沈没
おかしい。一歩足を踏み入れた所で、違和感を覚えた。違和感というよりも虫の知らせ、と言った方が近いかもしれない。
開いていた玄関と揃えられた草履。この家の主人が居るという事なのだが、どうもその気配が薄い。居るはずなのに、居ない。履き物を変えて外に出ている、という事もあるが施錠されていないのは無用心だ。職業柄、防犯意識は高い。鍵をかけても勝手に侵入する、高杉の前では無意味ではあるのだが。
急用で慌てて出掛けていき、鍵をかけ忘れた、とも考えた。しかし、草履は揃えられているし裸足で飛び出すなんて事もあり得そうにない。
やはり中に居るのだ。眠るには些か早い時間ではあるが、疲労でぶっ倒れているのかもしれない。本当に居なければ居ないで、勝手に寛ぐつもりで中へと上がった。
居間の小さなちゃぶ台にはビール缶が置かれていた。箸とつまみでも買ったのだろう、空になった容器が残されていた。
ならば寝室かと覗いてみたが、誰もおらず布団も敷かれてはいない。
「…まさか」
嫌な予感に無意識に呟いていた。急いで風呂場へ向かうと脱衣場にはいつもの黒い着流しが無造作に脱ぎ捨てられている。だが、全くと風呂から人の気配が感じられないのだ。物音ひとつとしてしない。まるで、死んでいるような。
勢い良く戸を開けるが、そこに土方の姿はない。浴室のはずなのに空気は冷えている。湯気も立っておらず、入れてから時間が経っているようだ。
「……!!」
浴槽から僅かに黒い物が覗いていた。覗きこめば、人が沈んでているのが見える。
すっかり温くなった湯から土方を引きずり上げる。脱力した成人男性を抱えるのは骨が折れる。縁に何度かぶつけてしまったが、それぐらいは仕方がないだろう。文句を言われたとしても、こんな死にかたよりは幾分かマシだ。
「……ぁ……ぇ……?」
「やっと目が覚めたか」
声は掠れて殆ど聞きとれない。まだボンヤリとしているようで、目もどこかトロンとしている。
あれから高杉は溺れていた土方の身体を拭き、布団に寝かせた。少し水を飲んでしまっていたようだが、すぐに吐き出した。安堵したのも束の間、また意識を手放したせいで高杉は寝室まで運ぶ羽目になってしまったのだ。
「てめぇ、風呂で溺れてたぜ」
「………あぁ、悪ぃ」
バツが悪そうに土方が答える。素直に謝るのは、やはり弱っているからだろうか。
土方を抱えた時も、以前より痩せているような気がした。目元の隈も濃いし、顔色も悪い。誰がどう見ても窶れている。
「飯食ってんのか?睡眠は?」
「お前らのせいで取れてねぇよ」
「そりゃあ悪かった」
規模はさほど大きくないが、攘夷志士の組織同士の小競り合いがあった。取るに足らない相手とはいえど、情報は命綱である。一応は部下の報告で高杉の所まで上がってきている。
多数の攘夷志士が検挙され、二つ三つは壊滅したらしい。大手柄と持て囃されたが、その処理と対応に追われまともに休息が取れなかったのだろう。
「てめぇは働きすぎなんじゃねぇのか?」
「そう思うなら、とっとと捕まってくれ」
「もう捕まってる気でいるんだがなァ」
悪態をつける程度の元気はある。軽口で返せば目線で訴えかけられる。
「俺が見付てなけりゃ、今頃死んでたかもしれねぇんだぞ」
「あー……いつもは総悟が……」
空気が冷える。機嫌を損ねたのを土方は肌で感じ取った。明らかな失言をなかった事に出来る相手ではない。
「……へぇ、つまり風呂場でよく死にかけてるって事かい…?」
そちらに引っ掛かったのには少し驚いた。しかし、この状況が変わる訳ではない。
「別にたいした事じゃねぇだろ。風呂で寝ちまうなんて珍しくもねぇ」
土方は高杉に背を向けた。度重なる失言で居心地は悪い。このままなんとか流すのに「寝る」と目を閉じようとした。だが、高杉によって身体が引き戻され、見上げる形となってしまった。
