CONTRACT
一
――――――しくじった。
ボロボロの身体で必死に走りながら土方は思った。
少し前に伸した相手だからと高を括ったのが不味かったのだろう。それが油断を呼び、仲間を呼んばれ後ろから襲われる事まで考えていなかった。
頭に受けた一撃は重く、どうにかやり返したもののすぐに劣勢になった。強さでは土方の方が勝っていた。卑怯な手を使われなければ、だ。多勢に無勢。フラフラする頭では正常な判断も、出来ず闇雲に木刀を振り回した。運良く相手に当たり怯んだ隙に逃げ出したが追い付かれるのも時間の問題だろう。
草履はいつの間に脱げていて、裸足の足に小石が刺さる。だが、身体中痛くてそんな物は痛みとすら認識しなかった。
切られた腹から血が流れる感触がした。相手が真剣を持っていたのも誤算だった。あまり手入れをされていなかったようで、どこかの戦場で拾ってきた物かもしれない。
今すぐ足を止めてしまいたい程だった。アイツらの声が聞こえた気がして、歯を食い縛って地面を蹴る。走るのをやめれば楽になれるのに。けれど、こんな所で死ぬなんて真っ平ごめんだ。生きて、もっと強くならなければ。強くなって近藤さんを大将にして、武士になってそれから。
「…っ…!?」
木の根に足を取られ身体は地面に叩きつけられる。まともに受け身も取ることが出来なかった。立ち上がろうにも身体に力が入らない。上半身を上げようと腕に力を込めるが、ガクガクと震えまた地に落ちる。いよいよ目も霞んできた。痛みも鈍く感じる。身体中熱かったのに寒いとさえ感じる。次々に脳裏に顔が浮かぶ。これが走馬灯かとあう物かと妙に冷静に受け入れていた。最後に義兄の顔が浮かんで、瞼がゆっくり下りていく。ごめん、と誰かに心の中で謝った時だった。
『死んじまうの?なぁ、人間』
「………」
誰だ、と言ったつもりだったが音にならず代わりに口から血が流れる。追い付かれたかと思ったが違和感がある。音も聞き取りにくくなっていたというのに、ハッキリと聞こえたのだ。
『もう声も出ねぇの?弱っちぃなぁ』
目の前に立つ男から「はははっ」と笑い声が聞こえた。嘲笑う声に怒りが湧き、僅かばかりの気力が戻る。
「だ…れだ…」
『もう死んだかと思ってた』
しゃがんでこちらを覗きこむ男は態とらしく驚いた顔をしてニヤリとまた笑う。話しているのち口元は動いていない。どうやら声は直接頭の中に響いているらしい。
「まだ、死にたく…ねぇ…!」
死にたくない。まだ死ねない。もっと強くなりたい。強くならねばならぬ。例え武士道が死ぬことと見つけたりと言われていたとしても、こんな惨めで無様な死に方など望んでいない。
『でも、もうお前死ぬじゃん』
「…るっせ…ぇ…」
死ぬ。死にたくないが、誰よりもそれが分かっているのは自分自身だ。
『なぁ生きてぇ?』
男はニヤニヤと笑う。腹が立つ。腹が立ってそのニヤけた面を殴ってやりたいというのに、指先一つ動かせない。歯を食い縛り睨みつけた。
『契約しようぜ。契約すればお前は生きられる』
どうする?とこてんと首をかしげてみせる。
『でもお前の大事なモノ貰うけど』
大事なモノなんてない。大事だったモノはみんな手から零れ落ちていくのだから。何がなんでも生きる。ならば答えは一つ。
「けい…や、く…だ…!」
男は犬歯が見える程に口を歪ませて笑うと、何やら呪文めいた言葉を発した。次第に痛みが引いていく。それは死の感覚に似ていた。まさか騙されたのではと思ったが、少しずつ指先の感覚が戻り視界もハッキリとしだす。
『契約成立』
そう告げる男は銀色の髪をしていた。その四方に跳ねた頭には狐の面と大きな獣の耳が付いている。そして背後には九本の尻尾が揺れていた。
『驚いた?でもダーメ。契約は俺かお前が死ぬまで解除できねぇから』
とりあえず一発殴ってやろうと立ち上がりかけるが、眩暈がして上手く立てなかった。
『やめとけ。傷は治ってるが血が戻った訳じゃねぇ』
そう言われ切られた腹を触ってみると綺麗に塞がっていた。乾いた血がポロポロと落ちる。
「…おい!いたか…!?」
「いや…だが手負いだ…そう遠くには…」
追っ手の声が聞こえた。せっかく傷が塞がったというのに動けないのであれば意味がない。
『五…六…全部で十人くれぇか…』
男は立ち上がると嬉しそうに顔を歪めて舌なめずりをした。何を考えているのか全くわからない。
『腹減ったしちょうどいいや。特別にサービスしてやるよ』
そう言うと男は一瞬にして目の前から消え、その代わりに森の中からいくつかの悲鳴が聞こえた。
『お待たせ~』
戻ってきた男は満足そうに笑っているが、その目は一切笑ってはいない。
「テメェ一体何した…」
