箱庭聖譚曲
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本を読むといい。
そう言ったのは、ルナを拾ったーー正確に表現するならば人買いの荷車に積まれそうになっていた孤児のルナを買い取った、ベザリウスの屋敷で庭師をしているという老夫だった。彼はルナに屋根のある寝床と、袖が少しばかり余る丈の衣服と、暖かい食事を与え、そしてルナが読み書き出来ることを知ると本を与えた。
本を読むといい。
本とは自分以外の人間の思考や経験の総体であり、自分にないもの、自分に作れないものに触れることが出来る。今は意味が分からなくとも、今は役に立たなくとも、貯蓄されたそれらはいつか必要になった時に取り出される。表面化こそしないかもしれないが、君の思考を深く豊かにするだろう、と。
幼いルナにはそれこそ意味が分からなかったが、時折与えられるささやかな暇を潰す趣味という趣味も無かったことや、主人が兄君の影響でーーと本人は言い張っているーー読書好きだったことが幸いして、今も習慣的に書物を読み続けている。
「おまえの主人は誰なんだ?」
自分で確かめろとは言ったものの、まさかそう来るとは思わなかった。
目の前のエリオットのいっそ清々しい問いに、ルナは珍しく戸惑いの表情のまま言い淀む。その日の授業を全て終えた放課後のことであった。
「あなた、何というか……少し素直過ぎると言われない?」
「いいよ、ミス・ルーンフォーク。率直に馬鹿って言ってもらって」
「おいこら」
ルナの座る席の傍らに仁王立ちするエリオットと、その背中からひょっこり顔を出すリーオ。どうやらこの主従の一見奇妙な関係は、これでいて正常であるらしいということは、彼らとちゃんと知り合って数日とたっていないルナにも理解できた。
「本人に訊くのが一番手っ取り早いだろう」と堂々宣うエリオットに思わず呆れたような声を返してしまったが、馬鹿、などとは言えるはずもない。立場ももちろんのこと、ルナは学期末になると校舎の供用部に貼り出される大判の羊皮紙を思い出して首を横に振った。
「二人とも、成績優良者に毎回名前が載ってるわよ」
それは学期ごとに行われる各授業科目の試験の結果を総合評価した、いわゆる学業成績の順位表だ。上位数十名程が公表されるのだが、エリオットも、そして彼の従者リーオも、入学してこのかたあの紙から名前が漏れたところを見たことがない。
それは決して簡単なことではないはずだが、リーオはあははと何ともなしに笑って主人の肩にポンと手を乗せた。
「勉強ができるタイプの馬鹿なんだ」
「さっきからケンカ売ってんのか!?」
「……ふふ」
「……おまえも、笑うな!」
*
笑うな、と勢いに任せて言ったものの、あるかないかの微かな笑みが消えてしまうと悔しいような気もするし、周囲の目を考えるとこれで良いような気もする。
クラス中から人形のようだと形容される少女は、それにふさわしく整った容姿をしていた。白い肌。真っ直ぐなブルネットの髪。無表情と背筋の通った姿勢も非人間的な美しさに拍車をかけていた。反面、翠色の瞳だけが物憂げだが生きた光をたたえており、少女にどこか危うい雰囲気を与えている。
美しい人形が喋ったり笑ったりすれば、当然人の目も集まるというものだった。
……うぜぇ。
それにしても好奇にまみれたクラスメイトたちの視線は、数が数だからか物理的な圧力さえ感じた。
先日のように悪意やら面白半分でざわつかれるのはもってのほか、しかしこれはこれで、カンに障る。
「……ちっ」
「?」
こちらを見上げて首を傾げる様子は他の生徒と変わらない。ルナは感情の起伏に乏しいだけで……否、感情の起伏が態度に表れないだけで、ちゃんと話をしてみればごく普通の少女だった。
注目はエリオット自身も覚えが無くもない。しかしそれは成り行きで目立った行動をした時の話であって、普段の一挙手一投足にこれでは見世物屋の動物にでもなったようで気が滅入る。
彼女がこれまで人形のように大人しく過ごしてきた反動で何故自分がこんなに疲れなくてはならないのか。
「どうかしたの?」
「なんでもない。で、誰なんだ?」
「まだその話?……悪いけど、もう時間だから」
周囲の視線を遮るようにして彼女の前に立ったものの、当のルナは話をはぐらかすように教室の時計を確認して席を立ってしまう。
「おいこら、逃げるな!」
「エリオット、彼女は委員会の仕事だよ。引き留めるのはちょっと迷惑だ」
「は?委員会?」
