箱庭聖譚曲
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「顔を上げてください、美しいお嬢さん」
「……は?」
頭を下げていたルナは呆気に取られて思わず目の前の少年を見た。近くで改めて目にするかんばせは、大人になりきらない年齢ならではの危うさも相まって美貌と形容するに足るものがある。先ほどの悩んでいた表情などを思い出すと、まさに薄幸の美少年だ。
それが、そう、まるでオスカーを思い出させる振る舞いで恭しくルナの手を取り、にっこりと微笑む。
「オレの名前は確かにオズ=ベザリウスですが……オレとエイダの関係を知っている、君は?」
「あ……ご挨拶もなく申し訳ありません。私は……」
「おいそこの。私の所有物から手を離せ。おまえのことはどうでもいい。そんなことより……」
「どうでもよくないよー」と言いつつ、オズはルナの手を離して黒髪の少女に向き直った。ろくに自己紹介もできていないが、目下敵意のないルナより少女の機嫌が優先されたらしかった。
オズの手は温かかった。彼は生きているのだ。離された体温の名残にそんな当たり前のことをしみじみと感じていると、ルナを「そこの」呼ばわりした少女が驚くほど低い声で言った。
「オズ。おまえは……大馬鹿者だな……!」
彼女は腕組みを解いたかと思えば、柔らかそうな白い手でオズの髪をわし掴む。
「おまえは私に言っただろう!私は私のままでいいのだと!」
そのせいか、見つけた時からどこか翳り俯きがちだったオズの顔が、上を向いた。
「あれは嘘か!?」
「いや……」
「私は……そのだな……割とう、うれしかった……ぞっ!!」
頬を赤らめて照れくさそうに少女は言った。語気は強いが、どうやら彼女を動かしているのは怒りの感情というわけではなさそうだ。
「なのにおまえは、どうしてそれを自分に言ってやることが出来ないんだ?」
ルナは少女が何者なのか知らない。オズと少女の間に何があったのかも分からない。けれど少女の発する言葉は、不思議とルナの胸にもスッと入ってきた。
「それは……」
「口答えするなこのクズが!!」
「え」
止める間もなくオズに向かって繰り出された少女の前蹴りにルナは首をすくめた。
足蹴にされ、髪を掴まれ、挙げ句固いローファーで蹴り上げられてもオズは怒るそぶりも見せない。オズを相手にそのような仕打ちができる身分の人間なんているとは思えないが、この少女はいったい……
「いいか!?おまえは私の契約者だ!そのことに誇りを持つがいい!」
……契約者?
その言葉に引っ掛かりを覚えて、オズと少女を見やる。それは四大公爵家が中心となって運営されている治安維持組織パンドラの本来の姿を知る者にとって、アヴィスの異形の力であるチェインと契約した人間を指す単語だった。
オズ様が契約者?"私の"ということは、彼女は……
どう見ても人間にしか思えない少女をまじまじと観察していると、廊下からぱたぱたと耳に馴染んだ足音が聞こえてきた。
「オズ!エイダ!」
久しぶりに聞く朗らかな、それでいて渋みのある低音に振り返る。
白い子猫が、黒の片割れを見つけ駆け寄ってくる。
叔父と共に扉から姿を見せた金色の髪の少女の、緑色の瞳が瞬く様子を目の当たりにして。
「お兄……ちゃん……?」
今日のことを、彼女に出会った時のように、ルナは生涯忘れないだろうと思う。
「ええっ、みんなが騒いでた不審者って叔父様達のことだったの?」
やはり侵入者の報は耳に入っていたらしいエイダが驚いたように言うと、オスカーは久々の姪との対面に分かりやすく目尻を下げた。
「いやー、お前の顔が見たくなってなー」
「もう、しょうがないんだからー」
「……オスカー様」
「ルナも、元気そうで何よりだ」
幾分冷静さを取り戻したルナは、エイダの無事と兄妹再会への安堵とは別に、年甲斐もなくラトヴィッジの制服姿で現れたエイダの叔父オスカーと、ベザリウスの使用人としての先達の青年に呆れてみせた。
「……ギルバート先輩まで」
「オレは何も知らずに連れてこられたんだ!」
「……白い服も似合っていますよ」
「聞いてくれ!」
そういえば侵入者は制服姿だとレイラから聞いていたことを思い出し、ルナは気遣いの精神でギルバートから目を逸らす。
聞かずとも今回の仕掛け人がオスカーであることは明白だった。オスカーを呼ぶルナの声には諌める響きがあったが、当人は悪びれた様子もない。相変わらず突拍子もなく、そして豪快な人だ。
彼はルナの肩に手を置いてオズを見た。
「オズ。この子はエイダの従者、ルナだ」
「そっか、君が……」
