神様に愛され過ぎて困っています
五
「高杉先生、銀八……俺、全部思い出したんだ」
「なら俺の愛が本物、ってのも分かってくれた?」
「黙っててすまなかった」
土方を捕らえていた無数の手から銀八が解放する。いつものヨレた白衣ではなく、黒と白の着物である。獣の耳と三本の尻尾が生えている。これが、本来の姿なのだろう。いつもと雰囲気や空気感が違っていた。
二人はずっと昔から土方のことを守り続けていた。初めのうちは、上手くいかずに何度も無力さを嘆いたけれども。魂だけは骸に奪われないように必死にやってくれていたのだ。転生する度に必ず土方を見つけ出しては、側にずっと居てくれたのだ。
黙っていたのだって、こんな話をされても信じられるはずがない。同じ魂であっても、昔の土方と今の土方は別物だ。記憶を辿ってようやくそれらが理解できたのだから。
「俺の方こそ、何も知らなくてごめん……俺はずっと守られてばっかで……」
「いいんだよ。十四郎は普通の人間なんだから」
銀八がいつものように、土方の頭を撫でる。
「悪ィのはアレだ。アレを倒せば問題ねぇ」
高杉の目を見ると、いつだって安心できた。
土方の緊張や不安がほどけていく。今度は一緒に戦う番だと、拳を握りしめた。
「決着を付けるぜ。俺たちだって負けてばっかじゃいられねぇ」
「終わらせるさ、全部な。……十四郎、手伝ってくれるか」
「ああ。今度は俺も戦う」
土方は力強く頷く。高杉は一度銀八に目配せすると、土方に向き直った。
「封じていた力を解放する。すぐに終わる。安心しろ」
「おっと!汚ねぇ手で十四郎に触るんじゃねぇよ!」
土方に伸ばされた黒い手を銀八が切り落とす。結界の解除はまだ続いているが、最初よりもかなり容易くなった。岡田が綻びを斬っているのだろう。おかげで七割近くまで終わっている。
「こっちは任せろ!さっさとしねぇと俺が倒しちまうぞ!!」
「言ってろ」
高杉は土方の額に手を当てると、封印解除の詠唱を始めた。今世の土方に力がなかったのは、高杉が力を封じていたからだ。骸の目から土方を隠していた。そのせいで虱潰しに狙われ、結果的に土方の両親を守れなかった。両親の死は謝って済むことではない。もしも、断罪を望むなら高杉も銀八も受け入れるつもりだ。
その後義兄夫婦に引き取られ、そこに祠があったのは運命であったのだろうか。
「おわっ!?すっげぇ!!」
封印の解除が終わったのと同時に、銀八から声が上がった。結界の解除は完了していないというのに、力が漲っているのだ。
銀八の反撃が激しくなっていく。これまでに受けていた傷も、消耗していた体力も瞬く間に回復していた。
「それが十四郎の力だ」
「そう……なのか……?」
土方は自分の手を見てみるが、何も変わりはない。だが、自分の中身がいつもと違うという感覚がある。例えば超能力に目覚めたら、こんな気分がするのだろうか。
「十四郎、もう一つ頼みがある」
高杉に目を向けると、初めて出会った日の姿になっていた。龍神と呼ばれるに相応しい姿だ。普段は土方の力を抑えている。その為本来の姿になれるのは、祠の近くでのみだ。覚悟を決めたような声色に、なぜか嫌な予感が胸を過る。
「心配すんな。ただ俺か銀八の真名《名》を呼んで欲しい」
「先生たちの?」
「神にはな、本当の真名《名》があるのは知っているな」
「でも、それは良くねぇんじゃ……!?」
「悪用されねぇ為にだ。まァ十四郎になら、好きにされても構わねぇがな」
「やんねぇよ!!」
わざとらしく言う高杉に強く言い返してしまったが、本人は何も気にしていないようだ。むしろ、らしくていいと満足している。
「一欠片も残さず、根源を絶つ必要がある。それには、十四郎に力を解放して貰わなきゃならねぇんだ」
「高杉!!」
骸の攻撃はさらに激しくなっていた。あちらもこのままでは不味いと悟ったのか、問答無用で攻撃を仕掛けている。無数の手が銀八を捕らえようと動き、召喚された死霊が不意を付く。銀八も負けてはいないが、相手の腹の中にいる以上はこちらが不利だ。
「悪いことにはならねぇさ。簡単に言えば、必殺技が使えるようになる、ってことだ」
「……分かった」
高杉の覚悟が伝わった。土方も覚悟を決めた。銀八もずっと戦っている。二人の力になりたい。
土方はその真名《名》を知っている。土方の力を解放した時に思い出している。勿論、銀八の真名《名》も。
土方は大きく息を吸った。目を閉じて、呼ぶべき真名《名》を頭に浮かべた。
『春風』
高杉の霊力が大きく膨れ上がった。それは一筋の光となって、骸へと向かっていく。
「銀八!!」
「遅えぞ高杉!!」
銀八が身体に残る霊力を剣《つるぎ》の形へと変換する。こういう物を絶ち斬るにはこの形が一番良い。残った三本の尻尾は萎んでしまって、見る影もない。もとよりこの為に溜め込んだ霊力だ。何も後悔することはない。同様に高杉の手にも剣《つるぎ》が握られている。
「これで!!」
「終いだ!!」
二つの閃光のような剣撃が骸を襲う。骸はその手で防ぎ抵抗するが、その身に剣の刃が食い込んでいく。
「高杉先生!!銀八!!」
土方が叫ぶ。二人の身体にさらに霊力が巡る。それが最後の一押しになった。
「「おおおおおおおおお!!」」
剣《つるぎ》は骸を切り裂き、視界は光で埋め尽くされた。
「晋助様ー!!十四郎様ー!!」
呼ぶ声に目を覚ました。目を開けるとまだ暗い。しかし、木々の間からは星空が見えた。横たわっていた身体を起こす。同じ様に高杉と銀八が目を覚ましていた。
「来島!!河上さん!!」
「俺も居るんだけど安定のスルーね」
涙目になった来島は、土方の目の前で座りこんでしまった。彼女も泥だらけになっていて、必死に戦っていたのが一目で分かった。
「終わったでござるか」
「ああ、全部な」
