箱庭聖譚曲
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自らの主人をそっとベッドに横たわらせ、老医師に頭を下げたルナは急ぎ医務室を後にした。
「スノウ、お願い」
言われるまでもないとばかりに、後ろについてきていた白猫がルナの前を走りだす。兄弟猫のキティは今頃エリオットを案内しているはずだ。誰もいない廊下を駆けながら、ルナは無意識に唇を噛み締めていた。
軽率だった。
エイダを危険に晒した上に、エリオットまで巻き込んでしまった。キティをエリオットに追ってもらった判断が果たして正しかったのかどうか、まだ確信を持てずにいる。
アヴィスの使者。紅き死神。バスカヴィルの民。
アリスの言う通り彼らが学校に侵入しているのだとして、その目的も力も、本当のところは誰にも分からない。エイダが人質に取られず放置されていたことを考えると、目的はオズひとり……つまり、10年前と同じく、オズだけが再びアヴィスに落とされる事態は大いにあり得る。
ルナの背筋に冷たいものが走る。
もし、本当にそうだとしたら?
そして、それにエリオットまで巻き込まれていたら?
「……っ」
行き着いた思考に目眩を覚えたルナの少し先で、スノウドロップが「にー」と鳴いて足を止めた。目の前には校舎の出口の一つ。スノウドロップのいる場所は既に屋外だ。
「……裏庭?」
案内されたのは日中も涼しい空気が漂う校舎裏だった。もともと人通りは少ないが、今は帰寮の喚起もあってかさらに静けさを増している。
「その壁に、何かあるの?」
日陰でも花をつける植物の植えられた花壇。その前の壁にスノウドロップが爪を立てている。何か明確な意図を持って、こちらに訴えるように。
ルナは石壁に顔を近づけた。注意深く観察してみると、特定の石のまわりに細く溝が入っている。
ーーガコッ
「……開いた」
その石に慎重に力を加えれば、どういう仕組みか、重い音を立ててルナの足元に膝丈ほどの空洞が口を開けた。
一声鳴いて中に入っていくスノウドロップに続きルナも身体を滑り込ませる。入り口を潜ると、天井はそこそこ高いが、人ひとりがやっと通れる程度の幅の細い通路になっている。
……石と、埃の匂い。
ルナはラトヴィッジ校の起源や歴史を調べた際に読んだとある本の中に、隠し通路の記述があったことを思い出した。しかしそんなもの、本当にあるなんて。
冷えた薄暗い通路を、スノウドロップを追って進む。生き物の気配はなく、床にはうっすらと塵が積もっていた。長い時間……おそらくは何年、何十年という単位で使われていなかった道なのだろう。しかし空気は澱んでいない。一体どこと繋がっているのか。
にー
スノウドロップがルナを振り返り、次の瞬間にはその白い毛なみが通路の暗がりに吸い込まれていく。
「……階段?」
暗所に目が慣れてきてようやく見える、下へ続く階段。ここまでの通路には勾配がなかったから、この階段の先は地下ということになる。
ーーズキンッ
その時、突然強烈な頭痛に襲われ、ルナは思わず石壁に手をついた。
「……っ?」
酸素不足?しかし意識して息を深く吸い込むも、呼吸が苦しいわけではない。
にー
「ううん……大丈夫。案内して」
オズのところへ。エリオットのところへ。
事は一刻を争う。ルナは頭痛の余韻を無理矢理振り払って階段を駆け降りた。
にー
それからどれくらい走っただろう。頭痛は先ほどの一回きり、しかし動悸が段々とひどくなっていく。長い時間走り続けているからではない。走り続けているにも関わらず、オズにもエリオットにも辿り着かない焦りからだ。
一体、どれだけ遠くに……!
にー
この通路がどこまで広がっているのか、どこに繋がっているのか。
スノウドロップの嗅覚や聴覚を疑う余地はない。追っている先にキティがいるのであれば尚更。これが間違いなく最短距離のはずなのだ。
にー
不意に、前を行くスノウドロップの耳がピクリと動いた。
にー
にー
スノウドロップの声に、反響ではない鳴き声が返ってくる。
「……キティ?」
ルナが名前を呼ぶと、暗がりの中から「にー」と返事。
やがて通路の先の開けた空間に近づくにつれて、僅かな塵埃が風に乗って流れ出てくるのが白く目に映る。
「いい?殺しちゃあダメよ?たっぷり焦らして痛めつけてジャックを引きずり出すのよ」
何かが激しくぶつかる音と、聞き覚えのない女性の高い声。はしゃいでいるような楽しげな様子に反して会話の内容は物騒極まりない。
ジャックとは誰なのか。しかも、引きずり出すとは?それが今回の、相手の目的なのだろうか。
そこは思ったよりも狭い空間だった。あるいは地下一帯が隠し通路、隠し部屋であることを考えると、一つの部屋としては妥当な大きさであるのかもしれない。もともとは倉庫として使われていたのか、木箱や板切れがあちこちに積まれている。
その中心に佇む紅いローブの存在と異形の獣の姿に、ルナは目を細めた。
「あなたたちが、バスカヴィルの民……?」
「ルナちゃん!?」
「おまえ、馬鹿っ」
オズとエリオットの声を聞いてひとまずの無事を確認しながら、ルナは正面の敵から目を逸らさなかった。
ローブを纏った見知らぬ人間が三人。奇妙な刺青の大男が二人と、何故か自分と同じラトヴィッジ校の制服を着た年若い女性だ。
これが、アヴィスの使者……?
