箱庭聖譚曲
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「こら、ミス・ルーンフォーク!あなた、なんてはしたないーー……!」
教師の叱責を後ろ髪に絡め、放課後の廊下を少女ーールナ=ルーンフォークは走っていた。
授業が終わり比較的まばらな周囲の目も、普段は整然と手入れされている錆色の髪の乱れも今は気にならない。ただ延々と続くように感じる長い廊下の床を蹴り、目的地まで跳ぶように走る。
ーー無事なの?
ここは高貴な血筋の子息令息を預かる名門ラトウィッジだ。事の対応は既に教員たちが終えているだろう。大きな問題はない。そう結論を出す理性に反して、前のめりの身体は止まらない。
教室でどのような処遇を受けようが感情を態度に出さないルナが焦ることは珍しい。それどころか、見えない何かに追われるように駆ける野兎の如き姿とただならぬ表情に、放課後で気の緩んだ生徒たちは気圧されたように彼女に道を開けた。
はやく、はやく辿り着かなくては。
いくら感情のまま足を動かしたとしても、特殊な環境下で鍛えられた彼女の身体はバランスを崩さなかった。
走る自分を他人が避ける。
それらをいいことに、ルナの頭は思考を半ば放棄し、廊下の突き当たり、直角な曲がり角で減速するという当たり前の選択肢を無意識に無かったことにした。
数瞬後、彼女はこれを後悔する。
ーードン……!
「うわっ!?」
「あっ……っ」
突然人間が胸部に突っ込んできた衝撃で、角を曲がりかけた相手の身体が背中から倒れた。一方突っ込んだルナの身体もまた体格差に負けたように後ろに弾かれた。
それがスイッチだったように、サッとルナの頭から血の気が引く。
……しまった。
先走る感情に身を任せてしまった結果だった。相手に怪我をさせたかもしれない。
「……申し訳ありません。お怪我は……」
しかし、謝罪の言葉を口にしながら共に立ち上がりかけた相手の姿を認めて、ルナは思わず言葉を飲み込んだ。
「いや、大事ない。お前は大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます……ミスター・ナイトレイ」
身分の低い自分に当然のように差し出された手。
それを一瞬の逡巡の後に掴み、けれどルナはその手に一切重さをかけず足腰の筋力で立ち上がる。彼は離された自分の手元を怪訝そうに見下ろした。
エリオット=ナイトレイ。
陽性で真っ直ぐな眼差しと、自分を厳しく律する強情そうな顔つきは、おそらく彼の内面をそのまま映し出している。成績は学年の中でも優良で、歳上との交流が多いのか周囲よりも多少大人びた言動をする印象があった。同じくらい、直情で何かと目立つ振る舞いの多い印象もあった。
一応同級生という関係であるが、入学してから今まで、ルナは彼と話をしたことがない。
様々な家庭事情の入り混じるこの学舎では、在籍中に口をきかないクラスメイトというのは珍しくはない。かくいうルナも、半分は仕え先の事情で彼に接触する事態を細心して避けていたのだ。もう半分は上流社会に身を置いても今ひとつ貴族という人種に対する苦手意識が拭えない自分自身の性格故だった。
「申し訳ありませんでした」
「いや……注意を払っていなかったオレにも非はあった。だがあの速度で廊下を走るのはどうかと思うぞ」
「いえ、全てこちらの落ち度です。気が急いていたもので……此度はどうかお許しを」
自分とエリオット=ナイトレイの衝突で頭はすっかり冷えたものの、この場以外の状況は何も変わっていない。ルナは未だ一刻も早く目的地に向かわなくてはならなかったが、彼を前に「それではこれで」というわけにもいかず、一歩下がって低頭しながら早口にまくし立てる。
とにかく、出来得る限り丸く事を収めなくては。そう思ったのだが。
「いい、頭を上げろ。急ぎの用があるんだろう」
……え?
