星詠み【side story】
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「俺も志麻さんと話してみたいなぁ。前に柱合会議でお会いした時は、ちゃんと言葉を交わすことすら出来なかったんだ」
きっかけは炭治郎のこの何気ない一言だった。
姉と妹を助けてくれた礼を改めて伝えたかったし、元柱の彼女からは色々ためになる話を聞く事が出来るかもと前々から思っていた。
それと実は、日向子の修行の日々や日常等、どんな感じであったのか気になっていた部分もある。
そんな下心もありつつぼやいてみると、予想外にも彼女はこの話に食いついてくれた。
「じゃあ今度一緒に会いにいきましょう!」
日向子は珍しくはしゃぎながら炭治郎にそう提案する。彼女が師範の話をする時、年相応に無邪気な反応を見せる。これだけ懐かれている志麻さんの人柄は自ずと見えてくる。
ーきっと、いい人なんだろうなぁ..ー
炭治郎はそう微笑ましい気持ちになった。
かくして、炭治郎、日向子、禰豆子の三人は志麻さんが暮らす山へと向かい出発した。
道中はわりと平坦な畑道が多く、故郷の山である雲取山の
空気も澄んでおりとても心地が良かった。
「あの山を少し登った所が師範の家だよ」
そう言って日向子は前方の山を指差した。
「そうか。禰豆子、もう少しで志麻さんに会えるぞ。俺達の命の恩人だから会ったらちゃんとお礼を言おうな」
炭治郎が背負っている木箱に話しかけると、応答の意を示すようにカリカリと音が返ってきた。
そんな時..おーいと誰かが呼ぶ声が聞こえてきた、一同前方を見ると20代前後の青年が手を振りながらこちらに向かって走ってくるのが見えた。
(誰だ?この男...)
当然炭治郎が知る人物ではなく、密かに眉根を寄せた。しかしその態度とは正反対に、隣の彼女はわっと笑みを綻ばせて手を振り返している。明らかに顔見知りに対する反応だった。
(日向子姉さんの知り合い)
これだけの条件でも炭治郎にとっては警戒心と嫉妬心の対象になり得たが、この後予想外の出来事が起きた。
彼が勢い余って小石につまずき体が前方に倒れた所を、危ないと咄嗟に前に出た日向子が支え込んだ。
密着し合う両者の体、すまないと慌てて離れたはいいが相手の顔は真っ赤だった。
その光景を見た炭治郎は無意識にギリと歯を鳴らす。
嫌な...匂いを思い出した。
ーこれは..厄介な事だー
「もう、そんな勢いで走ってくるからですよ。気をつけてください」
「あぁ..すまない。日向子の顔を見たらつい」
ーはぁ?..日向子姉さんの事を呼び捨てだと?ー
炭治郎はへらりと笑いながら頬を掻いているその男をギロリと睨み付けた。
(何様だお前、彼女とどういう関係なんだ、分を弁えろ)
そう問い詰めたい衝動は何とか押さえ込んだものの、敵意剥き出しの視線は隠しようがなかった。
ー落ち着け..落ち着け炭治郎
みっともないぞ..ー
すーはーと息を整えると、炭治郎はなるべく平静を装い取って付けた笑顔を二人に向けこう発した。
「日向子姉さん、その人は?」
「あぁ、ごめんね。彼は私が師範の元で修行してた頃に知り合ったの。訳あって、町人ではあるんだけど私達鬼殺隊の事もご存知なのよ。だから、炭治郎も彼とは気兼ねなく接して貰って大丈夫よ。こっちは弟の炭治郎です。仲良くしてやってください。」
