パティシエ×リーマン
「近藤さんのマイホームとお子さんに祝して、乾ぱーーい!!」
土方の同僚である近藤は、念願のマイホームと子宝を授かった。その祝いの席が設けられた。子供が出来たとなれば、家族中心の生活になる。今後、子供が小さい内は飲み会には参加しない。飲みに行けないのは寂しいが、無理に誘おうという人間はこの部署にはいない。妻の方も女子会という事で別の所で盛り上がっているらしい。
酒は好きだがそう強くはない。それに世話役がいないと、酒に潰れる者が何人か出てくる。近藤はその筆頭だ。全員が順に酌をするものだから、確実に潰れるであろう。
コースの最後にバニラアイスが出された。宴会料理だからか濃い味付けが多かった。口の中をさっぱりさせるには丁度いいのだが。
「土方さんは甘いもの苦手でしたよね?」
「えっ。ああ、すみません。よかったらどうぞ」
女子社員の口の中へと土方のバニラアイスが消えていく。「甘くて美味しいね」と笑顔が溢れる。それを出来るだけ見ないように、酔い冷ましと熱い茶を飲む。
実は、土方は甘いものが好きである。だが、見た目のせいなのか「甘いものは苦手」という誤解を受けてしまう。本当は食べたかった。業務用のごく普通のアイスだろうけれど、甘いものには変わりない。隣の部署の坂田は甘党を公言し、社内でも周知の事実だ。つい喧嘩腰になってましうのは、そういう自由さへ憧れかもしれない。
予想通り近藤が酔い潰れた。それに加えて三人程の酔っぱらいがいる。土方は手早く会計とタクシーを手配した。
手のかかる酔っ払いどもをタクシーに詰めこんだ。順番に住所を伝え、下ろしていく。二人は千鳥足でも歩いてくれるから助かった。近藤はすっかり夢の中で起きる気配が全くない。自分よりも体格のいい近藤を下ろすだけで息が上がりそうだった。
自宅には電気は付いておらず、妻は地元に帰っているという話を思い出した。ポケットから鍵を取り出し、近藤を玄関に放り込む。一番体格がよく、二人も運んだ土方にとっては重労働だった。さすがに中にまで運ぶ余裕はない。眠っている近藤に形ばかりの断りを入れて中に入った。運良くリビングのソファにブランケットがあった。戻ってかけてやると「ううん…お妙さぁ~ん」と寝言を言ったいた。玄関を施錠してドアの新聞受けに入れておく。
「嘘だろ……」
ようやく自分も帰宅できると戻ってみると、タクシーがいない。あまりに戻って来ないから、勘違いで発車してしまったのかもしれない。荷物は近藤たちの荷物と一緒に後部座席に置いてしまった。しかも足元である。見落とされた可能性が高い。
そんな事があってたまるかと思ったが、現に土方を置いてタクシーは発車している。配車アプリで決済は完了する、という点も運が悪かったのだろう。運転手自体も年配で耳が遠いのか住所を伝えるのに骨が折れた。
幸いにも明日は休みである。たまたまスマホのケースに家のカードキーも入っていた。荷物の問い合わせは明日にでもやればいい。財布も一緒に持っていかれたが、スマホがあればなんとかなる。急げば終電にも間に合うだろうと駅に向かおうとして、はたと気付いた。
ここは行き慣れた近藤のアパートではなく、引っ越の手伝いと祝いで一度来たきりの新居の方である。土地勘が全くない。閑静な住宅街で目印になるような建物もない。朧気ながら駅までの道のりの記憶はあるが、夜という事もあり役に立ちそうにない。
おまけに土方の家からもかなり離れている。いつもの癖で一番近い近藤を最後に下ろすのだが、引っ越しで一番遠くなってしまった。そこに気付かないくらいには、アルコールが回っていたらしい。
