Le feuilleté des jours (ル フイエテ デ ジュール)
人嫌いのパティシエ高杉×隠れ甘党の会社員土方の現パロを本に致します。こちらはサンプルです。本編は全文公開します。紙で欲しい方向けです。本には書き下ろしがあります。
「近藤さんのマイホームとお子さんに祝して、乾ぱーーい!!」
土方の同僚である近藤は、念願のマイホームと子宝を授かった。その祝いの席が設けられた。子供が出来たとなれば、家族中心の生活になる。今後、子供が小さい内は飲み会には参加しない。飲みに行けないのは寂しいが、無理に誘おうという人間はこの部署にはいない。妻の方も女子会という事で別の所で盛り上がっているらしい。
酒は好きだがそう強くはない。それに世話役がいないと、酒に潰れる者が何人か出てくる。近藤はその筆頭だ。全員が順に酌をするものだから、確実に潰れるであろう。
コースの最後にバニラアイスが出された。宴会料理だからか濃い味付けが多かった。口の中をさっぱりさせるには丁度いいのだが。
「土方さんは甘いもの苦手でしたよね?」
「えっ。ああ、すみません。よかったらどうぞ」
女子社員の口の中へと土方のバニラアイスが消えていく。「甘くて美味しいね」と笑顔が溢れる。それを出来るだけ見ないように、酔い冷ましと熱い茶を飲む。
実は、土方は甘いものが好きである。だが、見た目のせいなのか「甘いものは苦手」という誤解を受けてしまう。本当は食べたかった。業務用のごく普通のアイスだろうけれど、甘いものには変わりない。隣の部署の坂田は甘党を公言し、社内でも周知の事実だ。つい喧嘩腰になってしまうのは、そういう自由さへ憧れかもしれない。
予想通り近藤が酔い潰れた。それに加えて三人程の酔っぱらいがいる。土方は手早く会計とタクシーを手配した。
手のかかる酔っ払いどもをタクシーに詰めこんだ。順番に住所を伝え、下ろしていく。二人は千鳥足でも歩いてくれるから助かった。近藤はすっかり夢の中で起きる気配が全くない。自分よりも体格のいい近藤を下ろすだけで息が上がりそうだった。
自宅には電気は付いておらず、妻は地元に帰っているという話を思い出した。ポケットから鍵を取り出し、近藤を玄関に放り込む。一番体格がよく、二人も運んだ土方にとっては重労働だった。さすがに中にまで運ぶ余裕はない。眠っている近藤に形ばかりの断りを入れて中に入った。運良くリビングのソファにブランケットがあった。戻ってかけてやると「ううん……お妙さぁ~ん」と寝言を言っていた。玄関を施錠してドアの新聞受けに入れておく。
「嘘だろ……」
ようやく自分も帰宅できると戻ってみると、タクシーがいない。あまりに戻って来ないから、勘違いで発車してしまったのかもしれない。自分の荷物も近藤たちの荷物と一緒に後部座席に置いてしまった。しかも足元である。見落とされた可能性が高い。
そんな事があってたまるかと思ったが、現に土方を置いてタクシーは発車している。配車アプリで決済は完了する、という点も運が悪かったのだろう。運転手自体も年配で耳が遠いのか住所を伝えるのに骨が折れた。
幸いにも明日は休みである。たまたまスマホのケースに家のカードキーも入っていた。荷物の問い合わせは明日にでもやればいい。財布も一緒に持っていかれたが、スマホがあればなんとかなる。急げば終電にも間に合うだろう……そう思って駅に向かおとした時、はたと気付いた。
ここは行き慣れた近藤のアパートではなく、引っ越の手伝いとお祝いで一度来たきりの新居の方である。土地勘が全くない。閑静な住宅街で目印になるような建物もない。朧気ながら駅までの道のりの記憶はあるが、夜という事もあり役に立ちそうにない。
おまけに土方の家からもかなり離れている。いつもの癖で一番近い近藤を最後に下ろすのだが、引っ越しで一番遠くなってしまった。そこに気付かないくらいには、アルコールが回っていたらしい。
スマホで地図を確認しようとしたが、充電が5%しかない。そんなに使った覚えはないのだが、と操作してみると知らないパズルゲームが起動されたままだった。飲み会の最中に沖田が飽きたとか言って、土方のスマホを奪って操作していたのを思い出した。勝手にダウンロードしてそのまま放置されていたようだ。
配車アプリでタクシーを呼ぼうにも住所も覚えていない。地図を開いている間に、充電が一つ減る。
今やスマホは土方の生命線だ。充電が切れたらどうにもならない。駅があるのも覚えているし、そこまで行けばコンビニもある。ただし、逆方向に歩いてしまうとほぼ住宅街しかない。
終電前とはいえ知らない家に道を尋ねる訳にもいかない。最悪不審者だと通報されてしまう。
諦めて歩き始めた。一度は来ているのだから、何かしら覚えているはずと思ったのだが。予想通りというか、完全に迷っている。勘頼りに歩いたせいで近藤の家にすら戻れそうにない。
大好きなアイスは食べられない、タクシーには置いていかれ、いい年して迷子になる。我ながら情けなくなってしまう。
肩を落としとぼとぼと歩いていると、街灯とは違う明かりが見えた。その正体はここからでは分からない。けれど、この事態が好転するかもしれない。それに向かって走り出した。
「店……なのか……?」
そこは民家というようでもなく、何かの店のようだった。しかし、看板も何もない。小さなガラス窓から淡い光が漏れている。もしここが民家であれば非常に失礼だが、背に腹はかえられない。中に人が居るようなら事情を話して助けて貰おう。
(あれは……ケーキ……?)
