箱庭聖譚曲
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「ーールナさんも。エイダ様はお元気かしら?」
一瞬、気が遠くなる心地がした。
それはあまりに虫が良すぎることも理解していた。この件に関して、自分には傷付く資格がない。
ルナは向けられた無邪気な微笑みに、立ち上がって礼を返す。
「……お久しぶりです、ミス・ブラッドリー。おかげさまで主人も変わりなく」
「それは何よりですわ。それより、お医者様は教員室ですか?指を切ってしまったのだけど」
「それでしたら……私が」
「あら、ありがとう」
金髪青眼の少女、ミリエラ=ブラッドリーは四大公爵家とも交流のある侯爵家の令嬢だ。同じ第四学年であるものの教室が違うため毎日顔を合わせているわけではない。歳の離れた兄と弟が一人ずついるはずで、彼女が家督を継ぐことはないが、それだけに貴族の淑女として一族の教育を一身に受けている。成人して間もないながらも振る舞いには隙がない。その堂々とした姿はどこか級友レイラを思い出させる。
ブラッドリーの家は、当代ではナイトレイと最も関わりの深い貴族である。以前の彼女の社交界デビューの宴も、ナイトレイとの確執が根深いベザリウスは招待されなかったとルナは記憶している。
その彼女には、ルナ自身はともかくルナの立場が歓迎されるはずもない。
「どうぞ」
「助かりました。さすが公爵家の付き人ね」
粛々と従うルナに、ミリエラは満足したように頷くと優雅な仕草で立ち上がり、一連の様子を黙って見ていたエリオットの方を向いた。
「でも……ベザリウスの使用人といるなんて珍しいと思ったら、その様子だとご存知なかったのかしら?」
「…………」
エリオット相手にやや不遜な物言いなのは、両家に親交があるからかろうじて許されるものだ。
「ああ、そうです。もう招待状は届いていると思いますが、今度の夜会にはぜひお越しくださいね、エリオット様」
彼女はそう言うと、最後に可憐に一礼して医務室を出て行く。短い時間の出来事、ほんの数言のやり取りだったにも関わらず、その場の空気は台風が過ぎ去った後のような惨憺たるものだった。
部屋には数秒間、あるいは数分間、息もままならぬ静寂が横たわった。
「……ベザリウス、だと?」
「……ごめんなさい」
声を絞り出したエリオットの顔はこわばっていた。鋭い視線は医務室の床に落とされていて、目が合わない。
「それは、オレに自分の素性を隠していたから謝ってんのか」
「それもあるけど……私の口から、主人の名を伝えなかったから」
"その答えをいつか、おまえの口から言う気はあるのか?"
"そうね"
あの言葉を違えてしまった。自分に打ち明ける勇気がなかったせいで。
「ごめんなさい」
ルナはエリオットに嘘をついたわけではない。彼と自分の間にあった都合の悪い部分を伏せていただけだ。
けれど結果的にそれが彼を傷付けたのなら、その違いにどれほどの意味もなかった。
「おい、校医の先生が教員室にいたから一応連れてきたぞ。ルーンフォークおまえ、手当てはどうした……って」
扉を開けて入室してきたマーカス教師と校医の横を通って、エリオットは入れ替わるように医務室を出て行った。残されたルナの顔を見たマーカスが苦笑する。
「なんだ、ナイトレイと喧嘩でもしたか?」
「……私が怒らせました」
「そうか。まあ、仲直りは早めにな。長引かせても良いことなんか何もないんだ」
事情を知ってか知らずか、どちらの非にも言及することなく、マーカスはルナの肩に手を置いて言った。飄々とした雰囲気に、今は少しだけ救われる。
……仲直り。
直さなくてはならないくらいには、壊れてしまっただろうか。だとしたら、もうそっくり元通りには戻らないだろう。
ルナは人知れず長い息を吐いた。
*
ピアノの演奏室の隣にある控え室で、エリオットは床の隅にしゃがみ込んで本を読み耽る従者を見るなり「リーオ!」と足音を立てながら詰め寄った。図書室にいないと思えば、放課後は滅多にこっちを使わないくせに。
「あれエリオット、怒ってるの?」
「何にだよ」
「質問に質問で返すことないじゃない。会話が進まないだろ」
「……知らなかったのはオレだけか」
それだけで言いたいことは伝わったのか、リーオは本から顔を上げると「ごめん」とさして悪びれた様子もなく言った。
「知ってて黙ってたことは謝るよ。君の意図だけ汲むのは良くないかなって」
「つくづくおまえは誰の従者なんだ!」