堂々と白い獅子を従える様は脅威を感じるが、いかんせん若く、何より全員普通の人間に見える。
「あら、そこの女の子もあなた達のお仲間?ーーリオン!」
「ちっ」
飛びかかってくる獅子に対して、ルナは咄嗟に制服に忍ばせていたナイフを抜いた。人間の骨まで断てるだろう鋭い爪が、刃と競り合って嫌な音を立てる。
「リオンに驚かないのね。あなたには見覚えないんだけど」
「……私"には"?」
「失言だったかしら。揃いも揃って、小賢しくてムカつくわ」
女性が挑発的に笑った。ルナは獅子をいなしてさっと周囲を一瞥する。
奥で燭台を持っているリーオに、剣を構えているオズと、同じく剣を持ったエリオット。いずれも大きな怪我は無さそうに見えるが、エリオットは口元に血が滲んでいる。バスカヴィルの民三人を相手に、彼が前線を張ったのだろう。ルナは手を爪が食い込むほどに握り締め、相対する侵入者をひたと見据えた。
「眼鏡の子がナイトレイ家の従者ってことを考えると、あなたはそっちの坊やの付き人ってところ?」
「……」
「最近の若い子って物騒な教育受けてるのね〜。私は好きだけど。男より前に立てる女の子」
獅子を形取るチェインの契約者は制服の女性。あのチェインだけでも勝ち目が薄いのに、一緒にいる大男の一人はルナの身の丈ほどの大剣を担ぎ、もう一人に至っては見ただけでは戦闘能力が分からない。
ここにギルバートやビー・ラビットたるアリスがいたならまだしも、自分たちだけではバスカヴィルの民の撃退は不可能だ。ルナはそう判断した。
……せめてオズ様たちを学校まで逃さなくては。
意識が部屋の奥に無造作に立てかけられている数振りの剣に向いた、その時。
「ーー敵を目前に余所見は禁物ですよ」
「ぐっ……!」
「ルナ!」
真横に振り抜かれた大剣と自分の身体の間に間一髪でナイフを滑り込ませるが、当然ルナは力の差で背後の壁まで吹き飛ばされた。重い上に速い。すなわち乗法によりルナを襲ったエネルギーは、課外授業の演習で生徒と剣を打ち合った時の比ではなかった。
刃の直撃をかろうじて免れたのは、それがルナの師が彼女に叩き込んだ芸当の一つだったからだ。ナイフは既に手から弾き落とされ刃が折れている。もう少しでルナの腹も真一文字に捌かれていたに違いない。
久しぶりの実戦の痛みに咳き込むルナの前を悠々と横切り、獅子のチェインがオズに踊りかかる。
ルナは無理矢理身体を起こして手を伸ばした。
「っ、オズ様!!」
襲われたオズの手から剣が落ちる。
そしてーー…
ーーカッ!!
