箱庭聖譚曲
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ラトヴィッジの昼下がりは穏やかだ。長めに時間がとられた昼休みを、生徒たちは各自思い思いに過ごす。
午前の授業が終わり昼休みの時間になると、ルナはエイダを教室まで迎えに行く。一緒に昼食を摂り食後に彼女に紅茶を淹れることも、ルナの日課のひとつだった。
エイダは数人の友人とランチの席を囲むことが多い。主人を取り巻く同級生たちは常に大らかで懐深く、朝や昼休み、放課後に律儀に迎えに現れるルナを友人のように、または妹のように親しんで迎えてくれる。
「ルナさん、こっちに座って。髪を梳いてあげるから」
「美味しいケーキのお店が下町にあるらしいのだけど、今度エイダ様と一緒にいかが?」
「これ、お父様のお土産。たくさんあるから、よかったらもらってくださいな」
「……ありがとうございます」
「「かわいい〜!」」
カフェテリアの一席に座らされたルナは、髪を梳かれながら美しく包装された菓子を手のひらに乗せ、やや困惑していた。こういう扱いは何度されても慣れない。ままごと用の人形にでもなったような気分で、嫌な気持ちではないにせよ落ち着かないのだ。
助けを求めるように主人に視線を向けるも、彼女は自身の友人たちと同様、にこにこと微笑むばかり。その足元には開け放たれたテラスから入り込んだ白と黒の子猫二匹が大人しく座っている。
彼女たちはルナが周囲からどんな目を向けられていようと一向に気にする様子がない。淑やかでありつつも自由奔放で、独自の価値基準で物事を判断する。貴族社会においては風変わりな令嬢たちだ。
類は友を呼ぶと言うが、エイダの周囲にはこうしてしなやかで気性の温厚な人間が集まるように思う。エイダが彼女たちに選ばれた結果なのか自然と出来上がった輪なのかは定かではない。しかし彼女たちが家名の栄光にあやかるためにエイダを取り巻いているわけではないことは確かだ。
そういえば、ルナが最初に眠れなくなった夜……あの日以来一度も話は聞いていないが、エイダの好きな相手というのも、こうした穏やかでエイダ自身を見てくれる人だと良いのだが。
「ところでルナさん、最近よくエリオット様と一緒にいると噂ですけれど、本当?」
唐突に尋ねられ、ルナは一瞬答えに窮した。
「……お話しする機会が度々あったのは事実です」
「……それで?」
「……それだけです」
「そんな!」
「でもルナ、決まった人とよくお話しするのは珍しいよね?」
エイダが笑いながら小鳥のように首を傾げると、友人たちがやや興奮気味にルナに詰め寄った。
「そうですよ!愛読書について熱く語り合っているだとか!」
「貸し出し図書返却の催促ですね」
「毎朝一緒に登校しているとか!」
「私は毎朝エイダと登校しています。彼らとは顔を合わせれば挨拶する程度です」
「怪我をしそうになったところを颯爽と助けてもらっただとか!」
「たしかに保健室まで助けは借りましたが……」
エリオットは立場も言動も何かと目立つ。噂程度は仕方ないと思うが、なんだか盛大な尾ひれが付いているようだ。どの噂も若干身に覚えがあり事実無根と否定し切れないところがタチが悪い。
「でも、ルナさんもそうですけれど、エリオット様もあまり他人と積極的に距離を縮めるお方ではないでしょう?」
「リーオ君が入学する前は一人でいることが多かったものね」
「一人……」
入学したばかり頃のことはあまりよく覚えていない。あの頃はルナは自身のことで精一杯で、周囲を見る余裕などなかったからだ。
けれど、かつてはエリオットも……いや、エリオットのほうこそ一人だったのか。
「それがルナさんとは気兼ねなくお話しされるんだもの。噂にもなりますわ」
「それは彼が、私がエイダの従者であることを知らなかったからで、最近は……」
ルナはふと口をつぐんだ。
最近は、どうだというのだろう。
数日経って足の内出血もすっかり引いたが、あれ以来まだエリオットとは話せていない。話しかけるな、というエイダへの言葉が思い出され、ルナも以前のようには踏み出せずにいる。
「最近は?」
気付けば至近距離に揺れていた主人の眼を見返して、ルナは頭を振った。
「……なんでもないわ。そういえばエイダ、今日は風紀委員の巡回の日じゃなかった?」
「あ、そうだった!私行ってくるね」
「気をつけて」
