわと血が溢れ続けている。
「轢かれたのは、二十代くらいの男性だ。知り合いじゃないから、詳しいことはわからない。
……患者の状態? それは……」
「ハーツ! 僕の耳に電話をあてて!」
ハーツは言われるがまま、自分のスマートフォンをフューの耳に当てる。電話の向こうから、オペレーターの声が聞こえた。
「倒れている男性に、意識はありますか?」
「痛み刺激を与えても反応がない! 呼吸はしてるけど、胸郭の動きはおかしいし、頸動脈は触れるけど弱くて――!」
オペレーターに説明をしながら、フューは自分の焦りが強まるのを感じた。呼吸も循環も悪い上に交通事故だ。脳や臓器の損傷も否定できない。早く病院に連れて行って治療をしないと、まず助からない。
いや、外傷の重症度によっては、手術すら難しい可能性もある。そうなった場合は、もうお手上げだ。
「とにかく、早く救急車!」
フューは半ば叫ぶようにオペレーターに伝える。
ざわざわと野次馬達が集まり始めた。何か手伝うわけでもないのに、わらわらと集まって興奮気味にフュー達を取り囲む。好奇の目に晒されて、フューの苛立ちが強まる。
「何か手伝うことは?」
いつの間にか、耳からスマートフォンが離されていた。オペレーターとの通話は継続しており、スピーカーモードになって地面に置かれている。
「この人の頭を両手で固定して。真っ直ぐ向くように」
ハーツはフューの言葉に従って、倒れている男性の頭上に移動すると、両手で顔を保持した。
「ゆっくり。そのまま固定して。仮にこの人の意識が戻って首を動かそうとしたら、絶対に止めて」
「わかった」
地面に置かれたスマートフォンの向こうで、救急車がそちらに向かっているとオペレーターが言っているが、まだ到着する気配は無い。
フューはぎりっと唇を噛んだ。倒れている男性を救うための方法が、次々と頭の中に浮かぶ。だが、そのいずれの方法も、必要な薬剤も機材もない路上では、実現することができなかった。
……焦れったい!
「あの車、躊躇いもなく逃げていったな」
突如、ハーツが独り言のように呟いた。あの車とは、この大惨事を引き起こした黒い車のことだろう。
「そうだね」
「しかも、辺りを見回したが、ブレーキ痕がない」
「……」
そう言えば、ショーウィンドウの硝子が割れる派手な音は聞こえたが、その直前にブレーキをかける音は聞こえなかった。
それは――つまり。
フューは、意識を失って倒れている男の顔を見た。硝子で切ったのか、右目の上に裂傷があり、右顔面が血でべっとり汚れている。
「フュー。じっと見つめているが、この男性のことを知っているのか?」
「え?」
突然の質問に驚きつつも、フューは圧迫止血している両手がずれないように注意しながら、首を横に振った。
「別に。ただ、この右目の上にある傷、もしかしたら眼球まで行っているかもしれないって思っただけ。ハーツはこの人の事、知ってるの?」
「いや、初めて会った」
ハーツが首を横に振りながらそう答えたその時、通りの向こうから、救急車のサイレンが聞こえてきたのだった。
「やっと来た!」
救急車は店のすぐ傍に停車。野次馬達はさっと左右に割れて、救急車から邪魔にならないところに移動する。救急車のバックドアが開くと、数人の救急隊が一斉に降りてきた。揃いの制服を身に纏った救急隊のひとりが、フューに声をかける。
「あれ!? フュー先生じゃないですか!」
声をかけてきた救急隊員に顔を向ける。顔見知りの救急隊員だ。救急外来の当直をしている時、何度か顔を合わせており、言葉を交わしたこともある。
フューはこれ幸いと矢継ぎ早に指示を出した。自分を医師だと知っているなら話が早い。
「意識レベルは三桁! 一応、自発呼吸と脈はある! まずこのショーウィンドウからこの人を出して!」
「わかりました!」
救急隊員は、すぐさま搬送準備を始める。救急隊員のひとりが近づいてきたので、ハーツは首の固定を代わり、邪魔にならないようその場から少し離れたところで搬送の様子を見守った。
