箱庭聖譚曲
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空が白んでくる時間。
目を覚ますと、身だしなみを整えてエイダを起こさないよう寮の部屋を後にし、まず厨房に向かって炉の火を入れる。朝食の支度を手伝って、その後にランドリーに寄って新しいシーツを受け取り、エイダを起こす。ラトヴィッジという貴族の名門校に入学しても、ルナの朝はベザリウスの屋敷で過ごしていた頃と、あるいは学校の使用人として働いていた頃とあまり変わらなかった。
それを望んだのはルナ自身だ。習慣で早く目が覚めてしまうし、動いているほうが落ち着く。使用人の仕事をこなしている間は、ルナは自分がこの学校の中の異物ではないように感じられた。
しかしエイダに「休暇」を言い渡されている今、ルナはどこの使用人仲間からも門前払いされていた。
「ダメです!」
今日も今日とて杖を片手に厨房に顔を出してみれば、ルナが怪我をしてからはルナより早く起きるようになったという幼い女中が腰に手を当てて出迎えた。
「ルナ様は座ってて!ていうか帰って!」
「ずいぶんな言いようね……どうしてもダメ?」
「どうしても!」
「……でも足はもう治りかけなのよ、ヴィオラ」
「ダメったらダメ!」
「……ローワンさん」
「私を見られてもねえ。杖でうろうろされるのも邪魔だし、部屋でもう一度寝たらどう?」
間延びした声で眠そうに答えたのは元々別の貴族の邸宅で見習いから成り上がったという壮年の男性料理人だ。意外にも政治における食事の役割は重要で、そういった教育のためにもラトヴィッジは幾人もの料理人を抱えているが、それでも彼のように煮込みから焼き物、製菓に至るまで幅広く技術を身に付けたシェフは多くない。階級も高いはずだがその割に下働きの人間に対して威張る様子は全くなく、ルナは手伝いがてら料理を教わりによく彼のもとを訪れていた。
「そうですよ、戻ってください!わたしエイダ様と、エリオット=ナイトレイ様にも頼まれてるんだから!」
「エイダは分かるけど……エリオット様に?」
「ルナ様が無理しないか見張ってほしいって!」
「……そう。仲が良いのね」
自分が口にした二人が大物であることを知ってか知らずか、課せられた重要任務に幼い女中の瞳は燃えている。それにしても、先日エリオットが厨房に訪れていたのは聞いていたが、いつの間にそんなことを頼まれる仲になっていたのだろう。
ヴィオラが無邪気にこちらを見上げた。
「ルナ様もクラスメイトで、仲良しなんでしょ?」
まさか彼がそう言ったのだろうか、と一瞬考えたが、ルナはすぐにかぶりを振って女中に言った。
「うん、たぶん」
ルナの答えに満足そうに頷いて、彼女は「またお茶する時は言ってくださいね」と笑った。
太陽がいくらか天頂に向かって進んだ頃、ルナは石畳の道をエイダと連れ立って歩いていた。寮から校舎までの短い通学路だ。ゆっくりした二人の足音に杖をつく音が混じっている。
「いいなぁ。秘密の場所でお茶会なんて素敵」
エイダが胸の前で手を組んで言った。ルナに代わって持っている二人分の鞄が邪魔そうに見えた。
「……私には、過ぎた体験だったと思う」
「私はそうは思わないよ?きっとみんな、ルナに楽しんだり喜んでもらいたかったんじゃないかしら」
「……でも私、何も返せないわ」
「そうかな」
エイダはいつものようにふわりと笑って、
「私のクラスの人達ね、最近ルナが来ないからってなんだかそわそわしてるのよ」
「……冗談でしょう。あなたじゃないんだから」
「ええっ、本当なのに」
ルナは隣を歩くエイダを見た。今は眉を下げて少しだけ困ったような笑みを浮かべている。そんな笑顔にも万人にはない花があった。
ルナは確かに他人からの視線を浴びることが多かった。しかしそれはルナが生徒の中でも特段異質な存在だからだ。エイダはルナと違い友人が多く、異性からの交際の申し込みも後を絶たない。ルナの姿が見えなくて落ち着きがなくなるのはむしろ付き人がいない隙にエイダに粉をかけたい人間ではないか。今まではそれに対して一緒にいたルナの存在が抑止として働いていたのだろう。