慌ててティーカップを置いたエイダは二匹の猫を連れてぱたぱたと校舎に向かった。風紀云々よりも転ばないかどうか心配しつつ、ルナはその背を見送った。授業同様、風紀委員の仕事もルナは付いて行かない。委員会はエイダの身の回りの世話ではなく、エイダ自身の選んだ仕事だからだ。頼まれれば手伝うが、線引きはしている。
その場からエイダがいなくなったところで卓の話題はカフェテリアのデザートに移っていき、ルナは内心安堵した。あれ以上掘り下げたところで彼女たちの欲求を満たせる類の話ではない。
それよりも。
……気に病ませてしまった、だろうか。
ルナは先ほどのエイダの瞳を思い出した。それから自分の発した言葉を反芻する。
"それは彼が、私がエイダの従者であることを知らなかったからで"
あれではルナが"エイダの従者だから"エリオットと話せていないと言ったようなものだ。エイダはエリオットに決して悪い感情を抱いていないが、彼に嫌われている自覚がある。それがなかったとしても、少なくとも従者が主人に聞かせて良い言葉ではなかった。自分の浅慮な発言にため息が出る。
今、不安と葛藤しているのはエイダのほうだというのに。
エイダの叔父オスカー=ベザリウスから手紙が届いた日、ルナはエイダに「屋敷に帰る準備をしましょうか」と提案した。
エイダは笑って首を振る。
「お兄ちゃん、今ベザリウスにはいないんですって。それに学校を休んではダメだからって、叔父様もわざわざお手紙をくれたのだろうし」
「……それもそうね」
紅茶の溢れたテーブルの上を片付けながら、ルナは自分の勇み足を思い直した。
10年前に突如消えたーーアヴィスに落ちたベザリウス家の嫡男が、10年前と同じ姿で戻ってきた。どこをとっても普通ではないその事象の中心にいる彼を、そのまま普通の生活に戻すわけにはいかないだろう。
普段は大らかなきらいのある主人のほうが数段冷静だった。
「それなら、返事を書いたら?」
「うん……そうね……」
否。冷静とは違うようだ。
「……エイダ、怖い?」
「わ、分かる?」
「なんとなく。でも、どうして?」
彼女は怖がっていた。あんなに兄の帰還を待ち望んでいたのに、いざそれに触れられる距離まで来て、手を伸ばすことを躊躇うほど。
「お兄ちゃん、10年前のままなんだって」
「うん」
「きっと、不安だよね。みんなお兄ちゃんを残して10年も先の世界にいて」
「うん」
「私まで」
「……エイダは、優しいわね」
「違うわ!結局私は、嫌われたらどうしようって……お兄ちゃんが、今の私を好きになれなかったらどうしようって、そんなことばっかり」
この世界で全ての人間に平等に過ぎるはずの時間に、ひとり取り残されてしまった彼女の兄。
エイダはそんな兄が自分を見てどんな気持ちになるだろうかと考えて、足踏みをしているのだ。
悲しい気持ちにならないか。
寂しい気持ちにならないか。
自分は大好きな兄に妹として受け入れてもらえるだろうかと。
「エイダは、15歳のお兄様は嫌い?」
「そんなこと……っ」
「会いたくない?」
エイダは頭を横に振った。
当然、確かめるまでもなく知っていた。
「なら、大丈夫。……あなたのお兄様だもの」
ルナは椅子に座したエイダの横に膝をつき、まだ叔父からの手紙を大切そうに抱える手を握った。
確かめるまでもなく、大丈夫だと知っていた。
ルナがエイダの傍にいた9年間が、確かにそれを裏付けている。
オズ=ベザリウスがいなくなってどれだけ時間が過ぎても、エイダは寂しがった。我慢は覚えても、決して涙が枯れてしまったわけではなかった。忘れてしまった方が心は楽だったに違いない。周りと同じように、死んだことにして兄を諦めてしまった方が。
けれどエイダは一度だってそんな風に思ったことはないだろう。彼女は兄との思い出を忘れないように全部抱えてここにいる。それは誰でも持てる強さではないとルナは思う。
そんな彼女を、彼女が語った優しい兄が、嫌うはずもない。
「ありがとう、ルナ」
けれど言葉だけでは当事者の不安を拭いきることはできなかったと、エイダの気丈な微笑みを見て悟った。ルナは己の非力を感じざるを得なかった。
やっと主人の兄が帰ってきたのだから、自分のことで彼女の気持ちを煩わせてはならないというのに。
ルナが肩を落としつつ綺麗に空になったティーセットを片付けようとしたその時、聞き慣れぬ音が校舎中に響き渡った。
ーーピーッ!