怪訝な表情をする主人に従者は仕方なくため息をつく。君って本当に何も知らないよね、といつもの台詞が聞こえてくるようだったが、この学校の委員会は生徒に所属の義務は無く、ほとんど有志で成り立つ組織だ。流石に誰がどの委員会に属しているのかまで把握する謂れはない。
時間が迫っているのは本当だったのだろう、リーオに制止されている間に、ルナは自身を盗み見ていたクラスメイトたちの隙間をするりと抜けて教室を後にしていた。
「そういえばエリオット、あの本読み終わったならとっとと図書室に返してよ。僕も借りたいんだからさ」
「なんだよ、急に」
「いいから早くー」
突然話題を変えたリーオに戸惑いつつ、彼が言う本はちょうど読み終えて近いうちに返却しようとしていたところなので断る理由もない。
重みのある楽器ケースを背負い、リーオと並んで廊下を歩き出す。
「というか、それなら寮の部屋でそのまま読めばよかっただろ」
「図書室の本を又貸しなんてマナー違反だよ」
しゃあしゃあと言ってのける従者に、主人は反論も出来ず天井を仰いだ。
ラトヴィッジの敷地内にあるいくつかの建物から伸びる通路は、入り組んで最終的に大きな施設に出る複雑な設計になっている。教室のある校舎の一階通路を、中庭の見える渡り廊下を超えて突き当たりまで進むと直接繋がっているのが図書室だ。ただでさえ高い天井が二階分の吹き抜けになっており、壁一面に書架が並んで整然と本が収められている。蔵書はレベイユでも屈指の数である。
中に入るとすぐ脇にある貸し出し・返却用のカウンターは、今は内側は無人でしんとしていた。備え付けの呼び鈴があるが、どうせなら借用と返却を同時に済まそうと、エリオットは目星をつけていた本を取りに向かう。リーオもそのつもりなのだろう、黙って後ろをついてきた。
目的の本棚まで行く途中、人の気配に足を止めると、ひとつ向こうの列の書架で数冊の本を抱えるルナと見慣れない男子生徒の後ろ姿が見えた。
……なるほど、図書委員だったのか。
落ち着いた物腰と図書室の静けさ。妙にイメージが合っていて納得してしまう。少なからず利用しているにも関わらずエリオットが今まで知らなかったのはタイミングが合わなかったせいか。先ほど教室での不自然な話題転換を考えるに、おそらくリーオは以前から知っていたに違いない。
静かな図書室で、しかも業務中に声をかけるのは流石に躊躇われ、またそんなつもりで来たわけでもないので主従が二人の背後を通り過ぎようとした、その時。
「ルナちゃんのあれって嘘なんじゃないの?」
「……嘘?」
静かな空間。
ひそめられた声でも、棚をひとつ隔てただけの距離なら聞き取ることが出来てしまった。
ほとんど脊髄反射で飛び出しそうになった足を、いつの間にか傍らの床で図鑑を広げているリーオが掴んで止める。悪意から、ましてや意味もなく自分の行動に干渉する従者ではない。それを分かってエリオットは前のめりの体制を改めた。そのかわり、彼らの視界に入らない位置にいるのをいいことに棚の角から様子を伺う。
自分たち以外の生徒が周辺にいないと思っているのか、もしくはいても問題ないと思っているのか、男子生徒が続ける。
「色々ある世界だ。高貴な血の人間でも、出自を明らかにできないことだってある」
「……出自を公表できないとして、その事実自体をわざわざ他人に教えることはないと思いますけど」
「他人って、冷たいなぁ」
男子生徒が肩を竦める。一見優しげな口調ではあるが、その様子が芝居がかっていてやけに鼻についた。
一方ルナはエリオットに頭を下げに来たあの時のように、事務的で無機質な応答だ。本人は事実を口にしているだけのつもりなのだろうが、それだけに容赦がなく、受け取りようによっては喧嘩腰ですらある。
……だから人形なんて言われるんだよ。
あまり主観を交えない、淡々とした対応。それは使用人の振る舞いとしてはある意味理想的なのかもしれなかった。
エリオットが主人の立場なら決して快くは感じないが。
「君は綺麗だし、立ち振る舞いも見劣りしないから、少なくとも市民の家の出や……ましてや孤児院みたいな場所の出身ではないんじゃないかなって思っただけだよ」
「作法は全て主人の教育です。美醜の判断は人の感性次第でしょうが、それと出自の関連に根拠はありません」
その時、二人の会話を制止するようにカウンターのベルが鳴り響いた。ルナが真っ先に反応して振り返ろうとしたのが分かり、エリオットは咄嗟に身体を棚の陰に引っ込める。
「質問の答えですが……」
