箱庭聖譚曲
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ーー君は、何のために強さを求めるんだい?
遠いあの日から声が問いかけてくる。
教養が少なくても、社交界での立ち振る舞いが見劣りしていても、構わないとは思わないが、一番を求めることはない。
けれどこれだけは、自分が負けて良い理由がない。
たとえ武器が切れない剣でも。
「言っておくが手は抜かないぞ」
「……光栄ね」
最後まで勝ち残ったのはルナとエリオットの二人だった。
何の因果か、と観衆の誰もが思ったが、ルナにはエリオットがこの授業を選択していることを知ってから、彼が勝ち残ることがなんとなく分かっていた。
おそらく四大公爵家やその麾下の家とその他の家では、戦う時に想定される相手の格が違う。単なる教養というのが本当かは定かではないが、彼が剣術の指南を受けてきたとなれば、当然その厳しさも段違いだろう。
「オレが勝ったら、主人が誰なのか教えてもらう」
「……賭け事なんて、らしくない」
「おまえに手を抜かれても困るからな」
「まさか」
そんなエリオットを相手に、自分が手を抜けると思われている。ずいぶんと買われたものだとルナは内心ため息をついた。
自分が蒔いた種だった。それこそ手を抜いて適当なところで負けておけば、こんなにも警戒されることはなかっただろう。
「……けど、負けないわ」
「主人のためにか?」
「あの人は、勝敗に拘らない。拘っているのは私」
ルナの主人である少女は、たとえそれが自分の身の安全に関わる戦いであっても勝敗などには意味を求めない。誰かが争うこと自体を望まない人だ。
けれど。あるいは、だからこそ。ルナは負けられない。主人の前で誰も傷付けさせないために、自分には守る力があることを他の人間に示さなくてはならない。これは牽制の絶好の機会だった。
なぜなら、試合は相手を倒しても悲しまれない。
「いいのか?そんな細い剣で」
「重い剣では振り回されてしまうから」
ルナは手の中の剣を握り直した。レイピアに似た細い造りの剣で、剣身は少し短い。長さがあるとやはり身体が剣に振り回される。
切れない剣と、鎧すらない中で相手に怪我をさせられない授業という状況では、ルナができることは限られている。武器に自分の動きを制限されたくなかった。
「始め」
合図から一呼吸おいて、エリオットがルナに打ちかかった。ルナは先ほどの試合と同じくそれを避けるが、返す剣が速い。躱し切れないと判断し、ルナは剣の鍔の付近で切っ先を受け流した。
……とんだ教養だ。
剣撃を躱し、時に流しながら、ルナは目の前の少年に舌を巻いていた。剣を巻き取ろうとしても力ずくで胴を薙がれ、足払いをかけようとすると距離を取られる。
太刀筋の鈍い女子生徒たちや、基本に忠実な動きをしていたローランド=ミュラーとは全く違う。踏み込み一つ取っても無駄な動きがなく、呼吸や間合いも慣れている人間のそれだ。
ここで彼に勝つことは難しい。
「はっ!」
「……っ」
足元がぐらついた気がした。
受け止めた一振りが重く感じられ、不意に視界が白む。
攻撃を叩き落とされた感覚が掌から伝わって、ルナはエリオットの剣が届かない場所まで飛び下がった。
「どうした?勢いがなくなったじゃねーか」
「……どうしたら勝てるか考えていただけ」
「舐めるな!」
もう一度間合いが詰められる。
中期戦に持ち込んで隙をつくしかないと思っていたが、また目眩でもすればこっちの負け筋になりかねない。多少強引にでも勝敗を付けるべきか。
ルナは腹を括って地面を蹴り、剣を両手で振り下ろした。牽制の小技は何もない。見て取ったエリオットがそれを防ごうと剣を水平に構える。
ぐわん、と重い音がして、エリオットが一撃を受け切った。
「は!?」
「……ちっ」
しかしその瞬間、ルナは方向転換して駆け出していた。
衝撃で半ばから真っ二つに折れたルナの剣の先が、放物線というには鋭い軌道を描いて見物していた観衆のほうへ飛んだからだ。
距離は十数メートル。折れた剣の感触をその手で味わったルナが一番速く動いた。
もしかすると、生徒たちは問題なく避けられたかもしれなかった。しかしルナがその方向へ駆け出した時、細い剣先を目で追っていたのはごく一部であったし、反応していたのは教師をはじめとした数人だけだ。
