おいで、
妖怪、幽霊、異形のものは数あれど、それを特別恐ろしいと思ったことはなかった。
「おいで、」
夜中、部屋に戻ると手招きする影は、見慣れた同室の姿。
「ほら、おいで、」
手招く姿と優しい声。
何か、ろくでもないことを考えているのだろう。
「何企んでやがる」
長年同室をやっているのだ、睨みつける程度は気にもしていないだろう。
そんなことは知っているが、優しい声で手招きされても文次郎にとっては気味が悪いだけなのだ。
「早く、おいで、」
「いい加減に・・・!」
しろ、そう言いかけて思い出す。
文次郎の知る仙蔵は、こんな声を出す男だっただろうか。
こんな平坦で、色のない、なんの感情も映さないような、それなのに妙に優しい、こちらをいざなうような声。
「こっちへ、おいで」
姿は、確かに文次郎の知る仙蔵のものだ。
だが、違う。
仙蔵では有り得ない。
明らかに違う生き物。
「お前は、何者だ」
「ほら、おいで、」
同じ言葉をただただ繰り返す。
返事はない。
ぞくり、嫌な予感が背を伝う。
「あいつは、どうした」
「おいで、」
まるで絡繰り人形のように同じ言葉ばかりを繰り返す。
「おいで、」
「その姿はどこから拾った」
「早く、おいで、」
会話にならない。今日のあいつの予定を思い出す。委員会で、街に買い物に行くと言っていた。
その間に何かあったのか、それともこの目の前の何かはあいつの皮を被った本人なのか、それともただの擬態で本人は関係なく街で後輩たちと茶でも飲んでいるのか。触れてその体温を確認する勇気はなかった。
それが温かく、慣れた肌の温度がしたら。
それが、何よりも恐ろしい。
ふと、廊下から声がした。
「おい、」
本物の仙蔵の声。それだけで文次郎の肩の力が抜けた。
目の前の何者かはただの擬態であったのだろう。
それだけで、もう恐れるものは何も無い。
「人の部屋で何をしている」
不機嫌な声が外から聞こえた。
「それはお前が欲しがるほどいいものでは無い。代わりにいいものをやろう」
戸を開けて入ってきた仙蔵は、自分と同じ顔をした目の前の何かの髪に櫛を挿して、消えろと指先で出口を指した。
「こっちへ、おいで」
知った顔の異形が文次郎に伸ばした白い指先は、届かぬままに空気に溶けた。
「おい、」
説明を求めると、仙蔵は曰く、
「あれの本体は私が持っていた櫛だった。だから私の姿をしていたんだろう。私に成り代わりたくて、私の物は何でも欲しがったんだ。お前を手に入れたら次は私を殺しでもするつもりだったのだろうさ」
ふ、と笑って、そして文次郎の方を向き直って一言呟いた。
「おいで、」
聞き慣れた意地の悪い声に、腹立たしいことに安心をする。
差し出された指先に手を伸ばしても、ただいつもの日常が流れるだけであった。
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