Le feuilleté des jours (ル フイエテ デ ジュール)
Ⅲ
「なんだテメェか」
高杉の店に通いだしてようやく六回目である。六回というのは勿論、営業中に行けた回数だ。実際にはそれ以上足を運んでいる。最初はがっかりしたものだが、今はもう慣れてしまった。開店は気紛れで、法則性も何もなかった。S.Yoshidaの店に新作が並んでも高杉の試作とは限らない。あそこには、朧や桂もいるし他にも有望なパティシエが日々腕を磨いている。
相変わらず高杉は口も態度も悪いが、自分が言った事は守っている。出禁など自分の匙加減で出来そうな物だが、ズルや騙すような事はしなかった。持ち物検査も二回目までで、それからは特にされていない。歓迎しているようではないが、それでも多少雰囲気が柔らかくなった気もしていた。
手早くケーキを三個選んだ。もたもたすると
三回目の来店の時に、どうしても我慢できなくて「一つだけここで食べていいか」と聞いてみた。意外にも高杉は「早く座れ」と言った。その日以来、一つだけ食べて帰る事にした。ウザがられようと今更と開き直った。四回目はこちらからだったが、五回目からは「さっさと食って帰れ」と言った。
土方がイスに座って待っていると、高杉がケーキとティーセットをトレイに乗せて持って来た。無言で目の前に置かれる。その仕草は丁寧で全く音を立てない。それが終わるとすぐに高杉は奧へ引っ込んでしまう。
真っ白な皿に乗ったケーキはキラキラと輝いている。崩してしまうのが勿体ないと思いながらフォークを入れた。力を入れすぎて、大きな音を立ててしまった。奧へと視線を向けたが高杉が出てくる様子はない。ふう、と息を吐いた。
「美味ぇ~!!」
わかっていた事だが高杉のケーキは美味い。もう少し気の効いた言葉でも言えればいいのだが、生憎そんな物は持ち合わせていない。
疲れた身体に甘いケーキが染み渡る。仕事は嫌いではないが、ストレスや疲労は当たり前に溜まる。高杉のケーキは謂わば土方にとって最高のご褒美だ。次の日はなんだか調子が良いような気がする。
出された紅茶もきっちり飲み干してから声をかける。お陰で腹がちゃぷちゃぷになるが、残すのは忍びない。
「ご馳走さまでした」
声をかけると高杉は奧からケーキの箱を持って現れる。トレイと引き換えに箱を受け取った。
ありがとうございました、なんて言われる事もなく店を後にした。高杉はああいう性格だし。一応は客として迎えられているだけで充分だ。手にはまだ二つもケーキがあるのだし。
朝起きたら一つ食べて、帰ったら残りの一つを食べる。多少寝不足になっても、ケーキのお陰でやる気は出るし、帰ればご褒美が待っている。坂田にバレると煩いので、買えた事はいつも秘密にしている。間が悪いのか日頃の行いのせいなのか、まだ坂田はここ数ヶ月で二回しか行けていないらしい。うち、一回は土方と一緒に行った日である。そこでもまた一悶着あり、ギリギリ出禁を回避していた。
早朝に目が覚めてしまった。仕事に行くには早すぎるし、目が冴えてしまって二度寝も出来そうにない。朝の四時ではテレビも移らない。動画アプリを開いてはみたが、興味を惹かれなくてすぐに閉じた。
何となく冷蔵庫を開けてみても、ほとんど中身は入っていない。とりあえずアイスコーヒーのボトルを取ってコップに注ぐ。
ふと、この時間に高杉の店に行ってみたいと思った。深夜に開店するとは言っていたが、閉店時間までは知らない。気紛れか売り切れたら終了だろうが、どのくらいまで開けているのだろうか。
行って帰ってくるだけなら、時間は充分ある。そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。シンクにコップを置くと、顔を洗って動きやすい服に着替えた。
財布とスマホという最低限の荷物だけ持ってロードバイクにまたがった。どこかコンビニに寄って、飲み物だけ買えばいい。
高杉の店だけでなく、S.Yoshidaにも顔を出すようになった。世話焼きの朧に高杉の友人と思われているようで、何かと気にかけてくれる。よく試食をご馳走になったりと、言葉に甘えていたら……である。健康診断の結果と腹回りが少々ふっくらしたので危機感を覚えた。という訳で運動の為にも購入に至った。
夏に入り近年の異常気象もあってか、日中は死にそうな程に暑い。だがまだこの時間は涼しく過ごしやすい。車や人通りも殆どないお陰で、スイスイと進んでいく。顔に受ける風もなんだか気持ちが良かった。
「開いてる……」
あっという間に高杉の店に着いた。シャッターが下りていない、ということは営業中である。行って帰ってくるだけ、と考えていたが営業中ならと欲が沸いてくる。
ドアは簡単に開いた。シャッターは下りてなくとも、施錠されている可能性もあった。聞き慣れた音に、思わず安心感を覚える。
「何しに来た」
奧から少し眠そうな高杉が出てきた。ケーキ屋に来て「何しに来た」と言われたのは、生まれて始めてである。
「あ~……なんか早く目が覚めちまって、なんとなく?」
「突っ立ってねぇで座れ」
「あ、ああ」
追い返されるかと思っていたから、座れと言われて反応が出来なかった。睨まれてようやく我に返る。
ショーケースにはポツンと二つだけケーキが残っていた。まるで、土方を待っていたようにも見える。すぐに高杉に引っ込められてしまったが。
もう慣れた筈の店内も早朝の雰囲気からか、ソワソワしてしまう。窓から入る柔らかな朝の日差しが余計に不思議な感覚にさせた。
奧からいつものようにトレイに乗ったケーキとティーセットを高杉が運んできた。そしていつものように、静かに目の前に置かれる。
真っ赤な苺の乗ったシンプルなショートケーキ。一度食べたが高杉のケーキは格別だった。市販のケーキと比べるのは失礼だろうが、暫く市販のケーキを食べられなくなってしまった。
どこから食べようかと考えていたら、いつもとは違う事が起きた。高杉が目の前に現れたのだ。手にはショートケーキとティーカップ。それをテーブルに置くと土方の向かい側に座った。
「なんだよ」
「別に」
お前も食うのか?と言いたかったがやめた。たぶん気を悪くする。気持ちの良い朝とケーキを前にして、喧嘩にでもなったら気分が悪い。
「~~~!やっぱり最高に美味ぇな!」
ショートケーキはたった一度しか食べていない。最初から並んでいない事もあるが、人気が高く売り切れる事が多いようだ。そのケーキが残っているなんてまるで奇跡のようだった。
「お前はそればっかだな」
「仕方ねぇだろ、素直に美味いって言って何が悪い」
「悪いとは言ってねぇだろ」
「S.Yosihdaのケーキもすっげぇ美味いけど、俺はさ高杉のケーキが一番好きな気がする」
「……先生のケーキが美味いのは当たり前なんだよ」
「なんだ、高杉。お前笑えるじゃん」
高杉が初めて笑顔を見せた。想像していたよりも柔らかな優しい笑みだった。笑う事すらないのだと思っていたから、たまたま朝早く目が覚めてラッキーだ。
「笑ってねぇよ」
笑ったのはほんの一瞬であったが、絶対に笑っていた。そこから嬉しくなって、高杉に色々と話を振ってみた。ポツリポツリと高杉は短い返事をくれた。子供の頃の話とか、最近見たテレビの話だとか。中身もないような他愛のない話だ。高杉と出会って初めて会話らしい会話をした。
「お前、ゆっくりしてるが時間は大丈夫なのか?」
「えっ!?もう一時間も経ってんのか!?」
