箱庭聖譚曲
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木材よりも石材が豊富な土地柄、この国では歴史ある屋敷跡から最新の建造物にまで石を組み積み上げる工法が用いられている。
壁はそれ自体が建造物の基盤となる構造体であり、こちらの空間とあちらの空間とを隔てる仕切りとしての機能と等しく屋根や多層階を支える柱としての重要な役割を果たしている。平たく言ってしまえば、壁がなくなれば建物自体が崩壊してしまう。
これがかの国を越えた東方の国に行くと、屋根を支えるのは木で作られた柱や梁、空間を部屋に切り取るのは土の壁や紙の扉になるそうだ。それはそれで大変な技術である。
多くの邸宅にあるようにラトウィッジにも設えられたアーチ型の窓。今は朝の低い光をいっぱいに取り込んでいるそれらのこの形は、石を建材とする文化の特徴であるらしい、と以前本で読んだことをルナはぼんやりと思い出していた。
目につくものそのままに、あまり現状に関係ない思考がよぎったのは、自分の理解を超えて進む事態に脳が飽和を起こしたのかもしれない。
「貴方はもう少し……物事の因果を正確に捉えられる人だと思っていたのだけれど」
「はぁ?」
リーオに気付かされルナが取った行動の意味が分からないわけではないだろうと言外に主張すれば、ルナの腕を掴んだまま引きずるように通路を歩く少年は「ハッ」と鼻で笑って一蹴した。
「距離を置こうとしたのはおまえ自身が原因か?あの陰口が原因か?どちらにせよ、オレはそこまで他人の世話になる気はねぇよ」
注目されることが多いエリオットに分からないことではなかった。ルナはいつでもこうした視線の針を向けられ続けていた。他人を近くに寄せないことにすらとうに慣れてしまっているのだ。自己防衛の本能だとしても、それが良いことだとはエリオットには思えないが。
その余波が及ぼうと及ぶまいと、自分の道行きは自分で決める。そんなエリオットの考えもまた、ルナには理解できた。
生徒が出欠の確認のために集まる教室からだいぶ離れた廊下でやっとルナの腕は解放された。周囲には人がおらず、遠くに生徒たちの話し声を聞きながら、彼の手の怪我は痛まなかっただろうかとルナはぼんやり考える。ろくに抵抗も出来なかったのは何も怪我をさせてしまったほうの手で拘束されたのが理由というばかりではない。自分の腕を掴む力はずいぶん強かった。
エリオットがくるりと振り返ると、学校指定の燕尾服の裾がはためいた。
「ルナ=ルーンフォーク、嫌なら言い返せ!見てるこっちが不快だ!」
「……どうしてそんなに怒っているの?」
「言ってるだろ、オレがムカつくんだ」
「あなたが怒る道理はないわ」
自分とは真逆の落ち着いた声に否定され、エリオットはさらに柳眉を吊り上げる。分かりやすい人だ。先ほどまでルナの腕を掴んでいた手に込められた力も、彼の感情がそのまま表れていたようだ。
「私が言われているのはすべて本当のことよ」
「オレにはそうは思えない」
「私のことを知らないのに?」
「走っていた。それだけは知ってる」
「……」
「仮に本当ならどんな言葉も受け入れるって?おまえに誇りは無いのか?」
「……誇り」
思わず鸚鵡返しにしたそれはルナにとって耳慣れぬ単語だった。
「おまえが貶されるということは即ち、主人が貶されるということだろう」
「そんなことは、」
無い、と、賢い従者たる少女には言い切れなかった。
誇り。彼の口から堂々紡がれた単語は、どんな意味を持つ言葉だったか。優越。矜恃。ーー自負。
従者としての自負。それならば自身の中にも確固とした、目の前の彼に提示出来そうなものがあることをルナは知っていた。
「……あの人が私を選んだ。だから何を言われても私はあの人の傍にいる。それが私の誇り」
そしてそれは、主人以外に理解を求めるものではない。
孤児として生きていたところを拾われて気まぐれのように従者に選ばれ、主人と共に行動する時間も少ないまま学校に通っている女子生徒。そんな周囲の揶揄には誇張も偽りもないが、それは決してルナと主人である少女を繋ぎ表すものの本質ではない。
「私とあの人が離れているように見える人たちには、そもそも何も言いようがないのよ」
ルナの身分も、従者が主人のすぐ傍に傅く時間も、エイダの本当の望みでこそなければ、それを貶されたところでエイダの何かを陥れることにはならないとルナは理解している。
ただし、どうしようもなくエイダとルナの間だけの、主観的な話だ。
「…………」
やはり客観的に見れば自分の態度や境遇に不満があるのか、なおも口を不機嫌そうに曲げている堅物な同級生を見て、ルナは如何したものかと考えを巡らせた。もとより彼に納得してもらおうとは思っていない。授業が始まる前に教室に帰りたいだけだ。
そしてわずかな逡巡の末おもむろに彼に手を伸ばすとーー
ーーその頬を指先でつまんだ。
「……なにしてる」
「いえ……急に口は動かなくなるし、眉間のシワが増えるし」
「うるさい、元からだ」
「私のせいでこのシワが直らないのは、とても気がかりね」
「おい、手を離せ」
命令口調に反して強引には振りほどかれない。思えば触れようと伸ばした手にも彼は警戒こそすれ避けるそぶりは見せなかった。
"嫌なら言い返せ!"