救急隊は頸椎カラーと呼ばれる襟巻きで倒れている男性の首を固定すると、数人がかりで倒れた男を取り囲む。フューはそのまま圧迫止血を続けるようで、救急隊はフューに確認を取りながら、倒れている男性の体の下に手を差し入れて、一斉に持ち上げる。救急隊とフューは、統率の取れた動きで男性をショーウィンドウの外に運び出し、近くに用意してあった担架の上にそっと下ろしたのだった。
フューは救急隊員に圧迫止血を変わると、搬送の邪魔にならないように脇に避ける。
救急隊員達が、搬送中にストレッチャーからずれないよう、男性の体をベルトで固定し始めた中、搬送先の病院を探していた別の救急隊員がフューに声をかけた。
「先生! この人の名前や連絡先、分かりますか!?」
フューは咄嗟に辺りを見回した。男性が倒れていた場所のすぐ傍に、使い古した革のトートバッグが落ちていた。
「この鞄、その倒れた人のじゃない!?」
車に轢かれた衝撃で、中身が零れている上、いくつかは血だまりに浸かっていた。だが、何が何かはわかる。傍に行って中身を検分していたフューは、血だまりの中にあった財布を見つけた。
フューは躊躇うことなく、血だまりの中から財布を拾い上げると、中を改めて免許証を見つけ出す。既に、手は止血の時の血で汚れているので今更だ。
「免許証があった!」
フューは、免許証を確認する。免許証の顔写真は、確かに倒れていた男の顔と酷似していた。
「名前は……血で汚れていて、名字がわからない!」
二つ折りの財布だったので、血に浸かっている間に中に染み込んだらしい。免許証の一部の文字が、血で判別できなかった。だが、名前はわかる。
「ザマスって名前だって!」
「ありがとうございます! 搬送先に持っていきます!」
「どこに搬送するの!?」
「近くにある国立の大学病院です!」
「僕が勤めてるところじゃん!」
アスファルトで塗り固められた都会の一角。自走式の立体駐車場に、一台の赤い車が入庫する。跳ね馬のエンブレムを掲げたその車は、世界的に有名な自動車メーカーの高級車。同じように、立体駐車場に車を駐めに来た人間の注目を集めながら、赤い車は屋上の空いたスペースに停車したのだった。
運転席のドアが開き、車の中からひとりの男が出てくる。黒いオープンカラーのシャツにジーンズというシンプルな装いだが、橙色の色つきサングラスと、服の上からでもわかるほど鍛えられた肉体は、とても周りの目を引いた。ちらちらと向けられる周りの視線に気づいているのかいないのか、男は周りを気にする素振りを見せないまま、天を仰いで目を細める。
梅雨真っ只中で、確実に夏に近づいていく今日この頃。強くなった陽射しには、確かに夏の暑さが感じられた。おそらく、用事を済ませて帰ってきた頃には、車の中は蒸し暑くなっていることだろう。
――できれば、日の当たらない場所に駐車したかったんだがな。
生憎、休日の午前は都会に遊びに来た人間で一杯だ。朝の早い時間帯ならともかく、もうそろそろお昼時になるこの時間にもなれば、どこの駐車場も満杯で、希望する条件の駐車スペースを見つけるのは難しい。いくつか駐車場を見て回って、ようやく見つけたのがこの立体駐車場の屋上だったのだ。
男は、車を施錠すると立体駐車場を出て、待ち合わせ場所に向かう。街路樹が等間隔に植えられた歩道を歩いて暫くすると、白いパラソルが並んだオープンカフェが見えてきた。
パラソルの下には、二人掛けの丸テーブルが並んでいて、遠目からでも座席があらかた埋まっているのが見える。男がオープンカフェに近づくと、パラソルの下で、カフェのそばを通る通行人を眺めていた眼鏡の青年が、手を上げて男に呼び掛けた。
「ハーツ、こっちこっち」
「そこにいたのか、フュー」
ハーツと呼ばれた男は、フューの前にある空いている席に座ると、近くを通りかかった黒いエプロンの店員にアイスコーヒーを注文した。
長めの髪を後ろでひとつに束ねたフューは、黒のTシャツにカーゴパンツというカジュアルな服装も相まって、随分と年若く見える。確実にハーツよりも年下であるはずのフューだが、彼は畏まることなく、アイスミルクティーを飲みながら、砕けた口調でハーツに話しかけたのだった。