窓からわずかにショーケースらしき物が見えた。ハッキリと見えないが、白い物体に赤色が乗っている。隣にはチョコレートらしい物も見えた。
看板も何もないのは閉店しているからだろう。まだ片付けか、仕込みかで誰かが残っているのかもしれない。
緊張しながらドアノブに手をかけた。ドアは土方を迎え入れるようにすんなりと開いた。チリンと可愛らしい音がする。
中に入るとやはりケーキ屋であった。クラシックのBGMが、落ち着いた店内にはよく合っている。丸テーブルとイスが二脚あり、イートインスペースだろう。そしてショーケースには、定番のショートケーキやチョコレートに、フルーツたっぷりのタルト。手の込んだ細工の施されたケーキには、思わず感嘆の声が出る程の見栄えだった。狭い店内はまるで宝箱のようで、思わず今の状況を忘れてしまいそうになる。
「誰だテメェ」
明らかな嫌悪感を含んだ声に、後ろを振り返る。そこにはナイフを持った男が立っている。真っ白な服に赤い染み。ケーキに見とれていたせいで、人が居る事に全く気付かなかった。
死ぬかもしれない。それが真っ先に頭に浮かんだ。何も言えずに固まっていると再び「誰の紹介で来た」と言った。
「あ……あの、俺は、その……!」
「ア゛ァ?さっさと答えろや。テメェは誰だ?会員証は?こっちは試作で忙しいんだ、時間取らせんじゃねぇ」
男は益々殺気立つ。前髪で隠れた左目から眼帯が覗く。堅気にはとても見えない。ヤクザの店か何かで今から自分は殺されて、バラされるに違いない。
「おい!黙ってちゃ分かんねぇだろぉが!!」
片目だけでも男の睨みは恐ろしく、それだけで人を殺せそうだ。最期に目の前のケーキを食べてみたかった。
「ごごごごごめんなさい!道に迷って……!!」
「道に、迷ったァ……?」
覚悟した痛みは一向に訪れない。恐る恐る目を開けると、不思議そうな目で男が土方を見下ろしている。
「空き巣じゃねぇのか」
違う、と首が取れそうな勢いで頷いた。ついでに両手を上げて降参のポーズを取る。
「悪ぃ、最近空き巣が多いって聞いてたからな」
ひとまず誤解は解けたようだった。頭のほんの片隅で「犯罪を犯しそうなのは男の方では?」と疑問が浮かぶ。
「すみません……ちょっと色々あって、コンビニか駅までの道を教えて貰えると助かるんですが……」
「アンタ、本気で迷子なのか。ここ、逆方向だぞ」
男の視線が憐れみに変わる。迷子という言い方に引っ掛かるも、事実なので否定は出来ない。
「……事情は分かった。とりあえずそこに座ってろ」
男はため息を吐くと店の奥へと消えていった。
「アンタ、とんだ間抜けだな」
一通り事情を説明すると男の第一声はそれだった。全くもってその通りで、返す言葉もない。誤魔化すように、男の淹れたダージリンを飲む。
男は話してみると以外にも普通であった。スマホも電源を借りて、充電させて貰っている。持っていたのは、よく見ればパレットナイフ。赤い染みもベリーのソースを溢してししまっただけである。
近頃空き巣が多発しており、見たことのない人間がいたから警戒したという。疑問に思ったが、ここは一見さんお断りの会員制パティスリーらしい。紹介制で男が許可した人間のみが出入りできる。そこに見たこともない人間が居れば「誰だ」と聞かれるのも納得がいった。
夜遅くまで試作とは。ショーケースに並ぶ美しいケーキは、男の努力の証なのだろう。
「閉店してからも試作するって、やっぱりパティシエも大変なんだな」
「閉店してねぇ。開けたばっかりだ」
「は?」
「うちは深夜営業しかしてねぇ」
「えっじゃあ客来ねえんじゃねぇか」
「客なんて迷惑だ。来ない方がいい」
「はぁ!?お前、客商売舐めてんのかよ!?」
「他に何店舗かと土地もある。だから、稼ぎなんていらねぇんだよ。金なら捨てる程あらァ」
まさかボンボンの道楽だろうか。「意外といい人」から「やっぱり嫌な感じ」と好感度が下がっていく。それまで美しく見えていたケーキも途端に色を失ってしまう。
「……そろそろ充電も溜まったろ。駅まで送ってやるから用意しろ」
男は席を立つと奥へと向かう。暫くすると土方のスマホを投げて寄越した。落としそうになりながら、なんとか受けとる。文句の一つも言いたいが、そんな立場にはないので大人になるよう務めた。
「おい、店はどうするんだよ」
「めんどくせぇから今日は閉店」
男はボタンで店のシャッターを下ろしていく。シヤッターまで付けているのも、看板もないのも徹底的に客を排除したいからだ。
代わりに店の隣のシャッターが開いた。そこには土方の年収では足りない程の高級外車。思わず顔がひきつったが、男が背を向けていた為に気付かれはしなかった。
「そっちじゃねぇよ」
左ハンドルかよ。毒づきながら、右側のドアを開けた。座ったシートすらなんだか違う。いつもなら多少なりと興奮していたかもしない。この男がいい人だったらの話だが。
車は静かに発進した。車内は変な改造やキツイ匂いもしない。至ってシンプルでBGMすらない。
無言の車内は気まずいが、だからといって話題もない。手持ち無沙汰になりスマホを操作する。現在地と最寄駅を確認した。終電にはどうにか間に合いそうだ。忘れない内に沖田の入れたゲームも消しておく。
「じゃあな」
礼もろくに言えぬままに男は去っていった。深夜営業なのは人が嫌いだからと言っていた。モヤモヤした物を抱えながらも、改札を抜けちょうどホームに入ってきた終電に乗り込んだ。
座席に座ると疲れを急激に感じた。仕事終わりの飲み会に、その後知らない土地を歩き回ったのだから当然だ。乗り換えはないから、寝過ごしさえしなければ問題ない。
あの男は変な男だった。それでも一応は世話になったのだから、礼はしておきたい。やる気がないと言ってはいたが、営業中の店を閉めて土方を送ってくれたのだ。営業妨害だ、とまでは言わないだろうが迷惑をかけたことに変わりはない。
(手土産……はあった方がいいよな?ケーキ屋に菓子折りは変か……?)
