元生徒×教師 Dom/Sub
「せんせ、口開けて……よく噛んでくれよ」
自分の意思とは反して、差し出されたベーコンの欠片を口に含む。カリカリに焼かれ、香ばしい匂いのするそれはきっと美味しいのだろう。きっと、というのは味など感じる状況にないからだ。
飲み込むとまた次のベーコンが目の前にある。そして、それを嬉しそうに差し出す高杉の顔があった。
昨夜、しこたま飲んでからの記憶がない。終わらない仕事に保護者からの無茶な要望。教頭には嫌みを言われ、ようやく一息ついたと思ったら近隣からの苦情の電話。
憧れの教職に就いたものの、理想と現実は程遠い。ドラマみたいなキラキラした出来事など、僅か一握り。後はストレスと理不尽まみれ。給与と休みはないような物。それでもなんとかやってはいるが限界はある。
おまけにSubというめんどくさい性質まで抱えて生きにくい事この上ない。欲求とストレスは溜まる一方だ。
学校を出たのは二十一時。そこから行きつけの店で飲んだ。ストレスと明日は休みだ、と油断して酒を頼んでから記憶が朧気である。酷い飲み方をしたのは間違いないだろう。
そして気が付いたら全く知らない部屋に居た。
ベッドも部屋も自分の物よりかなり広い。間接照明や観葉植物が置かれまさにお洒落な部屋といった感じだ。ごちゃごちゃした自分の部屋とは程遠い。
服は着ていたが、スーツではなくこれもまた知らないTシャツとハーフパンツ。それに記憶をなくす程に飲んだ筈なのに、身体の不調がないどころか軽いくらいだ。
ホテルかとも思ったが、どことなく生活感がある。物は余りないが人が住んでいるような雰囲気がした。ゴミ箱にデシタル式の目覚まし時計。時間は十時を過ぎた頃で、睡眠が取れた事も身体の軽さに関係しているのかもしれない。ベッドの横に置かれていた荷物も財布の中身も無事であった。サイドテーブルには充電器が挿されたスマホと眼鏡がきちんと置かれている。
ひとまずは無害そうな相手ではある。だが、油断は出来ない。いい人そうに見えて実は……なんて事はよくある。例えば美人局なんかがいい例だ。
すごそこのドアから「俺の女を!」とその筋の人間が入ってくる。そして、法外な金額を請求され、果てはドラム缶に詰められて海に沈められてしまうのだ。
そうならないことを祈りたい。知らない女と寝て「責任とって」なんて事もごめん被りたい。
かといって迷惑をかけたであろう人間に礼も言わずに逃げるのも気が引ける。飲んでいた場所も学校からそう遠くはない。もしかすれば知り合いが介抱してくれた可能性も捨てきれない。
まずはお礼と迷惑をかけたであろう事を謝罪する。家主と会った時の会話を脳内でシミュレートする。覚悟を決めベッドから出ようとした時、ドアが静かに開いた。
「…っ!?」
「おはよう、先生」
予想もしていなかった人物に声が出なかった。
一方で向こうは何事もなかったかのように、普通に近付いてくる。左側だけが長い特徴的な前髪。数年という月日が経っているからか、昔よりも大人びて、どこか刺のあった雰囲気も柔らかさがある。
「高杉…なのか…?」
「俺以外の誰に見えんだ?」
高杉は元教え子である。素行はあまり良いとは言えない。だが、要領もよくテストの成績はいい。大きな問題を起こす事はなかったが、教師からは少々扱い辛い生徒であった。
「えーーっと、酔い潰れた俺を介抱してくれた、であってるか」
「そうだな」
世話になったばかりか、失態を元生徒に見られた。情けなさと恥ずかしさでどうにかなりそうである。このまま素直に帰して貰える気もしない。謝罪と礼に、誰にも言わないでくれというお願いも加わった。
「その、高杉…」
「先生のスーツならクリーニングに出してある」
「え?」
「夕方には仕上がるから安心しろ」
「あぁ…ありが、とう」
「腹減ってねぇ?飯用意する」
流石にそこまでは、と断る前に腹が鳴った。ろくに食べずに酒を飲んだのがよくなかった。時間を戻せるなら、昨日の夜に戻りたい。
言われるままに着いていった先はダイニングキッチン。キッチンは綺麗に整頓されている。リビング側には大型のテレビに革貼りのソファ。ちょっとしたインテリアに見たことのない酒のボトルがいくつか。あまり無駄な物は置いていないようだが、どれも高そうだと感じた。