「あぁ!君が日向子が言ってた生き別れたっていう弟さんか。初めまして、俺は弥七って言います。よく彼女から君の事は聞いてたよ。いやぁ、再会出来て何よりだ。良かったなぁ日向子」
彼が日向子の頭を撫でようと手を伸ばした時、反射的に炭治郎はその手が彼女へ届かぬ前に、遮るような形でパシンとはたいた。
「!」
「ちょっと!炭治郎何してるの?」
驚いた様子で目を見開いている弥七と、あわあわと焦ったように双方を見比べる日向子。
しかし炭治郎は一切動じる事なくきっぱりとこう告げた。
「彼女に触らないでください。男性がやたらと女性の体に触れるのはどうかと思います。それとも、貴方は日向子姉さんの恋人か何かなんですか?」
真っ直ぐな目つきでそう問うと、彼はふはっと笑いを吹き出した。
その態度を見て何がおかしいと頬を膨らませる炭治郎に、彼はこう返した。
「それは失礼した、残念ながら恋人じゃないな。君の方こそ...彼女の事が相当大好きなんだね。これはたまげたよ」
彼の言葉にはある種の含みが隠されている。遠回しに話しているようだが、炭治郎は騙されない。
彼が日向子姉さんに、特別な感情を抱いている事は明白だった。
そして、相手もまた炭治郎の真意に気付いたに違いなかった。
ーこれは、宣戦布告だー
どちらが優位か、どちらが彼女にふさわしいか、
バチバチと火花が間で散っている様を日向子は知る由もなかった。
「なるほど、君達志麻さんの所に行くんだね。俺も一緒に行きたいなぁ」
「っ!」
「と言いたい所だけど、実はつい先程お会いしてきたばかりで帰り道なんだ。さすがに悪いから遠慮しよう」
すぐに顔に出る炭治郎は、一緒という言葉を聞き明らかに嫌そうに眉をひそめる。その反応を予測していたかのような向こうの文脈の繋げ方にも苛っとした。
ーこの人、俺で遊んでるのか?ー
炭治郎が嫉妬心を露わにしている事に気付いている。一見大人しそうに見えて、思いの外交戦的な性格のようだ。大人の余裕と言うやつだろうか?こんな事でいちいち不服に感じる俺も俺だが、少なくともこの人の性格はあまり良いとは言えなそうだ。
「日向子、暫くはここにいるのか?」
「長居はしないけど、明後日の朝には此処をたつ予定です」
「そうか..じゃあ明日、少し俺に時間くれないか?二人で話したい事があるんだ。」
「はい!勿論」
ー冗談じゃないっ!!ー
それが率直な意見だったが、さすがの炭治郎でもそこまでの我儘を彼女に進言する権利はない。
ここはぐっと堪え、その場をやり過ごすしか出来なかった...
(彼が日向子姉さんの恋人でないからと言って、俺がそうというわけでもない。ただの..家族だから)
暫く一行が歩いていると竹林の小道が見え、そこを抜けると一軒の
「ごめんくださいー!日向子です!志麻さんはいらっしゃいますかー?」
日向子姉さんが大きな声でそう呼ぶと奥から見慣れた風貌の女性が歩いてきた。目が合うと、にこやかに笑いかけてくれた。つい、ピシッと背筋が伸びる思いだった。間違いない、この人が志麻瑠璃千代さんだ。
「こんにちは!改めて、俺は竈門炭治郎と申します!