高杉の返事に銀八も頷く。二人とも霊力を使い切って、いつもの姿に戻っていた。
「あれ?一人足りなくねぇ?」
「岡田か?あやつはさっさと帰ったでござるよ。大方、武市の所で酒でも呑んでおろう」
「晋ちゃんのお友達、自由過ぎねぇ?」
「うるせぇ」
ようやく、全てが終わったのだ。長く続いていた因果が、今日ようやく。
「十四郎、身体は大丈夫か?痛いところはねぇか?」
「大丈夫だ。ありがとう、銀八のおかげだ」
素直に礼を言った。銀八が居なければ、無事には帰ってこれなかったろう。意地を張っても意味がない。
「あー…….どういたしまして」
どうにもストレートに言われてしまうと銀八は弱い。いつも冗談混じりに言うものだから、そのツケである。
「皆さん、お疲れ様でした」
いつの間にか見知らぬ誰かが立っていた。白い光に包まれた人物に、土方が身構える。
「十四郎。大丈夫だ」
「先生、お久しぶりです」
「ええ、お久しぶりですね。土方くんは初めましてですね。私は松陽といいます。簡単に言うと神様の先生、ってところです」
物腰が柔らかそうだが、纏う雰囲気が全く違う。高杉や銀八よりも、もっと上の存在だと肌で感じた。場の空気も緊張感が漂っている。
「さて、晋助。あなたは禁を破りました。この意味は分かっていますね」
「はい……俺はどんな罰でも受け入れる覚悟です。先生」
高杉は前に出ると、真っ直ぐに松陽を見た。松陽の声は優しいのだが、有無を言わせぬような圧を感じる。土方以外は、その言葉を静かに受け入れている。
「禁って……なんだ?」
気付かぬ内に口から出ていた。高杉が何をしたというのだろう。あの時に感じた嫌な予感。急激に土方の中に不安が膨れ上がっていく。
「土方くん。人間にもルールがあるように、私たちにもルールがあるのです」
一つ 一人の人間を愛してはならない。
一つ 真名を明かしてはならない。
「神の愛は平等でなければなりません。また、真名を知られるということは、魂を握られることに等しい。この禁を二つ犯したのです」
淡々と告げる松陽に、腹の底から怒りが沸いた。それの何がいけないのだ。神様だって誰かを愛するだろうし、名前を呼ぶのがそんなにいけないことなのか。
「待ってくれ!!高杉先生は……!いや、龍神様は俺や皆を守る為にやったことだろう!?それの何が……!!」
「黙りなさい」
たった一言で土方は気圧された。腰が抜けそうになったところを銀八が支える。
「かつて人間を愛した神は狂って災厄となり、人間を滅ぼしかけました。人間を信用したばかりに真名を教えた神は、意のままに操られ大勢の人間を殺しました。……ここまで言えば君も分かりますね?それともあの骸のような結末を迎えますか?」
あの骸の闇は深かった。高杉と銀八、それに土方に宿った神様が居なければとっくに死んでいたはずだ。もしあんな風に高杉や銀八がなってしまったら。その原因が自分であったなら。確実に正気ではいられなくなるだろう。
「十四郎」
銀八に名前を呼ばれた。人間なら至って普通のことなのに、神様には許されていない。土方の物言いたげな目を見て、無言で首を振る。
「……ここからは俺たちの領分だ。悪ィが十四郎の頼みでも聞けねぇんだ。」
銀八のキツく握られた拳が震えているのが見えた。そこにどんな覚悟があったのか土方には分からない。けれど、高杉と銀八は最初からそういうつもりで行動していたのだろう。
人間には人間のルールがあるように、神様にも神様のルールがある。それを破れば当然罰も与えられるのだ。銀八だけでなく、来島や河上もジッと耐えている。
「……それでは、晋助。あなたへの罰を言い渡します。今、この時をもって神としての全ての力を剥奪し、人の身へと落とします。無力さを嘆き、限りのある命を嘆きなさい。……いいですね?」
「それは……」
その裁決に息を飲んだ。高杉は神様ではなくなって、人間になる。力も何も使えない。長く生きてもせいぜい百年。神様ならばいつか寿命など無いに等しいのに、いつか老いて死んでしまう。
「いいですね?」
もう一度、松陽が問う。厳しくも優しい声だった。この場には誰もその裁決に文句を言う者はいない。
「……はい、先生」
高杉は力強く答えた。何一つ後悔などない。曇り無き目で真っ直ぐに見据えた。高杉にとって、神様だろうが人間になろうが、やるべき事はたった一つだ。
「それともう一つ。土方くん」
土方は思わず身構えてしまった。先程の裁決で、悪い人ではないと分かりはした。だが、やはり一度怖いと思ってしまった事実は変えられない。
「すみません。怖がらせるつもりはなかったのですが……」
土方を制したのが効きすぎた、と松陽は反省していた。元々の存在感だとか、やっぱり威厳も必要だよねと考えた結界少しやりすぎてしまったようだ。
「大丈夫だ」
高杉が土方の隣に並ぶ。銀八が牽制するが、仲の良い二人がじゃれているようにしか見えなかった。
松陽は土方の前に立つ。ちょうど心臓のある辺りに手をかざした。すると再び心臓が光り熱を帯びる。
「はい。終わりましたよ」
一瞬の出来事であった。松陽の手のひらの上に、小さな光り輝く球体がある。土方は喪失感に、涙が一筋零れ落ちる。
「この子が土方くんの中に居た神様です。産みの親として感謝します。ずっとこの子を守ってくださってありがとうございます」
「い、いや、俺は何もしてないですし、どっちかっていうと守られてばっかですみません……!」
頭を下げる松陽に、混乱して分けもわからず土方も頭を下げた。頭の下げあいは、高杉と銀八が「もういいだろ」と止めるまで続いていた。
「土方くん。君がこの子を守られていたように、君もこの子を守っていたんです」
松陽は優しく微笑むと、もう一度土方に礼を言った。今度は素直に受け入れる。
「土方くんの魂と、この子をようやく切り離すことができました。これからは、土方くんは土方くんの生を全うしてください」