「……仕方ねぇから送ってやるよ」
「あ、でもロードバイクが……!」
「仕事終わったら取りに来りゃあいいだろ。それとも遅刻してぇのか?」
「助かる!!」
食器はそのままでいいと言われ身支度だけを整えた。今度は間違えずに右側のドアを開けた。シャワーも浴びたいし、着替えも必要だ。ロードバイクだと間に合いそうにない。
まだ混み合う時間ではないからか、街は静かだ。ようやく起き出してくる頃合いだろう。駅まで良かったのに、高杉は家の近くまで送ると言った。遅刻されたら目覚めが悪いと付け加えて。
「台風でも来そうだな」
「そりゃどういう意味だ?」
一応、冗談も通じるらしい。少し眉を潜めたあたり、高杉の中でもこの行動は珍しい部類なのだろう。きっともう少しで着いてしまう。この時間がどうにも惜しくて、このまま仕事をずる休みしてやろうかと思った程だ。
「ありがとう」
「おう」
土方の顔も見ない。ただ僅かに手を上げて高杉は去っていってしまった。それでも土方の中では、大きな一歩を踏み出したような気がしていた。
シンクで二人分の食器を洗った。水切りラックに立て掛けると、詰めていた息を吐いた。
厨房の奥にはちょっとした事務室がある。形ばかりで寝るためにしか使っていない。パソコンと食事用のテーブルと小さな冷蔵庫。それにソファベッドと簡易のシャワー室。事務室というより仮眠室と言った方がいい。部屋は別に借りているが、帰るのが面倒で一年のうち半分以上はここで過ごす事が多い。
一日中試作版に集中し、ぶっ倒れた事もある。たまたま朧が様子を見に来たから大事には至らなかった。病院のベッドで説教を聞きながら、数日後にはソファベッドが運び込まれていた。少々過保護すぎやしないかと思う。
服を放り投げて、温めのシャワーを浴びる。少し外に出ただけで、じわりと汗が滲む。厨房でケーキに夢中になっていたら、いつの間にか夏になっていたらしい。梅雨はいつだったのだろう。夏は食中毒や食材が痛みやすいから、より神経質になる。
『なんだ、高杉。お前笑えるじゃん』
シャワー室の小さな鏡には仏頂面の無愛想な男しか写っていない。つい先日も食材を見ていただけなのに、顔が怖いと子供に泣かれたばかりだ。
笑った覚えは全くない。ならば土方の見間違いだろう。それに加えて普段の自分ならあり得ない行動はなんだったのか。
バスタオルで軽く身体を拭く。洗面台の鏡にもやはり、仏頂面の男を写すだけだ。Tシャツに着替えると、ソファベッドに横になった。今夜は久しぶりに家に帰ろうかと思ったが、すぐに土方のロードバイクの事を思い出した。車庫に閉まってあるから、シャッターを開けなければならない。取りに来ればいい、と言った手前放っておく訳にもいかない。
「面倒臭ぇ……」
起きてから決めればいい。答えの出ないモヤモヤを抱えながら、ゆっくりと目を閉じた。
※※※※※
坂田が北斗心軒と書かれた暖簾を潜ると、すでに桂と朧がメニューを広げていた。昔ながらのラーメン屋といったこの店は、それなりに繁盛をしているようだ。噂によれば店を切り盛りしている女将は未亡人らしい。桂がなぜこの店を選んだかの理由は、また今度問い詰める事にしよう。今日は桂の事よりも、話さなければならない人間がいる。
「悪ぃ、待たせた」
「いいや、俺たちもさっき来た所だ」
「銀時、変わりはないか?」
「俺ぁ変わりねぇ。朧兄さんは隈が濃くなってねぇか?」
「最近、取材やコンクールが重なってしまってね。クリスマスの計画もあるし……心配しなくても明日、明後日は休みにさせて貰ったよ」
ならよかった、と上着をイスにかける。つい最近まで暑かったのに、十月ともなれば朝と夜は冷えるようになった。
まずは腹ごしらえとメニューを覗きこむ。醤油に塩と味噌。チャーハンと餃子や唐揚げの文字が並ぶ。ビールにも惹かれるが、今日は少々真面目な話である。最近のチェーン店みたいにごちゃごちゃしていなくて分かりやすい。結局シンプルな物が一番美味かったりする。
桂が率先して手を上げた。女将が駆け寄って来て注文をメモしていく。その様子をしげしげと観察した。未亡人で旦那が残した店を守っている……桂が気にするのにも納得がいった。
「それで、お前が飯に誘うとは珍しいな」
坂田の視線に気付いていた桂が訝しげに問う。
「ちょっと気になる事があってさ……高杉の事なんだけど」
高杉という名前に二人が反応をする。坂田の気になっている事と、二人が考えている事は同じ事かもしれない。確証はなくともピンと来ている。ならば話は早い。
「高杉のケーキ……味が変わったと思わねぇ?」
「……やはりか」
桂が同意し朧も頷いた。パティシエのツートップと言われるくらいの二人が、気が付かない筈がない。それに幼少から一緒に過ごしてきた仲だある。ほんの僅かな変化だが、確信を得た。
目の前にラーメンが運ばれてきた。餃子は今焼いているので少し待って欲しい、との事だ。桂が残念そうにしたのをバイトの子は勘違いしたようだ。
冷める前に食べようと箸を付ける。そこそこ美味い。すげぇ美味いというよりは、たまに食べに行きたくなるようなそういう感覚になる。焼き立ての餃子は女将が持って来た。桂が明らかに嬉しそうにしている。
「話を戻すけどよ、高杉のケーキの味が変わったのって、ここ最近でさ。それも、土方くんが通うようになってからなんだよね」
ピタリと二人の箸が止まった。桂の目には期待の色が浮かぶ。僅かながら身を乗り出してきた。
「つまり……?」
「味もちょーーっと土方くん好みというかなァ……?」
「銀時!勿体ぶらずに言え!」
「ありぁ……恋、だな」
「恋……!?」
「恋……か」
いささか盛ったような気もするが、当たらずとも遠からず。その辺りに疎い朧はともかく、桂はある程度予想していたのではないだろうか。
「ま、流行り廃りはあるし、食材によっても味が多少変わる事はあるじゃん?ずっと同じ味を守りつつも、ある程度の変化は必要なモンだろ?研究熱心な高杉が意味もなく変えるとは思えねぇ」
その時代の流行や、季節による気温や湿度の変化。使う食材によって多少味が違う事もある。例えば、同じ苺でも品種や季節によって甘味、酸味や食感も違う。同じ調理法だから全部同じになる訳ではない。向き不向きだってある訳で。均一にする為に調節する事はあるが、高杉の変化はそういった物とは違う気がした。その確信を得られたのは別の事である。
「三回くらい土方くんと一緒に高杉の店に行ったんだよ。初めて二人で行った時は両方とも塩対応だったのに、夏に入ってから行ったらよ……」
「行ったら、どうだったのだ……!」
「俺は相変わらずなのに土方くんには優しく対応すんの。で、土方くんの肩に手を置いたらすっげぇ睨んでんだよ。本人は気付いてねぇみてぇだが、ありゃ嫉妬心丸出しだな。俺だけで行くと"お前だけか"ってあからさまに不機嫌になる」
「高杉がか……!?」
桂が驚いた。他人に興味がない、寄せ付けない、人間嫌い。感情もあまり表に出さない仏頂面。その高杉が他人に興味を持った。交友関係といえば松陽を含めても両手で足りる。
「……そうか……晋助が………」
朧に至っては目頭を抑えている。松陽が存命していた頃とはいえ、クセ者揃いの子供たちを纏めるのには手を焼いた。特に坂田、高杉は何かと揉め事を起こす。桂が後始末をして苦労をしてくれたが、いつしか悪ガキ三人組の評判は広まっていた。