先日の柱合会議の際は、俺達の事を助けるために色々と図らってくださりありがとうございました!」
開口一番に炭治郎がそう言ってぺこりと勢いよく頭を下げると、志麻も日向子も、吹き出すように笑っていた。
「日向子から聞いていた通りだわ、とても礼儀正しい子ね。では私も改めて、日向子の師範をしております志麻瑠璃千代と言います。宜しくね炭治郎君、そして禰豆子ちゃんも。」
瑠璃千代が炭治郎が背負う箱を撫でると、カリカリと上機嫌な音が響いた。
「さぁ、中へお上がりなさい。今お茶を出すわね」
居間に通された日向子達は、囲炉裏を囲うように腰を下ろすと今まであった出来事等を語り始めた。
時折相槌を打ちながら二人の話を聞いてくれていた彼女からは優しい匂いととても懐かしい匂いがした。
その懐かしさは、母親と似た匂いがするからだという事に気づき、炭治郎は思わず目頭が熱くなる。
ー心地いい..ー
「そう言えばさっき弥七が来ていたのだけど、入れ違ってしまったわね。」
「あぁ、弥七さんなら先程道ですれ違いました。」
何となしに話題が変わり、それは炭治郎が出来る事なら避けたい内容であった。
話したくない反面、彼が一体志麻さんと日向子姉さんにどう関係した人物なのか、決して気にならないわけではなかった。結局、好奇心に負けて問いかける。
「弥七さんって、どんな方なんですか?」
聞くと彼は、身寄りはおらず近くの街で一人暮らしをしており、日向子姉さんが志麻さんと出逢う前からよく志麻さんの身の回りの力仕事などを買って出ていたのだという。そして、そうなるに至った経緯というのが衝撃的なものであった。
「彼ね、私達と同じなのよ。昔家族を鬼に殺されて、一人だけ生き残ったって、その時助けてくれたのが師範なんですって。だから、今も定期的に師範の事気にかけてくれてて、私としてはありがたいの」
「そうね。弟子入りを断ったからかしらね。本当は鬼殺隊に入りたがっていたけど、右目を負傷して殆ど見えていないから」
「さっきも走らないでくださいと前にあれ程言ったのに、駆けてきたものだからつんのめりそうになってたんです。怪我したら大変です」
「ふふ、仕方ないわ。貴女に会えた事がよっぽど嬉しかったのよ日向子。」
そんな談笑が飛び交うが、炭治郎は一人浮かない顔をしていた。彼にそんな過去があったなんて、知らなかった。
鬼の脅威とは無縁な、ごく普通の幸せな一般家庭で育っている人であると思っていたのだ。
ーあんな何もない道端でコケるような情けない男に、日向子姉さんは守れないー
そう思ったが、右目が見えなかったのか。
ー鬼殺隊である彼女とは背負ってるものが違う。あの人には分かり合えない。俺なら彼女の荷を持ち上げてやることも出来るー
そう思ったが、背負いたくても背負えない。そんな苦渋があったのか。
少し同情してしまった。鬼に苦しめられてきた人は皆同士、そう考えてきたから。
けど..だからといって、日向子姉さんを渡す事は出来ない。
ーそれだけはいくら同情心があろうとも譲れない..ー
炭治郎が固く拳を握っていると、瑠璃千代がぼそりとこう呟いた。
「身の回りの事を手伝ってくれるのは有り難いけど、このままだとあの子、お嫁さんを貰う機会を逃してしまわないか心配だわ。」
彼女がはぁ..と溜息を吐くのを見て、僅かに日向子の匂いが気まずそうな物に変わった。その意味は自ずとわかった。
「あの子、まだ貴女の事諦めてないわよ。良い人がいるのなら別だけど、悪い事は言わないから向き合ってあげたら?私は、貴女の事も心配しているの。鬼殺隊なんてやってたら、色恋沙汰どころじゃあないでしょう?貴女には【私のように】なって欲しくないの。弥七はそんな貴女でも構わないと言ってくれてるのだから」
「...それは、そうですけど。でも」
「あの」
どうしても黙っていられず、炭治郎は会話の間に割って入った。
「それって、弥七さんは日向子姉さんに好意があって既に一度想いを告げられていると、そう解釈して宜しいのでしょうか?」
「..炭治郎「答えてください」
お願いします。そう言った彼の気迫に、瑠璃千代は目を見開き圧倒されていた。そして、何かに気づいたように口をゆっくりと開いていくと、数秒間の末こう発した。
「貴方の言う通りよ」
「そう、ですか..」