土方の魂と小さな神様はぴったりくっついて、簡単には切り離せなかった。無理にでも切り離そうとすれば、どちらも死んでしまう。土方が肉体的にも精神的にも、成長するのを待つしかなかった。骸の妨害で今までそれが叶わなかったが、ついにその時が来たのである。
土方は正しい輪廻の輪から外れ、同一の存在として生まれていた。骸に狙われるという宿命を勝手に背負わされて。
しかし、神様と切り離されたことで正しい輪廻の輪へと戻ることができる。土方十四郎としての人生は一代限りで、次は別の存在として生まれ変わる。
説明は受けたが、まだ少し実感はない。何度も生まれ変わってきたのも分かっている。しかし、ずっと土方十四郎として生きてきたのだ。いざ「自分の生を全うして欲しい」と言われると考え込んでしまう。
「小難しく考える必要はねぇ。何も変わらねぇんだ。これからも十四郎として生きりゃあいい。俺も居るしな」
高杉の言葉にそれもそうかと頷いた。けれど「俺も居るよ」と銀八が続けそうなのに、何も言わずにいる。
今日が終わって明日が来ても、今まで通り普通の人間なのだ。実際は、普通の人間ではなかったが不思議な力は今後はなくなる。前世の記憶も少しずつ薄れていくそうだ。
「こちらでは銀八……でしたね。あなたには、この子を導いてあげてください」
銀八の下へと、土方の中にいた神様が降りてくる。まだ小さな光りだが、とてつもなく強いものを持っている。
「承りました」
銀八が深く頭を下げた。その周りをくるくると、小さな光が飛んでいる。やがて、銀八のふわふわの髪に収まった。きっとそこが気に入ったのだろう。まるで雛鳥のようだった。
「おい、お前ら絶対に鳥の巣とか思ったろ」
「そ、そんな事ねぇよ……?」
必死に笑うのを堪えていたのは、土方だけではなかった。銀八を見ないよう目を逸らして、肩を震わせている。
「それでは……ちょっと何ですか虚。今いい所だったんですが。大体あなたが、私の目を盗んで勝手な事するからでしょう?言い訳は後で聞きます。それとも尻叩きの方がいいですか?」
いい感じで終わりそうな所に、何やら喧嘩のようなものが始まった。ポカンとしている土方に銀八が教えてくれた。
「双子の神様でさ、それぞれ生と死を司ってんの。ああいう口喧嘩はしょっちゅうで、大体先生の方が勝つんだけど。尻叩きって事は相当怒ってんなありゃあ……」
銀八が身震いした。よく見れば来島や河上も震えている。高杉はというと、やはり震えていた。優しそうであるのに、震え上がらせるとはどんな神様なのだろうか。
「コホン……すみません、お見苦しい所を。晋助、あなたとはこれでお別れですね。幸せにおなりなさい。それでは、皆さんお元気で」
静かに松陽は消えていった。入れ替わるようにして、太陽がゆっくりと昇ってくるのが見えた。
「……帰ろう、十四郎」
「うん」
高杉が手を伸ばす。迷いなく土方は握り返した。その手は神様の時と代わりなく、暖かいものだった。
「あ!近藤さんたちは!?」
「それなら心配ござらん。皆、家に送り届けるゆえ。今日の事は記憶から消えているか、せいぜい夢でも見たと思うかでござるよ」
「よかった……!ありがとうございます河上さん」
「私も手伝っうッスよ!」
「来島もありがとな!」
「俺は!?俺もスゲェがんばったよ!?」
「銀八もありがと……その、ちょっと見直した」
「しゃっあ!!結婚しよう十四郎!!」
「ふざけんな、バカ」
高杉が銀八の頭を思い切り殴る。何も変わらない、いつもよく見る光景だった。
「あ、れ……?」
グラリ、と土方の身体が傾いた。体力も精神力も限界を超えていた土方の、緊張の糸が切れたのだ。すぐに高杉の腕の中で、穏やかな寝息を立てていた。
翌朝、土方は自室のベッドで目を覚ました。昨日のあれは夢だったのかと思ったが、現実に起こったことだ。スマホの日付も時間もしっかりと進んでいる。試しに何かニュースになっていないかと検索をしてみた。しかし、何も引っ掛からない。土砂崩れの起きた山の木々が、一晩で生い茂るという不可思議な現象を除けばだが。
「うおおおお!?」
「おはよう十四郎♡よく眠れた?」
ふと横を向けばそこには笑顔の銀八がいた。すっかり気を抜いていたせいで、大声を上げてしまった。しばらくしても、家族から声がかかる様子はない。結界はまだ有効らしい。
「た、高杉先生……!あれ……?」
隣で寝ている筈の高杉がいない。昨夜の記憶は高杉の手を取って、銀八が殴られた辺りで途切れている。一緒に居ないということは、あの後で高杉の身に何かあったのだろうか。
「大丈夫、大丈夫。あいつは自分の家で寝てる。普通の人間になっちまったから、十四郎の部屋に居たらマズイだろ?」
「あ……そうだな」
「ま、昼くらいには十四郎に会いに来る筈だから、それまでゆっくりしてな」
生徒の家に不法侵入して隣で寝ていました、なんて事がバレでもしたら大問題である。土方を送り届けた後、自分の家へと帰宅したのだ。
「あと、今日は部活休みな。全員体調不良って事で。心配しねぇでも、一日寝てりゃあ治るから」
「よかった……」
それを聞いて安心した。皆グッタリとして、最悪の事態も考えていたからだ。土方は悪くない、と言われても一生背負っていく事になっていただろう。
「つーわけで、俺もここでサヨナラだ」
「……え?」
何でもないように言われた台詞に、理解が出来なかった。「サヨナラ」とはどういう事だろう。
「神様と人間ってのは、本来ここまで深く関わる事はねぇんだ」
「……あ」
深く関われたのは、神話と呼ばれる時代まで。それ以降、人間にと神様には線引きがされた。世の中には神社とか奇跡だとか、そういう物はある。だが、実際に見たり喋ったりなんてあり得ない事なのだ。