目を焼く眩い光と、身体が浮くほどの衝撃が小さな空間を満たした。
風化の様子が凝縮されたように、白獅子がオズの目の前で砂のように呆気なく崩れ去っていく。
どこからか生じた鎖に阻まれオズに届かない自分の手と、オズの向こう側でリーオを庇うエリオットの姿を最後に、再び身体を打ち付けられたルナの意識は真っ白に染まった。
……温かい。
微睡みの中で感じる温もりを引き寄せるようにルナは腕に力を込めた。不思議な浮遊感と歩いている時特有の揺れが心地良い。彼が何かを喋っていて、けれどルナが身じろいだことで続きをやめてしまったと声が、そして身体から直接伝わる振動が途切れたことで理解する。
続けてくれても良かったのに。彼の声は耳に残るし、快い。
「……エリオット、様?」
「起きたか」
「ここ、は……」
ルナが顔を上げると、鼻先をプラチナブロンドの髪がくすぐった。自分の腕が背中側からエリオットの肩に回され、足先は宙ぶらりんーーどうやら自分は彼におぶわれて移動しているらしかった。
「ここは裏の林の中だよ。あの赤い人たちは追い払えたみたいだし、校舎も近く見えるから、もう少し歩けば学校に帰れる」
「ルナちゃん、大丈夫?」
オズが心配そうに下から覗き込んでくる。服はおろか髪や顔まで煤だらけだ。背負われているルナのほうが目線が高く気が引けるが、そんなことよりも、そこにオズがいるということにルナは心底安堵した。
「……ご無事で」
「うん。ルナちゃんと、エリオットとリーオが助けてくれたおかげでね。ありがとう」
「そんな、私は何も……お怪我は?」
「オレは平気だよ。ルナちゃんこそ……」
「おい、降りてからやれ」
「……ごめんなさい」
オズの声が容赦なく遮られる。性懲りも無くまた世話をかけたからだろうか、エリオットはひどく不機嫌そうだ。今回は目的地まで距離があるからか横抱きとはならなかったようだが、ルナも二度目があるとは思わなかった。
エリオットの背中から降りたルナは、地面に立つ自分の足をじっと見つめた。
「どうした」
「……いえ」
「おまえ、」
「なんでもないわ。早く帰りましょう」
先ほどの光……おそらくはオズの力で、相手のチェインはこちらの世界に完全に干渉できなくなっていた。立て直すのには時間が要るはずだ。彼らが姿を消したとすればリーオの言う通りそれは一時的な撤退ではなく、今回の騒動はここで一旦幕引きということになるだろう。
もはや背後に脅威は感じないが、しかし学校でオズを探し回っている三人は気が気でないに違いない。ルナは早足で歩き始めた。
それを見たリーオがため息をつく。
「せっかくなら学校までおぶって行ってあげればいいのに」
「なんでだよ!」
「なんでもなにも、エリオットは剣を持ってるし僕が背負ってもよかったのに、自分がやるって聞かなかったのは君じゃ……」
「だー!うるせえ!言うな!」
「……そういえばエリオット様、荷物は?」
「置いてきたに決まってるだろ、緊急事態だぞ」
「……あなた、荷物のついでって啖呵を切ったのに?」
「誰がたかが荷物と身の安全を天秤にかけるか。あんなもん真に受けるな!」
「冗談よ。……ありがとう」
エリオットはフンと鼻を鳴らして真っ黒な剣を肩に担いだ。
「だいたいな、おまえなんで一人で追ってきた?もっと周りにいる他人を頼れ。独力でなんでも済ませようとする癖を直せ。それにいつも危険なほうの選択肢を自分にあてがうのもやめろ。あとは……」
「……まだあるの?」
「今までの行動を省みるんだな」
返す言葉もなく粛々と説教を受けながらもエリオットと並んで歩くルナを見て、オズがぽつりと言葉を漏らす。
「ルナちゃんとエリオットって……仲良しだね」
「はあ!?」
「……そうですか?」
ルナとエリオットは二人してオズを振り返って、それからお互いを見た。意図せず顔を見合わせる形になり、どこか気まずそうに目を逸らす。
「その……クラスメイトなので」
「あ、そうなんだ」
「はい。リーオも」
「そっか。そういうの聞くと、学校羨ましいって思うなー。オレは家庭教師だったからさ」
彼ほどの階級の家の子供が家庭教師に一通りの教養を習うのは別段珍しいことでもないが、内容そのものよりも過去形で語られた事情がルナには寂しく思えた。
「……今からいらっしゃっても良いのでは?」
「あはは、それも良いかもね。転入するとして、ルナちゃんと同級生くらいにはなれるかなあ」
「……勘弁しろよ、こんな世間ズレしたお坊ちゃんと……」
大きなため息。そんな話をしているうちに、校舎が目の前に見えてくる。
「ああそういや、おまえの名をちゃんと聞いていなかった」
「え?」
ラトヴィッジの敷地に入り、階段に足をかけたルナは前を歩くエリオットを仰ぎ見た。
隣にいたオズが顔を強張らせる。
「え…」
「詳しい事情は後にしても、とりあえず名前くらい教えろよ」
「……」
