箱庭聖譚曲
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街の外れに近づくにつれ、祭りの賑わいは少しずつ遠ざかっていく。レベイユの中心街からは離れた、白い石壁の教会。敷地は広いが建物は豪奢とは程遠く、鐘楼に吊られた鐘も響き渡った音に対してさほど大きいわけではない。祭りの日だから貧民にスープでも配っていたのだろう、古びた木の柵の向こうでは質素な服を着た子供たちが忙しそうに動き回っていた。桶の水をこぼさないように運ぶ子供、干した洗濯物を籠に回収する子供、修道女に叱られて首をすくめている子供。
「おまえ……ここがどんな場所か知ってんのか」
「何のこと?」
もともと嘘の類が不得手なルナの声はどこか白々しい。
険しい顔のエリオットに目的も告げず、ルナは礼拝を済ませて出てくる人々とすれ違いながら開け放たれた扉をくぐっていく。エリオットは立ち止まってやや古びた建物の外観を見上げると、仕方なくその後に続いた。
室内は決して広くない。二十人、三十人も入ればいっぱいになる程度の礼拝堂だ。梁が渡されたアーチ状の天井に燭台の炎が影を揺らめかせている。細長い窓には色の薄いガラスがはめられ、橙色に染まる光の柱の中を埃がゆっくり漂っていた。
「残念ながら、いつ戻ってくるかはまだ」
「そう、ですか……」
「わざわざ来てもらって申し訳ない。修繕作業が終わったら連絡しましょう」
既にルナは正面の祭壇の前で年老いた神父と話をしていた。左右に並ぶ木製の長椅子の間を通って近づいて行けば、神父がエリオットに気づいて落ち窪んだ目を見張った。石壁の欠けも、長椅子の艶も、この神父の顔や手に増えたシワも、経年を感じさせるのには充分すぎた。
「おや、これは……エリオット様」
溜め息のような掠れた声が自分の名前を呼ぶ。まさか覚えられていたとは。
「……久しぶりだな。壮健そうで何よりだ」
「おかげさまで、つつがなく過ごしております。坊ちゃんも、ご立派になられて」
複雑な思いがしてエリオットは次の言葉に迷った。
「おかげさま」なことなどあるものか。ここは……ナイトレイが支援を放り出した施設だ。
貴族には財と地位に見合う責務がある。富める者は弱き者を守り、領地と民の暮らしを支える。それが上流社会に根付くノブレス・オブリージュの精神である。
一方、教会もまた貧しい者を受け入れ、孤児を養い、子どもたちに学びの機会を与える場として人々の暮らしを支えていた。この国では王権は他国ほど教会の権威に依存してはいない。それでも教会と貴族の結び付きが深いのは、互いに社会を支えるという役割を分かち合っていたからだ。
この教会も、もとはナイトレイ家が寄進した土地と資金によって建てられ、長らくその庇護のもとで運営されてきた。しかし数年前、ナイトレイ家が領地経営の整理を進めた際、支援の打ち切りが決定され、教会は後ろ盾を失って自力で存続の道を探らざるを得なくなった。
半ば見捨てられる形となったこの施設に新たに手を差し伸べたのがベザリウス、レインズワースをはじめ首都にゆかりのある複数の上級貴族である。幼い頃に兄達の視察にくっついて一度だけここを訪れたことのあるエリオットは、仕方がなかったとは言え、それでもここの人間と顔を合わせることは気が進まないのだが。
「大変な時分によくお越しくださいました。今日は何の御用で?」
神父は穏やかな笑みを浮かべた。色褪せた祭服の袖を整えながら歩み寄る姿は、長年この教会を見守ってきた者らしい落ち着きを湛えている。
「さあな。俺はこいつに連れて来られただけだ」
エリオットが親指で隣のルナを示すと神父は一瞬だけ目を丸くした。まさか連れだとは思われなかったのだろう。
やがて皺の刻まれた口元がゆるみ、小さく喉が鳴った。
「それはそれは……」
しゃがれた笑い声が、高い天井へ静かに溶けていく。
「つくづく、不思議な縁があるものですな。そうですか……神の前では、この子もあなたも、ただの若者ということでしょうな」
この子。親しげにそう呼ばれたルナは小さく目を伏せた。