ふっと顔を俯かせた彼に、何かを言いたげに口を開いた日向子だったが、突然炭治郎はバッと顔を上げた。その表情は笑顔ではあったが、どこか狂気的な雰囲気を感じ、その場にいた二人は息を飲む。
「ですが日向子姉さんにその気がないのに、無理強いは良くないと思います。だからと言って、彼女に女性としての幸せを掴んで欲しくない訳じゃないですが...大丈夫です。ちゃんと俺が」
ー責任持ってやりますー
日向子は困ったように瑠璃千代を見たが、彼女は全て理解したように頷いて見せた。
「それもその通りね。確かに【日向子の気持ち】が一番だわ。炭治郎君、少し私と話をしましょうか?日向子、悪いけれど席を外してくれる?」
「わかりました」
日向子がその場を離れたのを確認すると、瑠璃千代は炭治郎に向かい合うように座り直し問いかける。
「炭治郎君は、日向子に懸想を抱いているのかしら?」
「ッ」
まさか単刀直入に言われると思ってなかった炭治郎は、ぶわりと一気に顔を赤くした。動揺しつつもこくりと頷き、質問に答える。
「はい、その通りです。あの、先ほどは失礼な態度を取ってすみませんでした。本当に..。俺日向子姉さんの事になると、冷静じゃいられなくなって」
「構わないわ。私こそごめんなさいね。知らなかったとは言え、あんな事貴方の前で言うべきではなかった。ただ一つ、質問に答えて貰っていいかしら?」
「はい」
「もしも日向子に心から好いた人が出来て、一緒になりたいと言われたら、炭治郎君はどうするの?背中を押してあげられる?」
そう問われた炭治郎は、途端に頭の中が真っ白になった。
日向子姉さんが他の男に笑いかけている。手を取り、腕を組み、笑顔で俺に別れを告げて、見知らぬ男と二人で歩いて行ってしまう。
【俺以外の誰かと共に添い遂げる】
そんな想像は今初めてした。無意識のうちに、今まで避けていたのだ。
彼女の幸せを願うのならそれが最善。
しかしそれは、ただの綺麗事でしかなかった。
ー嫌だ..
嫌だ嫌だ嫌だっー
自分以外の男に彼女の心が奪われる。眼差しが向けられる。温もりが盗られる。そんなのは耐えられない。日向子姉さんが目の前から去っていく位なら俺ハ..
ー【死ンダ方ガマシダ】ー
....
「..ん.....炭治郎君ッ!!」
「っ!!」
気付けば志麻さんが心配そうに炭治郎の顔を覗き込んでいた。自分が荒い息遣いでいるのに今更気付く。どうやら、過呼吸を起こしかけていたようだ。
「お...俺..っ」
「もういいわ、何も考えなくていいから、ごめんなさいね。」
そう言って宥めるように彼の背を繰り返し撫でていると、ようやく呼吸は落ち着きを取り戻し始めた。
瑠璃千代はそんな彼の様子を見て、難儀な事だと額を押さえる。
ーこれは..【重症】だわー
先程炭治郎が発言した、自分が責任持ってやるという言葉がどうしても気になり話をする機会を設けた。
日向子の幸せを考えた時、彼が自分の感情をコントロール出来るかどうか。
結果的に、今の彼にそれはほぼ不可能。
【日向子に対する彼の想いは、純粋な愛情を通り越して、もはや依存・異常なまでの執着の類に該当する】
突き付けた(もしも)の未来を想像しただけで、こんな状態になるくらいなのだから、愚問であった。
一体何故、ここまで拗らせてしまったのか...
今のうちに吐き出させてあげないと、もっと酷い状態に陥ってしまうだろう。
「炭治郎君、今ここには貴方と私以外誰もいないから、貴方の心の声を私に聞かせてちょうだい。少し楽になりなさい」
そう瑠璃千代に言われ初めて、炭治郎は今の自分の状態を理解した。
今まで抱えてきたものが一気に胸の中に渦巻き、やがてせんを切ったように思いの丈を吐露し始める。
ずっと前から日向子姉さんの事を、一人の女性として好いていた。でも彼女は、俺を所詮弟としか見てくれない。
それでも、彼女が自分の側に居てくれるならまだ耐えられるが、いずれは誰かの元に嫁いで、俺から離れて行ってしまうのかもしれない。
そう考えたら、嫌な動悸がして胸が苦しくなって、上手く息が出来ない程に酷い鈍痛が襲ってきた。
自分の中にある矛盾した心に、耐えられなかった。
俺は、常に彼女の幸せを願っているのに、願ってる筈なのに、俺以外の人間が日向子姉さんの隣に立つくらいなら、そんな幸せなどいっそ
ー壊してしまえと思ってしまうー
最低だ。
そんな風に思うなんて、思う俺は、どうかしているに違いない。でも...だとして俺はどうしたらいいのだろう?