スマホで地図を確認しようとしたが、充電が5%しかない。そんなに使った覚えはないのだが、と操作してみると知らないパズルゲームが起動されたままだった。飲み会の最中に沖田が飽きたとか言って、土方のスマホを奪って操作していたのを思い出した。勝手にダウンロードしてそのまま放置されていたようだ。
配車アプリでタクシーを呼ぼうにも住所も覚えていない。地図を開いている間に、充電が一つ減る。
今やスマホは土方の生命線だ。充電が切れたらどうにもならない。駅があるのも覚えているし、そこまで行けばコンビニもある。ただし、逆方向に歩いてしまうとほぼ住宅街しかない。
終電前とはいえ知らない家に道を尋ねる訳にもいかない。最悪不審者だと通報されてしまう。
諦めて歩き始めた。一度は来ているのだから、何かしら覚えているはずと思ったのだが。予想通りというか、完全に迷っている。勘頼りに歩いたせいで近藤の家にすら戻れそうにない。
大好きなアイスは食べられない、タクシーには置いていかれ、いい年して迷子になる。我ながら情けなくなってしまう。
肩を落としとぼとぼと歩いていると、街灯とは違う明かりが見えた。その正体はここからでは分からない。けれど、この事態が好転するかもしれない。それに向かって走り出した。
「店……なのか……?」
そこは民家というようでもなく、何かの店のようだった。しかし、看板も何もない。小さなガラス窓から淡い光が漏れている。ここがもし民家であれば大変失礼ではあるが、背に腹はかえられない。中に人が居るようなら事情を話して助けて貰おう。
(あれは……ケーキ……?)
窓からわずかにショーケースらしき物が見えた。ハッキリと見えないが、白い物体に赤色が乗っている。隣にはチョコレートらしい物も見えた。
看板も何もないのは閉店しているからだろう。まだ片付けか、仕込みかで誰かが残っているのかもしれない。
緊張しながらドアノブに手をかけた。ドアは土方を迎え入れるようにすんなりと開いた。チリンと可愛らしい音がする。
中に入るとやはりケーキ屋であった。クラシックのBGMが、落ち着いた店内にはよく合っている。丸テーブルとイスが二脚あり、イートインスペースだろう。そしてショーケースには、定番のショートケーキやチョコレートに、フルーツたっぷりのタルト。手の込んだ細工の施されたケーキには、思わず感嘆の声が出る程の見栄えだった。狭い店内はまるで宝箱のようで、今の状況を忘れてしまう。
「誰だテメェ」
明らかな嫌悪感を含んだ声に、後ろを振り返る。そこにはナイフを持った男が立っている。真っ白な服に赤い染み。ケーキに見とれていたせいで、人が居る事に全く気付かなかった。
死ぬかもしれない。それが真っ先に頭に浮かんだ。何も言えずに固まっていると再び「誰の紹介で来た」と言った。
「あ……あの、俺は、その……!」
「ア゛ァ?さっさと答えろや。テメェは誰だ?会員証は?こっちは試作で忙しいんだ、時間取らせんじゃねぇ」
男は益々殺気立つ。前髪で隠れた左目から眼帯が覗く。堅気にはとても見えない。ヤクザの店か何かで今から自分は殺されて、バラされるに違いない。
「おい!黙ってちゃ分かんねぇだろぉが!!」
片目だけでも男の睨みは恐ろしく、それだけで人を殺せそうだ。最期に目の前のケーキを食べてみたかった。
「ごごごごごめんなさい!道に迷って……!!」
「道に、迷ったァ……?」
覚悟した痛みは一向に訪れない。恐る恐る目を開けると、不思議そうな目で男が土方を見下ろしている。
「空き巣じゃねぇのか」
違う、と首が取れそうな勢いで頷いた。ついでに両手を上げて降伏のポーズを取る。
「悪ぃ、最近空き巣が多いって聞いてたからな」
ひとまず誤解は解けたようだった。頭のほんの片隅に「犯罪を犯しそうなのは男の方では?」と浮かぶ。