さりげなく桂がティッシュを渡す。その気遣いにさらに朧の肩を震わせた。手がかかったとはいえ、松陽より託され自身の弟のように可愛い彼ら。世の中との関わりを拒絶しているような高杉が、他人に興味を持ったとなれば涙が出る程に嬉しかった。
「という訳で俺は高杉と土方くんをデートさせようと思う」
「具体的には……?」
ラーメンも餃子もそっちのけで坂田の話に耳を傾ける。女将が横を通ったというのに、桂は視線を向ける事をしなかった。
「ここに取引先から貰った水族館のペアチケットがある。高杉は騒がしい所は嫌いだから、遊園地よりは可能性が高くなる。一方の土方くんはこの水族館で近々マヨリーンコラボがある事を知っている」
具体的な作戦はこうである。S.Yoshidaに来た土方に朧か桂が「貰ったが行けないので」と水族館のペアチケットを渡す。その時にそれとなく「高杉を息抜きさせて欲しい」と言う。
坂田はチケットを渡された確認した後、土方を高杉の店に誘う。これは運次第だがここ暫く開けていない事。出入り業者の坂本から高杉の店に納品に行く話を聞いた。数日中に店を開ける可能性は高い。
運任せではあるが、下手に動くと勘のいい高杉に気付かれる。そうすれば警戒して店を開けないだろうし、坂田は永久に出禁だ。
「いささか行き当たりばったりな気もするが……下手に芝居を打てば高杉は確実に怪しむな」
「しかし、晋助の交友関係に私たちが首を突っ込むのも……」
「でもよ朧兄さん。このままじゃ高杉は俺たち以外に友達がいねぇままだぜ?恋の一つや二つしとかねぇと偏屈ジジイになっちまう。こんなチャンス早々巡ってこねぇ」
高杉の交友関係に口出しするのは気が引けるが、気にならない訳でもない。限られた、それも幼少の頃からの知り合いしかいない。お節介だとしても、高杉にはもう少し広い世界を見て欲しいとも思う。
「あまり騙すような真似はしたくないが……協力しよう」
「高杉と土方くんがもっと仲良くなる手伝いをするだけだ。悪い事にはならねぇさ」
暫く考えた後、朧もとうとう頷いた。本当に恋かは分からなくとも、高杉に友人が増えるなら喜ばしい事はない。言いくるめられている感は否めないが、桂も一枚噛むならなら最悪な事にはならないだろう。
「ラーメン伸びる前に食っちまおう」
餃子も少し冷めてしまった。食べ終わったらもう少し詳しい作戦会議を始めたい。イタズラを相談していた幼少の頃を思い出して、坂田は懐かしさを覚えた。
※※※※※※
つい先日の事だ。朧から水族館のペアチケットを譲り受けた。仕事が立て込んでいて期限までに行けそうにない。もし良ければだが、根を詰めやすい高杉を息抜きに引っ張り出してくれないか、という話であった。
あまりに良くしてくれる朧に申し訳なさはある。だが、朧や桂だと首を縦に振らないので、土方ならばと白羽の矢が立ったのだ。役に立てるというのなら、喜んで引き受けたいと思った。
水族館はマヨリーンコラボが開催されており、行きたいと思っていた場所だった。嫌と言われれば、他の人間を誘っても、チケットは好きにして構わないと言われた。最近態度の軟化してきた高杉とも、もう少し話してみたいとも思っていた。まさに渡りに船である。
しかし、どうやって切り出したものか。会話はほんの少し増えたが、せいぜい世間話をするようになった程度で、店主と客ぐらいの関係性が一番近いだろう。
会社の喫煙室で唸っていると、ちょうど坂田が通りかかった。ひっ捕まえるとジュースと引き換えに相談を持ち掛ける。
「とりあえず当たって砕けろで言ってみりゃあいいんじゃねぇ?断られると思ってんなら、言っても言わなくても同じだろ」
確かにそうである。どうせ断られるならハッキリ断られた方がスッキリする。ペアチケットなら一人で使うより、近藤か沖田にでも譲ればいい。
「金曜の夜、暇?俺の勘が営業してるって言ってんだよ。一緒に行けば俺が上手いこと高杉の事を乗せてやるよ」
「金曜か……空いてるがお前の勘が当たった事ねぇだろ」
この日は開いてるはず!と坂田の勘を信じた結果は全敗だった。外回りでパチンコや馬に寄り、財布を空にして帰ってくるだけのことはある。
「まぁまぁ、とりあえず行ってみようぜ?開いてりゃ高杉を上手いこと乗せてやるからさ」
じゃあいつもの所な、と返事を聞く前に坂田は出て行ってしまった。結局の所、運任せなのは変わりがない。なるようになるしかない、と結論付けた。その裏で坂田が意味ありげな笑みを浮かべている事に気が付く事はなかった。
初めて坂田の勘が当たった。高杉の店から光が漏れている。坂田が得意げに笑っていた。ニヤニヤした顔に土方はイライラする。
高杉はいつも通り土方を迎え入れた。後ろの坂田を見た瞬間、苦虫を噛み潰したような顔をしたが。
ケーキを選びテーブルに座る。今日はティラミスを選んだ。坂田は苺がたっぷり乗ったタルトである。初めて坂田とイートインした時には驚きを隠せていなかった。二回目からは堂々と座っている辺り、やはり坂田である。
やはり美味しい。美味しいのだが、チケットの事を考えると緊張してしまう。個人的な話であるから、高杉は聞く耳すら持たないかもしれない。
いつもより時間をかけて食べている。坂田はとっくに食べ終わって、高杉にダル絡みしている。返事などほぼ返ってきていないが、付き合いが長い分なんとも思っていないのだろう。
「高杉、水族館とか興味あるか……?チケット2枚貰っちまって」
皿を引きに来たタイミングで声をかけた。「息抜きに」と言うと誰から貰ったかバレてしまう。あくまで土方が、という事にしておかなければ。一瞬だけ土方を見て「興味ねぇ」と二人分の食器をトレイに乗せた。
予想通りの結果でも残念な気持ちは変わらない。心のどこかで「もしかしたら」と期待していたから尚更だ。
「え~勿体ねぇなぁ。じゃ、土方くんは俺と一緒に行」
「行く」
ガチャンと食器が音を立てた。土方は「一緒に行こう」と言った坂田に返事をしていない。
「でも、高杉は水族館興味ねぇんだろ?俺がお前の代わりに土方くんとデートしてくっから、気にすんなって」
「行くって言ってんだろ。おい、土方いつ空いてる」
「えっ、あぁ……とりあえず今月の休みはどこも予定ねぇけど」
「分かった。明後日の日曜だ。十時に現地でいいな」
「お、おう」
いつの間にか予定が決まっていた。当事者である筈なのに、蚊帳の外にいるような感覚だったが。チケットを受け取った高杉はさっさと奥に行ってしまう。先程のやり取りが幻覚のように思えてきた。
「な?アイツ負けず嫌いだから、上手く乗せられただろ?」
「そうだな……ありがとう」
坂田と高杉は何かと張り合っていたと聞いている。子供の頃から喧嘩も多く、それは今も変わっていないらしい。「息抜きしろ」と言っても素直に頷かないなら、そこを刺激したという事か。
「じゃ、高杉が息抜きできたか教えてくれよ!」
坂田も高杉の事をそれなりに気にしてくれているようだ。口では文句を言いながらも、腐っても旧友という事か。息抜きという重要な役目を任されたのだ。マヨリーンコラボも勿論魅力的だが、土方も負けず嫌いである。何がなんでも高杉を息抜きさせてやる。そう心に誓って家路へと着いた。
※※※※※
坂田は土方が完全に見えなくなってから、スマホでメッセージを打った。
「作戦成功」
短くとも意味は分かる。すぐに桂から着信があった。
『高杉の反応はどうだったのだ?』
「俺が土方くんと一緒に、って言ったら食いぎみに行くって言ってたぜ」
『ほう……これはつまりそういうアレだな』