「彼女も迷いながら僕たちと接していたところはあったと思うけどね。お世辞にも嘘が得意そうな性格じゃないし」
「……なんで」
「だって、知ったら君、絶対に彼女と話さないでしょ」
「ぐっ……」
エリオットは何も言えない。今の状況が何よりの証拠だ。
ルナがベザリウスの使用人だと知っていれば、その時点でエリオットは接触自体を避けていただろう。教室でひとり過ごす彼女を横目に日々を送っていたかもしれない。
「言ったよね。彼女が君に何も言わなかったのは、君と仲良くしたいからだよ」
「……」
「君が抱えているものが軽くないことは理解しているつもりだけど、彼女はそういうの抜きにして君を見てくれてたんじゃない?」
「……分かってる」
「あ、そう」
リーオはあっさりと本に視線を戻した。一見薄情そうに思えるが、エリオットが分かっていることをこの従者もわかっているからこそだ。
そう、分かっている。
だが。
よりによって、ベザリウスの。
「……くそっ」
吐き捨てた悪態は、いつも自分たちが居心地良く使っている部屋に虚しく響いた。
翌朝、教室の前で鉢合わせた錆色の髪の少女は、まるで怪我をした足の痛みなど無いかのように涼しい様子で立っていた。
「おはよう、二人とも」
「……」
「おはよう、ミス・ルーンフォーク。昨日は大変だったみたいだね」
「そうね。授業で使う備品の武器にはより念入りな点検が入ることになったって、先生が」
「そりゃあね」
ルナとリーオのやり取りは昨日までと変わらない様子だった。リーオはルナの素性を知っていたのだから当たり前と言えば当たり前だったが、たとえ自分と同じタイミングで真実を知ったとしても、この従者は態度を変えなかっただろうと思う。だからこそ彼は今自分の隣にいる。
かつてそういうものを望んでいたのは自分だったはずなのに。
「エリオット様」
「……」
無視をしたいわけではなかった。ただ、口にするべき言葉も見当たらず、どんな表情をすればいいのかも分からない。
ルナはそんなエリオットをじっと見て、意を決したように「改めて」と前置きした。
「私はベザリウス家の嫡女、エイダ=ベザリウスの従者です。望まれる限り、あの方のお側に仕えます」
彼女の落ち着いた声色は不思議と空間によく通った。教室のクラスメイト達が何事かと視線を寄越す中、状況にそぐわずいつかの会話がエリオットの脳裏に蘇る。
"リーオ。あいつ誰の侍女なんだ?"
"侍女じゃなくて従者なんだってさ"
"は?"
"そう名乗るんだって"
……本当に、そう名乗るんだな。
「……だから、なんだ」
「ううん……ただ、私の口からも言わないとって思って」
エリオットの無愛想な返しや厳しい目付きに、しかしルナは臆することはなかった。むしろそれをはたから見ていた同級生たちのほうが緊張感に息を呑む有様だった。
「……じゃあ、私はこれで」
「……」
「まったく、仕方ないんだから」
従者が隣でわざとらしくため息をついたが、エリオットは一晩では気持ちに折り合いなどつかなかった。そのまま何もなかったような態度でいられるほど精神的に器用でもないと、自覚もある。平然と顔を合わせられるはずがない。
教室に入り適当な席に座る。騒ぎとはいかないまでも、誰もがひそひそとこちらを見て囁き合っている。廊下でぶつかった翌朝、ルナが謝るためにエリオットを待っていた日を思い出す。あの日もこうして騒ぎになりかけ、先にルナが自分たちから離れて行ったのだ。彼女は理解していた。ベザリウス家の使用人である自分の存在が、エリオットの逆鱗に触れる可能性を。
「ちっ」
振り返ってみれば、ルナの主人について色々と思い当たることはある。
気付いた時にはここにはルナを疎外する空気があった。孤児だったという彼女の前身もあるが、その元孤児の少女が埋めた席が、他でもない英雄ベザリウス家の直系の側近だったために方々から不興を買ったのだ。この学校にはエイダ=ベザリウスに本来であれば仕えるはずだった、側近の候補の貴族の人間が多くいる。煙たがられて当たり前だ。同じ立場のリーオがルナと違い平然と学校生活を送っているのは、ナイトレイというそもそも孤立感の強い家柄と、エリオットがこの歳まで従者をつけるそぶりがなかったことが幸いしただけである。
あれだけ孤立して目立っていたルナの仕え先を自分だけ知らなかったのは、自分の前でベザリウスの話題を口にする人間がいなかったから。エリオットとルナが接触した時の、周囲の人間たちの異様な空気も、そして公爵家の跡取りを守るためだろう、彼女の年齢にしては桁外れの強さも、今思うと頷ける。