「先生、とりあえずそこ座ってろ」
「…おう」
恐る恐るソファに腰を下ろした。汚れのひとつでも付けようなら、請求されるクリーニング代が恐ろしい。テレビを見てもいいと言われたが、リモコンすら高級品に見えてくる。
「コーヒーでいいか?」
「いや、お気遣いなく…」
挙動不審気味な姿に高杉が薄く笑う。寝室に入ってきた時もそうだが、高杉がこんな風に笑うとは知らなかった。
暫くするとコーヒーのいい香りがしてきた。どうやら豆から挽いているらしい。それから、香ばしい臭い。何を焼いているかまでは見えなかったが、手つきは手慣れた様子である。
それらをぼんやりと眺めていると、目の前にはクロワッサンとベーコンエッグ。コーンスープとコーヒーまで並べられ立派な一人分のモーニングが揃っていた。
「高杉、お前のは?」
「俺ァ、先に食った」
確かに時間を考えれば食べていてもおかしくはない。ただ、おかしいとすればナイフとフォークにスプーンまでを高杉が持っているという事か。
「あー、えっとそれ貸してくれるか?」
クロワッサンとコーンスープならどうにか食べられるが、他はそうもいかない。なぜか笑顔で渡そうとしない。まさか、このタイミングで脅しか取引でもするつもりなのだろうか。
「先生、どれが食くいたい?」
「…高杉?」
「"言え″」
「…っ…クロワッサン」
そんなつもりはなかったのに勝手に口は開いてしまった。混乱したが、これが何かを本能的に知っている。
高杉は満足そうに笑うと、クロワッサンを一口大にちぎって口元に近付けた。それと高杉を交互に見つめていると、高杉が先に口を開いた。
「口開けて」
言われた通りに口を開くと、香ばしい香りとバターの風味が広がっていく。トースターで焼かれいた時から、気になっていた。食感もスーパーで買った物とは大違いだ。高杉の暮らしぶりからして、それなりにいい所で買ったのだろう。だから、こんなにも充足感があるのか。
―――――いやそうではない。
「先生、次は?」
「待て!待ってくれ、高杉!」
「どうしたんだ?」
高杉は不思議そうにしているが、これは″分かっている″顔だ。
「…お前、ひょっとしてDom…なのか…?」
他人のバース性を聞くのはあまり良いとはされない。教職という立場上、知らされてはいるが情報管理は厳重。少しでも漏らせば解雇など当たり前である。もちろん教師のバース性を生徒が知る事もない。
性質上、SubはDomには逆らえない。故に虐めや場合によれば犯罪に発展する事もある。思春期というデリケートな時期だ。薬などはあるが合う合わないや、上手くコントロールの出来ない生徒も少なくない。保健室とは別にケアを行う部署も存在するが、普通の教職よりもさらに難関を突破しなければ職に就く事すら出来ない。
高杉は悪い意味で有名だった。だが、担任や教科を受け持つような事はなかった。必要な場合以外はバース性を他人が知る事はない。日頃のケアや薬もある為、バース性によるトラブルも滅多に起こる事はなかった。
こうして会話するというのもほぼ初めてに近いと言っていい。在学中は挨拶か服装などの注意程度しかなかった。本当に高杉がDomならば、その一言一言に己の本能がざわめき立つのも合点がいく。
「先生の言う通り俺はDomだ。先生は…Subだろ?」
「…あぁ」
隠した所で仕方がない。ゆっくりとうなずいた。それさえもDomからのコマンドのような気がして血圧が上がる感覚がする。
高杉は満足そうに笑うと、今度はベーコンを切り分ける。その仕草から目が離せない。皿に当たるフォークとナイフの音だけが聞こえている。
「高杉…っ…!自分で…でき…!」
「口、開けて」
命令されればSubの本能が喜んで受け入れる。感覚的にGlareは出されていない、と思う。あまり信じたくないが、自ら望んで高杉に従っているという事だ。
「いい子」
「…ッ!!」
身体中が歓喜した。一番欲しかった言葉に目眩がしそうだった。この不可解な状況などどうでもいい。嬉しいともっと褒められたいと本能が叫んでいる。高杉の言う事を沢山聞いて、沢山褒められたい。今なら高杉の言う事を全部やれるような気がする。
