箱庭聖譚曲
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泣き声が聞こえた。
大きな屋敷の大きな部屋。身軽さをいいことに換気のため開いていた窓に手をかけてひょいと中を覗き込む。
……女の子?
豪奢だが品の良い調度品が備えられたその一角で蹲るその姿は、子供の自分から見てもあまりに小さく心許なかった。
彼女は自らの嗚咽を押し殺すようにスカートに包まれた膝に顔を埋めていた。その周りを一匹の猫がまるで心配するように歩き回っている。
誰かに知らせたほうがいいのだろうか。
それとも、放っておいたほうがいいのだろうか。
どうするべきか逡巡していると、消え入りそうなか細い涙声が呟いた。
「……お兄ちゃん、どこぉ……?」
ああ。
その言葉の行き先に宛てがないことを、知っている。
彼女の声は、届いてほしい人の下へ届かないのだろう。
いつかの誰かがそうだったように。
衝動的に、窓枠に足をかけて屋敷に踏み込んだ。その部屋に。彼女の傍に。
「あ……あなた、だあれ?」
「ルナ。今日からここではたらくの」
泣かせてはいけないと思った。
「ルナ……?」
「……お兄ちゃん、いないの?」
泣いてほしくないと思った。
「泣かないで。いっしょにさがしてあげる」
「……ほんと?」
「うん。あなた、名前は?」
その泣き声は、私には届いたから。
「……それなら、よかった」
「心配かけてごめんね、ルナ」
倒れてそのまま運ばれたため置き去りの荷物を取りに、主人の教室に向かう前。医務室のベッドの上で、エイダはいつものようにふわりと笑った。
それだけでルナには心配した甲斐があった。廊下を全力で走って来た意味があった。
「ーーそっか、エリオット君とぶつかっちゃったんだ。怒っていなかった?」
「いいえ。どうして?」
「ううん。それなら良かった」
ルナが報せを受けてからの一部始終を聞いたエイダは申し訳なさそうに眉を下げる。ルナの入室にベッドの陰から身を起こした若猫たちが、ふたりの会話に混ざるように足元で鳴き始めた。
「ほら、ふたりにも心配されてる」
「ご、ごめんなさいってば」
「冗談よ」
白い猫と黒い猫。身を屈めてそれぞれリボンの巻かれた首筋を軽く擽りながら、ルナは微かに肩を竦める。表情は相変わらず乏しいが、教室では少女が決して見せないやり取りと仕草だった。そしてエイダにはそれだけで彼女の心の内が充分伝わる。
「エイダ、寮に戻る?」
「うん、そうね。お部屋のほうが落ち着くわ」
「待ってて。校医とお話しして、あとあなたの荷物を取ってくる」
「あ、それなら、私も一緒に……」
「迎えに来るまで寝ていて」
「でも」
「寝てて」
「……はあい」
身を起こしかけた主人を言葉と視線で制止すれば、口元までシーツを引き寄せた彼女は「少し過保護よ?」と独り言ちている。乗馬の授業など取ってみてはいるが、もともと体力のある娘ではないのだ。公爵家の令嬢相手に過保護なものか。むしろそれは……
……あなたのほうでしょう。
エイダの教室にひとり向かう廊下で、遠巻きに噂されないように。
あなたが付いていないからね、なんて心無い言葉をかけられないように。
周囲の反対を押し切ってまで連れて来たルナが、誰にも傷付けられないように。
きっと心優しい主人は「一緒に教室に行こう」と言おうとしてくれていたのだ。
いつだったか、幼い頃にルナを従者にするのだと宣言した時もそうだった。ベザリウスの当主である彼女の父親は交流のある名だたる家々の中から優秀に育った子供をいずれ娘の付き人にする算段をつけていたそうだが、エイダは周囲の大人たちに何も言わせまいとよくルナに世話を任せ、四六時中傍にいた。
たかが使用人になぜ拘るのかと、ルナを含め誰もが訊いた。
ルナの手を握るエイダの答えはいつも同じだった。
"お嬢様"
"エイダって呼んで"
"私が叱られます"
"その敬語もいや"
"私は、ただの使用人です"
"ただのじゃないわ。使用人であることもルナの正解だけど、私とあなたは、それだけではないでしょう"
あの日から、ルナは公の場でない限りエイダのその言い付けを……お願いを聞いている。
エイダの答えが変わらない限り、この先もずっと。
「あのね、ルナ」
「……なに?」