"人として大事なことを忘れてるよ"
「怒ってくれたことも、挨拶をしようと言ってくれたことも……この学校では初めてで、嬉しかった」
指をそっと離す。
昨日初めて正面から会話した彼だが、おそらく今ではたいていの生徒より学校で交わした言葉は多い。
そのどれもがルナの中で他にはない重みを持っていた。
「そちらを受け止めるのに手一杯よ」
「は?」
「私は百人の生徒の口を塞ぐ暇があるなら、あなたたちのおはようが聞きたい」
「は!!?」
エリオットが唖然として言葉を詰まらせた。
何かおかしなことを言っただろうか。
「お……まえ、その、それは、主人譲りなのか」
「……?」
言葉には家柄が出る、とエリオットのぎこちない呟きに首を傾げる。彼の耳がどことなく赤いように見えるが、気のせいだろうか。
それ、とは何を指しているのだろう。長年を共に過ごす主従とはいえどルナにエイダ譲りな部分はあまりに少ない。あの太陽のような暖かさも、人の心を打つ愚かしいほどの真っ直ぐさも、ルナにはおそらく一生持ち得ないものだし、それでよかった。
どちらかと言えば。
「いいえ。どちらかと言えばあの人は、あなたに似ているわ」
さっき「敬語は好きではない」と真っ直ぐ告げられたとき、確かに似ていると思った。
「オレに似てる?誰だ?」
「……本当に知らないのね」
「生憎だが社交の場でおまえや主人とやらを見かけた覚えはない」
それは当然のことだった。お互い社交界に参加出来る資格を得てまだ一年余り、苦手なのか彼自身がそういう機会に積極的ではない。さらに英雄の子孫と謳われるベザリウスと裏切りの被疑があるナイトレイでは平素より交流のある家も異なり、何よりベザリウス嫌いの彼の成人の儀には遣わせた代理の者すらも突っ返されたと聞く。ルナがエイダと共にいる場面にエリオットが居合わせたことは今までなかった。
学校での話まで言及しなかったのは言わずもがな、ルナを慮ってのことだろう。
「誰なんだ?」
「…………」
エイダ=ベザリウス。
後ろめたいことなど何もない。先ほど宣言した通り、彼女の付き人として選ばれたことに誇りを持っている。堂々と、言えるはずだ。
なのに。
「……自分で、確かめて」
主人の名を口にするのが躊躇われた。躊躇った自分に驚いた。
昨日なら。きっと昨日までの自分なら、すぐに答えていた問いだった。それで彼に何を言われようと、邪険に遠ざけられようと、そんなことはどうでもよかった。主人とその身内以外はルナにとって良くも悪くも平等だった。
それなのに、なぜ、今、答えられないのだろう?
「は?」
「……もう授業が始まるわ」
「おい、ちょっと待て」
引き止めるエリオットの声を無視して教室へ踵を返す。彼がその気になれば休憩時間にでも調べがつく事実をその場しのぎではぐらかし、嘘すらつけない半端な自分の様が滑稽だった。
"怒ってくれたことも、挨拶をしようと言ってくれたことも"
"嬉しかった"
……そうか。
ルナはひとつ頷いた。密かな感情が滲んだ心の中で。
私は……
「ルナ=ルーンフォーク、逃げるな」
「……」
「今はいい。オレはナイトレイだ。外聞など知ったことではないが、知ったことではないから、そっちの不利益がないかも分からん」
「不利益、なんて……」
「いい。今ここで一つだけ教えろ。その答えをいつか、おまえの口から言う気はあるのか?」
答え。
ーーその問題の正解。
「そうね……あなたがいつかのその時まで、そうでいてくれるなら」
振り返ることも歩速を緩めることもせずにルナは言った。
予鈴が響き渡り、二人の靴音が掻き消える。
「きっとどうあっても、私はあなたたちを嫌いにはならない」
鐘の余韻が鼓膜を揺らし、少女は背中に視線を感じながら教室の扉に手を掛ける。
最後の呟きは届いていなくても構わなかった。
*
なんだ?