……笛?
ルナは動きを止めて眉を顰めた。
耳障りな、聞くものの焦燥感を駆り立てる音。
「これは……緊急時の?」
誰かの呟きと同時に、カフェテリア内にいた数人の監督生が声を上げる。
「この場にいる全員、速やかに寮室に戻り待機するように!」
「決して一人で行動するな!午後の授業については追って連絡する!」
監督生の指示より前にルナは駆け出していた。カフェテリアの入り口で顔だけ振り返り、エイダの友人たちが連れ立って席を立ったことだけ確認する。ここから女子寮は遠くないし、彼女たちは比較的安全だろう。
笛の音は校舎側から聞こえた。ルナは思わず眉を顰める。
騒ぎに混雑する前に扉を抜けると、すれ違いざまに制服の首元を掴まれた。咄嗟にその手首を掴み返せば、視界に鮮やかな赤毛が映る。
「……レイラ」
「さっき校舎でエイダ様を見たわ」
「だから急いでいます。離してください」
「侵入者ですって。制服姿の4人が、一階の回廊で目撃されてる。被害は今のところ出てない」
襟を掴まれたまま耳打ちされる。明らかに笛からだけでは得られない情報。
「……ありがとう」
「あんまり焦らないことね」
監督生より先にこの状況の詳細を把握するなど、顔が広いだけでなく、昼休みに誰がどこにいるのか行動パターンを熟知していなければ出来ない芸当だ。ルナの視野が狭まっていることもすっかり見通されている。
聞きたいことは色々とあったが、今はそんな場合ではない。
あっさりと離された手を一瞬握り返して、ルナは再び床を蹴った。
*
瞼の向こうの光を遮るように、あるいは眉間に刻まれた皺を隠すように開いた本で目元を覆い、エリオットは御用達の控え室でソファに身を投げ出していた。
「そんなに凹むほど気にするなら、いつも通り挨拶くらいしたらいいのに」
傍でまた本を読んでいるのだろうリーオが仕方なさそうに言った。
休んでいる今この時すら虫の居どころが悪いのは、ここ最近頻度を増してきた悪夢のせいばかりではない。
「凹んでねえし、なんのことだよ」
「知ってる?ミス・ルーンフォーク、最近はよく上級生に声をかけられてるらしいよ。彼女は6学年の教室に毎日顔を出すし、なんでも話しかけやすい雰囲気になったとかで」
「だから、それがなんだ」
「ううん。僕らだけの特別も、悪くなかったよねって話」
「……そんなわけないだろ」
ここ数日で話すことのなくなった件の少女を思い出す。
人形のようだとクラス中から揶揄されていた彼女は、読んだ本の感想も語るし、不得手な授業科目に悩みもするし、時折声を上げて笑った。彼女を孤立させてきた今までがおかしかっただけで、本来はあんなにも普通の少女だ。
そのことに気付いた周りの人間が、彼女が自身の心を守るために繕ってきた冷たい無関心の装いを解かせるのなら、彼女は少しずつでも周囲と関わるべきだ。ただ、こんなことは今の自分に言えた義理ではない。
"知るか!オレは、そいつと関わるつもりはない!!"