たった数ヶ月ではあったが、神様が側に居るのが当たり前であった。まるで普通の友人のようであった。彼らがやけに人間臭かった、というのもあるが。
「神様ってのは、見えないだけでいつもすぐ側に居るもんだ。だから、俺たちはいつだって十四郎のことを見守ってる」
銀八の手が土方の頭を撫でる。名残惜しむように、優しい手つきだった。
適当でいい加減で、隙あらば好きとか結婚しようとか、ふざけたことばかりの神様だった。でも、土方を想う気持ちは本物で、本当はいつだって真剣だった。振り払う事も多かったけれど、土方のことを護るこの大きな手が、何よりも大好きだった。
「あ~~~そういう可愛いことされちまうと、神隠ししたくなるからさぁ」
土方は涙を隠すため、困ったように笑う銀八に抱き付いていた。いつものヨレヨレのワイシャツに涙が染み込んでいく。
「銀……八……っ!今まで、ありがとう……!」
必死に絞り出した声は涙で震えていた。どうせどれだけ声を上げて泣いても、外には漏れることはない。今の土方だって、これまでの土方だって銀八には救われてきた筈だ。自分一人の感謝の言葉では足りないだろう。それでも伝えたいと思って何度も何度も繰り返した。
「十四郎ありがとう。幸せになれよ」
「うん……!銀八も……!」
神様に幸せになれ、なんておかしな話だ。銀八はちょっと驚いた顔をすると、笑顔で頷いた。その笑顔を最後に、銀八は完全に見えなくなってしまった。
入れ替わるように来島がお別れに来た。彼女は、河上が迎えに来るまでずっと泣きっぱなしだった。楽しかったこと、学校のこと、これからのこと。彼女は沢山話して、沢山泣いた。神様だけれど、やっぱり普通の人間にしか見えない。最後に泣きながら、笑って手を振ってサヨナラをした。
河上の方は「今まで世話になった」と頭を下げて去っていた。寺門通の最新アルバムが置き土産としてなければ、とてもクールであったのにと思う。
部屋が静かになると、寂しさに包まれる。ベッドに倒れこんで天井を見上げた。死にそうな目にも遭ったが、それ以上に毎日が楽しかった。うっとうしいと感じることもあったが、側に居てくれて心強かった。叶うならもう少し一緒に居たかったと思う。
いつの間にか眠っていたらしい。飛び起きたが、まだ時間は昼を過ぎた所だった。夏休み中で、部活も休み。多少寝坊しても誰も咎めないのだが。
下に降りるとキッチンのテーブルに義姉のメモが合った。友人と遊びに行っているようで、冷蔵庫には食事も用意されていた。朝と昼の二食分だ。
ぐう、と腹が鳴った。そういえば、ほとんど食事を摂っていない。冷蔵庫から取り出して、レンジで暖める。
義姉の料理は毎日食べているのに、なんだか久しぶりに味わうようで、涙が滲んだ。日常に戻ってきたという安心感のせいだろう。朝の分だけでは足りなくて昼の分も完食した。
食器を洗い終わりスマホを見ると、スマホにメッセージが入っていた。
『祠で待っている』
すぐに土方は駆け出した。送り主は見なくても分かる食べた直後のせいか、横っ腹が痛む。
祠の前には高杉が立っていた。「先生!」と声をあげると、微笑みながら振り返った。
二人で祠の前に立つ。今は河上がここの仮の主ではある。後任が決まれば人知れず退去してしまうだろう。寂しいが、本来神様と人間は深く関わる事はない。
「やっぱりさ、銀八や来島や河上さんにはもう会えねぇんだよな」
「そうなるだろうな。元々、相容れない存在だ。それも一人の人間に複数の神なんて前代未聞だ」
「寂しくなるな……」
「あぁ」
「高杉先生も、銀八たちとお別れを?」
「一応な」
高杉はなんでもないような顔をしていた。だが、土方にはどこか寂しそうにも見える。何百年と一緒に居た友と、二度と会うことはないのだ。お互いに腐れ縁だと言っていたが、思う所はあるだろう。なんだかんだ、端から見れば充分仲が良さそうであった。
「高杉先生は、不安とかねぇの?」
「ないな。十四郎が居るなら何も怖くねぇ」
神様だろうが、人間になろうが高杉は何も変わりはしない。土方が居なくなること以外に、怖いものなどないのだ。これまで、土方を見送るばかりであった。しかし、ついに同じ時間を過ごせるようになった。それがどれ程喜ばしいことであるか。
高杉は静かに土方を抱き寄せた。土方もそれを拒まない。最初からそこが居場所だったと錯覚する程だ。高杉が居れば怖くない、そんな風に思う。ただ、土方の心には懸念が一つ。
「俺さ……ずっと守られてばっかだろ?その、俺も何か出来ねぇかなって」
「うん?別に俺は十四郎が居てくれりゃあ、それで構わねぇ」
「俺が構うんだよ……!何つーの?せめてお礼の一つでもしねぇと、気が済まねぇっていうか……」
確かに、と高杉は思った。神様ならまだしも、一方的な施しというものは気を病むこともある。
「なら、名を呼んでくれ。下の名だ。今はそれがいい」
「名前って神様の方のじゃなくて?」
「そうだ。神としての名は、もう使うことはねぇしな」
「そんなんでいいのか……?う~ん……晋助……さん……?」
「……思っていたより、いいな。なかなか」
想像以上の幸福感というか、高揚感というか。とにかく名を呼ばれるのは、とても気持ちが良い。
「あのさ高杉先生の、龍神様の本当の名前ってさ」
「良いだろう?お前が付けてくれたんだ」
「……そっか」
高杉は柔らかい笑みを浮かべた。土方の頭の中にぼんやりとイメージが浮かぶ。虹色の蛇と銀色の狐が、小さな子供の周りをクルクル回っている。とても嬉しそうに、いつまでも回っていた。
土方は笑い返すと、高杉の顔が近づいてくる。―――――ああ、そういうことかと、土方はすぐさま理解した。
目を閉じると同時に口唇に柔らかいものが触れる。二人の間を季節外れの柔らかな春の風が、祝福するかのように駆け抜けていった。
「高杉先生、銀八……俺、全部思い出したんだ」