深く考えていれば……どこかの段階でちゃんと向き合っていれば、分かったはずだ。
そもそも、知ろうと思えばエリオットはいつでも知ることができた。ルナは毎日主人の送り迎えをしているようだったし、第三者に尋ねてもよかった。
それを無理矢理にでも暴き立てようとしなかったのは結局、エリオットもルナの仕え先を二の次にしか考えておらず、ルナと話し彼女自身を知ることを優先していたからだ。
ひとり眉根を寄せるエリオットをよそに、入室してきた教師によって、またいつも通りの講義が始まった。
*
その日の放課後、ルナはエイダの講義が終わるまで敷地の端のキッチンガーデンを見回っていた。いつもより色濃い憂いを帯びた表情は、辺りが閑散としているため誰にも気付かれない。
ルナは今朝自分と話した後のエリオットの舌打ちを思い出した。やはり嫌われたのだろう。遅かれ早かれ訪れていた結果だろうと思う。気は重いが、隠し事がなくなった分だけ肩の荷が下りたようにも感じる。
また以前のような淡々とした学校生活に戻るのだろうか。少し先を想像してみて、どことなく色褪せた景色に落胆を覚える自分にルナは驚いた。どうしてだろう。別に、あれくらいは慣れてしまったはずなのに。
らしくもなくぼうっと庭園を眺めていたルナのもとに、一匹の子猫が走り寄ってきた。
「……キティ?スノウドロップはどうしたの」
黒猫は名前を呼ばれたのが分かったのか、「にー」と一声鳴いて頭をルナの足に擦り付ける。鼻が利く彼がハーブの多いこの庭までやってくるとは思っていなかった。
ルナが屈んでその首元を擽ると、黒猫は校舎の方向に駆けていき、たびたび止まってルナを振り返る仕草をみせた。主の飼い猫の賢さを知っているルナは、当然のようにその後をついて行く。
キティが向かった先は校舎の傍の中庭だった。
生垣のわきに設置されたベンチに腰掛ける、プラチナブロンドの人影。いつもの大きなカバンが手すりの脇に立てかけられ、その足元には見慣れた白猫がじゃれついている。
「スノウ?」
「うわっ!?」
ベンチの人影ーーエリオットは、よほど驚いたのか弾かれたようにして顔を上げた。
ルナは意外に思った。たしかにスノウドロップは人見知りをすることはないが、それにしてもよく懐いている。以前ーールナとエリオットが話すようになるよりだいぶ前、風紀強化週間があった時期にスノウドロップが一度エリオットに迷惑をかけたらしい。その際に飼い主共々ひどく叱られたことはエイダ本人から聞いていたし、それ故に風紀強化週間は別邸に二匹を置いて通学もしていたが、迷惑をかけた件を遊んでもらったものと勘違いしているのか。
しかし一方で、エリオットの様子はルナの目からも少し変に見えた。足元でスノウドロップを遊ばせたまま固まっている。たしか彼の義兄は大の猫嫌いだが、もしかすると彼も猫が好きではないのかもしれない。
「スノウドロップ。ダメよ」
「……別にいい」
エリオットは不機嫌そうに言うと、足元を一瞥して膝に頬杖を付き、「ん」と顎でルナにベンチに座るよう促した。
「いえ、私は……」
「いいから座れ!足怪我してる奴を立たせてたら寝覚めが悪いだろうが」
「……ありがとう。リーオは?」
「忘れものしたとかで教室に戻ったからここで待ってる。あとはこいつが……うるさかったからな」
ベンチの、エリオットとは反対側の端に、ルナは遠慮がちに腰掛けた。こいつと呼ばれた白猫は主人たちの事情など素知らぬ様子だ。
「ったく、前に連れてくるなと言ったはずだが」
「学校までの道を覚えてしまっているの。授業中の教室には入らないから、大目に見てあげて」
「猫にそんな分別があるか」
「分かるのよ、人も覚えるし」
返事をするようにスノウドロップは「にー」と鳴いた。ルナを案内してきたキティは役目を終えたとばかりにベンチに飛び乗って大人しく丸まっている。まさか人間の言葉が分かるはずがないと他人は口を揃えて言うが、ルナは時折彼らが本当に自分の言うことを理解しているのではないかという気になることがある。
やがて白猫も大人しくなりまた沈黙の時間が訪れると、ルナは座りの悪い気分になった。視線を彷徨わせた末にスカートの上で重ねた自分の指先を見詰める。吹く風も葉擦れの音も、普段ならもっと心が落ち着くものなのに。
しばらくして先に口を開いたのはエリオットだった。
「あの時、なんでベザリウスの使用人だって言わなかったんだ」
"誰なんだ?"