「だから、怪我が治ったらまた迎えに来てね」
「……もちろん。私の役目だもの」
それならば、やはりエイダが想いを寄せる相手はこの学校の生徒ではないということだろうか。エイダに話を聞かされてから今日まで、ルナはついぞその影を見ることもなかった。先日の再会ではギルバートが疑われたが、ギルバートの反応や連絡を取り合っていた時期を考えると、どうにも違う気がする。
ルナは無表情のまま目まぐるしく考えを巡らせた。気にならないということはないが、相手について聞かずにいようと決めたのはルナ自身だ。今更それを聞き出したいわけではない。ただ隠し事が不得意なエイダがあまりに変わらないものだから。
「エイダ、あなた……」
「うん、なあに?」
エイダは大貴族の娘にしては純粋で、聡明だが年頃の少女らしく恋に夢を見ている部分がある。エイダにそういうことがあれば、少なからず変わってしまうかもしれないと思った。エイダか、エイダとルナの関係が。
ルナは緊張しながら口を開いたが、次の言葉が発されることはなかった。
「失礼」
「あれ、ローランドくん?」
「おはようございます、ミス・ベザリウス。それにミス・ルーンフォークも」
「……おはようございます」
「おはよう。えっと、どうかしたんですか?こんなところで」
会話の途中で声をかけてきた珍しい顔に、エイダが首を傾げて尋ねる。相手の男子生徒は居住まいを正すと、物腰柔らかな態度で、エイダではなく隣のルナに向き直った。
「実はお二人に……というか、君に話があって」
授業の合間の教室は生徒のざわめきで満ちていた。試験も数日後に迫り、ルナのように教本を開いている人間も多い。
「ここ、間違ってるよ」
不意に自分が書いた文字の上にトン、と指が置かれ、ルナはそれを辿って視線を上げた。
「……ひと目で分かるのね」
「手が止まってるから煮詰まってるのかなって。僕も解いた問題だしね」
「解析は苦手?」と傍の椅子に腰掛けて尋ねたリーオに、ルナは俯きがちに答える。
「幾何と、音楽も」
「へー、意外だなあ」
「レポートならまだ……リーオみたいに器用じゃないもの、私」
ルナには入学前から教育を受けていた他の生徒と違い確固とした勉強の基盤がない。幼い頃から文字は読めたし、本を読めという養父の教えで読み書きには困らなかった。エイダに教わり最低限の教養は身に付けたが、講義内容が複雑になればなるほど理解のはやさで周囲に劣った。
その点ルナから見ればリーオはすこぶる器用だ。知識量は言うまでもなく、なんというか、あらゆる勉学に柔軟に順応しているように感じる。
「器用だってさ、エリオット」
「まあ色々知ってるし抜け目ないし、そうなんじゃねえか?」
「えー、ケーキ切るの全力で止めたくせに」
「じゃあ撤回する。おまえ、片付けも壊滅的だしな」
「……そうなの?」
「いやいや、案外上手いかもよ?」
「は?嘘つけ」
「やらないだけだって」
「やれよ!主人に片付けさせるやつがどこにいる!」
リーオがケラケラと笑って手に持っていた書物を膝の上で広げ、ルナもつられて小さな笑い声を漏らした。やって来たエリオットが後ろから覗き込むようにルナの手元を見て少し考えたあと、先ほどのリーオと同じ箇所を指摘した。不思議な関係性の三人がそうして過ごす姿も、いつの間にか教室に馴染んだ光景になっていた。
四人でお茶会をした日の帰り、「あたしは時間を置いてから出るから」と迷路花壇に残ったレイラに代わってかエリオットとリーオはルナを寮まで送り届けてくれた。ルナは当然遠慮したが、エリオットが何故か頑なに譲らなかった。責任感のようなものなのだろうか。自分に対してそんな配慮は必要ないのに。