もうとっくに追い付かれてもおかしくないというのに、一向に追っ手がくる気配はなくそれに加えてあの悲鳴だ。何かしたに違いない。
『あぁ、あいつら?食っちまった』
クソ不味かったけど、と男は付け加えた。間違いなくこの男は妖だ。とんでもない相手と契約してしまったと思ったが、不思議と恐怖はわかなかった。生きて強くなれるなら何だっていい。なりふりなど構っていられない。外道畜生に魂を売ったって構わない。誰よりも強くなれるのなら。
『あ、そうだお前名前は?』
「土方…土方十四郎だ…!」
『へぇ―』
「てめぇは」
『俺ぇ?ははっ人間なんかに教えるかよバーカ』
「トシー!」
「十四郎さん!」
日も暮れかけた頃、道場に戻ると近藤とミツバが心配そうに駆け寄ってきた。総悟だけは「戻ってきたのか」と悪態をついている。
「また喧嘩してきたのか!?」
「早く手当てを…!」
「いらねぇし喧嘩もしてねぇ」
「何言ってんだ!そんなボロボロのなりでどう見ても喧嘩してき格好だろう!ほら傷を…あれ?」
近藤に取られた腕にはかすり傷一つない。着流しの前を勢いよく開けられたが、そこにも何もない。道場に戻る前に川で血も綺麗に洗い流してきた。
「だから何もねぇ、って言ったろ」
「いやでも…コラ!トシ!まだ話は終わってねぇぞ!」
説教が始まる気配を感じ足早に道場の中へと入る。稽古をしていたヤツらに声を掛けられたが無視して自分の部屋へと向かった。
※※※※※
「ねぇ、近藤さん…十四郎さんなんですが…」
「どうしましたミツバ殿?」
「何か…上手く言えないんですが、いつもと違うような気がして…」
「そうですか?いつものトシだと思うんですが…」
「姉上!あんなヤツの事は放っておけばいいんです!さぁ帰りましょう」
総悟がミツバの手を取り引っ張る。土方が居なかったせいで、姉に構って貰えなかった分早く帰って甘えたかった。
「そーちゃん!近藤さん、また明日」
「ええ、お気をつけて!総悟もな!」
「へーい!」
近藤に手を振り返す。土方への違和感はきっと気のせいなのだと自身に言い聞かせた。
総悟に手を引かれながら道場を振り返ると夕日が沈みかけていた。いつもは綺麗だと感じるその景色も今は不安を覚えた。ミツバの中に芽生えた違和感はついぞ消える事はなかった。
――――――しくじった。
ボロボロの身体で必死に走りながら土方は思った。
少し前に伸した相手だからと高を括ったのが不味かったのだろう。それが油断を呼び、仲間を呼んばれ後ろから襲われる事まで考えていなかった。
頭に受けた一撃は重く、どうにかやり返したもののすぐに劣勢になった。強さでは土方の方が勝っていた。卑怯な手を使われなければ、だ。多勢に無勢。フラフラする頭では正常な判断も、出来ず闇雲に木刀を振り回した。運良く相手に当たり怯んだ隙に逃げ出したが追い付かれるのも時間の問題だろう。
草履はいつの間に脱げていて、裸足の足に小石が刺さる。だが、身体中痛くてそんな物は痛みとすら認識しなかった。
切られた腹から血が流れる感触がした。相手が真剣を持っていたのも誤算だった。あまり手入れをされていなかったようで、どこかの戦場で拾ってきた物かもしれない。
今すぐ足を止めてしまいたい程だった。アイツらの声が聞こえた気がして、歯を食い縛って地面を蹴る。走るのをやめれば楽になれるのに。けれど、こんな所で死ぬなんて真っ平ごめんだ。生きて、もっと強くならなければ。強くなって近藤さんを大将にして、武士になってそれから。
「…っ…!?」
木の根に足を取られ身体は地面に叩きつけられる。まともに受け身も取ることが出来なかった。立ち上がろうにも身体に力が入らない。上半身を上げようと腕に力を込めるが、ガクガクと震えまた地に落ちる。いよいよ目も霞んできた。痛みも鈍く感じる。身体中熱かったのに寒いとさえ感じる。次々に脳裏に顔が浮かぶ。これが走馬灯かとあう物かと妙に冷静に受け入れていた。最後に義兄の顔が浮かんで、瞼がゆっくり下りていく。ごめん、と誰かに心の中で謝った時だった。
『死んじまうの?なぁ、人間』
「………」
誰だ、と言ったつもりだったが音にならず代わりに口から血が流れる。追い付かれたかと思ったが違和感がある。音も聞き取りにくくなっていたというのに、ハッキリと聞こえたのだ。
『もう声も出ねぇの?弱っちぃなぁ』
目の前に立つ男から「はははっ」と笑い声が聞こえた。嘲笑う声に怒りが湧き、僅かばかりの気力が戻る。
「だ…れだ…」
『もう死んだかと思ってた』
しゃがんでこちらを覗きこむ男は態とらしく驚いた顔をしてニヤリとまた笑う。話しているのち口元は動いていない。どうやら声は直接頭の中に響いているらしい。