「日曜の十時、現地集合って事で行ってくるわ」
『頼むぞ銀時。お前の頭は目立つのだからな』
「へいへい、分かってるって。じゃあ楽しみにしといてくれよ」
作戦通りである。坂田が一緒に行くと言い出せば、高杉は自分が行くと言うのは分かっていた。
だが坂田はデートに誘導しただけでは終わらない。当然、それを尾行する義務がある。こんなに面白そうな事を見逃すなど、出来る筈もないのだ。今夜は興奮して眠れないかもしれない。
何がなんでも高杉の初恋を見届ける。そう心に誓って家路へと着いた。
※※※※※
土方は十分前には水族館に着いていた。本当はもっと早く着いていたけれど。ただあまりに早すぎたので、近くのコンビニや周辺を歩き回って、時間を潰した。前日に水族館の下調べをして、一応近くの飲食店もチェックした。プランは立てているが、高杉が気を変えて来ない不安もある。連絡先を聞いておけばよかったと思ったが、教えてくれる気がしない。「必要ねぇだろ」と一蹴されて終わりな未来しか見えなかった。
「よぉ。待たせたな」
私服の高杉は新鮮だった。シンプルなジャケットとシャツにパンツが、よく似合っている。
「いや、全然。行こうぜ」
来ないかもしれない不安から解放された。しかし、次は息抜きさせるという大役から来る緊張感だ。少し話すようにはなったが、高杉の事は何も知らない。基本的には土方が話しかけるばかりで、返事も簡単な物だ。
家族連れや恋人だけでなく、高校生らしい男子グループも居た。男二人は浮くかと思ったが意外とそうでもないようだ。
中に入れば大きな水槽に釘付けになった。水族館なんていつぶりだろうか。童心に帰ったようで、期待していた何倍も楽しい。
隣に居る高杉を盗み見る。視線は水槽に向いているが、顔はずっと無表情だ。機嫌が悪くはなさそうだが、楽しそうな感じもしない。土方ばかりはしゃいでいる様子に、引いてしまったのだろうか。これでは高杉ではなく、土方の息抜きになってしまう。
「たまには悪かねぇな」
不安を見透かしたように、高杉が呟いた。土方に向けてなのか、一人言なのかの判断はつかなかったが。ただ、高杉は嘘やお世辞を言わない。退屈なら、ハッキリそう言って帰ってしまうだろう。
「次さクラゲの水槽行かねぇ?なんか凄ぇらしいぜ」
パンフレットを見せながら思い切って聞いてみる。高杉はパンフレットを覗きこんだ。表情に出なくても、高杉なりに楽しんでいるようだ。
水族館は思ったよりも広く、結構歩き回った。一息入れる為ショップ横のカフェに行きたい訳なのだが。高杉の顔が僅かに曇ったのが分かる。
そこにはマヨリーンの等身大パネル。さらにはマヨネーズの文字が掲げられている。ケーキにかけられたマヨネーズは、高杉にとっては悪夢のような物だ。
「……アイスコーヒーでいいか?」
勿論、コラボメニューだけでなく通常メニューも販売されている。恐る恐る聞くと、一応は頷いてくれた。マヨリーン目的というのは、確実に感付かれてしまっただろう。
アイスコーヒーともう片方にはコラボドリンク。高杉の眉間の皺が深く刻まれた。マヨネーズではあるが、自分が店に持ち込んだ訳ではない。息抜きにきた水族館で、たまたまコラボをしていた。そう本当にたまたま。
「飯行くか?」
これで解散かと思いきや、予想外にも高杉から声がかかった。これ幸いと頷いた。いくつか飲食店はリストアップしているが、どこか気になる所はあるだろうか。
「俺の行きたい所でいいか?」
断る理由もなく、高杉の車へと乗り込む。連れて来られたのは、なんだか高そうな和食の店だった。おすすめの下に「時価」と書かれていたのは見なかったことにしたい。
「今日は朧兄さんにでも頼まれたか」
「……バレてんのか」
「兄さんは過保護だからな。いつまでも俺たちを小さな弟だと思ってやがる」
なんとなく分かる気がする。何かと世話を焼いてしまうのは、三人が一番手がかかったせいだろう。
「身内が迷惑かけた詫びだ。ここの支払は俺が持つ。で、息抜きってんならもう少し付き合え」
「いや、飯代は俺も……!」
「ア゛?俺が出すつってんだろ。文句あんのか?」
バレていたとはいえ、騙し討ちのような物である。ここは素直に引き下がるのが無難だ。
再び高杉の車に乗り込む。目的地までドライブに付き合えという事だ。
高杉の運転は丁寧で自然とまぶたが下りそうになる。昼食を摂った後だからか余計に。必死に目を開けようとしていると「着いたら起こす」とだけ言われた。それでもどうにか起きていようとしたが、睡魔には抗えなかった。
約一時間半のドライブで到着したのは、最近人気のケーキが評判のカフェだった。テレビで紹介された事もあってか、かなり賑わっている。坂田も「ここは美味い」と言っていたので、間違いないはずだ。
「高杉もこういう所来るんだな」
「言っておくがリサーチだからな」
遊びに来た訳ではないとハッキリと否定される。息抜きと分かっていても、仕事を兼ねるのは高杉らしいと感じた。
一番のオススメというチーズケーキを頼んだ。不思議な物で、今は甘い物を頼む事への抵抗が減った。今もまだ甘いものは苦手だと誤解されている。それもいつか自ら解ける日が来るかもしれない。
「美味ぇ……!!」
坂田が言うだけはある。何がどうと言えるだけの語彙力はないが、今まで食べた中でも群を抜いて美味い。顔が自然に緩んでしまう。ここに鏡があれば、満面の笑みに違いない。
「これ、ずっげぇ美味ぇな!なぁ、高杉!……高杉どうした?」
高杉の顔が険しい。見るからに機嫌が悪そうだ。ケーキに何か問題があったのだろうか。一口だけ貰った高杉のガトーショコラも、とびきり美味しかった。そうなると、パティシエとしてのプライドが刺激されたのかもしれない。
「そんなに美味ぇのか?」
「ああ!すげぇ美味ぇよ!」
「……俺のよりもか?」
高杉のケーキを思い浮かべる。ここのケーキも美味いが、高杉のケーキもやっぱり美味い。どう伝えるのがいいか考えてみた。だが、無理に言葉にするしなくてもいい、と言われた事を思い出す。
「俺にはどれが一番美味いかってのは、わかんねぇけどよ。前にも言ったけどさ、俺は高杉のケーキすっげぇ好きだぜ?」
それを聞いた高杉は、見たことのない表情で沈黙した。何かまずかったのだろうか。知らない内に地雷を踏み抜いてしまったのか。考えていると、高杉が急に立ち上がった。
「俺のケーキしか食えなくしてやる」
「お、おう……?」
そう言ったかと思えば、何もなかったかのように座った。残っていたケーキを無表情で食べている。
一体どういう意味なのだろう。機嫌は悪くはなさそうだが、直ったのかも分からない。怒っているようでもなさそうである。
「まだ、何か頼むか?」
「いや、いい。大丈夫」
高杉の様子はおかしいままだ。それに、ここの支払いも高杉がしてしまった。これ以上は悪いと断った。
何とも言えない空気の中、自宅近くまで送って貰った。別れ際に高杉に礼を言われ、本当に何事かと思ってしまう。
今日の報告の為に桂に連絡を取る。ついでにあの事についても聞いてみようと思ったがやめた。なんとなく憚られたからだ。とりあえず息抜きは出来たようだ、に止めておく。
『俺のケーキしか食えなくしてやる』
あの言葉の意味は何なのだろう。始めは高杉の機嫌を悪くして出禁にされるのかと思った。
「でも、高杉のケーキは食えるんだよな……?」
食うなではなく、食えなくしてやるならそういう意味だろう。考えてはみたものの、結局意味はわからないままだ。明日出勤した時に、坂田に聞いてみる事にした。