「すみません……ちょっと色々あって、コンビニか駅までの道を教えて貰えると助かるんですが……」
「アンタ、本気で迷子なのか。ここ、逆方向だぞ」
男の視線が憐れみに変わる。迷子という言い方に引っ掛かるも、事実なので否定は出来ない。
「……事情は分かった。とりあえずそこに座ってろ」
男はため息を吐くと店の奥へと消えていった。
「アンタ、とんだ間抜けだな」
一通り事情を説明すると男の第一声はそれだった。全くもってその通りで、返す言葉もない。誤魔化すように、男の淹れたダージリンを飲む。
男は話してみると以外にも普通であった。スマホも電源を借りて、充電させて貰っている。持っていたのは、よく見ればパレットナイフ。赤い染みもベリーのソースを溢してししまっただけである。
近頃空き巣が多発しており、見たことのない人間がいたから警戒したという。疑問に思ったが、ここは一見さんお断りの会員制パティスリーらしい。紹介制で男が許可した人間のみが出入りできる。そこに見たこともない人間が居れば「誰だ」と聞かれるのも納得がいった。
夜遅くまで試作とは。ショーケースに並ぶ美しいケーキは、男の努力の証なのだろう。
「閉店してからも試作するって、やっぱりパティシエも大変なんだな」
「閉店してねぇ。開けたばっかりだ」
「は?」
「うちは深夜営業しかしてねぇ」
「えっじゃあ客来ねえんじゃねぇか」
「客なんて迷惑だ。来ない方がいい」
「はぁ!?お前、客商売舐めてんのかよ!?」
「他に何店舗かと土地もある。だから、稼ぎなんていらねぇんだよ。金なら捨てる程あらァ」
まさかボンボンの道楽だろうか。「意外といい人」から「やっぱり嫌な感じ」と好感度が下がっていく。それまで美しく見えていたケーキも途端に色を失ってしまう。
「……そろそろ充電も溜まったろ。駅まで送ってやるから用意しろ」
男は席を立つと奥へと向かう。暫くすると土方のスマホを投げて寄越した。落としそうになりながら、なんとか受けとる。文句の一つも言いたいが、そんな立場にはないので大人になるよう務めた。
「おい、店はどうするんだよ」
「めんどくせぇから今日は閉店」
男はボタンで店のシャッターを下ろしていく。シヤッターまで付けているのも、看板もないのも徹底的に客を排除したいからだ。
代わりに店の隣のシャッターが開いた。そこには土方の年収では足りない程の高級外車。思わず顔がひきつったが、男が背を向けていた為に気付かれはしなかった。
「そっちじゃねぇよ」
左ハンドルかよ。毒づきながら、右側のドアを開けた。座ったシートすらなんだか違う。いつもなら多少なりと興奮していたかもしない。この男がいい人だったらの話だが。
車は静かに発進した。車内は変な改造やキツイ匂いもしない。至ってシンプルでBGMすらない。
無言の車内は気まずいが、だからといって話題もない。手持ち無沙汰になりスマホを操作する。現在地と最寄駅を確認した。終電にはどうにか間に合いそうだ。忘れない内に沖田の入れたゲームも消しておく。
「じゃあな」
礼もろくに言えぬままに男は去っていった。深夜営業なのは人が嫌いだからと言っていた。モヤモヤした物を抱えながらも、改札を抜けちょうどホームに入ってきた終電に乗り込んだ。
座席に座ると疲れを急激に感じた。仕事終わりの飲み会に、その後知らない土地を歩き回ったのだから当然だ。乗り換えはないから、寝過ごしさえしなければ問題ない。
あの男は変な男だった。それでも一応は世話になったのだから、礼はしておきたい。やる気がないと言ってはいたが、営業中の店を閉めて土方を送ってくれたのだ。営業妨害だ、とまでは言わないだろうが迷惑をかけたことに変わりはない。
(手土産……はあった方がいいよな?ケーキ屋に菓子折りは変か……?)