逃れる事も、寝返りを打つ事もできない。片方だけの目に射貫かれて、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
「俺の知らねェ所で勝手に死んでんじゃねェ。それとも副長サンには自殺の趣味でもあるのかい?」
もとより土方にそんなつもりも趣味もない。たまたま、疲労が重なって湯船に沈む事が多くなってしまっただけである。良くはない、と理解はしている。
畳の上で死ねるとは思っていないが、風呂で溺れて死ぬ事も望んでいない。真選組副長がそんな間抜けや死に方など出来るはずもない。
「んな訳ねぇだろ。テロリストに真選組副長が心配されるなんて世も末だな。お前らにとっちゃあ俺が死んだ方がいいはずだろ?」
せめてもの抵抗にと皮肉を込めて返す。本来、敵同士がこうして一緒に居るだけでもおかしいのだ。純粋な心配だったとしても、それを素直に受け取る事がどうにもできない。
「お前が死んで、お前が手に入るんならとっくにから殺してらァ。お前だけは何遍やっても殺し足りねェくらいさ」
「……ッ!?」
今度こそ返す言葉がなくなった。高杉は冗談を言っているようには見えなかった。そして、取り繕った言葉や嘘を付くような人間でもない。高杉の顔が見えない。先ほどまでとは違う意味で。
この関係が相手を殺して手に入るような、単純なものであったなら。どれだけよかったのだろう。
一緒に身を投げてくれる訳でもなく。遊女のような心中立てもできず。道を踏み外した二人に何が出来るというのか。
「……休みはいつまでだ?」
「明日」
「ア゛ァ゛?そりゃ休みなんて言わねぇんだよ」
高杉は懐から携帯を取り出すと席を外した。暫くして戻ってくると、また傍らに腰を下ろす。
「何……したんだよ」
「まァ、少し待ってろや」
これ以上聞いても教えてくれないのは分かりきっている。特にニヤリと笑っている時は。
なぜか機嫌の治っている高杉に不安を感じながら、布団に収まった。見詰められているのは居心地が悪いが、有無を言わさぬ視線にこのままでいるしかないようだ。
そうしている内に携帯が鳴った。「出ろ」とぶっきらぼうに高杉は土方に渡す。恐る恐る出てみると聞きなれた声がする。
『トシ!体調は大丈夫か!?倒れるまで負担かけてごめんな…上から「隊士にしっかり休ませるようにーって通達がきてさ!順番に休暇を取るように言われて、まずはトシから先に休んでくれ!仕事は見廻組から応援が来てるから心配するな!じゃあしっかり休んでくれ!』
質問する暇もなく電話は切れた。とにかく休暇は延長され、仕事の心配もしなくていい、らしい。
「どういうことだ高杉!」
「そういうこった」
いつの間にやら煙管を吸っていた高杉が白々しく答える。煙がゆったりと宙を舞う。聞きたい事は山程あるが、絶対に口を割る事はないだろう。
「……近藤さん、せめていつまで休みか言ってくれよ」
「好きなだけ休みゃあいいさ。一週間でも一ヶ月でもなァ…?」
クツクツ笑う高杉を見て、諦めるしかないと悟った。諦めて高杉を睨んだ。
「どうした?寂しくて、一緒に寝てほしいのか?」
「違うわ!!」
「そうか、そりァ残念だ。だが、風呂は一緒に入るぞ」
「はぁ!?なんでテメェと一緒に入らなきゃならねぇんだよ!」
「また溺れるつもりか?」
それを言われてしまうと弱い。否定するには前科がありすぎる。不安要素が増えるよりも、佐々木の小言で済ませた方がまだ耐えられるというもの。
「……わかった」
渋々了承したがこのまま簡単に引き下がるのも性に合わない。
「なんだ?」
クイッと高杉の袖を引っ張ると、嬉しそうに聞いてくる。
「俺が休んでる間はお前も休みだ。お前が動くのが一番仕事になるんだからな」
「あぁいいぜ」
「それと」
顔を近付けてきた高杉を手で静止する。
「休んでる間は口吸いもそれ以上もナシ。ちょっとでもやったら俺は即仕事に行く」
「そいつぁ……手痛いねェ。まぁ、たまにはそれも悪くはねェか」