あの時。
エリオットに教室から連れ出され、また戻る道すがら、主人のことを訊かれた時。
あれから自分たちの少し奇妙な関係が始まったのだ。
「……分からない」
ルナは少し悩んでから、結局正直な気持ちをため息のように吐き出した。
「あなたも噂で知っているでしょうけど、私はベザリウスで代々使用人をしている家に拾われる前は孤児だったの。仕事と居場所をもらった恩があるし、エイダの従者であることは私の誇りよ。でも、あの時は何故か……言いたくないと思って」
ルナ自身にも理由はよく分からない。以前のルナであればこんなふうに迷いはしなかったし、相手がエリオットでなければ告げられていたのではないかとも思う。
初めてのことで、考えも上手くまとまらず、ルナはすがるようにエリオットのほうを見る。
「……エリオット様?」
「……」
エリオットは頬杖で口元を隠したまま黙っていた。いよいよこちらも向いてくれない。自分ですらよく分からない感情を掴むための頼みの綱もなくなり、ルナは途方に暮れる。
「ほらね、言っただろ?」
「リーオ」
不意に会話に入ってきたのは、いつの間にか音もなくベンチの背もたれ側に立っていたエリオットの従者だった。忘れものを取りに戻る用は済んだのだろうか。どこから聞いていたのかは分からないが、彼は訳知り顔で、しかも自身の主人を諭すような言い種をしている。
「遅かったな」
「そうかな。むしろちょっと早かったかと思って気を遣おうか悩んだけどね」
「なんでだよ」
「あ、ムーン」
「それは忘れろ!!」
ムーン?月?
エリオットの足元ーーちょうど毛繕いをはじめたスノウドロップのあたりを見たリーオの呟きにルナが首を傾げる。エリオットが容赦なく従者の口を塞ぐが、彼はケラケラと笑って軽くその手を躱していた。
二人の様子にルナはわずかに違和感を覚えた。
「……少し、元気がない?」
「やっぱりバレた?」
「あ?リーオがか?」
「バカだなー。君の話だよ、エリオット」
怪訝そうな顔をするエリオットに、ルナは小さく頷いた。自分が機嫌を損ねてしまったからとばかり思っていたが、リーオが言うならやはり間違いない。
「最近夜中に目を覚ますことがあるって言ってたじゃない。また変な夢を見るなら言ってよ」
「言ってどうするんだよ」
「えー、不眠によく効くって噂だけどすごく苦いらしいお茶とか、紙にとある陣を描いて枕の下に入れるとか、色々あるけどどれにする?ちなみにオススメは、」
「どれもするか!」
リーオの言葉を聞いて、ルナは思わずエリオットの顔を覗き込んだ。
「寝不足なの?」
「昨日はたまたま夢見が悪かっただけだ」
「…………」
「違う、別におまえのせいじゃない!」
慌てた否定にリーオが笑いを噛み殺している。「また」と言われていたからには昨日はたまたまというエリオットの発言が嘘だということは分かる。昨日の出来事の影響ではないとはいえ、しかしルナとしては罪悪感が拭えない。
「おまえこそ平気なのか」
「私は寝入りが良くないくらいで……昨日の目眩は、たまたま」
「あのさ二人とも、"たまたま"体調不良なのは褒められたことじゃないんだよ」
呆れたようなリーオのため息に二人して閉口したその時、校舎のほうからぱたぱたと足音が聞こえてきた。スノウドロップとキティが耳をピンと立て、そちらを向いて一斉に駆け出す。
「ーールナ!」
「エイダ」
「待った?今日は授業が早く終わってね……あれ?」
午後の日差しに金色の髪が煌めく。授業終了の鐘が鳴るより前にルナを探しに来たエイダは、ベンチに座った従者越しに見える知った顔に不思議そうな表情をして立ち止まった。
「え?エリオット君?」
「ちっ……気安くオレの名を呼ぶな!行くぞリーオ」