日向子姉さんに対する気持ちの諦めもつかなければ、自分にとって都合の悪い未来を容認する事も出来ない。
「わからないんです...俺は、どうしたらいいのか。こんな事じゃきっと彼女に呆れられてしまう。面倒な奴だって思われる。それが凄く怖いんです。日向子姉さんに嫌われるのは、嫌だ」
可哀想な程に弱々しくそう溢す炭治郎に、瑠璃千代は優しく語り掛ける。
「その辛さも恐怖も、それは貴方の想いが本物である証よ。それだけ愛されている日向子は、幸せ者ね。」
「彼女の...足枷になってしまいませんか。」
「あの子がそんな風に思う子じゃないのは、炭治郎君が一番よくわかっているのではない?」
「...」
「恋はね、本当はもっと楽しくて幸せを感じるものの筈なの。貴方は、優しくて真面目な子だから、きっと周りの事を第一に考えてしまうのでしょうけど、自分を押し殺す必要はないのよ。心は決まっているのに、それを押さえ込もうとするから、苦しくて痛むの。とことん我儘言って、日向子に感情をぶつけなさい。余談だけど、日向子にはそれくらい真っ直ぐに向かって行った方が効果的かもしれないわ」
瑠璃千代がそう伝えると、炭治郎はガタリと立ち上がり身を乗り出した。その瞳からは、何としてもこの情報は逃すまいという気迫を感じるようだった。
「それって本当ですか?日向子姉さんは押しに弱い性質なんですか?」
「...そうね。あの子は考え始めると色々考慮してしまって自分の心に嘘を付くから、時間を与えるより、引くより押した方が良いと私から見ても思うわ。」
「そうですか...そっか」
さっきまでの意気消沈振りは何処へやら、炭治郎は迷いを捨てたような吹っ切れた表情をしていた。そして、瑠璃千代に向かって丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます志麻さん。お陰で、日向子姉さんとどう向き合って行くべきかわかった気がします。貴女の言う通りでした」
俺の心はもう決まっている。
日向子姉さんは諦めない。何があっても、俺を好きになってくれるまでひたすら想い続けよう。いずれ然るべき時に想いを告げるから、だからそれまでは
【俺以外の元へ行かせないようにしなければ】
日向子姉さんの優しさに漬け込んでも、好意に甘えても、今のこの【弟】という立場を寧ろ最大限利用して、言い方は悪いが彼女を縛り付けてしまえばいい。
どうか悪く思わないで、ちゃんと、俺が日向子姉さんの手を取って幸せにして見せるから。
無理強いはしない、その為に好きになってもらう努力をしているのだから。
日向子姉さん..貴女の為にも
ー俺を好きになって貰わないと困るんです。俺だけを見てくれないと...ー
炭治郎のそれは純愛なのか、はたまた狂愛か。
これほど心が優しく正義感に溢れる少年が、たった1人の少女を求めるあまり、なりふり構わない姿勢でいる事実が不思議でならない。それ程に強く惹かれているのだろう、欲しくて仕方ないのだろう、日向子の事が。誰が何と言おうと、彼の気持ちの矛先が曲がる事はない。
この執着は一見異常とも取れるが、必然だとも思う。
勿論、彼女の人柄ありきではあるが、これはもはや遺伝子学的な次元の話である。
一単体の人間がコントロール出来るものではない。彼もきっと無意識のうち。
特に炭治郎が、【日の呼吸を受け継ぎし者】なのであれば、全ての源となる星の息吹を秘めた日向子に強く惹かれるのは当然の事。