「随分と遅かったね」
「遅れて悪かった。道が混んでいてな」
「高速を使わなかったの? なんで?」
「天気が良かったから、下道を走って景色を見たい気分になったんだ」
「もー。どこを走ろうがハーツの勝手だけど、約束の時間には遅れないでよ。折角の休日なのに」
口を尖らせたフューに対して、ハーツが宥めるように謝っていると、店員がアイスコーヒーを運んでくる。
ハーツは若い女性の店員に微笑みながら礼を言うと、冷えたグラスを受け取りひとくち。コクのある苦みが口に広がる。
「フュー、仕事は落ち着いたのか?」
「一応ね。重症だった患者は落ち着いたし、来週は軽い手術ばっかりだから、暫くはゆっくりできそう。ま、重症の患者が救急車で運ばれてきたら、余裕なんてなくなるんだけどね」
「大変だな、医者は」
「そっちは? 商売のほうは儲かってるの?」
「そこそこだな。まあ、趣味でやっている商売だから、特に問題はない」
「へー、いいねぇ、お金持ちは。悠々自適な生活ができてさ」
「おいおい」
ハーツは呆れたように、
「お金なら君も持っているだろう? 大病院の跡継ぎくん?」
フューはストローを噛んで顔を顰めた。
「病院の経営者になんて、なるつもりはないよ。僕は医学研究者になりたいんだから。何のために、親族が経営する病院じゃなくて、国立の大学病院に入局したと思ってるんだよ」
「その割に、家族が希望していた外科に進んだじゃないか」
「僕が外科を選んだのは、生きた人間の内臓を切ってみたかったから。家族の希望は一切関係ないよ」
フューは物騒な志望理由を臆面もなく口にする。
「いずれ、院に進むつもりなのか?」
「まあね。家族は臨床医でいて欲しいらしいけど。いくら家族に懇願されようと、これだけは絶対に譲れない」
「君の家族がそれで納得してくれるのを願ってるよ。
――ところで、これからどうするんだ?」
ハーツそう尋ねられたフューは、自分の腕時計にちらりと視線をやる。ちょうど、十二時を過ぎた頃だ。
「どこかでお昼ご飯を食べたら、バイクを見に行こうよ。今、乗っているのがだいぶ古くなったから、僕、新しいのに買い替えたいんだ。それに付き合って」
「わかった」
パラソルの下には涼やかな日陰が出来ていて、時折、吹く風が心地良い。お腹もまだ空いていないので、もう少しだけこの快適な空間を堪能してから移動しようと、ハーツとフューの間で話がまとまった、その瞬間。
――がしゃああああああああああああああああっ!
突然、硝子が割れる巨大な音が、道の向こう側から沸き起こった。
『!?』
耳をつんざくような轟音に驚いたハーツとフューは、反射的に音がした方を振り向く。
最初に目に入ったのは、一台の黒い車だった。その車は歩道に乗り込んだ挙げ句、店のショーウィンドウに突っ込んで停車している。
突っ込まれた店は、ファッション関係の店だったのだろう。黒い車のすぐ横で、着飾ったマネキンが澄ましたポーズを取っているのが場違いで印象的だった。
一瞬の静寂。
突然の出来事に、通行人すら足を止めて、呆然と視線を車に向ける。そんな、時が止まったかのような静寂の中、当の黒い車は直ぐさまエンジンを吹かしてバックをすると、向きを変えて頭を道路へ向ける。
その時、突っ込まれた店のそばにいた通行人女性の、悲鳴に近い声が響き渡った。
「だ、大丈夫ですか!?」
その女性の視線は、車ではなくショーウィンドウの下の方に向けられている。その反応を見たフューは、ある可能性に思い当たった。
「もしかして、人を轢いた!?」
その言葉が合図になったかのように、黒の車は急発進して道路の向こうへと走り去る。
「あの車! 何やってんだよ!」
フューは走り去っていく車を睨み付けながらすぐさま立ち上がると、一目散に事故が起こった現場へと走って行く。
「あ、おい!」
ハーツも慌てて立ち上がり、フューの後を追う。運良く車が走っていなかった二車線の道路を、二人は走って横断した。