少し考えてみたが何も浮かばない。持って行っても「いらねぇ」と言われそうでもある。行ってもあまりいい気分もしなさそうだし、やはり止めておこうかとも思うのだが。
(あのケーキ食ってみたかったなぁ)
ショーケースに並んだケーキが頭から離れない。作った人間はアレでも、見た目からして絶対に美味しいはずである。完全にケーキの口になってしまった。帰宅する前にコンビニに寄ろうと決めて、電車の揺れに身を任せた。
十四回目の挑戦で、ついに営業中のパティスリーに出会った。あの時と変わらず、小さな窓から漏れる光のみ。看板も何もない。シャッターはないが、ドアは客を拒んでいるようにも見える。
休み明けの出勤時に、近藤の謝罪を受けた。飲み会での失態を奥さんに詰められたようである。その会話の中で、新居の近くにケーキ屋はあるかと聞いてみた。
「ケーキ屋?う~ん……確か聞いた覚えはねぇなぁ。引っ越す前に色々調べたが、なかった気がする」
顎髭をさすりながらそう答えた。引っ越したばかり、というのもあるかもしれない。だが、近くに公園があるか、最寄りのスーパーはなどしっかり下調べをしていた。ケーキ屋は生活に必ず必要かと言われれば、あったら嬉しいくらいだろう。
ちょうど火曜日が祝日であった。これはラッキーと確かめる為にもう一度行ってみる事にした。礼は早いほうがいいし、記憶も残っている内がいい。今度は、最寄りの駅も近藤の住所もしっかりと記録している。
日中は犬の散歩や子供たちが元気に駆け回っていた。深夜とは全く様子が違っている。一応、持ち物を気にしてみたが、ケーキの箱を持っているような人間はいなかった。
近藤の新居の前に着いた。ここから逆方向に行けばあの男の店があるはずだ。送ってもらった時、おおよそ十分から二十分程で駅に着いたと思う。そうするとだいたい距離は十キロ程度だろうか。闇雲に歩いて、たどり着いた場所である。目印になるとすれば、昼間は降ろされているシャッターくらいだろうか。
検索してもあの男の店は出て来なかった。駅の近くにチェーン店が一件。次が一駅先になる。どんな手を使って、検索に出てこないようにしているのだろうか。あの迫力からして、ボンボンの道楽ではなく反社会的な方がしっくりきてしまう。
情報がない以上は足で稼ぐしかない。動きやすい服装とスニーカーをはいた。これなら多少ウロウロしてもウォーキングに見える。
散々歩き回って、もう脚が限界を訴えかけた時にようやく見つけた。住宅街に似合わないシャッター。間違いなくあの男の店だ。住所を記録し、念のため写真を撮っておく。もう一度検索してみるが、ケーキ屋らしき情報は見つからなかった。何かしら届け出や登録はしているだろうが、見つからない理由を考えても分かる訳がない。男の店が見つかったならそれで充分だった。
問題はここからであった。店は見付かっても営業していなければ意味がない。時間や曜日を変えて訪れてもシャッターは下ろされたままなのである。
一度目、二度目はたまたま定休日だったのだと思った。そこから曜日を変えても駄目だった。ならばと時間を変えても駄目だった。こうなると変な意地が出てくる。あの男に玩具にされているようで腹立たしい。そうしてついに十回四目の挑戦で営業中の店に出会ったのである。
「帰れ」
ドアを開けると早々に不機嫌な男が開口一番にそう言った。もし土方が客だったらどうしたのか。この無愛想な男の事だ「いらっしゃませ」の代わりが「帰れ」だとしてもおかしくない。
「帰れ、ってなぁ……こっちはこの前の礼をしに来てんだよ」
「はぁ?要らねぇ。帰れ」
予想通りに「要らない」と言われた。だが負けず嫌いの土方である。せっかくとっておきを持参したというのに、渡せないのは負けた気がする。ドアの隙間に靴を入れ締まらないようにと抵抗する。男もヤクザみたいな風貌だが、土方も充分ヤクザのようなやり方をしている。
「……あの、すみません」
後ろから声がした。振り返ると困った表情を浮かべた五十代くらいの男女が立っている。夫婦だろうか、どちらも品のある身なりだった。
「いらっしゃませ、中へどうぞ。……テメェとりあえず座ってろ」
男はため息を吐くと男女を案内する。土方には一睨みしてから席に座っているように言った。声色も対応も全く違う。その差に腹も立つが、自分が招かれざる客でもあるのは事実だった。中に入れて貰えたなら御の字だ。礼と渡す物だけ渡したらさっさと退散してしまおうとイスに座った。
ショーケースには六種類のケーキが並んでいた。作ってる人間には問題がありそうだが、ケーキに罪はない。普段土方がこっそり食べているケーキだって、どこかの知らないおじさんが作っているかもしれないのだ。
男女は楽しそうにケーキを選んでいる。やはり甘い物は人を幸せにする。その姿を眺めていたら不意に男と目があった。親の仇かというほどに、思い切り睨まれる。
男は出口まで見送りドアが閉まると、くるりと振り返った。大股で土方に近づき向かい側にどかりと腰を下ろす。真っ白なコックコートよりも真っ黒なスーツの方が似合いそうな態度である。
「で、テメェは何しに来た」
「一応、この前迷惑かけちまったしお礼をするのは当たり前の事だろ」
「そんな事でわざわざ来たのかよ。用は済んだろ。帰れ」
「まだ済んでねぇ。ケーキ屋に菓子折りって訳にはいかねぇから、代わりにうちの商品を持ってきた」
土方は紙袋を男の前に突きつける。中には自信のある商品を詰め込んできた。
「だから要らねぇって言ってんだろ」
「これを見てもか!」
会社の土方自身の自慢の商品である。数ある中から悩みに悩んで厳選したものだ。これを嫌いな人間が居る訳がない。必ず男だって喜ぶはずだと、中身を取り出した。
「なんだこれ」