このまま身を任せてしまいたい。全部投げ出して、高杉の支配下に置かれれば心地よい事は間違いない。だが、確認しておかなければならない事がある。
「高杉…昨日の夜は」
「ああ…したぜ?」
予想していた、そうでなければ身体の調子がいい事を説明できない。目覚めてストレスも欲求不満も殆どが解消されていた。ただしっかりと寝ただけでは疲れはとれない。記憶を失くす程に飲んだなら、二日酔いになっていてもおかしくはなかった。
「なんだ、忘れちまったのか先生?…なら"思い出せ"」
ガチャン―――と鍵が開くような音がした。堰を切ったようにのように記憶が蘇る。高杉が自分を見下ろして、コマンドに素直に従う自分。
ただそれだけでゾクゾクする。高杉の口元を凝視して次のコマンドを待っている。片方しか見えないめが、細められて薄い口唇が綺麗な弧を描く。
「思い出せたか、先生?今はソファに座ってていいんだぜ?」
高杉の顔がさっきより少しだけ高い位置にある。急に人間は背が伸びたりなんてしない。気付けば床に直接座り込んでいた。
「いい子だなァ、先生は」
昨夜の記憶と同じように笑う。あまりに一緒だからか、今は「昨日」なのか「今日」なのか。境界が溶けて曖昧になっていく。
「先生、ソファに座って飯を食おう」
身体は高杉の命令を喜んで受け入れる。何も考えずとも勝手にソファに座り直していた。それを見た高杉が満足そうに微笑むから、また喜びに身体が震えるのだ。
目の前にちぎったクロワッサンを差し出される。口に含むと「よく噛んで食べろ」と言われた。
一回、二回、三回……子供の頃は母親に「三十回は噛んで食べなさい」と言われたものだ。今では食べる時間も惜しいと、早食いが当たり前になっている。一服すると、午後の授業の準備や溜まった仕事の片付けが始まる。想像していたよりも教師の仕事はブラックだ。
適当に噛んで飲み込んでいたからか、顎がだるい。それでも「よく噛んで食べろ」と言われたのだから従う以外にない。回数も分からなくなって高杉を見た。いつ飲み込んでいいかが分からない。
「ああ、悪ィ。飲み込んでいい」
ゴクン、と喉へと落とす。食道に流れて行く感覚がやたらハッキリとした。
「そうだな…三十回噛んだら飲み込め」
そうして今度は目玉焼きがナイフで器用に切られていく。黄身が崩れて皿にゆっくりと広がった。一瞬の出来事であるはずなのに、やたらと長く感じる。ごく普通の所作なのになぜか目を離す事ができない。
「先生は早食いのクセついてんだろ?今はゆっくり味わって食ってくれ」
途端に口内に広がる味。玉子でさえ拘っていい物を使っているのかもしれない。噛むことも味わう事も忘れていたのに、高杉のたった一言で全てが塗り替えられていく。
自分の内側が変わっていくのは恐ろしい。自分でない自分ほどに怖い物はない。
全くプレイの経験がない訳ではない。付き合った相手や、そういう店に行く事もある。ただ、高杉のように五感まで支配される感覚は今までになかった。義務的にプレイして終わり。高揚感も満足感もあったが、ここまでではない。
高杉が「自分だけ見ろ」と言うなら、高杉しか目に入らなくなる。高杉が「俺の声だけ聞け」と言うなら、高杉の声しか聞こえなくなる。想像しただけで、身震いがした。
「先生、食いながら聞いてくれ」
相変わらず高杉はナイフとフォークで切り分け、スープは冷ましてから飲ませる。それらを受け入れながら、耳は高杉の言葉を待った。
「俺ァ見ての通り世話してぇタイプのDomだ。だから、あんたを世話したくてたまらねぇ。食事も全部俺が作ってあんたに食わせてぇ。服も俺が用意したモンを着て、風呂もとにかく生活に必要な事は何もかもやってやりてぇ。俺以外の誰かに指一本も触れさせたくねぇんだ。学校でもCollarは許されてたよなァ?だから、俺と一緒に暮らしてくれるよなァ?」
酷く甘美な誘いだった。高杉に支配して貰える。その事実だけで腰が砕けてしまいそうだった。選択肢があるようでない。用意された答えは初めから一つしかない。
「その顔はOKって意味で捉えるぜ?」
ドロドロに溶けきった頭で、ただゆっくりと頷いた。