「なら俺の愛が本物、ってのも分かってくれた?」
「黙っててすまなかった」
土方を捕らえていた無数の手から銀八が解放する。いつものヨレた白衣ではなく、黒と白の着物である。獣の耳と三本の尻尾が生えている。これが、本来の姿なのだろう。いつもと雰囲気や空気感が違っていた。
二人はずっと昔から土方のことを守り続けていた。初めのうちは、上手くいかずに何度も無力さを嘆いたけれども。魂だけは骸に奪われないように必死にやってくれていたのだ。転生する度に必ず土方を見つけ出しては、側にずっと居てくれたのだ。
黙っていたのだって、こんな話をされても信じられるはずがない。同じ魂であっても、昔の土方と今の土方は別物だ。記憶を辿ってようやくそれらが理解できたのだから。
「俺の方こそ、何も知らなくてごめん……俺はずっと守られてばっかで……」
「いいんだよ。十四郎は普通の人間なんだから」
銀八がいつものように、土方の頭を撫でる。
「悪ィのはアレだ。アレを倒せば問題ねぇ」
高杉の目を見ると、いつだって安心できた。
土方の緊張や不安がほどけていく。今度は一緒に戦う番だと、拳を握りしめた。
「決着を付けるぜ。俺たちだって負けてばっかじゃいられねぇ」
「終わらせるさ、全部な。……十四郎、手伝ってくれるか」
「ああ。今度は俺も戦う」
土方は力強く頷く。高杉は一度銀八に目配せすると、土方に向き直った。
「封じていた力を解放する。すぐに終わる。安心しろ」
「おっと!汚ねぇ手で十四郎に触るんじゃねぇよ!」
土方に伸ばされた黒い手を銀八が切り落とす。結界の解除はまだ続いているが、最初よりもかなり容易くなった。岡田が綻びを斬っているのだろう。おかげで七割近くまで終わっている。
「こっちは任せろ!さっさとしねぇと俺が倒しちまうぞ!!」
「言ってろ」
高杉は土方の額に手を当てると、封印解除の詠唱を始めた。今世の土方に力がなかったのは、高杉が力を封じていたからだ。骸の目から土方を隠していた。そのせいで虱潰しに狙われ、結果的に土方の両親を守れなかった。両親の死は謝って済むことではない。もしも、断罪を望むなら高杉も銀八も受け入れるつもりだ。
その後義兄夫婦に引き取られ、そこに祠があったのは運命であったのだろうか。
「おわっ!?すっげぇ!!」
封印の解除が終わったのと同時に、銀八から声が上がった。結界の解除は完了していないというのに、力が漲っているのだ。
銀八の反撃が激しくなっていく。これまでに受けていた傷も、消耗していた体力も瞬く間に回復していた。
「それが十四郎の力だ」
「そう……なのか……?」
土方は自分の手を見てみるが、何も変わりはない。だが、自分の中身がいつもと違うという感覚がある。例えば超能力に目覚めたら、こんな気分がするのだろうか。
「十四郎、もう一つ頼みがある」
高杉に目を向けると、初めて出会った日の姿になっていた。龍神と呼ばれるに相応しい姿だ。普段は土方の力を抑えている。その為本来の姿になれるのは、祠の近くでのみだ。覚悟を決めたような声色に、なぜか嫌な予感が胸を過る。
「心配すんな。ただ俺か銀八の真名《名》を呼んで欲しい」
「先生たちの?」
「神にはな、本当の真名《名》があるのは知っているな」
「でも、それは良くねぇんじゃ……!?」
「悪用されねぇ為にだ。まァ十四郎になら、好きにされても構わねぇがな」
「やんねぇよ!!」
わざとらしく言う高杉に強く言い返してしまったが、本人は何も気にしていないようだ。むしろ、らしくていいと満足している。
「一欠片も残さず、根源を絶つ必要がある。それには、十四郎に力を解放して貰わなきゃならねぇんだ」
「高杉!!」
骸の攻撃はさらに激しくなっていた。あちらもこのままでは不味いと悟ったのか、問答無用で攻撃を仕掛けている。無数の手が銀八を捕らえようと動き、召喚された死霊が不意を付く。銀八も負けてはいないが、相手の腹の中にいる以上はこちらが不利だ。
「悪いことにはならねぇさ。簡単に言えば、必殺技が使えるようになる、ってことだ」
「……分かった」
高杉の覚悟が伝わった。土方も覚悟を決めた。銀八もずっと戦っている。二人の力になりたい。
土方はその真名《名》を知っている。土方の力を解放した時に思い出している。勿論、銀八の真名《名》も。
土方は大きく息を吸った。目を閉じて、呼ぶべき真名《名》を頭に浮かべた。
『春風』
高杉の霊力が大きく膨れ上がった。それは一筋の光となって、骸へと向かっていく。
「銀八!!」
「遅えぞ高杉!!」
銀八が身体に残る霊力を剣《つるぎ》の形へと変換する。こういう物を絶ち斬るにはこの形が一番良い。残った三本の尻尾は萎んでしまって、見る影もない。もとよりこの為に溜め込んだ霊力だ。何も後悔することはない。同様に高杉の手にも剣《つるぎ》が握られている。
「これで!!」
「終いだ!!」
二つの閃光のような剣撃が骸を襲う。骸はその手で防ぎ抵抗するが、その身に剣の刃が食い込んでいく。
「高杉先生!!銀八!!」
土方が叫ぶ。二人の身体にさらに霊力が巡る。それが最後の一押しになった。
「「おおおおおおおおお!!」」
剣《つるぎ》は骸を切り裂き、視界は光で埋め尽くされた。
「晋助様ー!!十四郎様ー!!」
呼ぶ声に目を覚ました。目を開けるとまだ暗い。しかし、木々の間からは星空が見えた。横たわっていた身体を起こす。同じ様に高杉と銀八が目を覚ましていた。
「来島!!河上さん!!」
「俺も居るんだけど安定のスルーね」
涙目になった来島は、土方の目の前で座りこんでしまった。彼女も泥だらけになっていて、必死に戦っていたのが一目で分かった。
「終わったでござるか」
「ああ、全部な」
高杉の返事に銀八も頷く。二人とも霊力を使い切って、いつもの姿に戻っていた。
「あれ?一人足りなくねぇ?」