「ルナ=ルーンフォークと申します。よろしくお願いいたします、オズ様」
「よろしくね、ルナちゃん。こんなに可愛い子が従者だなんて、さすがオレの妹だなぁ」
「今日はおまえに会いに来たのもあるんだからなー、ルナ」
オスカーにかき混ぜるようにして撫でられた髪を手櫛で戻しつつ、ルナは嘆息した。彼に巻き込まれたら周りは否やと言えるはずもない。良くも悪くも。
一方、エイダは彼らの服装を気にしたふうもなく、普段と変わらない様子で兄の元従者に話しかけた。
「ギルも、こうしてお話しするのは久しぶりね」
「はい……そうですね」
エイダに対する丁寧な話し方はルナが初めてギルバートに会った時と変わらない。彼はナイトレイ家の養子の身分を得て長いはずが、未だベザリウスの人間に使用人然として接している。元の身分がどうというより受けた恩義を忘れない律儀な性格故だろう。オズを救うためとはいえナイトレイ姓になった後ろめたさも恐らく理由のひとつだ。
オスカーに流されるほかなかった彼も、この侵入者騒動の被害者と言えなくもない。
「エーイダ?叔父さん達な?この手紙の追伸について聞きたいんだけどな?」
「え……手紙……!?」
親しげなエイダとギルバートの様子を見て血の気を失くしたオスカーが、震えてる手でエイダ愛用の柄の封筒を取り出した。それに何故かオズも不穏な空気を醸しつつ身を乗り出している。
ルナが知っている限り、エイダが叔父に宛てて書いた最後の手紙は、オズ帰還の知らせるオスカーの手紙が届くより前のものだ。追伸の内容は、たしか……
ーー好きな人ができました。
「そ……それは……」
エイダは、ギルバートをちらりと見て、顔を真っ赤に染め上げた。
さすがの情緒に疎いルナでも思い当たることがある。
"私……私、好きな人がいるの"
「……エイダ。本当に?」
「違うの、ルナ、その……!」
ギルバートとエイダはオズ不在の10年という時を等しく過ごした同志である。ベザリウスに使用人として仕え始めてしばらく経った頃ギルバートを紹介されたルナも、二人がお互いの存在を支えにしていたこと、彼がベザリウスを避けてもなお細々と個人的な交流を続けていたことは知っている。今や身分も、性格も、ルナに反対する余地はないのだが。
はたから見ればいつもの淡白な顔つき、しかし瞳にいつになく真剣な光を湛えながらルナがエイダを問い正す隣で、鬼の形相のオズとオスカーに詰め寄られたギルバートが逃げ出した。
「人の話を聞いてったら!」
「コラ!オズ!!私を置いて行くな!」
全力疾走のギルバートを追って駆け出す面々。賑やかだった教室が、数秒で無音になる。
「……」
好きな人、か。
それを初めて聞かされた夜から時折自分を襲いくる感情。ルナは自分でも飲み込み切れない空虚さを抱えながら、ゆっくり足を踏み出した。
しばらく歩くと、石造りの回廊の角で座り込む制服姿の男女を見つけた。青年は不自然にしきりと辺りを見回し、少女は不満げに頬を膨らませている。
「もう追手は行ったようだな……。よし、早くオズ達と合流して帰るぞ!」
「オズ様から逃げたいのか合流したいのか分からない発言ですね、先輩」
「追手というのはその辺を練り歩いている教師達のことだ!」
ああ、と思い当たったルナは納得した。自分は検問に掛からないのですっかり失念していたが、彼ら、特にギルバートは教師に見つかれば制服姿を誤魔化せるか怪しい。オスカーに至っては即連行だろう。
「ルナはエイダ様のほうへ行かなくて良かったのか?」
「……積もる話もあるでしょうから」
10年ぶりの再会だ。水入らずの時間があっても良いと思う。
それに、聞きたいこともあった。
「どうして普通に会いに来なかったんですか?」
今回、オスカーの主目的ははっきりしている。アヴィスから帰ってきたオズとエイダを引き会わせることだ。エイダの手紙が口実だろうというのはルナでも分かった。
それにしても方法があまりに突飛すぎる。
「オズに気分転換をさせようというオスカー様の計らいだ」
「……まだ、パンドラの取り調べが続いて?」
「アヴィスのこと以外にも……オズ自身にも色々あった。軟禁状態とはいかないまでも、まだ当分は終わらない」
「そうですか……」
パンドラ独特の閉塞感を思い出して目を伏せる。融通がきかない者の集まり、というわけではないのだが、組織の大きさや扱っている情報の種類の手前、色々と決まり事や制限が多く、中には保守的な人間も過激な人間もいる。
パンドラ所属となって数年経つルナですら顔を出すたびに方々から小言が飛んでくるのだ。望んで問題を起こしたわけでもないオズが長期間拘束される環境として好ましいとは思えないが、やむを得ない理由がある。