「なんだテメェか」
高杉の店に通いだしてようやく六回目である。六回というのは勿論、営業中に行けた回数だ。実際にはそれ以上足を運んでいる。最初はがっかりしたものだが、今はもう慣れてしまった。開店は気紛れで、法則性も何もなかった。S.Yoshidaの店に新作が並んでも高杉の試作とは限らない。あそこには、朧や桂もいるし他にも有望なパティシエが日々腕を磨いている。
相変わらず高杉は口も態度も悪いが、自分が言った事は守っている。出禁など自分の匙加減で出来そうな物だが、ズルや騙すような事はしなかった。持ち物検査も二回目までで、それからは特にされていない。歓迎しているようではないが、それでも多少雰囲気が柔らかくなった気もしていた。
手早くケーキを三個選んだ。もたもたすると
三回目の来店の時に、どうしても我慢できなくて「一つだけここで食べていいか」と聞いてみた。意外にも高杉は「早く座れ」と言った。その日以来、一つだけ食べて帰る事にした。ウザがられようと今更と開き直った。四回目はこちらからだったが、五回目からは「さっさと食って帰れ」と言った。
土方がイスに座って待っていると、高杉がケーキとティーセットをトレイに乗せて持って来た。無言で目の前に置かれる。その仕草は丁寧で全く音を立てない。それが終わるとすぐに高杉は奧へ引っ込んでしまう。
真っ白な皿に乗ったケーキはキラキラと輝いている。崩してしまうのが勿体ないと思いながらフォークを入れた。力を入れすぎて、大きな音を立ててしまった。奧へと視線を向けたが高杉が出てくる様子はない。ふう、と息を吐いた。
「美味ぇ~!!」
わかっていた事だが高杉のケーキは美味い。もう少し気の効いた言葉でも言えればいいのだが、生憎そんな物は持ち合わせていない。
疲れた身体に甘いケーキが染み渡る。仕事は嫌いではないが、ストレスや疲労は当たり前に溜まる。高杉のケーキは謂わば土方にとって最高のご褒美だ。次の日はなんだか調子が良いような気がする。
出された紅茶もきっちり飲み干してから声をかける。お陰で腹がちゃぷちゃぷになるが、残すのは忍びない。
「ご馳走さまでした」
声をかけると高杉は奧からケーキの箱を持って現れる。トレイと引き換えに箱を受け取った。
ありがとうございました、なんて言われる事もなく店を後にした。高杉はああいう性格だし。一応は客として迎えられているだけで充分だ。手にはまだ二つもケーキがあるのだし。
朝起きたら一つ食べて、帰ったら残りの一つを食べる。多少寝不足になっても、ケーキのお陰でやる気は出るし、帰ればご褒美が待っている。坂田にバレると煩いので、買えた事はいつも秘密にしている。間が悪いのか日頃の行いのせいなのか、まだ坂田はここ数ヶ月で二回しか行けていないらしい。うち、一回は土方と一緒に行った日である。そこでもまた一悶着あり、ギリギリ出禁を回避していた。
早朝に目が覚めてしまった。仕事に行くには早すぎるし、目が冴えてしまって二度寝も出来そうにない。朝の四時ではテレビも移らない。動画アプリを開いてはみたが、興味を惹かれなくてすぐに閉じた。
何となく冷蔵庫を開けてみても、ほとんど中身は入っていない。とりあえずアイスコーヒーのボトルを取ってコップに注ぐ。
ふと、この時間に高杉の店に行ってみたいと思った。深夜に開店するとは言っていたが、閉店時間までは知らない。気紛れか売り切れたら終了だろうが、どのくらいまで開けているのだろうか。
行って帰ってくるだけなら、時間は充分ある。そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。シンクにコップを置くと、顔を洗って動きやすい服に着替えた。
財布とスマホという最低限の荷物だけ持ってロードバイクにまたがった。どこかコンビニに寄って、飲み物だけ買えばいい。
高杉の店だけでなく、S.Yoshidaにも顔を出すようになった。世話焼きの朧に高杉の友人と思われているようで、何かと気にかけてくれる。よく試食をご馳走になったりと、言葉に甘えていたら……である。健康診断の結果と腹回りが少々ふっくらしたので危機感を覚えた。という訳で運動の為にも購入に至った。
夏に入り近年の異常気象もあってか、日中は死にそうな程に暑い。だがまだこの時間は涼しく過ごしやすい。車や人通りも殆どないお陰で、スイスイと進んでいく。顔に受ける風もなんだか気持ちが良かった。
「開いてる……」
あっという間に高杉の店に着いた。シャッターが下りていない、ということは営業中である。行って帰ってくるだけ、と考えていたが営業中ならと欲が沸いてくる。
ドアは簡単に開いた。シャッターは下りてなくとも、施錠されている可能性もあった。聞き慣れた音に、思わず安心感を覚える。
「何しに来た」
奧から少し眠そうな高杉が出てきた。ケーキ屋に来て「何しに来た」と言われたのは、生まれて始めてである。
「あ~……なんか早く目が覚めちまって、なんとなく?」
「突っ立ってねぇで座れ」
「あ、ああ」
追い返されるかと思っていたから、座れと言われて反応が出来なかった。睨まれてようやく我に返る。
ショーケースにはポツンと二つだけケーキが残っていた。まるで、土方を待っていたようにも見える。すぐに高杉に引っ込められてしまったが。
もう慣れた筈の店内も早朝の雰囲気からか、ソワソワしてしまう。窓から入る柔らかな朝の日差しが余計に不思議な感覚にさせた。
奧からいつものようにトレイに乗ったケーキとティーセットを高杉が運んできた。そしていつものように、静かに目の前に置かれる。
真っ赤な苺の乗ったシンプルなショートケーキ。一度食べたが高杉のケーキは格別だった。市販のケーキと比べるのは失礼だろうが、暫く市販のケーキを食べられなくなってしまった。
どこから食べようかと考えていたら、いつもとは違う事が起きた。高杉が目の前に現れたのだ。手にはショートケーキとティーカップ。それをテーブルに置くと土方の向かい側に座った。
「なんだよ」
「別に」
お前も食うのか?と言いたかったがやめた。たぶん気を悪くする。気持ちの良い朝とケーキを前にして、喧嘩にでもなったら気分が悪い。
「~~~!やっぱり最高に美味ぇな!」
ショートケーキはたった一度しか食べていない。最初から並んでいない事もあるが、人気が高く売り切れる事が多いようだ。そのケーキが残っているなんてまるで奇跡のようだった。
「お前はそればっかだな」
「仕方ねぇだろ、素直に美味いって言って何が悪い」
「悪いとは言ってねぇだろ」
「S.Yosihdaのケーキもすっげぇ美味いけど、俺はさ高杉のケーキが一番好きな気がする」
「……先生のケーキが美味いのは当たり前なんだよ」
「なんだ、高杉。お前笑えるじゃん」
高杉が初めて笑顔を見せた。想像していたよりも柔らかな優しい笑みだった。笑う事すらないのだと思っていたから、たまたま朝早く目が覚めてラッキーだ。
「笑ってねぇよ」
笑ったのはほんの一瞬であったが、絶対に笑っていた。そこから嬉しくなって、高杉に色々と話を振ってみた。ポツリポツリと高杉は短い返事をくれた。子供の頃の話とか、最近見たテレビの話だとか。中身もないような他愛のない話だ。高杉と出会って初めて会話らしい会話をした。
「お前、ゆっくりしてるが時間は大丈夫なのか?」
「えっ!?もう一時間も経ってんのか!?」
「……仕方ねぇから送ってやるよ」