「岡田か?あやつはさっさと帰ったでござるよ。大方、武市の所で酒でも呑んでおろう」
「晋ちゃんのお友達、自由過ぎねぇ?」
「うるせぇ」
ようやく、全てが終わったのだ。長く続いていた因果が、今日ようやく。
「十四郎、身体は大丈夫か?痛いところはねぇか?」
「大丈夫だ。ありがとう、銀八のおかげだ」
素直に礼を言った。銀八が居なければ、無事には帰ってこれなかったろう。意地を張っても意味がない。
「あー…….どういたしまして」
どうにもストレートに言われてしまうと銀八は弱い。いつも冗談混じりに言うものだから、そのツケである。
「皆さん、お疲れ様でした」
いつの間にか見知らぬ誰かが立っていた。白い光に包まれた人物に、土方が身構える。
「十四郎。大丈夫だ」
「先生、お久しぶりです」
「ええ、お久しぶりですね。土方くんは初めましてですね。私は松陽といいます。簡単に言うと神様の先生、ってところです」
物腰が柔らかそうだが、纏う雰囲気が全く違う。高杉や銀八よりも、もっと上の存在だと肌で感じた。場の空気も緊張感が漂っている。
「さて、晋助。あなたは禁を破りました。この意味は分かっていますね」
「はい……俺はどんな罰でも受け入れる覚悟です。先生」
高杉は前に出ると、真っ直ぐに松陽を見た。松陽の声は優しいのだが、有無を言わせぬような圧を感じる。土方以外は、その言葉を静かに受け入れている。
「禁って……なんだ?」
気付かぬ内に口から出ていた。高杉が何をしたというのだろう。あの時に感じた嫌な予感。急激に土方の中に不安が膨れ上がっていく。
「土方くん。人間にもルールがあるように、私たちにもルールがあるのです」
一つ 一人の人間を愛してはならない。
一つ 真名を明かしてはならない。
「神の愛は平等でなければなりません。また、真名を知られるということは、魂を握られることに等しい。この禁を二つ犯したのです」
淡々と告げる松陽に、腹の底から怒りが沸いた。それの何がいけないのだ。神様だって誰かを愛するだろうし、名前を呼ぶのがそんなにいけないことなのか。
「待ってくれ!!高杉先生は……!いや、龍神様は俺や皆を守る為にやったことだろう!?それの何が……!!」
「黙りなさい」
たった一言で土方は気圧された。腰が抜けそうになったところを銀八が支える。
「かつて人間を愛した神は狂って災厄となり、人間を滅ぼしかけました。人間を信用したばかりに真名を教えた神は、意のままに操られ大勢の人間を殺しました。……ここまで言えば君も分かりますね?それともあの骸のような結末を迎えますか?」
あの骸の闇は深かった。高杉と銀八、それに土方に宿った神様が居なければとっくに死んでいたはずだ。もしあんな風に高杉や銀八がなってしまったら。その原因が自分であったなら。確実に正気ではいられなくなるだろう。
「十四郎」
銀八に名前を呼ばれた。人間なら至って普通のことなのに、神様には許されていない。土方の物言いたげな目を見て、無言で首を振る。
「……ここからは俺たちの領分だ。悪ィが十四郎の頼みでも聞けねぇんだ。」
銀八のキツく握られた拳が震えているのが見えた。そこにどんな覚悟があったのか土方には分からない。けれど、高杉と銀八は最初からそういうつもりで行動していたのだろう。
人間には人間のルールがあるように、神様にも神様のルールがある。それを破れば当然罰も与えられるのだ。銀八だけでなく、来島や河上もジッと耐えている。
「……それでは、晋助。あなたへの罰を言い渡します。今、この時をもって神としての全ての力を剥奪し、人の身へと落とします。無力さを嘆き、限りのある命を嘆きなさい。……いいですね?」
「それは……」
その裁決に息を飲んだ。高杉は神様ではなくなって、人間になる。力も何も使えない。長く生きてもせいぜい百年。神様ならばいつか寿命など無いに等しいのに、いつか老いて死んでしまう。
「いいですね?」
もう一度、松陽が問う。厳しくも優しい声だった。この場には誰もその裁決に文句を言う者はいない。
「……はい、先生」
高杉は力強く答えた。何一つ後悔などない。曇り無き目で真っ直ぐに見据えた。高杉にとって、神様だろうが人間になろうが、やるべき事はたった一つだ。
「それともう一つ。土方くん」
土方は思わず身構えてしまった。先程の裁決で、悪い人ではないと分かりはした。だが、やはり一度怖いと思ってしまった事実は変えられない。
「すみません。怖がらせるつもりはなかったのですが……」
土方を制したのが効きすぎた、と松陽は反省していた。元々の存在感だとか、やっぱり威厳も必要だよねと考えた結界少しやりすぎてしまったようだ。
「大丈夫だ」
高杉が土方の隣に並ぶ。銀八が牽制するが、仲の良い二人がじゃれているようにしか見えなかった。
松陽は土方の前に立つ。ちょうど心臓のある辺りに手をかざした。すると再び心臓が光り熱を帯びる。
「はい。終わりましたよ」
一瞬の出来事であった。松陽の手のひらの上に、小さな光り輝く球体がある。土方は喪失感に、涙が一筋零れ落ちる。
「この子が土方くんの中に居た神様です。産みの親として感謝します。ずっとこの子を守ってくださってありがとうございます」
「い、いや、俺は何もしてないですし、どっちかっていうと守られてばっかですみません……!」
頭を下げる松陽に、混乱して分けもわからず土方も頭を下げた。頭の下げあいは、高杉と銀八が「もういいだろ」と止めるまで続いていた。
「土方くん。君がこの子を守られていたように、君もこの子を守っていたんです」
松陽は優しく微笑むと、もう一度土方に礼を言った。今度は素直に受け入れる。
「土方くんの魂と、この子をようやく切り離すことができました。これからは、土方くんは土方くんの生を全うしてください」