「見て分からねぇか?マヨネーズだ!!」
「いや、だからなんでマヨネーズなんだよ」
自信満々の土方とは対照に男は喜ぶ所か、理解不能という顔をしている。土方は土方でなぜこの素晴らしさを理解できないのか、と疑問に思っている。ご家庭用のマヨネーズから、贈答用のこだわり抜いた瓶入りのマヨネーズまで。自社製品でもあるし、土方が開発に関わった物もある。全て、と言いたい所を泣く泣く厳選したというのに目の前の男は無反応だ。
「マヨネーズは全人類が好きな調味料だろ!?」
「別に好きでも嫌いでもねぇよ」
土方はその言葉に衝撃を受けた。まさか男のような人間が居るなんて思いもよらなかった。この男はもしかして人間ですらないのかもしれない。
「……受け取りゃあいいんだろ?」
土方がショックを受けている姿が余りに憐れに思えたのか、渋々と男は受け取った。それを見て土方の顔は輝いたが、男の顔には大きく「めんどくさい」と書いてある。
男は土方が満足したような表情を見て、出口へ案内しようと席を立とうとしたのだが。
「……ところであのケーキ買えたりしねぇか?どうしても食ってみてぇんだ!!」
一生のお願い、とでも言うように土方は顔の前で手を合わせた。ここが本来会員制で男の選んだ人間しか利用できないのは知っている。だが、あんなケーキを見てしまって、食べてみたいという気持ちは抑えられない。
「……今回だけだからな」
男は少し考えた後、諦めたように口にした。ここで変に帰すより、満足させてこれっきりにした方がいいと判断した。
「本当か!?ありがとう!!」
一瞬で土方はショーケースの前に座った。男はその様子に「そんなに食いかったのか」と思うと悪い気はしない。ケーキを見る土方の輝く目に少し機嫌が良くなった。
土方はケーキを六種類を一つずつ頼んだ。値段は一般的なケーキの倍で、フルーツの乗った物は千円を超えていた。財布は痛いが背に腹はかえられない。支払いは現金のみで、給料前には厳しい物がある。
「出してねぇやつがあるが食ってくか?」
物はついで、と男は土方にそう言った。自分の作った物に自信はあるが、他人の意見も大事である。ケーキを持って戻ってくると、背筋をピンと伸ばして座っている土方が居た。
飾りも何もないチョコレートケーキを目の前に置く。すると、目を輝かせながらケーキと男を交互に見た。まるで餌を前にした犬のようだ。
「食っていい」
それを合図にケーキにフォークが入った。まるで、壊れ物のように優しく扱っている。
「……うめぇ!!」
その表情は、驚きと感動に満ちていた。誰かの口に入る瞬間はいつだって緊張するものだ。そして、美味しいという表情はいつだって嬉しい。
「こんな美味ぇのに、なんでちゃんとした店で売らねぇんだよ!?」
「売ってんだよ。店用にアレンジはするがな」
「どこだ!?どこにあんだよお前の店は!?」
余程気に入ったのか少々食い気味に土方が問う。男はズボンのポケットからスマホを取り出し、操作して土方の目の前に出した。
「はぁ!?これS.Yoshidaじゃねぇか!!」
S.Yoshidaは世界的にも有名なパティシエ吉田松陽の店である。国内外で数々の賞を受賞し活躍を期待されていたが、若くして病によりこの世を去った。今は弟子たちと双子の兄が引き継いでいる。
「そういうこった。今度からこっちに買いにいくんだな」
「でも、本当に?お前がぁ…?」
確かに吉田には四人の弟子がいた。朧と桂はよくメディアにも出ていて看板のような物だ。残りの二人の内、一人は別の道を行った。もう一人は大層な人嫌いでメディアには一切出る事がないという。名前すら伏せる徹底ぶりである。
「信じるか信じねぇかは勝手にすりゃあいい。で、ケーキの感想は」
「今までで食べた中で一番美味い!でも、やっぱり足りねぇんだよなぁ」
「足りない?何がだ?」
男は身を乗り出した。一人の職人としてレシピの改良の余地があるなら聞いておきたい。勿論、個人の好みもある為、全てが正しいとは限らない。だが、生の意見や感想は貴重である。
「そりゃあ、これだよ」
土方は自分の鞄からマヨネーズを取り出した。そしてなんの躊躇いもなく、ケーキに絞り出していく。美しいチョコレートは真っ白なに染まってしまった。
「テメェは出禁だ!!二度と来るんじゃねぇ!!」
状況を理解する間もなく、土方は荷物と共に外へ蹴り出された。購入したケーキだけは丁寧に置かれている。ガチャンと鍵の閉まる音がして、おまけにシャッターまで下り始めた。
「はぁ!?ふざけんなよ!!」
ようやく閉め出された事に気が付き腹が立った。マヨネーズは万能調味料であり、ケーキにだって合うのだから。美味しい物と美味しい物。好きな物と好きな物を掛け合わせれば、絶対に美味いのに。あのケーキだってまだ一口しか食べていなかった。マヨネーズをかければさらに美味しくなった筈なのに。
軽く舌打ちをしてケーキの箱を持った。中身は崩れていない。少なくともあと六個はあるのだからと、自分を納得させることにした。
翌日、どうしても欲求を抑えられずにケーキを二つ会社に持ってきた。満員電車を避けて早めに出勤したから寝不足だが、ケーキの為なら多少の無理はする。
まだ誰もいないオフィスに座り、さっそく保冷バッグを開けた。そこにはショートケーキとフルーツのタルト。一瞬あの男の顔が浮かぶが、頭から追い払った。手を合わせてさて食べようとした時だった。
「あれ?それケーキだよな!?ちょっとくれねぇ?」
振り返るといつの間にか隣の部署の坂田がいた。甘党を豪語し糖尿寸前の男である。予想外の登場に焦っていると、坂田の手がフォークに伸びる。
「あ、おい!勝手に食うんじゃねぇ!」
ちょっと所か半分近くを坂田に食われてしまった。しかも大事な苺の方をだ。