やれやれと大袈裟に呟くと、満足そうに座り直した。
開いていた玄関と揃えられた草履。この家の主人が居るという事なのだが、どうもその気配が薄い。居るはずなのに、居ない。履き物を変えて外に出ている、という事もあるが施錠されていないのは無用心だ。職業柄、防犯意識は高い。鍵をかけても勝手に侵入する、高杉の前では無意味ではあるのだが。
急用で慌てて出掛けていき、鍵をかけ忘れた、とも考えた。しかし、草履は揃えられているし裸足で飛び出すなんて事もあり得そうにない。
やはり中に居るのだ。眠るには些か早い時間ではあるが、疲労でぶっ倒れているのかもしれない。本当に居なければ居ないで、勝手に寛ぐつもりで中へと上がった。
居間の小さなちゃぶ台にはビール缶が置かれていた。箸とつまみでも買ったのだろう、空になった容器が残されていた。
ならば寝室かと覗いてみたが、誰もおらず布団も敷かれてはいない。
「…まさか」
嫌な予感に無意識に呟いていた。急いで風呂場へ向かうと脱衣場にはいつもの黒い着流しが無造作に脱ぎ捨てられている。だが、全くと風呂から人の気配が感じられないのだ。物音ひとつとしてしない。まるで、死んでいるような。
勢い良く戸を開けるが、そこに土方の姿はない。浴室のはずなのに空気は冷えている。湯気も立っておらず、入れてから時間が経っているようだ。
「……!!」
浴槽から僅かに黒い物が覗いていた。覗きこめば、人が沈んでているのが見える。
すっかり温くなった湯から土方を引きずり上げる。脱力した成人男性を抱えるのは骨が折れる。縁に何度かぶつけてしまったが、それぐらいは仕方がないだろう。文句を言われたとしても、こんな死にかたよりは幾分かマシだ。
「……ぁ……ぇ……?」
「やっと目が覚めたか」
声は掠れて殆ど聞きとれない。まだボンヤリとしているようで、目もどこかトロンとしている。
あれから高杉は溺れていた土方の身体を拭き、布団に寝かせた。少し水を飲んでしまっていたようだが、すぐに吐き出した。安堵したのも束の間、また意識を手放したせいで高杉は寝室まで運ぶ羽目になってしまったのだ。
「てめぇ、風呂で溺れてたぜ」
「………あぁ、悪ぃ」
バツが悪そうに土方が答える。素直に謝るのは、やはり弱っているからだろうか。
土方を抱えた時も、以前より痩せているような気がした。目元の隈も濃いし、顔色も悪い。誰がどう見ても窶れている。
「飯食ってんのか?睡眠は?」
「お前らのせいで取れてねぇよ」
「そりゃあ悪かった」
規模はさほど大きくないが、攘夷志士の組織同士の小競り合いがあった。取るに足らない相手とはいえど、情報は命綱である。一応は部下の報告で高杉の所まで上がってきている。
多数の攘夷志士が検挙され、二つ三つは壊滅したらしい。大手柄と持て囃されたが、その処理と対応に追われまともに休息が取れなかったのだろう。
「てめぇは働きすぎなんじゃねぇのか?」
「そう思うなら、とっとと捕まってくれ」
「もう捕まってる気でいるんだがなァ」
悪態をつける程度の元気はある。軽口で返せば目線で訴えかけられる。
「俺が見付てなけりゃ、今頃死んでたかもしれねぇんだぞ」
「あー……いつもは総悟が……」
空気が冷える。機嫌を損ねたのを土方は肌で感じ取った。明らかな失言をなかった事に出来る相手ではない。
「……へぇ、つまり風呂場でよく死にかけてるって事かい…?」
そちらに引っ掛かったのには少し驚いた。しかし、この状況が変わる訳ではない。
「別にたいした事じゃねぇだろ。風呂で寝ちまうなんて珍しくもねぇ」
土方は高杉に背を向けた。度重なる失言で居心地は悪い。このままなんとか流すのに「寝る」と目を閉じようとした。だが、高杉によって身体が引き戻され、見上げる形となってしまった。
逃れる事も、寝返りを打つ事もできない。片方だけの目に射貫かれて、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