部屋を出る直前、ベッドに横たわった碧の視線がルナを見た。
「走ってきてくれて、ありがとう」
「……友達だから、ね」
「えへへ、うん!」
使用人であり、友人であること。
その二つは決して矛盾しないのだと彼女は笑う。
今も、昔も。いつだって守られているのは、私のほうだ。
ルナは主人を残して医務室の扉に手をかけた。
*
白いスカートの前で重ねて揃えられた手。綺麗に直角に折られた細い腰。自分の背の半分ほどの位置まで垂れたクラスメイトの頭に、エリオットは目を剥いた。
「昨日は大変なご無礼を、申し訳ございませんでした」
朝、従者を伴って寮から登校するなり、教室の前で直立していた少女が正面から近づいて来たと思えばこれである。自分の半歩後ろからその光景を見るリーオは「わー完璧な最敬礼だね」なぞとのたまっているが、エリオットは背筋を虫が這うような怖気を覚えた。
ーーなんだ、これは。
何を謝っているのかは分かる。おそらく、いや確実に昨日廊下で正面衝突した件だろう。彼と彼女との接点などそれ以外にないのだ。
分からないのは彼女の行動と態度だ。クラスメイトなんだからわざわざ廊下で待ち構えず席に座っていろ。だいたい謝罪はその場で受けた。彼女と、彼女の主人を守るためには、こんな衆目の前でそのような真似をするべきではない。
何より、彼女の事務的……というより硬質で無機質な、まるで機械のような声色が、気持ち悪い。
何故だ、と思った。
昨日までは皆色、気にも留めなかった態度だ。エリオット自身も人形のようだと形容した。彼女はいつでもそうだった。
それなのに。
「お怪我の具合は如何で……」
「ルナ=ルーンフォーク。オレは同級生に敬語を使われるのは好きじゃない」
その開いた口から抑揚乏しく流れ出る声を掻き消すようにはっきりと言葉を重ねる。
上げられた顔は相変わらず無表情だった。目が合って、彼女がいたく真面目なことだけは伝わってくる。それだけだ。礼を失したから謝る。後日詫びると言ったから謝る。ただそれだけ。
それを嫌だと思った。
「おまえにはおまえの立場があるのは分かるが、オレとおまえは、今、同じ教室で授業を受けているはずだ」
名門に入学を許可されそこで過ごす以上、自分たちは己の生まれや立場を理解しながらもあらゆる機会を対等に許させるべき個人、つまりは"生徒"である。彼女が卑屈に振る舞う理由も、また扱われる理由も此処には無い。
「…………」
「二度は言わない。意味は分かるな?」
エリオットの顔は不機嫌だったろう。原因は彼女の態度ばかりでない。昨日まで彼女の名前すら覚えていなかったくせにどの口が言うのか、と自身に対する苛立ちもあった。
彼女に知る由はないから、謝りもしないが。
当の彼女ーールナはそんな険しい顔のエリオットから目を逸さなかった。何を思っているのか、感情の波紋が及ばない瞳からは読み取れないが、そっと瞼を伏せると何事か呟いて、もう一度エリオットを見上げた。
「……あなたが、そう言うのなら」
その時エリオットは、初めてルナ=ルーンフォークという人間の声を聴いたと思えた。
凪いだ湖のような声音だ。温度もあまり感じ取れない。しかし、少なくともさっきに比べると、機械的ではない。
思わずリーオと顔を見合わせる。恐ろしく他人行儀で同じ学年の人間に向けるには丁寧すぎるほどの言動の彼女に対して、社会的な身分に重きを置くような印象を抱いていたので、エリオットの言ったことの意味は理解出来ても固辞されるかと思っていたが。
「怪我は大丈夫?」
「あ、あぁ……」
「本当に?見せて」
予想に反してあっさりと受け入れられて拍子抜けだ。普通にーークラスメイトにするように話しかけられて、言われるがまま大人しく片手を差し出してしまった。
彼女がその手を取り、傷とも言えない擦り傷をさっと視線で撫でた。昨日も触れた彼女の手。折れそうな手首だと思った。爪は短く揃えられ、少しだけ指の腹が固い。
多少の気恥ずかしさを誤魔化すように「言っておくが謝罪はもう聞かないぞ」と言うと、ルナが開きかけた口を閉ざした。
「昨日とさっきで散々受けた。もう必要ない」
「……そう」
返答までのわずかな間から不満そうな様子が伝わってきて、面白い。
「でも、大丈夫そうで良かった」
「だからこのくらい何ともないと……」
「ねぇ二人とも」