エリオット=ナイトレイに返された言葉は、刺々しい口調に反して酌量の色を孕んでいた。
本来であれば一介の使用人風情が公爵家の令息を突き飛ばすなど無礼もいいところ、ルナの身分を考えれば有無を言わせず処罰が下ってもおかしくない。にも関わらず、早く行けとばかりの口ぶりだ。
頭を上げようとして、ふと制服の袖から伸びる彼の左手が目に入る。先ほど差し出された手とは反対の手。その手のひらに、じわりと血の赤が滲んでいる。
「その手」
「は?」
「……医務室に行きますか?」
おそらく倒れた時に咄嗟に床に手を付いたのだろう。大事ない、という言葉は嘘か、単に自分で気が付かなかっただけか。伺うように視線を合わせると、彼はルナの視界から隠すように怪我をしたほうの手を引いてしまう。
「ああ、いや、この程度は何でもない」
「そうですか……」
たとえインクの滲み程度の軽い擦り傷でも放っておくのは躊躇われたけれど、幼子の強がりのような気遣いが、正直今は助かった。
ルナは制服のポケットからハンカチを取り出してエリオットに握らせた。
*
「手を洗って、消毒だけでもお願いします。お詫びはまた後日。失礼します」
「っ、おい!?」
要点だけを告げてするりと猫のように脇をすり抜けていった少女を、エリオットは思わず振り返る。彼女はもうこちらを見向きもしなかった。
一応今の出来事を失態と捉えて省みてはいるのだろう、小走りとまで優しく表現は出来ないが、衝突前の疾走よりは幾分かスピードが落ちている。それでも暗い錆色の髪を纏わせた背はみるみる小さくなって見えなくなった。
「お願いしますって……」
ーーなんだそれ。自分のことでもあるまいし。
「エリオット」
女物のハンカチを片手に彼女が去った方向を見続けていたエリオットは、はたから見たら多少滑稽だったかもしれない。他人の目がなかったのは救いだったが、しかし結局やってきた自らの従者に怪訝な顔をされた。
「リーオ」
「なに呆けてるの?通行の邪魔だよ、そこ」
「あ、ああ。悪い」
名前を呼ぶまで中庭の石像のように動かなかった主人を見たリーオは、放っておいたら果たしてどのくらいこのまま固まっているのかとその旺盛な好奇心を刺激された。それでも声をかけたのは彼が度々口にする誇りやら沽券やらを一応尊重したからだ。
それと……。
面白そうだ、と思いながら、リーオは大きな眼鏡の奥の視線をわざとらしくエリオットの手元にやった。
「あれ、そのハンカチは?」
「……押し付けられた」
「怪我してるね。喧嘩?相手は女の子でしょ?」
「違う!これは、オレの不注意だ」
ぶつかった拍子に勢いを殺し切れずに手を擦り剥いたのだと説明すれば、リーオはふーんとだけ返して頷いた。本心で納得しているのかはエリオットには分からないが、何も訊かれないので別にいいだろう。
「リーオ、あれ……あいつ、名前なんつったか」
「?」
「暗い茶の髪の……クラスでいつも無表情の、人形みたいな女」
稀に聞こえる声で陰口を叩かれて、それでも人形のような無表情の。
出かけた言葉をエリオットは喉の奥まで押し戻した。それ自体が陰口のように思えて気に食わない。言いかけた自分にも、そんな印象ばかりでクラスメイトの名前すら思い出せない自分にも腹が立つ。
一方、リーオは特徴だけでエリオットが誰のことを指しているのか思い当たったようだ。
「ああ、ルナ・ルーンフォークさん、でしょ?へぇ、彼女が相手なんだ、その怪我」
「だから怪我は違うとーー…」
「はいはい分かったよ。それで、エリオットは何を考えてたの?気にするなんて珍しいね」
「いや……話に聞くようなやつには見えなくてな」
四大公爵家ーー特にナイトレイの末子の前でわざわざ彼女の話題を出す生徒はいない。沼の底のように陰湿な言葉で彼の耳を汚すこと、何より彼女の主人の名前がどう作用して、彼女はともかく口にした人間自身に如何な結果をもたらすか想像できないからだ。
それでも教室での彼女のぞんざいな扱われ方は目に入るし、噂は噂として断片的ながらエリオットに届く。
曰く、彼女の主人は2つ3つばかり歳上で、同じ教室で過ごすことが叶わないのを承知で彼女を連れて来たのだとか。
曰く、主人の威光で入学した彼女が高飛車を気取っているだとか。
曰く、付き人とは体裁ばかりでそれらしいことは何も出来ないだとか。
彼女は何も言い返さない。大勢の他人の意図で生臭いものから遠く離されたエリオットにまで聞こえる噂話の渦中にいても、じっと自身にあてがわれた席に座って、まるで世の中に関心ごとなど無いように流れに抗わず日々を過ごしている。
だから、思い当たることがあるのだろうと。
火のないところに煙は立たぬと言う。全部とは言わなくても、彼女にも非難を受けるだけの何かがあるのだろうと。彼女の周りに散らばった全ての出来事のように見えぬフリ聞こえぬフリで、学年が違うという主人に何が起きてもあのまま静かに座っているのだろうと、思っていた。