少し考えてみたが何も浮かばない。持って行っても「いらねぇ」と言われそうでもある。行ってもあまりいい気分もしなさそうだし、やはり止めておこうかとも思うのだが。
(あのケーキ食ってみたかったなぁ)
ショーケースに並んだケーキが頭から離れない。作った人間はアレでも、見た目からして絶対に美味しいはずである。完全にケーキの口になってしまった。帰宅する前にコンビニに寄ろうと決めて、電車の揺れに身を任せた。
土方の同僚である近藤は、念願のマイホームと子宝を授かった。その祝いの席が設けられた。子供が出来たとなれば、家族中心の生活になる。今後、子供が小さい内は飲み会には参加しない。飲みに行けないのは寂しいが、無理に誘おうという人間はこの部署にはいない。妻の方も女子会という事で別の所で盛り上がっているらしい。
酒は好きだがそう強くはない。それに世話役がいないと、酒に潰れる者が何人か出てくる。近藤はその筆頭だ。全員が順に酌をするものだから、確実に潰れるであろう。
コースの最後にバニラアイスが出された。宴会料理だからか濃い味付けが多かった。口の中をさっぱりさせるには丁度いいのだが。
「土方さんは甘いもの苦手でしたよね?」
「えっ。ああ、すみません。よかったらどうぞ」
女子社員の口の中へと土方のバニラアイスが消えていく。「甘くて美味しいね」と笑顔が溢れる。それを出来るだけ見ないように、酔い冷ましと熱い茶を飲む。
実は、土方は甘いものが好きである。だが、見た目のせいなのか「甘いものは苦手」という誤解を受けてしまう。本当は食べたかった。業務用のごく普通のアイスだろうけれど、甘いものには変わりない。隣の部署の坂田は甘党を公言し、社内でも周知の事実だ。つい喧嘩腰になってましうのは、そういう自由さへ憧れかもしれない。
予想通り近藤が酔い潰れた。それに加えて三人程の酔っぱらいがいる。土方は手早く会計とタクシーを手配した。
手のかかる酔っ払いどもをタクシーに詰めこんだ。順番に住所を伝え、下ろしていく。二人は千鳥足でも歩いてくれるから助かった。近藤はすっかり夢の中で起きる気配が全くない。自分よりも体格のいい近藤を下ろすだけで息が上がりそうだった。
自宅には電気は付いておらず、妻は地元に帰っているという話を思い出した。ポケットから鍵を取り出し、近藤を玄関に放り込む。一番体格がよく、二人も運んだ土方にとっては重労働だった。さすがに中にまで運ぶ余裕はない。眠っている近藤に形ばかりの断りを入れて中に入った。運良くリビングのソファにブランケットがあった。戻ってかけてやると「ううん…お妙さぁ~ん」と寝言を言ったいた。玄関を施錠してドアの新聞受けに入れておく。
「嘘だろ……」
ようやく自分も帰宅できると戻ってみると、タクシーがいない。あまりに戻って来ないから、勘違いで発車してしまったのかもしれない。荷物は近藤たちの荷物と一緒に後部座席に置いてしまった。しかも足元である。見落とされた可能性が高い。
そんな事があってたまるかと思ったが、現に土方を置いてタクシーは発車している。配車アプリで決済は完了する、という点も運が悪かったのだろう。運転手自体も年配で耳が遠いのか住所を伝えるのに骨が折れた。
幸いにも明日は休みである。たまたまスマホのケースに家のカードキーも入っていた。荷物の問い合わせは明日にでもやればいい。財布も一緒に持っていかれたが、スマホがあればなんとかなる。急げば終電にも間に合うだろうと駅に向かおうとして、はたと気付いた。
ここは行き慣れた近藤のアパートではなく、引っ越の手伝いと祝いで一度来たきりの新居の方である。土地勘が全くない。閑静な住宅街で目印になるような建物もない。朧気ながら駅までの道のりの記憶はあるが、夜という事もあり役に立ちそうにない。
おまけに土方の家からもかなり離れている。いつもの癖で一番近い近藤を最後に下ろすのだが、引っ越しで一番遠くなってしまった。そこに気付かないくらいには、アルコールが回っていたらしい。