ルナは左右に散ろうとする観衆に頭から突っ込むように跳ぶと、身体を捻って折れた半身の剣で片割れを叩き落とした。軌道の曲がった剣先は、中途半端な体勢にバランスを崩していたルナ自身の下腿に当たって落ちた。
「ルーンフォーク、足見せてみろ。立てるか?」
「……問題ありません」
マーカスに覗き込まれ、尻もちをついた姿勢のルナは無感情に言った。
スラックスの裾で見えないが、負傷はしている。立てないほどではなかった。痛みも試合の集中と興奮の名残か今は我慢できる。それよりも誰も傷付かなかった安堵が大きい。
無事なほうの足に重心をかけて立ち上がろうとした時だ。
「マーカス卿は授業の続きを。こいつはオレが医務室に連れて行きます」
「……え?」
日差しが人影で遮られたと思ったら、ルナの身体は地面から浮いていた。降ってきた声と自分を抱え上げた両腕は、よりによってエリオットのものだ。
数秒、状況の理解が遅れた。怪我をしているとはいえとんでもない油断と過失だった。
「まっ……待って。大丈夫だって、」
「うるさい!あれが当たって何もないわけがあるか!」
授業が始まってから初めて動揺を見せたルナの抗議の声は、あえなく一蹴された。
*
「自分で歩けるわ。だから降ろして」
「怪我人は黙ってろ」
「……」
細い。
抱え上げた身体の華奢さに、エリオットは思わず腕の中の少女を見下ろした。
筋肉質な人間というのは、同じ背格好をした普通の人間よりずっと重いはずだ。だというのに先程感じた剣の手応えよりずっと楽に持ち上げられてしまったことに戸惑う。
こんな、細い身体で。
「降ろして」
「断る」
当の本人は怪我の痛みよりも居心地の悪さが勝るのか、顔を俯けてエリオットの胸に腕を突っ張っている。その抵抗が何故かエリオットの癪に障った。
「おとなしくしないなら落とすぞ」
「いっそ落として」
「ちっ……ならおまえの怪我のことをふれて周る」
舌打ちしてそう言うと、ルナはどうにか離れようとよじっていた身体を渋々といった様子でエリオットに預けた。彼女にしてみれば落とされるより言いふらされるほうが避けたい事態らしかった。理解に苦しむ。
エリオットはやっと腕に収まった少女に満足して鼻を鳴らした。自分の歩みに合わせて結われた錆色の髪がさらさらと揺れるのが視界の端に見える。
「運ぶ役がオレで悪かったな。医務室まで我慢しろ」
「そうじゃなくて、自業自得だから、あなたの手を煩わせることはないと言っているの」
「誰のせいだろうと怪我は怪我だ。手くらい借りろ」
「でも……他にあったでしょう。背負うとか」
「これが一番早かった。それとおまえ、体調も悪いんじゃないのか」
「……どうして」
「ここ数日顔色が良くない。さっきも下がるのに反応が一瞬遅れていたしな」
エリオットとの打ち合いの最中、ことごとく攻撃をかいくぐり隙をつくようなルナの反撃の鋭さが弱まり、さらに一瞬動きが鈍ったように感じた。持久力の問題かと思ったが、その後の彼女は特段呼吸を乱した様子もなかった。そこでふと、最近の彼女の妙に青白い顔色に思い当たったのだ。
「……少し寝不足なだけ」
「それで支障をきたしていたら世話がない。寝てもいいから担がれてろ」
ルナの肩がため息をつくようにゆっくりと上下した。
「……少し強引すぎると思うけど」
「今更だろ」
「それに、意地が悪い」
「それは初めて言われたな」
「……分かっていて賭けをしたってことでしょう」
「ならあの話は無しだ。これでいいか?」
「……もう」
ぽつぽつと呟かれる批難の声が痛くも痒くもないのは、ルナに本気で責める意思がないからだろう。
下を向いた表情は窺えないが、子供のような言い草が今だけ彼女を守るべき対象のように思わせる。
ついさっきまで剣の演習で周囲を圧倒していた使い手とは思えないほどだ。
「……おまえこそ、どうして剣なんだ」
手合わせして確信した。
あれは実戦の動きだ。ルナはどこまでも「剣で勝つこと」ではなく「試合で勝つこと」を目的に戦っていた。もっと言えば「試合で相手の戦闘意思を削ぐこと」だ。武器は正しくそのための道具でしかなかった。
エリオットが剣を貴族の「教養」だと言った時ルナは新しい見識を得たとでもいうような顔をしていたが、それもそのはず、彼女にとって剣術は護身の術そのもので、教養や伝統、見栄などではなく誰かと実際に戦うことを見据えて身につけている技術だったのだ。貴族の子息が実戦で剣を振り回すなど危険なことをするはずがないと考えていたのだろう。