土方の魂と小さな神様はぴったりくっついて、簡単には切り離せなかった。無理にでも切り離そうとすれば、どちらも死んでしまう。土方が肉体的にも精神的にも、成長するのを待つしかなかった。骸の妨害で今までそれが叶わなかったが、ついにその時が来たのである。
土方は正しい輪廻の輪から外れ、同一の存在として生まれていた。骸に狙われるという宿命を勝手に背負わされて。
しかし、神様と切り離されたことで正しい輪廻の輪へと戻ることができる。土方十四郎としての人生は一代限りで、次は別の存在として生まれ変わる。
説明は受けたが、まだ少し実感はない。何度も生まれ変わってきたのも分かっている。しかし、ずっと土方十四郎として生きてきたのだ。いざ「自分の生を全うして欲しい」と言われると考え込んでしまう。
「小難しく考える必要はねぇ。何も変わらねぇんだ。これからも十四郎として生きりゃあいい。俺も居るしな」
高杉の言葉にそれもそうかと頷いた。けれど「俺も居るよ」と銀八が続けそうなのに、何も言わずにいる。
今日が終わって明日が来ても、今まで通り普通の人間なのだ。実際は、普通の人間ではなかったが不思議な力は今後はなくなる。前世の記憶も少しずつ薄れていくそうだ。
「こちらでは銀八……でしたね。あなたには、この子を導いてあげてください」
銀八の下へと、土方の中にいた神様が降りてくる。まだ小さな光りだが、とてつもなく強いものを持っている。
「承りました」
銀八が深く頭を下げた。その周りをくるくると、小さな光が飛んでいる。やがて、銀八のふわふわの髪に収まった。きっとそこが気に入ったのだろう。まるで雛鳥のようだった。
「おい、お前ら絶対に鳥の巣とか思ったろ」
「そ、そんな事ねぇよ……?」
必死に笑うのを堪えていたのは、土方だけではなかった。銀八を見ないよう目を逸らして、肩を震わせている。
「それでは……ちょっと何ですか虚。今いい所だったんですが。大体あなたが、私の目を盗んで勝手な事するからでしょう?言い訳は後で聞きます。それとも尻叩きの方がいいですか?」
いい感じで終わりそうな所に、何やら喧嘩のようなものが始まった。ポカンとしている土方に銀八が教えてくれた。
「双子の神様でさ、それぞれ生と死を司ってんの。ああいう口喧嘩はしょっちゅうで、大体先生の方が勝つんだけど。尻叩きって事は相当怒ってんなありゃあ……」
銀八が身震いした。よく見れば来島や河上も震えている。高杉はというと、やはり震えていた。優しそうであるのに、震え上がらせるとはどんな神様なのだろうか。
「コホン……すみません、お見苦しい所を。晋助、あなたとはこれでお別れですね。幸せにおなりなさい。それでは、皆さんお元気で」
静かに松陽は消えていった。入れ替わるようにして、太陽がゆっくりと昇ってくるのが見えた。
「……帰ろう、十四郎」
「うん」
高杉が手を伸ばす。迷いなく土方は握り返した。その手は神様の時と代わりなく、暖かいものだった。
「あ!近藤さんたちは!?」
「それなら心配ござらん。皆、家に送り届けるゆえ。今日の事は記憶から消えているか、せいぜい夢でも見たと思うかでござるよ」
「よかった……!ありがとうございます河上さん」
「私も手伝っうッスよ!」
「来島もありがとな!」
「俺は!?俺もスゲェがんばったよ!?」
「銀八もありがと……その、ちょっと見直した」
「しゃっあ!!結婚しよう十四郎!!」
「ふざけんな、バカ」
高杉が銀八の頭を思い切り殴る。何も変わらない、いつもよく見る光景だった。
「あ、れ……?」
グラリ、と土方の身体が傾いた。体力も精神力も限界を超えていた土方の、緊張の糸が切れたのだ。すぐに高杉の腕の中で、穏やかな寝息を立てていた。
翌朝、土方は自室のベッドで目を覚ました。昨日のあれは夢だったのかと思ったが、現実に起こったことだ。スマホの日付も時間もしっかりと進んでいる。試しに何かニュースになっていないかと検索をしてみた。しかし、何も引っ掛からない。土砂崩れの起きた山の木々が、一晩で生い茂るという不可思議な現象を除けばだが。
「うおおおお!?」
「おはよう十四郎♡よく眠れた?」
ふと横を向けばそこには笑顔の銀八がいた。すっかり気を抜いていたせいで、大声を上げてしまった。しばらくしても、家族から声がかかる様子はない。結界はまだ有効らしい。
「た、高杉先生……!あれ……?」
隣で寝ている筈の高杉がいない。昨夜の記憶は高杉の手を取って、銀八が殴られた辺りで途切れている。一緒に居ないということは、あの後で高杉の身に何かあったのだろうか。
「大丈夫、大丈夫。あいつは自分の家で寝てる。普通の人間になっちまったから、十四郎の部屋に居たらマズイだろ?」
「あ……そうだな」
「ま、昼くらいには十四郎に会いに来る筈だから、それまでゆっくりしてな」
生徒の家に不法侵入して隣で寝ていました、なんて事がバレでもしたら大問題である。土方を送り届けた後、自分の家へと帰宅したのだ。
「あと、今日は部活休みな。全員体調不良って事で。心配しねぇでも、一日寝てりゃあ治るから」
「よかった……」
それを聞いて安心した。皆グッタリとして、最悪の事態も考えていたからだ。土方は悪くない、と言われても一生背負っていく事になっていただろう。
「つーわけで、俺もここでサヨナラだ」
「……え?」
何でもないように言われた台詞に、理解が出来なかった。「サヨナラ」とはどういう事だろう。
「神様と人間ってのは、本来ここまで深く関わる事はねぇんだ」
「……あ」
深く関われたのは、神話と呼ばれる時代まで。それ以降、人間にと神様には線引きがされた。世の中には神社とか奇跡だとか、そういう物はある。だが、実際に見たり喋ったりなんてあり得ない事なのだ。
たった数ヶ月ではあったが、神様が側に居るのが当たり前であった。まるで普通の友人のようであった。彼らがやけに人間臭かった、というのもあるが。