自分の意思とは反して、差し出されたベーコンの欠片を口に含む。カリカリに焼かれ、香ばしい匂いのするそれはきっと美味しいのだろう。きっと、というのは味など感じる状況にないからだ。
飲み込むとまた次のベーコンが目の前にある。そして、それを嬉しそうに差し出す高杉の顔があった。
昨夜、しこたま飲んでからの記憶がない。終わらない仕事に保護者からの無茶な要望。教頭には嫌みを言われ、ようやく一息ついたと思ったら近隣からの苦情の電話。
憧れの教職に就いたものの、理想と現実は程遠い。ドラマみたいなキラキラした出来事など、僅か一握り。後はストレスと理不尽まみれ。給与と休みはないような物。それでもなんとかやってはいるが限界はある。
おまけにSubというめんどくさい性質まで抱えて生きにくい事この上ない。欲求とストレスは溜まる一方だ。
学校を出たのは二十一時。そこから行きつけの店で飲んだ。ストレスと明日は休みだ、と油断して酒を頼んでから記憶が朧気である。酷い飲み方をしたのは間違いないだろう。
そして気が付いたら全く知らない部屋に居た。
ベッドも部屋も自分の物よりかなり広い。間接照明や観葉植物が置かれまさにお洒落な部屋といった感じだ。ごちゃごちゃした自分の部屋とは程遠い。
服は着ていたが、スーツではなくこれもまた知らないTシャツとハーフパンツ。それに記憶をなくす程に飲んだ筈なのに、身体の不調がないどころか軽いくらいだ。
ホテルかとも思ったが、どことなく生活感がある。物は余りないが人が住んでいるような雰囲気がした。ゴミ箱にデシタル式の目覚まし時計。時間は十時を過ぎた頃で、睡眠が取れた事も身体の軽さに関係しているのかもしれない。ベッドの横に置かれていた荷物も財布の中身も無事であった。サイドテーブルには充電器が挿されたスマホと眼鏡がきちんと置かれている。
ひとまずは無害そうな相手ではある。だが、油断は出来ない。いい人そうに見えて実は……なんて事はよくある。例えば美人局なんかがいい例だ。
すごそこのドアから「俺の女を!」とその筋の人間が入ってくる。そして、法外な金額を請求され、果てはドラム缶に詰められて海に沈められてしまうのだ。
そうならないことを祈りたい。知らない女と寝て「責任とって」なんて事もごめん被りたい。
かといって迷惑をかけたであろう人間に礼も言わずに逃げるのも気が引ける。飲んでいた場所も学校からそう遠くはない。もしかすれば知り合いが介抱してくれた可能性も捨てきれない。
まずはお礼と迷惑をかけたであろう事を謝罪する。家主と会った時の会話を脳内でシミュレートする。覚悟を決めベッドから出ようとした時、ドアが静かに開いた。
「…っ!?」
「おはよう、先生」
予想もしていなかった人物に声が出なかった。
一方で向こうは何事もなかったかのように、普通に近付いてくる。左側だけが長い特徴的な前髪。数年という月日が経っているからか、昔よりも大人びて、どこか刺のあった雰囲気も柔らかさがある。
「高杉…なのか…?」
「俺以外の誰に見えんだ?」
高杉は元教え子である。素行はあまり良いとは言えない。だが、要領もよくテストの成績はいい。大きな問題を起こす事はなかったが、教師からは少々扱い辛い生徒であった。
「えーーっと、酔い潰れた俺を介抱してくれた、であってるか」
「そうだな」
世話になったばかりか、失態を元生徒に見られた。情けなさと恥ずかしさでどうにかなりそうである。このまま素直に帰して貰える気もしない。謝罪と礼に、誰にも言わないでくれというお願いも加わった。
「その、高杉…」
「先生のスーツならクリーニングに出してある」
「え?」
「夕方には仕上がるから安心しろ」
「あぁ…ありが、とう」
「腹減ってねぇ?飯用意する」
流石にそこまでは、と断る前に腹が鳴った。ろくに食べずに酒を飲んだのがよくなかった。時間を戻せるなら、昨日の夜に戻りたい。
言われるままに着いていった先はダイニングキッチン。キッチンは綺麗に整頓されている。リビング側には大型のテレビに革貼りのソファ。ちょっとしたインテリアに見たことのない酒のボトルがいくつか。あまり無駄な物は置いていないようだが、どれも高そうだと感じた。
「先生、とりあえずそこ座ってろ」