先ほどまでとは打って変わって、エリオットの声が冷たい響きを帯びた。
「ちょっと、エリオット。相手は先輩だってば」
「知るか!オレは、そいつと関わるつもりはない!!」
自分の時の舌打ちとは比べ物にならない剣幕に驚かされ、ルナはカバンを乱暴に掴んで足早に去って行くエリオットと、エイダに会釈して主人を追うリーオを呆然と見送った。
エリオットがそんなことをするはずがないと分かっていても、エイダに危害が及ぶようなら制止しようとベンチから腰を上げたルナだが、そんな暇もなかった。彼はエイダを横目で一瞬睨んだきり、一切の意思疎通を断つようにこちらに背を向けてしまった。
ルナは凍りついたように立ち尽くす。
まだ自分が邪険に扱われる方がいくらか納得できたかもしれなかった。かつてエイダが誰かの悪意を、こんな真正面からぶつけられているところを見たことがない。エリオットの、行為よりも人そのものを憎むような態度も、彼と出会ってから初めて目の当たりにした。
"ーーそっか、エリオット君とぶつかっちゃったんだ。怒っていなかった?"
"いいえ。どうして?"
……エイダ。スノウドロップのことで叱られたって、いつ?
それは、こんなふうに?
二人の姿が遠ざかって見えなくなってもなお、ルナの胸中の混乱はおさまらなかった。
これは誰が悪いのか。果たして正解のある問題なのか。
自分はどうすればいいのか。
「ルナ……ごめんなさい!」
「え?」
思いもよらない謝罪に振り返ると、エイダが今にも泣きそうな顔をして胸の前で両手の指を組んでおり、ルナの混乱は深まった。
「そのっ……大事な時間を邪魔しちゃうなんて、私……!」
「……何か誤解があるわ、エイダ」
どうやら彼女の心配事はまったく別のところにあるようだった。
ルナは思わず肩の力が抜けて、エイダに歩み寄る。スノウドロップとキティがエイダの脚に身体を擦り付けながら鳴いていた。この状況でもエイダが下を向いていないことが、ルナには大きな救いのように思えた。
話を聞くと、やはりエイダに対するエリオットの言動は相当に厳しいもののようだった。エイダを媒介している話である以上それなりにやわらかく、相手の負の感情や要素はいくらか抜け落ちて伝えられているだろうことを踏まえても充分伝わったのだから、実際のところは推して知るべしだろう。
同時にルナは自分とエリオットの関係をただのクラスメイトだと説明したが、エイダの誤解が解けたのかは怪しく、ルナは余分に頭を悩ませなくてはならなかった。
「だからね、私はあまりエリオット君に良く思われてはいないんだけど……でも、でもね!エリオット君が良い人だっていうのは知ってるから、安心してね、ルナ」
「あなたって人は……はい、これ」
「ありがとう。あ、叔父様からの手紙もあるわ」
エリオットのことは気掛かりだが、差し当たって今出来ることは思いつかない。
エイダと共に寮の部屋に戻って紅茶を淹れたところで、ルナは寮に届けられた郵便物をテーブルに置いた。
そのほとんどは手紙だが、小包みが一つと、小包みと呼ぶには大きな一抱えほどある箱が一つ。エイダに宛てた郵便は学校近くのベザリウスの邸宅に送られる場合もあるし、過ごす時間が長いのでこうして学校に送られてくる場合もある。
「あら、この手紙と荷物はあなた宛てよ、ルナ」
「……私に?」
エイダは一通の封筒と、荷物の中で一番大きな箱をルナへ手渡した。
ルナに手紙が来ることは稀……というより殆ど無いので、つい宛名の確認を怠った。しかもこの大きさの荷物が自分宛てに送られてきたのは覚えている限り初めてだ。
筆まめな主人の叔父か、はたまた自分の養父母か、とそれらを受け取りながら差し出し人を確かめる。
「これは……」