「あ、でもロードバイクが……!」
「仕事終わったら取りに来りゃあいいだろ。それとも遅刻してぇのか?」
「助かる!!」
食器はそのままでいいと言われ身支度だけを整えた。今度は間違えずに右側のドアを開けた。シャワーも浴びたいし、着替えも必要だ。ロードバイクだと間に合いそうにない。
まだ混み合う時間ではないからか、街は静かだ。ようやく起き出してくる頃合いだろう。駅まで良かったのに、高杉は家の近くまで送ると言った。遅刻されたら目覚めが悪いと付け加えて。
「台風でも来そうだな」
「そりゃどういう意味だ?」
一応、冗談も通じるらしい。少し眉を潜めたあたり、高杉の中でもこの行動は珍しい部類なのだろう。きっともう少しで着いてしまう。この時間がどうにも惜しくて、このまま仕事をずる休みしてやろうかと思った程だ。
「ありがとう」
「おう」
土方の顔も見ない。ただ僅かに手を上げて高杉は去っていってしまった。それでも土方の中では、大きな一歩を踏み出したような気がしていた。
シンクで二人分の食器を洗った。水切りラックに立て掛けると、詰めていた息を吐いた。
厨房の奥にはちょっとした事務室がある。形ばかりで寝るためにしか使っていない。パソコンと食事用のテーブルと小さな冷蔵庫。それにソファベッドと簡易のシャワー室。事務室というより仮眠室と言った方がいい。部屋は別に借りているが、帰るのが面倒で一年のうち半分以上はここで過ごす事が多い。
一日中試作版に集中し、ぶっ倒れた事もある。たまたま朧が様子を見に来たから大事には至らなかった。病院のベッドで説教を聞きながら、数日後にはソファベッドが運び込まれていた。少々過保護すぎやしないかと思う。
服を放り投げて、温めのシャワーを浴びる。少し外に出ただけで、じわりと汗が滲む。厨房でケーキに夢中になっていたら、いつの間にか夏になっていたらしい。梅雨はいつだったのだろう。夏は食中毒や食材が痛みやすいから、より神経質になる。
『なんだ、高杉。お前笑えるじゃん』
シャワー室の小さな鏡には仏頂面の無愛想な男しか写っていない。つい先日も食材を見ていただけなのに、顔が怖いと子供に泣かれたばかりだ。
笑った覚えは全くない。ならば土方の見間違いだろう。それに加えて普段の自分ならあり得ない行動はなんだったのか。
バスタオルで軽く身体を拭く。洗面台の鏡にもやはり、仏頂面の男を写すだけだ。Tシャツに着替えると、ソファベッドに横になった。今夜は久しぶりに家に帰ろうかと思ったが、すぐに土方のロードバイクの事を思い出した。車庫に閉まってあるから、シャッターを開けなければならない。取りに来ればいい、と言った手前放っておく訳にもいかない。
「面倒臭ぇ……」
起きてから決めればいい。答えの出ないモヤモヤを抱えながら、ゆっくりと目を閉じた。
※※※※※
坂田が北斗心軒と書かれた暖簾を潜ると、すでに桂と朧がメニューを広げていた。昔ながらのラーメン屋といったこの店は、それなりに繁盛をしているようだ。噂によれば店を切り盛りしている女将は未亡人らしい。桂がなぜこの店を選んだかの理由は、また今度問い詰める事にしよう。今日は桂の事よりも、話さなければならない人間がいる。
「悪ぃ、待たせた」
「いいや、俺たちもさっき来た所だ」
「銀時、変わりはないか?」
「俺ぁ変わりねぇ。朧兄さんは隈が濃くなってねぇか?」
「最近、取材やコンクールが重なってしまってね。クリスマスの計画もあるし……心配しなくても明日、明後日は休みにさせて貰ったよ」
ならよかった、と上着をイスにかける。つい最近まで暑かったのに、十月ともなれば朝と夜は冷えるようになった。
まずは腹ごしらえとメニューを覗きこむ。醤油に塩と味噌。チャーハンと餃子や唐揚げの文字が並ぶ。ビールにも惹かれるが、今日は少々真面目な話である。最近のチェーン店みたいにごちゃごちゃしていなくて分かりやすい。結局シンプルな物が一番美味かったりする。
桂が率先して手を上げた。女将が駆け寄って来て注文をメモしていく。その様子をしげしげと観察した。未亡人で旦那が残した店を守っている……桂が気にするのにも納得がいった。
「それで、お前が飯に誘うとは珍しいな」
坂田の視線に気付いていた桂が訝しげに問う。
「ちょっと気になる事があってさ……高杉の事なんだけど」
高杉という名前に二人が反応をする。坂田の気になっている事と、二人が考えている事は同じ事かもしれない。確証はなくともピンと来ている。ならば話は早い。
「高杉のケーキ……味が変わったと思わねぇ?」
「……やはりか」
桂が同意し朧も頷いた。パティシエのツートップと言われるくらいの二人が、気が付かない筈がない。それに幼少から一緒に過ごしてきた仲だある。ほんの僅かな変化だが、確信を得た。
目の前にラーメンが運ばれてきた。餃子は今焼いているので少し待って欲しい、との事だ。桂が残念そうにしたのをバイトの子は勘違いしたようだ。
冷める前に食べようと箸を付ける。そこそこ美味い。すげぇ美味いというよりは、たまに食べに行きたくなるようなそういう感覚になる。焼き立ての餃子は女将が持って来た。桂が明らかに嬉しそうにしている。
「話を戻すけどよ、高杉のケーキの味が変わったのって、ここ最近でさ。それも、土方くんが通うようになってからなんだよね」
ピタリと二人の箸が止まった。桂の目には期待の色が浮かぶ。僅かながら身を乗り出してきた。
「つまり……?」
「味もちょーーっと土方くん好みというかなァ……?」
「銀時!勿体ぶらずに言え!」
「ありぁ……恋、だな」
「恋……!?」
「恋……か」
いささか盛ったような気もするが、当たらずとも遠からず。その辺りに疎い朧はともかく、桂はある程度予想していたのではないだろうか。
「ま、流行り廃りはあるし、食材によっても味が多少変わる事はあるじゃん?ずっと同じ味を守りつつも、ある程度の変化は必要なモンだろ?研究熱心な高杉が意味もなく変えるとは思えねぇ」
その時代の流行や、季節による気温や湿度の変化。使う食材によって多少味が違う事もある。例えば、同じ苺でも品種や季節によって甘味、酸味や食感も違う。同じ調理法だから全部同じになる訳ではない。向き不向きだってある訳で。均一にする為に調節する事はあるが、高杉の変化はそういった物とは違う気がした。その確信を得られたのは別の事である。
「三回くらい土方くんと一緒に高杉の店に行ったんだよ。初めて二人で行った時は両方とも塩対応だったのに、夏に入ってから行ったらよ……」
「行ったら、どうだったのだ……!」
「俺は相変わらずなのに土方くんには優しく対応すんの。で、土方くんの肩に手を置いたらすっげぇ睨んでんだよ。本人は気付いてねぇみてぇだが、ありゃ嫉妬心丸出しだな。俺だけで行くと"お前だけか"ってあからさまに不機嫌になる」
「高杉がか……!?」
桂が驚いた。他人に興味がない、寄せ付けない、人間嫌い。感情もあまり表に出さない仏頂面。その高杉が他人に興味を持った。交友関係といえば松陽を含めても両手で足りる。
「……そうか……晋助が………」
朧に至っては目頭を抑えている。松陽が存命していた頃とはいえ、クセ者揃いの子供たちを纏めるのには手を焼いた。特に坂田、高杉は何かと揉め事を起こす。桂が後始末をして苦労をしてくれたが、いつしか悪ガキ三人組の評判は広まっていた。
さりげなく桂がティッシュを渡す。その気遣いにさらに朧の肩を震わせた。手がかかったとはいえ、松陽より託され自身の弟のように可愛い彼ら。世の中との関わりを拒絶しているような高杉が、他人に興味を持ったとなれば涙が出る程に嬉しかった。
