箱庭聖譚曲
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気付けば貧民街の路地裏にいて、気付けば周りに家族と呼べる人はいなかった。
少女が持っていたのは自分自身と煤に薄汚れた服、そして"ルナ"という名前だけだった。
当然生きるために保証されるものなど何もなく、排水溝で風雨をしのぎ、ゴミを漁って、雨水を啜ったこともあった。およそ人間のものとは思えない生活。
最も不幸だったのは、そういう存在が決して少なくないことだった。金も力も知識もない人間の形をした生き物は、運が良ければ生き残り、それ以外は空腹や病気で倒れた。
町の人間は皆見ないふりをした。もしくは自分たちが生きるのに必死で、本当に道端の浮浪児のことなんて見えていないのかもしれなかった。逆にそんな子供の存在をわざわざ気に留めるのは悪意を持った人間で、ルナは運悪く人売りの大人に腕を掴まれて引きずられ荷馬車に積まれそうになっていたところを、運良く今の養父に買われる形で助けられた。
養父が仕えるベザリウスの屋敷を訪れ、泣いている小さな女の子を見つけ、共に過ごすようになって。
彼女を守ろうと思った。付き人として。友人として。
この人の傍で、ずっと、死ぬまで。
「あなたには、きっと分からないわ」
元々ここに在るはずはなかった、ただ幸運に拾われた命は、許されるならあなたを守るために使いたい。
世界に望まれた人ーーエイダには、そして彼にも、理解されなくていい気持ちだ。
ラトヴィッジ校に入学して3年が経ち、ルナはエイダと同じ寮室をあてがわれた。ルナの他にもベザリウスの使用人は数人いるが、彼女たちは別室だ。二人だけの部屋とはいえ屋敷の調度品などはあまり持ち込まれていない。ただキティとスノウドロップがベッドのかげで毛繕いをしている。
「ルナ、あ、あのね」
不意に何故かいつもより上擦った声がルナを呼んだのは、そんな部屋の中、夕食と就寝時間の合間に机で授業の課題を広げている時だった。
振り返ると、ベッドの端に腰掛けてこちらを見るエイダと目が合った。時折見せる頑固な瞳の色だが、唇をわななかせて言葉に詰まっている。ルナの前で見せるには珍しい様子で、それに全く心当たりのないルナは首を傾げた。
「なあに?」
「その、私ね」
エイダは膝の上に乗せた両手を握りしめ、意を決した様子で口を開く。
「私……私、好きな人がいるの」
「……すきなひと」
「う、うん」
それはひどく実感を伴わない音としてルナの耳を掠めていった。
すきなひと。
この場合、その言葉の持つ意味は意中の男性ということだろう。エイダはれっきとした年頃の女性で、愛嬌があり家柄も良く、長年側にいるルナが見ても美しい。考えてみれば、いくらエイダの性格がおっとりしているとはいえ、むしろこういう話題が今まで無かったことが不思議であるほどなのだ。
「今度のお休みに会う約束をしていて。それで」
「なら、支度と馬車の手配を……」
「それでね、その。その方が、二人で会いたいって」
「…………そう」
部屋に沈黙が降りる。
同年代との関わりが薄く、こんな話を誰かとしたことがないルナが何を言っていいのか分からず言葉を失ったから。そして、エイダが頬を赤くしたきり黙り込んでしまったから。
「……」
「……」
やがて、二人が出会って数年、一度も経験したことのない空気の中に、にゃあ、と子猫の鳴き声が響いて。
ルナは短い吐息と共にいつの間にか入っていた肩の力を抜いて、ゆっくりと瞬きをした。
「……ドレスの用意は必要ね。帽子も」
「うん。ありがとう」
「外で転ばないようにね」
「もう、ルナったら。子供じゃないのよ」
「そう……そうよね」
頷いて静かにインク瓶に蓋をし、ぎこちない空気の残滓を払うように教科書を閉じる。