「ひとえにエリオット様のご厚意で。……私なんかが、烏滸がましいことです」
「おい」
すかさずエリオットが低く制した。声には苛立ちが色濃く滲む。世間体を考えてへりくだって姿勢を低くしていることは理解できるが、すこぶる面白くなかった。
神父はそんな二人を交互に見つめ、目尻の皺を深くした。
「確かに、人は家名を背負って生きます。それを完全に捨てて歩くことはできません」
静かな声が礼拝堂に響く。
「ですが神の前に立つ時、最後に残るのは家名ではなく、その人自身です。生まれが全てを決めるというなら、あなたは今も、哀れな子供のままのはずでしょう」
神父が穏やかな眼差しを向けると、ルナはゆっくりと顔を上げた。
「……神父様は、私が哀れな子供ではないと思いますか?」
「もちろんですとも」
対する神父は迷いのない返答だった。
「ルナが初めてここへ来た日のことは、今でもよく覚えています。お嬢様のお供で来ただけだというのに、施設の運営費はどうしているのか、孤児たちの冬支度は足りているのか、食料は十分か……そんなことばかり聞いてきたのは、後にも先にもあなただけです。しかも、一度きりでは終わらなかった。祭りの日でも、そうでない日でも、時間を見つけては顔を出してくれる」
「……最近は、すっかりご無沙汰しています」
「学校で勉学に励んでいるのだと聞いていますよ。便りがないのはかえって良い知らせだ。ともかく、そんな子を哀れとも無力とも思う人間はいませんとも」
教会に静寂が降りた。
やがて神父は軽く手を打ち、
「さて。せっかくのお祭りの日に、年寄りの説教ばかりでは退屈してしまいますな」
そう言って祭壇脇の小さな扉へ姿を消す。
しばらくして戻ってきた神父の腕には、柳で編まれた小さな籠が抱えられていた。中には白い麻布で包まれた掌ほどの小袋がいくつも並んでおり、近づくにつれ柔らかな甘い香りがふわりと漂った。
エリオットは鼻先をくすぐる匂いに眉を上げる。
「……花か?」
「ええ、お分かりになりますか。ここの子供たちが作っているポプリです」
神父が嬉しそうに頷く横で、ルナもそっと香りを吸い込み小さく微笑んだ。
「実はこれも、ここに来た理由のひとつなんです。……いつもと香りが違いますね」
「普段は花壇で育てたハーブを中心にしておりますが、今年は庭のリンデンが見事に花をつけまして」
エリオットは礼拝堂の窓越しに庭を見やる。
斜陽の中で、淡い緑の大樹が静かに枝葉を揺らしていた。
「あの木か」
「ええ。レベイユではここにしか植えられておりません」
神父の視線もまた、その木へ向かう。
「毎年この季節になると、あの木の下で長いこと空を眺めておられるご婦人がいました。この香りを殊のほかお気に召しておられて」
彼は懐かしむように目を細めた。
「最近は、ご静養の日々と耳にしておりますが」
エリオットの表情が、わずかに動いた。
それを見た神父は何も言わず、小袋を二つ取り上げた。一つをエリオットの手へ、もう一つをルナの抱えた紙袋の上へ、そっと置く。
その瞬間、ルナは静かに口を開いた。
「では、私の分は彼に」
「なんでだよ」
思わず聞き返したエリオットに、ルナは穏やかに言った。
「ここのポプリは安眠効果があると評判だから。ひとつは、エリオット様に」
少女は小袋へ視線を落とし、そしてもうひとつへ、そっと指先を添える。
「もうひとつは、この香りを慈しんでおられた公爵夫人へ」
エリオットは息を呑んだ。ルナがこの施設の来歴を知らないわけがない。神父や他の職員からかつての話を耳にすることもきっとあっただろう。その中で何かを聞いたのか、察したのか。
自分の手の上でふたつ重なったポプリを眺める横顔が、少し困ったように微笑む。
「私に何か、あげられるものがあれば良かったんだけど」
自分には何も無いのだと言う少女の髪を括った青いリボンと一緒に、胸の奥で何かが静かに揺れた。
「で、結局おまえの用事は何だったんだ?」
そろそろと屋台を畳む商人達の声が遠くに聞こえる。夕映えが鐘楼の影を長く石畳へと引き延ばすなか、エリオットは歩調を崩さないまま問いかけた。
