箱庭聖譚曲
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教員室にも目当ての少女の姿はなく、エリオットは肩透かしを食らった気分で授業の教科担当にルナのことを尋ねた。教師には怪訝そうな顔をされたが、ルナが先ほど試験要項の確認に来ていたこと、その後委員会の当番で図書室に向かったことを告げられた。
教員室から図書室まではそう遠くない。その上、委員の仕事があるのであればしばらくは主人の迎えにも行かず留まるはずだ。
そう思ったのだが。
「休み?」
「今日のところは。私がいるし、書架の整理はペアの委員の子がさっさと終わらせてしまったからね」
白髪混じりの男性司書は落ち着いた口調で答える。見渡すも図書室の受付には彼一人だけ。本を借りるより席で勉強や調べものをしている利用者が多いからか、たしかに人手は足りているようだ。
「怪我がちゃんと治るまでは休んでいいと言ってあったのに、ついさっき顔を出しに来ていましたが。律儀な子ですね、あの子も」
エリオットは呆れて言葉を失った。律儀には違いないが、杖を持ったまま怪我した足であちこち出歩いているのでは司書の好意も台無しだろう。何やってんだあいつは。
「それで、ルナは」
「今日はご主人様の迎えはないと言っていましたね。まっすぐ寮に帰っているといいのですが」
どうやらそれ以上のことはこの司書も知らないらしい。ルナが自分のことを何もかもおおっぴらに喋る少女であったならこんな真似をせずに済むものを。
そんなことはあり得ないと分かって奔走している自分も自分だ。
「ったく、手のかかる……」
残念ながらルナの行く先にあてはなかった。クラスメイトの中ではよく話していたほうだし、言動がだんだんと掴めるようになってきたと思っていたが、とんだ思い違いだ。自分はまだ彼女について分からないことが多すぎる。
主人の迎えがないとなればさすがに帰っているだろう。
考えた末に女子寮まで煉瓦の道を歩いて来たはいいものの、男子禁制のため中に入るわけにもいかず、エリオットは建物の前でまた頭を悩ませる。
玄関扉さえ開ければ取り次いでくれる寮の職員はいるのだが、いかんせんこの場所にはいい思い出がない。猫に奪われた持ち物を追いかけて図らずも女子寮内に入り込んでしまった一件は、笑い話にできるほどまだ時間が経っていなかった。
「あの」
人を殺しそうな目つきで腕を組んでいるエリオットに、おずおずと声をかける人間がいた。身に纏っている灰色を基調にしたワンピースとエプロン姿で生徒ではないことが一目で分かる。裏口からブリキの掃除バケツを持って出てきた若い女中……おそらく掃除婦だった。
「どなたかにご用でしょうか、ミスター?」
「あ、ああ。ルナ=ルーンフォークという生徒がいると思うんだが」
「ルナは……あっ、ルナ様なら今日はまだ帰られてませんわ」
ルナの名前を聞いた瞬間、かしこまっていた掃除婦の顔がぱっと明るくなったのが分かった。
「あいつと親しいのか?」
「も、申し訳ありません!つい……」
「いや、気にするな」
大貴族の側近と掃除婦では使用人としての階級が違うためだろう。女中が慌てて頭を下げるが、謝られる謂れはエリオットにはない。
それにしても、ルナにこの学校で主人以外の"親しい人間"がいたとは。
ともあれ目的の人間が不在である。しかしエリオットの足はすぐにその場を離れることを躊躇った。教室では他人に無関心なように思えたルナが、使用人とは交流を持っていた。不自然とまでは思わないが経緯が気になる。
「……」
「ええと」
黙り込んだエリオットの複雑な表情を見て、何に気付いたのか掃除婦は優しく目を細めて口を開いた。
「ルナ様はエイダ様が入学されてから自身が入学資格を得られる年齢になるまでの2年間、私どもと生活をしておりましたので」
「……ラトヴィッジの使用人たちとか」
「本人の希望で、普段は地下の使用人室で寝泊まりを。週末にはご主人様と一緒に屋敷へ帰られてました」
貴族の屋敷で住み込みの使用人の部屋が地下にあるのは珍しいことではなかった。ラトヴィッジ校には職員寮も設置されているが、そこに自室が用意されるのはそれなりの家の出身である教員や一部の職員のみで、労働者階級の人間は多くが階下や地下の部屋で過ごす。ルナやリーオのような家側に勤める使用人、それも主人と同じ教育を受けさせるほどの側仕えは使用人としての格が上がるので少し環境もマシになるはずだが、幼いルナはどうもその境遇を享受しなかったようだ。
「どうしてあいつ、わざわざそんなことをしたんだ?」
「さあ。理由は話してくれなかったような。私たちとは違うのに、奢った様子もなく働き者でしたよ」
「なんというか、変わらないな」
「本当に。まだ共用部分の掃除なんかは手伝ってくれますし、働きすぎなくらい」
その女中は少し寂しそうに笑った。
「怪我した時くらい、頼ってくれてもいいのに」
「本人に言えばいいんじゃねぇのか、それ」