相手は聞かなかった。言うべき時が来れば言ってくれるとルナは知っていた。そのかわり、今度会う場所はどこか、何をするのか、どのくらいの時間に迎えに行けばいいのか、最低限エイダの安全を守れるよう聞いていく。その度にエイダはいたく嬉しそうに予定を話してくれた。
その日、消灯時間が過ぎてもその部屋の燭台には小さく灯りが揺らめいていた。
*
それはいつもと変わらないーー変わらなかったはずの、朝の出来事。
「あら、ごきげんようハウスメイドさん」
主人と別れて自分の教室に入ろうとしたルナは、背中に投げかけられた声に身体ごと振り返った。
女性使用人であるルナを下級使用人と間違える人間、もしくはそう揶揄する人間は多いが、こうも人前で堂々と家事用メイド呼ばわりする相手はごく限られている。
迷いなく歩み寄って来るその身体は他の生徒と同じラトヴィッジの白い制服に包まれている。手入れの行き届いている艶やかで鮮やかな赤毛。見るからに気の強そうな眉と炯々と青く輝く瞳は、彼女が人を従わせる側の人間であることを言外に主張していた。
「今日も人形みたいな無表情ね」
「……おはようございます、ミス・シャーリー」
「気安く私の家名を口にしないでくれる?」
強気な表情に違わないきっぱりとした口調。どこの貴族の子息でもここまで堂々とした振る舞いはなかなか見ない。それ故に彼女、レイラ=シャーリーはクラスの中でもひときわ目立つ存在だった。
ここ十数日ほど家の事情で帰省していたと聞くが、戻ってきた端から彼女の周囲はずいぶんと賑やかになる。それも相まって、向かい合ったルナと彼女とは対照的な雰囲気を醸し出していた。
ルナが低頭し、恭しく扉を開けて彼女に道を譲る。貴族と使用人の本来あるべき姿。そんな一連の光景を、エリオットは自分の席から険しい表情で眺めていた。その眉間に刻まれたシワは、目の前の出来事のせいというより、実はどちらかというと数日前に原因がある。
図書室でルナと話をしたあの後から、エリオットの胸中はどことなく澱んでいた。言葉にし得ない分だけもやもやとした感情は身体の底の方に溜まっていく。
ガキかオレは、と自分でも思う。
聖騎士物語の従者についてなど、幾度かーーそれこそ同年代の人間には聞くことがある問い掛けだったはずだ。返答の内容も想定の範囲を外れるものではない。なのに、どうしてあれ以来、挨拶のために交わす声にさえ、あの一言が脳裏を掠めるようになったのだろう。
"あなたには、きっと分からないわ"
「……ちっ」
いつにも増して苛立たしげで機嫌が悪いエリオットにわざわざ近付こうとするクラスメイトは、自らの席で分厚い本を読み耽るリーオを含め一人もいなかった。
エリオットがその場に居合わせたのは偶然だった。
ほとんどの生徒が寮に引き払った放課後。日課の鍛練を目的に、重みのある楽器ケースを背負い校舎から林に抜ける道を突っ切っていたところだ。
制服のカフスが中庭のやや伸びた植木の枝に引っ掛かり、それを強引に外す。苛々していると小さなことがいちいちカンに障ると舌打ちしかけた、その時。
「久々に来て教室がなんだか騒がしいと思ったら、あなたのせいだって言うじゃない、ルナ」
中庭に面した太い円筒形の柱にもたれるようにしている赤毛の女子生徒。人気のない、人目につきにくい渡り廊下に、そのきっぱりとした声はよく響いていた。
眉を顰めて思わず先を急ぎかけた足を止める。柱の影になって見えないが、どうやらルナもいるらしく、レイラのそれより感情を映さない凪いだ声が聞こえてくる。
「覚えがありません」
「あのねぇ、あなた、あんまり目立つと良いことないわよ」
不満げなレイラの言葉をを聞いた時にはもう身体が動いていた。特に深くは考えなかった。
「おい」
制止する人間もおらず、また制止される理由もないと、足早に歩み寄ったエリオットはレイラとルナの間に割って入った。双方、片手に鞄を持っているのは、寮に帰らず教室からそのままここに来たからだろう。
「何をしている、レイラ=シャーリー」
「あら、タイミングの良いご登場ね、エリオット様?」
「何をしていると聞いている」