「俺のケーキ返せ!!」
胸ぐらを掴むが、坂田の様子がどうもおかしい。いつもヘラヘラしてアホ面を晒しているのに、喋る事もなく真剣な顔をしている。
「どうした、坂田……?」
不安になり掴んでいた胸ぐらから手を離した。なおも坂田は何か考えている様子である。暫くすると、意を決したように坂田が口を開いた。
「……これ、高杉のケーキだよな?どこでこれを手に入れたんだ?」
そこにはいつになく真剣な表情をした坂田が居た。
「近藤さんのマイホームとお子さんに祝して、乾ぱーーい!!」
土方の同僚である近藤は、念願のマイホームと子宝を授かった。その祝いの席が設けられた。子供が出来たとなれば、家族中心の生活になる。今後、子供が小さい内は飲み会には参加しない。飲みに行けないのは寂しいが、無理に誘おうという人間はこの部署にはいない。妻の方も女子会という事で別の所で盛り上がっているらしい。
酒は好きだがそう強くはない。それに世話役がいないと、酒に潰れる者が何人か出てくる。近藤はその筆頭だ。全員が順に酌をするものだから、確実に潰れるであろう。
コースの最後にバニラアイスが出された。宴会料理だからか濃い味付けが多かった。口の中をさっぱりさせるには丁度いいのだが。
「土方さんは甘いもの苦手でしたよね?」
「えっ。ああ、すみません。よかったらどうぞ」
女子社員の口の中へと土方のバニラアイスが消えていく。「甘くて美味しいね」と笑顔が溢れる。それを出来るだけ見ないように、酔い冷ましと熱い茶を飲む。
実は、土方は甘いものが好きである。だが、見た目のせいなのか「甘いものは苦手」という誤解を受けてしまう。本当は食べたかった。業務用のごく普通のアイスだろうけれど、甘いものには変わりない。隣の部署の坂田は甘党を公言し、社内でも周知の事実だ。つい喧嘩腰になってしまうのは、そういう自由さへ憧れかもしれない。
予想通り近藤が酔い潰れた。それに加えて三人程の酔っぱらいがいる。土方は手早く会計とタクシーを手配した。
手のかかる酔っ払いどもをタクシーに詰めこんだ。順番に住所を伝え、下ろしていく。二人は千鳥足でも歩いてくれるから助かった。近藤はすっかり夢の中で起きる気配が全くない。自分よりも体格のいい近藤を下ろすだけで息が上がりそうだった。
自宅には電気は付いておらず、妻は地元に帰っているという話を思い出した。ポケットから鍵を取り出し、近藤を玄関に放り込む。一番体格がよく、二人も運んだ土方にとっては重労働だった。さすがに中にまで運ぶ余裕はない。眠っている近藤に形ばかりの断りを入れて中に入った。運良くリビングのソファにブランケットがあった。戻ってかけてやると「ううん……お妙さぁ~ん」と寝言を言っていた。玄関を施錠してドアの新聞受けに入れておく。
「嘘だろ……」
ようやく自分も帰宅できると戻ってみると、タクシーがいない。あまりに戻って来ないから、勘違いで発車してしまったのかもしれない。自分の荷物も近藤たちの荷物と一緒に後部座席に置いてしまった。しかも足元である。見落とされた可能性が高い。
そんな事があってたまるかと思ったが、現に土方を置いてタクシーは発車している。配車アプリで決済は完了する、という点も運が悪かったのだろう。運転手自体も年配で耳が遠いのか住所を伝えるのに骨が折れた。
幸いにも明日は休みである。たまたまスマホのケースに家のカードキーも入っていた。荷物の問い合わせは明日にでもやればいい。財布も一緒に持っていかれたが、スマホがあればなんとかなる。急げば終電にも間に合うだろう……そう思って駅に向かおとした時、はたと気付いた。
ここは行き慣れた近藤のアパートではなく、引っ越の手伝いとお祝いで一度来たきりの新居の方である。土地勘が全くない。閑静な住宅街で目印になるような建物もない。朧気ながら駅までの道のりの記憶はあるが、夜という事もあり役に立ちそうにない。
おまけに土方の家からもかなり離れている。いつもの癖で一番近い近藤を最後に下ろすのだが、引っ越しで一番遠くなってしまった。そこに気付かないくらいには、アルコールが回っていたらしい。
スマホで地図を確認しようとしたが、充電が5%しかない。そんなに使った覚えはないのだが、と操作してみると知らないパズルゲームが起動されたままだった。飲み会の最中に沖田が飽きたとか言って、土方のスマホを奪って操作していたのを思い出した。勝手にダウンロードしてそのまま放置されていたようだ。
配車アプリでタクシーを呼ぼうにも住所も覚えていない。地図を開いている間に、充電が一つ減る。
今やスマホは土方の生命線だ。充電が切れたらどうにもならない。駅があるのも覚えているし、そこまで行けばコンビニもある。ただし、逆方向に歩いてしまうとほぼ住宅街しかない。
終電前とはいえ知らない家に道を尋ねる訳にもいかない。最悪不審者だと通報されてしまう。
諦めて歩き始めた。一度は来ているのだから、何かしら覚えているはずと思ったのだが。予想通りというか、完全に迷っている。勘頼りに歩いたせいで近藤の家にすら戻れそうにない。
大好きなアイスは食べられない、タクシーには置いていかれ、いい年して迷子になる。我ながら情けなくなってしまう。
肩を落としとぼとぼと歩いていると、街灯とは違う明かりが見えた。その正体はここからでは分からない。けれど、この事態が好転するかもしれない。それに向かって走り出した。
「店……なのか……?」
そこは民家というようでもなく、何かの店のようだった。しかし、看板も何もない。小さなガラス窓から淡い光が漏れている。もしここが民家であれば非常に失礼だが、背に腹はかえられない。中に人が居るようなら事情を話して助けて貰おう。
(あれは……ケーキ……?)