教会を出る時、神父は「またいつでもおいでください」と言って開け放たれた門から二人を見送った。リンデンの香りとは別に、ルナはもともとあの場所に目的があった様子だった。
「……本当は知人に、教会の書庫から借り物を頼まれていたの」
教会の書庫に収められるのは、修道士たちが幾代にもわたって筆写し、羊皮紙に綴じた典籍の数々である。借り物というからには書物の類なのだろう。だが帰路をゆく少女の手にはそれらしい包みも書冊も見当たらない。教会へ入る前と比べて、抱える紙袋の中身は何も変わってはいなかった。
「今はちょうど修復に出しているのですって。とても古い本みたい。近くまで来たからついでにと思ったんだけど、仕方がないわね」
ルナは小さく肩を落とし、夕風に溶けるほどかすかな吐息を零した。
「何の本なんだ?」
「……分からないわ」
「は?分からない?」
「書物の題名だと聞いてるけど、文字の崩れがひどくて私には判読できなくて……これを見せれば分かるとだけ」
そう言ってルナは胸元の内袋から幾度も折り畳まれた小さな紙片を取り出した。羊皮紙ではなく安価な紙切れで、文字を綴ったインクがやや滲んでいる。
エリオットはルナの肩越しにそれを覗き込み、しばらく黙したまま視線を走らせた。やがて思い当たる節があり口を開く。
「それなら、うちの書斎にもあるな」
「……え?」
「兄達が蒐集した蔵書の中で見た覚えがある」
エリオットは紙片の一文字を指先で示した。
「これは文字の形は似てるが、今の公用語じゃなくて古典語だ。修道院や古い学府でしか使われてねぇから、たしかに相当古い本なんだろうな」
「古典語……」
感心したように呟くルナに短く告げる。
「貸してやる」
口にしてから少し恩着せがましい言い方だったかと思ったが、少女は気にした様子もなくぱっと顔を上げた。
「本当? ……でも、」
珍しく暗い翠の瞳によぎった喜色はすぐに翳ってしまった。何か言いたげな、困ったような表情。
"私に何か、あげられるものがあれば良かったんだけど"
先ほど漏らした彼女のその一言が、エリオットの脳裏で妙に鮮明によみがえる。そんなことを本気で気にしているのか。
彼女らしい、と言えばそれまでだった。
誰かから善意を受け取ることに慣れていない。何か与えられるたび、その均衡を回復しようと必死になる。その律儀さは美徳であると同時に、見ていて危なっかしくもある。そうして他人との間に頑なに引かれ続ける境界線もひどくもどかしくて、思わず手を伸ばしそうになったその時。
「なになに、なんの話?」
聞き慣れた少年の声が、石畳の路地に軽やかに響いた。
「うおっ!?」
「……リーオ?」
ルナとは反対側。いつの間にそこへ並んでいたのか、ひょいと顔を覗かせたリーオにエリオットは肩を跳ねさせる。
「おまっ、いきなり出てくんな!」
「いきなりって。気づかなかったのはそっちでしょ」
悪びれもせず笑うリーオにエリオットは渋い顔を返す。一方、さして驚きが顔に出ないルナは数度瞬きをしてリーオを見上げた。
「……どうしてここが?」
「街の人に聞いたら、ルナが教会のほうへ歩いて行ったって。で、一緒にいた人の特徴を聞いたら、どう考えてもエリオットっぽかったから」
三人は自然と横一列になり、中央にエリオット、その左右をルナとリーオが挟む形で歩き出す。
リーオは背後に小さくなった教会を振り返った。鐘楼の影は夕空へ細く伸び、白い石壁は暮の色をまとって灰青色に沈んでいる。
「あそこって、たしか孤児の保護もしてたよね」
「ええ」
ルナは短く頷く。そして、わずかに言葉を切った。
「……リーオは、」
続きを聞くまでもなく、リーオは柔らかく笑って頷いた。その声音には気負いも卑屈さもない。
「うん。僕は施設の出身だからさ。やっぱり少し気になるっていうか」
「そこはナイトレイと関わりのある施設?」
少なからず似た境遇の過去を持っているからだろう。ルナが尋ねると、リーオは嬉しそうに頷いた。