「俺の知らねェ所で勝手に死んでんじゃねェ。それとも副長サンには自殺の趣味でもあるのかい?」
もとより土方にそんなつもりも趣味もない。たまたま、疲労が重なって湯船に沈む事が多くなってしまっただけである。良くはない、と理解はしている。
畳の上で死ねるとは思っていないが、風呂で溺れて死ぬ事も望んでいない。真選組副長がそんな間抜けや死に方など出来るはずもない。
「んな訳ねぇだろ。テロリストに真選組副長が心配されるなんて世も末だな。お前らにとっちゃあ俺が死んだ方がいいはずだろ?」
せめてもの抵抗にと皮肉を込めて返す。本来、敵同士がこうして一緒に居るだけでもおかしいのだ。純粋な心配だったとしても、それを素直に受け取る事がどうにもできない。
「お前が死んで、お前が手に入るんならとっくにから殺してらァ。お前だけは何遍やっても殺し足りねェくらいさ」
「……ッ!?」
今度こそ返す言葉がなくなった。高杉は冗談を言っているようには見えなかった。そして、取り繕った言葉や嘘を付くような人間でもない。高杉の顔が見えない。先ほどまでとは違う意味で。
この関係が相手を殺して手に入るような、単純なものであったなら。どれだけよかったのだろう。
一緒に身を投げてくれる訳でもなく。遊女のような心中立てもできず。道を踏み外した二人に何が出来るというのか。
「……休みはいつまでだ?」
「明日」
「ア゛ァ゛?そりゃ休みなんて言わねぇんだよ」
高杉は懐から携帯を取り出すと席を外した。暫くして戻ってくると、また傍らに腰を下ろす。
「何……したんだよ」
「まァ、少し待ってろや」
これ以上聞いても教えてくれないのは分かりきっている。特にニヤリと笑っている時は。
なぜか機嫌の治っている高杉に不安を感じながら、布団に収まった。見詰められているのは居心地が悪いが、有無を言わさぬ視線にこのままでいるしかないようだ。
そうしている内に携帯が鳴った。「出ろ」とぶっきらぼうに高杉は土方に渡す。恐る恐る出てみると聞きなれた声がする。
『トシ!体調は大丈夫か!?倒れるまで負担かけてごめんな…上から「隊士にしっかり休ませるようにーって通達がきてさ!順番に休暇を取るように言われて、まずはトシから先に休んでくれ!仕事は見廻組から応援が来てるから心配するな!じゃあしっかり休んでくれ!』
質問する暇もなく電話は切れた。とにかく休暇は延長され、仕事の心配もしなくていい、らしい。
「どういうことだ高杉!」
「そういうこった」
いつの間にやら煙管を吸っていた高杉が白々しく答える。煙がゆったりと宙を舞う。聞きたい事は山程あるが、絶対に口を割る事はないだろう。
「……近藤さん、せめていつまで休みか言ってくれよ」
「好きなだけ休みゃあいいさ。一週間でも一ヶ月でもなァ…?」
クツクツ笑う高杉を見て、諦めるしかないと悟った。諦めて高杉を睨んだ。
「どうした?寂しくて、一緒に寝てほしいのか?」
「違うわ!!」
「そうか、そりァ残念だ。だが、風呂は一緒に入るぞ」
「はぁ!?なんでテメェと一緒に入らなきゃならねぇんだよ!」
「また溺れるつもりか?」
それを言われてしまうと弱い。否定するには前科がありすぎる。不安要素が増えるよりも、佐々木の小言で済ませた方がまだ耐えられるというもの。
「……わかった」
渋々了承したがこのまま簡単に引き下がるのも性に合わない。
「なんだ?」
クイッと高杉の袖を引っ張ると、嬉しそうに聞いてくる。
「俺が休んでる間はお前も休みだ。お前が動くのが一番仕事になるんだからな」
「あぁいいぜ」
「それと」
顔を近付けてきた高杉を手で静止する。
「休んでる間は口吸いもそれ以上もナシ。ちょっとでもやったら俺は即仕事に行く」
「そいつぁ……手痛いねェ。まぁ、たまにはそれも悪くはねェか」
やれやれと大袈裟に呟くと、満足そうに座り直した。
1/1ページ