スマホで地図を確認しようとしたが、充電が5%しかない。そんなに使った覚えはないのだが、と操作してみると知らないパズルゲームが起動されたままだった。飲み会の最中に沖田が飽きたとか言って、土方のスマホを奪って操作していたのを思い出した。勝手にダウンロードしてそのまま放置されていたようだ。
配車アプリでタクシーを呼ぼうにも住所も覚えていない。地図を開いている間に、充電が一つ減る。
今やスマホは土方の生命線だ。充電が切れたらどうにもならない。駅があるのも覚えているし、そこまで行けばコンビニもある。ただし、逆方向に歩いてしまうとほぼ住宅街しかない。
終電前とはいえ知らない家に道を尋ねる訳にもいかない。最悪不審者だと通報されてしまう。
諦めて歩き始めた。一度は来ているのだから、何かしら覚えているはずと思ったのだが。予想通りというか、完全に迷っている。勘頼りに歩いたせいで近藤の家にすら戻れそうにない。
大好きなアイスは食べられない、タクシーには置いていかれ、いい年して迷子になる。我ながら情けなくなってしまう。
肩を落としとぼとぼと歩いていると、街灯とは違う明かりが見えた。その正体はここからでは分からない。けれど、この事態が好転するかもしれない。それに向かって走り出した。
「店……なのか……?」
そこは民家というようでもなく、何かの店のようだった。しかし、看板も何もない。小さなガラス窓から淡い光が漏れている。ここがもし民家であれば大変失礼ではあるが、背に腹はかえられない。中に人が居るようなら事情を話して助けて貰おう。
(あれは……ケーキ……?)
窓からわずかにショーケースらしき物が見えた。ハッキリと見えないが、白い物体に赤色が乗っている。隣にはチョコレートらしい物も見えた。
看板も何もないのは閉店しているからだろう。まだ片付けか、仕込みかで誰かが残っているのかもしれない。
緊張しながらドアノブに手をかけた。ドアは土方を迎え入れるようにすんなりと開いた。チリンと可愛らしい音がする。
中に入るとやはりケーキ屋であった。クラシックのBGMが、落ち着いた店内にはよく合っている。丸テーブルとイスが二脚あり、イートインスペースだろう。そしてショーケースには、定番のショートケーキやチョコレートに、フルーツたっぷりのタルト。手の込んだ細工の施されたケーキには、思わず感嘆の声が出る程の見栄えだった。狭い店内はまるで宝箱のようで、今の状況を忘れてしまう。
「誰だテメェ」
明らかな嫌悪感を含んだ声に、後ろを振り返る。そこにはナイフを持った男が立っている。真っ白な服に赤い染み。ケーキに見とれていたせいで、人が居る事に全く気付かなかった。
死ぬかもしれない。それが真っ先に頭に浮かんだ。何も言えずに固まっていると再び「誰の紹介で来た」と言った。
「あ……あの、俺は、その……!」
「ア゛ァ?さっさと答えろや。テメェは誰だ?会員証は?こっちは試作で忙しいんだ、時間取らせんじゃねぇ」
男は益々殺気立つ。前髪で隠れた左目から眼帯が覗く。堅気にはとても見えない。ヤクザの店か何かで今から自分は殺されて、バラされるに違いない。
「おい!黙ってちゃ分かんねぇだろぉが!!」
片目だけでも男の睨みは恐ろしく、それだけで人を殺せそうだ。最期に目の前のケーキを食べてみたかった。
「ごごごごごめんなさい!道に迷って……!!」
「道に、迷ったァ……?」
覚悟した痛みは一向に訪れない。恐る恐る目を開けると、不思議そうな目で男が土方を見下ろしている。
「空き巣じゃねぇのか」
違う、と首が取れそうな勢いで頷いた。ついでに両手を上げて降伏のポーズを取る。
「悪ぃ、最近空き巣が多いって聞いてたからな」
ひとまず誤解は解けたようだった。頭のほんの片隅に「犯罪を犯しそうなのは男の方では?」と浮かぶ。
「すみません……ちょっと色々あって、コンビニか駅までの道を教えて貰えると助かるんですが……」
「アンタ、本気で迷子なのか。ここ、逆方向だぞ」
男の視線が憐れみに変わる。迷子という言い方に引っ掛かるも、事実なので否定は出来ない。