「…おう」
恐る恐るソファに腰を下ろした。汚れのひとつでも付けようなら、請求されるクリーニング代が恐ろしい。テレビを見てもいいと言われたが、リモコンすら高級品に見えてくる。
「コーヒーでいいか?」
「いや、お気遣いなく…」
挙動不審気味な姿に高杉が薄く笑う。寝室に入ってきた時もそうだが、高杉がこんな風に笑うとは知らなかった。
暫くするとコーヒーのいい香りがしてきた。どうやら豆から挽いているらしい。それから、香ばしい臭い。何を焼いているかまでは見えなかったが、手つきは手慣れた様子である。
それらをぼんやりと眺めていると、目の前にはクロワッサンとベーコンエッグ。コーンスープとコーヒーまで並べられ立派な一人分のモーニングが揃っていた。
「高杉、お前のは?」
「俺ァ、先に食った」
確かに時間を考えれば食べていてもおかしくはない。ただ、おかしいとすればナイフとフォークにスプーンまでを高杉が持っているという事か。
「あー、えっとそれ貸してくれるか?」
クロワッサンとコーンスープならどうにか食べられるが、他はそうもいかない。なぜか笑顔で渡そうとしない。まさか、このタイミングで脅しか取引でもするつもりなのだろうか。
「先生、どれが食くいたい?」
「…高杉?」
「"言え″」
「…っ…クロワッサン」
そんなつもりはなかったのに勝手に口は開いてしまった。混乱したが、これが何かを本能的に知っている。
高杉は満足そうに笑うと、クロワッサンを一口大にちぎって口元に近付けた。それと高杉を交互に見つめていると、高杉が先に口を開いた。
「口開けて」
言われた通りに口を開くと、香ばしい香りとバターの風味が広がっていく。トースターで焼かれいた時から、気になっていた。食感もスーパーで買った物とは大違いだ。高杉の暮らしぶりからして、それなりにいい所で買ったのだろう。だから、こんなにも充足感があるのか。
―――――いやそうではない。
「先生、次は?」
「待て!待ってくれ、高杉!」
「どうしたんだ?」
高杉は不思議そうにしているが、これは″分かっている″顔だ。
「…お前、ひょっとしてDom…なのか…?」
他人のバース性を聞くのはあまり良いとはされない。教職という立場上、知らされてはいるが情報管理は厳重。少しでも漏らせば解雇など当たり前である。もちろん教師のバース性を生徒が知る事もない。
性質上、SubはDomには逆らえない。故に虐めや場合によれば犯罪に発展する事もある。思春期というデリケートな時期だ。薬などはあるが合う合わないや、上手くコントロールの出来ない生徒も少なくない。保健室とは別にケアを行う部署も存在するが、普通の教職よりもさらに難関を突破しなければ職に就く事すら出来ない。
高杉は悪い意味で有名だった。だが、担任や教科を受け持つような事はなかった。必要な場合以外はバース性を他人が知る事はない。日頃のケアや薬もある為、バース性によるトラブルも滅多に起こる事はなかった。
こうして会話するというのもほぼ初めてに近いと言っていい。在学中は挨拶か服装などの注意程度しかなかった。本当に高杉がDomならば、その一言一言に己の本能がざわめき立つのも合点がいく。
「先生の言う通り俺はDomだ。先生は…Subだろ?」
「…あぁ」
隠した所で仕方がない。ゆっくりとうなずいた。それさえもDomからのコマンドのような気がして血圧が上がる感覚がする。
高杉は満足そうに笑うと、今度はベーコンを切り分ける。その仕草から目が離せない。皿に当たるフォークとナイフの音だけが聞こえている。
「高杉…っ…!自分で…でき…!」
「口、開けて」
命令されればSubの本能が喜んで受け入れる。感覚的にGlareは出されていない、と思う。あまり信じたくないが、自ら望んで高杉に従っているという事だ。
「いい子」
「…ッ!!」
身体中が歓喜した。一番欲しかった言葉に目眩がしそうだった。この不可解な状況などどうでもいい。嬉しいともっと褒められたいと本能が叫んでいる。高杉の言う事を沢山聞いて、沢山褒められたい。今なら高杉の言う事を全部やれるような気がする。