「世間話よ。少なくともあなたの出る幕じゃないわ」
「オレには要らない言いがかりをつけてるように見えたが」
ルナを背に庇うようにしてレイラを睨むが、当の彼女は特に怯んだ様子もなく挑発的に笑っている。良く言えば大物であり、悪く言えば面の皮が厚い。
「へえ、噂は本当なんだ。ルナ、良い味方を持ったわね。もしかして恋仲?」
「口が過ぎるぞ」
「学校の中は治外法権、上下関係は学年が優先。同級生は無礼講じゃない。四大公爵家のご子息様」
「オレにじゃない。こいつに対して口が過ぎると言ったんだ」
己の背中に隠れるほどの少女を示せば、レイラはわずかだが意外そうに目を丸くした。
エリオットは入学してこのかたーー否、生まれてこのかた家族とリーオ以外の人間からここまで大きな態度を取られたことがなかったが、それは別に問題ではない。同じ学校の生徒として他と区別をされないというのならむしろ望むところである。
だからこそ、彼女のルナへの態度は目に余るものがあった。陰でコソコソと騒つかれるよりはよほど潔いが、それで無礼講だのと自ら宣う同級生に厳しく当たるのは了見違いというものだ。
渦中のルナが「ミスター・ナイトレイ、その」と、言いにくそうにエリオットの制服の裾を引く。
エリオットは肩越しに、
「おまえも、言っただろうが。はっきり言い返せ!」
「違うのよ、彼女は」
「何が違う。こいつの実家の格か?性格の悪さか?」
「ぷっ、あっははは!」
エリオットがあえて強い語彙でレイラを指差すと、当のレイラが突然、耐えきれないといったふうに吹き出した。先ほどまでの気取った様子とは違い無邪気な笑い声だった。
ルナが小さく嘆息するがそこに剣呑な雰囲気はなく、呆気に取られるエリオットに腹を抱えたレイラが言う。
「もう無理。素直なのはともかく、察しが悪いとモテないわよ、エリオット様。女の子の話を聞かないところもね」
「は?」
「ミス・シャーリーのアレは言葉遊びなの。本気にしないで」
「言葉……遊び?」
「仲良しなのよ、あたしたち。でも全部が冗談ってわけでもないけど。ルナは相変わらずにこりともしてくれないし、何故かエリオット様との噂は聞こえてくるし。ルナ、あなたも、名前で呼んでって何回も言ってるでしょ?」
ーー今日も人形みたいな無表情ね
ーー気安く私の"家名を"口にしないでくれる?
……そういうことか。
言葉遊びとやらを何となく理解したエリオットは、肩から力が抜けるのを感じた。どっと疲れが押し寄せてくる。
思い返せば納得出来ないこともなかった。レイラの言葉には最初から額面とは違った含みがあり、受け取るルナにもそれは通じていたのだろう。
「にしても言い過ぎだ!」
「……あなたも、相当だったけど。ミスター・ナイトレイ」
「そうよそうよ。家の格が何?性格が何ですって?」
「くっ」
「あっはは」
身体を折るようにしてひとしきり笑ったあと、レイラは無遠慮にエリオットを眺めた。
「まあ、これはこれで面白いわね。"言葉遊び"も機会が減りそうだわ」
「あ?」
「じゃあルナ、また寮で」
「休みの間の板書は?」
「気持ちだけ頂くわ。借りを作るの、好きじゃないから」
そう言うと赤毛を靡かせて女子寮のほうへ踵を返す。その颯爽とした後ろ姿は、変わらず挑発的でありながらも、先ほどまでの彼女とは違った心証をエリオットに残していった。
「あいつ、教室でも普通に話せばいいだろ」
「彼女の家の事情が複雑なの。相手が私では公に親しいとは言いづらいでしょうし」
「それでもわざわざおまえに構うのか」
「そうね。わざわざ」
「ふん。……不要な口を挟んだな」
種明かしをされてもなおレイラの語気の強さは気に入らなかったが、当人たちが納得しているならそこまでだ。第三者はとやかく言うべきではないだろう。それに指摘された通り、親しくない相手にも遠慮なく強い言葉遣いをするエリオットに、この話題で他人を非難する資格は無いのかもしれなかった。