窓からわずかにショーケースらしき物が見えた。ハッキリと見えないが、白い物体に赤色が乗っている。隣にはチョコレートらしい物も見えた。
看板も何もないのは閉店しているからだろう。まだ片付けか、仕込みかで誰かが残っているのかもしれない。
緊張しながらドアノブに手をかけた。ドアは土方を迎え入れるようにすんなりと開いた。チリンと可愛らしい音がする。
中に入るとやはりケーキ屋であった。クラシックのBGMが、落ち着いた店内にはよく合っている。丸テーブルとイスが二脚あり、イートインスペースだろう。そしてショーケースには、定番のショートケーキやチョコレートに、フルーツたっぷりのタルト。手の込んだ細工の施されたケーキには、思わず感嘆の声が出る程の見栄えだった。狭い店内はまるで宝箱のようで、思わず今の状況を忘れてしまいそうになる。
「誰だテメェ」
明らかな嫌悪感を含んだ声に、後ろを振り返る。そこにはナイフを持った男が立っている。真っ白な服に赤い染み。ケーキに見とれていたせいで、人が居る事に全く気付かなかった。
死ぬかもしれない。それが真っ先に頭に浮かんだ。何も言えずに固まっていると再び「誰の紹介で来た」と言った。
「あ……あの、俺は、その……!」
「ア゛ァ?さっさと答えろや。テメェは誰だ?会員証は?こっちは試作で忙しいんだ、時間取らせんじゃねぇ」
男は益々殺気立つ。前髪で隠れた左目から眼帯が覗く。堅気にはとても見えない。ヤクザの店か何かで今から自分は殺されて、バラされるに違いない。
「おい!黙ってちゃ分かんねぇだろぉが!!」
片目だけでも男の睨みは恐ろしく、それだけで人を殺せそうだ。最期に目の前のケーキを食べてみたかった。
「ごごごごごめんなさい!道に迷って……!!」
「道に、迷ったァ……?」
覚悟した痛みは一向に訪れない。恐る恐る目を開けると、不思議そうな目で男が土方を見下ろしている。
「空き巣じゃねぇのか」
違う、と首が取れそうな勢いで頷いた。ついでに両手を上げて降参のポーズを取る。
「悪ぃ、最近空き巣が多いって聞いてたからな」
ひとまず誤解は解けたようだった。頭のほんの片隅で「犯罪を犯しそうなのは男の方では?」と疑問が浮かぶ。
「すみません……ちょっと色々あって、コンビニか駅までの道を教えて貰えると助かるんですが……」
「アンタ、本気で迷子なのか。ここ、逆方向だぞ」
男の視線が憐れみに変わる。迷子という言い方に引っ掛かるも、事実なので否定は出来ない。
「……事情は分かった。とりあえずそこに座ってろ」
男はため息を吐くと店の奥へと消えていった。
「アンタ、とんだ間抜けだな」
一通り事情を説明すると男の第一声はそれだった。全くもってその通りで、返す言葉もない。誤魔化すように、男の淹れたダージリンを飲む。
男は話してみると以外にも普通であった。スマホも電源を借りて、充電させて貰っている。持っていたのは、よく見ればパレットナイフ。赤い染みもベリーのソースを溢してししまっただけである。
近頃空き巣が多発しており、見たことのない人間がいたから警戒したという。疑問に思ったが、ここは一見さんお断りの会員制パティスリーらしい。紹介制で男が許可した人間のみが出入りできる。そこに見たこともない人間が居れば「誰だ」と聞かれるのも納得がいった。
夜遅くまで試作とは。ショーケースに並ぶ美しいケーキは、男の努力の証なのだろう。
「閉店してからも試作するって、やっぱりパティシエも大変なんだな」
「閉店してねぇ。開けたばっかりだ」
「は?」
「うちは深夜営業しかしてねぇ」
「えっじゃあ客来ねえんじゃねぇか」
「客なんて迷惑だ。来ない方がいい」
「はぁ!?お前、客商売舐めてんのかよ!?」
「他に何店舗かと土地もある。だから、稼ぎなんていらねぇんだよ。金なら捨てる程あらァ」
まさかボンボンの道楽だろうか。「意外といい人」から「やっぱり嫌な感じ」と好感度が下がっていく。それまで美しく見えていたケーキも途端に色を失ってしまう。
「……そろそろ充電も溜まったろ。駅まで送ってやるから用意しろ」
男は席を立つと奥へと向かう。暫くすると土方のスマホを投げて寄越した。落としそうになりながら、なんとか受けとる。文句の一つも言いたいが、そんな立場にはないので大人になるよう務めた。
「おい、店はどうするんだよ」
「めんどくせぇから今日は閉店」
男はボタンで店のシャッターを下ろしていく。シヤッターまで付けているのも、看板もないのも徹底的に客を排除したいからだ。
代わりに店の隣のシャッターが開いた。そこには土方の年収では足りない程の高級外車。思わず顔がひきつったが、男が背を向けていた為に気付かれはしなかった。
「そっちじゃねぇよ」
左ハンドルかよ。毒づきながら、右側のドアを開けた。座ったシートすらなんだか違う。いつもなら多少なりと興奮していたかもしない。この男がいい人だったらの話だが。
車は静かに発進した。車内は変な改造やキツイ匂いもしない。至ってシンプルでBGMすらない。
無言の車内は気まずいが、だからといって話題もない。手持ち無沙汰になりスマホを操作する。現在地と最寄駅を確認した。終電にはどうにか間に合いそうだ。忘れない内に沖田の入れたゲームも消しておく。
「じゃあな」
礼もろくに言えぬままに男は去っていった。深夜営業なのは人が嫌いだからと言っていた。モヤモヤした物を抱えながらも、改札を抜けちょうどホームに入ってきた終電に乗り込んだ。
座席に座ると疲れを急激に感じた。仕事終わりの飲み会に、その後知らない土地を歩き回ったのだから当然だ。乗り換えはないから、寝過ごしさえしなければ問題ない。
あの男は変な男だった。それでも一応は世話になったのだから、礼はしておきたい。やる気がないと言ってはいたが、営業中の店を閉めて土方を送ってくれたのだ。営業妨害だ、とまでは言わないだろうが迷惑をかけたことに変わりはない。
(手土産……はあった方がいいよな?ケーキ屋に菓子折りは変か……?)