「まだ、死にたく…ねぇ…!」
死にたくない。まだ死ねない。もっと強くなりたい。強くならねばならぬ。例え武士道が死ぬことと見つけたりと言われていたとしても、こんな惨めで無様な死に方など望んでいない。
『でも、もうお前死ぬじゃん』
「…るっせ…ぇ…」
死ぬ。死にたくないが、誰よりもそれが分かっているのは自分自身だ。
『なぁ生きてぇ?』
男はニヤニヤと笑う。腹が立つ。腹が立ってそのニヤけた面を殴ってやりたいというのに、指先一つ動かせない。歯を食い縛り睨みつけた。
『契約しようぜ。契約すればお前は生きられる』
どうする?とこてんと首をかしげてみせる。
『でもお前の大事なモノ貰うけど』
大事なモノなんてない。大事だったモノはみんな手から零れ落ちていくのだから。何がなんでも生きる。ならば答えは一つ。
「けい…や、く…だ…!」
男は犬歯が見える程に口を歪ませて笑うと、何やら呪文めいた言葉を発した。次第に痛みが引いていく。それは死の感覚に似ていた。まさか騙されたのではと思ったが、少しずつ指先の感覚が戻り視界もハッキリとしだす。
『契約成立』
そう告げる男は銀色の髪をしていた。その四方に跳ねた頭には狐の面と大きな獣の耳が付いている。そして背後には九本の尻尾が揺れていた。
『驚いた?でもダーメ。契約は俺かお前が死ぬまで解除できねぇから』
とりあえず一発殴ってやろうと立ち上がりかけるが、眩暈がして上手く立てなかった。
『やめとけ。傷は治ってるが血が戻った訳じゃねぇ』
そう言われ切られた腹を触ってみると綺麗に塞がっていた。乾いた血がポロポロと落ちる。
「…おい!いたか…!?」
「いや…だが手負いだ…そう遠くには…」
追っ手の声が聞こえた。せっかく傷が塞がったというのに動けないのであれば意味がない。
『五…六…全部で十人くれぇか…』
男は立ち上がると嬉しそうに顔を歪めて舌なめずりをした。何を考えているのか全くわからない。
『腹減ったしちょうどいいや。特別にサービスしてやるよ』
そう言うと男は一瞬にして目の前から消え、その代わりに森の中からいくつかの悲鳴が聞こえた。
『お待たせ~』
戻ってきた男は満足そうに笑っているが、その目は一切笑ってはいない。
「テメェ一体何した…」
もうとっくに追い付かれてもおかしくないというのに、一向に追っ手がくる気配はなくそれに加えてあの悲鳴だ。何かしたに違いない。
『あぁ、あいつら?食っちまった』
クソ不味かったけど、と男は付け加えた。間違いなくこの男は妖だ。とんでもない相手と契約してしまったと思ったが、不思議と恐怖はわかなかった。生きて強くなれるなら何だっていい。なりふりなど構っていられない。外道畜生に魂を売ったって構わない。誰よりも強くなれるのなら。
『あ、そうだお前名前は?』
「土方…土方十四郎だ…!」
『へぇ―』
「てめぇは」
『俺ぇ?ははっ人間なんかに教えるかよバーカ』
「トシー!」
「十四郎さん!」
日も暮れかけた頃、道場に戻ると近藤とミツバが心配そうに駆け寄ってきた。総悟だけは「戻ってきたのか」と悪態をついている。
「また喧嘩してきたのか!?」
「早く手当てを…!」
「いらねぇし喧嘩もしてねぇ」
「何言ってんだ!そんなボロボロのなりでどう見ても喧嘩してき格好だろう!ほら傷を…あれ?」
近藤に取られた腕にはかすり傷一つない。着流しの前を勢いよく開けられたが、そこにも何もない。道場に戻る前に川で血も綺麗に洗い流してきた。
「だから何もねぇ、って言ったろ」
「いやでも…コラ!トシ!まだ話は終わってねぇぞ!」
説教が始まる気配を感じ足早に道場の中へと入る。稽古をしていたヤツらに声を掛けられたが無視して自分の部屋へと向かった。
※※※※※
「ねぇ、近藤さん…十四郎さんなんですが…」
「どうしましたミツバ殿?」
「何か…上手く言えないんですが、いつもと違うような気がして…」
「そうですか?いつものトシだと思うんですが…」
「姉上!あんなヤツの事は放っておけばいいんです!さぁ帰りましょう」
総悟がミツバの手を取り引っ張る。土方が居なかったせいで、姉に構って貰えなかった分早く帰って甘えたかった。
「そーちゃん!近藤さん、また明日」
「ええ、お気をつけて!総悟もな!」
「へーい!」
近藤に手を振り返す。土方への違和感はきっと気のせいなのだと自身に言い聞かせた。
総悟に手を引かれながら道場を振り返ると夕日が沈みかけていた。いつもは綺麗だと感じるその景色も今は不安を覚えた。ミツバの中に芽生えた違和感はついぞ消える事はなかった。
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