「神様ってのは、見えないだけでいつもすぐ側に居るもんだ。だから、俺たちはいつだって十四郎のことを見守ってる」
銀八の手が土方の頭を撫でる。名残惜しむように、優しい手つきだった。
適当でいい加減で、隙あらば好きとか結婚しようとか、ふざけたことばかりの神様だった。でも、土方を想う気持ちは本物で、本当はいつだって真剣だった。振り払う事も多かったけれど、土方のことを護るこの大きな手が、何よりも大好きだった。
「あ~~~そういう可愛いことされちまうと、神隠ししたくなるからさぁ」
土方は涙を隠すため、困ったように笑う銀八に抱き付いていた。いつものヨレヨレのワイシャツに涙が染み込んでいく。
「銀……八……っ!今まで、ありがとう……!」
必死に絞り出した声は涙で震えていた。どうせどれだけ声を上げて泣いても、外には漏れることはない。今の土方だって、これまでの土方だって銀八には救われてきた筈だ。自分一人の感謝の言葉では足りないだろう。それでも伝えたいと思って何度も何度も繰り返した。
「十四郎ありがとう。幸せになれよ」
「うん……!銀八も……!」
神様に幸せになれ、なんておかしな話だ。銀八はちょっと驚いた顔をすると、笑顔で頷いた。その笑顔を最後に、銀八は完全に見えなくなってしまった。
入れ替わるように来島がお別れに来た。彼女は、河上が迎えに来るまでずっと泣きっぱなしだった。楽しかったこと、学校のこと、これからのこと。彼女は沢山話して、沢山泣いた。神様だけれど、やっぱり普通の人間にしか見えない。最後に泣きながら、笑って手を振ってサヨナラをした。
河上の方は「今まで世話になった」と頭を下げて去っていた。寺門通の最新アルバムが置き土産としてなければ、とてもクールであったのにと思う。
部屋が静かになると、寂しさに包まれる。ベッドに倒れこんで天井を見上げた。死にそうな目にも遭ったが、それ以上に毎日が楽しかった。うっとうしいと感じることもあったが、側に居てくれて心強かった。叶うならもう少し一緒に居たかったと思う。
いつの間にか眠っていたらしい。飛び起きたが、まだ時間は昼を過ぎた所だった。夏休み中で、部活も休み。多少寝坊しても誰も咎めないのだが。
下に降りるとキッチンのテーブルに義姉のメモが合った。友人と遊びに行っているようで、冷蔵庫には食事も用意されていた。朝と昼の二食分だ。
ぐう、と腹が鳴った。そういえば、ほとんど食事を摂っていない。冷蔵庫から取り出して、レンジで暖める。
義姉の料理は毎日食べているのに、なんだか久しぶりに味わうようで、涙が滲んだ。日常に戻ってきたという安心感のせいだろう。朝の分だけでは足りなくて昼の分も完食した。
食器を洗い終わりスマホを見ると、スマホにメッセージが入っていた。
『祠で待っている』
すぐに土方は駆け出した。送り主は見なくても分かる食べた直後のせいか、横っ腹が痛む。
祠の前には高杉が立っていた。「先生!」と声をあげると、微笑みながら振り返った。
二人で祠の前に立つ。今は河上がここの仮の主ではある。後任が決まれば人知れず退去してしまうだろう。寂しいが、本来神様と人間は深く関わる事はない。
「やっぱりさ、銀八や来島や河上さんにはもう会えねぇんだよな」
「そうなるだろうな。元々、相容れない存在だ。それも一人の人間に複数の神なんて前代未聞だ」
「寂しくなるな……」
「あぁ」
「高杉先生も、銀八たちとお別れを?」
「一応な」
高杉はなんでもないような顔をしていた。だが、土方にはどこか寂しそうにも見える。何百年と一緒に居た友と、二度と会うことはないのだ。お互いに腐れ縁だと言っていたが、思う所はあるだろう。なんだかんだ、端から見れば充分仲が良さそうであった。
「高杉先生は、不安とかねぇの?」
「ないな。十四郎が居るなら何も怖くねぇ」
神様だろうが、人間になろうが高杉は何も変わりはしない。土方が居なくなること以外に、怖いものなどないのだ。これまで、土方を見送るばかりであった。しかし、ついに同じ時間を過ごせるようになった。それがどれ程喜ばしいことであるか。
高杉は静かに土方を抱き寄せた。土方もそれを拒まない。最初からそこが居場所だったと錯覚する程だ。高杉が居れば怖くない、そんな風に思う。ただ、土方の心には懸念が一つ。
「俺さ……ずっと守られてばっかだろ?その、俺も何か出来ねぇかなって」
「うん?別に俺は十四郎が居てくれりゃあ、それで構わねぇ」
「俺が構うんだよ……!何つーの?せめてお礼の一つでもしねぇと、気が済まねぇっていうか……」
確かに、と高杉は思った。神様ならまだしも、一方的な施しというものは気を病むこともある。
「なら、名を呼んでくれ。下の名だ。今はそれがいい」
「名前って神様の方のじゃなくて?」
「そうだ。神としての名は、もう使うことはねぇしな」
「そんなんでいいのか……?う~ん……晋助……さん……?」
「……思っていたより、いいな。なかなか」
想像以上の幸福感というか、高揚感というか。とにかく名を呼ばれるのは、とても気持ちが良い。
「あのさ高杉先生の、龍神様の本当の名前ってさ」
「良いだろう?お前が付けてくれたんだ」
「……そっか」
高杉は柔らかい笑みを浮かべた。土方の頭の中にぼんやりとイメージが浮かぶ。虹色の蛇と銀色の狐が、小さな子供の周りをクルクル回っている。とても嬉しそうに、いつまでも回っていた。
土方は笑い返すと、高杉の顔が近づいてくる。―――――ああ、そういうことかと、土方はすぐさま理解した。
目を閉じると同時に口唇に柔らかいものが触れる。二人の間を季節外れの柔らかな春の風が、祝福するかのように駆け抜けていった。
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