オズは話していなかったのか、などと、口が裂けてもルナには言えなかった。ルナが出会って何日もエリオットに告げられずにいたことだった。オズに至っては今回の騒動の最中それどころではなかったのだろうし、エリオットは"詳しい事情は後にしても"躊躇なく他人に手を差し伸べる。それが侵入者であっても、身元が分からなくても。
常々、エリオットの抱えている事情と彼自身の持つ善性は噛み合っていないとルナは思う。前者は生まれながらに彼に与えられた環境、後者は歩んできた道程で彼の中に根付き育ったものだ。その矛盾に誰よりも苦しんでいるのは、他でもなくエリオット自身だろう。
家の名誉のために、ベザリウスを憎むこと。
エリオットのナイトレイ家を誇りに思う気持ちも、ベザリウスの栄光が貴族社会の闇の部分をさらに暗くしている事実も、ルナには否定できない。反面、100年前の出来事を発端とした恨みの矛先が現在のベザリウス家の人間に向くべきかと言われたら、そんなはずがないとも思っている。
しかしルナが理解できていないだけで、貴族が家を継ぐというのはそういうことなのだろうか。もしかすると、オスカーや、エイダや、目の前の15の少年も、すべて承知の上でこの上流社会を生きているのかもしれない。
だとすればこの確執は、この先の代でも。
けれど、それは……
「オレはーー」
「オズ!!無事だったか!!!」
覚悟のこもったオズの声は、彼自身の従者によって無情にもかき消された。
オズに駆け寄るギルバートの姿が見えて、ルナはようやく息をついた。全員で学校に戻ってこられたことに加えて、オズがちゃんと仲間と合流できたというのが大きい。
直前までの会話の緊張感も騒ぎの中でやや緩んだものの、やはり事態はそう好転ばかりするはずもなかった。
「エリオットのこと…嫌いにならないであげてね」
「え…?」
「君が何かしたわけじゃないって、彼にもちゃんとわかってるはずなんだよ」
オズの正体を知ったエリオットは彼がオズ=ベザリウスであることを表面上は否定していたが、10年前の失踪が死亡として処理されたことなど、四大公爵家ほどの立場の人間であれば裏があることを知らないはずがない。まして彼はその"裏"にあたる出来事に今しがた巻き込まれたばかりだ。突き放すような態度を取ってはいたが、少なくともオズの言が嘘ではないことは伝わっただろう。
しかしオズと握手を交わすリーオをよそに、エリオットは一度もこちらを振り返らずに行ってしまった。
「ルナちゃんも、改めて、助けてくれてありがとう」
「本当に私は何も……それより、エリオット様のことですが」
「ああ、うん。大丈夫。リーオもああ言ってたしね。エリオットって……やっぱりいつもあんな感じなのかな?」
「いえ、その……」
「エイダがあいつに話しかけた時も、さ。椅子は蹴倒すし怒鳴るし、女の子にその態度はどうなんだって思ったけど」
ルナは先ほどのオズとエリオットのやり取りと、エイダとの中庭での出来事を重ねた。彼は確かに"ベザリウス家"が絡むと露骨な態度を取る。決してそれが彼の全てではないのだが。
「良いやつなのは、分かったよ」
「……はい」
「エリオットにもきっと色々あるんだよな。あいつにとって、オレは……」
「……オズ様」
目を伏せたオズに、ルナは言った。
「私にとってオズ様は他ならぬ主君エイダが待っていた、唯一の兄君でいらっしゃいます」
オズが、たとえば今、エリオットその人を見て"良いやつ"と言ったように。
彼が彼たる所以は、英雄の末裔に生まれたことにあるのではなく、また誰かの恨みを買う家に生まれたことにあるのではない。
「エイダはあなたを真似て私を"従者"と呼ぶのですよ」
女使用人であるルナが侍女ではなく従者と名乗るのは、幼いエイダが自身の側近を"従者"と呼びたがったからだ。オズとギルバートを間近で見ていた彼女は、二人の絆に特別な想いを感じていたのかもしれないし、単に大好きな憧れの兄の真似をしたかったのかもしれないと、以前オスカーから聞いた。
オスカーが、ギルバートが、エイダが。こんなにも彼を想い待っていたのは、彼がベザリウスだからではない。
エリオットもきっと、心の底では分かっている。
「そっか」
オズはどこか照れくさそうに頬を掻いた。
「エイダが寂しがって泣いてないか心配だったけど、ルナちゃんが一緒にいてくれたなら、大丈夫だね」
「……泣いていましたよ、エイダは」
「はは。じゃあ泣いてる妹の隣に、君がいてくれてよかった」
あの泣いて蹲っていた少女が立ち上がったのは、エイダの持つ芯の強さ故だ。兄やギルバートが傍からいなくなってしまった寂しさだって、ルナが埋められたとは思っていない。
今回の騒動も、自分以外の人間が同じ立場に立っていたならばもっと望ましい、誰も危険に晒されないような結果になったのではないか。そんなことばかりをぐるぐると考えている。
けれどルナはオズの言葉を自身の謙遜で否定する気にはなれなかった。
「エイダをよろしくね」
そう言って笑ったオズの顔は、ルナの好きな人にとてもよく似ていた。
12.邂逅
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