黒い車がいなくなったお陰で、道路を渡りきる前から店の惨状がよく見えた。
ハーツは思わず顔を顰める。粉々に砕けた硝子と薙ぎ倒されたマネキン。そして、マネキンに混じって、大量の赤い血を流しながら、ショーウィンドウと歩道に跨がって仰向けに倒れている一人の人間。その人間は、通行人の女性がいくら声をかけようとも、ピクリとも動かなかった。
大量の鮮血が産み出すむごたらしさを目の当たりにして、辺りは騒然となった。
「え!? あれ人じゃない!?」
「きゅ、救急車呼んだ方がいいんじゃ……!」
周りの通行人から、不安と混乱が入り交じった声があがる。
「ごめん、どいて!」
店の前に辿り着いたフューは、おろおろしていた通行人の女性に声をかけてその場からどかすと、倒れている人の傍に行き、辺りに散らばっている鋭い硝子の破片に注意しながら屈んで声をかけた。
一瞬どちらか迷ったが、倒れているのは男だ。体格と服装からして二十代後半くらいに見えるが、もしかしたら、もっと若いかもしれない。
「ねえ、君! 大丈夫!? 僕の声、聞こえる!? 聞こえてても、頭は動かさないでね!」
耳元で大声を出して呼んでも反応がない。フューは眉間に皺を寄せた険しい表情になった。
「ハーツ、救急車を呼んで!」
「わかった」
ハーツは直ぐさま腰のポケットから、スマートフォンを取り出して電話をかける。電話はすぐに繋がったようだ。ハーツが事故現場の住所を伝えているのを耳をそば立てながら、フューは素早く倒れた人間の状態を観察した。
顔は砕けておらず、自発呼吸はあり、頸動脈は触知できる。だが、呼吸も脈も「かろうじて」という表現がぴったりの状況だ。しかも、硝子で切ったのか、全身ズタズタで血だらけである。なかでも、右上腕の損傷が酷く、上腕の中程から大量に出血していた。皮膚がぱっくりわれ、赤黒い肉の間から流れる血の色は、鮮やかな赤。しかも拍動に合わせて出血している。
――動脈を損傷したか!
フューは舌打ちをしながら、その腕の傷を両手で押さえ込んで、止血を試みた。両手を使って圧迫するが、手のひらの隙間からじわじわと血が溢れ続けている。
「轢かれたのは、二十代くらいの男性だ。知り合いじゃないから、詳しいことはわからない。
……患者の状態? それは……」
「ハーツ! 僕の耳に電話をあてて!」
ハーツは言われるがまま、自分のスマートフォンをフューの耳に当てる。電話の向こうから、オペレーターの声が聞こえた。
「倒れている男性に、意識はありますか?」
「痛み刺激を与えても反応がない! 呼吸はしてるけど、胸郭の動きはおかしいし、頸動脈は触れるけど弱くて――!」
オペレーターに説明をしながら、フューは自分の焦りが強まるのを感じた。呼吸も循環も悪い上に交通事故だ。脳や臓器の損傷も否定できない。早く病院に連れて行って治療をしないと、まず助からない。
いや、外傷の重症度によっては、手術すら難しい可能性もある。そうなった場合は、もうお手上げだ。
「とにかく、早く救急車!」
フューは半ば叫ぶようにオペレーターに伝える。
ざわざわと野次馬達が集まり始めた。何か手伝うわけでもないのに、わらわらと集まって興奮気味にフュー達を取り囲む。好奇の目に晒されて、フューの苛立ちが強まる。
「何か手伝うことは?」
いつの間にか、耳からスマートフォンが離されていた。オペレーターとの通話は継続しており、スピーカーモードになって地面に置かれている。
「この人の頭を両手で固定して。真っ直ぐ向くように」
ハーツはフューの言葉に従って、倒れている男性の頭上に移動すると、両手で顔を保持した。
「ゆっくり。そのまま固定して。仮にこの人の意識が戻って首を動かそうとしたら、絶対に止めて」
「わかった」
地面に置かれたスマートフォンの向こうで、救急車がそちらに向かっているとオペレーターが言っているが、まだ到着する気配は無い。
フューはぎりっと唇を噛んだ。倒れている男性を救うための方法が、次々と頭の中に浮かぶ。だが、そのいずれの方法も、必要な薬剤も機材もない路上では、実現することができなかった。
……焦れったい!