エリオットがこの学校に入ってから、上級生と殴り合いもすれば宗教じみた妙な女生徒集団に祭り上げられそうになったこともあったが、かような状況は経験がなかった。
エリオットが怒鳴ってもさして響いた様子もない。
自分自身の仕え先、つまり後ろ盾を答えもしない。
"そうでいてくれるなら"ってなんだ?
核心を掴ませないような言葉ばかり聞いたような気がする。
確実に分かったことといえば……
「エリオット、ミス・ルーンフォークと何かあったの?」
授業間の休憩時間。悩むそぶりを見兼ねたのか、はたまた持ち前の好奇心か、リーオがエリオットに問いかけた。傾ぐ首に合わせてボサボサの黒髪が揺れる。
「あいつに主人は誰なのかと聞いた」
「ふーん、それで?」
「自分で確かめろと言われた」
本人に直接確かめる以上の方法がどこにある。
主人の憮然とした様子にリーオはその場の光景が目に見えるような気さえした。
「教えてくれるわけでもなく、詮索するなとも言われなかったんだ?」
「……」
「彼女が君に何も言わないのは、君と仲良くしたいからだよ。あ、変な意味じゃなくてね」
微塵も怯まれないことを承知で従者を睨む。
「……やっぱりおまえ、知ってるだろ」
「あはは、なんのこと?」
昨日この従者に同じことを訊ねた際も、普段であれば澱まない雑学や状況把握を披露する彼が口を閉ざした。
僕も分からない、なんて、彼にしては分かりやすい嘘。
きっとその嘘にも意味があるのだろうと、思う。
ナイトレイ。サブリエの悲劇で裏切りの疑いをかけられている唯一の公爵家。
エリオットはそれが100年前の真相だとは考えておらず、また仮に話の通りだったとしても以降のナイトレイ公爵家は復旧や治安維持に充分な貢献をしており、"悪者"扱いされる謂れはないと思っていた。
しかしエリオットがいくらこの血に誇りを持っていようと、過去にあったことは変わらないし一度誰かの口をついて出た噂話も消えはしない。それを耳にした人々の心象も易々と良い方へ転がるものでもないだろう。
時代が流れると共に薄らいではいるものの、今なお積極的に関わりたがらない家が殆どで、避けられることも忌まれることも少なくない。今日話した彼女の仕え先もきっと同じなのだ。名前も出せないほどに、というのが珍しいだけで。
分かっている。
けど。
「……笑ったんだ」
彼女は笑った。
当たり前の朝の挨拶を嬉しいと言って。
お互いの家の名がどうであろうとエリオット達を嫌うことはないだろうと言って。
鐘に掻き消えそうな声だって、自分の耳にはちゃんと届いた。
確かなことはそれだけだ。
「エリオット、君、たまにすこぶる客観的視点がお粗末になるよね」
「うるせぇ」
リーオが笑う。それはいつもと同じ呑気な口調だったが、内容はなかなか辛辣に主人の欠点を突いていた。
*
幼い頃の話だ。ルナがエイダと知り合って間もなく、エイダが別荘から本邸への帰路で誘拐されかけたことがあった。
結果として誘拐は失敗に終わり、エイダは無事で犯人が迅速に警察に引き渡されたこともあって事件は公にはならなかった。
しかし当然ながら屋敷の中は大騒ぎで、本邸の一室で方々への指揮をとるベザリウス当主に従う陰で使用人たちはまことしやかに囁いた。
またあの家が。
ナイトレイが。
幼いルナは大人たちの囁きに、エイダを、あのか弱い女の子を危険に晒したものの正体を"ナイトレイ"だと認識した。意識を失ったまま屋敷に戻ったエイダの様子を聞いて、生まれてはじめて腹の奥に煮えたぎったものを感じた。
許せない。
両家の関係を知ったのはその後だったが、仕え先ーーベザリウスとナイトレイの対立は、ルナの誘拐犯に対する心情と重なったのだ。
「……ねぇ、エイダ」
「なあに?ルナ」
あの日から、ナイトレイ公爵家はルナにとって明確に敵視するべき存在だった。
「……ベザリウスとナイトレイは、手を取り合うことができると思う?」
学生寮のエイダの部屋。主人の望みで共に時間を過ごしながら、ルナは他でもない当事者に問いかける。
ベザリウスと、ナイトレイ。
あちらとこちらを隔てる堅牢な壁は、しかし突き破ってしまえば全てが脆く崩れ落ちてしまわないだろうか。
「ええ、もちろん!」
自分が築いてきた狭い認識の壁の中で、主人の笑顔は希望そのもののように輝いた。
03.障壁
あなたがそう言うのなら、きっと。