一人分の足音と硬い声が遠ざかりながら。
「私が孤児だという噂なら、本当です」
「……ああ、そう」
変わらず柔らかく頷いた男子生徒は、カウンターに人数を割くこともないと判断したのか、ルナの後を追おうとはしなかった。しばらくして書架の整理を終えたらしく、数分後にはその一角からはリーオが厚い紙をめくる音だけが聞こえるようになる。
「……なんで止めたんだよ」
「一緒にいた人は先輩だよ。君が行ったらまた事が大きくなるだろ。彼女も巻き込んで」
「……」
「日常茶飯事なんだよ」
孤児がどうのって、そんなこと。
リーオはいつも通りケタケタと笑ってページをめくった。エリオットはそんな彼を見遣る。
"君は綺麗だし、立ち振る舞いも見劣りしないから"
取り入ろうとされるのも。
"ましてや孤児院みたいな場所の出身ではないんじゃないかなって"
心にもない言葉を向けられるのも。
彼女も、彼も、いつものことで、慣れているのだと。
「だからさ、嬉しかったと思うよ」
「……あ?」
「教室で、君が怒鳴ったことさ」
よいしょ、と見るからに重そうな本を抱えてリーオが立ち上がる。
この従者が言うなら間違いないのだろう、と思ってしまった自分に腹が立った。
自分には、それの本質が分かってやれないのだと。
「はい、こっちが返すやつで、こっちが借りるやつ」
「……確かに受け付けました」
年季の入った飴色のカウンターに差し出された三冊の分厚い本。ジャンルがバラバラなこの本たちをリーオが借りてきたのは、確か自分と目の前の少女が衝突した日の昼休みではなかったか。またその隣には今から借用手続きをする四冊が積まれている。自分と同じ量の課題をこなして一体いつこれを読んでいるのか。
相変わらずの消化速度に呆れ半分で舌を巻きつつ、エリオットも自分の借りた本を二冊重ねてカウンターに乗せる。
「なぁ、これの続き、返ってきてるか?」
指差したのは、意図して上にした本ーー小説『聖騎士物語』。この学園にも愛読者が多いシリーズであるため最新刊が入荷される前から貸し出しの予約が殺到する代物だ。
「次なら、確か……」
ルナはカウンターの後ろに積んである本の山から、崩れないよう器用に一冊を抜き取る。
「ちょうど、さっき」
「タイミングが良いな」
「期限は守ってください」
「言っておくが、オレは破ったことはない」
「そうね。……リーオ」
教室のクラスメイトたちに負けず、彼女は彼女で視線に一種の圧力がある。名前を呼ばれて瞬きをしない双眸にじっと見つめられたリーオは、珍しく悪びれたふうに頬をかいた。
「一気に何冊も借りると自分の本と混ざるんだ」
「……この前は催促状の一歩手前だったわ」
「だから最近はこまめに顔を出してるつもりだよ。あ、そっちの本は僕が借りようかな」
返却と貸し出しの手続きを一通り終えると、ルナはカウンター奥のテーブルに置いてある二つの本の山のうち一つを抱えて持ち上げた。小柄な少女に自分の顔が半分ほど隠れてしまう量の本が重くないはずがないが、バランス感が良いのか不思議と危なっかしい印象は受けない。
「僕は自分で戻してくるよ。場所も覚えてるしね」
「置いたままでいいわ」
「図書室の散策好きなんだ、分かるでしょ?」
「……そう言うなら」
じゃあ、と一言だけ残して、リーオはふらりといなくなった。目当ての本があるでもなく、この広い図書室の散策とは、本の虫らしい。
何となく自分もそのまま寮に戻る気は起こらず、彼女が抱える山の一番上に乗った『聖騎士物語』の上に今借りた続きの巻を乗せ、細い腕から書物の山を半分奪った。
「ミスター・ナイトレイまで。私の仕事なのに」
「いや、」
不自然に途切れる言葉。素直に今はそういう気分なのだとも言えず、並んで歩きながら、エリオットはどこか座りの悪い思いがして話題を探す。
さっきの胸くそ悪い話のせいか、それを盗み聞きしていた罪悪感か。
「これ、読んだことあるか?」
結局辿り着いたのは、手にしていた借りたばかりの一冊だった。
『聖騎士物語』
自分たちの世代が物心ついた時には、つまり10年ほど前には既刊がずらりと貴族の屋敷の書庫に並び、10年後の今も物語は打ち切られることなく未だファンを増やし続けている。幻想的長編小説の代表と言えた。
「ええ」
「どう思った?」
「どうって?」
「登場人物とか、ストーリーとか。なんでもいい」
後から思えば、正解がない質問をしたのは彼女に喋らせたかったからかもしれなかった。数分前までの出自云々の話よりも多く。彼女が何を考えているのかを。