彼女の動きが形だけのものではないと分かる程度には、エリオットもナイトレイの嫡男として実戦を前提とした鍛練をしている。
しかしその筋力や身のこなしを考慮したとしても、彼女より体格も力もある人間相手なら銃のほうが圧倒的に簡単に有利を取れるに違いない。そもそもそういう理由で銃はここまで普及したのだから。
それが、なぜ剣をここまで習得するに至ったのか。
「私が会った中で一番強い人が剣を使っているから」
「おまえの師か」
「そう、剣の先生。ずっと怒られてた。出来の悪い教え子だって」
分かるような分からないような理由だ。憧れやこだわりと言われたらそれまでだし、聞くとルナは銃も一応は使えるらしい。もはや剣が上手い、などというレベルの話ではない。この少女は護衛としてかなり腕が立つ。
だがいくら付き人を名乗っているとは言え、ルナのような少女がこれほどまでに護身の腕を磨かなくてはならない家とは、よほど領地がスラムに近いのだろうか。それとも自分と同じような、たとえばチェインと関わる組織に属する家の……
「主人は資産でもそれ以外の目的でも、常に身を狙われる立場にあった。屋敷には守衛も多くて、外出も制限があって、幼い頃から窮屈な環境で過ごしていたわ」
それは上級貴族として珍しいことではなかった。聞いていたエリオットにも、少なからず覚えはある。
特定の家の繁栄を快く思わない者は必ずいる。子供が途絶えれば当然その家の勢力は弱まる。貴族間の婚姻なども、体の良い人質の確保であることは多い。貴族の血とは、資産とは、祖先から継がれる信頼や恨みと切り離せない。
だから貴族の子弟は自身の価値を理解し、守らなくてはならないと教えられる。いざとなったら身分が低い人間を盾にしてでも自分が守られなくてはならないことを知っている。
「そんな中で育ったにも関わらず、主人は人を傷付けるには優しすぎた。護身とはいえ剣や銃を持たせる気には、誰もなれなかった」
それは、甘えと言えばそれまで。
弱さと言ってしまえばそれまでだ。
しかしきっとルナが仕えている場所では、それを優しさと呼ぶのだろう。
「だから私が剣を取る。私が欲しいのは強さじゃない。あの人を守れるだけの力よ」
いつだかルナは自身の主人とエリオットが似ていると言った。
ルナの主人と自分の境遇は、おそらく似ている。しかし性格やものの考え方が似ているようにはエリオットには全く思えない。
*
「分かった?私の主人が誰なのか」
話しているうちに目的地である医務室に着いた。
否。医務室に着く頃を見計らって、ルナはそんな質問を口にした。声は震えていない。表情にも出ていないはずだ。けれどエリオットに対してその自信は持てなかった。先ほど指摘された体調不良だって、今まで主人以外に看破されたことはなかったのに。
「…………」
卑怯だと思う。他でもない自分が。
こと彼との関係が絡んだ時だけ、身体がすくんだような感覚になってしまう。
お互いに会話を進めないまま、抱えられたルナが医務室の扉を叩く。が、返事も物音もない。校医は席を外しているらしい。
降りようとするルナをなおも許さず、エリオットが脚でやや乱暴に扉を開けて部屋に入った。
中はやはり無人だ。午後の柔らかな陽射しのもと、並んだベッドを仕切るカーテンもすべて開かれている。エリオットは事務机の傍にあるスツールに一瞬目をやった末、ルナを一番扉に近いベッドに座らせた。
「ありがとう。もう大丈夫だから……」
「いいか、そこを動くな。命令だ」
「……」
彼は有無を言わせぬ口調で言うと、机の上に置いてある応急道具一式の入った木箱を持ってベッドの傍らに戻ってきた。
「おまえはオレがいない間に自分で応急処置をして、校医を連れて帰ってきたら平然と擦り傷ですって顔して出ていくだろうが」
「……信用ないのね」
「エドガー信者の大丈夫が信じられるか」
「信者って……そこまでじゃないと思う、けど」
絶対にしないと言い切れないのが痛いところだ。つい反論も鈍る。
「見せろ」
「自分でやるって言っても聞いてくれないんでしょう」
エリオットが足元に屈むのを見てルナが自らスラックスをめくりソックスを下ろすと、内出血だろう、足首が赤黒く腫れていた。しかし見た目ほどの痛みは無い。きちんと動くし、骨も折れていなさそうだ。
おかしな状況だった。一介の使用人が柔らかな場所に腰掛け、公爵家の人間が床に膝をついている。事情を知らない誰かに見られでもしたら、学校からルナの籍が消されてもおかしくない。