ーーさっきまでは。
……泣きそう、だったな。
ぶつかった際の、彼女の表情を思い出す。乱れた前髪の隙間から一瞬だけ覗いた必死な顔。その後すぐに無表情の裏に引っ込んでしまったが、普段の人形のようなかんばせを嘘のように崩して、文字通り周りが見えないほど走っていた。そう、普段なら「廊下を走るな!」と怒声を上げているところだが、血の気の引いたその顔を見た瞬間に気が削がれてしまったのだ。
無関心など、とんでもない。
確証は何も無いが、彼女の走る先にはきっと、彼女の主人がいるのだろう。あれだけ必死な想いを向けられる人間が。
「あいつも立派な側近なんだな」
「ふーん、そう。きみが何を信じるかは、きみが決めるといいよ」
「当たり前だ。ともあれ、誰かがあいつと主人の関係に口を出すことでもないんだろう」
「うん」
そうだね。
笑顔で頷いた自らの従者を一瞥して、エリオットは制服の裾を翻した。教員室での用が済み教室までリーオを呼びに戻るところだったが、彼がちゃっかり2人分の荷物を持ってきているようで手間が省けた。
「エリオット、そのハンカチ全然似合わないね」
「仕方ないだろ!あいつはさっさと行っちまったんだから。……そういや、消毒液って寮の部屋にあったか」
「あるよー、きみってば剣の稽古って言ってすぐに生傷つくるじゃない。いつもほったらかすクセに今日はちゃんと消毒するんだ?」
「……"お願い"されたんだよっ」
「そっか。それは、いい子だね」
ふたり連れ立って歩く中、ふと気になって聞いてみる。
「リーオ。あいつ誰の侍女なんだ?」
「え、知らないの?」
「他人の付き人にまで興味はない。だいたい学年が違うんだろ?そうなると見る機会もないしな」
「……いや、僕も分からないや。ちなみに、侍女じゃなくて従者なんだってさ」
「は?」
「そう名乗るんだって」
「……やっぱり変わってるな」
*
静まり返った白い部屋の扉が荒々しく開かれる。息を乱して入室したルナは、横並びに設えられたベッドのひとつに横たわる主の姿を認めて駆け寄った。
「ーーエイダ」
扉の音に驚いて丸くなっていた碧眼が、金色の前髪の間からルナに焦点を合わせて優しく細められた。
「あ、ルナ。授業は終わったの?」
「終わったのって、貴女……」
エイダ=ベザリウスが倒れた。
ルナの下にその知らせが舞い込んできたのは放課後になり間もなくして、正にそのエイダを迎えに行こうとしていた折だった。授業中に倒れそのまま教員の付き添いで医務室へ運ばれたと聞き、ルナは慌てて行き先をエイダの教室から一階の医務室へ変更したのだ。
「……はぁ……」
無事か。
ひとまずそれを確認すると今まで強張っていた身体から急激に力が抜けていく。
肺に溜まった重苦しい空気を全て吐き出すようにしながらベッドの傍らに座り込むと、エイダはオロオロとか細い声で弁解をし始めた。
「あっ、あのね、屋外の乗馬の授業中に少し目眩がして……日射病だったみたい」
「……怪我は?」
「ないわ。乗った馬が穏やかな子でね、落ちなかったの」
「ベザリウスの主治医を手配する?」
「そんな、大丈夫よ。もうなんともないわ」
「……それなら、よかった」
エリオット=ナイトレイには悪いことをした。
エイダと自分の荷物を取りに行くため医務室を後にしながら、自身の怪我には構わずルナに先を促してくれた、青い真っ直ぐな瞳を思い返す。
故意ではないにしてもぶつかって突き飛ばし、挙げ句に怪我の処置を丸投げしてしまった。取り繕ったように医務室に来るかと尋ねてみたものの、あのまま「行く」と言われていたらルナは困っていただろう。
ここにはエイダがいるから。
自分の主人ーーエイダ=ベザリウスが。
エイダは恐らく彼に対して遠慮も敵対心も持ってはいないが、ルナは彼を医務室に連れて来たくはなかった。彼が断る前提でそんなことを訊いたのだ。
仕方ない、という思いと、自分の卑怯な行いを悔いる感情がぐるぐると胸の中を回る。
……明日も彼は変わらず口をきいてくれるのかしら。
当たり前のように差し伸べられた手。
名前を耳にするのも嫌がるほどの酷いベザリウス嫌いだと聞いていたのだが、彼はどういうわけか、ルナに対してそんなそぶりは一切見せなかった。もしやルナがその仇のように憎んでいる家に仕えている人間だと知らなかったのだろうか。同じ教室で過ごしていてそんなことがあり得るのだろうか。
万が一そうだとしたら、明日一言交わすまでは、知らないままでいてほしい。
エイダの信頼を裏切らぬ自分でいるために、せめて「ごめんなさい」の一言だけでも。
エイダは、たとえ自身のために行われたことだとしても、その過程で誰かが傷付くことを……しかもその傷と自身とを天秤にかけられるようなことを、良しとしない人だから。
ルナは通路の窓から見える夕暮れの空に目をやった。
01.衝突
そういえば、誰かと話そうだなんて、久しぶりに考えている。