少し考えてみたが何も浮かばない。持って行っても「いらねぇ」と言われそうでもある。行ってもあまりいい気分もしなさそうだし、やはり止めておこうかとも思うのだが。
(あのケーキ食ってみたかったなぁ)
ショーケースに並んだケーキが頭から離れない。作った人間はアレでも、見た目からして絶対に美味しいはずである。完全にケーキの口になってしまった。帰宅する前にコンビニに寄ろうと決めて、電車の揺れに身を任せた。
十四回目の挑戦で、ついに営業中のパティスリーに出会った。あの時と変わらず、小さな窓から漏れる光のみ。看板も何もない。シャッターはないが、ドアは客を拒んでいるようにも見える。
休み明けの出勤時に、近藤の謝罪を受けた。飲み会での失態を奥さんに詰められたようである。その会話の中で、新居の近くにケーキ屋はあるかと聞いてみた。
「ケーキ屋?う~ん……確か聞いた覚えはねぇなぁ。引っ越す前に色々調べたが、なかった気がする」
顎髭をさすりながらそう答えた。引っ越したばかり、というのもあるかもしれない。だが、近くに公園があるか、最寄りのスーパーはなどしっかり下調べをしていた。ケーキ屋は生活に必ず必要かと言われれば、あったら嬉しいくらいだろう。
ちょうど火曜日が祝日であった。これはラッキーと確かめる為にもう一度行ってみる事にした。礼は早いほうがいいし、記憶も残っている内がいい。今度は、最寄りの駅も近藤の住所もしっかりと記録している。
日中は犬の散歩や子供たちが元気に駆け回っていた。深夜とは全く様子が違っている。一応、持ち物を気にしてみたが、ケーキの箱を持っているような人間はいなかった。
近藤の新居の前に着いた。ここから逆方向に行けばあの男の店があるはずだ。送ってもらった時、おおよそ十分から二十分程で駅に着いたと思う。そうするとだいたい距離は十キロ程度だろうか。闇雲に歩いて、たどり着いた場所である。目印になるとすれば、昼間は降ろされているシャッターくらいだろうか。
検索してもあの男の店は出て来なかった。駅の近くにチェーン店が一件。次が一駅先になる。どんな手を使って、検索に出てこないようにしているのだろうか。あの迫力からして、ボンボンの道楽ではなく反社会的な方がしっくりきてしまう。
情報がない以上は足で稼ぐしかない。動きやすい服装とスニーカーをはいた。これなら多少ウロウロしてもウォーキングに見える。
散々歩き回って、もう脚が限界を訴えかけた時にようやく見つけた。住宅街に似合わないシャッター。間違いなくあの男の店だ。住所を記録し、念のため写真を撮っておく。もう一度検索してみるが、ケーキ屋らしき情報は見つからなかった。何かしら届け出や登録はしているだろうが、見つからない理由を考えても分かる訳がない。男の店が見つかったならそれで充分だった。
問題はここからであった。店は見付かっても営業していなければ意味がない。時間や曜日を変えて訪れてもシャッターは下ろされたままなのである。
一度目、二度目はたまたま定休日だったのだと思った。そこから曜日を変えても駄目だった。ならばと時間を変えても駄目だった。こうなると変な意地が出てくる。あの男に玩具にされているようで腹立たしい。そうしてついに十回四目の挑戦で営業中の店に出会ったのである。
「帰れ」
ドアを開けると早々に不機嫌な男が開口一番にそう言った。もし土方が客だったらどうしたのか。この無愛想な男の事だ「いらっしゃませ」の代わりが「帰れ」だとしてもおかしくない。
「帰れ、ってなぁ……こっちはこの前の礼をしに来てんだよ」
「はぁ?要らねぇ。帰れ」
予想通りに「要らない」と言われた。だが負けず嫌いの土方である。せっかくとっておきを持参したというのに、渡せないのは負けた気がする。ドアの隙間に靴を入れ締まらないようにと抵抗する。男もヤクザみたいな風貌だが、土方も充分ヤクザのようなやり方をしている。
「……あの、すみません」
後ろから声がした。振り返ると困った表情を浮かべた五十代くらいの男女が立っている。夫婦だろうか、どちらも品のある身なりだった。
「いらっしゃませ、中へどうぞ。……テメェとりあえず座ってろ」
男はため息を吐くと男女を案内する。土方には一睨みしてから席に座っているように言った。声色も対応も全く違う。その差に腹も立つが、自分が招かれざる客でもあるのは事実だった。中に入れて貰えたなら御の字だ。礼と渡す物だけ渡したらさっさと退散してしまおうとイスに座った。
ショーケースには六種類のケーキが並んでいた。作ってる人間には問題がありそうだが、ケーキに罪はない。普段土方がこっそり食べているケーキだって、どこかの知らないおじさんが作っているかもしれないのだ。
男女は楽しそうにケーキを選んでいる。やはり甘い物は人を幸せにする。その姿を眺めていたら不意に男と目があった。親の仇かというほどに、思い切り睨まれる。
男は出口まで見送りドアが閉まると、くるりと振り返った。大股で土方に近づき向かい側にどかりと腰を下ろす。真っ白なコックコートよりも真っ黒なスーツの方が似合いそうな態度である。
「で、テメェは何しに来た」
「一応、この前迷惑かけちまったしお礼をするのは当たり前の事だろ」
「そんな事でわざわざ来たのかよ。用は済んだろ。帰れ」
「まだ済んでねぇ。ケーキ屋に菓子折りって訳にはいかねぇから、代わりにうちの商品を持ってきた」
土方は紙袋を男の前に突きつける。中には自信のある商品を詰め込んできた。
「だから要らねぇって言ってんだろ」
「これを見てもか!」
会社の土方自身の自慢の商品である。数ある中から悩みに悩んで厳選したものだ。これを嫌いな人間が居る訳がない。必ず男だって喜ぶはずだと、中身を取り出した。
「なんだこれ」
「見て分からねぇか?マヨネーズだ!!」
「いや、だからなんでマヨネーズなんだよ」
自信満々の土方とは対照に男は喜ぶ所か、理解不能という顔をしている。土方は土方でなぜこの素晴らしさを理解できないのか、と疑問に思っている。ご家庭用のマヨネーズから、贈答用のこだわり抜いた瓶入りのマヨネーズまで。自社製品でもあるし、土方が開発に関わった物もある。全て、と言いたい所を泣く泣く厳選したというのに目の前の男は無反応だ。