変なの、と、頭の片隅でどこか他人事のように自分の声が聞こえた。
「痛むか」
「あまり」
「そうか。だが見てるほうは痛い」
「?」
「あいつはそれが分かっていない。だから平気で自分が傷付く。それで良いと思っている」
ルナは思わずエリオットを見た。医務室までの道中一度も見れなかった彼の顔を。
このおかしな状況を気にも留めず、エリオットは自分のほうこそが怪我を負ったのだと言うような痛切さの滲んだ表情だった。
あいつ、とはエドガーのことだろう。物語のいち登場人物にここまで感情移入できる彼は感受性が高い。もしくはエドガーが作中で死んだ際の騒動を考えると、それはあの小説の功績のひとつなのかもしれない。
他人の傷が痛いだなんて。
エドガーが死んだ時、彼も痛かったのだろうか。
エリオットは続けた。
「自分の犠牲がいつでも最善だと思うな。そのための剣だ。おまえの師は、おまえの守りたいものもおまえ自身も守るためにそこまでのことを教えたはずだ」
「私、も……」
ルナは自分に剣を教えた人を思い出した。誰かを守る力としての剣。自分の身を守る手段としての剣。彼がどのようなつもりでルナに戦い方を教えていたのか、真意は分からない。
けれど、自分が傷付くことが思いのほか自分以外の人間に影響を与えている事実は、知っておかなければならない気がする。
「……覚えておくわ」
「そうしろ」
エリオットはそう言ってルナの足に慣れた手つきで包帯を巻き付けた。剣の鍛練と従者とのケンカで怪我は日時茶飯事なのだという。
「リーオのやつは細かい作業が苦手だからな。自分でやってるうちに慣れた」
「意外ね」
「オレだって自分で出来ることは自分でやる」
「そっちじゃなくて、リーオが不器用なことが」
「あいつはべつに何でも出来るやつじゃないぞ」
「……二人とも、どこをとっても優秀なのかと」
「かくあるべしとは教育されているが、得手不得手はある」
「従者とケンカもするし?」
「うるさい!」
「ふふ」
近頃よく考えるようになった。このままずっとこの距離にいられたら、さぞ心地が良いのだろう。彼らは本当に、自分たちの間には隔たりなど何もないかのように話しかけてくれるから。
反面、ルナはエリオットには誠実でいたいと思っている。自分が他でもないベザリウスの家の人間であることを知って欲しいとも思う。それはルナに欠けてはならない要素だ。今ここにいる自分にとって最も大切なことだ。
「オレはドクターを呼んでくるから、」
救急箱をそのままに、エリオットは立ち上がりルナに背を向けた。その手を今度はルナが掴んだ。いつか叱られた日とは反対に。
エリオットが肩越しにルナを振り返る。その青の双眸は、やや困惑していたものの真っ直ぐにこちらを見下ろした。
「あのね」
その真っ直ぐな瞳に、ちゃんと映っていたい。
ルナはゆっくりと息を吸って、吐いた。
自分が傷付くのは怖くないと思っていた。守るために他人を傷付ける覚悟も自分にはあると思っていた。
けれど、自分のわがままで他人を傷付けると分かっていて進むのは、こんなにも怖い。
"あなたとは色々、意見が合わないと思うけど"
"そうらしい"
"それでも、また話してくれる?"
"はあ?何を言っている。だから話すんだろう"
「エリオット様。私……」
"ベザリウスとナイトレイは、手を取り合うことができると思う?"
"ええ、もちろん!"
「私は……」
その時、音を立てて医務室の扉が開いた。
ぱっとルナが掴んでいた手を離す。エリオットはその手を一瞥してから音のした方に顔を向けた。
医務室の静まり返った空気を破るように、扉を開けた人物が部屋に足を踏み入れる。
「ーーあら」
鈴を転がしたようなその声に、ルナは聞き覚えがあった。
「お医者様はご不在のよう……けれど、ずいぶんと珍しい取り合わせですのね」
こちらを見て首を傾げたのは金髪青眼の美しい女生徒だ。怪我をしているのか、白い手にハンカチを握っている。
「ごきげんよう、エリオット様。私の社交界デビュー以来ですね。それと……」
女生徒と目が合う。
悪い予感……と言ってしまうには、ルナには身から出た錆の自覚があり、対する彼女の笑顔は無邪気すぎた。
「ーールナさんも。エイダ様はお元気かしら?」
07.因果
ここに来てなお覚悟が出来なかった。それに応じた報いだった。