このまま身を任せてしまいたい。全部投げ出して、高杉の支配下に置かれれば心地よい事は間違いない。だが、確認しておかなければならない事がある。
「高杉…昨日の夜は」
「ああ…したぜ?」
予想していた、そうでなければ身体の調子がいい事を説明できない。目覚めてストレスも欲求不満も殆どが解消されていた。ただしっかりと寝ただけでは疲れはとれない。記憶を失くす程に飲んだなら、二日酔いになっていてもおかしくはなかった。
「なんだ、忘れちまったのか先生?…なら"思い出せ"」
ガチャン―――と鍵が開くような音がした。堰を切ったようにのように記憶が蘇る。高杉が自分を見下ろして、コマンドに素直に従う自分。
ただそれだけでゾクゾクする。高杉の口元を凝視して次のコマンドを待っている。片方しか見えないめが、細められて薄い口唇が綺麗な弧を描く。
「思い出せたか、先生?今はソファに座ってていいんだぜ?」
高杉の顔がさっきより少しだけ高い位置にある。急に人間は背が伸びたりなんてしない。気付けば床に直接座り込んでいた。
「いい子だなァ、先生は」
昨夜の記憶と同じように笑う。あまりに一緒だからか、今は「昨日」なのか「今日」なのか。境界が溶けて曖昧になっていく。
「先生、ソファに座って飯を食おう」
身体は高杉の命令を喜んで受け入れる。何も考えずとも勝手にソファに座り直していた。それを見た高杉が満足そうに微笑むから、また喜びに身体が震えるのだ。
目の前にちぎったクロワッサンを差し出される。口に含むと「よく噛んで食べろ」と言われた。
一回、二回、三回……子供の頃は母親に「三十回は噛んで食べなさい」と言われたものだ。今では食べる時間も惜しいと、早食いが当たり前になっている。一服すると、午後の授業の準備や溜まった仕事の片付けが始まる。想像していたよりも教師の仕事はブラックだ。
適当に噛んで飲み込んでいたからか、顎がだるい。それでも「よく噛んで食べろ」と言われたのだから従う以外にない。回数も分からなくなって高杉を見た。いつ飲み込んでいいかが分からない。
「ああ、悪ィ。飲み込んでいい」
ゴクン、と喉へと落とす。食道に流れて行く感覚がやたらハッキリとした。
「そうだな…三十回噛んだら飲み込め」
そうして今度は目玉焼きがナイフで器用に切られていく。黄身が崩れて皿にゆっくりと広がった。一瞬の出来事であるはずなのに、やたらと長く感じる。ごく普通の所作なのになぜか目を離す事ができない。
「先生は早食いのクセついてんだろ?今はゆっくり味わって食ってくれ」
途端に口内に広がる味。玉子でさえ拘っていい物を使っているのかもしれない。噛むことも味わう事も忘れていたのに、高杉のたった一言で全てが塗り替えられていく。
自分の内側が変わっていくのは恐ろしい。自分でない自分ほどに怖い物はない。
全くプレイの経験がない訳ではない。付き合った相手や、そういう店に行く事もある。ただ、高杉のように五感まで支配される感覚は今までになかった。義務的にプレイして終わり。高揚感も満足感もあったが、ここまでではない。
高杉が「自分だけ見ろ」と言うなら、高杉しか目に入らなくなる。高杉が「俺の声だけ聞け」と言うなら、高杉の声しか聞こえなくなる。想像しただけで、身震いがした。
「先生、食いながら聞いてくれ」
相変わらず高杉はナイフとフォークで切り分け、スープは冷ましてから飲ませる。それらを受け入れながら、耳は高杉の言葉を待った。
「俺ァ見ての通り世話してぇタイプのDomだ。だから、あんたを世話したくてたまらねぇ。食事も全部俺が作ってあんたに食わせてぇ。服も俺が用意したモンを着て、風呂もとにかく生活に必要な事は何もかもやってやりてぇ。俺以外の誰かに指一本も触れさせたくねぇんだ。学校でもCollarは許されてたよなァ?だから、俺と一緒に暮らしてくれるよなァ?」
酷く甘美な誘いだった。高杉に支配して貰える。その事実だけで腰が砕けてしまいそうだった。選択肢があるようでない。用意された答えは初めから一つしかない。
「その顔はOKって意味で捉えるぜ?」
ドロドロに溶けきった頭で、ただゆっくりと頷いた。
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