匂い(高土)

 確か小学生の頃だったと思う。母とはぐれ迷子になった。
 どこか知っている場所はないかどこかに母がいないかと闇雲に歩き続けていると、どこからか甘い香りが漂ってきた。その臭いに誘われ歩いていくと小さな家があった。 
 綺麗な花の咲いた庭を窓を少しだけ開けて見ている人間がいた。その子は俺に気が付くとフワリと笑った。子供ながらに「綺麗だ」と思い顔に熱が集まった。思えばこれが初恋だったのだろう。いわゆる一目惚れというやつだ。
 話かけようとした所で家の近所のおばさんに捕まってしまった。母から迷子だと聞いて一緒に探してくれていたらしい。
 おばさんに手を引かれながら振り返るとその子は手を振ってた。なんとなく気付かれてはいけない気がして、それに小さく振り返す。
 あの子の名前はなんというのか、あの甘い香りはなんだったのかと疑問に思って両親に聞いてみた。名前は分からなかったが、後々あの甘い香りは「金木犀」である事が分かった。たまたま母が買ってきたアロマキャンドルの匂いがそれだったのだ。
 あの子の名前を聞きたかったけどそれは叶わなかった。どこかに引っ越してしまったらしい。小さな家と思っていたのは実は離れで、本宅はもっと大きなお屋敷であった。その土地の地主で会社も経営していたが当主の女癖が悪く、不貞やら会社の不正なんかが暴かれて今はどこかの田舎に居るのだと聞いた。
 とっくに忘れていた事だったがふとそのお屋敷まで足を運んでみた。売り家の看板とボロボロのお屋敷。離れの方に行ってみれば綺麗だった庭は無惨な姿になり金木犀の木はそこにはなかった。


「うぜぇよなぁ土方の野郎。たかが喧嘩したくらいで」
 隣で不貞腐れているのは幼馴染みの銀時だ。他校生と喧嘩したのがバレて、担任でもある土方に呼び出されコッテリ説教された。
 土方は春に異動してきた。見た目が良く初日には歓声が上がった程だという。一見すると優男だが中身が相当厳しい。出席、提出物、服装、素行不良。目を付けられたら徹底的に説教される。真面目で普通の生徒からすればなんて事ないが、そうでない生徒からすれば目障り以外の何物でもない。前年の担任が緩かったから余計にそう感じるのかもしれないが。
 銀時も自分も真面目とはかけ離れた素行不良の生徒だ。授業はサボるし喧嘩は日常茶飯事だしタバコも吸っている。その為、土方にはしょっちゅう説教されている。呼び出された所でバックレるのが常だが今日のように運悪く捕まってしまう事もある。
「で、腹立ったからコレ持ってきちゃった」
 したり顔で笑う銀時の手には黒いケース。なんの変哲もないケースだが鍵が付いており土方が常に持ち歩いている物だ。
「良く盗めたな」
「盗んでねーよ?土方が落としたのを拾っただけで。いっつも持ってんだから余程大事な物でも入ってんのかね」
 ケースを眺めながら銀時が言う。確かにいつも持ち歩いているなら大事な物なのだろう。
「これからワクド行って坂本に開けて貰うんだけどお前も来るだろ?」
「俺ァいい。屋上でタバコ吸って帰る」
「りょーかい。ま、弱み握れたらお前にも教えてやるよ」
 手を振る銀時を見送ると屋上へ向かった。施錠されているが鍵は壊れているから簡単に開く。
 給水塔に背を預けてタバコを吸っていると銀時から写真付きでメッセージが届いていた。既読だけ付けてアプリを閉じる。返事もロクに返さないのはいつもの事なので特に何も思わないだろう。
 いつの間にか少し眠ってしまったらしい。肌寒さに目を覚ました。ちゃんとタバコの火は消されていた。
 校内に戻ると生徒の姿はない。スマホを見れば部活も終わっている時間だからほとんど帰ってしまったのだろう。
 門が閉じられると面倒なので少し早足になる。教師に見付かって何か言われるのも嫌だから早めに校内から出てしまいたい。
 廊下を歩いているとフワリと甘い香りがした。その匂いに記憶が甦る。あの日かいだ金木犀の甘い香り。
 この学校に金木犀はない。ならばどこからと自然と足が香りの出所へと向かう。一際強い匂いがする部屋の前で立ち止まった。プレートには数学準備室。土方の使用する部屋だ。
 常ならば自らこんな部屋になど来たくない。だが頭が早くドアを開けろと命令する。鼓動が速くなり落ち着かない。躊躇ったが欲求に逆らえずにドアを横に引くと一気に匂いが強くなった。
「土方…!!」
 部屋の真ん中辺りに土方が倒れているのが見えた。きっと普段の自分なら放っておいたが、無意識に名前を呼び抱き起こした。金木犀の匂いがより強くなった。初めは女子が教室でアロマキャンドルでも焚いているのかと思ったがそうじゃない。この匂いは土方から香っているのだ。
 土方の身体は燃えるように熱い。それに当てられたように自分の身体も熱くなる。
 初めてであったが本能的に分かった。これはΩのヒートだ。そしてそれに自分は当てられている。今すぐにでも目の前のΩを喰らってしまいたいという欲求が身体の中で暴れだす。それをわずかな理性でどうにか押させ付けた。今、自分はゴムもピルも持っていない。抑制剤はあるがそれはα用でΩには効かないし、最早自分自身にも効きはしないだろう。
 ふと土方の閉じられていた瞼が開いて目があった。そして脳裏にはあの日出会ったなも知らぬ子供の顔が浮かぶ。
 そして唐突に理解した。これが運命の番というものか。最後の理性で土方に問う。
「噛むぞ」
 こくりと土方が頷いた。
 
1/1ページ
    スキ