だからこそ、オスカーの強引な気分転換が敢行されたのだろう。
「オズの件のレポートは知っている通り持ち出し厳禁だ。詳細は本部で確認してくれ」
「構成員にも制限がかかっているのでは?」
「おまえならどうにでもなるだろう」
貴族ではない上にチェインと契約しているわけでもない。パンドラの中で最も低い立場の構成員であるルナにはアヴィスの根本に関わる資料の閲覧は難しい。
個人の力では。
「では、彼女は本当に……」
「ビーラビットのアリス。……オズと契約したチェインだ」
ギルバートは苦い表情で告げた。親しげな様子ではあったものの、やはりそれだけの関係とはいかないらしい。
オズがパンドラに拘束されているやむを得ない理由の筆頭が、恐らく彼女だ。
オズはベザリウス家の次期当主としてパンドラに入ることになっていたはずだが、それより前にアヴィスに落とされたと聞いている。封血鏡を持っていない……つまり、あくまでパンドラを法とするならチェインとの契約は違法なものである。
それに、彼女の姿も。人間にしか見えないチェインをルナは見たことがないどころか、過去に例を聞いたこともなかった。間違いなくオズと彼女の契約はパンドラの手に余る。
「アリス様?」
その彼女だが、先ほどから妙に大人しい。教室でオズと話しているのを見た際はもっと活発な印象を受けたというのに。
「なんなんだ」
その声音は表情に違わず不機嫌なものだった。
「あの女、私の所有物に許可なく触って。オズもオズだ!私を忘れて、置いて行くなど……」
思えばアリスは、ルナがオズに触った時はここまで過剰に反応しなかった。エイダがオズにとっていかに大きな存在なのか、見ていて理解したのかもしれない。
少女の隣に静かに腰を下ろす。
「……寂しいですか?」
「うるさい!」
……ああ、そうか。
口にして初めて気付く。ルナの中にも同じ気持ちがあることに。目の前の少女と、心の隅で誰にも気づかれないよう小さくうずくまっている自分が重なって、今までよく見えていなかったそれの輪郭が明瞭になり始めた。
オズとエイダが再会した時。エイダに好きな人がいると知った時。大きな喜びの裏側で、この感情が静かに息をしている。
ーー離れて、行かないで。
「なんなんだ。オズも、あの女も」
「家族、ですよ」
「かぞく」
「何をしても切れない縁のことだそうです」
「……そんなものは知らん」
「私もです」
そこで初めてアリスはルナを見た。
大きな紫色の瞳が自分を捉える。
「知らないのか、おまえも」
「本当の家族がいた時のことを覚えていません」
「そうか……」
それ以上、どちらも聞かなかったし、語らなかった。
「おまえ、名前は?」
「聞いていなかったのかバカウサギ……」
「黙れワカメ頭!」
今更ぞんざいな扱いを気にするルナではなかったが、教室で会った時の「おまえのことはどうでもいい」という言葉は本当だったようだ。興味が無いことにとことん無頓着な様は、いっそ清々しく感心してしまう。
「ルナです。アリス様」
「アリスで良い。さっきから、その"様"とやらはなんだか痒い!!私とおまえが違う場所にいる人間みたいだ!!」
「実際、違う場所にいるんですよ」
彼女は見方によってはパンドラにとって有益な存在だ。なによりオズと対等に接する少女を、ルナは立場上敬わないわけにはいかない。
そんなルナの様子にアリスは憤慨した。
「愚か者が、人間の尺度で私を測るな!おまえは今こうして目の前にいるのに、どうしてわざわざ距離を置こうとするんだ!」
業を煮やしたように立ち上がり、なぜこんなに簡単なことが分からないのだと、真っ直ぐ苛立ちをぶつける。
認識の齟齬の擦り合わせ。それはどんな人間より正しい言葉の使い方だった。
「こう言えばいいのか?ーーそんなの"寂しい"だろうが!!」
その素直な感情の発露の、なんて眩しいことだろう。
他の何者でもなく"自分"として相手に向ける声が。より多くのものに雁字搦めにされても何にも縛られまいとする心が。とても手の届かない尊いものに思えて、ルナは目を細めて少女を見上げた。
ルナは彼女に似た人を知っている。なにせつい最近怒られたばかりだ。
「では……アリス」
「よし、ルナ。早くオズを探して……」
アリスは突然、なにかに気づいて顔を跳ね上げる。ルナが「アリス?」と首を傾げ、その様子を訝ったギルバートも彼女を見た。
「どうした……?」
「この感じ……」
アリスの表情がみるみる硬くなっていく。
「なぜ……やつらがここに……!?」
10.再会
遥か遠く校舎の階上から、物悲しいピアノの旋律が聞こえていた。