「ふふ、言ったとしても、こうと決めたら頑固な子ですから。……さしでがましいようですが、仲良くしてあげてくださいね」
エリオットははっとして目の前の女中を見た。初対面の人間相手にそんなに分かりやすい態度だったつもりはないが、あるいはあらぬ噂が彼女にも届いていたか。
女中はエリオットの様子を気にした風もなく校舎とは別の方向を指差した。
「そうだ。ルナ、もしかしたらランドリーに行っているかもしれません。彼女、今もご主人様のベッドメイクは自分でしていますし、リネンを運ぶのもよく手伝っていますから」
結局呼び方が元に戻ってしまっているのは、相当仲が良かった証拠なのだろう。少なくともこの女中にしてみれば。
ランドリーは校舎からだいぶ離れた、寮の裏手の奥まった場所にある洗濯場だ。寮室のシーツやテーブルクロス、カーテンやカーペットなど、備品のリネンやシルクを学校に雇われた使用人が手洗いしている。洗濯物の量が量なので働き手の人数も多く、調理場の人間や掃除婦のように本邸で仕事をする必要がないため、ほとんどの屋敷でそうするように離れの小屋に住み込みで働いているはずだ。
エリオットは通り過ぎた建物から香る強い洗剤の匂いを新鮮に思いながら、ちょうど外で女中たちにテキパキと指示を出していたランドリーメイドに声をかけた。
「ルナならたしかに来ましたが、生憎今日の分は全部終わってたから、そのまま帰らせましたよ」
「ちっ、すれ違ったか」
「ついさっきのことだけど、惜しかったね」
自分より幾分か年配の洗濯婦は闊達に笑った。他人の遠慮や警戒心を容易く解いてしまう気さくな雰囲気だ。エリオットは特にこういった人間が嫌いではなかった。
「ルナはここにも入学前から?」
「あら、ご存知なんですか。あの子、入学してもうしばらく経つのに、難しい勉強しながらあんなに仕事をこなして。まあやりたくてやってるんでしょうから、止めてやることもないんだけど」
「まさか毎日来てるのか、あいつ」
「ええ、だいたい朝早くにね」
彼女はルナのことを貴族の側近というより、まるで近所の子供について世間話でもするかのように尋ねた。
「いい子でしょう。クラスではどうです?」
「どうって……」
エリオットは少し前まで教室でぽつんと座ったまま人形のように過ごしていたルナの姿を思い出す。侵入者の事件以降は様々な人間の、否、様々な家の思惑もあって表向きの様子は変わったものの、それまでのルナのことも今の状況も、目の前の彼女に話してどうする。
葛藤もむなしく、エリオットのその一瞬の沈黙で洗濯婦はしっかり察したようだった。
「あっはっは、そんなに上手くやっているとは思いませんよ。洗濯もアイロンがけも器用にこなすけど、人付き合いでは不器用な子だからね」
「……じゃあ、あれはもともとか。同級生に馴染めないってより」
「そりゃあもう、最初は人見知りが酷いのなんのって。慣れてからもあまり笑ったりはしてくれないけどさ」
「でも」と、やや沈んだ様子を見せるエリオットを尻目に、洗濯婦は明るく笑った。
「少しでも楽しいと良いね。せっかくの学校生活なんだから」
やはりエリオットはそれに答えることが出来なかった。
ルナは知っているのだろうか。自身のことをこんなふうに親身に話す人間がいることを。
「ルナを訪ねてくる子は珍しかったから、引き留めて悪かったね」
「いや……。あいつ、その後どこに行くとか言ってたか?」
「うーん、聞かなかった気がするけど……この時間なら、あっちはもう行ったかい?」
生徒や職員が食事をとるカフェテリアの裏にはそれなりに大きな厨房がある。エリオットが裏の戸口から顔を覗かせると、料理人と思わしき壮年の男性と、第1学年とどちらが年下かという幼い女中が簡素な椅子に腰掛けて紅茶を飲んでいるところだった。
「おやぁ、珍しい。どうかしましたか?」
「邪魔する。ルナ=ルーンフォークという生徒が来なかったか?」
昼が過ぎて夕食の支度が始まるまでの合間は、使用人たちの僅かで大切な憩いの時間らしかった。何か焼いている最中なのか、石造りのオーブンから厨房全体に甘い匂いがたちこめている。
「ルナ様なら先ほど様子を見にいらっしゃってました!」
顔一面に喜色を浮かべ、身を乗り出すようにして答えたのは幼い女中のほうだった。女中のその様子から、ルナがここにも頻繁に訪れていることが分かる。
「一応聞くが、あいつ、ここにも毎日来てるんじゃ……」
「毎日は来てないですねえ。週末はお屋敷に帰ってますから」
「つまり週末以外は来てるのか……」
間延びした声の料理人の答えは、つまりそういうことだった。
大きな屋敷であればあるほど使用人の職務は細かく専門分野が分かれる。中でも特に厨房はその専門性が高く、見習いから始まって、ひとつ調理を任されるようになるには相当な腕が要るはずだ。ルナがここに来てどのような仕事をしているのか分からないが、主人の世話に加えて掃除、洗濯、食事の準備……やはり誰の目から見ても度が過ぎた働きぶりである。
「お兄さん、ルナ様のお友達ですか?」
「ああ、まあ……」