不意にパン、とリーオが勢い良く両の掌を合わせた。音に驚いて互いの手が引っ込む。
「人として大事なことを忘れてるよ」
会話を遮った上に二人の視線を見事自分に縫い留めた少年は、前髪と分厚いレンズに隠された瞳をにっこりと細めた。
「朝の挨拶は?」
その一言に二対の目が瞬いたのは同時だった。そして身体に染み付いた礼儀はもはや習性と言うべきか、秒と待たずに少女が居住まいを正す。
「おはようございます。ミスター・ナイトレイ、リーオ」
「ああ……おはよう」
「おはよう」
「席に戻るわ。……ありがとう」
ルナは早々に挨拶を切り上げると猫のように静かに身を翻し教室に入っていく。その背にエリオットは目を眇めた。
「ありがとうってなんだ」
「うーん。とりあえず、エリオットも早く席に着いたら?」
「はあ?早くも何も……」
ここは教室の真ん前なんだから、何も急ぐ必要など。
そう言いかけてエリオットははっとした。
始業前の廊下ということもあって、一部始終を目にした人間は少なくなかった。
「エリオット様とお話しされていたわ」
「すごく謝られていたような」
「いやまさか」
「でも、握手していたわよ」
「永い因縁に決着が」
「どんな無礼を働いたんでしょう」
「本来なら話すことも出来ない相手なのに」
いざ耳を傾けてみれば、疑問やわけの分からない憶測まで密やかな声が飛び交っている。誰もが正確な事情を把握出来ていないようだった。なぜだ。見聞きしていたんじゃないのかおまえら。エリオットは思わず痛む頭を押さえた。
掌を叩いて挨拶がてら会話を打ち切ったリーオ。そしてその意図を悟って速やかにエリオットから離れたルナ。二人にはこの周囲の好奇の目が見えていたのか……。
「ああ、そう言えばエリオット。君、彼女に返すものがあるんじゃなかった?」
わざとらしく朗らかな声に、忘れかけていた制服のポケットに突っ込んだソレの存在を急に意識する。
じとりと睨んだ従者の笑顔は最高に白々しかった。確信犯だ。エリオットと違ってそもそもそれを覚えていただろうに、主人に故意に周りの反応を気付かせた上で問うている。
どうするの?と。
まったくもって下らない。そんなことは決まっている。
「そうだな。返しに行く」
エリオットが爪弾きのクラスメイトであるその少女の席の傍らに立つと、人が集まりつつある教室が一際大きくざわついた。
「…………」
「……なにか?」
ルナは周囲の目よりもむしろエリオットが異常であるかのように胡乱げな視線を寄越す。心外極まりない。
ざわざわ。
……イラ。
ざわざわざわ。
……イライライライラ。
ざわざわざわざわ。
イライライライライライラ。
ーーブチッ。
「だあぁぁっ、くそっ!!ルナ=ルーンフォーク、おまえちょっと来い!!!」
「え?」
残念なことに、エリオットの気はお世辞にも長いとは言えなかった。人形に戻ってしまったようなルナの腕を怪我をしたほうの手で掴むと椅子から引き剥がし、半ば強引にこの喧騒の出口へと引きずって行く。
扉をくぐる間際、彼は教室を振り返って捨て台詞よろしくクラスメイトを怒鳴りつけた。
「おまえらも、言いたいことがあるなら堂々と言ってこい!!!」
一番近くにいたルナはわずかにも表情を変えなかったが、間近でその声量を浴びせられた生徒数人が肩を震わせた。続いて扉が荒々しく音を立てて閉められ、廊下にいつの間にやら出来ていた多少の人だかりも散らされているのが空気で伝わってくる。ぽつぽつと感嘆の吐息のようなものも聞こえるが、これは特殊な例として無視しておこう。
授業の時間も迫っている中どこに向かったのかは分からないが、リーオは別段ついていく必要もないだろうと騒めきが残る教室でひとり読書を決め込んだ。
エリオットはああ言ったものの、今回ばかりは騒ぎになるのも無理はないと思う。おそらくエリオットは"ナイトレイ家の嫡子"として常に遠巻きにされながらも目立っている自身と"教室でいつも疎外されている女生徒"が接触した故の化学反応程度にしか考えていないだろうが、それだけではない。
クラスメイトたちの態度の真相を、己の主人は遠からず知ることになるだろう。
その時、彼がどうするのか。何を思い、何を決めるのか。
リーオの役割は、まずそれを見届けることだった。
03.歯車
噛み合う。回る。巡る。