「という訳で俺は高杉と土方くんをデートさせようと思う」
「具体的には……?」
ラーメンも餃子もそっちのけで坂田の話に耳を傾ける。女将が横を通ったというのに、桂は視線を向ける事をしなかった。
「ここに取引先から貰った水族館のペアチケットがある。高杉は騒がしい所は嫌いだから、遊園地よりは可能性が高くなる。一方の土方くんはこの水族館で近々マヨリーンコラボがある事を知っている」
具体的な作戦はこうである。S.Yoshidaに来た土方に朧か桂が「貰ったが行けないので」と水族館のペアチケットを渡す。その時にそれとなく「高杉を息抜きさせて欲しい」と言う。
坂田はチケットを渡された確認した後、土方を高杉の店に誘う。これは運次第だがここ暫く開けていない事。出入り業者の坂本から高杉の店に納品に行く話を聞いた。数日中に店を開ける可能性は高い。
運任せではあるが、下手に動くと勘のいい高杉に気付かれる。そうすれば警戒して店を開けないだろうし、坂田は永久に出禁だ。
「いささか行き当たりばったりな気もするが……下手に芝居を打てば高杉は確実に怪しむな」
「しかし、晋助の交友関係に私たちが首を突っ込むのも……」
「でもよ朧兄さん。このままじゃ高杉は俺たち以外に友達がいねぇままだぜ?恋の一つや二つしとかねぇと偏屈ジジイになっちまう。こんなチャンス早々巡ってこねぇ」
高杉の交友関係に口出しするのは気が引けるが、気にならない訳でもない。限られた、それも幼少の頃からの知り合いしかいない。お節介だとしても、高杉にはもう少し広い世界を見て欲しいとも思う。
「あまり騙すような真似はしたくないが……協力しよう」
「高杉と土方くんがもっと仲良くなる手伝いをするだけだ。悪い事にはならねぇさ」
暫く考えた後、朧もとうとう頷いた。本当に恋かは分からなくとも、高杉に友人が増えるなら喜ばしい事はない。言いくるめられている感は否めないが、桂も一枚噛むならなら最悪な事にはならないだろう。
「ラーメン伸びる前に食っちまおう」
餃子も少し冷めてしまった。食べ終わったらもう少し詳しい作戦会議を始めたい。イタズラを相談していた幼少の頃を思い出して、坂田は懐かしさを覚えた。
※※※※※※
つい先日の事だ。朧から水族館のペアチケットを譲り受けた。仕事が立て込んでいて期限までに行けそうにない。もし良ければだが、根を詰めやすい高杉を息抜きに引っ張り出してくれないか、という話であった。
あまりに良くしてくれる朧に申し訳なさはある。だが、朧や桂だと首を縦に振らないので、土方ならばと白羽の矢が立ったのだ。役に立てるというのなら、喜んで引き受けたいと思った。
水族館はマヨリーンコラボが開催されており、行きたいと思っていた場所だった。嫌と言われれば、他の人間を誘っても、チケットは好きにして構わないと言われた。最近態度の軟化してきた高杉とも、もう少し話してみたいとも思っていた。まさに渡りに船である。
しかし、どうやって切り出したものか。会話はほんの少し増えたが、せいぜい世間話をするようになった程度で、店主と客ぐらいの関係性が一番近いだろう。
会社の喫煙室で唸っていると、ちょうど坂田が通りかかった。ひっ捕まえるとジュースと引き換えに相談を持ち掛ける。
「とりあえず当たって砕けろで言ってみりゃあいいんじゃねぇ?断られると思ってんなら、言っても言わなくても同じだろ」
確かにそうである。どうせ断られるならハッキリ断られた方がスッキリする。ペアチケットなら一人で使うより、近藤か沖田にでも譲ればいい。
「金曜の夜、暇?俺の勘が営業してるって言ってんだよ。一緒に行けば俺が上手いこと高杉の事を乗せてやるよ」
「金曜か……空いてるがお前の勘が当たった事ねぇだろ」
この日は開いてるはず!と坂田の勘を信じた結果は全敗だった。外回りでパチンコや馬に寄り、財布を空にして帰ってくるだけのことはある。
「まぁまぁ、とりあえず行ってみようぜ?開いてりゃ高杉を上手いこと乗せてやるからさ」
じゃあいつもの所な、と返事を聞く前に坂田は出て行ってしまった。結局の所、運任せなのは変わりがない。なるようになるしかない、と結論付けた。その裏で坂田が意味ありげな笑みを浮かべている事に気が付く事はなかった。
初めて坂田の勘が当たった。高杉の店から光が漏れている。坂田が得意げに笑っていた。ニヤニヤした顔に土方はイライラする。
高杉はいつも通り土方を迎え入れた。後ろの坂田を見た瞬間、苦虫を噛み潰したような顔をしたが。
ケーキを選びテーブルに座る。今日はティラミスを選んだ。坂田は苺がたっぷり乗ったタルトである。初めて坂田とイートインした時には驚きを隠せていなかった。二回目からは堂々と座っている辺り、やはり坂田である。
やはり美味しい。美味しいのだが、チケットの事を考えると緊張してしまう。個人的な話であるから、高杉は聞く耳すら持たないかもしれない。
いつもより時間をかけて食べている。坂田はとっくに食べ終わって、高杉にダル絡みしている。返事などほぼ返ってきていないが、付き合いが長い分なんとも思っていないのだろう。
「高杉、水族館とか興味あるか……?チケット2枚貰っちまって」
皿を引きに来たタイミングで声をかけた。「息抜きに」と言うと誰から貰ったかバレてしまう。あくまで土方が、という事にしておかなければ。一瞬だけ土方を見て「興味ねぇ」と二人分の食器をトレイに乗せた。
予想通りの結果でも残念な気持ちは変わらない。心のどこかで「もしかしたら」と期待していたから尚更だ。
「え~勿体ねぇなぁ。じゃ、土方くんは俺と一緒に行」
「行く」
ガチャンと食器が音を立てた。土方は「一緒に行こう」と言った坂田に返事をしていない。
「でも、高杉は水族館興味ねぇんだろ?俺がお前の代わりに土方くんとデートしてくっから、気にすんなって」
「行くって言ってんだろ。おい、土方いつ空いてる」
「えっ、あぁ……とりあえず今月の休みはどこも予定ねぇけど」
「分かった。明後日の日曜だ。十時に現地でいいな」
「お、おう」
いつの間にか予定が決まっていた。当事者である筈なのに、蚊帳の外にいるような感覚だったが。チケットを受け取った高杉はさっさと奥に行ってしまう。先程のやり取りが幻覚のように思えてきた。
「な?アイツ負けず嫌いだから、上手く乗せられただろ?」
「そうだな……ありがとう」
坂田と高杉は何かと張り合っていたと聞いている。子供の頃から喧嘩も多く、それは今も変わっていないらしい。「息抜きしろ」と言っても素直に頷かないなら、そこを刺激したという事か。
「じゃ、高杉が息抜きできたか教えてくれよ!」
坂田も高杉の事をそれなりに気にしてくれているようだ。口では文句を言いながらも、腐っても旧友という事か。息抜きという重要な役目を任されたのだ。マヨリーンコラボも勿論魅力的だが、土方も負けず嫌いである。何がなんでも高杉を息抜きさせてやる。そう心に誓って家路へと着いた。
※※※※※
坂田は土方が完全に見えなくなってから、スマホでメッセージを打った。
「作戦成功」
短くとも意味は分かる。すぐに桂から着信があった。
『高杉の反応はどうだったのだ?』
「俺が土方くんと一緒に、って言ったら食いぎみに行くって言ってたぜ」
『ほう……これはつまりそういうアレだな』
「日曜の十時、現地集合って事で行ってくるわ」