「……事情は分かった。とりあえずそこに座ってろ」
男はため息を吐くと店の奥へと消えていった。
「アンタ、とんだ間抜けだな」
一通り事情を説明すると男の第一声はそれだった。全くもってその通りで、返す言葉もない。誤魔化すように、男の淹れたダージリンを飲む。
男は話してみると以外にも普通であった。スマホも電源を借りて、充電させて貰っている。持っていたのは、よく見ればパレットナイフ。赤い染みもベリーのソースを溢してししまっただけである。
近頃空き巣が多発しており、見たことのない人間がいたから警戒したという。疑問に思ったが、ここは一見さんお断りの会員制パティスリーらしい。紹介制で男が許可した人間のみが出入りできる。そこに見たこともない人間が居れば「誰だ」と聞かれるのも納得がいった。
夜遅くまで試作とは。ショーケースに並ぶ美しいケーキは、男の努力の証なのだろう。
「閉店してからも試作するって、やっぱりパティシエも大変なんだな」
「閉店してねぇ。開けたばっかりだ」
「は?」
「うちは深夜営業しかしてねぇ」
「えっじゃあ客来ねえんじゃねぇか」
「客なんて迷惑だ。来ない方がいい」
「はぁ!?お前、客商売舐めてんのかよ!?」
「他に何店舗かと土地もある。だから、稼ぎなんていらねぇんだよ。金なら捨てる程あらァ」
まさかボンボンの道楽だろうか。「意外といい人」から「やっぱり嫌な感じ」と好感度が下がっていく。それまで美しく見えていたケーキも途端に色を失ってしまう。
「……そろそろ充電も溜まったろ。駅まで送ってやるから用意しろ」
男は席を立つと奥へと向かう。暫くすると土方のスマホを投げて寄越した。落としそうになりながら、なんとか受けとる。文句の一つも言いたいが、そんな立場にはないので大人になるよう務めた。
「おい、店はどうするんだよ」
「めんどくせぇから今日は閉店」
男はボタンで店のシャッターを下ろしていく。シヤッターまで付けているのも、看板もないのも徹底的に客を排除したいからだ。
代わりに店の隣のシャッターが開いた。そこには土方の年収では足りない程の高級外車。思わず顔がひきつったが、男が背を向けていた為に気付かれはしなかった。
「そっちじゃねぇよ」
左ハンドルかよ。毒づきながら、右側のドアを開けた。座ったシートすらなんだか違う。いつもなら多少なりと興奮していたかもしない。この男がいい人だったらの話だが。
車は静かに発進した。車内は変な改造やキツイ匂いもしない。至ってシンプルでBGMすらない。
無言の車内は気まずいが、だからといって話題もない。手持ち無沙汰になりスマホを操作する。現在地と最寄駅を確認した。終電にはどうにか間に合いそうだ。忘れない内に沖田の入れたゲームも消しておく。
「じゃあな」
礼もろくに言えぬままに男は去っていった。深夜営業なのは人が嫌いだからと言っていた。モヤモヤした物を抱えながらも、改札を抜けちょうどホームに入ってきた終電に乗り込んだ。
座席に座ると疲れを急激に感じた。仕事終わりの飲み会に、その後知らない土地を歩き回ったのだから当然だ。乗り換えはないから、寝過ごしさえしなければ問題ない。
あの男は変な男だった。それでも一応は世話になったのだから、礼はしておきたい。やる気がないと言ってはいたが、営業中の店を閉めて土方を送ってくれたのだ。営業妨害だ、とまでは言わないだろうが迷惑をかけたことに変わりはない。
(手土産……はあった方がいいよな?ケーキ屋に菓子折りは変か……?)
少し考えてみたが何も浮かばない。持って行っても「いらねぇ」と言われそうでもある。行ってもあまりいい気分もしなさそうだし、やはり止めておこうかとも思うのだが。
(あのケーキ食ってみたかったなぁ)
ショーケースに並んだケーキが頭から離れない。作った人間はアレでも、見た目からして絶対に美味しいはずである。完全にケーキの口になってしまった。帰宅する前にコンビニに寄ろうと決めて、電車の揺れに身を任せた。
1/2ページ