「マヨネーズは全人類が好きな調味料だろ!?」
「別に好きでも嫌いでもねぇよ」
土方はその言葉に衝撃を受けた。まさか男のような人間が居るなんて思いもよらなかった。この男はもしかして人間ですらないのかもしれない。
「……受け取りゃあいいんだろ?」
土方がショックを受けている姿が余りに憐れに思えたのか、渋々と男は受け取った。それを見て土方の顔は輝いたが、男の顔には大きく「めんどくさい」と書いてある。
男は土方が満足したような表情を見て、出口へ案内しようと席を立とうとしたのだが。
「……ところであのケーキ買えたりしねぇか?どうしても食ってみてぇんだ!!」
一生のお願い、とでも言うように土方は顔の前で手を合わせた。ここが本来会員制で男の選んだ人間しか利用できないのは知っている。だが、あんなケーキを見てしまって、食べてみたいという気持ちは抑えられない。
「……今回だけだからな」
男は少し考えた後、諦めたように口にした。ここで変に帰すより、満足させてこれっきりにした方がいいと判断した。
「本当か!?ありがとう!!」
一瞬で土方はショーケースの前に座った。男はその様子に「そんなに食いかったのか」と思うと悪い気はしない。ケーキを見る土方の輝く目に少し機嫌が良くなった。
土方はケーキを六種類を一つずつ頼んだ。値段は一般的なケーキの倍で、フルーツの乗った物は千円を超えていた。財布は痛いが背に腹はかえられない。支払いは現金のみで、給料前には厳しい物がある。
「出してねぇやつがあるが食ってくか?」
物はついで、と男は土方にそう言った。自分の作った物に自信はあるが、他人の意見も大事である。ケーキを持って戻ってくると、背筋をピンと伸ばして座っている土方が居た。
飾りも何もないチョコレートケーキを目の前に置く。すると、目を輝かせながらケーキと男を交互に見た。まるで餌を前にした犬のようだ。
「食っていい」
それを合図にケーキにフォークが入った。まるで、壊れ物のように優しく扱っている。
「……うめぇ!!」
その表情は、驚きと感動に満ちていた。誰かの口に入る瞬間はいつだって緊張するものだ。そして、美味しいという表情はいつだって嬉しい。
「こんな美味ぇのに、なんでちゃんとした店で売らねぇんだよ!?」
「売ってんだよ。店用にアレンジはするがな」
「どこだ!?どこにあんだよお前の店は!?」
余程気に入ったのか少々食い気味に土方が問う。男はズボンのポケットからスマホを取り出し、操作して土方の目の前に出した。
「はぁ!?これS.Yoshidaじゃねぇか!!」
S.Yoshidaは世界的にも有名なパティシエ吉田松陽の店である。国内外で数々の賞を受賞し活躍を期待されていたが、若くして病によりこの世を去った。今は弟子たちと双子の兄が引き継いでいる。
「そういうこった。今度からこっちに買いにいくんだな」
「でも、本当に?お前がぁ…?」
確かに吉田には四人の弟子がいた。朧と桂はよくメディアにも出ていて看板のような物だ。残りの二人の内、一人は別の道を行った。もう一人は大層な人嫌いでメディアには一切出る事がないという。名前すら伏せる徹底ぶりである。
「信じるか信じねぇかは勝手にすりゃあいい。で、ケーキの感想は」
「今までで食べた中で一番美味い!でも、やっぱり足りねぇんだよなぁ」
「足りない?何がだ?」
男は身を乗り出した。一人の職人としてレシピの改良の余地があるなら聞いておきたい。勿論、個人の好みもある為、全てが正しいとは限らない。だが、生の意見や感想は貴重である。
「そりゃあ、これだよ」
土方は自分の鞄からマヨネーズを取り出した。そしてなんの躊躇いもなく、ケーキに絞り出していく。美しいチョコレートは真っ白なに染まってしまった。
「テメェは出禁だ!!二度と来るんじゃねぇ!!」
状況を理解する間もなく、土方は荷物と共に外へ蹴り出された。購入したケーキだけは丁寧に置かれている。ガチャンと鍵の閉まる音がして、おまけにシャッターまで下り始めた。
「はぁ!?ふざけんなよ!!」
ようやく閉め出された事に気が付き腹が立った。マヨネーズは万能調味料であり、ケーキにだって合うのだから。美味しい物と美味しい物。好きな物と好きな物を掛け合わせれば、絶対に美味いのに。あのケーキだってまだ一口しか食べていなかった。マヨネーズをかければさらに美味しくなった筈なのに。
軽く舌打ちをしてケーキの箱を持った。中身は崩れていない。少なくともあと六個はあるのだからと、自分を納得させることにした。
翌日、どうしても欲求を抑えられずにケーキを二つ会社に持ってきた。満員電車を避けて早めに出勤したから寝不足だが、ケーキの為なら多少の無理はする。
まだ誰もいないオフィスに座り、さっそく保冷バッグを開けた。そこにはショートケーキとフルーツのタルト。一瞬あの男の顔が浮かぶが、頭から追い払った。手を合わせてさて食べようとした時だった。
「あれ?それケーキだよな!?ちょっとくれねぇ?」
振り返るといつの間にか隣の部署の坂田がいた。甘党を豪語し糖尿寸前の男である。予想外の登場に焦っていると、坂田の手がフォークに伸びる。
「あ、おい!勝手に食うんじゃねぇ!」
ちょっと所か半分近くを坂田に食われてしまった。しかも大事な苺の方をだ。
「俺のケーキ返せ!!」
胸ぐらを掴むが、坂田の様子がどうもおかしい。いつもヘラヘラしてアホ面を晒しているのに、喋る事もなく真剣な顔をしている。
「どうした、坂田……?」
不安になり掴んでいた胸ぐらから手を離した。なおも坂田は何か考えている様子である。暫くすると、意を決したように坂田が口を開いた。
「……これ、高杉のケーキだよな?どこでこれを手に入れたんだ?」
そこにはいつになく真剣な表情をした坂田が居た。
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