しかしこちらに向き直ったルナは「いいえ」と首を振った。
「あの日と同じでしょう。ありがとう」
「……べつに」
親切心が無かったとは言わないが、ほとんど反射で出た行動に対して礼をされるときまりが悪い。彼女の眼に正面から見詰められながらとなるとなおさらだ。
どことなく顔が熱いエリオットをよそに、ルナは涼しい顔で寮ではなく校舎へ向かって歩き始める。庭を照らす午後の穏やかな日差しと廊下を覆う天井の影の明暗差のせいか、日陰で改めて見るとその肌がいやに白く見えた。
「おまえ、」
「なに?」
「……いや。寮に戻らないのか?」
「ええ。迎えがあるから」
迎え、とは無論彼女が仕えている主人の迎えだろう。このまま後でも尾ければすぐにその姿を見られるのかもしれない。そんな姑息な手段、実行しようとは思わないが。いや、他の手段がどうであれ、自分は彼女自身の口から聞きたいと思っているのだ。
「あなたは練習?」
ルナの視線はエリオットが肩にかけた大きな鞄に注がれていた。一般に生徒が持つ鞄よりだいぶ大きく、一見楽器のケースのように見える。これに入っているのは楽器ではない。しかし練習というのはあながち間違いでもないので、否定もしなかった。
「……たまに聞こえるあなたたちのピアノを、主人が気に入っているの」
「今日は弾かないぞ」
「そう、残念」
あっさりと言う少女だが、その声はほんの僅かに、心から残念がっているように聞こえた。
あの時は、どうだっただろうか。
「ーーあの時」
「?」
「オレには分からないと、そう言ったな」
首を傾げたルナは、やがて思い至ったように呟く。
「……図書室の?」
「そうだ」
「気に障ったなら謝るわ。決して、あなたがエドウィンの心情を踏まえて読めていないという意味では、」
「そんなことは分かっている!」
見くびられては困る。だてに何度も『聖騎士物語』を読み返しているわけではないのだ。
そうじゃない。そうじゃなくて。
「オレはあの従者が嫌いだ」
「そうみたいね」
「だがおまえはそうじゃない」
「ええ」
「残された側の身になってみろ」
「立場が入れ替わることなんてないわ」
「気持ちを考えろという話だ!」
「考えなかったと思うの?」
「考えられていたらあんな最期になるか!」
「いいえ、答えは変わらない」
きっぱりと断言して、それから珍しくルナは笑った。小さな綻びだが、見間違えようのない、草の葉から露が零れたような笑みだった。
「こんなに、ひとつのことで人と話したのは初めて」
「そうなのか?」
確かに、彼女が誰かと長く会話をしているところは見たことがないが。
「主人とは意見が食い違うことなんてないし」
「そりゃご立派な主従関係だな」
「あなたとは色々、意見が合わないと思うけど」
「そうらしい」
「それでも、また話してくれる?」
「はあ?何を言っている。だから話すんだろう」
それはエリオットにとって当たり前のことだった。自分の目で見て判断する。人の心は目に見えないから、話す。納得するまで。
ああ、そうか。
"あなたには、きっと分からないわ"
あの時、図書室で。自分は、ルナに勝手に諦められてしまったことが気に食わなかったのだ。話をする、そのずっと前の段階で一方的に壁を作られてしまったことが無性に腹立たしかったのだ。自分の中で世界を完結させているその態度は、いつかの自分の従者のそれによく似ていた。
それはきっと、心ない言葉にたくさん苦しめられている少女の自己防衛や、あるいは優しさであったのかもしれないが。
「分からないと思うなら話せばいい」
「……あなたも、レイラも、難しいことを言うのね」
近付けば、話すことが増えれば、お互いが傷付くこともあるだろう。
それでも"わざわざ"ルナに構う人間はいるだろう。自分の好奇心から。彼女の魅力から。彼女と話をしたいと思って。
「じゃあ、また明日。エリオット様」
05.友人
対等に、自分を見てくれる相手ならば、交わす言葉には意味がある。