しかし、そこに書いてある名前は全く予想していなかった人物だった。
ルナは眉を顰めて、手紙と荷物を寝室にある自分の勉強机に運んだ。落ち着いたら開けようと思ったのだが、改めて机の上の大きな箱と封筒、その封蝋の紋を見て考え直す。
ここにこうしてあるだけでも頭痛の種なので、すぐに開けたほうが良さそうだ。
「私がこう考えることを、見越しているのでしょうけど」
気は進まないが封を切って手紙にさっと目を通すと、心なし程度だった頭痛が悪化した。内容があまりに唐突すぎて理解が追いつかず頭から読み直そうと、一度目を閉じ、開けたところで、寝室の外からガシャンと磁器がぶつかるけたたましい音が聞こえてくる。
「エイダ?どうしたの?」
「ルナ……」
寝室を出ると、エイダがティーカップを取り落としたのだろう、飲みかけでそう量のない紅茶がソーサーに溢れ、少し白いテーブルクロスに飛び散っている。ソーサーの上で傾いているカップに割れた様子はなく、紅茶もエイダ自身や服にまでかかっていないので火傷の心配はなさそうだった。
それよりも、エイダの様子がおかしい。
「どうしたの?手紙に何か、書いてあった?」
「あの……叔父様が……」
「オスカー様が?」
動揺して声が揺れている。
カップを持っていたのと反対の手に、何枚かの便箋。ルナにかろうじて返事をしているものの、エイダの視線は手元の便箋から動かない。歩み寄る前に見て取れるほど彼女の肩は震えていた。
彼女の叔父であるオスカー=ベザリウスは、ルナにとっても親しみのある大切な人だった。まさかオスカーに何かあったのだろうか。
手紙を覗き込もうとしたルナを見上げて、エイダは言った。
「お兄ちゃんが帰ってきたって……叔父様が、手紙で」
「…………」
エイダの掠れた声に、ルナは言葉を失った。
主人が兄と呼ぶ存在のことを、ルナは人から聞いた話でしか知らない。なぜなら主人の兄は自分がベザリウスの屋敷にやってくるより1年も前に行方不明になっている。公にはーー死亡したとされている。
「アヴィスから……戻ってきて、10年前の姿のままで、それで」
行方不明と主張している人間、それを知っている人間は身内と関係者のごく一部しかいない。ルナは縁あってその事情に触れられたし、この10年間秘密裏に彼の捜索が続けられていたことも知っていた。
その彼が。
エイダの兄、オズ=ベザリウスが。
「オズ様が、帰って……」
いなくなる前も後もその姿を見たことがないルナには、実感が何もなかった。現状を正しく理解できているのかも自信はなかった。
けれどオスカーの言うことであれば掛け値なしに信じることができた。
会ったこともないオズ=ベザリウスという少年が、確かにこの世界に存在して生きていたことを、オスカーやエイダの口から聞いて信じたように。
あの日。
"……お兄ちゃん、どこぉ……?"
エイダとルナが出会った日。
ルナの目の前で揺れる瞳と、あの日に自分を見上げた幼い女の子の瞳が重なる。
兄を探して泣いていた、あの女の子が。
「……良かったね」
ルナはあの日の女の子を見てそう言った。
10年。
生きているか分からない人間を待ち続けるには、長過ぎる月日だ。けれどエイダは一度たりとも「兄はもう帰ってこないかもしれない」などとは口にしなかった。いなくなった兄の手がかりを必死で探す中、大人からあしらわれていることを悟ってもそこで立ち止まらず、自らの力でアヴィスについて探ろうとする気概まで見せた。
あの日から、変わらない。
きっと彼女は、ベザリウス家とナイトレイ家の間にある壁を目の前にしても、同じように前を向き続けるだろう。
「うん……!」
そして、今こうして涙を流すエイダを、ルナは誇りに思っている。
08.確執
私が使える、諦めない貴女(ひと)。