『頼むぞ銀時。お前の頭は目立つのだからな』
「へいへい、分かってるって。じゃあ楽しみにしといてくれよ」
作戦通りである。坂田が一緒に行くと言い出せば、高杉は自分が行くと言うのは分かっていた。
だが坂田はデートに誘導しただけでは終わらない。当然、それを尾行する義務がある。こんなに面白そうな事を見逃すなど、出来る筈もないのだ。今夜は興奮して眠れないかもしれない。
何がなんでも高杉の初恋を見届ける。そう心に誓って家路へと着いた。
※※※※※
土方は十分前には水族館に着いていた。本当はもっと早く着いていたけれど。ただあまりに早すぎたので、近くのコンビニや周辺を歩き回って、時間を潰した。前日に水族館の下調べをして、一応近くの飲食店もチェックした。プランは立てているが、高杉が気を変えて来ない不安もある。連絡先を聞いておけばよかったと思ったが、教えてくれる気がしない。「必要ねぇだろ」と一蹴されて終わりな未来しか見えなかった。
「よぉ。待たせたな」
私服の高杉は新鮮だった。シンプルなジャケットとシャツにパンツが、よく似合っている。
「いや、全然。行こうぜ」
来ないかもしれない不安から解放された。しかし、次は息抜きさせるという大役から来る緊張感だ。少し話すようにはなったが、高杉の事は何も知らない。基本的には土方が話しかけるばかりで、返事も簡単な物だ。
家族連れや恋人だけでなく、高校生らしい男子グループも居た。男二人は浮くかと思ったが意外とそうでもないようだ。
中に入れば大きな水槽に釘付けになった。水族館なんていつぶりだろうか。童心に帰ったようで、期待していた何倍も楽しい。
隣に居る高杉を盗み見る。視線は水槽に向いているが、顔はずっと無表情だ。機嫌が悪くはなさそうだが、楽しそうな感じもしない。土方ばかりはしゃいでいる様子に、引いてしまったのだろうか。これでは高杉ではなく、土方の息抜きになってしまう。
「たまには悪かねぇな」
不安を見透かしたように、高杉が呟いた。土方に向けてなのか、一人言なのかの判断はつかなかったが。ただ、高杉は嘘やお世辞を言わない。退屈なら、ハッキリそう言って帰ってしまうだろう。
「次さクラゲの水槽行かねぇ?なんか凄ぇらしいぜ」
パンフレットを見せながら思い切って聞いてみる。高杉はパンフレットを覗きこんだ。表情に出なくても、高杉なりに楽しんでいるようだ。
水族館は思ったよりも広く、結構歩き回った。一息入れる為ショップ横のカフェに行きたい訳なのだが。高杉の顔が僅かに曇ったのが分かる。
そこにはマヨリーンの等身大パネル。さらにはマヨネーズの文字が掲げられている。ケーキにかけられたマヨネーズは、高杉にとっては悪夢のような物だ。
「……アイスコーヒーでいいか?」
勿論、コラボメニューだけでなく通常メニューも販売されている。恐る恐る聞くと、一応は頷いてくれた。マヨリーン目的というのは、確実に感付かれてしまっただろう。
アイスコーヒーともう片方にはコラボドリンク。高杉の眉間の皺が深く刻まれた。マヨネーズではあるが、自分が店に持ち込んだ訳ではない。息抜きにきた水族館で、たまたまコラボをしていた。そう本当にたまたま。
「飯行くか?」
これで解散かと思いきや、予想外にも高杉から声がかかった。これ幸いと頷いた。いくつか飲食店はリストアップしているが、どこか気になる所はあるだろうか。
「俺の行きたい所でいいか?」
断る理由もなく、高杉の車へと乗り込む。連れて来られたのは、なんだか高そうな和食の店だった。おすすめの下に「時価」と書かれていたのは見なかったことにしたい。
「今日は朧兄さんにでも頼まれたか」
「……バレてんのか」
「兄さんは過保護だからな。いつまでも俺たちを小さな弟だと思ってやがる」
なんとなく分かる気がする。何かと世話を焼いてしまうのは、三人が一番手がかかったせいだろう。
「身内が迷惑かけた詫びだ。ここの支払は俺が持つ。で、息抜きってんならもう少し付き合え」
「いや、飯代は俺も……!」
「ア゛?俺が出すつってんだろ。文句あんのか?」
バレていたとはいえ、騙し討ちのような物である。ここは素直に引き下がるのが無難だ。
再び高杉の車に乗り込む。目的地までドライブに付き合えという事だ。
高杉の運転は丁寧で自然とまぶたが下りそうになる。昼食を摂った後だからか余計に。必死に目を開けようとしていると「着いたら起こす」とだけ言われた。それでもどうにか起きていようとしたが、睡魔には抗えなかった。
約一時間半のドライブで到着したのは、最近人気のケーキが評判のカフェだった。テレビで紹介された事もあってか、かなり賑わっている。坂田も「ここは美味い」と言っていたので、間違いないはずだ。
「高杉もこういう所来るんだな」
「言っておくがリサーチだからな」
遊びに来た訳ではないとハッキリと否定される。息抜きと分かっていても、仕事を兼ねるのは高杉らしいと感じた。
一番のオススメというチーズケーキを頼んだ。不思議な物で、今は甘い物を頼む事への抵抗が減った。今もまだ甘いものは苦手だと誤解されている。それもいつか自ら解ける日が来るかもしれない。
「美味ぇ……!!」
坂田が言うだけはある。何がどうと言えるだけの語彙力はないが、今まで食べた中でも群を抜いて美味い。顔が自然に緩んでしまう。ここに鏡があれば、満面の笑みに違いない。
「これ、ずっげぇ美味ぇな!なぁ、高杉!……高杉どうした?」
高杉の顔が険しい。見るからに機嫌が悪そうだ。ケーキに何か問題があったのだろうか。一口だけ貰った高杉のガトーショコラも、とびきり美味しかった。そうなると、パティシエとしてのプライドが刺激されたのかもしれない。
「そんなに美味ぇのか?」
「ああ!すげぇ美味ぇよ!」
「……俺のよりもか?」
高杉のケーキを思い浮かべる。ここのケーキも美味いが、高杉のケーキもやっぱり美味い。どう伝えるのがいいか考えてみた。だが、無理に言葉にするしなくてもいい、と言われた事を思い出す。
「俺にはどれが一番美味いかってのは、わかんねぇけどよ。前にも言ったけどさ、俺は高杉のケーキすっげぇ好きだぜ?」
それを聞いた高杉は、見たことのない表情で沈黙した。何かまずかったのだろうか。知らない内に地雷を踏み抜いてしまったのか。考えていると、高杉が急に立ち上がった。
「俺のケーキしか食えなくしてやる」
「お、おう……?」
そう言ったかと思えば、何もなかったかのように座った。残っていたケーキを無表情で食べている。
一体どういう意味なのだろう。機嫌は悪くはなさそうだが、直ったのかも分からない。怒っているようでもなさそうである。
「まだ、何か頼むか?」
「いや、いい。大丈夫」
高杉の様子はおかしいままだ。それに、ここの支払いも高杉がしてしまった。これ以上は悪いと断った。
何とも言えない空気の中、自宅近くまで送って貰った。別れ際に高杉に礼を言われ、本当に何事かと思ってしまう。
今日の報告の為に桂に連絡を取る。ついでにあの事についても聞いてみようと思ったがやめた。なんとなく憚られたからだ。とりあえず息抜きは出来たようだ、に止めておく。
『俺のケーキしか食えなくしてやる』
あの言葉の意味は何なのだろう。始めは高杉の機嫌を悪くして出禁にされるのかと思った。
「でも、高杉のケーキは食えるんだよな……?」
食うなではなく、食えなくしてやるならそういう意味だろう。考えてはみたものの、結局意味はわからないままだ。明日出勤した時に、坂田に聞いてみる事にした。