「いいなあ、羨ましい」
「こら、ヴィヴィ」
「羨ましい?」
エリオットが首を傾げると、女中を諌めた料理人が苦笑しながら言う。
「この子がここで働き始めたのはルナ様が入学された後なので、一緒にいられる時間が少なくていつも駄々をこねるのですよ」
「だってぇ」
少女は丸い頬をさらに膨らませて呟いた。
「ルナ様、戻ってきてくれないかな」
戻る。
それは恐らくこの幼い少女が無意識に選んだ、客観的には正しい言葉だ。仮にこの学校にいる人間を使う側と使われる側に分けたなら、ルナはこの少女同様使われる側であるはずなのだから。
何より、身分がどうとかではなく自身の性分として、ルナには使用人の生活のほうが合っているのだろうと感じる。他人を使うこと──誰かを頼ったり、謀ったりすることにひどく向いていない性格だ。
だが、それでも。
エリオットは俯く女中の前に片方の膝をついて目線を合わせた。エリオットのことを知っているからか椅子から立ち上がりかけた料理人を目線で制する。ぎゅ、とエプロンを握る少女の小さな手は水と洗剤のせいであかぎれの跡だらけだった。
「悪いが、だめだ」
「えー」
「クラスメイトなんだよ。あいつが教室にいなきゃ困る」
それでも、いつもの席には明日も変わらず彼女の姿があって欲しいと思う。
「本当にどこ行ったんだ、あいつは!」
人気のない廊下に業を煮やした怒鳴り声が響いた。穏やかな午後に似つかわしくない剣呑な雰囲気だが、エリオットには情緒より優先すべきものがある。
合流したリーオが顎に手をやって言った。
「僕もさっき教室を覗いてみたけどいなかったんだよね。すれ違ってもいないから、校舎にはもういないんじゃないかな」
「……また変なことに巻き込まれてるんじゃないだろうな」
思わず脳裏をよぎる最悪の可能性。避けられているだけならまだいい。たとえば先日のベザリウスを名乗る少年のように人知れず隠し扉の中に連れ去られたりしていたら、おそらく一人で行動していたルナの姿が消えたとしても誰も気づかない。
「くそ、冗談じゃねえ」
「どうだろうね。少なくともさっきまでいたっていう目撃談はあるみたいだし」
学校側の警戒が強まったことで警備も固くなり、校内に不穏な気配がないのは確かだ。ルナが学校のそこかしこに出没しているらしいことも。しかし足を怪我している少女ひとりにいつまでも追いつけないのは一体どういう──
「どうしたの?」
不思議そうな声は二人のすぐ後ろから聞こえた。
「何か探しているなら、私も……」
「おまえ性懲りもなく……その手に持った杖は飾りか!」
振り返った先にいた目的の少女……ルナは突然の大声に驚くこともなく呑気に首を傾げた。足音があれば近づいてくる彼女に気付いたはずだ。当然杖をつく音も。しかし怪我をしていようとルナは靴音を立てない歩き方をする上、杖は今、使われることなく鞄とひとまとめに手に提げられている。
「そんなことよりあなた達、何かを探しているんじゃないの?」
「探してたのはおまえだ!あっちこっち歩き回りやがって」
「……私?」
「ミス・シャーリーにきみを連れて来るように言われてるんだ」
「レイラが?」
ルナがかすかに眉を顰める。
「彼女、今まで誰かに仲介を頼んだことなんてなかったのに」
「なら、エリオットはずいぶんと気に入られたみたいだね」
ルナはリーオの言葉に頷いてみせた。今さら溜め息こそつかないものの声に諦念が色濃くこもっているのは、自身の友人の傍若無人さをよく知っているからだろう。
「ほら、行くんだろ。俺たちも呼ばれたはいいが、場所まで知ってるわけじゃないからな」
「…………うん」
エリオットが促すと、ルナは今度はちゃんと、やや仕方なさそうな様子で杖を使って歩き始めた。
そこは他の敷地とは違い道が整備されていなかった。まるで"それ"から人々の視線を逸らすように。
"それ"はほとんど人気のない庭園の端に聳える常緑樹のかたまり、一見するとどこにでもある背が高い生垣の一画だ。よくよく目を凝らせばその生垣の一部は切り取られたように途切れており、人が木々の中に入れるようになっている。
「この生垣、なんでこんな複雑な造りなんだ」
「学校の庭師の話だと、古くなって崩れていた花壇の跡に木を植えたらこうなったんですって」
「へー、迷路みたいだね。初めて入ったよ」
「本当に人間を隠す場所には事欠かねぇな」
エリオットは呆れて言った。先日の物騒な隠し扉のことを考えると、これが元も花壇として使われていたのかは怪しいところだ。
「で、この奥が"いつもの場所"なのか」
「ええ。と言っても数回しか来たことはないけれど……彼女は気に入っていたと思うから」
低木とはいえ人間の背丈を優に超える高さの生垣に、人ひとりがやっと通り抜けられる幅の通路。生垣の根元には色とりどりの花が風で揺れていた。
途中に分岐もある入り組んだ道を、先頭のルナは迷いなくスルスルと進む。この様子を見る限り、数回というのは少なくとも一度や二度ではないのだろう。