「あの車、躊躇いもなく逃げていったな」
突如、ハーツが独り言のように呟いた。あの車とは、この大惨事を引き起こした黒い車のことだろう。
「そうだね」
「しかも、辺りを見回したが、ブレーキ痕がない」
「……」
そう言えば、ショーウィンドウの硝子が割れる派手な音は聞こえたが、その直前にブレーキをかける音は聞こえなかった。
それは――つまり。
フューは、意識を失って倒れている男の顔を見た。硝子で切ったのか、右目の上に裂傷があり、右顔面が血でべっとり汚れている。
「フュー。じっと見つめているが、この男性のことを知っているのか?」
「え?」
突然の質問に驚きつつも、フューは圧迫止血している両手がずれないように注意しながら、首を横に振った。
「別に。ただ、この右目の上にある傷、もしかしたら眼球まで行っているかもしれないって思っただけ。ハーツはこの人の事、知ってるの?」
「いや、初めて会った」
ハーツが首を横に振りながらそう答えたその時、通りの向こうから、救急車のサイレンが聞こえてきたのだった。
「やっと来た!」
救急車は店のすぐ傍に停車。野次馬達はさっと左右に割れて、救急車から邪魔にならないところに移動する。救急車のバックドアが開くと、数人の救急隊が一斉に降りてきた。揃いの制服を身に纏った救急隊のひとりが、フューに声をかける。
「あれ!? フュー先生じゃないですか!」
声をかけてきた救急隊員に顔を向ける。顔見知りの救急隊員だ。救急外来の当直をしている時、何度か顔を合わせており、言葉を交わしたこともある。
フューはこれ幸いと矢継ぎ早に指示を出した。自分を医師だと知っているなら話が早い。
「意識レベルは三桁! 一応、自発呼吸と脈はある! まずこのショーウィンドウからこの人を出して!」
「わかりました!」
救急隊員は、すぐさま搬送準備を始める。救急隊員のひとりが近づいてきたので、ハーツは首の固定を代わり、邪魔にならないようその場から少し離れたところで搬送の様子を見守った。
救急隊は頸椎カラーと呼ばれる襟巻きで倒れている男性の首を固定すると、数人がかりで倒れた男を取り囲む。フューはそのまま圧迫止血を続けるようで、救急隊はフューに確認を取りながら、倒れている男性の体の下に手を差し入れて、一斉に持ち上げる。救急隊とフューは、統率の取れた動きで男性をショーウィンドウの外に運び出し、近くに用意してあった担架の上にそっと下ろしたのだった。
フューは救急隊員に圧迫止血を変わると、搬送の邪魔にならないように脇に避ける。
救急隊員達が、搬送中にストレッチャーからずれないよう、男性の体をベルトで固定し始めた中、搬送先の病院を探していた別の救急隊員がフューに声をかけた。
「先生! この人の名前や連絡先、分かりますか!?」
フューは咄嗟に辺りを見回した。男性が倒れていた場所のすぐ傍に、使い古した革のトートバッグが落ちていた。
「この鞄、その倒れた人のじゃない!?」
車に轢かれた衝撃で、中身が零れている上、いくつかは血だまりに浸かっていた。だが、何が何かはわかる。傍に行って中身を検分していたフューは、血だまりの中にあった財布を見つけた。
フューは躊躇うことなく、血だまりの中から財布を拾い上げると、中を改めて免許証を見つけ出す。既に、手は止血の時の血で汚れているので今更だ。
「免許証があった!」
フューは、免許証を確認する。免許証の顔写真は、確かに倒れていた男の顔と酷似していた。
「名前は……血で汚れていて、名字がわからない!」
二つ折りの財布だったので、血に浸かっている間に中に染み込んだらしい。免許証の一部の文字が、血で判別できなかった。だが、名前はわかる。
「ザマスって名前だって!」
「ありがとうございます! 搬送先に持っていきます!」
「どこに搬送するの!?」
「近くにある国立の大学病院です!」
「僕が勤めてるところじゃん!」
1/2ページ