そうして歩いた帰り道で話したのは最近の授業の内容や図書室に追加される予定の本など他愛ないことばかりだったが、それがかえって以前の三人に戻れたようで、ルナは自分でも驚くほど安心したのだった。
あれから他の生徒は変わらず状況を静観するか、ベザリウスと懇意にしている家柄の子弟は気が向いたらルナに構うような姿勢だった。周囲からの正当な扱いにはまだ困惑が拭いきれないが、それでもルナは少なからず主人であるエイダやこうして共に過ごしているエリオット達への引け目のようなものが薄れていくのを感じていた。
未だ分不相応であることは分かっている。ここにいること自体がルナの身分には過ぎた出来事だった。だから、ここはルナが居ていい場所ではないのだとずっと思っていた。
きっと、そうではない。
入学して以来、針の筵のようだった自分の席すらも、今はルナの居場所のひとつになろうとしていた。
それなのに、私は──
「おい、ルナ。聞いてんのか」
名前を呼ばれてハッとする。顔を上げるとエリオットが怪訝そうにこちらを見ていた。リーオはいつの間にか中座したようで、姿が見えない。
「……ごめんなさい。なに?」
「だから、休暇中の予定はあるのか?」
休暇。ルナは口の中で呟いた。
ルナが現在エイダに命じられている休暇のことではない。彼が言っているのはこのラトヴィッジ校の休暇のことだ。試験が終われば間もなく学校は長期休暇に入る。
「いくつかエイダの予定が入ってるから、その準備が」
「……オレはおまえの予定を聞いたつもりなんだが」
「私の?週末はレベイユの懇意の店に挨拶も兼ねて買い物に。その後は別邸の使用人たちと打ち合わせして、エイダの外出の予定を確認して、オスカー様のお屋敷に行く準備も……」
「あー、分かった、もういい」
予想はしてた、とエリオットは何故か呆れていた。
「使用人にも休暇くらいあるだろ」
「一応もらってるけど、養父母は長く住み込みで働いているから故郷に帰るような用事もなくて、屋敷にいると結局やることは変わらないの」
今朝いつもの流れで厨房に顔を出したように。
聞かれたことに素直に答えているとエリオットが口をつぐんだ。口調や表情がなんとなく不機嫌そうに思えて、ルナはそっと彼の顔を窺った。
「どうかした?」
「……なんでもねぇよ!」
「本当に?」
「変なとこに気ぃ回してないでさっさとそれ解きなおせ!見てやるから」
明らかになんでもないことはないと思うのだが、詮索も好ましくないらしい。ルナが悄然としていると、エリオットが言い終わらないうちに校舎に予鈴が響き渡った。クラスメイト達が次々と席を立ちドアの向こうに歩いていく。次の授業は講堂に移動しなくてはならなかった。
ルナは咄嗟にエリオットを仰いだ。
「……放課後は?その、続き」
講堂に移動しようとしていたエリオットが驚いたように振り返る。
「あ?構わねぇけど、高くつくぞ」
「それは……そうよね」
「真に受けるなよ。放課後だな」
「見てくれるの?」
「だからいいって言ってる」
くっと喉の奥から笑い声を漏らした彼に、ルナの目は引きつけられた。「行くぞ、遅れる」という言葉に慌てて視線を引き剥がし、荷物をまとめた鞄と申し訳ばかりに使っている杖を手に取ると、その背を追ってルナも歩き出す。
「何かお礼をしないと」
「誰にだよ」
「あなたに」
「そんなもん、別に……いや。じゃあ治ったら剣の練習付き合え」
「……そのくらいなら、いつでも」
「言ったな、覚えてろよ?」
色々なことが変わり始めているのだと思う。
自分の場合、きっかけはたぶん彼だった。
ルナには彼に返せるものがなかった。ルナが覚えている限り、自分がもともと持っていたものは自分自身とこの名前だけだったし、その自分自身すらエイダに差し出すことをルナはとうの昔に決めている。
ルナが持っていないそれ──彼に怒られそうな表現をするなら、見返り。
彼は見返りがないことを微塵も気にしないだろう。きっと考えもしない。
けれどそのことが、少しだけルナの胸を苦しくさせた。
17.瓦石