やがて、曲がったり直進したりを繰り返すも変わらない景色に飽きてきた頃、急に生垣の壁が途切れて視界が開けた。
迷路の中心にあたる部分だろう、そこには寮の部屋ひとつ分くらいの広さの空間に、手入れの行き届いた青い芝生がきっちりと敷かれていた。
それだけではない。中央にある猫足のティーテーブルには真っ白なクロスがかけられ、上には茶器が揃っている。それを囲むように椅子が四脚。傍の給仕用カートは食べ物を運んできたのか銀のクローシュが見えた。
「え……」
「あら、遅かったわね」
椅子のひとつに腰掛けた赤毛の少女が、言葉とは裏腹に計算通りだというような顔で笑う。そうだ、たしかに彼女は「お茶がしたい」という理由でエリオットたちにルナを探させていたのだ。
「これは、あなたが?」
「あたしはちょっとお茶が飲みたいってお願いしただけよ。ルナが怪我してて今日は従者の仕事お休みだとか、ついでに少し口走ったかもしれないけど」
持ち込まれたテーブル椅子一式と洗いたての真っ白いクロス、それにカートで運ばれる量の菓子。これを用意するには相当な人手がかかる。レイラは何でもないように言ったが、「ちょっとお茶」にしては豪勢だということはルナも分かるはずだ。
レイラの顔の広さが裏方にまで及んでいることには驚かされるが、おそらくこれは彼女の直接の頼みによるものではなく、ルナのためにとこの学校の使用人たちが用意したものなのだろう。ルナが使用人たちにまるで身内のように想われていることは、ここまでの道程でよく理解した。下手をすると当人よりも。
それなのに、思い悩むようなルナの表情は晴れない。
「紅茶は嫌い?それともエイダ様に休暇を言い渡されたのがこたえているのかしら?」
「いえ……そうじゃなくて」
一瞬。
一瞬だけルナがこちらに視線を寄越し、気まずそうに顔を逸らす。
どことなく表情は硬く、この期に及んで目も合わなかった。
「おい」
「…………なに?」
「はぁ……いないほうがいいなら帰る」
せっかくの紅茶も、ルナが楽しめないのなら本末転倒だ。身から出た錆ではあるが、自分がここにいると色々と考えさせてしまうようだし、問題は後日片付けるとして今日のところは退散しよう。
エリオットが踵を返しリーオに声をかけようとすると、何かに力強く制服の袖を引かれた。あまりの強さに危うく体勢を崩しかける。
「ま、待って」
「あ?」
「ごめんなさい。この前のこととか、今日も……迷惑かけたから怒ってる、わよね」
「は?」
ルナに謝られている意味がさっぱり分からず、エリオットは頭に疑問符を浮かべた。
「この前は、故意ではないし寝不足だって言っていたエリオット様を起こすのも気が引けて……直接謝ろうと思っていたけど、なんとなく顔が合わせにくくて」
「ルナ」
「今日も、その、動いていないと落ち着かないから仕事を探していたんだけど、結局あなたたちに面倒をかけてしまったみたいだし」
「分かったから、落ち着け」
制服を掴む力の割に弱々しいルナの声。いつになく揺れる声は、弁明のために普段の何倍もの言葉を紡ぐ。こんなに一度に喋る彼女を見たのは『聖騎士物語』の話をした時以来かもしれない。
しかしやっと分かった。
「おまえは怒ってるわけじゃないんだな?」
「…………なにを?」
顔を覗き込むも、本当に思い当たらないのだろう。柳眉を寄せて首を傾げたルナに、エリオットは安堵の溜め息をついてその場でうなだれた。ルナが慌てて制服から手を離す。掴まれていたところが若干シワになっているがこの程度のことはもはやどうでもいい。
「……そういうやつだよな、おまえ」
「ええと……具合悪い?寝不足?」
「違ぇよ、最近は寝てる」
エイダ=ベザリウスやオズ=ベザリウスへの言動に始まり、下手に関わってしまったせいで学校でのルナの立場と周囲の態度が一転したことや、煩わしい噂が飛び交っていること、それに控え室でのつかの間の同衾も。エリオットにしてみれば心当たりは色々あるが、ルナはエリオットを責めようとしない。
彼女はそういう人間だからだ。
エリオットはおもむろに手を伸ばして目の先にある細い手首を掴む。
「あれはオレが悪かった」
「そんな……休んでいたのに邪魔をしたのは私のほうで、」
「別に居ていい。おまえなら」
覗き込むと、ルナは毒気を抜かれた表情でエリオットを見つめ返した。しばらくぶりに正面から見た翠色の瞳はやわらかい陽光を受けてガラス玉のように輝いている。
掴んだ手は振り払われない。
夢の中ではなく、今度こそエリオットの意思で掴んだ手をルナは振り払わない。それで充分だった。
「……いいの?」
幼い子供のような問いかけ。ルナが恐る恐る口にしたその一言には、言葉以上に色々な思いが込められていた。
「クラスメイトだからな」
「……うん」
風が吹いて、ルナのブルネットの髪がふわりと広がった。その後ろでは事の成り行きを見守っていたリーオとレイラが訳知り顔で肩をすくめていた。
"ベザリウスを憎め"
自分の中で何かが揺らぐ音がする。
"おまえ達に近づいちゃいけないんだ!"
"なんで?"