ー彼等が出逢ったのには、きっと何か意味がある気がする。そう、思えてならないのだー
「炭治郎君。貴方は日向子の何処を好きだと思う?」
そう問う。すると彼は迷わずこう応えた。
「...全てです。何処がとかじゃない。俺は日向子姉さんの全部が好きなんです。こんな風に言うと陳腐だと思われるかも知れない。でも、これが俺の答えです」
俺は当初、日向子姉さんが何処か他へ行ってしまうなんて夢にも思っていなかった。
それは、心の何処かで彼女は何よりも(家族)を優先してくれると信じて疑わなかったからだ。
昔、街の男性に簪を貰った時だって、姉さんは丁重に交際の申し込みを断った。その相手は、女性からすれば玉の輿とも言える裕福な出であり、人柄も申し分なかった。ゆえに俺はその時、生まれて初めて燃えるような嫉妬の念を抱いたのだ。
それは、日向子姉さんが取られてしまうと、幼心ながらに危機感を感じたから。
だが彼女は決して
「私はどこにも行かないよ。ずっと皆の側にいる。だって、私にとっての居場所は
微笑みながらそう言った彼女の顔が未だに忘れられない。安心出来る表情と匂いだったから、けれど俺はその彼女の優しさにすっかり甘えきっていた。
日向子姉さんは俺を置いて何処かへ行きやしないと。無意識のうちの逃避であった。
だがそんな幸せは、絵空事に過ぎないのかもしれないと気付かされる。
人はいつか大人になって、たった1人、添い遂げる相手を選ぶ。
日向子姉さんにとっての、その相手は誰だ?
このまま俺が彼女にとって家族のままなら、間違いなくその相手は赤の他人。
彼女は竈門の名を捨て、別の姓を名乗る。
俺は...それを祝福してやらなけれはいけない立場。
【家族だから】
あの時は我儘な嫉妬心を露わにした俺を宥める為に、ああ言うしか仕方なかったのかもしれない。
本当は彼女だって、人並みの幸せを掴み取りたいに決まっている。
俺が、日向子姉さんの歩む道を邪魔してしまっている。ひょっとして、凄く罪深い事をしているんじゃないかと震える両手で己の頭を抱え込む。
色々なわだかまりが頭の中を駆け巡った時、激しい痛みが襲ってきた。
それは直に心の中を掻きむしってしまいたい程の苦痛だった。
痛い、苦しい、怖い、嫌だ、認めたくない
ー助けて...ー
そんな俺の心中を、志麻さんは直感的に感じ取ってくれたらしい。
抑え込まなくていいのだと、心の声を聞いて受け入れてやれと言ってくれた。その言葉で、俺は不意に救われたのだ。
単純な話だった。日向子姉さんの人並み以上の幸せを切に願うけど、諦められないのなら【俺自身の手で彼女を幸せにするしかない】
そのように操作してしまえばいい。それが、全て丸く収まる方法なんじゃないか?
俺は...絶対に諦めないよ、日向子姉さん
瑠璃千代から何処が好きかと聞かれた炭治郎が迷わず全てだと答えると、彼女はふっと笑みを溢し優しい眼差しを向けた。
「そう...それが答えなら私は貴方を応援しましょう炭治郎君。日向子を呼んでくるわね」
瑠璃千代はそう言って静かにその場を立った。その後ろ姿を見つめながら、ふと思い出す。現在進行形で直面している問題が未だ解決していない。
明日、あの弥七って男と日向子姉さんが二人で会う。
一体何を話すつもりなのだろう。彼女は何と返すのだろう。
あぁ、嫌だなぁ..