「そう。『白き天使の家』っていうんだ。興味あるなら来る?」
それから冗談めかした調子で、「さすがに無理か」と肩をすくめる。
だが。
「いいんじゃねーか?」
あまりにもあっさりと返された一言に、リーオの笑みが一瞬固まり、ルナも思わずエリオットを見た。エリオットは至って真顔だった。
「俺とリーオでちょうどサブリエの視察に同行するだろ。父や他の奴らとは別行動だし、友人の一人くらい何とかなる」
エリオットとて自分が言っていることの意味が分かっていないわけではない。それでも突飛な提案を口にしたのは、先程神父から、ルナが施設の運営を気にかける様子を耳にしたからだ。どうせこの少女のことだから、ベザリウスが関わる他の施設にも、主人の慰問に同行しては同じようなことを聞いて、後日同じように足を運んでいるに違いないと踏んでいた。連れて行けば、彼女がそんなにも熱心な理由を断片的にでも知ることができるだろう。
もっとも、白い天使の家はリーオにとって故郷であり、今もなお帰る場所だ。ナイトレイの施設であるという理由以上に、勝手に他人を連れて行くわけにはいかない。
しかし当の本人が何のためらいもなくルナを誘った。それはつまり、リーオにとってルナは多少過去を知られたり、「兄弟達」に会わせることを躊躇う相手ではないということだった。
「……ありがとう。興味はすごくあるけど……」
ルナは小さく首を振った。
「私が行くのは……よくないわ」
その横顔には誘いを断る後ろめたさよりも、踏み込んではならない一線を前に立ち止まるような躊躇いが滲んでいた。また、あの困ったような表情。
エリオットはこの時だけルナの声を聞こえなかったことにした。
「さっき言ってた本。貸してやるから取りに来い。明日の朝、レベイユの駅だ」
ルナは人から何かを与えられることを避けたがる。与えられた分を返さなくてはならないと信じているし、自分には返すに値するものがないと思い込んでいる。互いに何かを差し出し、何かを受け取る。最初からそういう形を提示しなければ、少女は決して施しに頷かない。
胸のどこかが鈍く軋む。実際にはあの主人のためなら無償で自分を差し出すことを微塵も厭わないくせに。本来何の得にもならない挨拶回りを、休日を潰してまで律儀に続けるくせに。それで返されるだろう信頼や今ある腕いっぱいの荷物が、何故自分が積んできたものへの対価の勘定に入らないのかと苛立ちが募る。
途方に暮れたように立ち止まったルナに、同じく立ち止まったエリオットが歯噛みしたその時。
少し離れた街並みの向こうで、夜空を震わせるような轟音が響いた。祭りの最後を飾る花火が、一輪、高く咲く。
三人の視線が一斉に同じ方角の空を向いた。
「すごい、花火だ。そういえば毎年この日には打ち上がるんだってね」
「なんだ、もうそんな時間か」
黄昏の空を裂いた光は一瞬だけレベイユの街並みを昼のように照らし出し、教会の尖塔も、家々の屋根も、三人の影さえも等しく白く染め上げた。
「おい、ルナ」
「…………」
自分達と一緒に行くのか、行かないのか。返事が欲しくて振り返ると、ルナは夜空に咲く花々をその瞳に焼きつけるように見つめていた。花火が弾けるたびに白い頬が光に淡く染まる。
やがて自分を見ているエリオットに気づいた彼女は少し慌てた様子で口を開いた。
「ごめんなさい、何か?」
「……いや。もう少し見ていくか」
「……ええ」
「わー、綺麗だねえ」
遅れて無数の花火が花開く。やがて光は静かに消え、残響だけが祭りの終わりを街へ告げる。
帰路を歩きはじめてもなお、ルナは先程のエリオットの言葉に答えない。花火の名残を探すように、視線だけが未だ静かに空に揺れている。当然だがナイトレイの施設の訪問は、彼女が簡単に応と言える提案ではないのだろう。
それでも。
エリオットは知りたかった。この少女が何を見て、何を考え、何に心を動かされるのか。もっと知りたいと思ってしまった。
学校でも、その外でも。
21.黄昏
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