脳裏に浮かんできた幼い日の声。その答えを出すにはまだ時間が要る。
ふと目の前の光景を見た。
「もう、あなた達さっさと座って。紅茶が冷めてるわよ」
「わー、このお菓子もしかして出来たてなんじゃない?」
「そういやルナ探しに行った時、厨房でなんか焼いてたな」
「……そんなところまで探してくれたの?」
特別なものなんて何もない。場所こそ辺鄙だが、誰のもとにでも訪れる、学生の日常の一片だ。
ここらで少しだけ羽を休めるのも良い。エリオットは荷物を足元に下ろし、昼下がりの外気に晒された椅子の背を引いた。
16.休息
「あたしが取り分けてあげる!」
「僕も手伝おうかな」
「ちょっと待て。おまえらはケーキ崩すのが目に見える」
「……お皿を貸して」
教員室から図書室まではそう遠くない。その上、委員の仕事があるのであればしばらくは主人の迎えにも行かず留まるはずだ。
そう思ったのだが。
「休み?」
「今日のところは。私がいるし、書架の整理はペアの委員の子がさっさと終わらせてしまったからね」
白髪混じりの男性司書は落ち着いた口調で答える。見渡すも図書室の受付には彼一人だけ。本を借りるより席で勉強や調べものをしている利用者が多いからか、たしかに人手は足りているようだ。
「怪我がちゃんと治るまでは休んでいいと言ってあったのに、ついさっき顔を出しに来ていましたが。律儀な子ですね、あの子も」
エリオットは呆れて言葉を失った。律儀には違いないが、杖を持ったまま怪我した足であちこち出歩いているのでは司書の好意も台無しだろう。何やってんだあいつは。
「それで、ルナは」
「今日はご主人様の迎えはないと言っていましたね。まっすぐ寮に帰っているといいのですが」
どうやらそれ以上のことはこの司書も知らないらしい。ルナが自分のことを何もかもおおっぴらに喋る少女であったならこんな真似をせずに済むものを。
そんなことはあり得ないと分かって奔走している自分も自分だ。
「ったく、手のかかる……」
残念ながらルナの行く先にあてはなかった。クラスメイトの中ではよく話していたほうだし、言動がだんだんと掴めるようになってきたと思っていたが、とんだ思い違いだ。自分はまだ彼女について分からないことが多すぎる。
主人の迎えがないとなればさすがに帰っているだろう。
考えた末に女子寮まで煉瓦の道を歩いて来たはいいものの、男子禁制のため中に入るわけにもいかず、エリオットは建物の前でまた頭を悩ませる。
玄関扉さえ開ければ取り次いでくれる寮の職員はいるのだが、いかんせんこの場所にはいい思い出がない。猫に奪われた持ち物を追いかけて図らずも女子寮内に入り込んでしまった一件は、笑い話にできるほどまだ時間が経っていなかった。
「あの」
人を殺しそうな目つきで腕を組んでいるエリオットに、おずおずと声をかける人間がいた。身に纏っている灰色を基調にしたワンピースとエプロン姿で生徒ではないことが一目で分かる。裏口からブリキの掃除バケツを持って出てきた若い女中……おそらく掃除婦だった。
「どなたかにご用でしょうか、ミスター?」
「あ、ああ。ルナ=ルーンフォークという生徒がいると思うんだが」
「ルナは……あっ、ルナ様なら今日はまだ帰られてませんわ」
ルナの名前を聞いた瞬間、かしこまっていた掃除婦の顔がぱっと明るくなったのが分かった。
「あいつと親しいのか?」
「も、申し訳ありません!つい……」
「いや、気にするな」
大貴族の側近と掃除婦では使用人としての階級が違うためだろう。女中が慌てて頭を下げるが、謝られる謂れはエリオットにはない。
それにしても、ルナにこの学校で主人以外の"親しい人間"がいたとは。
ともあれ目的の人間が不在である。しかしエリオットの足はすぐにその場を離れることを躊躇った。教室では他人に無関心なように思えたルナが、使用人とは交流を持っていた。不自然とまでは思わないが経緯が気になる。
「……」
「ええと」
黙り込んだエリオットの複雑な表情を見て、何に気付いたのか掃除婦は優しく目を細めて口を開いた。
「ルナ様はエイダ様が入学されてから自身が入学資格を得られる年齢になるまでの2年間、私どもと生活をしておりましたので」
「……ラトヴィッジの使用人たちとか」
「本人の希望で、普段は地下の使用人室で寝泊まりを。週末にはご主人様と一緒に屋敷へ帰られてました」
貴族の屋敷で住み込みの使用人の部屋が地下にあるのは珍しいことではなかった。ラトヴィッジ校には職員寮も設置されているが、そこに自室が用意されるのはそれなりの家の出身である教員や一部の職員のみで、労働者階級の人間は多くが階下や地下の部屋で過ごす。ルナやリーオのような家側に勤める使用人、それも主人と同じ教育を受けさせるほどの側仕えは使用人としての格が上がるので少し環境もマシになるはずだが、幼いルナはどうもその境遇を享受しなかったようだ。
「どうしてあいつ、わざわざそんなことをしたんだ?」
「さあ。理由は話してくれなかったような。私たちとは違うのに、奢った様子もなく働き者でしたよ」
「なんというか、変わらないな」
「本当に。まだ共用部分の掃除なんかは手伝ってくれますし、働きすぎなくらい」
その女中は少し寂しそうに笑った。
「怪我した時くらい、頼ってくれてもいいのに」