炭治郎は自分の預かり知らぬ所で、日向子が他の男と接触する事がどうしても許せなかった。
膝の上に乗せていた拳をぎゅっと固く握り締めていると、間も無く日向子が居間へ戻って来たが、瑠璃千代の姿はなかった。
炭治郎は少し気まずい気持ちを秘めながら彼女を見つめる。日向子はいたっていつもと同じ表情。何を話していたかまでは、どうやら聞いていないようだ。
「日向子姉さん。明日弥七さんに会うのやめてくれないか?どうしても会いに行くなら、俺もついて行きたい。」
そう問えば、彼女は冷静にこう返して来た。
「何で?彼にはもう二人で会う事を了承したわ。理由を教えて?」
彼女の言う事は最もだ。
ああしてくれ、こうしてくれとただ願うだけでは筋が通らない。炭治郎は覚悟を決めてこう告げた。
「俺が弥七さんに嫉妬してしまうからだ。弥七さんがまだ貴女を想っているのなら尚更だ。どんな話の内容だとしても、日向子姉さんが他の男の人と話していること事態が俺にとって苦痛なんだよ。お願いだから、分かってくれ...」
日向子は炭治郎の言葉を聞くと、大きな眼をこれでもかと見開いていた。まさかこんなにストレートに訴えられるとは思ってもみなかったのかもしれない。
あぁ..こんな台詞。告白しているも同然。
そう思ったが、自分の心に嘘は吐かずに彼女にぶつけると決めたから止めなかった。
「日向子姉さんは、俺達の側にずっと居るって昔言ってくれた。俺、ちゃんと覚えてる。あの時の言葉は嘘だなんて言わないよな?誰かのものになんてさせない..貴女は、俺がっ!」
流れに身を任せ、一言発するごとに彼女に詰め寄った炭治郎は、とうとう彼女を床へ押し倒してしまった。ダンと大きな音を立て、日向子のすぐ真横に手を突き立てる。
そしてハッとした。やり過ぎたと..
彼女の瞳は先程と全く変わらなかった。匂いを確認しようとしたが、グイグイと胸板を押し返されてしまう。
怒らせてしまったかもしれない、そう思った。
無言で顔を伏せたまま、炭治郎の体をぐいっと押し返す日向子。その力強さからわりと本気な事がわかり、あまりのショックに涙が滲みそうになる。
ー嫌だったのかな..俺が無理やり迫ったからー
そんな心配事を抱えていると、彼女が静かに口を開いた。
「落ち着いて炭治郎。貴方が何故そこまで私に執着するのかは、今は触れないで置くけれど。とにかく私は貴方達の側にいるよ。私にとって1番大事なのは家族。今は、炭治郎と禰豆子が1番大事だよ。貴方達の側を離れるつもりなんてないし、炭治郎が心配するような事は何もないから。」
「...本当に?」
半信半疑ながらそう聞き返すと、彼女は困ったように眉を下げた。
「嘘だと思うなら、匂いで確かめて?ほら」
そう言って日向子は炭治郎の顔に己の体を近付ける。
突然の至近距離に慌てた炭治郎は僅かにのけぞったものの、やがてゆっくりと彼女の首元に鼻を近づけていった。スンとひくつかせると、ようやく彼は強張っていた身体の力を緩める。
日向子からは紛れもなく、真実の匂いがした。
彼女は両の手の人差し指で炭治郎の頬を挟むと、適度な力で口角を上げるようにくいっと刺激する。
「だから、もうさっきみたいな悲しそうな顔しないで?私、炭治郎の笑った顔が好きよ。」
「っ!」
にこりと笑いかけられて、そんな事言われようものならもう一溜りもなかった。炭治郎が咄嗟に相手の手首を取って己の体から引き離したのと、顔を俯かせたのはほぼ同時。
彼女は不思議そうに炭治郎の名を呼ぶ。でも、今顔を上げることは出来ない。
ー沸騰したように熱い...湯気が出そうなくらい熱いー
勘弁してくれ。無防備にそんな可愛らしい事言われたら、抑えられっこない。
【日向子姉さんは、俺の事どう思ってるんだ】
彼女は時折、思わせぶりな事を平然と言う。誘ってるのかと都合良く解釈してしまって、夢中で手を伸ばそうとしてもやんわり制される。その眼差しも温もり全てが暖かく優しいから、無垢であどけないから、俺はそれ以上何も言えず何も出来なくなる。
ー好きー
その一言がどうしても言えない。たった二文字の言葉だけど、彼女のそれと、俺のこれとでは意味も重みも全く違うから。
日向子姉さんは狡いなぁと思う。でも、それでも大好きで堪らないんだ。惚れ込んだ俺の負け..
「ありがとう..」
そう伝えるのが結局今の精一杯なのだ。