エイダ=ベザリウスに言い放った時の、ルナの表情が脳裏をよぎる。おそらくはそれも精神的な自衛のためなのだろう、あの瞬間、彼女の顔からは感情がさっと抜け落ちた。かつてのクラスでの嘲笑の的になっていた、人形のような無表情に戻ったのだ。他でもない、エリオットがそうさせた。
ベザリウスを憎め。
エリオットはそう言われて育ってきた。ベザリウスの影で、自分の家族は未だ心無い周囲の扱いに苦しんでいる。
これでいい。
そもそも、自分たちはもとは交わることのなかった線同士だ。
「だから、そんな顔するくらいなら言わなきゃ良いのに」
……本読んでたんじゃねーのかよ。
頭の中がごちゃごちゃとしすぎて、自分が今どんな表情をしているのか分からない。本で顔の半分が隠れているから、リーオにだって見えているとは思えない。
ケラケラと笑う従者にだんまりしていると、遠くから笛のけたたましい音と廊下を複数人が駆ける足音が聞こえてきた。遅れてなにやら切羽詰まったような生徒たちの声もする。
「なんだ?騒がしいな」
エリオットが言うと、リーオがおもむろに立ち上がり、演奏室ではなく廊下に直接繋がる扉を開ける気配がする。外の騒音がより鮮明に耳に届き、色々と思考して靄がかかっていた意識がはっきりとし出す。
少ししてその辺を通りかかったのだろう生徒と数言やり取りしたリーオは、ソファに横になったままのエリオットを振り返って告げた。
「どうやら、何者かが校内に入りこんだようだよ。エリオット」
*
国が誇る広大な校舎で人ひとり見つけるのは骨が折れる。普段の巡回であればある程度エイダの行動に予測もつくが、今は緊急事態だ。
……よりによって、エイダが巡回の日に侵入者なんて。
彼女と一緒に出て行った二匹は鼻が利く上に賢い。上手く侵入者を避けてエイダを寮まで誘導してくれるのが理想だ。しかし賢いが故に、風紀委員の仕事中に不審者を見つければ追うことも考えられる。こちらは最悪のシナリオだった。
昼間の学校に侵入者。それも4人。遭遇した生徒がいるにも関わらず被害が出ていないということは無差別で何かを企んでいるわけではない。それは良い。
侵入者には目的があるということだ。わざわざ生徒が出歩く時間帯を選んだのだとすれば、目的は物ではなく人である可能性が高い。そしてルナはそれがエイダでないと否定し切れなかった。
出会って間もない頃、エイダが誘拐されかけた事件が脳裏をよぎる。
「……っ」
両者が鉢合わせる前にエイダを見つけるか、侵入者を教師に引き渡すか。侵入者が複数人いることを考えるとやはり前者が現実的だろう。ルナは自分の携行している武器を確かめながら校舎を探して回った。
「ーーそんなに妹に会うのが嫌なのか?」
帰寮指示が出て誰も使っていないはずの講堂から声が聞こえ、ルナは廊下で立ち止まった。校舎にいて侵入者の報せが届いていないとは考えにくいが、もし避難誘導の目から漏れたようであれば、一言声をかけなくては。
開いた扉から中を覗くと、男女二人の生徒の姿。背丈のみで判断するなら自分と同じくらいの歳だろう。
片方は艶やかな長い黒髪を耳の上で二つに結いあげた可愛らしい女子生徒。見覚えがないから学年は異なるかもしれない。
「アリスって……なんか時々鋭いよねぇ……」
そして困ったように頬を掻くもう片方は、自分の主人によく似た、陽射しを織ったような金の髪にエメラルドの双眸の……
「え……」
ルナは数秒の間、呼吸を忘れて彼に見入った。
……似てる?
違う、同じだ。
色だけではない。顔立ちもどことなく面影がある。
穏やかな喋り方や品のある佇まいから感じられる空気は、同じ。
「なんだそれは!?バカにしているのか!」
「ほめてるんだよー」
元気いっぱい少年を足蹴にする少女には遠慮がない。少年もそれを受け入れている。雰囲気は正反対の二人だが、ずいぶんと親しい様子だ。
「……嫌なわけじゃないんだ。会えることは嬉しい」
込み入った話なのだろうかと、ルナは教室に入るのを躊躇った。そんな場合ではない。本当は一刻も早く主人を見つけたいのに、あの少年が、ルナの足をこの場所に留めさせる。
確か先ほど少女が、妹がどうとか……
「ただ……ちょっと怖いっていうかさ……。オレは、何も変わっていなくて」
……言っていることも、同じ。
ルナは不思議な感慨を覚えた。
離れていても、この少年とあの人は疑いようもなく兄妹だったのだ。
「ただでさえ別れる前のエイダはちっちゃかったからね。もしかしたらオレのことなんてほとんど覚えていないかもしれない」
いつの間にか足元に擦り寄ってきた黒猫が、一度止まってルナを見上げた。それから何を悩むことがあろうかと教室に踏み入る。
にー
ルナも、それに促されるように足を踏み出した。
「ーーオズ様」
「猫……?えっと、君は?」
「エイダに、会って差し上げてください」
その場に突然現れて膝に付くほど頭を深く下げたルナに、少年が息を呑む。
「エイダはこの10年間ずっと……本当にずっと、あなたを探して……」
「君は、エイダのーー」
胸が詰まって、言葉が出てこない。
間違いなくこの人こそが、ルナの主人がーールナの友人エイダが10年間信じて待ち続けた、オズ=ベザリウスその人だった。
09.彼人