何となく選んだ話題だったが、ルナは真剣な面持ちでしばらく黙った。
やがて、
「……いい物語だと思うわ。読者を共感させるリアリティと、フィクションならではの爽快感のバランスも良いし、登場人物の出身や身分が違うことで様々な文化の興味への足掛かりにもなってる。それでいて異文化や格差のような社会問題が物語の中でうまく昇華されているから、どこの家にもある絵本として情操教育の一端を担っているのでしょう」
記者の評論のような淡々とした感想には口を挟まず、エリオットはただ頷いた。
この国の子供は、文字の読み書きを教えているような家に生まれたならばまず聖騎士物語を読んで育つ、と言われている。絵本は原著の序盤を切り取って簡素にしたもので、最後は"旅は続く"と締められていたはずだ。
そんな幼い頃から読んでも飽きず読み返したくなる感動と、何より王道と言われていても先の読めない展開。何年経っても人気が落ちないということはその点を作者が的確に踏まえているということだ。
「一冊を読み終えた後の余韻で読者に想像の余地を与えつつ完成度の高い文章力は特にこの作者の持ち味ね。個人的な好みの話をすると、物語の主軸になる登場人物ほど性格が単調なのが残念だけれど」
エリオットが先を促すように黙っていたからか、ルナはさらに続けた。彼女にしては破格に口数が多いのは、本を読むことが好きな証拠だろう。そして誰かとこうして語り合うのも、本来ならきっと嫌いではないのだ。
声音を聴いて理解する。
周囲に比べると相変わらず乏しい表情の変化。教養が伺えるが情緒に乏しく親近感の湧かない口調。それでも、こんなにも違う。
自分の席で微動だにせず、じっと息を殺して、心を殺して周囲の視線を耐えていた彼女とは。
生まれや育ちを疑われ、自分自身を仕えている家や人間を守るために他人を拒むことを余儀なくされる彼女とは。
「で?」
「……?」
「おまえは好きか、この本」
訊くと、彼女はわずかに翠の瞳を見開いてからエリオットの持つ本の背表紙を見詰め、コクリと頷いた。その様子があどけなく、幼子のように見えて少し可笑しい。
「そうか」
こういうことを、少しずつ知れたらいい。
人形のように見えていた少女にも好きなものがあり、不器用そうに時折話し、ごく稀に笑顔も見せるのだと。
そうしているうちにちょうど『聖騎士物語』の棚に差し掛かり、足を止めて書架の空白に今しがた返却した一冊を差し込む。
「あの従者が死んで読者がいくらか離れたと思ったが」
「……若いご婦人の層はそうだったわね」
「おまえは違うのか?」
物語序盤で主人公と主従の契約を交わした寡黙な従者エドガー。エリオットには理解出来ないが登場するキャラクターの中で圧倒的な女性人気を得ていた彼が、作中で主人公を庇い命を落としたシーンが世間を賑わせたのは、未だ記憶に新しい。なんでも熱狂的な一部ファンは編集部に乗り込んだという話も聞くくらいだ。
「私はストーリーが好きだから」
「エドガーの死に際も含めて、か?」
「……」
尋ねた声が厳しくなった自覚はかろうじてあった。エリオットにとって重要な質問だった。
しかし、同時にそれがルナにとってずいぶんと踏み込んだ問いであるという認識は足りなかった。それを聞いたルナが顔色を少しも変えなかったために。
まるで幾度も幾度も同じ質問に応じてきたように彼女は答えた。
「あの人のためならこの世の全てに弓引く覚悟も、命をかける覚悟も有る。なぜなら、あの人が決してそれを必要としない人だから」
「……矛盾してないか?」
誰かと敵対したくない、誰にも傷付いてほしくない。そんな主人だからこそ命を差し出しても惜しくないと、十五の少女が真顔で言う。
聞いていると、その主人とやらは、自身の従者が傷付くことも良しとしないだろうに。
「それを分かっていても、同じ状況になったら私はエドガーと同じ選択をする」
彼女はまた淡々と続けた。
「あの人が生きていてくれるのなら」
なら?
ルナは口を閉ざしたが、彼女がぱらぱらと落とした言葉の破片はまるであの物語のとある一節に繋がっているようだった。
『私は喜んで死を迎え入れる』
それはエリオットが作中で最も理解できず、最も嫌いな台詞だ。
おそらく勘違いではないのだろう。探るように彼女を見ると、翠色の視線はじっと聖騎士物語の背表紙に注がれたままだった。
「あなたには、きっと分からないわ」
04.物語
分かってたまるか、と思う。
自ら死を望む人間の気持ちなど。