「本人に言えばいいんじゃねぇのか、それ」
「ふふ、言ったとしても、こうと決めたら頑固な子ですから。……さしでがましいようですが、仲良くしてあげてくださいね」
エリオットははっとして目の前の女中を見た。初対面の人間相手にそんなに分かりやすい態度だったつもりはないが、あるいはあらぬ噂が彼女にも届いていたか。
女中はエリオットの様子を気にした風もなく校舎とは別の方向を指差した。
「そうだ。ルナ、もしかしたらランドリーに行っているかもしれません。彼女、今もご主人様のベッドメイクは自分でしていますし、リネンを運ぶのもよく手伝っていますから」
結局呼び方が元に戻ってしまっているのは、相当仲が良かった証拠なのだろう。少なくともこの女中にしてみれば。
ランドリーは校舎からだいぶ離れた、寮の裏手の奥まった場所にある洗濯場だ。寮室のシーツやテーブルクロス、カーテンやカーペットなど、備品のリネンやシルクを学校に雇われた使用人が手洗いしている。洗濯物の量が量なので働き手の人数も多く、調理場の人間や掃除婦のように本邸で仕事をする必要がないため、ほとんどの屋敷でそうするように離れの小屋に住み込みで働いているはずだ。
エリオットは通り過ぎた建物から香る強い洗剤の匂いを新鮮に思いながら、ちょうど外で女中たちにテキパキと指示を出していたランドリーメイドに声をかけた。
「ルナならたしかに来ましたが、生憎今日の分は全部終わってたから、そのまま帰らせましたよ」
「ちっ、すれ違ったか」
「ついさっきのことだけど、惜しかったね」
自分より幾分か年配の洗濯婦は闊達に笑った。他人の遠慮や警戒心を容易く解いてしまう気さくな雰囲気だ。エリオットは特にこういった人間が嫌いではなかった。
「ルナはここにも入学前から?」
「あら、ご存知なんですか。あの子、入学してもうしばらく経つのに、難しい勉強しながらあんなに仕事をこなして。まあやりたくてやってるんでしょうから、止めてやることもないんだけど」
「まさか毎日来てるのか、あいつ」
「ええ、だいたい朝早くにね」
彼女はルナのことを貴族の側近というより、まるで近所の子供について世間話でもするかのように尋ねた。
「いい子でしょう。クラスではどうです?」
「どうって……」
エリオットは少し前まで教室でぽつんと座ったまま人形のように過ごしていたルナの姿を思い出す。侵入者の事件以降は様々な人間の、否、様々な家の思惑もあって表向きの様子は変わったものの、それまでのルナのことも今の状況も、目の前の彼女に話してどうする。
葛藤もむなしく、エリオットのその一瞬の沈黙で洗濯婦はしっかり察したようだった。
「あっはっは、そんなに上手くやっているとは思いませんよ。洗濯もアイロンがけも器用にこなすけど、人付き合いでは不器用な子だからね」
「……じゃあ、あれはもともとか。同級生に馴染めないってより」
「そりゃあもう、最初は人見知りが酷いのなんのって。慣れてからもあまり笑ったりはしてくれないけどさ」
「でも」と、やや沈んだ様子を見せるエリオットを尻目に、洗濯婦は明るく笑った。
「少しでも楽しいと良いね。せっかくの学校生活なんだから」
やはりエリオットはそれに答えることが出来なかった。
ルナは知っているのだろうか。自身のことをこんなふうに親身に話す人間がいることを。
「ルナを訪ねてくる子は珍しかったから、引き留めて悪かったね」
「いや……。あいつ、その後どこに行くとか言ってたか?」
「うーん、聞かなかった気がするけど……この時間なら、あっちはもう行ったかい?」
生徒や職員が食事をとるカフェテリアの裏にはそれなりに大きな厨房がある。エリオットが裏の戸口から顔を覗かせると、料理人と思わしき壮年の男性と、第1学年とどちらが年下かという幼い女中が簡素な椅子に腰掛けて紅茶を飲んでいるところだった。
「おやぁ、珍しい。どうかしましたか?」
「邪魔する。ルナ=ルーンフォークという生徒が来なかったか?」
昼が過ぎて夕食の支度が始まるまでの合間は、使用人たちの僅かで大切な憩いの時間らしかった。何か焼いている最中なのか、石造りのオーブンから厨房全体に甘い匂いがたちこめている。
「ルナ様なら先ほど様子を見にいらっしゃってました!」
顔一面に喜色を浮かべ、身を乗り出すようにして答えたのは幼い女中のほうだった。女中のその様子から、ルナがここにも頻繁に訪れていることが分かる。
「一応聞くが、あいつ、ここにも毎日来てるんじゃ……」
「毎日は来てないですねえ。週末はお屋敷に帰ってますから」
「つまり週末以外は来てるのか……」
間延びした声の料理人の答えは、つまりそういうことだった。
大きな屋敷であればあるほど使用人の職務は細かく専門分野が分かれる。中でも特に厨房はその専門性が高く、見習いから始まって、ひとつ調理を任されるようになるには相当な腕が要るはずだ。ルナがここに来てどのような仕事をしているのか分からないが、主人の世話に加えて掃除、洗濯、食事の準備……やはり誰の目から見ても度が過ぎた働きぶりである。
「お兄さん、ルナ様のお友達ですか?」
「ああ、まあ……」
「いいなあ、羨ましい」
「こら、ヴィヴィ」
「羨ましい?」
エリオットが首を傾げると、女中を諌めた料理人が苦笑しながら言う。
「この子がここで働き始めたのはルナ様が入学された後なので、一緒にいられる時間が少なくていつも駄々をこねるのですよ」
「だってぇ」
少女は丸い頬をさらに膨らませて呟いた。
「ルナ様、戻ってきてくれないかな」
戻る。
それは恐らくこの幼い少女が無意識に選んだ、客観的には正しい言葉だ。仮にこの学校にいる人間を使う側と使われる側に分けたなら、ルナはこの少女同様使われる側であるはずなのだから。
何より、身分がどうとかではなく自身の性分として、ルナには使用人の生活のほうが合っているのだろうと感じる。他人を使うこと──誰かを頼ったり、謀ったりすることにひどく向いていない性格だ。
だが、それでも。
エリオットは俯く女中の前に片方の膝をついて目線を合わせた。エリオットのことを知っているからか椅子から立ち上がりかけた料理人を目線で制する。ぎゅ、とエプロンを握る少女の小さな手は水と洗剤のせいであかぎれの跡だらけだった。
「悪いが、だめだ」
「えー」
「クラスメイトなんだよ。あいつが教室にいなきゃ困る」
それでも、いつもの席には明日も変わらず彼女の姿があって欲しいと思う。
「本当にどこ行ったんだ、あいつは!」
人気のない廊下に業を煮やした怒鳴り声が響いた。穏やかな午後に似つかわしくない剣呑な雰囲気だが、エリオットには情緒より優先すべきものがある。
合流したリーオが顎に手をやって言った。
「僕もさっき教室を覗いてみたけどいなかったんだよね。すれ違ってもいないから、校舎にはもういないんじゃないかな」
「……また変なことに巻き込まれてるんじゃないだろうな」
思わず脳裏をよぎる最悪の可能性。避けられているだけならまだいい。たとえば先日のベザリウスを名乗る少年のように人知れず隠し扉の中に連れ去られたりしていたら、おそらく一人で行動していたルナの姿が消えたとしても誰も気づかない。
「くそ、冗談じゃねえ」
「どうだろうね。少なくともさっきまでいたっていう目撃談はあるみたいだし」
学校側の警戒が強まったことで警備も固くなり、校内に不穏な気配がないのは確かだ。ルナが学校のそこかしこに出没しているらしいことも。しかし足を怪我している少女ひとりにいつまでも追いつけないのは一体どういう──
「どうしたの?」
不思議そうな声は二人のすぐ後ろから聞こえた。
「何か探しているなら、私も……」
「おまえ性懲りもなく……その手に持った杖は飾りか!」
振り返った先にいた目的の少女……ルナは突然の大声に驚くこともなく呑気に首を傾げた。足音があれば近づいてくる彼女に気付いたはずだ。当然杖をつく音も。しかし怪我をしていようとルナは靴音を立てない歩き方をする上、杖は今、使われることなく鞄とひとまとめに手に提げられている。
「そんなことよりあなた達、何かを探しているんじゃないの?」
「探してたのはおまえだ!あっちこっち歩き回りやがって」
「……私?」
「ミス・シャーリーにきみを連れて来るように言われてるんだ」
「レイラが?」
ルナがかすかに眉を顰める。
「彼女、今まで誰かに仲介を頼んだことなんてなかったのに」
「なら、エリオットはずいぶんと気に入られたみたいだね」
ルナはリーオの言葉に頷いてみせた。今さら溜め息こそつかないものの声に諦念が色濃くこもっているのは、自身の友人の傍若無人さをよく知っているからだろう。
「ほら、行くんだろ。俺たちも呼ばれたはいいが、場所まで知ってるわけじゃないからな」
「…………うん」
エリオットが促すと、ルナは今度はちゃんと、やや仕方なさそうな様子で杖を使って歩き始めた。
そこは他の敷地とは違い道が整備されていなかった。まるで"それ"から人々の視線を逸らすように。
"それ"はほとんど人気のない庭園の端に聳える常緑樹のかたまり、一見するとどこにでもある背が高い生垣の一画だ。よくよく目を凝らせばその生垣の一部は切り取られたように途切れており、人が木々の中に入れるようになっている。
「この生垣、なんでこんな複雑な造りなんだ」
「学校の庭師の話だと、古くなって崩れていた花壇の跡に木を植えたらこうなったんですって」
「へー、迷路みたいだね。初めて入ったよ」
「本当に人間を隠す場所には事欠かねぇな」
エリオットは呆れて言った。先日の物騒な隠し扉のことを考えると、これが元も花壇として使われていたのかは怪しいところだ。
「で、この奥が"いつもの場所"なのか」
「ええ。と言っても数回しか来たことはないけれど……彼女は気に入っていたと思うから」
低木とはいえ人間の背丈を優に超える高さの生垣に、人ひとりがやっと通り抜けられる幅の通路。生垣の根元には色とりどりの花が風で揺れていた。
途中に分岐もある入り組んだ道を、先頭のルナは迷いなくスルスルと進む。この様子を見る限り、数回というのは少なくとも一度や二度ではないのだろう。
やがて、曲がったり直進したりを繰り返すも変わらない景色に飽きてきた頃、急に生垣の壁が途切れて視界が開けた。
迷路の中心にあたる部分だろう、そこには寮の部屋ひとつ分くらいの広さの空間に、手入れの行き届いた青い芝生がきっちりと敷かれていた。
それだけではない。中央にある猫足のティーテーブルには真っ白なクロスがかけられ、上には茶器が揃っている。それを囲むように椅子が四脚。傍の給仕用カートは食べ物を運んできたのか銀のクローシュが見えた。
「え……」
「あら、遅かったわね」
椅子のひとつに腰掛けた赤毛の少女が、言葉とは裏腹に計算通りだというような顔で笑う。そうだ、たしかに彼女は「お茶がしたい」という理由でエリオットたちにルナを探させていたのだ。
「これは、あなたが?」
「あたしはちょっとお茶が飲みたいってお願いしただけよ。ルナが怪我してて今日は従者の仕事お休みだとか、ついでに少し口走ったかもしれないけど」
持ち込まれたテーブル椅子一式と洗いたての真っ白いクロス、それにカートで運ばれる量の菓子。これを用意するには相当な人手がかかる。レイラは何でもないように言ったが、「ちょっとお茶」にしては豪勢だということはルナも分かるはずだ。
レイラの顔の広さが裏方にまで及んでいることには驚かされるが、おそらくこれは彼女の直接の頼みによるものではなく、ルナのためにとこの学校の使用人たちが用意したものなのだろう。ルナが使用人たちにまるで身内のように想われていることは、ここまでの道程でよく理解した。下手をすると当人よりも。
それなのに、思い悩むようなルナの表情は晴れない。
「紅茶は嫌い?それともエイダ様に休暇を言い渡されたのがこたえているのかしら?」
「いえ……そうじゃなくて」
一瞬。
一瞬だけルナがこちらに視線を寄越し、気まずそうに顔を逸らす。
どことなく表情は硬く、この期に及んで目も合わなかった。
「おい」
「…………なに?」
「はぁ……いないほうがいいなら帰る」
せっかくの紅茶も、ルナが楽しめないのなら本末転倒だ。身から出た錆ではあるが、自分がここにいると色々と考えさせてしまうようだし、問題は後日片付けるとして今日のところは退散しよう。
エリオットが踵を返しリーオに声をかけようとすると、何かに力強く制服の袖を引かれた。あまりの強さに危うく体勢を崩しかける。
「ま、待って」
「あ?」
「ごめんなさい。この前のこととか、今日も……迷惑かけたから怒ってる、わよね」
「は?」
ルナに謝られている意味がさっぱり分からず、エリオットは頭に疑問符を浮かべた。
「この前は、故意ではないし寝不足だって言っていたエリオット様を起こすのも気が引けて……直接謝ろうと思っていたけど、なんとなく顔が合わせにくくて」
「ルナ」
「今日も、その、動いていないと落ち着かないから仕事を探していたんだけど、結局あなたたちに面倒をかけてしまったみたいだし」
「分かったから、落ち着け」
制服を掴む力の割に弱々しいルナの声。いつになく揺れる声は、弁明のために普段の何倍もの言葉を紡ぐ。こんなに一度に喋る彼女を見たのは『聖騎士物語』の話をした時以来かもしれない。
しかしやっと分かった。
「おまえは怒ってるわけじゃないんだな?」
「…………なにを?」
顔を覗き込むも、本当に思い当たらないのだろう。柳眉を寄せて首を傾げたルナに、エリオットは安堵の溜め息をついてその場でうなだれた。ルナが慌てて制服から手を離す。掴まれていたところが若干シワになっているがこの程度のことはもはやどうでもいい。
「……そういうやつだよな、おまえ」
「ええと……具合悪い?寝不足?」
「違ぇよ、最近は寝てる」
エイダ=ベザリウスやオズ=ベザリウスへの言動に始まり、下手に関わってしまったせいで学校でのルナの立場と周囲の態度が一転したことや、煩わしい噂が飛び交っていること、それに控え室でのつかの間の同衾も。エリオットにしてみれば心当たりは色々あるが、ルナはエリオットを責めようとしない。
彼女はそういう人間だからだ。
エリオットはおもむろに手を伸ばして目の先にある細い手首を掴む。
「あれはオレが悪かった」
「そんな……休んでいたのに邪魔をしたのは私のほうで、」
「別に居ていい。おまえなら」
覗き込むと、ルナは毒気を抜かれた表情でエリオットを見つめ返した。しばらくぶりに正面から見た翠色の瞳はやわらかい陽光を受けてガラス玉のように輝いている。
掴んだ手は振り払われない。
夢の中ではなく、今度こそエリオットの意思で掴んだ手をルナは振り払わない。それで充分だった。
「……いいの?」
幼い子供のような問いかけ。ルナが恐る恐る口にしたその一言には、言葉以上に色々な思いが込められていた。
「クラスメイトだからな」
「……うん」
風が吹いて、ルナのブルネットの髪がふわりと広がった。その後ろでは事の成り行きを見守っていたリーオとレイラが訳知り顔で肩をすくめていた。
"ベザリウスを憎め"
自分の中で何かが揺らぐ音がする。
"おまえ達に近づいちゃいけないんだ!"
"なんで?"
脳裏に浮かんできた幼い日の声。その答えを出すにはまだ時間が要る。
ふと目の前の光景を見た。
「もう、あなた達さっさと座って。紅茶が冷めてるわよ」
「わー、このお菓子もしかして出来たてなんじゃない?」
「そういやルナ探しに行った時、厨房でなんか焼いてたな」
「……そんなところまで探してくれたの?」
特別なものなんて何もない。場所こそ辺鄙だが、誰のもとにでも訪れる、学生の日常の一片だ。
ここらで少しだけ羽を休めるのも良い。エリオットは荷物を足元に下ろし、昼下がりの外気に晒された椅子の背を引いた。
16.休息
「あたしが取り分けてあげる!」
「僕も手伝おうかな」
「ちょっと待て。おまえらはケーキ崩すのが目に見える」
「……お皿を貸して」
